ローランド、決心する セルーネは医師会の通路を抜けてロビーに出た。ローランドは家で待っている。本当ならば今日は朝から2人で祭り見物に行く予定でいたのだが、前日の夜、領地から急使が来て、必要な薬草が揃った事を知らせてくれた。急使と言っても薬草入りのかごを荷馬車に積んで来たので、そこそこ時間はかかったらしい。
「ご苦労だったな。急がせてしまってすまない。中でゆっくり休んでくれ。」
急使として薬草を運んできてくれたのは、公爵家から領地に派遣されている護衛の私兵2人と、地元の若者が3人ほどだ。質のいい薬草を大量に運ぶために、人手を割いて丁寧に運んできたらしい。
「それじゃ私が案内するよ。今日はゆっくりしてもらおう。」
ローランドが言ってくれた。
「それじゃ頼むよ。私は明日の朝早くこれを王宮に届ける。今のうちに薬草の種類、数と品質を確認しておくよ。」
「そうだな。それじゃ明日の祭り見物はあなたが戻ってからだな。」
「ローランド、すまないな。戻ったら一緒に行こう。」
「ああ、私は家で待っているよ。」
セルーネはすぐに運ばれてきた薬草かごを家の中に運ぶよう指示した。そして公爵家の中にある診療所に常駐しているベリナル医師を呼んできてもらったのだが、やってきたのはベリナル医師の父親であるグレイグ医師だった。グレイグ医師は長いこと公爵家の診療所で常駐医師として勤務していたが、しばらく前に子息のベリナル医師が診療所の常駐となり、今は研究のほうに重きを置いている。
「薬草の話と聞いて飛んで来ましたよ。息子になど任せて置けません。」
グレイグ医師がにやりと笑った。この親子、別に仲が悪いわけではない。だがグレイグ医師は、ベリナル医師をなかなか一人前と認める気になれないようだ。薬草の知識については今のところまだグレイグ医師の方が上だ。この薬草を持っていく先がどこなのか考えれば、人選としてはグレイグ医師のほうが妥当かも知れない。
「ははは、それじゃお願いします。」
2人で薬草の数や品質などを全て確認した。
「実に品質のいいものですね。これだけの薬草が揃って良かったです。」
グレイグ医師は大量の薬草を見てにこにこしている。薬草は本当にいいものばかりだ。短い期間でこれだけのものを揃えてくれた領地のフェルディナンド村長にも礼をしなければならない。
「先生、遅い時間にすみませんでした。これで明日医師会に届けることが出来ます。」
「なんのなんの。患者がいなければ研究三昧の日々を送れるのも公爵様のおかげですよ。こんなことくらいいつでもお手伝いさせていただきます。ではお休みなさい。」
現在診療所を仕切っているのはベリナル医師だが、風邪が流行ったりして人手が足りなくなるとグレイグ医師も応援として診察にあたる。
翌日、セルーネは大型の馬車を用意させ、薬草のかごを全て馬車に運び込むよう指示した。そして使用人を何人か同乗させて、朝早く王宮に出向いてきたのだ。
こんなに大量の薬草を必要としたのは、王立医師会に寄贈するためだ。この国の厄介ごとの大元と言っても過言ではない『あのお方』ことエリスティ公が、突然医師会に薬草を寄贈したいと申し出たのが事の発端である。単なる寄贈なら相手が相手とは言え、ありがたく受け取っても良かったのかもしれないが、その寄贈の申し出の直前、数種類の薬草が医師会の保管庫から消えるという事態が発生していた。
『まさか盗んだ薬草を何食わぬ顔で寄贈するなどと言っておるのではあるまいな。』
最高神官にして筆頭大臣のレイナックは不快感をあらわにした。医師会の長であるドゥルーガーも困り果てていた。薬草の寄贈自体はありがたいが、やはり消えた薬草の行方がわからないのに、迂闊に受け取っていいものか判断しかねていることと、相手が相手なので、果たしてエリスティ公の言い分を額面通りに受け取っていいものかどうか考えあぐねていたのだ。その話を、王国剣士団の長であるオシニスから聞いたセルーネは、その寄贈予定の薬草の種類がほとんどベルスタイン公爵家の領地でも採れる薬草であることに気づき、自分のところからも寄贈を申し出れば問題なく両方受け取れるのではないかと考えたのだ。
そしてセルーネは無事に務めを果たして薬草は寄贈された。エリスティ公がベルスタイン家に何かちょっかいをかけて来る可能性をドゥルーガー会長は心配していたようだが、それはおそらくないだろう。もう大分昔のことだが、セルーネの姉夫婦が亡くなった時、エリスティ公はあり得ないほどの立派な言葉を並べてセルーネに悔やみを言った。それ以来ベルスタイン家にはおそらく出来るだけ関わらないようにしているらしい。
「ま・・・下手に藪をつついて蛇が出てきたりしたら、困るのは公自身だしな・・・。」
ベルスタイン公爵家とエリスティ公の間には、因縁がある。その話を突っ込まれて困るのはエリスティ公だ。
「静かならそれに越したことはない。早く帰ろう。」
1人つぶやき家路につくべく医師会の廊下を歩いている。
「手術は明日か・・・。クロービスの奴、頑張ってくれるといいがなあ。」
今回寄贈された薬草は、王国剣士クリフの手術にかなりの量使われる。その手術の執刀医はクロービスだ。もちろん彼は最善を尽くすだろう。だがどんなに力があっても、彼は自分を正当に評価しようとしない。そして突然弱気になってしまうことがある。
(まったく・・・ここまで医師として十分な経験を積んでいるのだろうに、どうしてそういうところは変わらないんだろうなあ・・・。)
そんなことを考えながら、セルーネはロビーを抜けて外に待たせてある馬車に戻ろうとしたのだが、途中でロビーの受付嬢に呼び止められた。
「レイナック様がお呼びだそうです。フロリア様の執務室でお待ちするとのことでした。」
特に今日レイナックと会う予定はない。つまり突然何か用事が出来たと言うことか・・・。
「わかった。行ってみるよ。ありがとう。」
セルーネは行き先を変更し、執政館へと向かった。
![]() ![]() ![]() 執務室の扉を守る王国剣士に、レイナックに呼ばれてきたことを告げると、すぐに中に入れてくれた。
「レイナック殿、お呼びだそうですが・・・。」
