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 その日、アスランは図書室に向かうところだった。剣士団に入団して3ヶ月、今日は週一回の非番の日だ。アスランが図書室に向かうのはもう一ヶ月ぶりぐらいだった。冒険小説が好きでよく読むのだが、借りてきた本が読めるのは週一回の休みの時だけだし、それも洗濯や宿舎の部屋の掃除などを終わらせてからでないと時間がとれない。そんなわけで今日は久しぶりに図書室に来て、ずっと借りていた本を返して、また新しく借りようと考えていた。図書室の扉を開けると、いつものように中は静まりかえっている。アスランはまっすぐに冒険小説がおかれている書架に向かった。王宮の図書室などと言うと、どうしても堅苦しい本ばかり並べられていそうな印象を受けるが、実は冒険小説や恋愛小説についてもなかなか充実している。図書室にある冒険小説はそんなに冊数があるわけではないので、もう全体の半分ほどは読み終えている。隣の書架には恋愛小説が置かれているのだが、その冊数は冒険小説の倍くらいある。アスランは恋愛小説にはとんと興味がないので、冒険小説の棚もこのくらいたくさん置いてくれればいいのにといつも思っていた。
 
(えーと・・・今日はどれがいいかな・・・あれ・・・?)
 
 この棚の中でまだ読んでいない本は半分程度だと思っていたのに、今日は増えている。しかも次に借りようと思っていた本がなくなっていた。
 
「入れ替えか・・・・。ソフィアさんもマメだなぁ・・・・。仕方ない、別なのを借りるか。」
 
 現在図書室には何人かの司書が常勤しているが、その中でもベテラン司書のソフィアは、必ず月に一度は本の入れ替えをする。この図書室には一般に公開されている部屋とは別に、膨大な数の蔵書を保管しておく書庫があり、その中にはまだまだおもしろい本がたくさん眠っているのだそうだ。少しでもたくさんの人にいろいろな本を読んでほしいと、いつもソフィアは言っている。何冊かの本を選んで貸出用のカウンターに来たが、誰もいない。確か今日はそのソフィアの担当だったはずだが・・・・。
 
「どこに行ったんだろう・・・・。」
 
 アスランがきょろきょろしていると、図書室の奥にある書庫の中から声が聞こえてきた。いつもは閉まっているその扉が、今日は半開きになっている。別に立ち入り禁止というわけではないので、アスランは書庫に入ってみようと扉に近づいた。
 
「はい、これで全部よ。」
 
 これはソフィアの声だ。やはり中にいるらしい。
 
「ありがとうございます。それじゃこれ、チェック表です。置いていく本はこっちでお預かりする本はこっちで・・・わかりにくいですか?」
 
 こちらの声には聞き覚えがない。女性のようだが少し不安げな声だ。
 
「大丈夫よ。かえって今までの表より見やすいわ。確かに受け取りました。」
 
(誰だろう・・・。)
 
 アスランはここの司書達とは一通り面識がある。声だけ聞いてもだいたいは誰だかわかる。でも今の声は何度考えても聞き覚えがない。少し迷ったが、アスランは書庫の中を覗いてみた。そこにはソフィアともう一人、司書の制服を着た若い女性が立っている。初めて見る顔だが、新任の司書でも雇ったのだろうか。二人の間には本が山のように積み上げられていた。荷馬車1台分くらいはありそうな量だ。
 
「ソフィアさん、この間借りた本を返して、別なの借りたいんだけど・・・。」
 
「あらアスラン、ちょっと待ってて。いまクロンファンラから入れ替える本のリストをチェックに来ているのよ。」
 
「クロンファンラ?あの王立図書館の?」
 
「そうよ。ちょうどいいわ、紹介するわね。イルサ、彼はアスランと言ってね、3ヶ月ほど前に王国剣士になったばかりの新人よ。老けて見えるけどまだ18歳だから、あなたより若いのよ。アスラン、彼女はイルサ。去年から王立図書館の司書として勤務しているの。これからたまに王宮で会うことがあるかも知れないから、その時はよろしくね。」
 
「イルサです。司書になってからまだ一年にもならないから、私もあなたとおなじ新人だけど、よろしくお願いします。」
 
「あ、は、はい。アスランです。あの・・・ソフィアさんの言うとおり見た目は老けてるけど実は半人前以下のぺーぺーで・・・でもその・・・よろしくお願いします。」
 
「あらやだ、アスラン、わたしそこまで言ってないわよ。」
 
「いや、剣士団長にいつも言われてるから・・・。お前らはまだ半人前以前のぺーぺーだって・・・。」
 
「オシニスさんの毒舌にいちいち反応してどうするの。気にしないでがんばりなさい。」
 
 ソフィアとアスランの会話を聞いて、イルサがクスリと笑った。自分より年上だとソフィアは言ったがいくつなんだろう。流れるような金髪を一つにまとめて、鮮やかな青いリボンで結んでいる。淡いすみれ色の瞳は秘められた意志の強さを感じさせた。でも笑うととても優しい表情になる。美しい女性だが、王宮をはるかにしのぐ蔵書量を誇るクロンファンラの王立図書館の司書としては、少し若すぎるような気がした。
 
