岬の突端までたどり着いたときは3人とも息を切らしていた。
「フロリア様、ここに一体何があるというのですか?」
カインがきょろきょろと辺りを見回しながら不思議そうに訊いた。フロリア様は暗い海を見つめたままじっと立ちつくしていたが、やがて少しずつ話しだした。
「昔・・・お父様にここまで連れてきていただいたことがありました・・・。あのころは今のようにモンスターに襲われることも少なかったから、海には夜の漁をする船がたくさんあって、水平線に漁り火が赤々と燃えていたわ・・・。とてもきれいだった・・・。でもそれも、もう見られないのですね・・・。」
今目の前に広がる海は真っ暗だ。モンスターの活動が活発化してから、とても漁になど出られる状態ではないらしい。
「あれからもう何年が過ぎたのかしら・・・・。王位を継いでからは、もう自由に外に出ることなど滅多になかったから、自然にふれることなんてほとんどありませんでした。王女に生まれたばかりに出会えなかったこと・・・。国王になったばかりに触れることが出来なかったもの・・・いったいどれくらいあるのでしょうね・・・。」
寂しげな背中だった。慰めの言葉をかけようとしたのか、カインがフロリア様の傍らに歩み寄ったその時、上空で何か不思議な音がし始めた。
「な、なんだ、あれは?」
驚いたカインは空を見上げたまま、ポカンとしている。一面の星空だったはずの上空には、今は不思議な光が満ち満ちていて、それがシューシューと音を立てているのだ。
「オーロラです。」
フロリア様が答えた。
「ああ・・・あのときもオーロラが見えたわ。今日と同じように。ほら、様々な色が移り変わっていく。なんて美しいのかしら・・・。」
そして私達のほうに向き直り、
「あなた達は、『北の大地の奇跡』って聞いたことはある?」
そういえば、王国に出てきた頃、町の人達がそんな話をしていたことを思い出した。だが、その奇跡が一体何なのか知っている人は誰もいなかったのだ。
「北の大地の奇跡と言われているのはね、このオーロラのことなの。今日ならきっと見られると思っていたわ。前にお父さまに連れてきていただいた時に、一度だけ見たことがあったの。その時も今日みたいなすてきな夜だった・・・。」
私達はしばしの間すべてを忘れてオーロラに見入っていたが、やがてフロリア様がぽつりとつぶやいた。
「大地の贈り物か・・・。」
「贈り物・・・ですか・・・。」
言いながら、カインはまだ呆然と空を見上げたままだ。
「そう・・・贈り物です。時として忘れてしまうけれど、自然はこうしてわたくし達人間の営みをいつも見守ってくれているのですね。」
そしてくるりと私達のほうを振り返り、
「二人ともありがとう。さあ帰りましょう、カイン、クロービス。おかげで元気が出てきました。」
そう言ってにっこりと微笑まれた。
帰りは思ったより早く城まで戻ることが出来た。幸運にもモンスターに全く出会わなかったのだ。私達は城の裏門からそっと中庭に入り、先ほど出てきた裏口のほうを窺った。どうやら私達がここを抜け出すために鍵を開けたことは、誰にも気づかれていないらしい。ぐずぐずしてはいられない。万一、ユノが目を覚ましフロリア様がいないことに気づけば大変なことになる。
「大丈夫みたいだな。」
カインが注意深く辺りを見回しながら小声で言った。
「用心するに越したことはないよ。今度は私が見てくる。」
斥候を引き受けて静かに入り口のほうへ踏み出す。裏口のまわりには誰もいない。試しにそっとドアを開けて中を窺うとやはり人気は感じられない。大丈夫のサインを送ろうと、カインとフロリア様のいる方向を振り向くと、カインはフロリア様の隣で、愛しそうにフロリア様の横顔を見つめている。
(ああ、そうか・・・。)
何となくわかったような気がした。乙夜の塔に私達だけで調べに行こうとした理由も、フロリア様の願いを聞き入れて危険な『ナイトハイキング』に出かけた理由も、そして岬にむかう間のあの気が気でなさそうな視線も・・・。
でも・・・、フロリア様がカインに優しい視線を返したように見えたのは・・・私の見間違いだろうか・・・。私の視線に気づいたのかこちらを振り向いたカインに合図をして、私達は用心しながら中に入り、しっかりと錠をおろした。
「しかし、こんな所に備品の納入口があったとは知らなかったな・・・。」
