『まあ、陛下としてもなんとかここを落としどころにしたいと言うことであろう。ハスクロード家の娘を王妃として立てるのは憚られる、しかしせっかくライネス様がおまえをお気に召したのだから、ここは出来ればお世継ぎの機嫌を損ねたくはない。そこでおまえを側室として遇することで、なんとか納得してもらおう、そんなところであろうな。』
『旦那様、わたくしは反対でございます。』
ファルミア様の母君が言った。
『まさか王太子殿下に見初められるとは思いませんでしたが、如何に後宮の中が広いとは言え、同じ王宮の中で夫がほかの女性をお召しになるなど、そんな生活をわたくしはこの子にさせたくはありません。』
『しかしそれは正室として嫁いだところで同じだろう。国王陛下が側室の一人も持たないというのは考えられないからな。』
『もちろんでございます。ですが正室と側室とでは立場が天と地ほどにも違います。いずれ王妃として立ち、国王陛下と共に政(まつりごと)を担うことになる正室は、国王陛下亡き後の地位も身分も保障されてございます。ですが側室は違います。彼女達は国王陛下の寵愛のみにすがって生きていくしかないのでございますよ。世継ぎを産んだところで表に出ることはなく、国王陛下が飽きてしまわれたらお渡りもなくなってしまいます。正室と側室と、旦那様なら我が娘にどちらの立場に立たせたいか、お尋ねするまでもないと思いますが、いかがでございますか?』
父君が大きなため息をついた。母君の剣幕に押されていたようだと、ファルミア様が笑いながら話してくれた。
『うむ・・・確かに尋ねられるまでもないことだな。やはり断るしかないだろう・・・。』
「母は本当は、夫が自分だけでなく複数の女性を妻にすると言うことに対して嫌悪感を持っていたのだと思います。正室であれ側室であれ、陛下が自分の元にお渡りになるかどうか、それをただひたすら待ち続けるという点では変わりありませんもの。母はとても潔癖な女性でしたから。」
「でもライネス様は後宮を廃止するというお考えだったのですよね。そうなれば叔母上はただ1人の妃としてライネス様と共に生きていくことが出来たのでは。」
ファルミア様はリアン卿を見てにこっと笑った。
「そうですね。ライネス様が後宮を廃止しようとお考えなのは聞いていたから、側室を迎えることはないだろうと思いました。でもあの時、それはあくまでもライネス様の願望でしかなかったの。妃がわたくし1人と言うこと自体、あの時点で国王陛下がお許しになるとは思えなかったわ。そして国王陛下がわたくしを側室としてしかお認めくださらないなら、ライネス様は他のどなたかを正室として迎えられるということ。つまりわたくしはどちらに転んでも、ライネス様のもとに嫁ぐことは出来ない・・・。つまりはご縁がなかったということ。そう自分に言い聞かせて、あの舞踏会もその後のサロンでのことも、少しの間夢を見ていたようなもの・・・。わたくしは以前から決めていたとおり音楽家を目指して、いずれ城下町の劇場で国王陛下となられたライネス様にピアノを聞いていただけるように頑張ろう、そう気持ちを切り替えたつもりで、またピアノの練習を始めたのだけど・・・。」
今までならば、ピアノに向かえばすぐに時間を忘れるほど弾き続けられたというのに、少しも身が入らない。そんな毎日が続いたある日、思いもかけない人物がハスクロード家にやってきた。父君に呼ばれて応接室に入ると、何とそこにいたのはあの柔和な笑顔のレイナック神官だった。
『ご無沙汰しております。お元気でございましたか。』
相変わらずの優しい笑顔で、レイナックが挨拶した。が・・・その笑顔とは裏腹に、なんだかとても困っているような、焦りのようなものが感じられたのだという。間近にいる相手の心の動きがなんとなくわかるというのは、私と似たようなものらしい。
父君に促され、ファルミア様はソファに座った。
『おまえを呼びだてしたのは他でもない。レイナック神官殿は、おまえにライネス王太子殿下のもとに輿入れしてもらえないかと、改めて申し入れに来たと言うことだ。そこで、まずはおまえの気持ちを聞きたい。』
