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プロローグ

 
 
 そこはねっとりとした闇の中だった。自分以外のすべてのものが消えてしまったかのように闇に沈み、何一つ見えない。ここがどこなのか、自分が立っているのか座っているのかさえわからなかった。言いようのない不安に体をすくませながら、勇気を振り絞って声を出した。
 
「誰かいませんか・・・。」
 
 だが確かに出したはずの声は、自分の耳にも聞こえたか聞こえなかったかくらいの弱々しさで闇に吸い込まれていく。
 
(これは夢なのだろうか・・・・。)
 
 夜の闇さえこれほどまでに暗くはないだろう。もし夢であるならいずれは覚める。その考えに慰められながら幾分落ち着きを取り戻してきた私の耳に、遠くから何かの音が響いてきた。
 
「・・・・・!」
 
 必死に耳を澄ませていると、どうやら音というより声のようだ。泣いているような叫んでいるような悲痛な声が、少しずつ私のほうに近づいてくるように次第にはっきりと聞こえてきた。
 
 ── ・・・・・・・イ・・・ン・・・
 
 ── ・・・カ・・・イ・・・ン・・・
 
 闇の向こうに向って私は叫んだ。
 
「君は誰だ??」
 
 だが声の主は私の呼び掛けに答えようとはしない。
 
 ── カイン・・・あなたは・・・私を許してはくれないのね・・・
 
(カイン?私の息子のカインのことか?)
 
 言いようのない不安が胸を締めつけ、私はもう一度叫んだ。
 
「君は誰だ?カインがどうしたんだ?答えてくれ!!」
 
 声の主はそれには答えず、
 
 ── 恐ろしい・・・・もう取り返しがつかない・・・・
 
 ── 誰も私を許してはくれない・・・・・
 
 そのまましばらく絞り出すようなすすり泣きが続いた。声の主はどうやら女性らしかった。が、声がこんなにもはっきりと聞こえるというのに、相手の顔も姿も闇に隠されて全く見えない。私は少しずつ背筋が寒くなっていくのをはっきりと感じていた。やがてすすり泣きが止み、しばらくしてまた声が聞こえてきた。
 
 ── 助・・・け・・て・・・・・・
 
 ── 誰か・・・・助けて・・・・・
 
「君を助けるにはどうすればいいんだ?言ってくれ!」
 
 私はなおも大声で叫んでみたがやはり声の主には聞こえていないらしい。
 
 ── あなたしか・・・いない・・・私を助けられるのは・・・あなたしか・・
 
 ──・・助けて・・・私を・・・私を・・・クロービス!!
 
 不安が恐怖に変わり、私は声を限りに叫んでいた。
 
「君は誰だ!誰なんだ!答えてくれ!!」
 
 叫んだところで目を醒ました。ぐっしょりと汗をかいていたが、その汗は妙に冷たく感じられ、寒気すらしていた。窓の外はいつの間にか薄明るくなっていた。朝が近いのだ。
 
「夢か・・・・・・・。」
 
 先ほどの恐怖がすべて夢であったことに安堵し、私は大きく深呼吸した。だが、どうしても不安を拭い去ることが出来ない。あれは一体誰だったのだろう、あの場所は一体どこだったのだろう・・・・。
 
 闇に隠れて何一つ見えなかった。だが最初かすかにしか聞こえなかったあの声は、最後には耳元で怒鳴られたような大きな声となって聞こえてきた。あんなにも大きな声が聞こえていたというのに、いくら闇の中とは言え近くに人の気配が全く感じられなかったし、私が声を限りに叫んでいた言葉も、声の主には全く届いていないようだった。そして気になることはまだあった。声の主は確かに「カイン」と呼んでいた。カインとは私の息子のことだ。息子の身に何かあったというのだろうか。カインはひと月ほど前、この島の南側に位置する広大な大陸を有するエルバール王国へと旅立った。小さい頃からの夢である王国剣士になるため、採用試験を受けに行ったのだった。そして一週間前、無事採用試験に合格したという知らせが届いた。と言っても、白い便せんに『無事、合格。やったぜ!』と書いてあるだけの、手紙とすら言えないような簡単なものであったが。
 
 入団したての新米剣士がそう危険な任務に回されると言うことは考えにくいが、カインは一本気な性格で、一度思い込むとわき目もふらず一直線である。功を焦って暴走でもして、何か事故にでも巻き込まれたのだろうか。何かあればすぐに知らせが来るはずだが、王国からどんなに急いでも何日かはかかるかもしれない・・・・・。不安は募り、考えがどんどん悪いほうへと流されて行きそうになったとき、
 