カインが扉を見ながらつぶやく。
「ここから納入された物はすべてこの塔の地下にある倉庫に運ばれるそうです。この塔の警備は剣士団入団後3年以上の信用できる者しか出来ませんから、不正使用を防ぐ意味があるのです。」
フロリア様が説明してくれた。
「な、なるほど。納得いたしました。私はてっきり、こういう倉庫などはすべて執政館のほうにあるものだとばかり思っていたものですから・・・。」
カインがまたまた赤くなりながらフロリア様に頭を下げる。
「カイン、急ごう。時間がないよ。」
私はいささか焦っていた。フロリア様と親しく話が出来る機会など、この後また巡ってくることがあるとは思えない。そう考えれば、今この時は確かに得難い時間ではあったが、フロリア様をなんとしても夜のうちに部屋まで無事に送り届けなければならない。
「あ、ああ、すまん、クロービス。フロリア様、急ぎましょう。お部屋まで送らせていただきます。」
カインは残念そうだったが、かまっている時間はない。私達は密かに、しかし素早くフロリア様の部屋に向かった。音を立てないようにそっとドアを開ける。
「カイン、クロービス、もしあのときあなた達が乙夜の塔にこなかったら、わたくしは一人で外に飛び出していたかもしれません・・・。どうしても・・・どうしてもオーロラを見たかった・・・。でもきっと、あっという間にモンスター達に食い殺されてしまったでしょうね・・・。それでもいいと、心のどこかで思っていたような気がします・・・。でもそれはやっぱり無責任な考えです。今夜の小さな旅は、わたくしにいろいろなことを教えてくれました。この大地が、想像もつかないような大きさでわたくし達を包んでくれていると言うこと。そしてわたくし達も、この大いなる自然を守っていかなくてはならないということ・・・。今、やっぱりこの国の王に生まれてよかったと思っています。この国の王として、大地と、そこに生きとし生けるものすべてを守っていきたい・・・これからもずっと・・・。」
「守っていきましょう。私達もお手伝いします。」
カインが意気込んで答えた。カインはフロリア様の掲げる理想にすっかり心酔しているようだ。そして多分、フロリア様自身にも・・・。
「ありがとう。明日からまた、王としての毎日が待っているけど、あなた達のおかげでがんばれます。」
晴れやかな笑顔を見て、うれしさが込みあげてきた。この笑顔のためならばなんでもしてあげたいと思った。フロリア様は、カインと私の手を取るとしっかりと握りしめた。
「カイン、クロービス、言葉では伝えきれないけど・・・今日は本当にありがとう。わたくしは今夜のことはいつまでも忘れません。」
「身に余る光栄でございます。」
私達は深々と頭を下げた。感動で胸がいっぱいだった。そしてふと、フロリア様にどうしても弁明したくなった。剣士団の仕事・・・楽しいかどうかなどまだわからない。でも私はここで生きていくと決めたはずだった。
「あ、あの、フロリア様・・・。」
「なあに?クロービス。」
フロリア様はにこやかに返事をして私を見た。
「あ、あの・・・私は、この剣士団の仕事が楽しいかどうかまだわからないけど・・・ここで、生きていきたいと思っています・・・。」
「クロービス・・・。」
隣で聞いていたカインの顔に喜びの表情が広がる。
「そう・・・嬉しいわ、そう言ってくれると。」
フロリア様は微笑んでそう答えてくれた。
「それじゃ、おやすみなさい。」
「おやすみなさいませ。」
ドアの向こうにフロリア様が消えていくのを見送って、階段を下りようとしたその時、私達の耳にピアノの音が聞こえてきた。
「ピアノの音か・・?これは・・・。」
カインが辺りを見回す。
「そうだね・・・フロリア様が弾いてらっしゃるのかな・・・。」
私達は少しの間、その美しい音色に聞き入った。そして気がついた。この曲・・・!この曲は・・・・「Lost Memory」・・・!!なぜこの曲をフロリア様が・・・・。
「おい、クロービス、いくぞ。」
いつの間にか立ち止まったままフロリア様の消えたドアのほうを凝視していた私を、カインが訝しげに見ている。
「あ、ごめん。今いくよ。」
