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第2章 父の死

 
 それは、父サミルが出かけたまま二ヶ月経っても戻らない、ある日の夜明け前のことだった。私は小さな頃から見続けている少女の夢を見た。
 
 美しい満月を見つめる少女。
 やがて少女はバルコニーから階段を降りていく。
 引き留める私の声も届かず・・・聞こえてくる悲鳴・・・。
 
 
 −−クロ・・ビス・・・
 
 誰かが呼んでいる・・・
 
 −−クロービス・・・
 
 誰だ・・・誰の声だ・・・
 
「クロービス!!」
 
「ク、クロービス・・・!?おい、起きろ!」
 
 がくがくと体を揺さぶられ、眼を開けると、それはブロムおじさんだった。
 
「一体どうしたんだ!?汗びっしょりじゃないか・・・。」
 
 ぼんやりとしたまま起きあがった私を見て、おじさんはほっと一息ついた。
 
「ふぅ・・・やれやれ。・・・無理やり起こして悪かった。うなされ方が尋常じゃなかったもんでな。」
 
 おじさんの真っ青な顔色から察するに、私はかなりうなされていたらしい。小さな頃からよく見る夢だったが、ここしばらくは見ないことが多かった。久しぶりに見たせいもあるのだろうか・・・。
 
「どうしたんだ・・何か怖い夢でも見たのか?」
 
 私はおじさんに夢の詳細を語って聞かせた。
 
「・・・女の子の夢だと・・?ふん、そんなこと気にするな。そもそも夢なんてなんの意味もないものなんだからな。」
 
 おじさんは怒ったように言い捨てると、むっつりと黙り込んだ。
 
 
 やがて夜が明け、窓から朝日が差し込む。私はまだぼんやりしている頭を抱えながらベッドから降りて寝室を出た。顔を洗っている間に、少しずつ頭の中がはっきりしてくる。着替えのために寝室に戻ると、ブロムおじさんは私のベッドの脇に立ったまま、心配そうに私を見つめている。
 
「どうだ?少しはすっきりしたか?」
 
「うん・・・。大丈夫だよ。」
 
「そうか・・・今日は一日外へでも行って来たらどうだ?ちょうど新緑の季節だ。空気が気持ちよくて、いい気分転換になるだろう。」
 
 その言葉に私はカーテンを開けて外を見た。北の果てにあり、いつも灰色の曇り空で覆われているこの島も、今のこの季節から夏にかけてだけは青空がのぞき、萌え立つ緑をよりいっそう鮮やかに際だたせている。
 
(気分転換か・・・散歩でもしようかな・・・。)
 
 そう考えながら簡単な食事を済ませ、外に出ようとしたその時、家の扉が勢いよく開いた。
 
「おはようっ!クロービス、いいお天気よ!散歩に行きましょう!!」
 
 飛び込んできたのは、近くに住む幼馴染みのイノージェンだった。
 
「うわ!あ、ああ、おはよう、イノージェン。あー、びっくりした。」
 
「あらやだ。ごめんなさい。さあ行くわよ。」
 
 そう言いながらイノージェンは私の手を引っ張る。
 
「ちょうどいいじゃないか。二人で岬のほうにでも行ってきなさい。」
 
 ブロムおじさんが私の背中に声をかける。その声で初めて、イノージェンはブロムおじさんの存在に気づいたらしい。
 
<br>「あ、あら、ごめんなさい。ブロムさんがいらっしゃるなんて思わなかったわ。おはようございます。クロービスを連れ出してもいいかしら?」
 
「ああ、おはよう。構わんよ。こっちからお願いしたいくらいだ。」
 
「じゃ、行きましょう。クロービス。」
 
 私達は外に出た。ドアを閉めるなりイノージェンがしゃべり出す。
 
「ふぅ・・・びっくりしたわぁ。ブロムさんがいるなんて思わなかったから。何か用事でもあったの?」
 
「いや、父がなかなか帰ってこないんで、私を心配して見に来てくれたらしいよ。」
 
「そっか・・・。サミル先生はまだ帰らないのね・・・。どうしたのかしら・・・。」
 
 岬へ向かう途中、長老に出会った。
 
「おお、クロービス、おはよう。サミルはまだ戻らんのか?」
 
「おはようございます。ええ、まだみたいです。」
 
「そうか・・・サミルにはいつも世話になっておる。あの医術のおかげで島の者がどれほど助かったことか。しかもサミルはただの一度も治療費を請求したことがない・・・。心配じゃのぉ。早く戻ってくれるとよいのだが・・・。クロービス、何かあったら必ず知らせてくれよ。」
 
「わかりました。必ず。」
 
 長老も心配している・・・。父はどうしてしまったのだろう。以前はこんなに長く家を空けたことなどない。全くないわけではなかったが、たまに出掛けていっても大抵はひと月ほどで帰ってきた。今回のように出掛けてから二ヶ月も経って、何の連絡もないと言うことは初めてだった。
 
「おーい、おはよう、クロービス、イノージェン。」
 
 後ろから呼ぶ声がする。
 
「あら、グレイだわ。ラスティも一緒みたいね。」
 
 振り向くと、グレイとラスティが追いかけてくるところだった。私よりも何年か早くこの島にやってきた兄弟だ。両親と一緒にエルバールを脱出してこの島に向かったらしいが、ここに辿り着く前に両親は亡くなったらしい。その後長老と一緒に暮らしていたが、兄のグレイが20歳になったのを機に長老の家を出て、近くにあった空き家に引っ越していた。グレイは私よりも8歳上、ラスティは私より一つ上だ。
 