父君の隣に座る母君はあまりいい顔をなさっていなかったようだが、王太子殿下からの正式な使者を追い返すわけにも行かない。ただ黙っておられたそうだ。ファルミア様は複雑だった。舞踏会でのあの夢のような日々を何度思い出したことだろう。あの時はそれほどとも思っていなかったはずなのに、日を追うごとにその思い出は強く鮮烈になっていく。自分がライネス王太子殿下を好きになってしまったのだと、さすがに気づいていた。だからこそ、先日国王陛下から届いた手紙の内容は、とてもつらく悲しいものだった。側室というものがどういう立場か、ファルミア様だってよく知っている。だからこそ、そんな立場になるのはいやだと思う。それに・・・
(・・・たとえどれほどライネス様をお慕いしていても、ハスクロード家の娘として、その一線だけは譲れない・・・。ハスクロード家は王家よりも古くから続く名門なのよ。そしてこの地にしっかりと足をつけて、領民と共に歩んできたのだから・・・。わたくしは堂々としていなければ・・・。)
ファルミア様は、意を決して口を開いた。
『わたくしは・・・ライネス様をお慕いしております。』
『おお、ではお受け下されますか?』
レイナック神官を包む不安な『気』が一瞬薄らいだような気がした。
『わたくしは・・・1200年以上続くハスクロード家の娘です。この家に生まれたことに誇りを持っております。どれほどライネス様をお慕いしていても、いいえ、だからこそ、国王陛下からのお手紙にあったように、側室として嫁ぐわけにはまいりません。でも・・・国王陛下はわたくしがライネス様の正室として嫁ぐことを、お許しになってはくださらないでしょう・・・。それならばこのお話はなかったことにしてください。レイナック卿でしたわね。ライネス様のサロンでわたくしのピアノを褒めてくださったこと、とてもうれしく思っております。わたくしは、子供の頃から夢見てきた音楽家になるために、これからも精進していきたいと考えております。』
ファルミア様はきっぱりと言った。つらかった。心のどこかで、ライネス様のあの笑顔にもう一度会いたいと、もう一人の自分が叫んでいる。でも家の誇りを傷つけるようなことは出来ない。そんなファルミア様を優しく見つめ、レイナック神官はハスクロード伯爵に向き直った。
『お美しいだけでなく、芯の通ったお嬢様でございますな。』
『いささか芯が通り過ぎているところもありますがな・・・。しかし、これが娘の気持ちです。そしてそれは、親である我らの気持ちでもあります。むろん、王妃の座や権力がほしくてこんなことを申し上げるわけではありません。あなた方にとって我が家が『特に裕福でもない曰く付き』の家だとしても、我が家には我が家の矜持があります。我が娘を側室として王太子殿下に嫁がせることは出来ません。』
『裕福でもない曰く付きなどとおっしゃらないでください。そう言った噂を立てる者がいることはむろん承知しておりますが・・・ハスクロード家は遠くサクリフィア建国の時まで遡る格式の高いお家柄であり、3代目の国王陛下がお認めになった正式な伯爵位の名門でございます。王太子殿下は、ファルミア様がハスクロード家の姫君と聞いて最初こそ驚かれましたが、かえって古の王家と現王家の橋渡しになってくれるのではないかと期待を寄せておられます。』
『しかし、我が家には剣はありませんぞ。』
『それは承知しております。しかしその剣は平和な今の時代には必要のないものでござりましょう。』
『さて、平和でありましょうか。ライネス王太子殿下と腹違いの弟君であられるエリスティ王子殿下は同い年。そして母君のルレッタ様は贅沢好きで野心家として有名なお方だ。世継ぎ争い、湯水のごとく金が消えていくという噂の後宮の様子など、この国の心ある国民ならば、貴族と平民の区別なく憂えている者はおりましょう。』
『おお、伯爵閣下は素晴らしい洞察力をお持ちでございますな。さればもう少し突っ込んだ話をいたしましょう。世継ぎ争いも、湯水のごとく消えていくお金についても、ライネス様は変えていこうというお考えです。ファルミア姫は、おそらく舞踏会の時にライネス様からお聞きになっていると思いますがいかがですかな?』
『ええ、伺っています。後宮を廃止することも、それによって浮いたお金で実力本位の人事登用制度を導入したいとも。』
『なんとまあ・・・。舞踏会でそんな話が出たのかね。』
ハスクロード伯爵は呆れたらしい。レイナック殿も笑って話を続けた。
