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第1章 カインの帰郷

 
 私は朝から落ち着かなかった。今日はカインが帰ってくる日だ。朝早くから診療所にやってくる島の老人達と話をして薬草を処方すると、幸いにと言うべきか、そのあとは病人もけが人も一人も来なかった。忙しければよけいなことを考えずに済むものだが、こんな日に限って時間がたっぷりと余る。
 
「クロービス、少し落ち着いて。」
 
 妻が心配そうに声をかける。
 
「あ、ああ・・・うん・・・。」
 
 返事も上の空な私に妻は困ったように、
 
「今からそんな調子で、いざカインが帰ってきたらどうするのよ。第一、まだなにも起きたわけじゃないのよ。」
 
 確かにその通りだ。しかし、気に病むまいと決めたとはいえ、やはりカインにフロリア様の様子を聞くことが怖かった。
 
 昨夜もまたあの夢を見た。『カイン』の名を呼びながらすすり泣く声・・・。闇の中から私を呼ぶ声・・・。思い出しただけで背筋が寒くなる。この手の夢は何度見ても『慣れる』と言うことがない。見れば見た数の分だけ、得体の知れない不安が増すばかりだ。
 
 思えば、あの声を幾度となく聞いているうちに、私の精神は蝕まれていたのかもしれない。少しずつ・・・私の頭の中で、私自身気づかないうちに甦りつつあった忌まわしい記憶に・・・。
 
 時間がのろのろと過ぎて行き、やっと太陽が西に傾く頃、少し気持ちを落ち着けようとコーヒーを飲んでいると、玄関のほうでガタガタと音がした。
 
「あら、帰ってきたのかしら?」
 
「そうかな?でもまだ時間が早いんじゃないのかい?」
 
「ねぇ、クロービス、見てきてちょうだい。」
 
 有無を言わさぬ妻の声に重い腰を上げ、玄関に出てみると、なぜかそこには大きな荷物がデンと置いてあって玄関を塞いでいる。そしてなんとその荷物は、じりじりと家の中に入ってくるのだ。
 
「な、何だこれは??」
 
 驚いた私が思わず声を上げると、
 
「あ、ちょうどよかった、手伝ってよ。」
 
 荷物の向こうからカインの声がした。
 
「お、おい、ちょっと待て。これは一体何なんだ??」
 
「洗濯物とか・・・いろいろさ。」
 
 カインは荷物を力いっぱい家の中に押しやりながら答えた。どうやら妻の心配はあたったらしい。
 
「ま、まさか、これをあけたら洗濯物があふれ出すのか??」
 
「そんなことないよ。小さい袋に少しずつ入れてもってきたからね。」
 
 平然と答える息子の声にあきれながら、
 
「とにかくこの荷物はお前の部屋に持っていきなさい。明日から自分で少しずつ洗えよ。」
 
きっぱりと言い渡した。
 
「えー!?せっかくの休みなのに・・・。」
 
 当てがはずれてカインがため息をつく。
 
「当たり前だ。母さんはうちの診療所の大事な看護師であり治療術師だ。お前がここにいる間中、お前の洗濯物を洗わせるわけにはいかない。」
 
「・・・仕方ないな、わかったよ。」
 
 もう少しすねて文句を言うかと思っていたのに、思いがけず素直な答が返ってきて私はかえって面食らった。
 
「カイン、まずこの荷物を解体してくれ。こんなものが玄関に置いてあっては邪魔でしょうがない。」
 
 カインはぶつぶつ言いながら荷物を開き、中からおびただしい数の洗濯物を入れた袋を取り出すと、二階にある自分の部屋に運んでいった。
 
「それが全部おわったらリビングに顔を出しなさい。母さんが待っているよ。」
 
「はーい。」
 
 二階からぶっきらぼうに答えるカインの声を聞きながら、変わっていない息子の姿に半ば安堵し、半ばがっかりしながら、息子の帰還を知らせようと私は妻のいるリビングに戻っていった。玄関の外に、もうひとりたたずむ人影に気づかないまま・・・。
 