そこにいたのは、フロリア、レイナック、そして、久しぶりに会うトーマス・カルディナ卿だった。
「義父上・・・これはご無沙汰しております。レイナック殿、本日はどのような・・・。」
「久しぶりですな、公爵閣下。」
トーマス卿がセルーネに微笑んだ。
(本当に・・・穏やかになられたな・・・。)
遠い昔、ウィローを監禁して息子の嫁にしようと企んだ時のような、狡猾さを湛えた表情とは別人のように穏やかな笑顔だ。無論あれから20年近く過ぎて、セルーネとローランドが結婚し、子供が生まれてカルディナ家との交流も増えた。今では家を出たローランドの義弟として養子に入ったエミール夫妻の子供も3人ほどいるので、カルディナ家はとても賑やかだ。トーマス卿の眉間のしわも、消えて久しい。
「ふふふ・・・セルーネよ、とうとうわしの粘り勝ちじゃ。トーマス卿はの、御前会議の助言者として時々会議に出席してくれることを承諾したぞ。」
レイナックがにやりと笑って言った。
少し前、クロービスとウィローの夫婦が20年ぶりに城下町にやってきた。祭り見物のためだという。そして20年前に一番の被害者とも言える立場にありながら、詳細を何も知らされぬまま、事の収束をトーマス卿の子息ローランドに任せて町を出てしまったウィローから、トーマス卿と会って話がしたいと申し出があり、カルディナ家での昼食会が開かれた。その席でウィローとトーマス卿は和解し、今後はわだかまりなくカルディナ家とも交流出来るのではないかという報告を受けている。その話はフロリアとレイナックにも報告され、それを機にトーマス卿が御前会議に助言者として戻ってくることをレイナックが打診していたのだ。
「・・・まったく、レイナック殿のしつこさには参りましたわい。」
そんな冗談が飛び出すほど、この部屋の空気は穏やかだ。
「ふぉっふぉっふぉ!わしとしては、してやったりじゃな。で、セルーネよ、ここからが本題だ。ベルスタイン家の内情に口を出す気はないし、そんな権限はわしにも、いや、フロリア様にもない。だからこの話はあくまでも旧知の仲であるお前への助言ということで聞いてほしいのだが、そろそろローランドを領地運営の担い手として届け出ても問題ないのではないかと、そういうことだ。」
「そうでしたか・・・。ご助言ありがとうございます・・・。これはいい機会だと思いますので、これから家に戻って改めて話をしてみようと思います。」
貴族の家の領地運営は、その家の者なら誰でも出来るというわけではない。誰と誰が携わるか、誰が補佐するのか、全て王宮に届け出をしなければならない。領地を管理するのは領主の仕事だが、その領地で好き勝手していいわけではない。領民に酷い仕打ちをしたり、異様に高い税を取り立てたり、そう言った問題が起きた場合に責任の所在をはっきりさせるために、こう言った決まり事がある。ベルスタイン公爵家の領地運営者の名簿に名を連ねているのは、現当主のセルーネ、そして先代公爵のロランス卿、その妻、そして公爵家の執事だ。
「公爵閣下、私も肚を括りました。ローランドに伝えてください。私のことやカルディナ家のことは気にしないでくれと。」
セルーネとローランドが結婚した頃から、ローランドが傾いたカルディナ家を立て直すために公爵家の財産を横流ししているという噂が流れていた。その噂の出所は想像がついた。セルーネに結婚の申し込みをして断られた、主に子爵家や男爵家、その家に連なる者達の、悪意ある仕業だ。そして結婚の申し込みとは関係なく、ベルスタイン公爵家がこれ以上台頭することを快く思わない者達もいる。どれほど打ち消しても、そう言った噂を止めることは出来ない。そこで、ローランドは領地運営の一切に関わらないと決め、その後子供が生まれてすくすくと成長しても、その姿勢を貫いていた。その分セルーネに負担をかけることはわかっている。でもローランドとしては、実家のカルディナ家にそんな悪意が向けられるのは我慢がならなかった。セルーネとセルーネの両親にとっては不本意な話だが、それがローランドの保身のためというわけではなく、カルディナ家のことを思いやっての考えだと言われると、反対するわけにも行かなかった。
「わかりました。そのこともローランドに話をしてみます。」
トーマス卿は公の場で顔を合わせることがある時、セルーネを『公爵閣下』と呼ぶ。セルーネとしては、自分はトーマス卿の息子の妻なので、どこで会っても名前で呼んでくれていいと思うのだが、その辺りの線引きは譲れないらしい。
「しかし我が息子ながら、情けないことで申し訳ありませんな、セルーネ殿。」
どうやらここからは身内としての話のようだ。
「いえ、飛んでもありません。カルディナ家を思いやってのことですし・・・。」
セルーネの言葉に、トーマス卿はため息をついた。
「今更このようなことを申し上げるのもなんですが・・・そのような気遣いは、あの時から必要のないものだったのですよ。」
「・・・・・・・。」
セルーネは咄嗟に言葉が出ず、黙り込んでしまった。
『あの時から必要のないものだった。』
つまりそれは・・・。
「確かに心ない噂は流されていました。だがあの時から、いや、息子があなたと結婚したいと言い出して、それを了承した時から、私は肚を括っていました。私が言うのもなんですが、息子は優秀です。見た目も母親に似てなかなかのものですし、性格も穏やか、何よりあなたを心から愛している。ベルスタイン公爵家がもしも爵位や血筋にこだわらず我が息子を選べば、それだけで我が家が誹謗中傷の的になるだろう事は容易に想像出来ました。だから私は養子のエミール夫妻にもよく言い聞かせていたのです。この先どんな酷い噂が流されようとも、お前達に何一つ非はないのだから、堂々としているようにと。エミール達はそれを了承し、何があってもカルディナ家を盛り立てていくと約束してくれました。だからローランドが、我が家のために領地運営に関わらないことにしたと言い出した時には驚きました。何と愚かな選択をしたのかと、あまりのことに私も頭に血が上ってしまい、酷く叱責してしまったのですよ。あれはまずかったと今は思っていますが・・・。」
