2人で乾杯し、食べ始めた時、隣の席に客がやってきた。
「おお、なんだお前らか。」
声に顔を上げると、何とそこにいたのはティールとキャスリーンの夫婦だった。ティールは食事をのせたトレイを、キャスリーンは両手に飲み物を持っている。セルーネが買いに行ったのとは別の店らしい。
「おお、久しぶりだな。仕事は休みなのか?キャスリーンも久しぶりだなあ。なかなか会う機会がないな。」
セルーネが爵位を継ぎ、ティールが剣士団を辞めてローランドと2人で調査会社を興してからは、なかなか会う機会がなかった。それでも以前はたまにセルーネがティールの家に行き、キャスリーンとお茶を飲んだりすることもあったのだが、しばらく忙しい日々が続き、それも出来なくなって久しい。
「俺はな。所長だろうと休みはきちんと取らなくちゃならん。今はそれなりに忙しいから、交代で数人ずつ休みを取ってるよ。」
「こんなところで偶然会えるなんて嬉しいですね。セルーネさんも忙しいんでしょう?」
キャスリーンも思いがけずセルーネに会えて嬉しそうだ。
「なんだかんだと忙しいんだが、なんで忙しいのかよくわからないんだよ。」
そう言ってセルーネは笑った。
「そう言えばティール、お前達の子供達はどうしたんだ?」
ティールの家族は、祭りの時はいつも一緒に見物に出掛けていたはずだ。
「うちの子供達は、もう親と一緒に祭りを見て歩いたりしないよ。まあ、そうだなあ・・・あと何十年かして俺達がもっと年を取ったら、手を引いて祭り見物に連れてきてくれるかもな。」
ティールが笑った。
「ふふふ、上の子がね、今度結婚するんですよ。」
キャスリーンが言った。
「へえ、それはおめでとう。相手は?この辺りの住人なのか?」
セルーネが尋ねた。
「ええ、城下町の中です。家は近いんですよ。」
「へぇ、それじゃお前達と同居するのか?」
「いえ、最初くらいは2人で暮らしたいって言うので、今住むところを探しているんです。」
「お前の家くらい部屋があれば同居も出来るだろうが、うちはごく普通の民家だからな。なかなか同居は難しいよ。」
「そうか・・・。まあひとり立ちしてもいい時期だしな。」
若い夫婦としては、親と一緒では気詰まりなのだろう。セルーネの家のように広いならともかく、普通の家庭ではなかなか2人だけでのんびりとは行かなくなるものらしい。
「そうなんですよね。もう22歳ですもの。」
「下の子は?」
「あの子も恋人がいるみたいです。まだ紹介してはくれないんだけど、一度連れてきなさいって言ってるの。結婚までたどり着けるかどうかは別にしても、真面目にお付き合いしてるなら、紹介してもいいでしょって。」
「顔を知っていれば安心するもんな。」
「そうなんですよね。」
「ふん、コーゼルはともかく、リデラはまだ早い。」
ティールがいきなり言った。何だか怒っているような口調だ。コーゼルとはティールとキャスリーンの上の男の子で、今度結婚するという子供だ。そしてリデラは2番目の女の子である。
「男親はみんなそう言うよな。」
セルーネが半分呆れたように言った。
「リデラのことになるといつもこんな調子なんですよ。まったくもう、何を言ってるの。もう2人とも大人なのよ。ちゃんとひとり立ちして社会に出て行かなくちゃならないんだから、背後霊みたいにリデラのあとをくっついて回るようなことしないでね。」
「背後霊とは何だ、背後霊とは!」
「こんなところで大きな声を出さないの。」
呆れたようなキャスリーンの話を聞きながら、セルーネは大笑いしている。
「まったく・・・自分の手でリデラの彼を調査するって息巻いてるんだけど、そんなことしたらリデラが怒るわよ。せめてきちんと挨拶に来てからにしてほしいわ。」
「ま、親にとっては子供はいつまでも子供でいてほしいんだろうからな。」
「そうなんですよねぇ。自分だってさっさと家を出て剣士団に入ったって言ってたくせに。」
「ははは、私もそうだからな。」
セルーネの父親は反対こそしなかったものの、相当渋い顔をしていた。母親は泣いて反対した。家の中で剣の稽古をするならともかく、外に出てそれを仕事にするなんて、とても容認出来ないことだったのだろう。そこで両親は、剣士団に入ってから困らないようにという名目で、1年間、掃除に洗濯に炊事に、セルーネにいろいろと叩き込んだ。母親としてはこれで娘も音を上げるだろうと考えていたらしいのだが、セルーネは結局音を上げずにとうとう家を出てしまった。両親がいい顔をしなくても、姉2人はセルーネを応援してくれていた。それはかなり大きかったと思う。
「俺だって剣術指南でかなりの手応えを感じていたからな。ローランドに官僚として就職しないかと誘われたけど、俺はやっぱり剣で身を立てたいと思って剣士団に入るために家を出たのさ。親としては官僚のほうが安定しているから、そっちを勧めたかったと思うよ。しかもあの当時王国剣士と言えば、安月給の代名詞だったからな。」
「確かに給料は王国剣士よりはいくらかマシだったが、その分使いっ走りには何度も出されたぞ。」
ローランドが言った。その使いっ走りの途中で、偶然町を警備中のティールとセルーネに出会ったのだ。
「どうでもいいような資料の請求にまで、今行ってこい、だからな。剣士団は先輩達がみんな面倒見がいいと聞いて、私はティールとドーソンがうらやましくなったほどだ。」
ずっと口数が少なかったローランドだが、ティールと会って笑顔が戻り、口数が少し増えた。そんなローランドを見ているセルーネはほっとしている。
「ははは、俺達が羨ましがられていたとはな。」
