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 妻と私は顔を見合わせた。知り合って3ヶ月と言えば、カインが王国剣士の試験に合格したころだ。それをいきなり結婚までとは、いささか先走りすぎという気はしたが、本気で愛し合うのに時間が必要な時もそうでない時もある。それを『若い』とか『まだ知り合って間もない』という理由だけで引き裂くのは野暮というものだ。だがカインの言葉を聞きながら、妙に落ち着かなげにしているフローラの態度が少し気になった。この娘はカインのことを一体どう思っているのだろう・・・。
 
 相手の家までついてくるくらいなのだから、まさか何とも思っていないわけではないだろうが、カインの口から『結婚』という言葉が出た途端、手を小刻みに震わせ、その顔には明らかな戸惑いが見える。もしかしたら・・・この娘にはそこまでの決心はなかったのだろうか。それなのにカインがいつもの調子で強引に連れてきてしまったのだろうか。そしてカインが自分との結婚まで考えていると知り、戸惑っているのだろうか・・・。とにかくこの娘の真意を確かめたい。
 
「フローラ、君に一つだけ質問させてくれないか?」
 
 私はフローラの目をまっすぐに見つめて口を開いた。
 
「何を聞きたいの?」
 
 カインのほうが身を乗り出す。
 
「お前は黙っていなさい。父さんはフローラに聞きたいことがあると言ったんだ。」
 
 私は少し強い口調でカインに言い放った。カインは驚いたように私を見つめていたが、それでも口をつぐんだ。
 
「・・・はい・・・。」
 
 小さな、震える声でフローラが返事をする。
 
「ではフローラ、正直に聞かせてほしい。君はカインのことをどう思っている?」
 
「そんなの決まってるじゃないか!彼女は僕を・・・!」
 
「いいから黙っていなさい!」
 
 私はカインを怒鳴りつけた。思いがけない私の大声に驚いたカインはびくっとして下を向いてしまった。少しかわいそうではあるが、一生の問題を軽々しく決めてほしくない。とにかくフローラの真意を確かめることが先決だ。
 
「わ、私は・・・。」
 
 フローラの声は震えている。
 
「私・・・私は・・・。」
 
 やがてフローラの瞳から涙が溢れ、そのまま唇を噛んで下を向いてしまった。膝の上に握りしめた手の甲に涙がぽとぽとと落ちていく。その姿をカインが呆然と見つめていた。
 
「何で・・・?何で黙ってるの・・・?」
 
「・・・ごめんなさい・・・。」
 
 フローラは肩を震わせながら絞り出すようにそれだけを言うと、また黙ってしまった。
 
「どうして謝るんだ!!?言ってくれたじゃないか。僕のこと好きだって・・・。君のこと、両親に紹介したいから、一緒に来てって言ったら・・・頷いてくれたじゃないか。君も僕と同じ気持ちだったから、だからここまで来てくれたんじゃなかったのか!」
 
 カインの瞳からも涙が溢れだした。
 
「それじゃ、僕が一人で思い込んでただけ?そりゃ僕たちは知り合ってそんなに過ぎないけど・・・でも僕は君のこと大好きだよ。初めて会った時から・・・ずっと大好きだったんだ・・・。だから・・君のこと、父さんと母さんに会わせたくて・・・見てほしくて・・・だから・・・。」
 
 そこまで言うと、カインは服の袖で涙をゴシゴシと擦った。そしてフローラの肩を掴み自分のほうに向けると、
 
「それじゃ・・・。僕のほう見て言ってよ。今父さんが聞いた質問の答を。父さんに言えないなら僕の目を見て、もう一回ちゃんと答えて!君が僕のこと好きじゃないって言うなら・・・それなら・・・。」
 