「そうですね・・・。それじゃ俺はカウンターで待ってますから。」
 
「ごめんなさいね。」
 
 ソフィアはすまなそうに片手をあげてみせ、イルサに向き直った。
 
「さてと、これを運ばなきゃね。ねえイルサ、あなた本当にこの本を全部一人で運ぶつもりなの?」
 
「仕方ないんです。今、向こうでは誰も手が離せなくて。私もやっと時間を作って来たんですよ。入れ替えだけはきちんと日程どおりにやらないと、せっかく図書館に足を運んでくださる皆さんに申し訳ないですから。」
 
「そうねえ。それにしてもあなたは熱心ね。まだ採用されて一年にもならないのに、もう入れ替えの担当を任されるんだから・・・。そのうち移動図書館にも行くようになるんじゃない?」
 
「そうですね・・・。私も行ってみたいんです。まだロコの橋を越えたことがないので、早く南大陸の景色を見てみたいです。」
 
「南大陸!?」
 
 書庫から出てカウンターに戻りかけていたアスランが思わず振り向いて大声をあげた。」
 
「あら、どうしたの?」
 
 ソフィアは驚いているアスランを見てきょとんとしていたが、『なるほどね』といった表情でうなずいた。
 
「ふふふ・・・。王国剣士さんにとっては南大陸は憧れの場所ですものね。南大陸にいけるまでにあなたはあとどのくらい?」
 
 アスランは少しばつの悪そうな顔をしたが、ソフィアに気をとられていて、クロンファンラの司書イルサの表情が少しだけ動いたことには気づかなかった。
 
「どのくらいもなにも・・・。未だ城下町の門から外へは出してもらえません。」
 
 厳密に言うなら、城壁のすぐ外なら出ることが出来る。でも門番達の目の届かない場所まで行くことは出来ないので、外に出たことになんてなりゃしない。
 
「そんなにむすっとしないの。南大陸は3年過ぎなきゃ行けないけど、今の段階で城下町の外へ出られないのは、もっとがんばりなさいってことじゃない?」
 
「そうなんですけどね・・・・。」
 
 アスランはため息をついた。ソフィアの言うとおりだ。相方のカインとは入団してすぐにコンビを組んだが、『二人で戦う』ことに対して今ひとつ慣れないせいか、カイン・アスラン組は未だ半人前のレッテルを貼られたままだ。暗い顔になったアスランを見てさすがに言いすぎたと思ったのか、ソフィアが取り繕うように話しかけた。
 
「ねぇアスラン、あなたこれから予定あるの?制服も着ていないし、もしかして非番?」
 
「そうですよ。だから新しい本を借りていこうかなと思って。」
 
「それじゃちょっと手伝ってくれない?ここにあるこの本、全部玄関の外にある馬車に積み込まなくちゃならないんだけど、イルサ一人では大変だし、私もここを空っぽに出来ないのよ。」
 
「いいですよ。それじゃ返却と貸し出しの手続きだけはお願いします。」
 
 アスランは持っていた本をソフィアに差し出した。
 
「わかったわ。それじゃよろしくね。」
 
 
 目の前に積み上げられた本類はどれもこれも分厚くていかにも重そうだ。司書は体力勝負だなどとソフィアは言うが、これを見るとまったくそのとおりだと思う。でもクロンファンラから来た司書イルサは、あまり体力がありそうには見えない。どちらかというとはかなげで、守ってやりたいと思わせるような頼りなさがある。だが、そのアスランの見立てが大間違いであることは、すぐさま証明された。目の前の分厚い本を、イルサが何冊もまとめて軽々と持ち上げたからだ。
 
「アスランさんだったわね。ごめんなさい、手伝ってくれるならありがたいわ。わたしもこれが限界なの。」
 
(普通の女の人でこれだけ持てるってのはすごいと思うけど・・・・。)
 
 ソフィア相手ならその程度の軽口もたたけただろうが、さすがに初対面の女性に向かっては言えない。
 
「気にしないでください。馬車は正面玄関の前ですか?」
 
「そうよ。それじゃお願いします。」
 
「あの・・・イルサさん、俺、どうやらあなたより若いみたいだし、さん付けはいいですよ。」
 
「あらそう?そうね・・・それじゃあなたも私のことを普通に呼んでくれる?」
 
「あ、でも俺は年下だから、その・・・。」
 
「何言ってるの。そんなこといつもは気にしないくせに。」
 
 ソフィアが笑いながら口を挟んだ。
 
「ふふ・・・そうよ、気にしないで。それじゃアスラン、行きましょう。」
 
「は、はい・・・。」
 
 アスランは妙にかしこまって、足下の本を何冊か持ち上げた。イルサの持っている本より、出来るだけ多く持った。二人でならんで歩いていくのだから、イルサより自分が持っている本のほうが少ないのでは格好がつかない。
 