「・・・・・・・・!!」
 
私は重大なことに気づいた。最後に夢の中の声が呼んだ名前、あれは・・・私の名前ではなかったか・・・・。仮にカインに何かあったとして、その原因が女性で、しかも私に助けを求めるというのは、いささか無理がある考えだ。カインと聞いてすぐに自分の息子を連想してしまったが、私の早とちりだったかもしれない。だとすれば、我が子の身に何かあったと言うことではないかもしれない。ほんの少し安堵した私はもう一度夢の内容を整理してみることにした。
 
 あの声は「女性」で、「カイン」に許しを乞うていた。 そして私に助けを求めていた・・・・。
 
(・・・では・・・・まさか・・・・。)
 
 実のところ、『カイン』が自分の息子を指しているのではないかもしれないと気づいたとき、私の頭の中にはすぐもう一人の『カイン』のことが浮かんでいた。だが私はそれを無意識に否定しようとしていたような気がする・・・。
 
 それは、あの夢の中の声の主がしきりに許してくれと懇願していた「カイン」という人物が、20年前、私のかけがえのない親友だったあのカインであるかもしれないと言うことだった。他に私は「カイン」と言う名を持つ者を知らない。そして我が息子カインの名前は、この親友からもらったものだ。
 
 ではあの声は誰だったのか。『カイン』が誰なのかを推測出来れば、それも察しはつくことだった。だが口に出すのが恐ろしかった。認めたくなかったのだ。認めてしまえば、この夢を『たかが夢さ』と笑い飛ばすことが出来なくなってしまう。だが、もし私の考えたとおりだったら・・・・。再び不安が胸を締めつけ、私は思わず両手で顔を覆った。
 
(フロリア様・・・なのだろうか・・・。)
 
 フロリア様とは、エルバール王国を治める女王陛下の名前だ。20年前、私の親友だったカインはエルバール王国で起きたある事件の折りに命を落としていた。そしてフロリア様はその事件に深く関わっていたのだ。
 
(あの声がもしフロリア様の声だったとしたら・・・まさか・・・いや・・・そんなことが・・・・・。)
 
 私が自分の見た夢のことでこんなにも悩むのには訳があった・・・。私は小さな頃から奇妙に勘が鋭いことがあった。そしてある時期、私は他人の身に起こった知らないはずの出来事を夢に見るようになっていた。他人の記憶や強い願いが私の夢に投影されるのだ。
 
『夢による追体験』
 
 それは時として恐怖に震えるほどの恐ろしい現象だった。最初に見たのはずっと昔、私がまだほんの子供だった頃のことのように思う。夢を見るのが怖くて必死で起きていようと試みたこともあったが、睡魔は容赦なく襲ってきて私を夢の世界へと引きずり込んでいくのだった。幾度となく夢に悩まされ、脂汗をかいて飛び起きる我が子の姿を見るに忍びなく、医者であった父はいろいろな文献を読み漁って、原因を突き止めようとしてくれていたようだ。亡くなった父の話によれば、私は子供のころに重い病気を患ったらしい。毎日高熱にうなされ苦しんでいたが、大手術の末に助かったということだった。父は、この現象がその病気の後遺症によるものかもしれないと考えていたらしいが、結局わからずじまいだったのだろう。私は父からその件について、いや、そもそも私が患った病気が何だったのかさえ知らされてはいない。
 
 


 
 
 そのうち、時々同じ夢を見るようになっていることに気がついた。夢の中には幼い少女がいて、石造りのりっぱなバルコニーに立ち、月を眺めている。美しい満月の夜だ。しばらくすると少女はかわいらしいあくびをし、階下へ降り始めた。これから眠りにつくのだろう。ゆっくりと階段を降りて行き、やがて姿が見えなくなった瞬間、少女のものらしい恐ろしい悲鳴が闇を引き裂いた。いつもそこで目が醒めた。そしていつも汗をびっしょりとかいていた。夢の中で、私はなんとか少女を引き留めようと必死に語りかけていた。だが少女には私の声が聞こえないらしい。
 
(階段を降りてはいけない。行っては行けないんだ。何かわからないけれど恐ろしいことが待っているんだ。)
 