「そうだったのですか・・・・。」
「しかしそう決めてしまったものは仕方ない、噂などどんな酷い噂であってもしばらくすれば下火になるもの、その時点で息子があなたと共に公爵家の領地運営に携わることになるものと思っていたのですが、いつまで経ってもそんな話は聞こえてこず・・・。」
ここまで時間が過ぎてしまうと、トーマス卿としても打つ手がなかったところだったが、先日のクロービスとウィロー夫妻との昼食会で2人と和解し、わだかまりなく交流が出来ることになったのを機に、何か自分に出来ることはないかと考えていたのだという。
「ふむ、なるほどな。そこにわしが都合良く御前会議の助言者の話を持っていったというわけか。」
レイナックが言った。『もしや騙されたか』と言いたげな目つきだ。
「ええ、レイナック殿のお話は渡りに船でございましたぞ。」
トーマス卿がにやりと笑った。
「・・・そのわりにはいい返事がなかなかもらえなかったのだがのぉ。」
レイナックが恨めしげな視線をトーマス卿に向けた。
「そりゃあ、はいそうですかとばかりに飛びついたのでは値打ちが下がりそうですからな。ここは少し重々しく、焦らせて見せたと言うことですぞ。」
レイナックが笑い出した。
「まったく・・・してやられたのはわしのほうか。まあ、わしを翻弄するくらいでないと、御前会議の助言者など務まらんから、わしの目は確かだったと言うことになるのだろうがな。」
レイナックがそう言った時、フロリアが笑い出してしまった。
「ご、ごめんなさいね・・・。レイナックを振り回すなんてさすがトーマス卿だな、なんて思ってしまって・・・。」
フロリアは何とか笑いをこらえようとするが、最高神官にして御前会議の筆頭大臣であるレイナックを振り回す人物が現れたと言うことが、面白くて仕方ないらしい。
「ほっほっほ、フロリア様に認めていただけるとは、このトーマス・カルディナ、大変嬉しゅうございますぞ。」
トーマス卿が笑ったが、すっと真顔になり、セルーネに振り向いた。
「セルーネ殿、息子がこんな情けないことになってしまったのは、私があの時酷く叱ってしまったせいではないかと思っています。そのやり方が間違っていたのだとしても、息子の行動は間違いなく我が家のことを思ってのことだったはずなのに、私は小さな子供を叱るごとく頭ごなしに怒鳴りつけてしまった・・・。せめて礼は礼として言ってから、何が良くないのかをきちんと諭すことだって出来たはずでした。そのことは息子にも、あなたにも大変申し訳なく思っています。」
トーマス卿が深々と頭を下げたので、セルーネのほうが慌ててしまった。
「義父上、そのようなことを仰らないでください。ローランドもきっとそれは理解してくれていると思います。それに、ローランドを選んだのは私です。彼には今までたくさん助けてもらいました。私にはもうローランドのいない人生など考えられないくらいなんです。領地運営のことは、もっと早い段階で動けなかった私の責任です。今回のことはいい機会だと私も考えています。子供達もそろそろ結婚を考えなければならない年齢になってきたことですし、必ず説得しようと思います。」
セルーネは笑顔で執務室を出て行った。
『私にはもうローランドのいない人生など考えられない』
その言葉をいささか複雑な思いで聞いていたのはフロリアだ。20年前、ハース鉱山の鉱夫達を助けるために、当時の剣士団長パーシバルはハース鉱山への遠征を願い出たが、フロリアは許可しなかった。その後パーシバルは黙ってハース鉱山へと行ってしまった。当時のフロリアはそのことに腹を立て、常々邪魔に思っていたカインとクロービスという2人の王国剣士と共に、ハース鉱山をモンスターに占領させた罪人に仕立て上げた。その後パーシバルはモンスターに占領されたハース鉱山から鉱夫達を逃がすために、囮となってモンスターの群れの中に飛び込んでいったと聞く。そのパーシバルはセルーネの恋人で、彼を喪ったセルーネがどれほどつらい思いをしたか、フロリアは知っているつもりだ。だからずっと、セルーネに対してフロリアは負い目を感じてきた。あの時自分があんな冷酷な決定を下さなければ、或いはパーシバルは生きて戻ってきたのではないか。
当時の状況を聞いても、おそらくそんな可能性は皆無であろうと思う反面『自分さえ正気だったら』『自分がもっと強ければ』そんな『もしも』の可能性にばかり考えが行ってしまい、セルーネに対する負い目は大きくなるばかりだった。そしていつの間にか、セルーネとローランドの結婚についても、セルーネはしたくもない相手と結婚したのではないか、公爵家の存続のために好きでもない男の子供を産んで・・・などと考えが飛躍するばかりで、自分は一生この罪を背負っていかなければならないとまで思い詰めていた。
今ではフロリアの気持ちも大分落ち着いたが、セルーネへの負い目は変わらず、それが自分だけでなくセルーネをも苦しめていることに、最近になってやっと思い至ることが出来るようになった。
(セルーネとローランドは間違いなく愛し合っているのね・・・。)
セルーネは恋人の死というつらい出来事を乗り越えて、ローランドという生涯の伴侶を得た。そしてその後の敬愛する姉夫婦の死をも乗り越え、ベルスタイン公爵家の当主として辣腕を振るっている。自分ばかりが過去に拘泥していてはいけない、いい加減昔のことに決着を付けなければならないとフロリアも考えているが、そのためにはオシニスとの話し合いが不可欠だ。
(わたくしの言伝は、クロービスから間違いなくオシニスに伝わっているはず。でも未だに何も言ってこないと言うことは・・・。)
祭り見物の時のオシニスの態度を考えても、彼がフロリアの言伝を無視しているとは思えない。ということは、オシニスはもしかしたら、クロービス達から昔のことについてもっと話を聞いてから自分と話をするつもりなのかもしれない。クロービスとフロリアの因縁は、カインが亡くなって終わったわけじゃない。その後も自分が彼らに何をしたか、そこまで全て聞いてから、オシニスはフロリアと話をするつもりでいるのかもしれない。