「お前らどこへ行くんだ。」
 
 ラスティが聞いてきた。
 
「天気がいいから岬のほうにでも散歩しに行こうかと思ったんだ。一緒に行かないか?」
 
 イノージェンと二人よりも、何人かで行くほうが気晴らしになるかもしれない。
 
「散歩かぁ・・・今日はやることないしなあ・・。どうするかな・・・・。」
 
 ラスティがつぶやく。そしてはっとしたように急に声を落とした。
 
「ところでサミル先生、まだ戻らないんだよな・・・?出かけてからだいぶ経つだろ?そろそろまずいよな・・。何かあったんじゃないのか・・!?」
 
 どきりとした。本当に何かあったのじゃないんだろうかと、不安が胸に広がる。
 
「ばか!縁起でもないこと言うなよ!」
 
 グレイがラスティの頭を思い切り叩いた。
 
「いてっ!そんなに思いっきり叩かなくてもいいじゃないか!・・・わかったよ。悪かったよ。でもみんなだってそう言ってるぜ。」
 
 ラスティが頭を抱えながら、兄のグレイに恨めしそうな視線を向ける。
 
「いやぁねぇ。そんなことばっかり言うなら、私達二人で行くわ。クロービス、行きましょ!」
 
 イノージェンは怒って私の手を引っ張りどんどん歩き出す。
 
「俺達は遠慮するよ。お前らだけで行って来いよ。じゃな。」
 
 グレイ達は来た道を戻って行き、私達は岬に向かった。
 
 
 いつもなら鈍色に光っている海の色は、今の季節だけ顔を出す太陽に照らされて、本来の碧さを取り戻していた。その海の向こう、遥か遠くに島影が見える。エルバール王国の陸地だ。
 
「気持ちいいわねえ・・・。あそこに・・・ライザーがいるんだわ・・・。」
 
 イノージェンはここに来ると、必ず岬の突端に立ち、エルバール王国の島影を眺めていつも同じことをつぶやく。昔この島にライザーさんという人がいて、私がこの島に来てからいつも遊んでもらっていたという事は聞いてはいたが、私はそれを憶えていない。
 
「またライザーさんの話?」
 
 私は背中を向けているイノージェンに声をかけた。
 
「ライザー『さん』か・・・。あなた、昔はライザーのあとを『アイダー、アイダー』って言いながら追っかけてたのにね。全然憶えてないの?」
 
「憶えてないよ。私はまだ小さかったし。ラスティは憶えてるみたいだけど、小さい時の1歳違いって大きいからね。」
 
 イノージェンにとっても、グレイやラスティにとっても、ライザーさんという人は幼馴染みであり、よく見知った人物なのだろうが、まったくと言っていいほど憶えていない私にとっては単なる『見知らぬ人』でしかない。知らない人を呼び捨てにするのは失礼なような気がして、いつも私はライザー『さん』と呼ぶ。そしてイノージェンは私がそう呼ぶのを聞くたびに少し寂しげな顔をするのだった。
 
「そうね・・・。そうかもしれないわね・・・。でもグレイやラスティ達とライザーの話ってする気になれなくて・・・。ついあなたを引っ張り出しちゃうのよねぇ・・・。不思議だわ・・・。」
 
 イノージェンの心の中はライザーさんのことでいっぱいらしい。
 
「でもライザーさんがこの島を出たのは、もうずいぶん前だって言ってたよね。」
 
「そうよ。私が8歳だったから、ライザーはあの時10歳ね。もう14年も前だわ・・・。」
 
 14年も前に島を出ていったまま音沙汰もないのに、どうしてその人はそれほどまでに彼女の心を占めているのだろう。
 
「14年も過ぎてるのに・・・君は忘れてないんだね。」
 
「・・・忘れられるわけがないわ・・・。私達は・・・いつも一緒だったんだもの・・・。」
 
「いつもか・・・。でもどうしてその人がいつも君と一緒にいたのか聞いても、君はいつも黙っているよね?どうして?」
 
「どうしてって・・・どうしてもよ。私にとってはそんな理由なんてどうでもよかったもの。私が憶えているのは・・・そうね、たぶん4〜5歳くらいからだと思うけど、母が言うにはもっと前から、うちでライザーを預かっていたって言ってたわ。だから私は・・・生まれた時から彼と一緒にいたようなものなのよ・・・。」
 
 ライザーさんには両親はちゃんといたらしい。なのにいつもイノージェンの家にいて、二人で遊んでいたという。妙な話だが、その理由をイノージェンは語らない。
 
「君はライザーさんが好きなんだね。」
 
「好き・・か・・・。そうなのかしら・・・。でもそうね。一言で言い表すなら、それしか言葉がないかも知れない・・・。離れてからもう14年も過ぎるのに・・・彼が隣にいないことがとても不思議に思える・・・。それほど、私達は一緒にいるのが当たり前だったの。私が憶えているライザーの顔は10歳の時のままだけど・・・でもきっと、今会えばすぐにわかるわ。帰ってきたら、帰ってきてくれたら・・・必ず・・・ひと目でわかる・・・。」
 
 19歳になった私は、3つ年上のこの幼馴染みの女性に、いつしか淡い恋心を抱くようになっていた。でも・・・彼女の心に私の入る隙はない。彼女が私を連れだして話すことと言えば、ライザーさんのことばかりだ。おかげで私は、まったく憶えていないはずのその人について、多少なりとも知識を持つようになった。
 