 
 図書室を出て、玄関に向かう途中、アスランは思い切ってイルサに話しかけた。
 
「入れ替え用の本を取りに来たのは初めてなんですね。」
 
「そうよ。この仕事はね、結構大変なの。向こうから持ってくる本と持って行く本、両方の運搬中の責任は全部持たなくちゃならないし、向こうから持ってきたリストと合うかどうかしっかりチェックしなくちゃならないし、入ったばかりでは本のことなんて何もわからないから、とても任せてもらえなかったのよ。でも・・・ふふふ・・・。」
 
 イルサは意味ありげに笑った。
 
「どうしたんですか?」
 
「ちょっとはライラに追いつけたかなと思って・・・・。」
 
「ライラ・・・?」
 
 男にも女にも使う名前だ。友達とか、姉妹とか・・・まさか・・・。
 
(恋人・・・かなあ・・・。)
 
 こんなにきれいな人なんだからそう言う人がいてもおかしくない。アスランは少しがっかりした。そしてなんで自分ががっかりしているのか、よくわからなかった。
 
「ライラってね、私の兄なの。」
 
「あ、そ・・・そうですか・・・。」
 
 自分が今考えたことがイルサに聞こえてしまったような気がして、アスランは冷や汗が出た。
 
「兄っていってもね、私達双子だから、兄さんなんて呼んだことがないのよ。」
 
「そのライラさんは、何やってるんですか?」
 
「ライラはね、ハース鉱山で働いているの。もうずっと前からよ。ライラが家を出たのは17の時だったから。」
 
 鉱山で働いていると言うことは鉱夫なんだろう。17の時が『ずっと前』なら今は・・・。
 
(・・・あれ・・?)
 
 頭の中で何かが引っかかったような気がしたが、それがなんなのかわからなかった。
 
「あの・・・イルサさん・・・じゃなくてその・・・。」
 
 イルサは焦るアスランを見て笑い出した。
 
「あなたの好きなように呼んでくれていいのよ。堅苦しいのが好きじゃないだけだから、あんまり気にしないでね。」
 
「は、はい。あの、イルサさん・・・は、いくつなんですか?」
 
「私は20歳よ。あなたは?」
 
「俺は18歳です。」
 
「あら、そう言えばさっき、ソフィアさんが18歳だって教えてくれたわよね。何度も聞いてごめんなさい。」
 
「いや、そんなのはいいですよ。たいてい歳の通りには見られないんです。」
 
「あらそんなことないわよ。でも・・・18歳か・・・。」
 
 イルサの言い方が妙に感慨深げに聞こえた。
 
「どうかしたんですか?」
 
 不思議そうに顔をのぞき込んでくるアスランに、イルサは慌てて笑顔を作った。
 
「あ、あのね、なんでもないの。ただ、私の幼なじみの男の子とおなじ歳だなって思って・・・それだけだから・・・。」
 
 イルサは視線を一瞬宙にさまよわせ、言葉を濁した。その時ちょうど馬車の前に着いた。今日も天気がいい。陽の光を浴びて、イルサの髪はきらきらと輝いている。後れ毛が風になびいて、思わず見とれてしまいそうなほどだ。
 
「あ、あの、イルサさん、これどこに置きますか?」
 
 なんだかどきどきして、アスランは少し赤くなった顔を隠すようにうつむいたまま、イルサに声をかけた。
 
「そうねぇ・・・。それはちょっと古い本だからこっちのほうに毛布にくるんで・・・。」
 
 イルサはそんなアスランの様子を気にする風もなく、馬車の中に積まれた箱を取り出しては本を丁寧につめていく。一つの箱に何冊か入れ、また別な箱を取り出して残りを入れる。
 
「端から順に詰め込むんじゃだめなんですね。」
 
「本はね、生きているのよ。出来るだけ長くきれいなまま持たせるためには、湿気を防いで型くずれしないように丁寧に積んでいかないとね。」
 
「そうかぁ・・・。それじゃ中庭に置いてある車のついた箱に全部放り込んでまとめて運ぶなんて言うのも・・・。」
 
 中庭に置いてある箱というのは、植木鉢やスコップなどを運ぶ時のためのものだ。大きくて丈夫な箱なので、本を詰め込んでも楽に動かすことは出来るのだが・・・。イルサはアスランの提案に、少し困ったように眉根を寄せた。
 
「それはちょっと無理ねぇ・・・。新刊ばかりならしっかり紐でくくってドンと乗せれば、まとめて運んでも大丈夫なんだけど・・・。今回運ぶ予定の本はね、みんな古い本ばかりなの。中にはサクリフィアの神殿から持ち出されたと伝えられるものまであるから・・・。振動も湿気も大敵なのよ。あのね、もしも面倒なら無理はしなくていいのよ?元々私一人でやらなければならない仕事なんだし・・・。」
 
 イルサは、アスランが面倒がっていると思ってしまったらしい。アスランは慌てて否定した。
 
「ち、違います!面倒かとそんなんじゃなくて、イルサさんが大変そうだからその・・・まとめて運べれば楽できるんじゃないかと・・・。す・・・すみません。俺、本のことってよくわからなくて、あの、でも、面倒なんてこと絶対にないですから。がんばって最後まで運びます!」
 