(わたくしに出来ることは、待つことだけね・・・。)
明日は王国剣士クリフの手術がある。クロービスは今日一日ウィローと共に準備に追われることだろう。オシニスだって平静ではいられないかもしれない。彼らが昔話をしているとしても、ここ数日は話が進まない可能性もある。
「しかしトーマス卿、そんなに酷くローランドを叱責したのかね?」
レイナックの言葉で、フロリアは我に返った。トーマス卿は小さなため息とともにうなずいている。
「ええ・・・私も頭に血が上ってしまい、そんなバカなことを言い出すなら、結婚を許さなければ良かったとまで言ってしまいましたから・・・。」
あの時の絶望したようなローランドの顔を、トーマス卿は今でも覚えている。
「それはまた随分ときついことを言ったものじゃのぉ・・・。」
レイナックは驚いた顔でトーマス卿を見つめている。
「確かに言いすぎたとは思いますが・・・。ベルスタイン公爵家の場合、家自体の規模がとてつもなく大きいことはレイナック殿もご存じでしょう。大臣の立場にあれば、貴族の家の規模は何となくわかるものですが、ベルスタイン公爵家だけは、全容が全くわからないと以前から話していました。ですが息子はその家を継ぐ事を決意したセルーネ殿を、支えていくと誓ったはずなのです。私が怒ったかどうかなど関係なく、その誓いを反故にするような行動をいつまでも取っていたのでは、それこそ我が家にもいい影響を及ぼしません。」
「ふむ・・・確かにあれだけの家を背負って立つセルーネを支えていくことは、並大抵の苦労ではあるまいが・・・。」
「その後も、領地運営に関わることだからと私から息子に何か言うのはまずいのではないかと考え、言及を避けてきました。しかし私が傾けてしまったカルディナ家の事業を1人で立て直したのは息子です。規模の違いはあれど、息子なら立派に公爵家の領地運営も捌いていくことが出来るはずです。今後はもう我が家のことを心配する必要はない、位のことは話してみようかと思っております。」
「そうじゃのぉ、機会があればそう言う話をしてみるくらいは問題ないと思うがな。」
「レイナック殿、実はこの話、以前ロランス卿に話したことがあるのですよ。」
「ほぉ、ロランス卿は何と?」
「ローランドは名前こそ領地運営の名簿に連ねていないが、我が家の家族として充分役に立ってくれていると言っていただけました。私に気を使っているわけではないとは思うのですが・・・。」
「ロランス卿は口先だけでそんなことを言う人物ではあるまい。おそらくだがセルーネに相談されれば適格な助言をしておるのだろう。あまり子息の器を軽く見ないようにな。自慢の子息なのであろう?」
トーマス卿は寂しげに笑った。
「ところで、次の会議の時にでもそなたを紹介しよう。今はセルーネも大臣の1人として会議に加わっておる。いろいろ言う輩はいるだろうが、もう迎え撃つ準備は出来ているのだろう?」
レイナックがにやりと笑った。
「無論でございます。どんなに悪意のある噂であれ、そんなものを流す輩はそれなりの者達です。そのような者達を気にする必要などないはずですよ。ですが、あくまでも穏便に参りますよ。穏便にね。」
トーマス卿もにやりと笑う。
「ふふふ・・・次の会議が楽しみじゃのぉ・・・。」
![]() ![]() ![]() セルーネは外に出て馬車に乗り込んだ。
(参ったな・・・。レイナック殿に指摘されてしまうとは・・・。)
ローランドが『少しの間』ベルスタイン家の領地運営に携わらないと言い出した時、それがカルディナ家の人々を思いやってのことだからとセルーネは了承した。だが、その後セルーネ自身が領地運営に忙殺されてしまい、その話はそのままになってしまった。当時流されていた心ない噂が下火になった時点で、セルーネはローランドに領地運営を一緒に担ってくれるよう話をしなければならなかったのに。
(私以外の誰もその話をすることは出来ないわけだからな・・・。)
だが誰かに聞かれる心配のない、自分達の部屋でなら、ローランドのほうから話をしてくれても問題はなかったはずだ。
もしかしたら、だが、ローランドは噂が下火になった時に、待ってましたとばかりに領地運営をやりたいとは言いにくかったのかもしれない。当主たるセルーネから水を向けるのが本来のやり方だから、待つべきではないのかと。それにどうやら、噂のためにローランドがカルディナ家をかばい立てするようなことなど、最初から必要がなかったとトーマス卿が言ったらしい、しかも『酷い叱責』という形で。だとしたら・・・。
(自分のしたことが何の意味もなかった、しかも父親に酷く叱責されてしまったのだとしたら、それで自信をなくしてしまったと言うことも考えられる・・・。)
トーマス卿は自分のせいで息子が自信をなくしたと思っている。まずはローランドに話を聞いてみよう。公爵家の領地運営に直接の言及がなければ、トーマス卿とローランドがちゃんと話し合う場を作ることは出来るかもしれない。ただその前に、ローランドには何とか一緒に領地運営を担ってくれるよう、きちんと頼まなければならないし、了承してもらわなければならないが・・・。
『このまま、あなたを抱いてしまっていいのだろうか・・・。』
ふと・・・遠い昔の出来事を思い出した。
婚約してからしばらくした頃、ローランドから泊まりがけの旅行に誘われたことがある。その時セルーネは、夜は当然ローランドとベッドを共にするものだと考えた。実際ローランドもそのつもりで誘ったようなのだが、旅行に出掛けて宿に落ち着いた時、もうあとは寝るだけという段になって、ローランドは自分がどうすべきかを考えすぎて悩んでしまった。
この時、ローランドはセルーネの心が未だパーシバルの元にあると思い込んでいた。だからセルーネの気持ちを無視するような形での結びつきは、良くないのではないかと思い悩んでいたらしい。一方セルーネの方は、婚約してからそれまでの間に、ローランドの優しさに触れ、一緒に過ごす時間が長くなって行くにつれて、ローランドに好意を持つようになっていった。