 『あきらめる』と言いたかったのか・・・でもとうとうカインの口からその言葉は出てこなかった。そのかわり、フローラの肩を掴む手が震えて力がこもってくるのがわかる。
 
「・・・カイン・・・離して。痛い・・・!」
 
 フローラが眉間にしわを寄せてカインの手を外そうとする。
 
「いやだ!君が答えてくれないなら離さない!」
 
「カイン・・・お願い・・・離して・・・!」
 
 思いがけない愁嘆場を見せつけられ、妻と私はかける言葉も見つからずにいたが、さすがにこれ以上黙って見ているわけにはいかない。
 
「落ち着け、カイン。手を離しなさい。」
 
 私はカインの肩をつかみ、フローラから引き離した。フローラはほっとしたように掴まれていた肩のあたりをさすっている。
 
「どうして・・・?」
 
 カインが独り言のようにつぶやいた。
 
「いやならいやだって・・・言ってくれたら・・・そしたら連れてきたりしなかったよ・・・。僕のこと・・・嫌いなら嫌いだってはっきり・・・言ってくれたら・・・。」
 
「違う・・・。」
 
 肩をさすりながら、うつむいてカインの言葉を聞いていたフローラが不意に顔をあげた。
 
「何が違うの?だって僕のこと好きだって言えないなら・・・嫌いなんじゃないか・・・。それならそうと言ってくれたらよかったのに・・・。それとも・・・からかってた?」
 
「違う・・・!そんなんじゃなくて・・・。」
 
 フローラが今度は大きな声で叫んだ。
 
「それじゃ答えてよ!!どうして君は父さんの質問に答えてくれないんだ・・・。簡単なことじゃないか・・・。いつもみたいに・・・僕のこと好きだって言ってくれたら・・・。」
 
「・・・・・。」
 
 フローラは答えない。
 
「こんなのないよ・・・。一緒に来てくれるって、返事もらえてすごく嬉しかったんだ・・・。なのに・・・。」
 
 カインはそれ以上声にならないらしく、声を立てず、ただ肩を震わせて泣いている。子供だ子供だと思っていた息子が、いつの間にこんな風に感情を押し殺したような泣き方を憶えたのだろう・・・。このままでは息子があまりにも不憫だ。とは言え、先ほどからのフローラの態度を見る限り、この娘がカインと遊びでつきあっているようにはとても見えない。何か事情があるのかも知れない。
 
「・・・ウィロー、とにかく今日はフローラに休んでもらおう。少し落ち着いてからまた話した方がいい。客用の寝室に案内してあげてくれないか?」
 
「そうね・・・。その方がいいわね。さあ、フローラ、私が案内するわ。行きましょう。」
 
 その声にフローラは立ち上がり、妻の後についていった。カインはまだ泣いている。余程ショックだったのだろう。
 
「・・・もう泣くな。お前も少し頭を冷やしなさい。」
 
「・・・うん・・・。」
 
 私の言葉にやっとカインが顔をあげた。
 
「でも・・・信じられないよ・・・。こんなことになるなんて・・・。」
 
 しゃくり上げながらカインがつぶやく。
 
「父さんが見る限りでは、フローラはお前のことをからかっているようには見えないけどね。」
 
「でも・・それならあんなに言葉に詰まることないじゃないか・・・。」
 
「何か気にかかることでもあるんじゃないのか?何となくそんな風に見えたよ。」
 
「気にかかることって?」
 
「それは本人に聞いてみないとね。とにかく明日だ。一晩過ぎれば落ち着くだろう。今日は長旅で疲れているだろうしね。明日もう一度、よく話を聞いてみよう。先走るのがお前の悪い癖だ。」
 
「はい・・・。ごめん、父さん・・・。」
 
「父さんに謝ることじゃないよ。謝るならフローラに謝りなさい。あんなに詰め寄られたら話せるものも話せなくなるよ。」
 
 そこに妻が戻ってきた。
 
「フローラはどう?落ち着いたかい?」
 
「ええ、なんとかね。でも、なんて言うか・・・すごい辛そうに見えたわ・・・。何か心配事でもあるような気がするんだけど・・・。お父さんのご病気のことだけなのかしら・・・。」
 
 私の問いに妻は首を傾げながら答える。妻の勘はよくあたる。やはり何か心に引っかかっていることがあるのだろう。その時、部屋のドアがノックされた。
 
「クロービス、カインは帰ってきたのか?」
 
 ブロムおじさんの声だ。
 
「はい、いるよ。どうぞ。」
 
 私の返事にドアをバタンと開けてブロムおじさんが顔を出した。
 
「お、カインお帰り・・・。何だ?何を泣いているんだ?何かあったのか・・・。」
 
 驚くブロムおじさんを前に、カインは慌てて顔を擦って笑顔を作って見せた。
 
「何でもないよ。おじさん、ただいま。母さん、お腹空いたからごはん食べたいな。」
 
「はいはい。すぐ用意が出来るわ。座って待ってらっしゃい。」
 
 妻はそう言うと微笑んで台所に消えた。ブロムおじさんはカインの顔を心配そうに覗き込みながらも、黙っていた。この人はずっと昔からいつもこうだ。こちらが話し出すまで辛抱強く待ってくれる。決して人の心に土足で入り込むようなことはしない。
 