しばらく4人で他愛のない話をしていたが、まわりが混んできたので席を立つことにした。これからティール達が行く予定の芝居小屋に、セルーネ達も行く予定だったので、どうせならしばらく一緒に回ろうという話になった。セルーネは早速キャスリーンと先に立っておしゃべりをしながら歩いている。つまりこれは、ティールにローランドと話をしてほしいという合図じゃないだろうか。ティールはさっきから口数が少ないローランドに、小さな声で話しかけた。
「何かあったのか?」
ローランドは渋い顔でうなずいた。
「実は・・・。」
今日、自分の父親が御前会議の助言者として戻ってくることになったことと、これを機に公爵家の領地運営にローランドも加わらないかという打診を受けたことを話した。他人にはなかなか話せることではないが、ティールはセルーネの元相方であり、ローランドの親友だ。セルーネが領地運営について勉強していた時、ローランドと共に公爵家で書類整理などの手伝いをしたことがある。ある程度の内部事情を話しても差し支えない相手だ。だからセルーネは自分のそばから離れたのだろう。ティールに、自分と話してもらいたかったのじゃないかと思う。
「へぇ、それはいい話じゃないか。フロリア様とレイナック殿がそう言う話をお前の親父さんに持っていったと言うことは、以前のことについてはもう気にしないと王宮が公に認めたってことだ。それに、これでお前も大手を振って領地運営に携われるんだから、今まで以上にセルーネの助けになれるじゃないか。」
「それは・・・そうだが・・・いや・・・そう・・・だよな・・・。」
『セルーネの助けになれる』
さっきこの話を聞いた時、真っ先に頭に浮かんだのは『どうしよう』『今更』そんなことばかりだ。セルーネの助けになれるなんて・・・全く頭の中に浮かばなかったのだ・・・。
(私は・・・何のために領地運営に携わらなかったのか・・・。)
「なんだよ。セルーネが爵位を継いだばかりの頃はよく言ってたじゃないか。セルーネにばかり負担をかけてるって。だからやっと領地運営に携われると言うことは、やっとお前が大手を振ってセルーネの助けになれることを喜んでいると思っていたんだが、思ったほど嬉しくなさそうだな。」
(いったい・・・私はいつからこんな臆病者になっていたのだろう・・・。)
「お前の実家も今じゃかなり評判がいいぞ。誠実な当主夫妻のファンまでいるらしいからな。」
「ファンとはまた・・・。まるで舞台役者だな・・・。ははは・・・。」
と、いきなりティールがローランドの頬を思い切り掴んで引っ張った。
「痛たたた・・・・!な、何だいきなり!?」
「お前があんまり湿気たツラをしているからだ。そういやお前、噂が下火になるまで領地運営に関わらないと実家の親父さんに言ったら、凄まじく怒られたって言ってたな。なるほど、お前の湿気たツラの原因はそれか。その話はセルーネにはしていないって言ってたが、もしかしてセルーネは、今日お前の親父さんにその話を聞いたんじゃないか?」
「・・・そう・・・かもしれない・・・。」
そうだ、父はおそらくその話をセルーネにしただろう。無論一言一句とまでは行かなくても、激しく叱責したことと、ローランドの考えがいかに浅はかで意味のないものであったかと言うことまで・・・。
「で、お前はどうしたいんだ?」
「・・・・・・・・・・。」
「セルーネだって1日も早くお前と一緒に領地運営をしたくていると思うぞ。まあ俺がどうこう言える話じゃないけどな。もしもお前がどうしても領地運営をやるのはいやだというなら、正直にやりたくないと言うんだな。」
「やりたくないわけじゃない。だが・・・。」
あと一歩が踏み出せない。
「つまりお前は、今更はいそうですかと二つ返事で引き受けることに気が引けてるって事か?」
「・・・お前は私の心が読めるようだな・・・。私だってセルーネの助けになりたい。だがあの時、私のカルディナ家に対する気遣いなど端から必要のないものだったのだと言われて・・・。自分がしたことがどれほど意味のないものか、思い知らされた・・・。こんな私が、セルーネの助けになれるのか、あの時から自信をなくしていたのかもしれない・・・。」
「だがいつまでもそんなことを言っていられないだろう。ユーリクとクリスティーナにも縁談が来ていると言っていたじゃないか。そろそろ家督相続のために動かなくちゃならないんじゃないか?」
「・・・それは・・・そうなんだが・・・。」
さっきセルーネにも言われたことだ。子供達の将来のために、今からでも領地運営者として自分が名を連ねるべきだと頭ではわかっているというのに・・・。
「お前ってほんと、一度自信をなくすととことん落ち込むよな。そういうところは昔から変わらないんだよなあ。」
「情けない奴だと笑ってくれてもいいよ。確かにそうだ。私は自信がない。今更セルーネを支えていけるだけの力が自分にあるとは・・・。」
「俺が笑ってお前の気が済んだところで何の解決にもならんだろう。しかし・・・なんで今になってレイナック殿はそんなことを言い出したんだ?だいたい明らかに越権行為だろう。昔のよしみだろうが何だろうが、本来そんなことは言うべきではない。その点ではフロリア様がそれをお止めにならなかったというのが妙・・・いや、妙ではないのか・・・。」
ティールの言葉の最後のほうは、ひとりごとのようになっていた。
「我が家を『あのお方』の盾に使うつもりじゃないかとセルーネは言っていた。私も同じ考えだ。」
「ふん・・・さすがのタヌキ親父だな・・・。」
王国剣士時代から、レイナックという人物をティールはよく知っている。最近になって『あのお方』ことエリスティ公が人気取りをやっているという話が噂として流れている。もしもそこにフロリアの結婚の話や、ユーリクとの養子縁組などという話が出てきたら?