それが愛と呼ぶべきものなのかまではっきりと自覚出来ていたわけではなかったが、それでも、今自分がローランドに対してどういう気持ちを持っているのかは、ちゃんと伝えたい。だがそのことをなかなか話す機会がなく、きちんと話すのにこの旅行がちょうどいいのではないかと思って出掛けてきた。出来るならベッドに入る前に、彼の目を見て『あなたが好きだ』と言いたかったのだが、ローランドの悩みは、セルーネが思っていたより遙かに深いものだった。もっと早く自分の気持ちを打ち明けるべきだったと、セルーネは後悔した。その後2人でお互い考えていることをちゃんと口に出して話し合い、わだかまりが解けたことで2人は無事に結ばれた。
(あの時は随分と思い悩んでいたようだけど、私の気持ちを知ったことで自信を取り戻してくれた・・・。だけど今回のことは、『そんなことをする必要はなかった』とトーマス卿に言われてしまった時点で、自分がしたことが何の意味も持たなかったとローランドは知ってしまったということか。そして自信を失ったまま、領地運営に携わりたいと言えずに今まで来てしまったのかもしれないな・・・。)
やはりこれは、当主としての自分の怠慢だと言わざるを得ない。噂が下火になった時点できちんとローランドと話し合いをしていれば、そのことも話してくれたかもしれないのに。
結婚して、今ではもう十数年過ぎている。2人の間に生まれた子供達はもう成長して、既に他の家からの見合いの話が何件も届いているほどだ。この先いつまでもローランドが領地運営に関わらないと言い続けていたのでは、子供達の将来にもあまりいい影響を及ぼさない。
だが・・・。
この件で問題が起きるとすれば、今後子供達がそれぞれ結婚し、どちらかが家を継ぐことになった時だろう。家督相続予定者の親はどちらも名簿に名前を載せているのが当たり前だからだ。
でもそれはまだ先の話だ。なのに今、特に問題が起きていない時点で、「昔のよしみ」でレイナックがあんな話を出したと言うことは、当然ながらレイナック、ひいてはフロリアの思惑が絡んでいるのだろうと思わざるを得ない。
(我が家は王家に恭順の意を示している。万一エリスティ公が強行に王位を狙って行動を起こした場合、王家の盾にするつもりか・・・。)
ベルスタイン公爵家が王家につけば、当然ながら追随する貴族は多数いるはずだ。でもそれは、ベルスタイン公爵家についていた方が特だという計算があるだけで、追随する貴族達のいったい何割が本当に王家に恭順の意を示すだろうか。もっともそんなことはレイナックにしてもフロリアにしても、百も承知だろう。それでも味方は多いほうがいい。そして味方を引き寄せてくれるベルスタイン公爵家には、自分達の思うように動いてほしい、そう言う欲は見て取れる。
(王家に踊らされるのはごめんだが、確かにそろそろ名簿に名前を載せてもらえるよう説得しなければならないな・・・。)
領地運営は言うなれば不可侵領域だ。貴族の家それぞれに事情があり、そしてルールもある。そのやり方について王宮が異を唱えることなど本当ならしてはならないことなのだ。それが国王であったとしても。もしもそれが出来るとすれば、そのルールや事情によって家督相続が遅れたり、相続人の誰かが不利益を被るなど、不測の事態が起きた時だ。ローランドがこの先自分から領地運営に関わりたいとはなかなか言わないとしても、正直なところ今まで困ることはなかった。相続人の名簿に名前がないと言うだけで、彼はいつも適格な助言でセルーネを支えてくれていたし、領地に赴けばいつもセルーネの手足となって動いてくれる。
だが全く困っていないとしても、子供達が今後婚約などをした場合、どうせ話は出てくる。今回彼の父親であるトーマス卿が助言者とは言え御前会議に復帰することになったのは、いい機会だ。ローランドだってそのことは喜んでくれるだろう。あとはとにかくセルーネがローランドを説得するしかない。
(ちょうど今朝、自信をなくしていた奴の尻を叩いてきたところだが、ローランドもあのくらい素直に私の話を聞いてくれるといいんだけどな・・・。)
あれからクロービスはどうしただろう。明日の手術では、自分の持てる力を最大限に発揮してほしいものだが・・・。
![]() ![]() ![]() 「遅かったな。何か問題があったのか?」
出迎えてくれたローランドは開口一番そう言った。思ったより遅くなったので心配してくれていたらしい。
「いや、それより薬草を届けてくれた者達はどうしてる?」
「ああ、さっき朝食を取ったところだ。今日の昼前には向こうに戻るというので、それまで休憩してもらっている。厨房に頼んで昼の弁当は手配しておいたよ。夜は港で食べてもらおう。」
「そうか。今回薬草を間に合うように届けてくれた彼らは一番の功労者だからな。ローランド、ありがとう。私も少し挨拶をしてくるよ。」
「そうだな、あなたが顔を出せばみんな喜ぶだろう。」
セルーネは薬草を届けてくれた者達の休憩室へと顔を出した。ローランドがきちんと対応してくれてはいたが、ここはやはり、セルーネが直接労を労うのが筋だ。セルーネは頭を下げて丁寧に礼を言った。みんな感激してくれていたのが嬉しかった。
(今では領主としてそれなりに心配りも出来るようになったが・・・。)
自分がここまで来ることが出来たのも、ローランドのおかげだと思っている。彼は領地運営に携わらずとも、セルーネを公私ともに支えてくれている。
「ローランド、少し話があるんだがいいか?」
「あなたと祭り見物をするより大事な話か?」
ローランドがいたずらっぽくにやりと笑った。
「そうだな。同じくらいかもな。」
セルーネもニッと笑って見せた。
2人は自分達の部屋に戻ってきた。既にお茶の支度が用意されている。お湯は入れたばかりらしく熱かった。セルーネはお茶を淹れ、一緒に置かれていたお茶菓子を2人のカップの間に置いた。
「話というのは何なんだ?薬草の寄贈はうまく行ったのか?」
ローランドは心配そうに聞いてくる。レイナックに呼ばれたために家に戻るのが遅くなったのだが、まずは薬草の寄贈については問題なく終わったと話した。