『我らもその話をライネス様から伺った時には呆れましたものでございます。政治の話ばかりして、今後の約束らしきものと言えば、サロンの後の『もう一度招待したい』という一言のみ。あまりに遠回しすぎて、ファルミア姫も全くお気がつかれなかったご様子。その話を聞いて、さてどうしたものかと考えていたところに、国王陛下からお話がございましてな。ハスクロード家の姫を娶るなら、側室としてのみ輿入れを認めよう、王家からもその内容でこちらに手紙を出したと聞いて、ライネス様が慌てたこと。政治力については申し分ないお方なのですが女性に関してはとんと疎くて、伯爵閣下から断りの手紙が届いたと聞いて、とうとう私めが使者としてこちらに参った次第でございます。』
そしてレイナック殿は改めてファルミア様に向き直った。
『ファルミア姫、ライネス王太子殿下は、あなた様にぜひご正室としてお輿入れいただきたいと言うことでございます。それならばお受けくださりますでしょうか。』
『でもレイナック卿、それは国王陛下がお許しにならないのではありませんか。』
いささかきつい口調で言ったのはファルミア様の母君だったそうだ。
『王太子殿下は、必ず国王陛下を説得すると仰せでございます。』
『ふむ・・・レイナック卿、一月待ちましょう。城下町ではすでにライネス様と娘のことが噂になっているという話も聞き及んでおります。話が決まらないままずるずると長引いては、王家の名にも我が家の名にも傷がつきましょう。一月たってもライネス王太子殿下が国王陛下を説得出来ないようであれば、このお話はなかったことにいたしましょう。』
ファルミア様の父君が言った。
『必ず朗報をお届けいたします。』
そう言って、レイナック殿は帰って行ったという。
「するとライネス様が首尾よく国王陛下を説得できたことで、叔母上のお輿入れが決まったと言うことなのですね。」
リアン卿が尋ねた。
「ええ・・・もっとも、あまりよい状況でもなかったのだけど。」
「・・・どういうことですか?」
「国王陛下はとてもまじめなお方よ。わたくしのことについても、単純にハスクロード家の娘だからと言うだけで決めたわけではなく、考えに考え抜いての結論だったようなのだけど、ライネス様はそれでは納得なさらなかった・・・。国王陛下とライネス様との話し合いが何度も行われているうちに・・・国王陛下が一度お倒れになったと言うことなの。」
「それは・・・国王陛下はご病気だったのですか?」
ファルミア様は、小さく首を横に振った。
「そういうわけではないわ。ただその頃は、王国の政治基盤も今ほど盤石ではなかったし、毎日様々な問題が御前会議で話し合われていた頃のことだったの。当然国王陛下のお仕事も大変で、休みなんてほとんど取れないくらいの激務だったそうよ。その中で体調を崩されたようね。何でもその時、国王陛下はライネス様を呼んで、わたくしとのことを許すと仰せになったそうなの。ライネス様はすでに正式に王太子となっていたけれど、弟君のエリスティ王子殿下とは同い年、しかも二人とも独身・・・。その状態で自分に万一のことがあった時、必ず世継ぎ問題でもめるだろう、そこでそうならないよう、ライネス様に早く正室を迎えて、世継ぎとしての立場を確実なものにした方がいいと判断されたのでしょうね。」
「しかし、少し意外ですね。エリスティ公の母君はご子息の即位を誰よりも願っていたと伺っています。それなのに20歳まで独身とは・・・。」
思わず尋ねた。エリスティ公の母君の話は剣士団で聞いたことがあった。ルレッタ様という先々代の国王陛下のご側室だそうだが、富と権力に対する執着はすさまじかったとか。エリスティ公が早くに結婚して子供がいれば、独身の王太子殿下よりも王位継承者になれる可能性は高まるかもしれない。実際そういう先例はあるらしい。
「ああ・・・そうね。この話は貴族達の間ではそれなりに有名なんだけど、一般には知られていないようね。エリスティ公はね、16歳くらいで一度ご結婚されているのだけど、すぐに離婚されたそうよ。なんでも、新婚夫婦に対するお母様の干渉が激しかったとかで、奥様がご実家に戻られてしまったとか。」
「それはまた・・・。」
子息を溺愛していたと言う話も聞いていたが、まさかそこまでとは・・・。
「新婚夫婦に母親の過干渉とは・・・それはまた気の毒なことですね・・・。」
リアン卿がため息とともに言った。