ユーリクの件については、今まではセルーネが断ったという話だったが、それを押してと頼まれたら、断りにくくなるかも知れない。それに、フロリアがもしも結婚したら・・・。
以前よりフロリアとオシニスとの関係は親密になったと言う噂が囁かれている。2人の縁談がまた取りざたされる可能性もあるだろう。そんな話を耳にしたら『あのお方』のことだ、何を仕掛けてくるかわかったものではない。
(でもまあ・・・それはそれだ。まずはローランドが公爵家の領地運営者として名を連ねる、それが大事だよな・・・。)
そのことで誰が何を言おうと、これは公爵家の問題だ。今からでもローランドがセルーネの隣に立ち、胸を張ればいいのだ。ローランド自身、貴族や御前会議の他の大臣達からも一目置かれる存在なのだから、ローランドとセルーネが2人で領地運営を担うことになれば、ベルスタイン公爵家の力はより堅固なものになるだろう。レイナックやフロリアが、エリスティ公がことを起こした時の盾としてベルスタイン公爵家を利用しようとしても、セルーネは自分の家の利益をまず考えて、その上でどう動くか決めるはずだ。
(ふん、あのファイアフラッシュ・セルーネを、そう簡単に操れると思うなよ。)
ティールにとって、今でもセルーネは信頼の置ける相方だ。その行動には全幅の信頼を置いている。
一方ローランドはまた考え込んでいた。自分はどうしたいのか、もちろんそれはセルーネを支えて一緒に領地運営を担うことだ。そう考えれば考えるほど、不安が募ってくる。
(私は・・・今後もセルーネがどんなに忙しくてもただ見ているだけなのか・・・。)
「・・・・・・・・。」
そのローランドを横目で見て、ティールは大きなため息をついた。
「なあローランド、いくら昔なじみのよしみでと言われても、レイナック殿からそんな助言が出たと言うことは、セルーネの公爵家当主としての力量を問われてるって事だぞ?お前は今、盛大にセルーネの足を引っ張っているわけだ。それがわからないお前じゃないと思うんだが、それでもお前は何もしないのか?お前の親父さんが、こんなことを言い出すなら何が何でもお前とセルーネの結婚を許すんじゃなかったと言ったそうだが、俺はお前を誘ってセルーネの手伝いに公爵家に行ったことを一生後悔することになりそうだ。」
ローランドのような男がセルーネのそばにいてくれたら、心配はないかと思ってティールはローランドを誘ったのだ。セルーネが領地運営の勉強をするのに、当時の公爵夫妻が娘夫婦の死で動揺しているから、冷静な目で領地運営のアドバイスを出来る人物がほしいと言って。
「・・・もう少し考えるよ・・・。」
「俺がお前に愛想を尽かす前に決めてくれよ。」
「・・・・・!?」
ティールは怒っている。声を荒げたりするわけではなくても、その怒りが伝わってくる。ティールにとってセルーネは親友だ。男と女の間で友情は成立するのかなんて話をよく聞くが、彼らは間違いなく深い友情で結ばれている。そのセルーネと結婚して、彼女を支えていく立場にあるローランドが結婚後ずっと、セルーネから逃げているように見えるのだと思う。
セルーネと一緒に領地運営を担う。結婚した当初は、早くその立場に自分が立ちたかった。少しの間噂の動向を見て、それが下火になってきたらすぐにでも、と思っていたのだが、実際に噂があまり聞かれなくなって来た頃には、自分に対する自信がなくなっていた。
『私がいなくても、セルーネは両親と執事と共にちゃんと役目を果たしている。』
『今更私は必要ないのではないか。』
セルーネは妊娠と出産も担っていたから、育児は積極的に参加したつもりだ。だが、激務に忙殺されていくセルーネを横目で見ながら自分は何をしていたのか。
(ティールの言うとおり、私はただ見ていただけだ。倒れた時に看病したところで、それこそ何の役に立つ?私がすべきだったのは・・・。)
頭ではわかっている。ただ足が動かない。自分はこんなにも臆病で、情けない男だったのか・・・。
「ここだな。開演時間までは少しあるが、もう入って待っていようか?」
先を歩いていたセルーネが振り向いた。そこは演劇学校の芝居小屋だ。毎年祭りの時期は若手が中心になって公演を行っている。脚本も演出も、全て若手が仕切っているという話だ。
「そうだな。年寄りは座って見られるほうがいいからな。」
ティールがにやにやしながら言った。
「嫌なことを言うな。だがまあ、もう若くはないのは確かだから、座る場所を確保しておくか。」
セルーネも笑っている。4人で中に入って、席がまだあるかどうか尋ねた。
「これは公爵様。おいでいただきありがとうございます。桟敷席が空いておりますがいかがですか?役者達の顔もよく見えますし、声も聞こえます。」
「え、今日の今日で桟敷席が空いているのか!?」
「今回の公演だけでございます。公爵様方は運がよろしゅうございますよ。」
桟敷席ともなればそれなりの金額になるので、特に運がいいというわけではない。だが後ろには既にずらりと入場待ちの人々が並んでいる。客席の方からは大きなざわめきが聞こえ、客の入りはかなりいいらしい。
「今日は友人と一緒なんだが、一般席は埋まっていそうだな。」
「そうでございますねぇ・・・。もしもよろしければ、桟敷席を一般の価格でご案内いたしますが・・・。」
『公爵様』と大きな声で呼ばれてしまったあと、そんな提案を受け入れたらそれこそ何を言われるかわかったものじゃない。
「いや、そこまではしなくていいよ。せっかくの若手の公演にケチがつくようなことはしたくないからな。正規の価格をきちんと支払うよ。それじゃ案内を頼む。」
セルーネは支払を済ませ、桟敷席に案内してもらった。
「おいセルーネ、実に見晴らしのいい席だが、俺達はそんなに金は持ってないぞ。」
ティールが言った。まさかいきなり桟敷席に案内されるとは思わなかった。
「一般席の金だけでいいよ。まさか桟敷席が今日の今日で空いてるとは私も思わなかったからな。いきなり公爵と呼ばれてしまっては、値切るわけにも行かないじゃないか。」