「そう・・・?ならいいんだけど・・・。」
 
 イルサはまだ不安そうだ。
 
「はい!それじゃ行きましょう!」
 
 よけいなことを言ってしまったと、アスランは冷や汗が出た。今の失言を挽回するためにも、がんばって手伝わなくてはならない。本を積み終え、次を取りにまた二人で図書室に戻ろうとロビーを歩いていると、執政館への入口から剣士団長オシニスが出てきた。
 
「お、アスラン、今日は非番か?」
 
「はい。」
 
「で、お前はこんなところで何やってるんだ?」
 
「さっき図書室に本を返しに行ったらソフィアさんに頼まれて・・・。」
 
 アスランが言い終わらないうちに、オシニスはアスランの隣に立っているイルサに気づいた。
 
「君か。もしかして本の入れ替えか?」
 
「おはようございます。ええ、今回から私が来ることになりました。」
 
 イルサは笑顔で応える。
 
「ほお、もう入れ替えを任されるとはたいしたものだな。」
 
「私なんかまだまだですけど、せっかく任されたのですもの、がんばります。」
 
 どうやら二人は知り合いらしい。
 
「そうだな。アスラン、ちゃんと手伝ってやれよ。イルサ、こいつはまだ半人前だからな。びしびし鍛えてやってくれ。ついでに剣のほうも教えてやってくれるとありがたいんだが。」
 
 オシニスの言うことは、いつも冗談なんだか本気なんだかよくわからない。
 
「そ、そんな・・・。私が王国剣士さんに教えることなんて何も・・・。」
 
 イルサは赤くなっている。
 
「いや、そんなことはないぞ。多分今のこいつに、君を負かすことなんて出来ないだろうな。」
 
「・・・へ・・・?け、剣・・・?」
 
 本の運搬の話だとばかり思っていたアスランは驚いた。イルサが見かけによらず力持ちだと言うことはわかったが、剣とは・・・。第一イルサの腰には剣など下がっていない。
 
「ああ、そうだ。イルサはこう見えても剣の腕はかなりのものだぞ。まあお前らよりは確実に上だろうな。」
 
 オシニスはきっぱりと言い切る。
 
「お、俺達・・ってことはカインも・・・ですか・・・?」
 
「ああそうだ。そのカインはどこだ?」
 
「あいつなら例によってフローラのところですよ。どうせまた要りもしないものを買い込んで、それをダシに話し込んでるんじゃないかな。」
 
「なるほど・・・。」
 
 オシニスはあきれたようにため息をついた。そんなに恋に夢中になれるなんて若いうちだけだ。ここは黙って見守るしかないのだろう。だがカインは最近、入団当初より腕が落ちてきている。入ったばかりの頃は堅実な剣さばきで、派手さはないが確実にチャンスをものにする剣法だった。父親がしっかり教え込んでいるのだなと感心していたのだが、どうも最近は様子が違う。攻撃力は以前より上がっているのだが、妙に動きばかり大きくて隙だらけだ。そうなった理由の一つにフローラへの恋があるのなら、ちょっと考えなければならないかもしれない。オシニスはちらりとイルサを見た。少し顔をこわばらせて立っている。イルサとカインが実はおなじ島の出身で、イルサが昔オシニスの相方だったライザーの娘であることと、カインがおなじ頃オシニスとライザーの後輩として入団したクロービスという剣士の息子であることは、今のところ当時彼らと一緒に仕事をしていた一部の剣士しか知らないことだ。ライザーは護身用にと娘にも剣を教えたらしいのだが、護身用どころではないくらい、イルサの剣は使える。イルサの双子の兄ライラ共々、剣士団にスカウトしたいくらいだ。今年の新人剣士達は、みんななかなかの使い手なのに、どうも集中力が足りない。剣士団の外にもこれほど使える者がいると知れば、あいつらもちょっとはやる気を起こすだろうに・・・・。
 
(でも・・・本当なら・・・ライザー、お前に・・・もう一度・・・。)
 
 ふと心にわき上がった感傷を押さえ込み、オシニスはアスランに向き直った。
 
「イルサの剣はかなりのものだ。だが、イルサの仕事は剣士じゃなくて司書だからな。お前達は本職の王国剣士なんだから、一般人より腕が劣るのでは話にならんぞ。」
 
 オシニスはニッと笑った。
 
「そうですね・・・・。」
 
「だが、今お前はイルサの仕事を手伝っているんだろう?今はそっちをがんばった方が良さそうだな。イルサ、君は今日のうちに戻るのか?」
 
「戻るのは明日なんですけど、明日は少し買い物をしたいので今日のうちに仕事を終わらせようと思って。」
 
「そうか。今回の護衛は誰だ?」
 
「今回は灯台守のみなさんと一緒に来たんです。帰りも交代の方達がご一緒してくださることになっています。」
 
「ああそうか・・・。今は研修中の連中が何人かいたっけ。そいつらか?」
 
「そうです。」
 
「そうか。なら安心だな。それじゃアスラン、ちゃんと最後まで手伝ってやれよ。」
 
 
                          