「ウィロー、カインが帰ってきたよ。」
 
 妻に声をかけながら、洗濯物の袋をたくさん抱えて何度も廊下を行き来する息子の姿を思い出し、私は思わず笑い出した。
 
「あら、やっぱりカインだったのね。・・・どうしたの?」
 
 笑いが止らない私を見てきょとんとする妻に、先ほどの大荷物の一件を話して聞かせると、
 
「いやぁだ。私の勘があたっちゃったの??」
 
妻も大きな声で笑い出した。
 
「あ〜あ、明日から毎日洗濯三昧ね。」
 
 笑いながらため息をつく妻に、私はカインに自分で洗うよう言い渡したことを話して聞かせた。
 
「あら、よかった。じゃあ、あとはカインがちゃんと最後まで洗い終われるかどうかね。」
 
「うーん、たしかに、それが一番の問題かな。すごい量だったよ。よくあんなものを持ってきたもんだ、まったく。同じ船に乗り合わせた人達は何事かと思っただろうなぁ。」
 
 そして私たちは顔を見合わせてまた二人で笑い出した。こんな風に大きな声で笑ったのは久しぶりだった。
 
「でも今回だけは・・・少しくらいなら私が洗ってあげてもいいかな。」
 
「え?それはちょっと甘やかしすぎじゃないのかな。最初が肝心だよ。」
 
 意外な妻の言葉に私は慌てて反論した。
 
「だって・・・そのおかげであなたに笑顔が戻ったわ・・・。」
 
 その言葉に私ははっとした。たしかにそうだ。ついさっきまで、あれほど息子に会うのが気が重かったのに、今の騒動ですっかり気持ちが晴れている。
 
「うーん・・・じゃあ、少しだけにしておくようにね。」
 
「ふふっ・・・そうね。今回だけ特別にだものね。」
 
 ちょうどその時、部屋のドアがばたんと開いてカインが顔を出した。
 
「父さん、母さん、ただいま帰りました。」
 
「おかえり。」
 
「おかえりなさい。」
 
「疲れたでしょう。お茶でも飲んで一息いれなさい。」
 
 妻に促されカインが私の向かい側のソファに腰をかける。
 
「向こうをいつ頃出たんだ?船で来たんだろう?」
 
 カインの到着が思いがけず早かったので、聞いてみた。
 
「王宮を出たのは3日前でね、えーと、ローランの港を出たのはまだ明るくなりきらないうちだよ。朝一番の船に乗ってきたんだ。王宮から城下町を抜けてくるのが一番大変だったよ。もう通りという通りでは人が溢れかえっているからね。なんだか怪しげな店も出始めているみたいだし。休暇が終わればあの人混みを警備しなけりゃならないのかぁ・・・頭が痛いなあ。」
 
 カインは眉をひそめ肩をすくめて見せた。
 
 エルバール王国の建国記念祭が近づいてきていた。20年前の事件の後、フロリア様が始めた祭りだ。新生エルバール王国の建国の記念だと言うことらしい。新緑の季節の始めに一ヶ月ほど行われるのだが、王宮公認で全国民が無礼講で騒ぎまくることが出来るというのはやはり魅力的なのか、今ではすっかり王国の年中行事として定着し、誰もが祭りの来るのを心待ちにするほどになっていた。
 
 年に一度の祭りが近づけば、どうしても人々の心は落ち着きがなくなり治安も悪くなる。そのため、祭りの間は王国剣士団が総出で治安維持にあたるのだ。当然祭りを楽しむための休みなど望むべくもない。そのために王国剣士たちは祭りの前かあとに長期休暇をとることが出来る。大抵の者は、ほとんど休みなしの祭りの警備で疲れた体を休めるために、祭りが終わったあとに休暇を取ろうとするが、祭りの後、王国剣士が全員で同時に休暇を取るわけにはいかないので、祭りの前に休む者と、後に休む者とがちょうど半分ずつになるように定められていた。3ヶ月前に剣士団に入団したばかりの息子カインはまだまだ若輩のほうなので、どうしても祭りの後の休暇は先輩剣士に譲るしかないらしい、ということと、ちょうど入団後に初めてもらえる長期休暇がほぼ同時期にあたったので、祭りの前に休みをとって帰ってきたということらしい。
 