 
 やがて妻は食事を乗せたトレイを持ってきた。フローラのためのものだろう。ぷんと生姜の香りが鼻を突く。妻の作る生姜湯はおいしい。そしてよく効く。
 
「これを置いてくるから待ってて。」
 
「僕が行く!!」
 
 カインが立ち上がる。
 
「あなたは駄目よ。母さんが行ってくるから。」
 
 妻は少し強い口調でそう言うと、廊下に出ていった。
 
「・・・誰か客がいるのか?」
 
 ブロムおじさんが遠慮がちに尋ねる。
 
「カインが連れてきた女の子だよ。カイン、おじさんに話すぞ。いいな?」
 
 カインは黙ってうなだれている。私は先ほどのフローラとのやりとりを手短に話した。
 
「そうか・・・その娘はお前が王国剣士だったときに世話になった人達の娘なのか。」
 
「うん、何のあてもなく仕事を探していた時に『王国剣士』っていう選択肢に気づかせてくれたのはセディンさんだからね。それにそのあともずいぶんと世話になったんだ。何の恩返しも出来ないままになっちゃっていたから、もし何か出来るなら何とかしてあげたいけど・・・。」
 
「そうだなあ・・・。しかし病気だというだけではなんともしようがないな・・・。詳しい病状でもわかれば何かしら打つ手もあるのかも知れないが、もっとも向こうでも医者にはかかっているんだろうから、よけいな口出しかもしれんしなあ。」
 
「そうだね・・・。それに、あの娘は何か別な心配事を抱えているようにも見えてね・・・。単純にカインが振られたっていうだけならそれは仕方ないんだけど・・・。」
 
「そんな素振りがあるのか?」
 
「私は何となくそう思っただけなんだけど、ウィローも何かを感じ取ったみたいだしね。」
 
「そうか・・・。ウィローの勘はあたるからな。」
 
 そこへ妻が戻ってきた。そして食堂に入ってくるなり、
 
「カイン!!フローラの荷物見たけどほとんど何にもないじゃないの!あなた出発する日の朝あたりに無理やり誘って連れてきたんじゃないでしょうね!?荷物をまとめる時間もなかったんじゃないの?」
 
カインに向かって怒鳴りつける。
 
「カイン、お前、ちゃんとセディンさんの許可をもらって、フローラをここに連れてきたんだろうね?」
 
 私はいきなり不安になった。
 
「あ、当たり前だよ。無断でなんて連れてこれるわけないじゃないか。第一そんなことをしたら、オヤジさんより先にシャロンから雷が落ちるよ。それに、いくらなんでもそんなに急には言わないよ。その前の日の昼にはちゃんと言ったんだから。」
 
「ま、前の日の昼?それって・・・当日の朝とどう違うんだ?ほとんど考える間もなく連れてきたって事じゃないか!?」
 
 出かける前の日の昼と当日の朝に、違いなどいくらもないだろう。カインがそんなことをさも偉そうに言うのを聞いて、妻も私も、思わず揃って大きなため息をついた。やはりカインの勇み足だったらしい。
 
「まったく・・・そんなことだろうと思ったわ。フローラもいきなり連れてこられて驚いたでしょうねぇ・・・。あなたは昔からこうなのよね。思い立ったらすぐに実行しないと気がすまない。そのくせ下準備もろくにしないからうまくいかないのよ。こんな考えなしで誰かと結婚しようなんてとんでもないわ・・・。」
 