 とても優しい人だったこと。昔は体が弱かったそうだが、私の父がこの島にやってきてから適切な治療で元気になったのだということ。グレイとラスティと、そして私も一緒によく遊んでいたと言うこと。14年前彼の両親が亡くなり、エルバール王国からやってきた親戚の夫婦に引き取られることになって、この島を出ていったということ。別れ際、イノージェンに『いつか必ず君のところに戻ってくるよ。』そう言い残して、泣きながら彼の上着の裾をつかんで離さなかった彼女の手を握り、船に乗って去っていったこと・・・。
 
 ライザーさんについては憶えていないが、昔からイノージェンが私をかわいがってくれていたことはよく憶えている。グレイもラスティも、それからずっと私の大事な友達だ。その後、この島にやってくる人達が増えたことで、他にもたくさんの若者がこの島にいる。だがそのほとんどはこの島に馴染もうとはせず、いつかエルバール王国へ出て成功することを夢見ている人達ばかりだ。そしてその夢を実現すべく、王国に向かった若者もたくさんいる。彼らは今頃どうしているのか・・・。
 イノージェンは、柔らかな金髪を風になびかせ、まだエルバールの島影を見つめ続けている。
 
「いつかライザーがあそこから戻ってきてくれるわ・・・。」
 
「そろそろ帰ろう。」
 
 何となくここにいたくなくて、私はイノージェンに声をかけた。ここにいると、遙か彼方にあるはずのエルバール王国から、そのライザーさんという人がイノージェンを連れ出しにやってくるような、そんな不安があった。
 
「もう?あら、陽も高いわね。」
 
 イノージェンは私の提案に不満そうだったが、空を見上げて頷き、私達は岬を後にした。
 
「ねぇ、クロービス、私の家にお昼を食べに来て。母も待っているわ。」
 
「そうだね。それじゃお邪魔しようかな。」
 
「わぁ!ありがとう。母はあなたと話すのが楽しみみたいなの。さ、行きましょう。」
 
 イノージェンは母さんと二人暮らしだ。イノージェンは小さな頃、自分の家は元々父親のいない家だと聞かされていて、それを信じていたという。だが、成長するに連れ、父親と母親がいなければ子供は生まれないことを知り、その理由を母さんに尋ねたところ、彼女は自分の出生の驚くべき事実を聞いた。
 
 イノージェンの母さんは、若い時にエルバール王国の城下町にある、大きな御屋敷で働いていたらしい。そこの跡取息子と愛し合ったが、その家の主人が息子と小間使いの結婚など許すはずもなく、二人は泣く泣く別れさせられた。その後相手が別な女性と結婚したあと、イノージェンの母さんが身ごもっていることを知り、エルバール国内で出産されては世間体が悪いと言うことで、相手の男性の両親からこの島に住むように半ば強制されたらしい。その代わり、この島で生活できるだけのものは準備するという条件だったそうだ。イノージェンの母さんはお金などいらないと断りたかったが、どうしても子供は生みたかったから、泣く泣くその条件をのんでこの島に来たらしい。
 
「だからエルバール王国には、私の母さんの違う兄弟がいるのかもしれないわ。」
 
 イノージェンは平気そうにそんな風に言っていたが、その心中を思いやり、私は胸が痛んだ。
 
 
 岬からの道を村の中に向かって歩いていると、ダンさんに出会った。島ではずっと木こりをして暮らしている。この人の製材の技術は相当なものらしく、ダンさんが製材した木材をエルバール王国にも出荷しているほどだ。『世捨て人の島』からの品物でも、売れるとなれば取引に応じる商人はいるらしく、島の重要な収入源になっている。この人がこの島にいる理由を私達は知らない。本人が話さなければ誰も尋ねようとはしない。
 
「よぉ!クロービス。親父さんはまだ戻らないのか?」
 
「はい・・・まだ・・・。」
 
「そうか・・・心配だなぁ・・・。ところでなあ、クロービス。この島の人間は他人の過去に関心を持たないが、それでもお前ら親子とブロムに関しては、皆不思議に思っているんだよ。こんな島で暮らさなくちゃならんような人達とは思えないんでね。なんでもブロムは昔、お前の親父さんにかなり世話になっていたらしいが・・。それにこの島の人間達の中でもブロムは特に人間嫌いなんだよなぁ。そもそもお前とサミル先生以外の人と口をきいたことすらほとんど無いんじゃないかな。あいつが笑ったところなんて見たことがないし。ま、過去に余程嫌なことでもあったんだろうな。まあ、いずれにせよ、王国の生活で心に何らかの傷を負った人間達がこの島に来るんだから当然かもしれないけどな。」
 