 
 
 団長室へと戻って、オシニスはさっきのイルサの顔を思い出していた。彼女の前でカインとフローラの話なんてしなきゃよかったかも知れない・・・・。
 
(でも仕方ないな・・・。いずれわかることになるんだろうし・・・・。)
 
 自分が考えなければならないことは、若者達の恋の行方よりもまずはさっきの会議の結果だ。
 
「まったく・・・次から次へとまあ出てくるもんだ。この間までナイト輝石の武器防具がべらぼうな値段で出回っていると騒いでいたと思ったら、その話のかたもつかないうちに今度は薬草の流通価格の高騰だと?しかも誰が担当しているか調べて事情聴取をしろだなんて・・・あのもうろくじじい、何を考えていやがるんだ・・・!?」
 
 机の上に積み上げられた書類の山を恨めしそうに見て、オシニスはため息をついた。剣士団長の一日は早朝会議から始まる。いや、本来ならば普通に起きて宿舎の中を視察したり、訓練場に顔を出したりすることも出来るのだが、最近いろいろと問題が起きていて、御前会議が毎朝招集されていた。そして『もうろくじじい』とは誰あろう、御前会議の大臣達の筆頭であり、エルバール王国の最高神官を務めるレイナックのことである。本来ならば剣士団長と言えどもそんなに軽口をたたけるような相手ではないのだが、もうずっと昔、ひょんなことから二人は知り合い、すっかり意気投合してしまったのだ。それ以来オシニスはレイナックを『じいさん』『くそじじい』などの呼び方以外で呼ぶことはほとんどない。最近はそこに『もうろくじじい』が加わった程度だ。そのレイナックが、今朝の会議で薬草の価格高騰について調査をしろとオシニスに命じてきたのだ。オシニスは即座に断ろうとしたのだが、国王であるフロリアの『あなたを頼りにしていますよ』の一言で引き受けてしまった。フロリア女王の言葉にオシニスはめっぽう弱い。ため息をつきながらオシニスは椅子に座り、レイナックから渡された資料を読み始めた。
 
「ふん・・・南大陸及び北方の離島など、限られた場所でしか育たない薬草について、ここ半年ほどの間に価格が高騰している・・・か・・・。生産地が出し惜しみしているか、生産地と小売業者との間に入る仲買人が私腹を肥やしてるか、どっちかなんだろうが・・・・まずは仲買人を調べてみれば何かわかるか・・・。」
 
 さてそいつらをどうやって締めあげようか・・・・。そんなことを考えていたオシニスの手が、突然ぴたりと止まった。資料の最後のページの隅に、走り書きで何か書いてある。かなり小さい文字だが、どうやらレイナックの字らしい。
 
「まったく、老眼のくせにこんな小さい字書きやがって・・・・。」
 
 ぶつぶつ言いながら、オシニスは顔を近づけ、目を細めながらやっとの事で読んだ。
 
『陰に彼の人の気配あり』
 
「なん・・・だと・・・?」
 
 オシニスの顔がみるみるこわばっていく。
 
「じいさんよ・・・だからこの仕事を俺に・・・。」
 
 そう言うことなら話は別だ。この仕事は他の誰にも任せるわけにはいかない。オシニスは立ち上がり、部屋の書棚から分厚い記録を引っ張り出してページをめくり始めた。
 
 
                          
 
 
「団長とお知り合いだったんですね。」
 
 2回目の運搬を手伝いながら、アスランはイルサに話しかけた。オシニスと話をしてから、イルサの様子がおかしいような気がする。さっきよりずっと口数が少なくなっていた。
 
「ええ・・・。団長さんが父と知り合いみたいで・・・・。」
 
「へぇ・・・。お父さんが・・・・。」
 
 剣士団長は確か城下町出身のはずだ。とすると、イルサの家も城下町にあるのだろうか。
 
「あ、あの・・・。」
 
 すっかり沈んでしまったイルサに、アスランは何か話しかけたかったが、なにも思い浮かばない。そのまま黙って歩き続け、玄関を出ようとしたとき怒鳴り声が聞こえた。
 
「うるせぇ!ほっといてくれ!」
 
「そうはいかないから連れてきたんだ。頼むからおとなしくしてくれよ。あの店の主人から正式に訴えが出ているんだからな。」
 
「あいつはオレの女だ!自分の女をぶん殴って何が悪い!?あのくそばばあ、ふざけやがって!」
 
「あの女はあんたの女になったわけじゃない。」
 
 怒鳴っているのは40代くらいに見える普通の市民だが、どうも朝から酔っているらしい。その男をなだめながらここまで連れてきたのはアスランの先輩剣士、フィリスとクロムのコンビだ。二人とも見るからにうんざりした顔をしている。
 