 ますますカインはうなだれている。
 
「とにかく今食事の支度をするわ。ブロムさんごめんなさい。もう少し待っててね。」
 
「ああ、私のことは気にしないでくれていいよ。それより、あまりカインを責めないでやってくれ。」
 
 妻は困ったようにおじさんにむかって微笑むと、また台所に戻っていった。
 
「私も手伝うよ。おじさんを待たせるの悪いからね。」
 
 妻のあとに台所に入り声をかける。
 
「そうね。これから家に帰るんですものね。それじゃここに出来上がった料理があるから運んでくれる?」
 
 私は台所のテーブルの上にある料理をいくつか持って何度か食堂との間を往復した。その後食事をしたが、カインは黙って下を向いたままで、食も進まないようだ。ブロムおじさんはそんなカインの姿を心配そうに眺めながら、こちらもなかなか進まない。ゆっくりとした時間が流れ、やっと食事が終わったのはもう夜更けだった。
 
「おじさん、もう遅いから泊まっていってよ。」
 
 私の提案におじさんは
 
「いや・・・。帰るよ。また明日な。」
 
 そう言うと、何となく元気がなさそうに帰っていった。彼にとってカインは孫のようなものだ。本当によくかわいがってくれている。せっかく4ヶ月ぶりに帰ってきて、顔を見るのを楽しみにしていたのに、しょんぼりしていてはやはり張り合いもないだろう。
 
 
 ブロムおじさんが帰ると、カインは
 
「お休みなさい。」
 
 小さな声で私達に挨拶をして部屋を出て行こうとした。
 
「カイン、ちょっと待って。」
 
 妻がカインのあとを追い、ドアのところで何事か話しかけている。
 
「わ、わかってるよ!僕だってそんなことしないよ!!」
 
 カインは赤くなりながらそれだけ言うと廊下を走っていった。やがて階段を駆け上がる音が聞こえる。
 
「カインに何言ったの?」
 
 私は妻に向かって尋ねた。
 
「『今日はフローラをそっとして置いてあげること。間違っても夜中に忍んでいったりしないようにね』って言ったのよ。他所様の大事な娘さんを預かっているんだから、そのくらい気を使わないとね。おまけに本人の気持ちもよくわからないわけだし。」
 
「なるほどね・・・。確かにそうだな・・・。」
 
 赤くなった息子の顔を思いだし、何となくおかしくなったが、ここで笑ったりすると妻に冷たい視線を向けられそうだ。
 
「・・・でも妙な話よね。フローラはどうしてカインについてきたのかしら。カインはセディンさんにもシャロンにも、ちゃんと許可を取ったって言ってたわ。そんなことでカインが嘘をつくとは思えないし。いくら時間がなくたってそれなりに旅支度しているんだから、まるっきり無理やり連れてこられたって訳でもなさそうなのよね。・・・さっきはカインに悪いことしちゃったわ・・・。せっかく帰ってきたのに、怒鳴りまくっちゃった・・・。フローラの手前何となく・・・怒らないわけにはいかないような気がして・・・。」
 
 妻は肩を落として、目に涙を滲ませている。夢のことに気を取られていた私と違い、妻はカインの帰りを楽しみに待っていたのだ。4ヶ月前、18になったばかりのカインが王国剣士の試験を受けるために島を出た時も、一番心配していたのは妻だった。そして合格の知らせを一番喜んでいたのも。その息子が4ヶ月ぶりに帰ってくる。精一杯暖かく迎えてあげよう。そう思っていたのに、フローラのことで息子を怒鳴りつける羽目になってしまった・・・。
 
「さっきの場合、それは仕方ないよ。一人息子だから甘やかされてるなんて思われたら、それはそれでカインがかわいそうだし・・・。きっとカインはちゃんとわかってくれているよ。でもフローラも、少なくともカインが結婚したいなんて言い出す前までは普通にしてたんだけどね。」
 
「そうよね・・・。まだ18なんだからそんなに先走らなくてもいいと思うけど、きっと本人は盛り上がっちゃったのね・・・。なんだかかわいそうだわ・・・。」
 
「そうだね・・・。明日はフローラももう少し落ち着いて、詳しい話が聞けるといいんだけどな・・・。さっきフローラを部屋に連れて行った時とか、何か話はした?」
 
「うん・・・。ろくな着替えも持ってきていないみたいだから、私の若い時の服を貸してあげるわって。恥ずかしそうにしてたけど、頷いていたわよ。・・・あんなかわいい娘が出来るなら、それはそれで大歓迎なんだけど・・・。」
 