 私がいくら必死で叫んでも少女には届かない。そしてまた悲痛な叫び声だけが響いてくるのだ。その夢の中に出てきた少女が実は、エルバール王国の女王フロリア様であったらしいと言うことを知ったのは、20年前のあの事件の少し前だった。当時私は王国剣士として正式に採用されたばかりで、先輩剣士のカインとコンビを組むことが決まって、剣士団宿舎の食堂で歓迎会をしてもらった。その日の夜の出来事だった。
 





 
 
 夜更けに私はカインに起こされた。
 
「おい、クロービス、起きてくれ。」
 
 ぐっすりと眠っていた私は、突然体を揺さぶられ、驚いて飛び起きた。
 
「な、何??どうしたの??」
 
 寝ぼけまなこで答える私にカインは
 
「おかしいんだ。こんな夜中だというのに乙夜の塔に誰かいるみたいなんだよ。」
 
「乙夜の塔?」
 
「ああ、俺達が今いる王宮の裏側に建っている、フロリア様のお住まいがある棟だ。あの場所に、こんな時間に人がいるなんてことがあるはずはないんだ。」
 
 エルバール王宮には、王国剣士団の本部や宿舎がある王宮本館の奥に、通常政治を執り行う場である執政館があり、さらに執政館から西側にむかって細い渡り廊下があり、その先にはフロリア様のお住まいがある別棟があった。その建物は乙夜の塔と呼ばれていた。
 
「ま、まさか、賊が入り込んだのかな??」
 
「わからん。乙夜の塔の入口には夜勤の剣士が見張りに立っているはずだし。とにかく俺達で行って確かめてみたいんだ。行こう。」
 
 有無を言わせぬカインの口調に妙な感じがしたものの、とにかく放って置くわけにもいかない。
 カインと私は不審な影の正体を見極めるべく、そっと宿舎を出た。
 
 
 王宮内は静まりかえっている。
 
「まさか王宮の中から渡り廊下を通って忍び込んだ、なんてことはないかな。」
 
 私の疑問にカインは、
 
「今の時間、正面玄関は閉まっている。鍵もかけられているし見張りも立っているはずだ。ここから入ってくるってのはちょっと考えにくいな。」
 
「そっか・・・するとやっぱり外からだね。」
 
「俺もそう思う。もし賊が入り込んだとすればの話だけどな。西側に非常階段があるんだ。そこから外に出よう。玄関に行ったりしたら俺達のほうが怪しまれてしまうからな。」
 
 非常階段を下りると、すぐそばに乙夜の塔が見えたが、そこへまっすぐ歩いていける道はなかった。敵が攻め込んできた場合、王のいる場所にすぐに辿り着かれないようにと、曲がりくねった道はさらに人工的な池や小川で区切られている。だが今はそこに小さな橋が架けられ、遠回りをすれば乙夜の塔の前には容易にたどり着くことが出来た。
 
 
 美しい満月の夜だった。銀色の月の光が柔らかに王宮の庭を照らし出す。塔の入り口には誰もいない。
 
「おかしいな。見張りの剣士はどうしちゃったんだろう。」
 
 カインがつぶやく。
 
「まさか・・・賊に倒されたとか?」
 
 私は不安になった。王国剣士をいとも簡単に倒す賊など私達の手に負えるのだろうか。
 
「バ、バカ!縁起でもないこと言うなよ!ここの見張りに立っている剣士達は最低でも入団3年以上の腕の立つ人達ばかりだぞ!そう簡単にやられてたまるか!」
 
「そ、そうか。そうだよね。ごめん、変なこと言って。」
 
「あ、いや、別にお前が謝ることじゃないけどな。しかし、おかしいな。様子を見に行こうにも、へたに出ていってこっちが賊と間違われたりしたらそれこそいい恥さらしだし・・・」
 