「だがよお・・・あんなに優しかったのに・・・。」
 
 今度は男は泣きだした。
 
「どうしたんだ?えらい騒ぎだな。」
 
 アスランが声をかけるより早く、フィリス達に話しかけた一人の剣士がいた。30代前半くらいに見えるが、腰の剣がかなり使いこまれているところを見ると、おそらく相当な腕前だろう。だがこの剣士は王国剣士ではない。着ている服の色は濃紺の上着にベージュのズボン。ロコの橋を守る灯台守達の制服だ。
 
「あ、リガルトさん、すみません、騒がしくて。地下牢に連れて行く予定なんですが、ちっともちゃんと歩いてくれなくて・・。」
 
「酔っ払いにちゃんと歩けというほうに無理があるぞ。どこかで暴れてでもいたのか?」
 
「いえ・・・。歓楽街の裏手の通りで、女を殴っていたところを取り押さえたんですよ。馴染みの娼婦らしいんですが、この男はもうすっかり自分の女にしたつもりでいたようで・・・。」
 
「なるほどな。」
 
 リガルトと言う灯台守はあきれたように肩をすくめた。
 
「女のほうが助けを求めて自分の店に駆け込んで、そこの主人が飛び出してきたんですよ。やり手の女主人らしくて、我々もぼろくそに言われましたよ。『あんた等が役立たずだからうちの大事な女達が危険な目に遭うんだ』って。」
 
「それで正式に訴えると言っているのか。」
 
「そうなんです・・・。はぁ・・・もう朝からへとへとですよ。あのばあさんからはさんざん怒鳴りつけられるし、この男はふらふらしてちっともまともに歩いてくれないし。」
 
 フィリスもクロムもげっそりとしている。
 
「君達も災難だったな・・・。だが、早いところ連れて行ったほうがいい。王宮の玄関口で騒ぎを起こすのはまずいからな。おいあんた、おとなしく歩いていかないと、ひっくくられて荷物みたいに運ばれることになるぞ。そうなったら罪状認否なんぞ何にもなしに最低5年だな。」
 
「へ・・・?」
 
 酔っ払いがぎょっとしてリガルトを見た。
 
「ま、まさか・・・。」
 
「あんたは今、王国剣士達の仕事の邪魔をしているんだぞ?それだけでも充分に罪になるっていうのに、さらに女を殴っているわけだしなぁ。」
 
「じょ、冗談じゃねぇ!くそっ・・・!わかったよ!歩きゃいいんだろ!?」
 
 にやにやと挑発するように笑いながら話すリガルトに、酔っ払いは怯えたような視線を走らせ、突然しゃきっとして歩き始めた。そのあとをフィリスとクロムがホッとした表情で歩いていく。二人は振り向いてリガルトに『助かりました』と言いながら去っていった。
 
「リガルトさん。」
 
 さっきまで沈んでいたイルサが、笑顔で剣士に声をかけた。自分が話しかけても全然返事をしてくれなかったのに、この灯台守には笑顔を向けている。もしかしたらこのリガルトという灯台守がイルサの恋人なのだろうか・・・。
 
(なんで俺はさっきから・・・イルサさんに恋人がいるかどうかばっかり気にして・・・・。)
 
「イルサじゃないか。本の運搬なら手伝おうか?」
 
「いえ、こちらの剣士さんが手伝ってくれているから大丈夫です。」
 
「ほお、君は・・・?見覚えのない顔だが、王国剣士か?」
 
「はい。3ヶ月前に入団したアスランです。よろしくお願いします。」
 
「アスラン・・・?」
 
 リガルトは少し首をかしげ、あ、と言うように大きくうなずいた。
 
「君のことか・・・。レイナック殿がよく言っておられる落ち着いた顔の新人剣士って言うのは。」
 
「・・・それはほめてくださってるんでしょうか・・・。」
 
「落ち着いているというのは悪いことではないだろう。君はそう言われるのは嫌いなのか?」
 
「・・・落ち着いていると言われるだけならいいんですけど、たいていの人は俺が呪文使いだと思いこむんで・・・・。」
 
 アスランの母親は少しだけ治療術を使えるのだが、一番簡単な呪文だけらしい。父親にいたってはまったく呪文とは縁がない。妹は母親の血を受け継いでいるらしく、もう少しは使えるようだが、今は北大陸の西の港に隣接するローランという村で診療所に勤めている。その後、妹の呪文が上達したかどうかはわからない。
 
「ふむ・・・呪文を使う者は見た目も落ち着いている者が多いからな。と言うことは、とても使えそうに見えないが実はすごい才能を秘めているという呪文使いは君の相方か。」
 
「・・・そうです・・・・。」
 
(これはほめ言葉じゃないよなぁ・・・・。レイナック殿って見た目はすごく穏やかでいい人みたいなんだけど・・・けっこう辛辣だよな・・・。カインの奴が聞いたら落ち込みそうだ・・・。)
 