もうすぐ見張りの交替の時間のはずだ。私達は静かに階段を降り、うまい具合に誰にも見つけられることなく、ドアを抜けて自分達の宿舎に戻っていった。それぞれがフロリア様との甘い思い出を胸に抱きながら・・・。
もし私がこのとき、自分の見る夢が持つ意味に少しでも気づいていたなら、夢の中の少女がフロリア様であったらしいと気づいた時点で、もっと疑問に思ってもよかったのだろう。なぜ会ったこともない、そしてまた出会う可能性など極めて少ないであろう王家の姫君のことなどをこんなにも長い間夢に見ていたのかと。それもただ単に「バルコニーで月を見ている」と言うだけの他愛ないことが、なぜ何度も夢に出てきていたのか。そして・・・あの、最後の悲鳴は一体何であったのかと・・・。
だが今更言ってみても始まらない。この夢にどれほど恐ろしい事実が秘められているかなど、その時の私には知るよしもなかった。しかし知っていたところで私になにが出来たろう。そして今となってはもう過ぎてしまったことなのだ。
思い出から現実に引き戻され、私は改めて先ほどの夢のことを考えてみた。あれから20年、時々不思議な夢を見ることはあったが、これほどはっきりとした「奇妙な夢」を見たのは久しぶりだ。だが・・・、今朝見た夢は、昔よく見ていた夢とは少しばかり様子が違っていた。あの頃見ていた夢の中では、私にはいつも少女の姿がはっきりと見えていた。幼いながらも息をのむほど美しい少女の横顔も。そして銀色の光で少女を照らし出す美しい満月も。バルコニーにそよぐ風のさわやかさまでが感じられるようだった。だが、今朝見た夢はすべてが闇に閉ざされていた。声は聞こえるのに姿は・・・いや、姿どころかまわりのすべてが漆黒の闇に沈み、何ひとつ見えなかった。それがいったい何を意味しているのだろう・・・。
(もしあの声がフロリア様の声だったとしたら・・・・)
あの事件の折りにカインを死なせてしまったことが、未だにフロリア様の心に重くのしかかっていると言うことなのだろうか。だがあのとき死んだのはカインだけではない。当時の剣士団長パーシバルさんもそうだ。そしてあの事件の3年前にハース鉱山で殺された鉱山責任者デール氏は、私の妻の父親だ。さらに数え切れない人々が犠牲になった。そしてその中には私の父であるサミルも含まれるかもしれない・・・。
今のエルバール王国の繁栄は、あのとき死んでいった彼らの屍の上に築かれたと言っても過言ではないくらいだ。なのになぜ今になって、あれほどまでにカインに対して怯えたように許しを乞い、嘆き悲しんでいるのか・・・。あの事件が、フロリア様の心の中で風化して消えてしまうなどと言うことは、決してないだろう。とはいえ、あの事件はもう過去の出来事ではないのか。確かにあの時はどうしようもなく、つらく悲しいばかりだった。この悲しみや苦しみが癒える日が来るなど、到底信じられないとさえ思えるほどだった。だが、それでも私達は必死でそれを乗り越えてきたはずではなかったのか。それにフロリア様は、あれからずっと変わらない慈愛に満ちたお心で王国を治めてこられたではないか。あれからずっと・・・・。もし、あの闇の中の声が本当にフロリア様のものだとしたら、そして私に助けを求めているのだとしたら、なぜ今ごろになって・・・・・・。
そのとき、隣で眠っていたと思っていた妻が私に声をかけた。
「クロービス、眠れなかったの?」
夢の謎解きに没頭していた私は驚いて振り返った。
「・・・あ、ああ・・・。」
思わず返事をしてしまったが、不安げに眉を寄せた妻の表情を見て、私は慌てて取り繕うように言葉を続けた。
「い、いや・・・。ちょっと早く目が醒めてしまってね。考え事をしていただけだよ。」
すると妻はくすっと笑って、
「そう?でも顔に書いてあるわよ。『悩み事があります』って。」
「え!?」
笑い飛ばすはずが、そのまま私は言葉に詰まり、黙り込んでしまった。
「あなたにそんな嘘は似合わないわよ。」
「・・・そうだね。」
否定することも出来なかった。妻には私のヘタな嘘など通じないらしい。
「もう20年も一緒にいたんだもの。あなたのことで私にわからないことなんて何にもないのよ。」
妻はおどけたように胸を反らして見せ、片目をつぶりながらにっこりと笑った。
「なーんてね。タネあかしをするとね、あなたが汗をびっしょりとかいてすごく不安そうに頭を抱えていたから、何か悩み事があるのかなって思っただけなの。」