「それがあなたの仕事なの。自分で選んだのだから、たかが3ヶ月くらいで愚痴をこぼすものじゃないわよ。」
 
 妻がぴしゃりと言い放つ。
 
「わかってるよ。でも厳しいんだよぉ。毎日毎日訓練ばっかりだし。あ〜あ、疲れたなあ・・・。」
 
 カインはそのままソファに深く体を埋め、天井に向かってほぅっとため息をついて見せた。と、突然がばっと起き直り、
 
「ああっ!!忘れてたぁ!!」
 
 そう叫ぶとものすごい勢いで玄関のほうに向かって駆け出していった。妻と私は突然の息子の行動にきょとんとして、ただカインの消えていったドアを見つめていた。程なくして玄関のほうから二人分の足音と、カインが必死に誰かに謝っている声と女性のものらしいすすり泣きの声が聞こえてきた。私たちはさっぱりわけがわからず、お互いに顔を見合わせ、相手に(どういうこと?)という視線を投げかけた。
 
 その時カインがバタバタとリビングに駆け込んできた。
 
「ああ、まずいなあ、悪いことしちゃったよ・・・。」
 
 すっかり落ち込んで情けない声を出している。
 
「一体どうしたんだ。いきなり飛び出していったと思ったら・・・何がまずいんだ?」
 
 問いかける私にカインはもじもじしながら、
 
「ええと・・・、ちょっと待って。」
 
そう言い残し、またドアの外に出ていくと今度はかわいらしい女性を連れて戻ってきた。
 
「フローラ、入れよ。僕の両親を紹介するよ。」
 
 カインは自分の後にいた女性の腕を引き、私の前に立たせた。
 
(・・・フロリア様・・・!?い、いやまさか・・・。)
 
 フローラと呼ばれたその女性が部屋の中に入ってきた瞬間、なぜか私にはそこにフロリア様が立っているように見えて思わずぎょっとした。その驚きが顔にも出たのだろう。カインが訝しげに私の顔をのぞき込んだ。
 
「父さん、どうしたの?」
 
「あ、ああ・・・い、いや、なんでもない。それよりカイン、そちらのお嬢さんは?」
 
 不自然に取り繕う私を見てカインはなおも何か言いかけたが、私の問いにすぐにそんなことは頭から消え去ったようで、顔を赤らめながら私たちに紹介してくれた。
 
「紹介するよ。彼女はフローラ。3ヶ月くらい前にね、城下町の商業地区の入り口にある雑貨屋で知り合ったんだ。」
 
「フローラと申します。」
 
 フローラは丁寧に頭を下げた。
 
「カインの父です。いらっしゃい。」
 
「カインの母です。疲れたでしょう?さあ中に入って。今お茶を持ってきてあげるわ。」
 
 今ひとつ事の次第は飲み込めなかったものの、とりあえず私達はその娘と挨拶をかわし、妻はお茶の用意をするために台所に姿を消した。そして私は、さっきカインと玄関で話をした時にはそばに誰もいなかったこと、そしてカインが『忘れてた』と叫んで飛び出していったことを思い出した。
 
「カイン、さっきお前、忘れてたって言って飛び出したのは・・・?まさか、このお嬢さんを外に立たせっぱなしだったのか?」
 
「う、うん。つい・・・荷物に気を取られて・・・。」
 
「に・・・荷物に気をとられてって・・・このばか!お前は注意力が足りなすぎるぞ!!自分で連れてきたお客さんを忘れるなんて!」
 
 この話にはさすがに私もあきれ果て、カインを怒鳴りつけた。
 
「ご、ごめんなさい・・・。」
 
 カインはすっかりしょげかえっている。
 
「あ、あの、いいんです。私も声をかけるとかすればよかったんだし・・・。」
 
 フローラは、怒っている私と小さくなっているカインとを交互に見ておろおろしている。
 
「いや、しかし・・・もう夕方だ。この島は夕方から夜にかけてはかなり気温が下がるんだよ。寒かっただろう?すまなかったね。とにかくこんなところに立ったままでいないで、中に入りなさい。」
 
 私は、しょげかえる息子と困ったような表情の娘を部屋の中にいれると扉を閉めた。もう夜の冷気が家の中にも漂い始めている。ずっと外に立っていたのであれば、かなり体は冷えているはずだ。
 