 カインは考えあぐねている。
 
 その時、入り口の隣にある剣士団詰所のほうで声がした。どうやらちょうど交替の時間らしい。引継中なのだろうか。
 
「何だ、交替の時間だったのか。」
 
 カインはほっとしたようにため息を漏らしたが、
 
「ちぇっ。交替だからって入口を空っぽにするなんて。だから賊が入り込んだりするんだよ。」
 
詰め所のほうを睨みながら忌々しそうに舌打ちをした。
 
「どうする?夜勤の人達に報告して一緒に行こうか?」
 
 私の提案にカインは、
 
「いや、この際だ。俺達新米剣士だってやるときゃやるんだってところを見せてやろうぜ。」
 
「本気なの?」
 
「ああ、本気も本気だ。なんだよ、お前怖じ気づいたのか?」
 
「い、いや、そんなんじゃないよ。わかったよ。一緒に行くよ。」
 
 入りたての私はともかく、カインの他にあと二人の入団して間もない新人剣士達は、何かにつけ「若手剣士」「新米剣士」と、剣士団の他の団員達よりも明らかに軽んじられていた。カインはそのことで、いつも悔しい思いをしていたらしい。今は自分達の実力を剣士団にアピール出来る絶好の機会かもしれないと言うことなのだろう。私はカインの意見に従うことにした。
 
 
 私達は足音を忍ばせて塔の入口に近づくと、詰所の剣士達に気づかれないうちにと、素早く扉を少し開けて中に滑り込んだ。このとき夜勤の剣士達に報告をしなかったことが、このあとカインと私を思いもかけない冒険に導いていくことになろうとは、このときの私は夢にも思わなかった。足音をたてないように密かに階段を上がり、カインが不審な影を見たという塔の最上階にあるバルコニーにたどり着いたとき、私は驚きで思わず声を上げそうになった。この場所こそ、幾度となく私の夢に現れたあの場所に違いなかったからだ。月明かりも、バルコニーも、何もかもが私の見ていた夢と同じものだった。だが・・・もう一つ足りないものがある。月明かりの下にたたずんでいた少女だ。ここが夢の中と同じ場所なら、あの少女もここにいるはずである。
 
(あの少女はどこに・・・)
 
 白々と月明かりに照らされたバルコニーに少女の姿を捜す私の目に、人影が映った。だが背丈を見る限りでは小さな少女ではないようだ。月明かりだけでは着ている服や性別までは判別出来そうにない。人影は入り口のほうに背中を向けているので、私達には気づいていないらしい。カインが私に剣を構えるよう目で合図しながら、そっと人影の後ろに忍び寄っていった。
 
「誰だ!!」
 
 剣を振りかざしてカインが叫んだ。人影はびくっと肩をふるわせて驚いたように私達のほうを振り返ったが、もっと驚いたのはカインのほうだった。
 
「フロリア様!?」
 
 カインの叫びに今度は私が驚いた。塔のバルコニーにいたのは、なんとフロリア様だったのだ。
 
「あ、あなた達は・・・!?」
 
 構えた剣が満月を映してぎらりと光る。その光におびえたように後ずさりしながら、フロリア様が口を開いたとき、私達は自分の構えた剣に気づき、慌てて鞘に収めながらフロリア様の前にひざまづいた。
 
「お、王女様!どうしてこんなところに・・・」
 
 フロリア様が即位されてからすでに18年が過ぎていたが、いつも慈愛に満ちてお優しいフロリア様のことを、国民は親しみを込めて「王女様」と呼んでいた。
 
「・・・剣士団の方達ですね。」
 
 フロリア様の顔に安堵の色が広がる。
 
「も、申し訳ございません!乙夜の塔に人影を見つけ、このような夜中にもしや賊でも忍び込んだかと、確かめに参りました。まさかフロリア様とは存じませず、大変ご無礼いたしました。お許しください。」
 
 カインは真っ赤になりながら、額を地面にこすりつけんばかりに頭を下げた。私はと言えば、カインと一緒に頭を下げてはいたものの、頭の中では全く別のことを考えていた。この場所は間違いなく夢の中に出てきた場所だ。だがここにいたのがフロリア様なら、あの小さな少女はどこへ行ってしまったのだろう・・・。その時フロリア様がゆっくりと口を開いた。
 
「よかった・・・。さあ、二人とも顔をお上げなさい。」
 
 カインと私がほっとして顔を上げると、そこにはフロリア様の美しい慈愛に満ちた微笑みがあった。
 
「さっきは驚いたわ。いきなり剣を構えて立っているんですもの。」
 
「も、申し訳ございませんっ・・・!!」
 
 またカインが頭を下げた。月明かりの下ではよく見えなかったが、さぞかし冷や汗をたっぷりとかいていたことだろう。
 
「いいのですよ。あなた達が王宮の警備に心を配ってくれていることを知り、とてもうれしく思っています。あなた達は・・・カインと・・・確かクロービスでしたね。パーシバルから聞いていますよ。今年は有望な若手が入ってきたので楽しみだと。」
 