ここの芝居小屋を運営しているのは演劇学校だ。さっきの切符切りは演劇学校の先生なので、当然セルーネの顔は知っている。桟敷席が空いているのを、どうしようかと思っていたに違いない先生が、セルーネの顔を見て早速桟敷席を買わざるを得ないよう、わざと『公爵様』と呼びかけたのかもしれない。
(先生とは言っても、案外計算高いところはあるからな。)
とは言え、別にがめついということではない。祭りの興行は若手が中心になって行う。万一赤字を出せば、その年の若手が今後活躍出来るチャンスが少なくなる可能性もあるらしい。
「まあそれもそうだな。よし、ほら、2人分のチケット代だ。」
ティールは用意していた一般席の代金をセルーネに渡した。
「セルーネ、この席くらいはこちらで出しても・・・。」
ローランドが言ったが、セルーネは『それはだめだ』と首を振った。
「ティールと私の間では、基本的に金は割り勘だ。だが今回桟敷席で見ることにしたのは私の判断だし、断りにくい雰囲気だったからというのもあるから、今回は一般席の分だけもらって、残りは私の奢りってことにしよう。」
「よし、それじゃ差額分はありがたく奢られるよ。」
ティールが笑いながら言った。
「ああ、そうしてくれ。」
セルーネも笑っている。
「その決まり事はずっと続いてるんですね。」
キャスリーンが言った。この話は剣士団にいた頃からのことなので、キャスリーンも知っているらしい。
「そういうことだ。金の切れ目が縁の切れ目という話もあるくらいだしな。ま、今回は思いがけず一緒に芝居を見に来ることが出来たというのもあるから、差額くらいは奢りでもいいだろう。」
そこに飲み物と軽食が運ばれてきた。桟敷席にはそう言うサービスも付いている。しかもかなり豪華なものだ。
「うわあ、すごい、おいしそう。」
キャスリーンが声を上げた。
「さすが桟敷席だ。さっき食べたばかりなのに、これはこれでうまそうに見えるなあ。」
ティールも出てきた食事と飲み物を見て驚いている。
「出てきたものは全部食べてくれよ。残しても捨てられるだけだからな。それはもったいない。はい、ローランド、あなたも食べてくれ。」
そう言いながら、セルーネは皿の上の料理を一緒に運ばれてきた取り皿にいくつか載せてローランドに渡した。
「ああ、ありがとう。」
頭半分で領地運営のことを考えていたローランドは、はっとして取り皿を受け取った。
(今は芝居を楽しまないとな・・・。)
ローランドもセルーネ達と一緒にさっき食事をしたばかりだが、運ばれてきた料理は軽食とは言えかなり豪華でうまそうに見える。取り皿の上の料理をつまみつつ、飲み物を飲んだところでベルが鳴った。
「あら、そろそろ始まるみたいですよ。」
キャスリーンの声で4人が舞台に注目した。だが出てきたのはグレンフォード伯爵だ。
「グレンフォード伯爵の挨拶は聞かなくてもいいな。」
セルーネが笑いながら言う。セルーネが家督相続のために結婚することになった時、結婚の申し込みの手紙が山のように届いたものだが、その中にグレンフォード伯爵家からの手紙もあった。だがセルーネは、この伯爵がウィローにも結婚の申し込みをしていたことを知っていたので、一番最初に断りの手紙を出した。
(芸術活動に熱心なのはいいことだが、その金はどこから出ているんだろうな・・・。)
グレンフォード伯爵家の領地はなかなかいいところで、それなりの収入があるのは知っているが、そんなに長く演劇学校に資金を投入出来るほどのものなのか、疑問に思っていることは確かだ。もちろんセルーネが他の貴族の家の収入を気にしても仕方ないのだが、その収入の出所や、透明性が疑われるとなると、また話は違ってくる。
(まあ、今は気にしないでおこう・・・。)
演劇学校に出資しているのはグレンフォード伯爵だけではない。今ここで怪しんでみたところで仕方ない。
「・・・ではどうぞ、お楽しみください。」
長い挨拶は嫌われると言うことを、グレンフォード伯爵は知っているのだろう。早々と切り上げて舞台袖に引っ込んだ。それを機に開演のベルが鳴り、小屋の中が暗くなった。
演目はエルバール王国の初代国王であるベルロッドの英雄譚だ。劇団の運営する劇場で正団員による公演は、セルーネも何度か見ている。だが今日は若手中心の舞台だ。どんな演出になっているのだろうか。
物語の内容は、今から約220年前、聖戦で疲弊したサクリフィアの人々を、英雄ベルロッドが『西の彼方』へと導きエルバール王国が建国されるまでの話だ。元々の物語は実話を基にしている、と言うことになっている。実際ベルスタイン公爵家の図書室には、この話の元になった記録がある。文書館にも同じものがあるはずだ。聖戦の起こるきっかけやベルロッドと神竜エル・バールとのやりとり、その後徹底的に破壊し尽くされたサクリフィアの都から、ベルロッドが人々と共に西の大地へと向かう、そこまでの話だ。これは物語ではなく記録なので、その話の前もあとも存在する。今では閲覧禁止となってしまった記録だが、王家ではベルスタイン公爵家できちんと管理してもらえれば、そのままそちらに置いてくれと言う話になったとかで、今もセルーネの家の図書室に置かれているというわけだ。だが聖戦前後の話についてだけは、閲覧可能になっている。初代国王ベルロッドの偉大さを示す内容なので、王家としてもその辺りはぜひ後世に伝えていってほしいと言うことなのだろう。
(確か演劇学校が出来たあと、その記録を元にして劇場で公演するための脚本が書かれたんだっけな・・・。)
劇場で行われる正団員による公演では何度も演じられている脚本だ。入った時にもらったパンフレットを読むと、今回の芝居は聖戦の後の話らしい。神竜エル・バールに向かって剣を抜き、啖呵を切ったというベルロッドの逸話の、さらに後の話だ。その後、『次の国王』へと推挙されたベルロッドはそれを拒み、恋仲になっていた巫女姫シャンティアと共に西の大地に旅立つわけだが、その恋物語を軸に話が進んでいく。
幕が上がるとそこは宮殿の一室。会議の真っ最中らしく、大きなテーブルを囲んで何人かの老人達が座っている。そこに1人、ハンサムな若者が怒りの表情で仁王立ちしている。