「ダンおじさん、そんなこと言うためにわざわざクロービスを呼び止めたの?関心を持たないって言うわりには興味津々じゃないの。」
 
 イノージェンがダンさんを睨む。
 
「い、いや、俺はそんなつもりじゃ・・・。」
 
「ダンさんが心配してくれているのはわかっています。ありがとうございます。」
 
 私は丁寧に頭を下げたが、ダンさんは居心地悪そうに
 
「・・・お前は、この島に来てからずいぶんになるけど・・・まだ俺達とはうち解けてくれないのかな・・・。」
 
 そう言うとため息をついて腕を組む。
 
「私のしゃべり方は・・・その、これが普通のつもりなんだけど・・・」
 
 私はすっかり困ってしまった。自分としてはよそよそしくしているつもりは全くないのだが・・・。
 
「いいじゃないの!丁寧に喋って文句を言われるなんておかしいわ!」
 
 イノージェンが噛みつかんばかりにダンさんに詰め寄った。
 
「わ、わかったよ。悪かったよ。とにかく、親父さんのことで何かわかったら教えてくれよ。」
 
 ダンさんはそう言うと、そそくさと私達の元を離れていった。エルバール大陸が見える岬への道では、必ずと言っていいほど誰かしらとすれ違う。みんな一日に一度は岬へと足を向ける。普通なら、自分達がつらい挫折を味わった場所など見たくもないはずだが、みんな王国を憎み、嫌いながらもなお、その地を焦がれてやまないのかもしれない・・・。
 
 
 イノージェンの家が近づいてきた頃、道の向こうから、村のはずれに住んでいるサンドラさんが歩いてきた。
 
「こんにちは。サンドラおばさん。」
 
 イノージェンがにこにこと挨拶する。
 
「おや、イノージェン。クロービスと一緒かい。こんにちは。あんた達はいつも仲がいいねぇ。」
 
 サンドラさんは言いながら私達を目を細めて見ている。
 
「そりゃ仲がいいわよ。私達は姉弟みたいなものだもの。」
 
「おやおや姉弟かい・・・。それはそれは・・・クロービスも張り合いのないことだねぇ。」
 
 イノージェンの言葉に、サンドラさんはからかうように笑う。自分の心の内を見透かされたような気がして、私は思わず顔を赤らめた。でもイノージェンはきょとんとしている。
 
「どういうこと?」
 
「わからないのかい?まあいいか。年寄りの口出す事じゃないしねぇ。クロービス、あんたの父さんはどうしてるんだい?まだ戻ってこないのかい?」
 
「うん、まだ・・・。」
 
「そうかい・・・。心配だね・・・。早く戻ってくるといいね。さてと、天気がいいうちに川に洗濯しに行かないとね。それじゃね。」
 
「手伝いましょうか?」
 
 イノージェンが心配そうに声をかけた。
 
「ありがとう。大丈夫だよ。あたしは今までずっとこうして洗濯をしてきたんだから。」
 
 サンドラさんは微笑んで、大量の洗濯物を抱えなおすと川の方へと歩いていった。
 
「もう!おばさんたら年寄りだって。うちの母さんといくつも違わないのに。」
 
「まあ私達よりずっと年上ではあるけどね。そう言う意味だったんじゃないのかな。」
 
「そりゃそうだけど・・・。でも不便よね。サンドラおばさんの家のあたりは井戸がないんだもの。天気を待って川に行くんじゃ大変だわ。」
 
 イノージェンはまだ心配そうにサンドラさんの後ろ姿を追っている。
 
「でも・・井戸はあるよね。あれは使えないのかな?」
 
 私は、サンドラさんの家の近くに古い井戸があったことを思い出した。
 
「あそこは井戸としては使ってないそうよ。でもきれいに手入れされているのよね。」
 
 イノージェンも不思議そうだ。
 
 
 やがてイノージェンの家に着いた。イノージェンの母さんがにっこりと笑って出迎えてくれる。
 
「いらっしゃい、クロービス。お腹空いているでしょう。たくさんお昼を用意したの。食べていってね。」
 
「ありがとう、おばさん。いただきます。」
 
 イノージェンの母さんは、母親のいない私の面倒をいつも見てくれていた。今になればともかく、小さな頃は父とブロムおじさんの二人だけではなかなか気の回らないことも多く、父もイノージェンの母さんにはとても感謝している。
 
「クロービス、サミル先生はまだ戻らないのね・・・。ご無事だと良いのだけど・・・。」
 
「大丈夫だよ。きっと仕事が忙しいんだよ。」
 
 私は務めて明るく答えた。みんなが父を心配してくれている・・・。早く帰ってくればいいのに・・・。
 
 
 お昼をごちそうになって、私はイノージェンの家を出ようとした。
 
「ごちそうさまでした。それじゃ失礼します。」
 
「あら待って、クロービス。私も行く。」
 
 イノージェンがあとを追ってくる。
 
「あなた達は本当に仲がいいのねぇ・・・。」
 
 イノージェンの母さんが、サンドラさんと同じように目を細めて私達を見ている。
 
「そりゃそうよ。クロービスがこの島に来てから、私達姉弟みたいに育ったんだもの。」
 
 イノージェンも同じ言葉を返す。
 
(姉弟か・・・。)
 
 少し胸が痛んだ。イノージェンにとって、私はいつだって弟でしかないのだ・・・。
 
「姉弟・・・。ねぇイノージェン、出かける前に少し台所を片づけて来てくれる?」
 
「はーい。クロービス、待っててね。すぐに来るから。」
 
 イノージェンは母さんの頼みを聞いて、家の奥へと消えていった。待っている私に、イノージェンの母さんがおずおずと切り出した。
 
「ねぇ、クロービス・・・その・・・あなたはイノージェンのことどう思ってるの?」
 
「え、どうって・・・その・・・。」
 
 不意をつかれ口ごもる私に、
 
「もしも・・・もしも、嫌でなければ、あの子と結婚してやってほしいのだけど・・・。でも無理な相談かしら・・・。」
 
小さな声で、最後の方は独り言のように、ぽつりぽつりと話す。
 
「それは・・・きっと無理だよ。イノージェンは私のことは弟みたいにしか思ってないんだ。それに・・・イノージェンは・・・昔この島にいたライザーさんが帰ってくるのを、ずっと待ってるんだよ。」
 