「そうか・・・。ほっとしたよ。『あのお方』のいいようにかき回されたのでは腹が立つからな。」
ローランドはほっと一息ついて、お茶を飲んだ。
「全くだ。よくもまあいろいろと思いつくものだよ。でも、遅くなったのはそのことが理由じゃないんだ。」
「・・・どういうことだ?」
セルーネは、帰る途中にレイナックに呼ばれたことと、トーマス・カルディナ卿が御前会議の助言者となることを承諾したという話をした。
「父上が・・・。そうか・・・。やっとその気になってくださったか・・・。」
ローランドが笑顔になった。
「ああ、私もほっとしたよ。あなたの前で言うのも何だが、やったことについては言い訳が出来ないことだとしても、御前会議での一件はウィット卿に陥れられたようなものだったからな。政治的手腕は素晴らしい方だし、今の義父上を見れば、もう昔のような強引なやり方はなさらないと思う。」
「私のことを気にすることはないさ。父がやったことは許されないことだ。だが本人は当時のことでは深く反省しているし、何よりクロービス先生ご夫妻と和解出来たことは大きいと思う。これからはあんな考え方はなさらないと私も思うよ・・・。」
ローランドは言葉を濁し、お茶を飲んでしばらく黙っていた。不安が彼を取り巻いていくのがわかる。
「気になることがあるのか?」
こんな時はちゃんと聞いたほうがいい。変に気を使ってしまうとこのあと二度とこの話をすることが出来なくなってしまう可能性もある。
「いや・・・喜ばしいことではあるが、また良くない噂が流される危険性はあると言うことだなと・・・。」
ローランドの言葉は何となく上の空で、何だか本当のことを言ってないような気がした。噂のことは確かに気になるだろうが、今考えているのはもしかしたら、結婚した頃にトーマス卿に言われたことを思いだしているのか・・・。
「それをあなたが心配する必要は、もうないんじゃないか?」
カルディナ家の良くない噂なんて、みんな根も葉もないことだ。今更そんなことに拘泥する必要はないと思う。それだけははっきり言っておかなければならない。
「・・・・・・・・。」
ローランドは不安げな表情で黙っている。
「ローランド。」
「いや、すまない・・・。私が気にしても仕方ないんだが・・・。」
セルーネはローランドの隣に座り、頬を両手で包んで自分の方に顔を向けさせた。
「ローランド、レイナック殿は、義父上の話を教えてくれるためだけにわざわざ呼んでくれたわけじゃないんだよ。」
「どういうことだ・・・?」
「この話にはまだ続きがあるのさ。」
セルーネはそう言って、ベルスタイン公爵家の領地運営について、ローランドも運営者として名を連ねてはどうかと打診されたことを話すと、ローランドは驚いた。
「それは・・・。」
セルーネが思った通り、ローランドは困惑している。
「うちの領地運営について王宮が口を出す筋合いのものじゃない。レイナック殿としても、それを理解した上で、助言という形でこの話をしてくださった。そしてこの話は、義父上もいらっしゃる場所で出た話だ。つまり、義父上も了承している。自分のことも、カルディナ家のことも、気にしなくていいと伝えてくれとことづかってきたよ。」
「そうか・・・。」
ローランドの態度は煮え切らない。彼は自分の気遣いが何の意味もなかったことで、自信をなくしているのだと思う。だから今更領地運営に自分が携わったところで、ろくな働きが出来ないのではないかとか、そんな心配もあるように見える。
「ま、レイナック殿の思惑に踊らされるのは不愉快だけどな。」
「なるほどな。エリスティ公対策か・・・。」
ローランドはすぐに理解したらしい。
「そういうことだと思う。『あのお方』には先がない。今後ユーリクが養子に入るとか、フロリア様が結婚されるとか言う話を聞いたら、どんな手を使ってくるかわからない。我が家をその場合の盾にしようという魂胆は当然あるだろう。だから『昔のよしみ』なんて言ったんだろうな。越権行為だと言われる前にな。」
「それはそれで腹立たしい話だな。」
やはりローランドもレイナックの話は気に入らないらしい。
「それはそうなんだが、確かにそろそろ考えなければならないことだ。ユーリクにもクリスティーナにももう見合いの話は大量に来ているし、子供達が結婚することにでもなれば、いつまでも今のままというわけには行かなくなる。ローランド、どうだろう。改めて考えてみてくれないか。」
「・・・ああ・・・そうだな・・・。」
ローランドの返事は曖昧で、半分上の空で返事しているのは明らかだ。
「気が進まなそうだな。」
「い、いや・・・そんなことは・・・。」
「私としては、あなたが領地運営を一緒に担ってくれるならすごく助かる。母上がそろそろ引退したいと仰っているし、今の状態で人手が減るのは私としても困るんだ。」
「義母上が・・・?」
「ああそうだ。今あなたが仕切ってくれている、こっちにある屋敷や土地建物の管理の方をやりたいと、前々から言われているんだ。そもそもそう言った仕事は引退した先代夫婦が担当するのが通例だからな。」
「そうか、それなら一緒に・・・。」
「いや、そちらは母上と執事のオットーに任せたいと考えている。オットーも出来れば領地運営で自分が担当しているところについては、あなたに任せたいと言ってるよ。本来自分の役目ではないともな。それに、少しずつ父上の仕事もあなたに回したい。未だに先代夫婦に頼っているのでは、それこそ我が家が社交界の笑いものになってしまう。」
セルーネが爵位を継いだのは2番目の子であるクリスティーナが2歳になった頃だ。セルーネのあとを継ぐべき長男のユーリクは4歳だった。本来貴族の家督相続はもっと早い段階で行われる。10代で結婚して親と一緒に領地運営に携わり、生まれた子供がしっかりと成長した頃合い・・・あとを継ぐ予定の子がだいたい10歳くらいになった時点で爵位を継ぐ。セルーネの長姉であるアルテミナは10代でルーカスと結婚し、2人で両親と共に領地運営を担ってきた。だがその姉夫婦が子供がいないまま亡くなったことで、セルーネは急遽家督を継ぐことになった。だからかなり遅い年齢で爵位を継いだのだ。そんな事情から、今の時点でセルーネが両親に頼っていてもそれほど問題にはならない。だが今まではそれで良かったとしても、これからとなると話は違ってくる。