「・・・私達には女の子はできなかったからなぁ。」
 
 私の言葉に妻はくすっと笑って、
 
「仕方ないわ。子供は授かりものだし。あんなことがあったあとで、カインがちゃんと生まれて来てくれただけで、私は満足だわ・・・。」
 
「そうか・・・そうだね・・・。」
 
 『あんなこと』・・・。それは、この島に戻って来てから、私達が結婚してから、一番辛かった出来事だった。





 私がこの島に戻ってきてしばらくした頃、近くに住むライザーさん夫婦のところに双子が生まれた。ライザーさんはこの島の生まれで、私の王国剣士時代の先輩剣士だ。小さいころ私は彼に遊んでもらったらしいのだが、私はそれを憶えていない。剣士団に入団したその日に顔をあわせても、まったく思い出すことが出来ないほどだった。もっともライザーさんの両親が亡くなり、親戚に引き取られることになった彼がこの島を出たのは私がまだ5歳くらいの時だ。憶えていなくても無理はないかも知れない。私が入団した時はもう入団5年のベテランで、コンビを組んでいたオシニスさん、採用担当のランドさんと共に、剣士団の中核を担っていた人だった。だがあの事件のただ中に剣士団を去り、この島に戻ってきてしまった。その後、幼なじみのイノージェンと結婚してずっとこの島で生活している。イノージェンは私の幼なじみでもある。
 
 愛らしい双子達の成長ぶりは島の人々の楽しみだった。だが1年後、1歳になったばかりの双子のうち、兄のライラが行方不明になった。川の浅瀬で遊んでいるうちに足を滑らせたらしい。
 
 みんな必死で捜索した。そして数時間後、下流の方で発見された時、ライラはすでに息をしていなかった。すぐに診療所に運び込まれ、ブロムおじさんと私は、ライラの小さな体から水を吐かせたり、マッサージをして体を温めたり人工呼吸をしたりしていた。しかしライラの呼吸はなかなか戻らない。妻が治療術の呪文を唱えていたが、普通の治療術を何度唱えても効果はなかった。呪文詠唱はそれだけで精神力をかなり消耗する。そして精神が消耗してくれば、やがて体のほうにも疲労が蓄積される。既に何度も呪文を唱えて、妻の顔にも疲れが見えてきていた。
 
「ウィロー、大丈夫?顔が青いよ。」
 
 私は真っ青な顔で必死で呪文を唱え続ける妻が心配になってきた。でも、だからといって一休みというわけにはいかない。そんなことをしている間に、ライラのほうが本当に死んでしまう。何としても助けたい。
 
「大丈夫よ。これから蘇生の呪文を唱えてみる。これならきっと何とかなるわ。絶対に・・・ライラを死なせはしない・・・!!」
 
 蘇生の呪文・・・。この状態から助けることが出来るとしたら、もはやその呪文しかないかも知れない。だがこの呪文は、詠唱者にとっては一番の精神的肉体的疲労を伴う呪文だ。妻は決心したように瞳を閉じて、小さな体に手をかざし、蘇生の呪文を唱え始めた。私はこの呪文を唱えることは出来ない。妻に任せるより他に手だてはなかった。そして蘇生の呪文を何度も唱えて、やっとライラが息を吹き返した時、妻は真っ青な顔でその場に倒れ込んだ。苦しそうに顔をゆがめていた。助かった我が子を抱きしめて涙を流すライザーさん夫婦を残して、私は妻を診療所のベッドに寝かせた。蘇生の呪文を何度も唱えたのだ。休ませなければならない。そこに島でただ一人の助産婦、サンドラさんが駆け込んできた。
 
「ライラが川に落ちたんだって!?どこに・・・。」
 
「あ、うん。でも今息を吹き返したよ。ウィローの呪文のおかげで。ライラならそっちの部屋に・・・。」
 
 私はほっと一息ついてそう答え、ライザーさん達のいる診療室のほうを指さした。だが、私のその言葉を聞くとサンドラさんは今までよりもっと青ざめて叫んだ。
 
「な、何だって?ウィローはどこだい!?」
 
「ど、どうしたの?」
 
「いいから!!さっさとあたしをウィローのところに連れてお行き!!」
 
 私は勢いに押され、訳がわからぬまま妻を寝かせた部屋にサンドラさんを案内した。サンドラさんは私を部屋から追い出すとぴしゃりと戸を閉め、しばらくして出てきた時にはさらに真っ青な顔をしていた。
 