 私がよくても、イノージェンの心は私にはない。
 
「ライザーを?・・・あの子まだそんなことを・・・。」
 
 イノージェンの母さんがため息をついた。
 
「クロービス、あなたはライザーを憶えているの?」
 
「ん・・・全然。ラスティも憶えているのにね。何度イノージェンに聞いても今ひとつぼんやりして、顔も声も思い出せないんだ。」
 
「何度もって・・・イノージェンはいつも、あなたにライザーの話をしているの?」
 
 イノージェンの母さんは驚いたように私を見た。
 
「そうだよ。いつも・・・。」
 
 言葉を濁す私を気遣わしげに見ながら、イノージェンの母さんは大きなため息をついた。
 
「そう・・・。ライザーは・・・とても優しい、いい子だったわ・・・。でもあの子が島を出たのはもう14年も前なのよ。それも10歳の時だわ。もう24歳だもの・・・。きっと立派な青年になって、とっくにいい人が出来ているわよ・・・。もしかしたら、もう結婚しているかもしれない・・・。こんな島の人間のことなんて・・・憶えているわけがないわ・・・。」
 
「・・・でも、イノージェンにとっては、全然昔の事じゃないみたいだよ。いつか必ず戻って来てくれるって・・・。ずっと、信じて待ってるんだ・・・。」
 
「そうだったの・・・。ごめんなさい。おかしなことを聞いてしまって。でももう私も長くないかもしれない・・・。そうなったときにあの子を託せるのはあなたしかいないと思っていたわ。グレイもラスティもいい子達だし、他にもたくさん若者はいるけど・・・。」
 
「おばさん、そんなこと言わないで。イノージェンが聞いたら悲しむよ。」
 
「そうね・・・。ありがとうクロービス。私がしっかりしなくちゃね。」
 
 おばさんは力無く微笑んだ。顔色が良くない。いつも父のところに診察に来て薬をもらっていくが、簡単に治る病気じゃないらしく、イノージェンの母さんが帰った後、いつも父は頭を抱えて分厚い医学書を何度もめくっているのだった。
 
「おまたせぇ。さぁて、またお散歩してきましょ。」
 
 イノージェンが奥から元気よく飛び出してくる。
 
「イノージェン、気をつけてね。クロービス、イノージェンをよろしくね。」
 
「はい。」
 
「大丈夫よ。行ってきます。」
 
 そうして私達はまた二人で外に出た。イノージェンの家でゆっくりしていたので、陽はもう西の空にかかるところだった。途中、2年ほど前にこの島にやってきた、デュナンさんに出会った。彼は父とそれほど歳は違わないようだが、どうもエルバール王国で何かの犯罪を犯してここまで逃げてきたらしい。しかし、いったい何の罪なのかは誰も知らない。近づくと酒臭い。昼間から酔っているらしい。
 
「デュナンさん、どうしたの?うわ、くさぁい!また昼間から飲んでいるの?」
 
 イノージェンがあきれたように大声で叫び、顔をしかめる。
 
「へっ!だからどうした!?ここは世捨て人の島だ。失業、破産、犯罪・・・何らかの理由で王国に居られなくなったヤツらが集まっているんだ!要するに落ちこぼれの島なのさ。だからみんな干渉なしに気楽にやっているんだ。それにこの酒は俺の金で買ったもんだ!ほっといてくれよ!どうせ・・・」
 
 デュナンさんは大声で怒鳴ったが、ろれつが回らないらしく最後のほうはよく聞き取れなかった。
 
「イノージェン、人それぞれなんだからいいじゃないか。行こう。」
 
 この島にいる人達にはそれぞれ事情がある。それは他人になど理解することが出来ないことだ。昼間から酒を飲んでくだを巻くことがいいことだとは思えないが、だからと言って私達が口出しをしていいことではないような気がする。デュナンさんはそんな私の言葉を聞き、にやりと笑った。
 
「へっへっへ。クロービスは物わかりがいいねぇ。そういやお前、親父さんはどうした?まだ戻ってこないのか?」
 
「ええ、まだ・・・。」
 
 このやりとりをするのは今日で何回目だろう。父が出掛けて一ヶ月と半分を過ぎた頃から、外に出るたびに、会う人ごとに同じ質問を投げかけられる。
 
「ふぅん・・・。」
 
 デュナンさんの瞳が少し意地悪そうに光った。
 
「まったく何をしてるもんだかなぁ・・・。サミル先生ってのは、不思議なんだよな。医者だって言ったって治療費は取らないし、他に何か商売をしているわけでもなさそうだし・・・。それなのにお前と二人でちゃんと生活してんだもんなぁ・・・。いったい、どこに金を持っているやら・・・。ああいう真面目そうな人に限って、裏じゃ何をしてるかわかったもんじゃないからな・・・。」
 
「ちょっとひどいじゃないの!あなただってサミル先生に何度も助けてもらったことがあるでしょ!どんな風に暮らしていようと人の勝手じゃないの!!」
 
 私が何か言うより早く、イノージェンがデュナンさんを怒鳴りつけた。デュナンさんもさすがに言いすぎたと思ったのか、びくっとして体を縮こまらせた。
 
「ご、ごめん・・・悪かったよ。クロービス。冗談だよ、冗談。ははは・・はは・・・。」
 
 とってつけたように不自然に笑うデュナンさんを残して、私は黙ってその場を離れた。島の人達が、私の父を尊敬する一方でそんな噂をしていることは私も知っていた。しかし私にもそれはわからないのだ。私達が暮らしていくためのお金。父がどこからそれを調達しているのか、そもそもなぜこの島に来たのか、何一つ聞かされてはいなかった。
 