そして急に真顔になって、
「無理にとは言わないけど・・・何があったのか話してくれると嬉しいんだけどな・・・。」
そう言って心配そうに私の顔をのぞき込む。
「・・・わかった。」
隠しておくことは出来そうになかった。それに一人ではいくら考えてみても何の解決にもなりそうにない。20年前、南大陸のカナという村で知り合ってからずっと共に生きてきた妻となら、何かよい考えが浮かぶかもしれない。
「・・・夢を見たんだ。」
「夢?」
「そう、夢だよ。・・・ただの・・・夢・・・。」
私は自分に言い聞かせるように繰り返した。
「・・・どんな夢だったの?」
私は、夢の一部始終を妻に話して聞かせた。聞いているうちに見る見る妻の顔が暗くなり、聞き終える頃には青ざめて下唇を噛みしめていた。そのまま重苦しい沈黙がしばらく続いた。
「あなたは・・・どう思うの?」
先に口を開いたのは妻の方だった。が、その声は苦しそうで、やっと喉の奥から絞り出したようだった。
「あなたはさっき、その夢が『ただの夢だ』と言ったわ。本当にそう思うの?」
「・・・わからないんだ・・・。」
「本当に?」
「・・・・・・・・・。」
「わからないのじゃなくて、認めたくない、そうなんじゃないの?」
何も言えなかった。全くその通りだ。たかが夢だと、今は平和な時代なんだ、夢なんて何の意味もないさと、笑い飛ばして忘れてしまえたらどんなに楽かしれない。もしかしたら私は、妻にそう言ってほしくて相談したのかもしれなかった。だが、現実はそうはいかないらしい。心の内をズバリと言い当てられ、言葉を失った私はただ黙って妻の顔を見つめ続けていた。
「ねえ、あなたの考えている本当のことを話してくれる?」
私は観念して、夢から覚めたあとずっと考えていたことをすべて話して聞かせた。ただ一つ、カインと二人、フロリア様を連れて漁り火の岬に向かったときの追憶を除いて・・・。
黙って聞いていた妻がゆっくりと口を開いた。
「私も・・・・。」
「私も、あなたの考えているとおりだと思う・・・」
妻の言葉に逃げ場を失ったような気がして、私は深くため息をついた。あの事件のあと、ほとんど夢を見ることはなくなっていた。とはいえ、今まで全くなかったわけではない。特に妻の見ているらしい夢を何度か私も見たことがある。亡くなった父親や、今も遠く南大陸で暮らす母親への思いがひしひしと伝わってくるような夢だ。そんな夢を見た日の朝は、妻はいつも妙に明るかった。心の内の寂しさを見せまいとしていたのだろう。そして私も、同じ夢を見たことは告げずにおいた。黙っている方が良いこともある。そうやって私達は、この島で長い間穏やかに暮してきたのだ。
「でも・・・なぜ・・・今頃になって・・・。」
妻がぽつりとつぶやく。私にも、それがどうしてもわからない。あの事件のあとすぐというならわかるが、あれから20年も経っているというのに。
「私にもわからないんだ。こんな夢を見たのは今朝が初めてなんだよ。」
「そうね・・・・。」
妻は少し首を傾げ、目を閉じて考えていたようだ。が、しばらくすると目を開け、眉を寄せてゆっくりと口を開いた。
「ねえ、もしかしたら・・・もしかしたらよ。こうは考えられないかしら。あれからずっと・・・フロリア様はエルバール王国のために生きてらっしゃるわ。自然を大事にしながら、ゆっくりと、でも確実に王国は発展している。そうすることがあのときの償いをするただ一つの方法だって思ってらっしゃるんだと思うわ。でも最近になってあの事件を、いいえ、カインの死を思い出させる何事かがフロリア様の身に起こった。そしてフロリア様は良心の呵責に苛まれあなたに助けを求めている・・・。」
「もし・・・君の言うとおりだとして、その出来事とは一体なんなんだろう?」
私の問いに妻はかぶりを振った。
「私にはそこまでわからないわよ。本人に直接聞くのが一番だけど・・・、そう言うわけにもいかないよね。」
「だろうね。そんな不確かな情報だけでフロリア様にお会いするわけにもいかないし、第一会わせてももらえないだろうしね。」
「そうよね・・・。」
今度は妻がため息をついた。
「こうやって私達二人が考え込んでみたところで、どうにもなりはしないわね。」