「ふふふ・・・そうね・・・。結局エリスティ公がご結婚されたのは、わたくし達より少し後のこと・・・。子供にも恵まれたのだけど、最近の話では、その子供ともあまりうまくいってないようね。」
王位継承権第一位を得るために、エリスティ公は母君のルレッタ様と共謀してライネス様の暗殺を企てたと言う噂もあったらしい。むろん真偽のほどは定かではなく、ライネス様は無事にご結婚されて子供にも恵まれ、全国民に祝福されて即位された・・・。
(でも・・・早くに亡くなってしまった・・・。その真相は・・・ファルミア様はご存じなのだろうか・・・。)
精霊の長達は、剣に選ばれし者として私がすべてを知る権利があると言っていた。そして古のファルシオンの興りから、その消滅とサクリフィアの誕生までを教えてくれた。だが・・・
(エルバール王国になってからのことについては、そんなにいろいろと聞かせてくれたわけではないんだよな・・・。)
最も私は、剣に選ばれたと言っても統治者でも何でもない。そして、エルバール王国が建国されてから後の話は、おそらく今を生きる私達にとっても遠い昔の話ではない。統治者となることをきっぱりと拒否した私に、さてどこまで話していいものか、精霊の長達も悩んだのかもしれない・・・。
(まあ・・・知らなくていいことまで聞きたいと思わないから、それでいいのかもな・・・。)
「そういうわけで、わたくしは王家に輿入れしました。舞踏会からちょうど一年くらいだったかしらね。当時は貴族の娘が16歳で輿入れなんて、もう薹が立っている、なんて言われたものでしたよ。」
「え・・・16歳でですか?」
ウィローが驚いて尋ねた。
「ええ、今でこそ18歳くらいで嫁ぐのも当たり前のようになりましたが、あの頃はだいたい12歳から14歳までには嫁ぎ先が決まっていたものでしたよ。早いところでは10歳になるかならないかで輿入れ、なんていう方もいらしたようよ。舞踏会に招待された姫君達はほとんどが13から14歳くらいでしたね。わたくしが一番年上だったのかもしれませんね。」
ファルミア様が笑った。
「でも・・・その後国王陛下とは・・・あ、すみません、立ち入ったことでした・・・。」
ウィローが聞きかけて慌てて下を向いた。
「ふふふ・・・いいのですよ。気になりますよね。国王陛下とも、王妃陛下とも、わたくしがうまくやって行けたのかどうか。」
ファルミア様は笑顔だ。つまり、それほど問題は起きなかったと言うことか・・・それとも逆で、笑うしかないくらい大変だったとか・・・。
「結果として、国王陛下の反対を押し切るという形で嫁いだわたくしは、最初はもうどきどきでしたよ。両親はわたくしが正室として嫁ぐことになってからは、我が家としては精一杯の支度をして送り出してくれました。とは言え、我が家の経済状態はそれほどいいとは言えませんでしたから、そんなに持参金を持って行ったわけでもなし、衣装箱の数も本当に少なくて。」
「え、そんなことも重要なんですか?」
驚いて思わず尋ねた。
「あ、私は聞いたことがあるわよ。貴族のご令嬢の婚礼では、何台もの馬車に衣装や立派な家具調度を積んで、しかもかなりの持参金も嫁ぎ先に送られるとか。それが王家との婚礼ともなれば、規模は段違いでしょうねぇ・・・。」
さすがウィローは詳しい。というより、女性ならばこのくらいのことは知っているのかもしれない。
「そうですね。大型の馬車10台に金銀財宝を積んで嫁いだ、なんていう話も昔はあったそうですが、そう言った金銭的な部分での競い合いも、ライネス様はなんとかして歯止めをかけたいとお考えでした。だからね、わたくしにも『これから後宮はなくなり、私の妃はあなただけだ。もちろんハスクロード伯爵家の体面もあるだろうけど、そんなに気負わなくていいと、あなたのご両親にも伝えてください。ハスクロード家のお金はぜひ領民のために使って欲しい。あなたの支度も、当座の着替えを詰めた衣装箱の一つもあればいいんですよ。気にしないでおいでなさい』って、言ってくれました。」
そんな形で嫁がれたファルミア様が一番気にしておられたのは、やはり国王陛下ご夫妻の自分に対する印象だった。これから義理とは言え親子として共にエルバール王国の国政を担っていくのに、仲がうまく行かないのは悲しい。だが・・・