 私達は一度私の家に戻った。朝でかけたきり戻らなかったので、ブロムおじさんが心配しているかもしれなかったからだ。
 
 
「ただいま。」
 
「おかえり。」
 
 ブロムおじさんはまだ家にいた。
 
「どうだ?少しは気分転換になったか?」
 
「そうだね・・・。」
 
 散歩自体は確かにいい気分転換になったが、会う人ごとに父のことで質問されて、少しうんざりしていた。
 
「あんまり効果はなかったようだな・・・。やっぱりサミルさんが戻らないのが心配か・・・?」
 
「うん・・・。今回は少し長すぎるような気がして・・・。」
 
「・・・・・大丈夫だ。サミルさんはお前を置いて、どこかに消えたりなぞしない。もうすこし、もうすこしの辛抱だ。今にきっと戻ってこられる・・・。」
 
 ブロムおじさんは、父がどこに行っているのか知っているのだろうか・・・。
 
 
 新緑の季節は、薬草摘みにはとても重要な時期だ。この時期に摘んでおかないと、あと一年手に入らないものも少なくない。だから毎年この時期には、診療所をブロムおじさんに任せて、父と私は島の中の森に薬草を摘みに出掛けるのが恒例になっていた。父は私に自分のあとを継がせようと言う気はなかったらしい。それでも、薬草の種類や似たような草との見分け方、簡単な薬の調合方法、それに基本的な治療術は教えてくれていた。いつもなら、山歩きの準備のために弓弦を張り替えたり靴を修理したり、色々な準備に追われる時期だったが、私一人で山に入ることは出来ない。今の時期がどれほど重要な時期なのか知りすぎるほど知っているはずの父が、何の連絡もないまま戻ってこないことが私にはたまらなく不安だった。
 
「・・・薬草の蓄えも少なくなってきたなぁ・・・。」
 
 ブロムおじさんが、棚を覗き込みながら不安そうにつぶやいた。
 
「父さんさえ戻ってくれば山に入れるんだけどね。」
 
「そうだな・・・。だがいないのだから仕方ない。さてどうするかな・・・。」
 
 ブロムおじさんは厳しい顔で考え込んでいる。
 
「おじさん、私が山に入って薬草摘んで来ようか?父さんがどのくらいで戻ってくるのかわからないし、このままじゃ薬草の在庫がなくなっちゃうよ。そう言う時に限って、誰かが薬もらいに来たりするんだよね。」
 
「それは・・・確かにそうだが・・・お前一人で行くのは危険すぎる。私が行きたいところだが、ここを空っぽにも出来ないしな・・・。」
 
 父は出かける前、定期的に薬をもらいに来る患者達の分については、おじさんに指示を出していたらしい。それにおじさん一人でも怪我の手当などは出来たので、診療所は開けてあった。もしもブロムおじさんが一人で山に入るとしたら何の心配も要らないが、私が診療所を任されても何の役にも立たない。せいぜい簡単な怪我を治療術で治せるという程度だ。やはり私が行くしかないようだ。
 
「それじゃ・・・グレイに頼んでみるよ。ダンさんの手伝いでも入らないかぎり大丈夫だと思うんだ。そんなに奥まで行かないで、すぐに集落まで戻れるところまでなら安全だから。」
 
「そうか・・・。すまないな。それじゃ、グレイが行けるようなら頼むよ。だが、絶対にお前一人では山に入るなよ。」
 
「わかったよ。グレイに頼んでくる。」
 
 私は家をあとにして、イノージェンと二人、グレイの家に向かった。グレイは庭にいて草むしりをしていたところだった。薬草摘みの手伝いの話をすると、快く承諾してくれた。
 
 
 次の日、私はグレイと二人、山に出掛けていった。イノージェンが一緒に来たがったが、断った。いつも父と一緒に島の奥まで入る時の道は避けて、比較的安全な森の外周に沿ったコースを歩くことに決めてはいたが、それでもやはり危険だし体力も使う。グレイはレザーアーマーを身につけ、木刀を持っている。彼も昔は父に剣を教えてもらっていた。私も木刀を腰に差し、矢筒を背負って弓を持っていた。木立の中に入ってしまうと木刀はあまり役に立たない。かえって弓のほうが遠くからでも狙いをつけやすいし、接近戦でも矢を直接相手に刺したりして戦うことが出来る。とは言え、この島にはモンスターと呼ばれるような恐ろしい獣はいない。大型動物は島の最深部に生息しているが、今回まわるコースでは、それらの動物がいる場所には入らないですんだ。だが、小動物とは言え、気を抜くことは出来ない。彼らにとって私達は間違いなく、自分達の暮らす場所を脅かす『敵』なのだ。道をよく知っている私が先に立って歩き、グレイが注意深く辺りを見回しながらあとをついてくる。やがて薬草の生えている場所まで来た。
 