私も同じ意見だった。相手は一国の女王陛下だ。友達の家を訪ねるように気安くいくわけがない。
「でも、ほっといていいことかしら・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
私もほっておきたいわけではない。が、今のところ全く何も良い知恵が浮かばなかった。その時、妻が不意に顔を上げて叫んだ。
「ねえ!剣士団に入ってから初めての休暇っていつもらえるの?」
「え?な、なんで急にそんなこと・・」
なんの脈絡もないと思われるこの質問に私は面食らったが、妻はそんなことはお構いなしで詰め寄ってくる。
「いいから!ねえいつ?!」
「え、えーと・・あ、そうだ、確か3ヶ月もすればまとまった休暇がもらえると思う。もっとも昔と規則が変わっていなければの話だけどね。」
「じゃあ、カインも3ヶ月後には休暇がもらえるのよね?」
妻の質問の意味がやっと飲み込めた。
「カインに聞くつもりかい?」
「そうよ。3ヶ月も剣士団にいれば、フロリア様の普段の様子も少しくらいは耳に入ってくるだろうし、お会い出来る機会もあるかもしれないわ。」
「なるほどね・・・。でもなあ、確かにいい考えだとは思うけど、問題はカインが向こうで見たことや聞いたことをちゃんと憶えているかどうかだっていう気がするんだけどな。」
「ま、まあねぇ・・・本人は『王国剣士になって成功する』っていうことしか頭にないだろうから、他のことなんて何を聞いても右から左に抜けていってしまうかもしれないし・・・だからって『フロリア様の動向に注意して』なんて手紙を出したりしたらかえって怪しまれるしねぇ・・・。」
さすが母親だ。妻は自分の息子をよく知っている。
「でも、他に方法はなさそうだね。」
「そう思うわ。ねえ、とりあえずカインが帰ってくるのを待ってみましょう。休暇がもらえたらちゃんと帰ってくるように手紙を出しておくわ。」
その時、ちょうど朝日が窓から差し込んできた。日差しに目を細めながら妻が大きく深呼吸をすると、拳を振り上げ大声で叫んだ。
「さあ、話が決まったところで、一日の始まりよ。とにかく動き出さなくちゃね。今日は暑くなりそうだから思いっきり洗濯するわよ!」
いつまでもうじうじと悩んでいても何も始まらない。妻の思いきりの良さに救われた思いで、私も腰を上げた。
「よし、では私は着替えてから花壇に水を撒いてくるよ。」
「お願いするわ。食事の支度をしておくわね。」
着替えをすませると、にっこりとほほえんで妻は急いで寝室を出ていった。
私が着替えを終えて外に出るころには、もう朝日が高く昇っていた。バケツにいっぱいの水をくみ、花壇の端からひしゃくで丁寧に水をかけていく。それほど広い庭ではないが、水の入ったバケツを持ったまま少しずつ移動していかなければならないこの作業は、けっこうな重労働だ。この花壇に植えられている花は、皆私の父が植えたものだ。父が亡くなって私がこの島を去ってからは、島の人達が交替で世話をしてくれていた。そのおかげで、私が再びここに戻ってきたとき、庭に咲き乱れる色とりどりの花々に大いに心を慰められたのだった。花に水をやりながら、私の頭の中にはまた今朝方の夢のことが浮かんできたが、今はもう思い悩むまいと心に決めていた。その時々で自分に出来る最善を尽くすほかはないのだ。そして今私には何も出来ない。せいぜい息子が帰ってきたときにフロリア様の様子を聞いてみることくらいのものだ。そして息子が帰ってくるのは早くてもあと3ヶ月は先である。花壇の端まで水を撒きおわって一息ついていると、妻が私を呼びに来た。
「食事の用意が出来たわよ。」
「今いくよ。今日は忙しくなるかな。」
「うちの仕事なんて暇なのが一番いいんだけどね。」
妻が笑いながら言った。
私は、この島で医者をしていた父のあとを継いでいる。あの事件のあと王国剣士を辞し、父の遺した研究を完成させるべくここへ戻ってきた。父が元気だったころ、簡単な薬草の調合方法や治療術を教わってはいたが、医師として仕事が出来るほどの技術は私には全くなかった。だが父の死後、この島にはずっと医者が不在だったこともあって、一刻も早く診療所を再開してほしいと村の長老から頼まれていた。結局父の助手をしていたブロムおじさんが、医師として診療にあたってくれることになり、私は彼から医療技術の手ほどきを受けることになった。そしてそれからずっとおじさんは私を手伝ってくれている。私には父親同様の人だ。彼がいなければここまでやってはこれなかったろう。ブロムおじさんは、助手と呼ぶにはふさわしくないほど医学の知識と技術に精通していた。私などよりもよっぽどこの診療所の『医者』としてふさわしい。実際、薬草学の知識では私は未だに彼に遠く及ばない。