「クロービス、早くお湯を沸かして清潔な布をたくさん持ってきておくれ!あんたいったいウィローに何をさせたんだい!」
 
「え?治療術の呪文を何度も唱えてたから、疲れてるんだと思うんだけど・・・。」
 
「まったく・・・!!ウィローのお腹の中にはね、あんたの子供がいたんだよ!あんた何も聞いていなかったのかい!?かわいそうに・・・流産してしまったよ・・・。ほら早く!こんな時はあとの処置が大事なんだよ!」
 
「え・・・わ、私の・・・!?」
 
 それ以上言葉が出てこなかった。私は何も聞かされていなかった。その場にいたライザーさん夫婦もブロムおじさんも愕然としていた。今ひとつ事情が飲み込めぬまま、私はサンドラさんの言うとおりにお湯や布を準備した。サンドラさんは妻の手当をすませると、診療室でライラを抱き呆然としているイノージェンに歩み寄った。そしてライラの顔をのぞき込み、
 
「助かったんだね?それじゃ、この子のかわりにクロービスの子供が神様のところにいっちまったんだ・・・。あんた達、この子を大事にしておやり。」
 
 そう言ってイノージェンの肩を優しく叩いた。そして私のほうに向き直ると、
 
「クロービス、ウィローは当分絶対安静だよ!今無理したら大変なことになるよ!」
 
 そう言い残して、眼の辺りをゴシゴシと擦りながら、サンドラさんはスタスタと出ていってしまった。私はまだ何が起こったのか把握できずに呆然としていた。
 
「クロービス、ウィローのところに行ってやれ。」
 
 ブロムおじさんの言葉にやっと我に返り、妻の元に戻ると、妻は頭から布団をかぶっている。
 
「ウィロー・・・君は・・知ってたの・・・?」
 
「ごめんなさい・・・。」
 
 妻は布団の中から消え入りそうな声で答える。
 
「わかったばかりだったから・・もう少ししたら言おうと思ってたの・・・。」
 
「そんな・・そんな体であれほどの呪文を唱えたりしたら、無事では済まないことくらいわかってたじゃないか・・・!」
 
「でも・・・ライラを助けたかったの・・どうしても助けたかったの・・・私の呪文で助けることが出来るなら・・・どうしても・・・助けたかったの・・・。」
 
 私は言葉に詰まった。たしかにその通りなのだ。もうほとんど息がなかったライラを助けることが出来るのは蘇生の呪文以外になく、その呪文をを唱えられるのはウィロー以外に誰もいない。私はブロムおじさんに医療の手ほどきを受け始めて2年足らずのにわか医者だ。私の使える治療術だけでは、このような事態の前にはほとんど役に立ちはしなかった。そして妻が、今自分の目の前で消え去ろうとする命をあきらめることなど到底出来ないことも・・・私にはわかりすぎるほどにわかっていた・・・。
 
 この世界の医学は、いくら進歩したのなんのと言っていても、まだまだ呪文に頼らなければ成り立たないものなのだ。そしてその呪文でさえ万能ではない・・・。結婚して初めての子供を失った悲しさ、自分が役に立たない悔しさと情けなさで、私は言うべき言葉が見つからず、ただ頭を抱えたままベッドの隣にある椅子に腰を落とした。
 
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・クロービス・・・。」
 
 ベッドの中から震える声で妻が私に謝り続ける。そうだ、今一番辛いのは、私よりもウィローだ・・・。きっと私を驚かせることを楽しみにしていたのだろう・・・。自分のお腹の中に確かに生まれた小さな命が突然消えてしまった・・・。その喪失感は、男の私にはおそらく本当に理解することなど出来はしないのかもしれない・・・。
 