『ふざけるな!』
『ふざけてなどおらぬ!』
いきなり怒号が飛び交う始まり方だ。
『いやなものはいやだ!大体なんで俺なんだ?!他にも適任者はいくらでもいるじゃないか!』
怒鳴りながらテーブルを思い切り叩いたハンサムな若者は、どうやらベルロッド役の役者らしい。そしてベルロッドに『頼み事』をしている老人が、この老人達の集団である、サクリフィア王国元老院の長らしい。
『そなたでなければ務まらぬと思うから頼んでおるのだ!この国の男として最高の地位だというに、何が不満だ!』
元老院の長の頼みは、ベルロッドにこの国の王となってくれないかというものだ。頼んでいるというわりに、ずいぶんと居丈高だ。
『最高だろうがなんだろうが、誰が国王なんぞになるか!俺はごめんだ!』
国王として即位することを頑なに拒むベルロッドは会議室を飛び出していく。
(へえ・・・ここから始まるのか。随分と端折ったなあ。)
正団員による公演の脚本も始まりは元老院の会議の場だが、ベルロッド役の登場は会議が始まって少ししてからだ。元老達が頭を抱え、この国の未来について話し合っているのだが、それぞれが自分の利益ばかり優先してちっとも話し合いが進まない。そこに1人の元老が『英雄と謳われているベルロッドを国王にしてはどうか』と言い出す。ほかの元老達はそれはいい考えだと賛同し、こそこそと彼を国王にして自分達のいいように操るための策を練る。そして会議の場にベルロッドを呼び出すのだ。
最初は穏やかに話していた元老院の長だが、『お前を国王にしてやる』だの『一介の冒険者がどうあがいても望めぬ高みに上れるのだから感謝しろ』だのと偉そうに言うので、ベルロッドが怒って『ふざけるな!』と怒鳴るという流れだ。
若手でなければここまで思い切った場面から始まることは出来ないのじゃないかと思う。
(これは期待出来るかな。)
芝居の長さはそんなに変わりないだろうから、力を入れている場面は他にあるのだろう。セルーネは新しい芝居を見るような気持ちで、芝居に引き込まれていった。
![]() ![]() ![]() 元老達は彼を説得してくれとベルロッドの仲間達である、イーガン、ディード、アニータに頼む。だがイーガンとディードは、ベルロッドが怒ったら自分達の話なんて聞きゃしないと取り合わず、アニータは実はベルロッドのことが好きなので、ベルロッドにそんな大層な地位に就いてほしくない。
困り果てた元老達は、最後の頼みとしてサクリフィアの巫女姫シャンティアに、彼の説得を願い出る。
『あなた様の頼みならば引き受けてくださるでしょう。』
『あなた達のことだから、頭ごなしに無礼なことを言ったのでしょう。彼はこの国の民を救ってくれた英雄です。もっと腰を低くして頭を下げれば、もう少し話を聞いてくれると思いますよ。』
元老院の長はぐっと言葉に詰まり、黙り込んだ。彼が『一介の冒険者』に頭を下げるなどと言うことが出来るはずがない。この国は今存亡の危機に瀕しているが、その理由が聖戦だけではないとシャンティアは考えている。元老院の面々は国王のことなど何とも思っていないのだ。政(まつりごと)を決めるのは元老院だ。国王は彼らの指示に従って許可するか拒否するか程度の権限しかない。巫女姫が神のお告げを伝えても、それが自分達の利益を脅かすと思えば公然と反対の意を示す。彼らは神など信じていない。今回の聖戦は彼らにとって脅威だったが、それは民の命や国のことが心配だったわけではない。自分達が今まで築いてきた地位や財産が失われることを恐れただけだ。
(元老院は悪役か・・・。こういうわかりやすい構図は、普段芝居を見ない人達にも理解しやすいだろうな・・・。)
セルーネが今回の芝居についていろいろと分析するのには理由がある。セルーネが家督を継ぐことになった時、グレンフォード伯爵が結婚の申し込みをしてきたが、彼が本気でセルーネと結婚しようと考えていたとは思えない。顔つなぎをしておいて、おそらく公爵家の金を演劇学校に出資させるためだと当時思ったものだが、断りの手紙を出したあと、臆面もなく演劇学校への出資を申し込んできたのにはさすがに驚いた。
その時は断ったのだが、その後時々思い出したように出資を申込む手紙が届くようになった。だが今に至るまでそれは実現していない。セルーネの両親にしても、セルーネとローランドにしても、芸術方面への出資については一考の余地があると思ってはいる。だが演劇学校の場合、出資している貴族達がそろいもそろって変人ばかりで、いや、変人と言うだけならば別にいいのだが、その資金の出所がどうにもはっきりしない部分が多い。出資を募るなら特定の貴族の家にばかり声をかけず、透明性と公平性を考えて広く募集すればいいと思うのだが、そう言う発想は彼らの頭にはないらしい。
そしてそのやり方もまた、セルーネが演劇学校に不信を抱く原因の1つでもある。広く出資を募集すれば、中には口うるさい出資者もいることだろう。金はほしいがその使い道について口を出されたくはないと言う態度が見え見えであるからだ。
(表だって演劇学校を視察でもしようものなら、それこそ金を出すまでくっついて離れそうにないし、祭りの公演は調査にはちょうどいいな・・・。)
舞台の上では、元老院の老人達の頼みを聞いた巫女姫シャンティアが、ベルロッドの部屋を訪れたところだ。
『今度はあんたか。誰が来たって俺の返事は同じだぜ。』
ベルロッドはシャンティアの顔を見て、呆れたようにため息をついて見せた。
『そうでしょうね。わたくしだってあなたを説得出来るとは思っていないわ。でも断った理由が何なのかくらいは聞かせてくれない?』
『理由か・・・。』
ベルロッドは怒鳴ろうとはせず、考え込んだ。そして自分の前に立っているシャンティアに視線を移し、近くにあった椅子を目で指し示した。
『座れよ。あんたは巫女姫様だ。俺の前に立ってなくちゃならないなんてことはないはずだぜ。』
『そんな言い方しないで。』