「お、憶えていただけていたとは・・・こ、光栄でございます。」
 
 ますます顔を真っ赤にしたカインが今度はうれしそうに頭を下げた。
 
(この方がフロリア様・・・。)
 
 蜂蜜色の髪。淡いブルーの瞳。月の光に照らされて透けるように白い肌・・・。城下町で美しい方だという噂を聞いてはいたものの、本物のフロリア様を間近で見て、私はすっかり上がってしまい、無遠慮にフロリア様の顔をまじまじと見つめ続けていた。本来ならば雲の上のお方だ。だが、今は手を伸ばせば届く距離においでになる・・・。それだけで、フロリア様との距離が少しだけ縮まったような気がして、私はここへ来たときから頭の中でわき起こっていた疑問の答を見つけるべく、思いきってフロリア様に尋ねた。
 
「フロリア様、失礼かとは存じますが・・・、ここにはどのような御用で・・・?」
 
 しばらくフロリア様は黙っていたが、
 
「・・・ここに来たのは・・・月を見るためです。」
 
「月・・・ですか??」
 
 きょとんとした私達の顔を交互に見て、にっこりと微笑まれ、言葉を続ける。
 
「何かつらいことがあったり、耐えられない孤独感に苛まれているとき、わたくしはいつもここに月を見に来るのです。美しい月を見ていると、不思議と心が安らぐのですよ。子供の頃からずっとそうでした。」
 
 そう言って月を見上げるフロリア様の横顔に、何となく見覚えがあるような気がした。そしづいた。夢の中の少女に似ているのだ。私はなんとか繋がりかけた糸をたぐり寄せようと、なおもフロリア様に問いかけた。
 
「それは・・・お小さい頃からずっとですか?」
 
「はい。もうずっと小さな頃から・・・。父がまだ・・・元気だった・・・頃から・・・。」
 
 不意に言葉がとぎれ、フロリア様の横顔に影がよぎった。
 
「お、おい!クロービス。根ほり葉ほりお聞きするのは無礼だぞ。フロリア様がお気を悪くされたじゃないか!」
 
 カインが慌てて私をたしなめた。
 
「も、申し訳ございません。調子に乗ってご無礼いたしました。」
 
 今度は私が赤くなって頭を下げる番だった。
 
「いえ・・・いいのですよ。」
 
 このときのフロリア様の微妙な変化に、どんな意味が含まれていたのかを知ったのはもっとずっと後のことだった。この時の私はそんなことよりも、夢の中の少女がフロリア様の幼い頃の姿であったらしいと言う驚くべき事実にとらわれていた。
 
「でも、今夜はそれだけではないのです。わたくしにとってずっと待ち続けた夜・・・」
 
 言葉の意味をはかりかねてカインが口を挟む。
 
「あ、あの・・・それはどういう・・・・・・。」
 
 フロリア様はそれに応えず、まっすぐに月を見つめ続けていた。その横顔は一心に何かを思いめぐらせているように見えた。
 
「とにかく、もう夜も更けてきました。フロリア様、お部屋までお送りいたします。」
 
 答をあきらめたカインがなだめるようにフロリア様に声をかけ、城の中に戻ろうとしたそのとき、
 
「待って!」
 
 フロリア様が叫んだ。
 
「あなた達にお願いがあるのです!」
 
 振り向くと、先ほどまでの暖かい微笑みとはうってかわって、思いつめたような真剣なまなざしが私達をとらえた。
 
「な、なにか・・・?」
 
 私達は突然のフロリア様の変化にとまどいながらも、吸い寄せられるようにフロリア様の前に再びひざまづいた。
 
「あなた達にこんなことを頼んではいけない、それは充分にわかっています。でも・・・!!」
 
 そこでフロリア様はいったん言葉を切り、下唇をかみしめ目を閉じて深く息を吸い込んだ。そして再び目を開いてまっすぐに私達を見つめていたが、やがて思い切ったように口を開き、言葉を続けた。
 