「そ・・・そうか・・・。」
ローランドを包む『気』が揺れる。不安と言うより・・・これは・・・恐怖か・・・。
(やはり自信をなくしているようだな・・・。)
何が何でもやってくれと言えば、ローランドは承諾するだろう。だがこんな状態で承諾させたところで、弱気のままでは領地運営に支障を来しかねない。不安と恐怖に支配されたまま重要な決定の判断を間違えれば、大変なことになる。それならば今のままでいたほうが、何事もなく済むだろう。
「正直言うと、今のままでも特に不都合はない。あなたは名前こそ連ねていないが、相談すればいつも適格な助言をしてくれる。私はずっとあなたに助けられてきた。だからずっと私はあなたと一緒に領地運営をしているのと同じなんだ。だがそろそろ考えなければならないのは、子供達の将来のことだ。そのためには、あなたと私が揃って領地運営者の名簿に名を連ねることが重要なんだ。今までは子供達も小さかったが、ユーリクにもクリスティーナにも縁談が毎日のように届いている。いずれ2人とも、誰かを選んで結婚するだろう。あとを継ぐのがユーリクでもクリスティーナでも、後継者を育てるのは私達なんだ。あなただけが領地運営にいつまでも携わらないと言い続けていたのでは、子供達の将来にもいい影響を及ぼさない。」
「いやしかし、あの子達はまだ・・・。」
「17歳と15歳だ。もう子供じゃない。」
きっぱりとしたセルーネの言葉に、ローランドがぐっと言葉に詰まった。
「ローランド、正直言って、レイナック殿からこんな話をされてしまったのは、私の当主としての怠慢だ。本来なら、あの悪意のある噂が下火になってきた頃に、私からあなたに改めて領地運営を一緒に担ってくれと頼むべきだったんだ。それなのに私は領地運営にほとんど振り回されていたようなものだ。父上が手助けをしてくれてはいたが、あの時はただ走り回ることしか出来なかった・・・。だからローランド、改めて私からお願いするよ。私と一緒に領地運営を担うために、我が家の領地運営者の名簿に名前を載せてくれないか。」
ローランドを包む『気』がまたゆらりと揺れる。父のトーマス卿から、そんな気遣いは必要ないと言われたことが、まだ尾を引いているのだろう・・・。だがローランドがそのことを認めるのが怖いのだとしても、そこは乗り越えてもらわなければならない。
(やっぱり、今すぐ答えを出してもらうのは難しいか・・・。)
今のローランドは、新たな一歩を踏み出すことを躊躇っている。もっともそれをずばり指摘してしまったら、ローランドの立場がない。トーマス卿との話も、出来ればローランドのほうから話してほしいのだが・・・。
「さてと、この話はここまでにしておこう。そろそろ祭り見物に行こうか?それとも午後からのほうがいいかな。」
せっかくの祭りだ。楽しまなくてはもったいない。セルーネは頭を切り換えることにした。
「え?行くのか?」
ローランドが驚いたように顔を上げた。
「約束していたじゃないか。なかなか時間が取れなかったから、私は楽しみにしていたんだけどな。」
ローランドは今の件を考えたいのだと思うが、1人で考えていたところで、こんな時はろくな考えが浮かばないものだ。ならばいっそのこと、頭の中から余計な考えを全て追い出して、ぱーっとはしゃいでしまったほうがいい。
「・・・怒ってないのか?」
ローランドのほうは、今の話に自分がはっきりとした答えを返さなかったことで、セルーネが気分を害したのではないかと不安だったらしい。セルーネはローランドを抱きしめ、キスをした。
「あなたが私の顔色を窺うようなことをする方が怒るよ。」
「・・・そうか・・・そうだな・・・。」
少しだけほっとしたような声で言い、ローランドはセルーネをしっかりと抱きしめ返した。
「すまなかった。ただ・・・今の話は少し考えさせてくれ。」
「そうだな。今いきなり返事をくれとは言わない。でも義父上が御前会議に戻ってくるのに、あなたがいつまでもうちの領地運営に関わらないというスタンスを変えないと、逆に噂が本当だったのかと言われかねない。それだけは忘れないでくれ。」
ローランドは頷き、セルーネにキスをした。
「それじゃ行くか。」
「そうだな。楽しみだ。」
セルーネとしては、今回の件はまずローランドの承諾を得てから両親に報告しようと考えている。実はローランドを領地運営者の名簿に入れるための書類は既に出来上がっている。そこにローランドが署名をすればすぐに提出出来るのだ。その書類は、ローランドとセルーネが結婚した時に用意されていたのだが、ローランドが『少しの間』領地運営に加わらないと言い出したことでそのまま保管されている。もっと早い段階でセルーネがローランドを説得するべきだったのに、それが出来ずに助言という形とは言え、レイナックからそれを指摘されたことについては、忸怩たる思いがある。
(父上と母上には言えないな・・・。私がもっと早い時点で動くべきだったのだ・・・。)
一番の原因は慣れない領地運営に忙殺されていた自分の不甲斐なさだ。トーマス卿のおかげでいいきっかけが出来た事は確かだが、今まで動けなかったのが情けない。とにかくローランドに承諾してもらおう。そして早い段階で王宮に届け出をする。レイナックはほくそ笑むだろうが、そう簡単に利用されるつもりはないし、こちらもレイナックを利用するくらいのつもりでいなければならない。ベルスタイン公爵家の当主はセルーネだ。開祖以来ずっと独立性を保ってきたというのに、自分の代で王宮に利用されることになどなってはならない。
「それじゃお昼は屋台で食べよう。うまい屋台がたくさん出ているから、楽しみだな。」
2人は家の門を出て、歩いてまずは王宮前に向かった。そこから南門を目指して歩けば芝居小屋や大道芸の小屋のある城壁の外に出られるかと思ったのだが・・・。
「うはぁ、今日はパレードか。」