「この辺りで少し摘んでいくから、もしも動物が襲ってきたりしたらよろしくね。」
 
「わかった。安心して摘んでていいよ。俺だってお前の親父さんに剣を教わっていたんだから、動物を追っ払うくらい何でもないさ。」
 
 薬草を摘みはじめてしばらくした頃、グレイが話しかけてきた。
 
「なあ、クロービス、お前いつもイノージェンと一緒にいるけど・・・何話してるんだ?二人で。」
 
「何って・・・いろいろだよ。」
 
「いろいろって?」
 
「グレイは・・・ライザーさんて人のことは憶えてるの?ていうか・・・忘れてるわけないか・・・。君は私よりも8歳も上なんだものね。」
 
「俺は憶えているよ。何だよ、お前憶えてないのか?ラスティだって憶えてるのに。」
 
「全然。だってその人が島を出たのって、もう14年も前なんだよね?」
 
「そうだなぁ・・・。もうそんなになるのか・・・。でもお前あの時確か・・・5歳くらいだぞ?」
 
「そうだけど・・・。記憶に残ってないよ。」
 
「へぇ、そんなもんかねぇ。お前この島に来たばかりの頃は、いつも親父さんにひっついていたんだけどさ。ライザーがお前の家に治療のために通うようになってから、いつもあいつのあと追っかけて歩いてたんだぜ。それも舌がうまく回らなくてなぁ。『アイダー、アイダー』ってな。」
 
「イノージェンにも言われたよ。」
 
「ライザーの奴も結構お前をかわいがってたんだよなぁ。昔さ、ライザーは体が弱かったんだ。・・・ていうより、何かの病気だったんだよな。俺は詳しく聞いたわけじゃないんだけど。ライザーの母さんは『もう治らない病気だから』とか、『咳が出ると移るから』とかしょっちゅう言ってたから、いつも俺達はあいつに気を使っていたよ。俺とライザーは3歳違いだったから、あの頃ここにいた子供の中で一番歳が近かったんだよな。せっかく仲良くなれたんだから遊べなくなるのはいやだったし。でもいつもいつもイノージェンのままごと遊びばかりでさ。いつだったかな、それに飽きちゃってラスティの奴が走り回って遊びはじめて、俺も面白がって後を追っかけ始めたんだ。『鬼ごっこだぞ』って叫んでさ。そしたらライザーの奴まで走り始めちゃったんだよ。もう焦ったのなんの。必死で『とまれ!』って叫んでもあいつは聞いちゃくれないし。そのうち咳が出始めて倒れちゃってさ。俺はもうどうしていいかわからなかったから、長老を呼んでこようと思って走りかけたんだ。そしたら見たことがない男の人がライザーを抱え上げてくれて、背中に手を当ててなんかぶつぶつ言い始めてさ、そしたら、ライザーの咳がすぅっと止まって。それがサミル先生だったんだ。ぶつぶつ言ってたのは治療術の呪文だったんだよ。その後ライザーの病気が、実は治らない病気でも移る病気でも何でもないってことがわかって、サミル先生のところに治療に通うようになったんだ。」
 
「へぇ・・・。そんなことがあったのか・・・。」
 
「あいつにしてみれば、お前は自分の病気を治してくれているサミル先生の息子だし、自分のあとを追っかけて歩いていたりしたから、よけいにかわいかったんじゃないのかな。弟みたいに思ってたと思うぞ。なのに憶えていないとはねぇ。お前も薄情な奴だな。あいつも気の毒になぁ。」
 
「そ、そんなこと言われても・・・。」
 
「まあ仕方ないよ。あいつがいなくなった時にお前が5歳だったってことは、遊んでもらってたころはもっと小さかったわけだからな。今頃どうしてるんだろうなぁ。また会いたいけど、もうこんな島になんて戻ってこないだろうなぁ。」
 
「いい人だったんだね。」
 
「そうだな。優しい奴だったな。結構苦労してたと思うけど。」
 
「苦労?」
 
 小さな子供が苦労することなどあるのだろうか。いくら病気だったとは言え・・・。
 
「・・・イノージェンはいつもライザーの話してるのか?」
 
「そうだね。わりと・・・。」
 
 私は言葉を濁した。ライザーさんのこと以外でイノージェンが話すことと言えば、イノージェンの母さんのことくらいだ。そして自分の出生のこと・・・。だがこの話をグレイが知っているかどうかなど私は知らない。うかつなことは言うわけにはいかなかった。グレイは私の顔を探るように上目遣いで見ていたが、やがて小さくため息をついた。
 
「なるほどな・・・。あいつの両親はこの島にいて一緒に暮らしてたんだけど・・・。親父さんが酒浸りでな。家の中はぶっ壊すわ、お袋さんに暴力は振るうわで・・・。ひどい家庭だったと思うぞ。そんな家庭なら、俺達のように両親がいない方がよっぽどせいせいする。」
 
「そんな・・・どうして・・・。」
 
「うーん・・・俺もいろんな人が話してるのを断片的に聞いただけなんだけどな。なんでもライザーの親父さんは昔、エルバール王国で結構いい暮らしをしてたみたいなんだよな。ライザーが生まれる前に、何かトラブルでも起きたのかな、この島に流れてきたって話だ。だからあいつはこの島で生まれたんだ。親父さんにしてみれば、悔しかったんだろうな。いきなり『世捨て人の島』で隠遁生活だもんな。だからって昼間から酒食らって、自分の女房に暴力振るうなんて最低だと思うけどさ。親父さんが暴れ始めると、ライザーの母さんはライザーを抱えてイノージェンの家に走っていくんだ。昼でも夜でも関係なしだ。家の中のものが壊れてあいつが怪我をしないようになのか、それとも父親が母親を殴っているところなんて見せたくなかったのか・・・。両方かも知れないけどな・・・。俺も何度も見たよ。ライザーを小脇に抱えたり、おんぶしたりして、イノージェンの家に向かって走るライザーの母さんの姿を。」
 