「いいんだよ・・・ライラと、私達の子供と、どっちの命も同じだものね。」
 
 それがその時の私に言える、精一杯の慰めの言葉だった。その言葉で妻は布団から飛び出し、私にすがりついてわぁっと泣き出した。
 
 どれほどつらい選択だったことか・・・。たとえ私がお腹の子供のことを知っていたとしても、あの時妻に呪文を唱えることをやめさせることが出来ただろうか・・・。他人の子供と、自分の子供と・・・。私では、どちらも選べずに立ち往生してしまったかも知れない・・・。さっき、蘇生の呪文を唱えると言った時に、妻は決断を下していたのだろう。その心中を思いやり、私の胸の奥がギリギリと痛んだ。
 
「ごめん・・・ウィロー・・・ごめん・・・。」
 
 私はウィローを抱きしめたまま、涙が涸れるまでずっと謝り続けていた・・・。
 
 
 私が赤く腫れた目をしたまま診療室に戻った時、ライザーさん達はまだそこにいた。イノージェンが抱いているライラの頬には赤みが差し、今はもうすやすやと寝息をたてている。
 
「クロービス、ウィローは落ち着いたか?」
 
 ブロムおじさんが心配そうに私を見ている。
 
「うん、大丈夫だと思う・・・ライラはおじさんが手当てしてくれたんだね。ありがとう。」
 
「ああ、ライラはもう大丈夫だ。とにかくウィローは大事にしてやらんとな。私も悪かったよ。いつもウィローに頼り過ぎていたな。」
 
 おじさんが大きくため息をついた。唇を噛みしめ、目には涙がにじんでいる。私達夫婦に子供が生まれることを、ブロムおじさんはきっと楽しみにしていたのだろう・・・。
 
「そんなことないよ。私がぼんやりしてたのが悪かったんだ。全然気づかなかったんだから・・・。」
 
 そうだ。悪いのは私だ。何も気づかずにいた私なのだ・・・。後悔の念が胸を締めつけ、また涙がこぼれ落ちる。
 
「クロービス・・・すまない・・・。僕達は・・・どうやって君達に償えばいいのか・・・。」
 
 ライザーさんが涙をためた瞳で私を見つめ、深く頭を下げた。その隣でイノージェンは泣き続けている。
 
「クロービス、ごめんなさい・・・私がちゃんと子供達を見ていれば・・・!」
 
「・・・いいんだよ、イノージェン。ライザーさんも顔を上げてください。ライラも、私達の子供も同じ命なんですから。だから・・・もういいんです・・・。」
 
 先ほどウィローに言った言葉を私は繰り返した。自分に言い聞かせるように・・・。
 





 
「そのカインももう18歳か・・・。早いものだね。」
 
「そうよね・・・。おまけにいきなり結婚したいだなんて・・・。」
 
 妻はまたくすりと笑う。
 
「でも私だって君と結婚したのは、えーと21になったばかりの頃だったと思うから・・・。そんなに早いとも思わないけど・・・。まあ今回のことに関しては、確かにカインの勇み足という気はするけどね。」
 
「その違いは大きいわよ。それに・・・あなたと違ってカインはホントのほほんと育っちゃったしね。あなたは、自分が経験したような辛い思いはカインにさせたくないって言ってたから、結構甘くなっちゃったのかもね。」
 
「あれ?それじゃ私のせいみたいじゃないか。」
 
「半分はね。」
 
 その言葉で二人とも笑い出してしまった。
 
「でものびのびと育ってくれたし、それはそれでいいんだけど、もう少し他人を思いやったりする心がほしいところだわ。優しくていい子だとは思うけど、一人前の男としてはちょっと頼りないわよ。」
 
「自分の息子だと思うからよけいじゃないのかい?あれでもちゃんと王国剣士としての仕事はしているんだろうから。」
 
「だといいんだけど。」
 
 妻が肩をすくめてみせる。
 
「ねぇ、あなたはこの島で育って、お父様が亡くなったから王国に出ていったのよね。」
 
 短い沈黙のあと、不意に妻が話題を変えた。
 
「そうだよ。」
 
「そのころの話、また聞かせてよ。」
 
「どうしたの?急に。」
 
「ふふ・・・。何となくよ。私達の息子がここを出て王国へ行って・・・。今あなたと同じ道筋を辿っているのかも知れないなって、そう思ったら、またあなたの昔話聞きたくなっちゃった。」
 