道にはパレードに参加する人々が待機していた。既に道なりに行列が出来ており、もう少しすると先頭のラッパ隊がパレード開始のラッパを吹く。それを合図に行列がそのままパレードの列となって動き出すのだ。
「ローランド、今のうちにここを抜けてしまおう。この行列が動き出したら流されるぞ。」
2人は行列の外側に沿って南下し、やっと南門までたどり着いた。その時先頭のラッパ隊がパレード開始のラッパを吹き、行列が動き出した。
「危なかったなあ。もうちょっと出てくるのが遅ければパレードの波に巻き込まれるところだった。」
セルーネが笑いながら言った。
「もうそろそろ祭りも終わりの時期に来ているんだが、なるほどこれではフロリア様も終了の挨拶なんて出来ないな。」
行列を見送りながらローランドがため息交じりに言った。パレードに参加する人々、沿道で声援を送る人々、祭りが始まった頃からその数は増えることはあっても減ることはない。祭りの初めには開始宣言、終わりには終了宣言を、国王フロリアが王宮のバルコニーで行うことになっているのだが、一ヶ月の予定の祭りの終わりが年ごとに少しずつ延びている。ここまで盛り上がっているというのに『終わります』とはなかなか言えないと、先日の御前会議でフロリアが冗談交じりに言っていたことがあるのだ。
「だがフロリア様としても、ここまで祭りが盛り上がっているのは嬉しいようだから、いいことなんじゃないか。」
「そうだな。それだけこの国が平和だと言うことだからな。」
さっきの話など、セルーネは忘れたように祭りを楽しんでいる。無論忘れているわけではないだろうが、自分を気遣ってくれているのだと思うと、今のローランドにとっては嬉しい反面申し訳ない気持ちが先に立ってしまう。
(確かに・・・セルーネの言うとおりだ・・・。)
結婚式のあと、カルディナ家に向かったローランドは、酷い噂が下火になるまで、ベルスタイン家の領地運営に関わらないことに決めたと父親と義弟夫妻に報告した。義弟夫妻は『お気遣いありがとうございます』と頭を下げてくれたのだが・・・。
『ローランド、それは誠か?』
父親は怒りに満ちた表情でそう尋ねた。
『はい、セルーネとあちらの両親も了承してくれました。』
『何を考えておるのだ!?』
『し、しかし・・・私が今領地運営に携われば、あのような酷い噂を流した者達の思う壺に・・・。』
『愚か者め!お前のしたことは、その噂を流した馬鹿者どもに屈したのと同じ事だ!お前に何らやましいことがないのなら、堂々と領地運営に携われば良いではないか!そのようなものは気遣いではない!ただのお前の自己満足だ!』
思いもかけぬ父の怒りに、さすがのローランドも後ずさりそうなほどだった。
『我が家のためなど余計なお世話だ!本当にお前は我が家のためにその決断をしたのか?そうではあるまい。ベルスタイン家の規模の大きさに怖じ気づいて、手を出したくなかったのではないか!?ええい、忌々しい!こんな愚かなことを言い出すとわかっていたなら、何があっても公爵家への婿入りなど許すべきではなかったわ!』
あんなに怒った父親の姿は初めて見たかもしれない。そして、怖じ気づいたのではないかと言われてすぐに言い返すことが出来なかった。
(私は・・・実家を隠れ蓑にして逃げ出しただけなのか・・・。)
あの日父親から激しい叱責を受けてから、ずっとそのことが頭から離れない。それは叱責を受けたからと言うより、父の言葉が全くの正論だからだ。
(私は・・・もっと堂々としているべきだったのだ・・・。)
カルディナ家のことを自分が気にかける必要など最初からなかった。だからあの噂が下火になるのを待って、セルーネに『自分も領地運営に加わり、2人で公爵家を盛り立てていこう、子供達のためにももっと頑張ろう』自分からそう申し出るべきだったのに、どうしてそれが出来なかったのだろう。
(私は・・・本当に怖じ気づいてしまったのか・・・。)
南門から出たところで、昼の鐘が鳴った。
「ローランド、屋台にいくぞ。うまそうな屋台がこっちは多いんだが、早く行かないとすごく混むんだ。」
セルーネに手を引っ張られるようにして、ローランドは屋台が並ぶ一角に来た。
「ここで席を取っておいてくれるか?適当に食べ物を買ってくるよ。」
セルーネはローランドを席に座らせ、食べ物を買いに行った。時間がかかるかと思ったが、それほどかからずに買えたらしく、すぐに戻ってきた。
「ふぅ、私が行った時には人が全然いなかったのに、買ってから振り向いたらすごい列が出来てたよ。運が良かったな。」
セルーネは両手にトレイを持ち、そこには肉の串やサンドイッチなどの食事と一緒にビールが載っている。
「え、ビールか!?」
「そうだよ。今日は天気がいいからな。青空の下で飲むビールは格別だぞ。ただし酔いが回るのが早いから、何杯もは飲めないけどな。」
セルーネははしゃいでいる。こんなに楽しそうなセルーネを見るのは久しぶりかもしれない。
つい先日も領地での揉め事があったばかりだ。そちらに行くまでの事態にはならなかったが、手紙のやりとりは何通にもなって、やっと解決したばかりだ。
(こんな時・・・私が一緒に領地運営を担っていれば・・・。)
ローランドはセルーネが頭を抱えているところを数え切れないくらい見ていた。なのに自分が一緒に領地運営をやるとは言えずにいた。あまりにも長いこと関わっていないので、今更自分の出る幕などないと思い込んでしまっていたのだろうか・・・。
(出る幕がないのはカルディナ家の方だ。あの家には私はもう必要ない。だがベルスタイン家は今私の家だ。愛する妻と子供がいて、義理とは言え両親も、使用人達もとても良くしてくれている。私が守らなければならないのはベルスタイン家だというのに・・・。)
セルーネに言われるまで、いや、父親が立ち上がるまで、自分が何もせずにいたことが情けない・・・。
(でもせっかくセルーネがこんなに楽しそうなんだし、私だけが暗い顔をしているわけにはいかないな・・・。)
考えるのは後だ。今は祭りを楽しもう。他でもないセルーネのために。
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