2人がいるのはサクリフィアの町で残った数少ない建物の1つである宮殿だ。本来巫女姫のいる場所は神殿だが、この宮殿の隣に建てられていた神殿は跡形もなく焼け落ちてしまった。その宮殿の中でも、民と国を守ったベルロッド一行は最上階の一番いい部屋を与えられ、厚遇されている・・・というのは表向きで、彼らを監視しやすいように、元老院の長が決めたのだ。ベルロッドとシャンティアがお互い惹かれあっているのは誰の目にも明白だ。元老達はベルロッドを王として立て、陰で操ろうと画策している。そのためにベルロッドの望みそうなエサとして、巫女姫との結婚を認めるとまで言っている。神など信じていない元老達にとって、巫女姫などただの女だ。今までは神殿が強力な後ろ盾として付いていたのでシャンティアに手を出すことは出来なかったが、その神殿は建物が焼け落ちると共に、神官達も大勢亡くなり、もはや組織としての体をなしていない。
シャンティアが近くに置かれていた椅子に座るのを待って、ベルロッドが口を開いた。
『俺はここを出るよ。』
『出るって、どこへ?』
『西の大地だ。』
国王になれなどと言われる前から、ベルロッドは身ひとつで西へと向かうつもりでいたという。そして一緒に来てくれとシャンティアにプロポーズする。
『根なし草みたいな冒険者の女房なんて、苦労するだけかもしれないけどな・・・。』
『わたくしは・・・あなたと一緒に行きたいと思う。でもそれでいいのかしら・・・。』
『いやか・・・?』
『いやじゃないわ。あなたと一緒に西の大地で新しい暮らしを始めて、あなたの助けになれたらとても嬉しいと思うけど・・・わたくし達の結びつきを応援してくれる人達ばかりではない、それはわかっているのでしょう?』
『あの噂か・・・。』
『ええ、そうよ。わたくし達の事を聞きつけて、あなたとわたくしの悪い噂がどれだけ流れているか・・・。それを考えたら・・・わたくしはあなたと共に行くべきではないのではないかと思うの。そうすれば、あなたを守れる。わたくしのことはどうとでもなるでしょうけど、あなたはわたくしを助けてくれたのに、あなたが悪く言われるのはいやなの。』
ローランドは舞台の上の役者達を、いささか苦い思いで見ていた。なんだか・・・今の自分と舞台の上のシャンティア姫の境遇が重なって見える・・・。
(まいったな・・・。芝居だって言うのに・・・。)
だが芝居に限らず、小説や、或いは吟遊詩人の歌など、作り話だとわかっていても人の心を打つものはある。この芝居は脚本も若手だという話だが、演劇学校の学生なのだろうか。だとしたら優秀な学生なのだろう。
『・・・俺はそんなことで傷ついたりしないよ。俺が傷つくことがあるとしたら・・・あんたに振られた時かな。』
『もう!そんな冗談ばかり言って。笑い事じゃないのよ!』
『冗談じゃないよ。俺はあんたが好きだから女房になってほしいんだ。巫女姫だろうが何だろうが関係ない。俺はシャンティアって女を好きになったんだ。』
≪私はあなたと結婚したいと思ったから、あなたを選んだんですよ。貴族だとかそうじゃないとか関係ない。私がローランド・カルディナ卿を選んだのです。≫
セルーネがローランドのプロポーズを受けてくれた時、セルーネが言った言葉だ。全くの偶然のはずなのに、なんでこうもこの舞台の話は自分の境遇と似通っているのだろう。
(私は・・・セルーネの助けになりたかった。でもあの頃意図的に流されていた酷い噂がもう少し収まるまで、せめてエミール達の事業運営が軌道に乗るまではベルスタイン公爵家の領地運営に私は関わらないほうがいいと思った。だが、そんな気遣いは端から必要なかったんだよな・・・。)
父であるトーマス・カルディナ卿は、そんな気遣いなど無用だと激怒した。父は最初から肚を括っていたのだ。そして今回、大臣としてではないが御前会議への復帰を決断した。つまりそれは、今後何を言われようとも全て受け止める、或いは跳ね返す覚悟を固めたと言うことなのだろう。そして義弟のエミール夫妻も、そのことは了承している。
(あの時の私の提案をセルーネと義父上達が了承してくれたのは、カルディナ家とエミール達を思いやってのことだ。だが私はいつの間にか、そのことを隠れ蓑に領地運営から逃げていたのか・・・。)
最初の頃こそ戸惑っていたエミール夫妻だったが、少しずつ自信を深め、今では押しも押されもせぬカルディナ家の当主夫妻として、各方面から尊敬を集めている。いつまでもローランドが今のままでいては、エミール達にも気を使わせてしまうことだろう。だが・・・
(ただ一言、承諾すればいいだけのことなのにな・・・。)
あと一歩が踏み出せない・・・。
『不思議ね・・・。あと一歩あなたに向かって踏み出せば、わたくしはあなたの手を取る事が出来るのに、その一歩がなかなか踏み出せない・・・。わたくしは・・・いつからこんな臆病者になってしまったのかしら・・・。』
舞台の上では、巫女姫シャンティアがベルロッドの差し出した手をなかなか取れずに逡巡する様子が演じられている。
『それなら俺がそっちに行くぜ?』
そう言って立ち上がりかけたベルロッドを、シャンティアが制した。
『だめよ。これはわたくしの問題なの。どんなに怖くても、自分の意思で一歩を踏み出せなければ、この先あなたの助けになんてなれないわ。』
(自分の力で一歩を踏み出せなければ・・・私はこれから先もずっとセルーネの助けになんてなれない・・・。)
では
なぜ踏み出せないのだろう・・・。領地運営で忙しく動いているセルーネを見るたびに、助けになれない事がつらかった。噂さえ収まってくれたら、すぐにでも領地運営者の名簿に名を連ねるつもりでいたのに、いったいどこで変わってしまったのか。
隣で舞台を見ているセルーネも、自分達の今の状況とあまりにも似ている芝居の流れに、いささか苦笑いをしていた。
≪私はあなたと結婚したいと思ったから、あなたを選んだんですよ。貴族だとかそうじゃないとか関係ない。私がローランド・カルディナ卿を選んだのです。≫
(そんなことを言ったっけなあ・・・。)