「カイン、暖炉にもう少し薪をくべておいてくれ。フローラ、もう少し暖炉のそばに座って休むといいよ。」
 
 息子に対してはまだ怒りたりないくらいだったが、とにかく何か体の温まるものをと、二人をその場に残したまま私は台所に駆け込んだ。
 
「どうしたの?そんなに慌てて。」
 
 妻が驚いて私を振り返る。私はカインがフローラを外に立たせっぱなしでしばらく忘れていたことを伝え、とにかく体の温まるものを持ってきてくれるように頼んだ。
 
「な、何ですってぇ!!?」
 
 妻は驚愕して、急いでカップとお茶の葉をトレイにのせると私に差し出した。
 
「はい、これ持っていって。私はこっち持っていくから。」
 
 そう言うなりお湯の入ったポットを抱えて走り出した。私がお茶の葉とカップを持って部屋に戻ったころには、もう既に妻がカインを怒鳴りつけているところだった。
 
「あなた何考えてんの!!どうしてそう注意力が足りないの!!自分で連れてきたお客様でしょう!!まったく・・・ああもう!!怒る気にもならないわ!!」
 
 さんざん怒った後で妻はそう言うと、大きくため息をついてフローラのほうに向き直り頭を下げた。
 
「ごめんなさい!!寒かったでしょう。ホント注意力ゼロで考えなしで早とちりでどうしようもない息子だわ!!」
 
 そして私の手からトレイを受け取り、お茶を入れてフローラの前に差し出した。
 
「これで少し温まっていて。体を温めるなら本当は生姜湯がいいんだけど、食事の前に飲むと胃を壊すから、夕食のあとで作ってあげるわ。」
 
「あ・・・ありがとうございます。いただきます。」
 
 フローラは寒そうに肩のあたりをさすりながら、湯気の立ち昇る温かいお茶をゆっくりと口に運んだ。
 
「おいしい・・・。」
 
 そうつぶやいてほぉっとため息を漏らす。柔らかそうな長い金髪をひとつに編んで肩から垂らしている。透き通るような緑の瞳を持つ美しい娘だ。そのフローラの隣に目をやると、先ほど妻にさんざん怒鳴りつけられ、挙げ句に『注意力ゼロで考えなしで早とちりでどうしようもない息子』と言われ放題に言われたカインがすっかり小さくなって居心地悪そうに座っている。今にも泣き出しそうな顔だ。妻もカインのほうをちらりと見たが、またひとつため息をついて、
 
「・・・早めにお風呂沸かしたほうがよさそうね・・・。」
 
それだけ言うと、息子には一言も声をかけず、部屋を出ていった。その間にフローラはすっかりお茶を飲み干すと、
 
「ごちそうさまでした。おかげさまで体が温まったみたいです。」
 
 最初にこの部屋に入ってきた時よりも、確かに頬に赤みが差している。
 
「そうか・・・。でも風邪を引くといけないな。もう少し飲んでおくといいよ。」
 
 私はもういっぱいお茶を注いでフローラに差し出し、息子の分と自分の分もいれてそれぞれの前に置いた。
 
「さてと、カイン。少しは反省したのかな?」
 
 カインは黙って頷いた。そしてフローラに向き直り、
 
「ごめん・・・。君のこと絶対大事にするからなんて偉そうなこと言っておいて・・・。風邪ひかせたりしたらシャロンに怒られちゃうよね。君の父さんにもね。本当にごめん!!」
 
そう言うと両手を合わせて拝むような格好をしながら、フローラの前に頭を下げた。
 
「いいのよ。もう私は大丈夫だから。お茶をいただいてから体も温まったし。」
 
 フローラは優しくカインの肩に手をかけてなだめるように言った。この会話から察するに、どうやら二人は恋愛関係にあると言うことか。最も何とも思っていない相手の休暇について自宅まで来るなど考えられない。カインはこの娘を私達に紹介したかったのだろう。ところが大量の洗濯物入りの荷物に気を取られて、連れてきたことを忘れてしまった・・・。私は先ほどの妻の『注意力ゼロで考えなしで早とちりでどうしようもない息子』と言う言葉を思いだした。この場合考えなしと早とちりは関係ないようにも思えたが、確かになんと言われても反論の余地はないような大失態だ。こんな息子でもこうして慕ってくれる娘がいるとは・・・。城下町の雑貨屋で知り合ったと言っていたが、そこの店員なのだろうか。
 
(・・・・あれ・・・?)
 