「はっはっは!そんな言われ方したくないと顔に書いてあるぞ。新人のうちは言われ放題さ。あとは実力で黙らせるしかないんだ。」
 
 その実力も、ついさっきイルサより下だと言われたばかりだ。
 
「おお、自己紹介がまだだったな。失礼した。私はリガルト、ロコの橋の灯台守だ。今年で7年になる。こちらこそよろしくな。」
 
 アスランはリガルトと握手を交わした。
 
「さて、無駄話が過ぎたようだな。イルサ、明日の出発は昼頃の予定なんだが、大丈夫か?」
 
「ええ。明日の午前中に買い物は済ませることにしてますから。」
 
「そうか。それじゃ、私は灯台守の詰所にいるから、本を積み終わったら声をかけてくれ。馬車を奥に移動するからな。それと、アスランだったな。詰所の場所は君が教えてやってくれないか。」
 
「はい。」
 
「それじゃ終わったらアスランと一緒に詰所に行きますね。」
 
 イルサは笑顔で応え、アスランから本を受け取り、また積み始めた。イルサの後ろ姿をぼんやり見ながら、アスランはさっきのリガルトのことがどうしても気にかかる。
 
 その後何度か図書室と玄関を往復し、とうとう最後の本を図書室から運び出した。これを馬車に積んだら、イルサとの時間は終わってしまう。アスランは勇気を振り絞り、イルサに声をかけた。
 
「あの、イルサさん。」
 
「なあに?」
 
「さっきのリガルトさんは、イルサさんの、その・・・こ・・・恋人・・・・ですか・・・?」
 
「リガルトさんが?」
 
 一瞬きょとんとしたイルサは次に笑い出した。
 
「ああ、ごめんなさいね。びっくりしたものだから。全然違うわよ。リガルトさんは新婚さんだもの。まだ結婚して一年くらいよ。この間お子さんが生まれたばかりなの。なのに王宮での研修が入ってしまったから、子供の顔を見られないって愚痴こぼしてたくらいよ。」
 
「そうですか・・・・。」
 
 出来るだけさりげない風を装ったつもりだったが、内心は小躍りしていた。
 
「でもどうしてそんなことを考えたの?」
 
「あ、あの・・・さっきまでなんだか元気がなさそうだったのに、リガルトさんと話し始めたら元気になったから・・・その・・・。」
 
「ああ・・・そうね・・・ごめんなさい・・・。ちょっと考え事してたものだから・・・。今はまだ恋人どころじゃないわ。仕事を早く覚えなくちゃね。」
 
 どうやらイルサにはまだ決まった相手はいないらしい。アスランはホッとした。
 
(・・・・・なんで俺・・・ホッとしてるんだ・・・?)
 
 さっきから、どうしてもイルサのことが気にかかってしかたがない。歳が気になったり恋人がいるかどうかをしつこく聞いてみたり、いつもの自分じゃないみたいだ。自分の中に生まれた正体のわからない感情に、アスランは戸惑っていた。
 
「さあ、これでやっと終わりね。」
 
 とうとう最後の本を積み終えた。イルサは本の入った箱の上に丁寧に毛布を掛け、出来るだけ動かないようにしっかりと縄を張って、そっと馬車の扉を閉めた。
 
「これで大丈夫・・・。あとはリガルトさんに知らせにいかなくちゃ。灯台守の詰所はどこかしら。」
 
「王宮本館の4階です。剣士団の宿舎の上なんですよ。」
 
 アスランはイルサと一緒に灯台守の詰所を訪ね、本を積み終えたことを報告した。リガルトはすぐに玄関に出てきて、馬車を車庫へと引いていってくれた。
 
「ふぅ・・・。第1段階は成功ってところね。アスラン、ありがとう。あなたのおかげよ。」
 
 イルサに丁寧に頭を下げられ、アスランはすっかり慌ててしまった。
 
「い、いやそんな、俺もソフィアさんに頼まれたんだし、イルサさんとその、話が出来て楽しかったですから。あ・・・。」
 
 思っていたことをぽろりと口に出してしまい、アスランは顔を赤らめた。イルサは微笑んで、
 
「ありがとう。そう言ってくれてうれしいわ。お礼をしたいんだけど、お昼はどうするの?」
 
「昼は宿舎の食堂ででも食おうかと思ってたんで・・・・。」
 
「ねぇ、それならおいしいお店があるんだけど、一緒に行かない?」
 
「いいんですか?」
 
「もちろんよ。私のおごりだから。」
 
「い、いや、それはいくら何でも図々しいんじゃ・・・。」
 
「いいのいいの。さ、行きましょ。」
 
 イルサはアスランの袖を引っ張るようにして歩き出した。
 
 
                          
 
 
 王宮の玄関を出ると、道が一本まっすぐに続いている。その先に交差点があり、西へ向かえば住宅地区、東へ向かえば商業地区に出る。そしてどちらへも曲がらずにまっすぐ歩いていけば、城下町の南門に出ることになる。
 