あれは剣士団を辞めて、家督相続のための結婚相手を決めなければならなかった時、ローランドを選ぼうと決めて、彼に返事を直接伝えた時言った言葉だ。
(あのあと、結婚してからいきなり『自分は領地運営に携わらないほうがいい。』と言い出したのはびっくりだったけど・・・。)
だが理由を聞いてみれば、納得出来ることだった。カルディナ家が貴族ではないということが気に入らない人達はたくさんいた。セルーネに結婚の申し込みをして断られた、主に子爵家や男爵家などは、とにかくカルディナ家を貶めようと画策していたことだろう。ローランドが家を出ることになって、事業運営を引き継いだのがカルディナ家の遠縁のエミール夫妻だ。エミール達は元々カルディナ家の事業のどこかで働かせてもらおうとやってきただけだったのに、いきなり養子になり当主になり、当人達が一番驚いていたかもしれないし、きっと不安だったことだろう。
そこを狙いすましたかのように噂が流れ始めた。
『ローランドが公爵家の金を横流しして、カルディナ家の再興に使うつもりでいる。養子に入った当主夫妻はただの傀儡だ。裏でローランドが公爵家の金を使って事業を運営するつもりだ。』
多少細かいことが違ってはいたが、概ねそんな内容の噂だ。
『少しの間ですむと思う。噂が収まり、エミール達がもっと自信を持って事業運営を出来るようになれば、私が気にする必要はなくなる。それまでの間だけでいいんだ。』
だが、その『少しの間』は終わることがなく、今に至っている。今ローランドが仕切っているのは、北大陸にある公爵家の土地建物、そこで働く人達の管理だ。これがなかなかに大仕事なので、大変なのは大変なのだが・・・。
(本来は当主の夫ではなく、隠居した先代夫妻が担当すべき事だからな。)
ローランドはその他、公爵家から個人に支給される金を使って、ティールと一緒に調査会社を起こした。そちらはティールが社長になって運営を担っているが、収支については必ずティールとローランドが毎月打ち合わせをしている。そう言えばそろそろその時期だ。
ローランドは確かに忙しい。でもそれは領地運営よりも優先させるべき事ではない。それにベルスタイン公爵家の跡取りの問題もある。ユーリクとクリスティーナのどちらかにはあとを継いでもらわなければならないが、2人の親として、セルーネとローランドが協力して領地運営にあたり、それを次の世代に引き継いでいかなければならない。後継者を育てるのは誰でもなくセルーネとローランドの2人なのだ。
(私が・・・もっと早い段階でローランドと話し合いを持つことが出来ていたら・・・。)
言っても詮無いとはわかっていても、そのことが悔やまれる。つまりそれはセルーネが、当主としての責任を果たせていなかったことに他ならないのだ・・・。
『ベルロッド、わたくしはあなたと行くわ。』
舞台の上では巫女姫シャンティアがやっと自分の意思で一歩を踏み出し、ベルロッドの腕の中に飛び込む。
『でも今のわたくしには巫女としての力はない。あなたの助けになれるとは思えないんだけど・・・。』
つらそうに俯くシャンティアに、ベルロッドは神竜エル・バールから聞いた『巫女姫が力を失った理由』を話す。
『・・・と言うわけだ。来てくれと言っておいてなんだが、あんたは別に無理して俺と来なくていいんだよ。神様はあんたのそばにいる。あんたがそれを感じ取れないとしても、今までと何も変わりないそうだからな。』
『そ・・・そうだったの・・・。』
当時巫女姫が力を失っていたというのは記録にもあるのだが、その記録が全て真実かどうかとなるとなんとも言えない。だがその辺りは記録の記述に基づいて忠実に再現しているらしい。
若手らしい、大胆でありながらなかなか緻密な演出が素晴らしい。
(こういう若手を育てるのに使われるなら、投資のし甲斐もあるんだがなあ・・・。)
出した金がどこに使われるのかまではわからない。人を派遣して見張らせることも出来なくはないが、公爵家が演劇学校の運営に入れ込んでいるなどという噂が流れると、その他の軽業の一座や他の演劇集団達まで出資をしてもらおうと群がってくる可能性がある。
(投資することが決まっているならいろいろと詳しく調査出来るが、今のところはそれ以前の問題だからな・・・。)
噂程度なら気にすることはないのだが、当てにされるのはまだ困る。どうしても慎重にならざるを得ない。
『ふふふふふ・・・・。』
巫女姫が突然笑い出した声で、セルーネの意識は舞台に戻った。
『な、何だよ。おかしいか?』
『だって・・・そんな話、しなければわたくしは知らないままだったのよ。わざわざ話して、わたくしがあなたのプロポーズを断りやすいようにしたの?』
『い、いや、断ってほしくはないけど、知っていることを黙っているのは狡いじゃないか。』
ベルロッドは特に弁が立つわけでもないのに、交渉ごとで失敗したことがないと言われている。それは彼の誠実な人柄と、自分にとっても相手にとっても特になること、損になることを包み隠さず話すからだと伝わっている。
『あなたは誠実な人ね・・・。わたくしは・・・あなたと行くわ。今のわたくしにとって、あなたが一番大事なの。神々を敬う心は何も変わっていないけど、それ以上にあなたと一緒に、これからの人生を歩いて行きたいわ。あなたと一緒なら、噂なん吹き飛ばしてみせるわよ。』
『そりゃ頼もしいな。だけど、あんたが1人で奮闘する必要はないんだぜ?俺があんたのそばにいる。何を言われようとどんな酷い言葉を投げつけられようと、あんたは1人じゃない。それは忘れないでくれよ。』
『ありがとう、ベルロッド。』
ベルロッドがシャンティアを抱きしめたところで舞台は暗転、別のシーンが展開される。
(私は・・・ローランドの助けになることが出来ていなかったということか・・・。)
噂について、ローランドは1人で対処しようとした。『了承する』というもっともらしい言い方で、セルーネは結局彼に全てを任せてしまった・・・。