 さっきカインは、フローラと知り合ったのは商業地区の入り口にある雑貨屋だと言っていた。そしてフローラに風邪をひかせたりしたらシャロンに怒られるとも・・・。
 
(シャロン・・・それにフローラって・・・まさか・・・。)
 
 その名前には聞き覚えがある。そして『商業地区の入り口にある雑貨屋』にも・・・。
 
「おいカイン、商業地区の入り口の雑貨屋というと、もしかしてセディンさんのところか?」
 
 フローラの前でひたすらに頭を下げ続けていたカインは、はっとして起きあがり私を見た。
 
「そうだよ。フローラはあの店の親父さんの娘なんだ。父さん知ってるの?」
 
「セディンさんの娘さん?」
 
 私は驚いて思わず訊き返した。
 
「父をご存じなんですか?」
 
 今度はフローラが驚いて訊き返す。
 
「ああ、知っているよ・・・。そうか・・・セディンさんの・・・。昔・・・ずいぶんと世話になった人なんだ。」
 
 遠い記憶が甦る・・・。
 
 その店に初めて足を踏み入れたのは、この島を出てエルバール城下町に着いてすぐの頃のことだ。とりあえずの仕事と住む場所を探すために、商業地区の中を歩き回っていたとき、開店したてのきれいな店を見つけて、もしかして人手を捜してないものだろうかと訊いてみたことがあったのだ。出てきた店主はまだ30歳くらいだっただろうか、申し訳なさそうに、
 
「すまないなあ。まだ店を開いたばかりでなかなかお客さんが来てくれなくてねぇ。子供も生まれたばかりだって言うのに・・・。そんなわけで今は人を雇う余裕がないんだ。申し訳ない。」
 
 深々と頭を下げると、私に背を向けて店の奥に戻っていった。それがセディンさんだった。仕方なく私は雑貨屋を出て、さてどこかに仕事はないものかと通りを歩きだしたが、その時後ろのほうから大声で呼ぶ声がした。
 
「おーい、そこの人!今俺の店に来た人!」
 
 もしや自分のことかと私が振り返ると、先ほどの雑貨屋の主人が息を切らして追いかけてくる。
 
「どうしたんですか?」
 
 気が変わって雇ってくれるのかと、ほんの少し期待しながら私は尋ねた。
 
「今ね、思い出したんだよ。仕事の口がね・・・あるかも知れない。剣士団でね、新人剣士を募集してるんだ。知ってるだろ?王国剣士団さ。あんた剣を装備しているみたいだし、行ってみちゃあどうだい?」
 
 雑貨屋の店主はそこまで一気にしゃべると、一息ついて声を落とした。
 
「もっとも・・・剣士団のモットーは『少数精鋭』だからなぁ・・・。試験はかなり厳しいって聞くし、無理に行けとは言えんけど・・・。でももし試験に合格出来れば剣士団の宿舎に住めるし、3度の飯にもありつける。おまけに給料も出るってことだから、悪い話じゃないと思うんだが・・・。」
 
「それで・・・わざわざ追いかけてきてくれたんですか?」
 
「だってあんた仕事を探してるんだろ?こうして出会えたのも何かの縁だからな。できるならいい仕事についてほしいじゃないか。王国剣士の仕事ならその点については申し分ないよ。もしその気があるなら王宮に行ってみるといい。志願者は誰でも受けさせてくれるって話だからな。」
 
 ついさっき出会ったばかりの見も知らぬ人間を心配して、わざわざ追いかけてきてくれた・・・。この町にはこんなにも心のやさしい人がいる・・・。たった一人で王国に足を踏み入れ、頼れる人もいなかったこの時の私にとって、セディンさんのこの言葉は涙が出るほど嬉しかった。
 
「あ、ありがとうございます。では王宮に行ってみることにします。」
 
「いいんだよ。俺の店がもっと繁盛していればあんたを雇うことも出来たんだが、さっきも言ったとおり家族が増えちまってね。なのに今のところ、ろくな売り上げがないときてる。俺はともかく、女房や子供を飢えさせるわけにはいかないからね。すまねぇな。あんた確か・・・クロービスだったよな。俺はセディンてんだ。もしあんたが無事剣士団に入団出来たら、また俺の店を訪ねてくれよ。サービスするぜ。おっと、もう店にもどらなけりゃな。客が逃げちまう。」
 