「ブロムおじさんは来てるのか?」
「とっくにお待ちかねよ。」
ブロムおじさんとは食事をいつも一緒にとる。すぐ近くに住んでいるのだが、もう老齢なので出来るだけ目の届くところにいてほしかった。本人は年寄り扱いされるのを嫌がり、再三同居を申し出ているのだが未だに首を縦に振ってはもらえないでいた。
食堂のドアを開けると、ブロムおじさんがにっこり笑って迎えてくれた。昔はいつも 暗い表情をしていて、笑ったところなど一度も見たことがないような人だったが、私達が結婚してカインが生まれた頃から、少しずつうち解けた笑顔を見せてくれるようになった。
「おはよう、クロービス。今朝は少し遅いんじゃないか?」
「うん、寝坊しちゃってね。」
夢のことは言わずにおいた。よけいな心配をかけたくはない。
「ははは、お前らしくないな。」
今のところブロムおじさんは何も気づいてないようだ。
「さあ、いただきましょう。せっかくの食事が冷めてしまうわ。」
妻の声に促され、私達は食事を始めた。他愛のない会話を交わしながら、私は心の底で、今朝のような夢をもう二度と見ないで済めばいいと、切に願っていた・・・・。
その日のうちに、妻がカインに手紙を書いた。休暇が取れ次第、顔を見せるようにとの内容だ。そして約3ヶ月後、カインからの休暇の知らせが届いた。
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来週の始め、祭の前には帰ります。
よろしく。 カイン
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一日の仕事が終わり、その日届いた手紙の束を整理していた妻がうれしそうな声をあげた。
「クロービス、カインからよ。来週帰ってくるって。」
「そうか・・・。」
「それだけ?」
妻は明らかに不満そうだった。
「え??」
「王国剣士になった息子が入団後初めて帰ってくるっていうのにそれだけなの?」
「あ、ああ・・・楽しみだね・・・。」
妻はあきれたようにふぅっとため息をつき、
「・・・全然楽しそうには見えないわね。気持ちがわからないわけじゃないけど、今は素直に我が子の帰りを喜んでほしいものだわ。」
カインが帰ってくれば、フロリア様の様子を聞かねばならない。あれからたびたび同じ夢を見るようになっていた私には、喜ばしいはずの息子の帰りが、何か恐ろしいことを宣告されるかのような重苦しいものに思えてしまっていた。
「クロービス、あまり一人で気に病まないで。あなたのそばには私がいつもいるんだから。」
「ありがとう、ウィロー。・・・悪かったよ。夢のことばかり考えていて、他のことを見失っていたみたいだ。」
ため息をつく私の肩をぽんと叩きながら、妻は私の顔をのぞき込みにっこりと笑った。
「いいのよ。さあ、来週は忙しくなるわよ。」
「おいおい、ついこの前まで一緒に暮らしていた奴が戻ってくるだけのことなんだから。そんなに忙しくなるとは思えないけどな。」
妻がやたらと気負っているように見えて少しおかしかった。
「あら、やっと笑ったわね。」
その言葉で、頬がゆるんでいる自分の顔に気づいた。今のは妻が私の緊張をほぐそうとしてわざとおどけて見せたのかもしれない。このとき私は、この女性が今自分のそばにいてくれることに深く感謝した。
「だってあの子のことだもの。帰ってくると決まったら、着るものが一枚もなくなるまで洗濯物をため込みそうで。船便で洗濯物だけ先に届くんじゃないかしら。」
「うーん・・・まさかそんなことは・・・ないとは言いきれないかもな。」
そのくらいのことはやりかねないちゃっかり者だ。私達は来週の初めになる前に、大きな荷物が届かないことを願いながらカインの帰りを待った・・・・・。
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