「昔話か・・・。」
 
 20年、いやもう少し前になるのか・・・。父が亡くなって、この島を出て、エルバール王国へと向かったあの日・・・。以前妻に一度だけ話したことがある。南大陸で一緒に旅をするようになってしばらくしてからだったか・・・。カインと、私と、そして妻と、共に旅をする仲間として、お互いのことを何も知らないのではうまくやっていくことも出来ないだろうからと、あれは確か、カインの提案でそれぞれが自分の生い立ちなどを披露しあった時があった。
 
「だめ・・・?」
 
 考え込んだまま黙っている私の顔色を窺うように、妻が上目遣いに見ている。
 
「いや・・・、別に駄目じゃないけど・・・。」
 
 でもなぜか話す気になれない。
 
「でも今聞いても、中身は同じだよ。父が亡くなって、エルバールに出ていって・・・。前に話したことだし、わざわざ話すほどのことは・・・。」
 
 何か特別楽しい話があるわけでもない。そして今となってはもう過去のことだ・・・。
 
 
 その時、何かが脳裏を一瞬よぎったような気がした。何なのかはわからないが、背筋がぞくりとする。そして頭の中に声が響く・・・
 
 −−嘘だ・・・・−−
 
 ほんの少しこわばったらしい私の表情を妻は見逃さなかった。
 
「どうしたの?顔色がよくないけど・・・。」
 
 心配そうに私の顔を覗き込む。
 
「あ、いや・・・何でもないよ。・・・父が亡くなった時はつらかったなって思ってね・・・。」
 
「そう・・・。そうね・・・。ねぇ、やっぱりあなたの話もう一度聞かせてよ。この間あなたがあの夢を見た時に、私は『あなたのことでわからないことなんて何もない』なんて言って見せたけど、本当はそうでもないのかもしれない・・・。そりゃ昔のことなんて、今聞いたって別に何か変わることがあるわけじゃないけど・・・。でも聞きたいわ・・・。」
 
「そうかな・・・。でも私達はもう20年以上も一緒にいるんだから。やっぱり君には私のことでわからないことなんてきっと何もないよ。君には何にも隠しごとが出来ないしね。すぐに見破られるから。それにカインだって、私の時とは違う。両親がいて、いつでも帰れる家があって・・・。」
 
 そう言って笑ってみせる私の脳裏に、また何かの影がよぎり声が響いた。
 
 −−嘘つきめ・・・−−
 
 また顔がこわばる。
 
「クロービス、ほんとにどうしたの?様子が変よ。私何か悪いこと聞いた?」
 
「・・・いや・・・何も、ないよ・・・。」
 
「それとも・・・本当はこの島で何かあったの?昔あなたが私に教えてくれたのは、この島が世捨て人の島と呼ばれていて、お父様が亡くなってそこから出てきたってことと、ブロムさんがあなたを城下町まで連れて行ってくれたこととか、あとは・・・ライザーさんとあなたのお父様の関係とか・・・。それともそのほかに何かあったの?」
 
「・・・何もないよ。別に・・・何も・・・。」
 
 言いながら、何か得体の知れない恐怖が私の胸を少しずつ締めつけていく。
 
「何もないって顔じゃないわ。・・・それとも・・・私にも言えないようなこと・・・?」
 
 妻が寂しそうな瞳で私をじっと見つめる。私はこの瞳に弱い。この瞳で見つめられると何でも話してしまいたくなる。私は立ち上がり、そのまっすぐな瞳を避けるように妻の隣に座って肩を抱き寄せた。
 
「・・・わかったよ。別に楽しい話もないけどね・・・。」
 
 先ほどから頭に響くあの声・・・。どこかで聞いたような・・・でも聞いたことなどないような・・・不気味な声・・・。
 
 私は何も嘘などついていない。あの声は一体何者なのか。だが・・・一度はあの頃の出来事を妻に話して聞かせたのに、どうして私は今、こんなにためらっているのだろう。
 
 あの頃・・・私のもっとも輝いていた時間・・・。そしてもっとも悲しみに満ちた時間・・・。私の人生を変えた、一片のピアノ譜と奇妙な夢・・・。私の青春時代・・・・・・。
 
 声に抗うように、私は遠い記憶を辿り始めた。
 
 

第2章へ続く

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