 しゃべるだけしゃべると別れの挨拶もそこそこに、セディンさんはあっという間に駆け出して店に戻っていった。
 
 その後しばらくは迷ったものの、結局私は無事剣士団の試験に合格し、初めてもらった給料をもって約束通りセディンさんの店に買い物をしに行った。セディンさんはとても喜んでくれて、その後コンビを組んだカインと共に城下町の警備をするようになったときには、必ず立ち寄るようになっていた。いつ行っても客の姿はまばらで、経営が苦しい状態にあることはすぐにわかった。それでもセディンさんは弱音を吐かなかったし、おかみさんはいつも明るく朗らかで、店の中はいつも笑い声が絶えなかった。そして何より、この店にはかわいらしい『接客係』がいた。セディンさん夫婦の娘シャロンと、生まれたばかりの赤ん坊である。シャロンは当時まだ8歳くらいだったと思う。かわいらしい娘で、両親達の口調をまねて『剣士さん、剣士さん』と私達によくなついてくれた。シャロンはもう28〜9になっているはずだ。きっと美しく成長しているだろう。もう結婚していてもおかしくない。そしてあのとき生まれたばかりだった赤ん坊のフローラ・・・。おかみさんが忙しい時に、私はよく抱っこしてあやしていた。カインは最初、怖がってなかなか抱こうとしなかったが、首が据わって抱きやすくなってきてから、何度か抱いていたっけ。誰に抱かれても人見知りもせず、にこにことよく笑う赤ん坊だったことをよく憶えている。それがこの娘なのか・・・。私はあらためて、20年という時の流れを実感せずにはいられなかった。
 
「そうか・・・。君があの小さかったフローラなのか・・・。確かフロリア様にあやかって美しい娘になるようにと、セディンさんがつけたと言っていたっけ。すっかり忘れていたよ。すまなかったね。正直言って、こんなにきれいな娘さんになっているとは思いも寄らなかったものだから。憶えてはいないだろうけど、私はよく君を抱っこしてあげてたんだよ。人見知りのしない子でね、いつもにこにこしてたっけ・・・。お父さんとお母さんはお元気なのかい?お姉さんはもう結婚したのかな?」
 
 ふと、フローラの顔が曇った。
 
「え・・・いえ、母は10年前に亡くなりました。父は今は・・・少し具合が悪くて・・・。」
 
「・・・え・・・?」
 
 私は愕然とした。あの愛想のよい朗らかなおかみさんが亡くなっていたとは・・・。そしてセディンさんまでも体をこわしているらしい。セディンさんとおかみさんの元気のよい声や笑顔が浮かんできて、私は胸がつまる思いだった。セディンさんの病状も、フローラの表情を見る限り『少し悪い』どころではなさそうだ。私は不安になった。
 
「そうか・・・私は昔、君のお父さんとお母さんにはずいぶんと世話になったんだよ。どうか・・・大事にしてあげてください。」
 
「はい・・・ありがとうございます。」
 
 私はセディンさん夫婦にとても感謝している。あの日セディンさんの店に入らなかったら、セディンさんが私に王国剣士募集の話を教えてくれなかったら・・・そのまま無為に日々を過ごし、やがて都会の波に呑まれていったかも知れない・・・。せめてセディンさんの病状だけでも聞きたかった。私にも何か出来ることがあるかも知れない。だが、いくら私がセディンさんを知っているとか、交際相手の父親だとは言っても、フローラ自身は私とは初対面のようなものだ。あまり根ほり葉ほり聞くのは何となく気が引ける。
 
 どうしたものかと思案しながら、私は目の前にいる娘をあらためて見た。目のあたりが赤く腫れている。外に長いこと放りっぱなしにされて泣いていたのだろう。だがそれは、この娘のきれいに整った顔立ちを少しも損なってはいない。そしてどこか不思議な魅力がある。こんな女性と目が合ったら、誰でも思わず微笑んでしまうだろう。この娘はおかみさんに似たのかも知れない。
 
 それにしても・・・どうしてこの娘がフロリア様のように見えたりしたのだろう。蜂蜜色の髪も淡いブルーの瞳も、この娘は持っていない。そして、この娘の美しさはどちらかと言うと庶民的な美しさだ。フロリア様の、あの気高く気品に満ちた美しさとはまったく別のものだ。やはり夢のことが心に引っかかっているせいだろう。カインが家にいるうちに、なんとかフロリア様のことについて聞いてみる機会を見つけなければならない。しかし、なんと言って切り出したものか・・・。
 