「だからイノージェンはライザーさんと一緒だったっていうんだね。」
 
「そうだな・・・。あいつらはいつも一緒だった。あのままずっと一緒にいると思ってたよ。あの時ライザーの両親が死ななかったら、あいつの叔父さん夫婦って人達が迎えに来なかったら、きっと今でも一緒にいただろうな。・・・多分・・・。」
 
 それきりグレイは黙り込んだ。私も薬草摘みの続きを始め、やがて充分摘んだ頃合いを見計らって私達は山を下りた。そうやって何日か薬草摘みを続け、山の最深部にしか生えていないものを除いて、何とか診療に使えるだけの薬草が集まった。山に入っている間、グレイはもうイノージェンのことを尋ねなかった。時たま他愛のない会話を交わすくらいで、あまり喋らなかった。そして最後の日、グレイと私は山を下りて私の家の前まで来ていた。
 
「今までありがとう。今日でだいたい終わりだよ。おかげでずいぶんたくさん摘めたよ。」
 
「そうか・・・。結構楽しかったな。また何かあったら言ってくれよ。」
 
「そうだね。またお願いすることがあるかも知れない。」
 
「じゃ。」
 
 グレイはそう言って帰りかけたが、ふと足を止め振り返った。
 
「なぁ、クロービス、お前・・・。」
 
「なに?」
 
 グレイはそのまましばらく私の顔を見つめていたが、
 
「いや・・・何でもないよ・・・。またな。」
 
くるりと踵を返し、駆けて行ってしまった。彼が何を言おうとしたのか、気にはなったが、家に戻って摘んできた薬草の整理をしているうちに、私はそのことを忘れてしまった。
 
 
 そして・・・それから3ヶ月後の夕方、父がひょっこりと帰ってきた。
 
「ただいま・・・。すっかり遅くなってしまったな・・。」
 
「父さん!!おかえりなさい。心配してたんだ・・・。」
 
 安堵感が広がる。
 
「クロービス、心配かけてすまなかったな・・。」
 
 心なしか元気がなさそうに、父が私の肩に手をかけた。
 
「サミルさんお帰りなさい。クロービスはずっとあなたのことを心配していましたよ。よかったな、クロービス。」
 
 ちょうど私の様子を見に家に来ていたブロムおじさんは、心底嬉しそうに安堵のため息をついた。それとも本当に今回父がどこへ行っていたのか知っていて、無事に戻ってきたことを喜んでいるのかもしれない。父が帰ってきたという知らせは、あっという間に島内を駆けめぐり、長老をはじめたくさんの人達が夜遅くまで詰めかけ、父の無事を喜び合った。
 
 
 その日、島の人達が帰ってから、父と私は5ヶ月ぶりに色々なことを話し合った。
 
「こんなに長い旅になるはずじゃなかったのだが・・。久しぶりにエルバール大陸まで行ったものだからいろいろと雑用が多くてな・・・。本当に心配をかけたよ。すまなかったな・・・。」
 
「いいよ。父さんが無事に帰ってきてくれたから。」
 
「そうか・・・。昔は私が帰ってくるたびに大泣きしてしがみついてきたものだが・・・。お前ももう19歳だものな・・・。いつまでも泣いているわけがないか・・・。」
 
 父はくすくすと笑った。
 
「そ、そりゃそうだよ。少しは成長するよ。」
 
「そうだな・・・。子供をいつまでも子供だと思っているのは親だけだからな・・・。でも父さんにとっては、お前が生まれた日はまるで昨日のことのようだよ・・・。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「なあクロービス。」
 
「ん?」
 
「お前は自分がこの島の生まれじゃないことは知っているとおもうが、どこで生まれたかまでは話してなかったな・・・。」
 
「そうだね・・・。教えてくれるの?」
 
「ああ・・・。お前が生まれた時、私達はエルバール王国に住んでいたんだ。だが理由あって、王国からこの島へと移り住んだ。そうだな、もうあれから二十年近くになるのか・・・。ははは・・・歳をとるわけだな・・・。」
 
「何言ってんだか・・・。まだ老け込むのは早いよ。」
 
「そうだな・・・。そろそろ寝るか。さすがに疲れたよ。お休み。」
 
「お休みなさい。」
 
 程なくして父の寝息が聞こえてきた。
 
(エルバール王国か・・・。)
 
 私がこの島の生まれでないことはわかっていた。ここでなければ岬から見えるあの陸地のどこかかも知れないと考えたことはあったが、いざ真実を聞かされてみると何となく落ち着かない。私にとってはこの島こそが故郷だ。それに、ではエルバール王国のどこで生まれどこで育ったのか、この島に来るまでのことや私の母のことなどは何もわからないままだ。昔、イノージェンの家には母さんがいるのにどうして私にはいないのかと不思議に思って父に尋ねた時に、母が私を産んですぐに亡くなったという事だけは教えてくれた。父は今回、何の用事でエルバール王国へ行ったのだろう。新緑の季節の薬草摘みを中止してでも行かなければならないほどの、一体どんな重要な用事があったのか・・・。少なくとも『いろいろな雑用』程度のこととは思えない。そんなことをしばらく考えていたが、父が帰ってきたことで安心したのか、私はいつの間にか眠りに落ちていった・・・。
 
 

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