舞台の上では話が進み、ベルロッドとシャンティアが『西の彼方』へと行くことが発表される。するとたくさんの人々がベルロッド達についていきたいと申し出、さらにベルロッドの仲間であるイーガン達も一緒に行くと言い出し、サクリフィアの国は大騒ぎになった。
そしてまた場面が変わり、暗い場所で泣いている女性にスポットが当てられた。
そこはどうやら小さな家の一室、泣いていたのは巫女姫の侍女らしい。そしてライトの外側と内側の境目に、若者が立っている。
この二人は近々結婚の予定だったが、聖戦ですべてが変わってしまった。若者の母親は焼き払われた町の姿にショックを受けて臥せっている。母親のために一日も早く身を固めて安心させたいと願う若者だが、恋人の侍女はこの町を出て、巫女姫についていこうとしている。
『やはり行ってしまうのか・・・。』
若者は悲しげに娘に話しかける。
『仕方がないの。あのお方は、わたくしが母とも姉とも頼むお方・・・。あんな遠い国に、お一人で旅立たせるなんて、出来ないわ・・・。』
『だがベルロッド様がおられるじゃないか。あの方はこの国を救ってくれた。そして巫女姫様も、あの方が慰めたことで生きる気力を取り戻されたと言うじゃないか。』
『だけど・・・だけど、不安なの。ベルロッド様がいい方だと言うことはわかっているわ。だけど巫女姫様は本当にベルロッド様とご結婚されるつもりなのか・・・。』
『でも僕は行けない。父は死に、母はすっかり気弱になって、今も伏せったままだ。母を置いて君と共に行くことは・・・。』
『お別れね。今までありがとう。』
立ち上がり家を出て行こうとする侍女。
『待ってくれ!だめだ!やはり君を行かせたくない!』
若者は侍女を抱きしめる。
『離して!』
『いやだ!』
若者は恋人を抱きしめながら泣いている。
『約束したじゃないか。小さな家を建てて一緒に暮らそうって。子供もたくさんほしいって・・・。』
『だって・・・。』
侍女は恋人の腕を振り解き、泣き崩れる。
『明日のことなんて分からない・・・。そう、わからないのよ!何もかも!』
侍女は絶望に打ちひしがれ、何もかも捨ててこの町を逃げだそうとしていた。愛する人の言葉も信じきれない。そんなわが身を憎む侍女。自分の無力さに苛まれる若者。
『それでも・・・僕は君を失いたくない・・・。』
若者は恋人をもう一度抱きしめる。
『私は・・・もう決めたの・・・。』
泣きながら家を出る侍女。
(うちのメイド達が大騒ぎしていたのはこのシーンか・・・。)
何でもこの2人のシーンが評判になり、何回かの公演ごとに演出が変わるのだそうだ。今回はどうやら若者の家でのシーンだったらしいが、宮殿の一室だったり焼け落ちた建物が生々しい街角だったり、しかもその都度台詞が変わるらしい。
(いくつもの脚本を書く脚本家もたいしたものだが、それに合わせて台詞や立ち位置を覚え直す役者もすごいな・・・。)
メイド達からこのシーンがとにかく感動すると言われ、それもあって今日この芝居を見に来たのだ。
金の流れについてはまだしばらく内密に調査する必要がありそうだが、そちらに問題がなければ、いや、問題があった場合は是正してもらわなければならないが、そのあとなら多少の投資は出来るかもしれないな、セルーネはそんなことを考えながら舞台に見入っていた。
舞台の上はまた場面が変わり、侍女は恋人の元を去る決意をして巫女姫の元を訪れるが、彼の手を離してはいけないと諭される。
『いいえ、私はあなた様について行きます。もう、決めたのです。』
そう言いながら、侍女はシャンティアから目を逸らした。
『あなたに、本当に後悔しないと言い切れるだけの覚悟はあるのですか?西の彼方がどんなところなのか想像もつかないのですよ。彼と二度と会えないまま、もしかしたら西の大陸にたどり着く前に命を落とすかもしれない。もしもそうなっても、今の自分の選択が正しいと、言い切れますか?』
やさしい、けれど毅然とした巫女姫の言葉に、声を詰まらせる侍女。その肩をやさしく包み、巫女姫は諭すように言った。
『一度決めたことを変えるのは勇気がいることです。でも、正しい選択をするのにためらう必要はありません。人生は一度きりです。最期の時に後悔しないよう、自分の心に正直に生きなさい。』
(最期の時に後悔しないように・・・か・・・。)
まるで自分に向けられたかのようだと、ローランドは思った。
今のまま恐怖に支配され、領地運営に関わらないと言えば、表向きは了承してもらえたとしても、次に悪意のある噂の標的になるのは自分ではなくカルディナ家でもなく、ベルスタイン公爵家だ。
公爵家もセルーネ自身も、どんな噂だろうと歯牙にもかけないだろう。だがローランドにとってセルーネは、自分が支えていくべき最愛の女性だ。婚約した日、セルーネを生涯支えていくことを誓っていたはずなのに、いつの間にか弱気の虫に支配され、セルーネの背負う重荷から目を背けた。その根底にあるのが、父の叱責で縮こまってしまったまま立ち上がることが出来ないでいる自分の弱い心であることを、ローランド自身が今まで気づかないふりをしていた。
(帰ったら、今日のことを話し合おう。今からでもセルーネを支えていきたいと・・・。)
そして、自分が抱えている不安も恐怖も何もかも全て、きちんとセルーネに話そう。それからセルーネが今自分に対して考えていることも、ちゃんと聞いて受け止めたい。
いつの間にか、わかっているつもり、わかってくれているつもりになっていて、自分の言葉で自分の気持ちを伝えると言うことが少なくなっていたと思う。
舞台の上では物語の最後のシーンになっていた。ずらりと並んだ船の前で、西へと旅立つ人々とサクリフィアに残る人々との別れのシーンだ。あの侍女が若者と二人寄りそい、巫女姫に別れを告げる。涙はあったがどちらの顔も晴れやかで、未来への希望が感じられた。
『姫様、私達はここで生きて行きます。お元気で・・・。』
『あなたもね。今までありがとう。』
幕が下りると次々に客が立ち上がり、会場は大喝采の渦に包まれた。
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