「父さん、どうしたの?ぼんやりして。」
 
 私の顔を怪訝そうに覗き込んだカインの声で我に返った。
 
「あ、ああ、えーと、なんだっけ?」
 
 慌ててとんちんかんな返答をした私にカインはあきれたように、
 
「なんだっけって・・・フローラの家の話をしてたら急に黙り込んだんじゃないか。」
 
そう言うと口をへの字に曲げて見せた。
 
「そうか・・・。いや、昔を思い出してね・・・。」
 
「ふぅん・・・。まあいいや。あのさ、父さん達に聞いてほしいことがあるんだよ。」
 
「私達に?ああ、いいよ。何の話だ?」
 
「えっとね・・・。あ、母さんにも来てもらわなくちゃ。」
 
 カインはそわそわと立ち上がりかけた。
 
「ねぇ待って。その話はまだ・・・。」
 
 フローラが少し慌てたようにカインを押しとどめようとしている。
 
「いいからいいから。照れることないよ。僕がちゃんと言うからさ。」
 
 困惑した瞳を向けるフローラに構わず、カインは妻を呼びに部屋を出た。カインが戻るまでの間、先ほどまで微笑んでいたフローラの表情が少しずつ翳っていくような気がした。息子の話がこの二人の交際を認めてほしいと言うことであろうと私は予測していたが、この娘の様子からすると何か別の話なのだろうか。だがカインの態度からしてそれは考えにくい。
 
 やがて奥からカインが戻ってきた。そのあとからお茶菓子の入ったトレイを持った妻が現れた。カインはフローラの隣に戻って腰掛けると、
 
「母さん、母さんもここに座ってよ。父さんの隣に。」
 
大まじめな顔で妻に声をかける。
 
「はいはい、わかったわよ。どうしちゃったの?あなたがそんなに真面目な顔するなんて、雨が降るんじゃないかしら。」
 
 のんきに答える妻にカインは声を荒げた。
 
「いいから!早く座ってよ!」
 
「カイン、そんなに怒らないで。ご両親と喧嘩なんてしないでよ。」
 
 フローラが慌ててカインを制した。カインははっとしたようにフローラの顔を見つめて、
 
「ご、ごめん。つい、緊張して・・・。」
 
消え入りそうな声でそう言うと、頭をかいている。
 
「私にじゃなくて。ご両親に謝るの!」
 
「わ、わかったよ。」
 
 セディンさん夫婦の誠実な人柄は、そのままこの娘に受け継がれているようだ。
 
「父さん、母さん、ごめん。緊張してたもんだからつい・・・。」
 
「ほんとにね・・・。その緊張をずっと持続させていることが出来れば、フローラを外に置き去りにしたりはしなくてよかったでしょうね。」
 
 皮肉めいた口調で妻が答える。
 
「それは・・・。」
 
 カインは口ごもったが、やがて顔をあげると、
 
「それは僕が悪かったよ。なんと言われても仕方ないけど・・・。でもとにかく僕の話は聞いてよ。」
 
「はいはい、わかりました。さあ、カイン、お話をどうぞ。」
 
 妻が私のとなりに座り、カインに向き直った。こんな風に面と向かって構えられると、かえって話しづらくなってしまう。私には妻がわざとカインに向かってプレッシャーをかけているように思えた。おそらくは妻も話の内容はだいたい推測がついているのだろう。それで、あえてこんな態度をとっているのかも知れない。この程度できちんと話が出来なくなってしまうようではどうしようもない。
 
「えっと、そのぉ・・・・・・。」
 
 カインが上目遣いに私たちを見て口ごもる。話の続きを察してほしいと言わんばかりの目つきだ。しばらく沈黙が続いたが、素知らぬ顔で黙っている私達の態度にあきらめたのか、やっと話し出した。
 
「いま、その・・・、フローラとつきあっているんだ。」
 
「いずれは、えっと・・・結婚したいなって思ってるんだけど・・・。あ、あの・・・すぐじゃないんだけど・・・。」
 カインはガラにもなく真っ赤になっている。
 
 

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