「わたくしを・・・これからわたくしを、漁り火の岬まで連れて行ってください。」
 
「え!?これから・・・ですか?」
 
 あまりの突飛な申し出に、カインは目を大きく見開き問い返した。
 
「そうです。今、これからです。」
 
 私達は答につまり、顔を見合わせた。こんな夜中に、新米剣士が二人護衛についただけで王宮を抜け出すなど無謀なこととしか言いようがなかった。カインとて一応私の先輩剣士ではあるが入団時期は私といくらも違いないのである。いかに『実力を見せつける機会』とは言え、フロリア様に万一のことがあれば、エルバール存亡の危機にもなりかねない。せっかくのフロリア様の頼みではあるが、ここは断らねばならないだろう。私はフロリア様のほうに向き直って口を開こうとしたが、そのまま言葉を飲み込んでしまった。フロリア様の目に、並々ならない固い決意を見たからだ。カインもどうやら同じことを感じていたらしい。
 
「・・・わかりました。漁り火の岬までお供させていただきます。」
 
 私より先にカインが口を開いた。
 
「若輩者ではありますが、わたくし達二人、身命を賭して王女様をお守りいたす所存でございます。わたくし達から決して離れませぬように。」
 
 カインは腹をくくったようだ。
 
「いくぞ。」
 
 フロリア様の手を取りながらカインが私に声をかけた。もう何も言うまい。私も決意を固めた。こうなったらなんとしてもフロリア様を無事に漁り火の岬まで連れて行き、また必ずここに戻ってくるしかないのだ。そして無事戻ってこれたとしても、このことが露見すればいかにフロリア様からの頼みとは言え、罪を免れることは難しいだろう。その時ふと私は、フロリア様には専任の護衛の剣士がいたことを思いだした。
 
「フロリア様、ユノ殿はどうなさいました。」
 
 小さな声で私は聞いてみた。
 
「・・・ユノは・・・眠っています。明日の朝までは目を覚まさないでしょう。」
 
 もしユノがここにいれば、絶対にフロリア様を城の外になど出してくれるわけがない。フロリア様はそれを見越して、どうやら彼女の飲み物に睡眠薬を入れて飲ませたらしかった。
 
「だ、大胆なことをなさるんですね・・・」
 
 決死の脱出行の最中だというのに、私は思わず吹き出しそうになった。そして、物静かなように見えてこんな大胆なことをさらりとやってのける、不思議な魅力を持つ女王陛下を愛しいとさえ思った。やがて建物の出入り口が見えてきた。今度は外には夜勤の剣士がいるかもしれない。階段を下りきる手前の踊り場で立ち止まると、カインが声をかけてきた。
 
「クロービス、ここでフロリア様と一緒にいてくれ。俺は見張りがいるかどうかちょっと見てくるよ。」
 
 一人階段を下りていったカインは程なく戻ってきた。
 
「まずいな。さっき交替したばかりだから当分動きそうにない。」
 
 私達が入ってきたときに交替した夜勤の剣士は、まじめに仕事をこなしているらしかった。
 
「くそっ!ここの建物の中はわからん!どこかに裏口でもあればいいんだが・・・」
 
 カインが悔しそうにつぶやいた。元々フロリア様のお住まいであるこの場所には、剣士団入団後3年から5年ほどの経験と実績を積んだ剣士が何人か、交代制で警備についていた。私達はまだ、この場所の警備を任されるほどの年数も実績もなかったのだ。
 
「では、こちらから出ましょう。さあ、ついておいでなさい。」
 
 私達の会話を横で聞いていたフロリア様が、突然先に立って入り口とは反対の方向に歩き出した。慌てて後を追うと、フロリア様は私達を棟の裏側のさらに隅の方にある小さなドアの前まで連れて行ったのだ。
 
「ここは・・・?」
 
 私達はこんなドアのことなど全く知らなかった。
 
「王宮に物資を届ける商人達が使う通用口です。」
 
「以前中庭を散歩していたときにこの小さな入り口を見つけて、ユノに尋ねたことがあるのです。わたくし達が普段食べているものや着ているもの、さらにあなた達が身につけている武具などもすべてここから納入されるとのことでした。」
 
 そしてきょとんとしている私達の顔を交互に見て、
 
「ふふ・・・二人とも知らなかったようですね」
 
いたずらっぽい微笑みを浮かべながらそう言った。
 
「は、はい、全く・・・」
 
 カインは、しまったというように真っ赤になりながらやっと返事をした。いくら警備をしたことがない場所とはいえ、王国剣士ならばそのくらいのことは当然知っていなければならないことである。
 
「夜は商人は来ませんから、鍵がかけられているだけで見張りはここにはいないはずです。」
 
「で、では、わたくしが確かめましょう」
 
 先ほどの失態を取り戻そうとするかのように、カインが先に立ってドアの前に歩み寄った。ドアの向こうには誰もいないようだ。夜の闇に紛れて、私達3人はするりと城の庭に出た。うまい具合に雲が満月を隠してくれている。
 