「商業地区においしいお店があるのよ。実を言うと私もまだ行ったことがないんだけどね。」
 
「行ったことがないのにおいしいってわかるんですか?」
 
「このお店はね、ライラに教えてもらったの。ライラは時々城下町に来るんだけど、そのときいつも立ち寄るんですって。最初は右も左もわからなくて迷ってたどり着いたお店らしいんだけど、いいお店で助かったって言ってたわ。」
 
「へえ、どういう店なのかは知ってるんですか?」
 
「ええ。セーラズカフェって言うそうなんだけど、コーヒーのおいしさが天下一品だって言ってたわよ。でもコーヒーだけじゃなくて食事もおいしいんですって。」
 
「へぇ・・・セーラズカフェですか・・・。てことは、店の主人はセーラさんなのかな。」
 
「そうみたいよ。どうして?」
 
「うちの妹がセラフィって言うんですけど、みんなセーラって呼んでたんで・・・。」
 
 妹の名前は、何でも古代神話に出てくる守護者の名前らしい。少し変わった名前だが本人も気に入っていたはずだ。
 
「へぇ、そうなの。ライラの話だととても明るくて気さくなママさんらしいわ。ただ・・・。」
 
「ただ・・・?」
 
 イルサは少しだけ言いよどんだ。
 
「ライラの話だとね、そこのマスターとママさんは、昔歓楽街にいたらしくて・・・だからその・・・そういうところの話はしないほうがいいんじゃないかって。」
 
「歓楽街・・・?」
 
「ええ・・・・。でもね、二人ともその経歴を隠しているわけじゃないから、怒ったりするなんてことは絶対にないって言ってたけど、私・・・そう言うところで仕事をしていた女の人達が、普通の暮らしをするようになってから昔のことなんて持ち出されたくないんじゃないかと思うから・・・。」
 
「・・・俺はそんなところに縁がないです。それじゃ、さっきの酔っ払いの話とかもしないほうがいいですね。」
 
「そうね・・・。ごめんなさいね、変な話して。でも食事はすごくおいしいんですって。本当はライラに連れてきてもらおうと思ってたんだけど、今回の本の入れ替えの話は急に決まったから知らせる暇もなくて・・・。それで、一人で行くよりは誰かと一緒に行きたかったの。でもこっちで知り合いって言えば王宮の司書の人達くらいなんだけど、なかなか休みも合わないし、どうしようかなあなんて思ってたのよね・・・。だからあなたを誘ったんだけど・・・迷惑だった・・・?」
 
 イルサは不安げにアスランを見上げた。
 
「そんなことないですよ。どうせ今日は暇だったから、イルサさんの手伝いがなければ一人でその辺をぶらぶらしてただけだと思うし、役に立てたなら何よりです。」
 
「そう・・・。ふふ、ありがとう。えーと・・・ここを曲がって・・・・。」
 
 イルサは曲がり角まで来ては少し首をかしげて、すぐに先に進んで行く。道はライラに聞いて知っているらしい。アスランは元々城下町の出身ではないので、城下町の道は今ひとつよくわからない。黙ってイルサについていくしかなかった。彼のふるさとは北大陸の西側、ローランと言うのどかな村の南側に位置する小さな集落だ。20年ほど前に新しくできた集落らしく、建っている家々もまだそんなに古くなってはいない。アスランの両親は集落が出来て一年ほどあとに引っ越したらしいのだが、母親のほうはめったに集落の外には出ない。その理由をアスランは知っている。アスランの母親は、結婚するまで歓楽街の娼婦だった。そして客だった父親と知り合い、借金の残りを父親が肩代わりすることで店を辞めて、結婚したのだ。その事実を知ったとき、アスランはまだ14歳だった。多感な年頃のことだったので、一時はショックでグレかけたほどだったが、母親がその仕事をすることになった経緯など、当時のことを誠実に説明してくれたことと、父と母がどれほど強く深い絆で結ばれているかを聞いて、思いとどまった。でなければ今頃、アスランは王国剣士ではなく、王国剣士に牢獄に放り込まれる側になっていたかも知れない。それでも一時はかなり悩んだ。それは妹も同じだったようで、アスランより早く、ローランの診療所で働くと言う名目で家を出てしまっている。その後アスランが剣士団の入団試験を受けるために家を出るまで、ただの一度も家に戻っていない。アスランが会いに行けば笑顔で迎えてくれるが、母親の話は絶対にしようとしない。このまま放っておきたくはないが、さてどうすればいいのだろうと考えてもなにも思いつかないのだった。その妹の名前と、元娼婦だったらしいセーラズカフェのママさんが同じ名前で呼ばれているとは皮肉なものだ。
 
 母が自分達を充分慈しんで育ててくれたことを、疑う余地はない。だから母親を恥じたり疎ましく思ったりすることはないのだが、それでもイルサにその事実を知られたくないと思った。そのセーラズカフェのママさんが母と同じ仕事をしていたのなら、顔見知り同士だと言うこともある。歓楽街の話を出さないほうがいいと言うイルサの提案は、アスランにとっても都合がよかった。ふと気づくと、目の前の交差点でイルサが立ち止まり、道の向こうを窺っている。迷ったのだろうか。
 

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