「ありがたい。さあ、裏門から外へ向かいましょう。」
 

 
 カインの先導で城の裏門から城壁の外に出た。夜の匂いのする風がふわりと吹きすぎていく。
 
「外にでるの久しぶりなんです、私。ああ・・・夜の風が気持ちいいわ!」
 
うれしそうに話すフロリア様の髪もさらさらとなびいていた。蜂蜜色の艶やかな長い髪は後ろでひとつに束ねられている。それが風にもてあそばれて、フロリア様のすぐ後ろを歩く私の頬をなでる。
 
「きれいですね・・・。」
 
 思わず言葉にだしてしまい私は顔を赤らめたが、
 
「そうね、ほんとうに。城の外の自然は城の中庭よりも何倍も美しいわ」
 
 どうやらフロリア様は私が景色のことを言ったのだと思ったらしい。その時私は、私とフロリア様のやりとりを聞いていたカインが、気が気でなさそうに何度も私達を振り返るのに気づいた。フロリア様の手を引いているのはカインなのに、フロリア様はずっと私と話をしていた。カインも話の輪に入りたいのかと声をかけようとした瞬間、私の足下にドスンと何かが落ちた。
 
「モンスターだ!!」
 
 カインが叫ぶ。足下に落ちたのはモンスターが投げた大きな石だった。
 
「フロリア様、私達の後ろにお隠れください!」
 
 カインと私は石の飛んできた方向に向かって、フロリア様を隠すように立ちはだかった。その時雲がさっと流れて、また美しい満月が顔を出した。月の光がモンスター達を照らし出す。アサシンバグの集団とコロボックルだ。石を投げたのはコロボックルの方だろう。こいつはどうやら一匹だけらしい。
 
「いいえ、わたくしも戦います。」
 
「無茶だ!私達が必ずお守りします。早く安全な場所へ!」
 
 押し問答の最中にもモンスター達は容赦なく攻撃を仕掛けてくる。スズメバチが大型化したモンスター、アサシンバグの毒針は危険だ。こいつに刺されるとあっという間に体中に毒が回り、動けなくなってしまう。ほっておけばすぐに死んでしまうだろう。私達の制止も聞かずフロリア様が呪文を唱え始めた。こうなったらとにかく素早くモンスター達を倒すしかない。
 
「クロービス、行くぞ!」
 
 言うより速く、カインの剣技「地疾り剣」が炸裂する。アサシンバグ達はたたき落とされ、コロボックルはいったん後ずさりをしたが、なおも攻撃を仕掛けようと挑みかかってくる。間髪を入れず私が風水術の呪文を唱えようとしたとき、どういうわけかモンスター達はへなへなとそこに崩れおち、がたがたと震えだした。後ろからフロリア様の声がした。
 
「もういいようですね。殺してはいけませんよ。」
 
 フロリア様の呪文の効果らしかった。モンスター達はすっかり戦意を喪失して地面を這うように逃げていく。
 
「は、はい。わたくし達は剣士団の入団式で「不殺」の誓いを立てた身でございますから。」
 
 どんなに凶悪なモンスターでも絶対に殺してはならない。王国剣士は入団時に皆フロリア様の前で「不殺」の誓いを立てるのだ。実のところ、二人ともそんなことはすっかり忘れて、ただ目の前のモンスターを倒すことしか考えていなかった。第一私は今日正式に王国剣士となったばかりで、不殺の誓いをたてるのは明日の予定だったのだ。だが、それを見透かされまいとカインが慌てて取り繕った。
 
「今の呪文は・・・??」
 
「あれは王位継承者が代々受け継ぐ奥義の一つです。組み合わせ一つで相手を殺すことも出来ますが・・・わたくしは命ある者を、たとえモンスターであろうとも殺したくはありません。今唱えた呪文は怖がらせて逃げ出すように仕向けるだけのものです。あのモンスター達は二度と誰かを襲おうとはしないでしょう。」
 
「お怪我はありませんか?」
 
 私はドレスの裾に付いた泥を払いながらフロリア様に声をかけた。
 
「ありがとう。わたくしは大丈夫です。昔は結構出歩いたりしていたし・・。剣士団の方達はいつもこうして戦っているのですね。」
 
「・・・仕事ですから。」
 
 我ながら素っ気ないとは思ったが、気の利いた言葉が見つからなかった。
 
「とにかく先を急ごう。またあんなのに出てこられたらまずいからな。クロービス、行くぞ。さあ、フロリア様、お手を・・・。」
 
 カインがまたフロリア様の手を取りながら歩き始めた。
 
 
 歩きながらフロリア様がカインに聞いた。
 
「カイン、剣士団のお仕事は楽しいですか?辛いことなんてない?」
 
「はい!私は本当にやりがいのある仕事だと思ってやらせていただいております」
 
 カインが誇らしげに答える。
 
「ふふ、カインは本当にその通りみたいね・・・。クロービス、あなたは?」
 
 カインとは対照的に、私は言葉に詰まってしまった。楽しいかどうかなど考えてみたことはなかった。王国に出てきたものの仕事が見つからず、最初は食べていくために入団試験を受けようなどと考えていたくらいだ。無事に正採用となって先輩達に歓迎してもらった今では自分なりにこの仕事をがんばっていこうと考えてはいるが、カインのようにはっきりとした目的意識などない・・・。自分がなんだか情けなく思えて、私はただ黙り込んでしまった。
 
「おい!クロービス、返事しろよ!」
 
 カインが場を取り繕うように私をせっつく。
 
「はい・・・実を言うとまだ、よくわかりません。」
 
「おいおい、そんな言い方はないだろう。」
 
 カインが言いながら私をにらんだ。カインは本当にこの仕事に打ち込んでいるのだ。その相方が何も考えていないと知れば怒るのも無理からぬことだろう。
 
「ふふふ、いいのですよ。クロービスはまだ剣士団に入ったばかりでしたね。」
 
「は、はい・・・申し訳ございません。」
 
「謝ることはないわ。それにここはもう王宮ではないのだし、そんなにかしこまらないで、お友達のように普通に話してくれて良いのですよ。」
 
「あ、ありがとうございます。」
 
 ほとんど同時に私達は返事をしていたが、だからといって急に緊張を解くことは出来なかった。漁り火の岬が近づいてきた頃、フロリア様がぽつりぽつりと話し始めた。
 
「・・・わたくしはわずか6歳でエルバール国王として即位しました。父であった先王が若くして急死したためです。何もわからないわたくしを、大臣達はよく助けてくれましたが・・・来る日も来る日も帝王学を学ばせられ、女の子らしい遊びも覚えず、友人を作ることも出来ず、この18年間をずっとそうやって過ごしてきました。同じ年頃の人達と話すことさえ滅多にないのですよ。」
 
「しかし、ユノ殿は確かフロリア様とそれほど年は違わぬはずではありませんか・・・?」
 
 カインが意外そうに口を挟む。フロリア様は寂しそうに微笑むと、言葉を続けた。
 
「ユノは・・・護衛剣士として申し分なくよくやってくれていますが、彼女にとってわたくしはあくまでも『護衛の対象である国王』であってお友達ではないのです。彼女と、もっとうち解けて話をしてみたいと思うのだけれど、それはきっとわたくしのわがままなのでしょうね。ユノは仕事とはいえ、わたくしを命がけで守ってくれているのですから。」
 
 ユノはすばらしく腕の立つ女性剣士であり、剣士団の槍術の師範代クラスの腕を持つ。だがその瞳には冷たいきらめきが宿り、どこか冷徹な感じがした。彼女はフロリア様に対しても、あんな瞳を向けるのだろうか・・・。
 
「国王として、皆にもてはやされるほど逆に孤独感が募りました。王をやめて逃げ出したいと思ったことも、何度もあるのです。でもそうするわけにもいきませんから・・・。」
 
 カインも私もかける言葉が見つからず、ただ黙ってフロリア様の話を聞いていた。いつも変わらないにこやかな微笑みと、冷静で的確な判断力をもって政治を執り行う若き女王陛下の心の内を垣間見て、痛ましさと愛しさが募っていた。
 
「フロリア様、さあ、漁り火の岬に着きましたよ。」
 
 カインの声に顔を上げると、私達はいつの間にか漁り火の岬の入り口まで来ていた。
 
「岬の突端まであと少しです。急ぎましょう。」
 
 カインはフロリア様の手を引きながら走り出した。なぜフロリア様がここに来たいと言いだしたのかはわからないが、とにかく一刻も早く岬について、夜のうちに城まで戻らねばならなかった。
 
 

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