「婚礼の前に、わたくしが一人で国王陛下ご夫妻と挨拶する儀式があるのだけど、お二人ともとても優しい言葉をかけてくださって・・・。ずっと緊張していたわたくしは思わず泣いてしまってね。」
挨拶の途中で泣き出して声を詰まらせてしまったファルミア様の元に、なんと王妃陛下が駆け寄り、ハンカチを差し出して下されたのだという。
『ずっと不安な思いをさせてしまったこと、申し訳なく思います。国王陛下にもいろいろとお考えあってのことだと、理解してください。今日、あなたをライネスの正室として迎えられたこと、わたくし達は本当にうれしく思っていますよ。』
「あの時はもう感動してしまって、お礼を言ったのは覚えているのだけど、何と言ったのか、自分でもすっかり頭の中から飛んでしまっていたほどよ。」
その後・・・婚礼が滞りなく終わり、『王太子妃』として生活が始まってからも、お二人の態度は変わらず優しかったそうだ。
「国王陛下ご夫妻はね、わたくしのピアノをとてもお気に召してくださったの。国王陛下のサロンでは何度かピアノを弾かせていただいたわ。もちろんその時は、以前よりずっとうまく弾けたのよ。その後お腹にフロリアがいるとわかった時にはとても喜んでくださって・・・この子のために曲を作ってみる気はないかとおっしゃったのよ。」
「曲をですか・・・。」
「ええ・・・。『ファルミアよ、そなたのピアノの腕は素晴らしい。聞けば作曲もすると言うではないか。どうだね、生まれてくる子供のために曲を作ってみるというのは』そう言ってくださって・・・わたくしはとてもうれしくて、張り切って作ったの。」
「あ、あの・・・それってもしかして『Lost Memory』と言う曲では・・・。」
ウィローが尋ねた。ウィローの心臓の鼓動が私にまで伝わってくるようだ。
生まれてくる子供のために・・・。『Lost Memory』と言う曲は、ウィローが生まれた時、ファルミア様がデール卿に渡したという楽譜だ。『フロリアにもいつも聞かせているの』とおっしゃったという話も聞いた。デール卿はその曲を自分で弾いて我が子に聴かせたくて、全く弾けなかったピアノの練習を始めたという・・・。
ウィローの言葉に、ファルミア様は驚いて顔を上げた。
「そうだけど・・・どうしてあなたがその曲の名前を知っているの?」
「あの・・・私の父が、ファルミア様に・・・楽譜を・・・」
ウィローが動転しているのがわかる。突然、話の中に出てきた『ファルミア様がフロリア様のために作られた曲』・・・。思わず尋ねてしまったものの、どう説明していいか、かなり混乱しているようだ。私は荷物の中から、『Lost Memory』の楽譜を取り出してテーブルの上に置いた。
「ウィロー、落ち着いて。私から説明するよ。」
そして私は、この曲の楽譜をウィローの母さんが持っていたこと、それは本当はウィローの父親であるデール卿がファルミア様からいただいたものだと聞いていることを話した。今ここに出した楽譜は、それとは別に私の父がどこかで手に入れたらしいことも。
「それではあなたはデールの・・・。」
すっかり驚いたままのファルミア様は少し考え込んでいたが・・・。
「・・・そう言えば・・・エル・バールとシルバから聞いたあなた達の特徴と名前・・・1人は黒髪の男性で、名前をクロービス、もう1人は濃い栗色の髪の女性で、名前をウィローと・・・ああ・・・そうだったの。あなたがあのウィローなのね。こんなに大きくなってまあ・・・。」
ファルミア様は涙を浮かべて、懐かしそうに微笑んだ。
「いやねぇ、あなたから名前を聞いたのに、全然気づかなかったわ。そう・・・あなたがデールの・・・。それに・・・。」
ファルミア様は私がテーブルの上に置いた楽譜を手に取り、しばらく見ていた。
「これはファルミア様が書かれた楽譜で間違いないんですね?」
「ええ・・・あら・・・これはもしかして・・・。」
ファルミア様は楽譜を手にとり、まじまじと見つめたあと、メイドのサーラさんに声をかけた。
「ねえサーラ、この楽譜、これは2年近く前にここを訪れたサミルさんと言う医師の方に差し上げたものではなかったかしら。」
サーラさんが楽譜をのぞき込み、『あら、ええそうですわ。間違いございません。』と驚いた様子で言った。
「サミルは私の父です。父がここに来ていたんですか?」
私のほうはもっと驚いていた。父さんがここに?楽譜をもらいに?では父さんはこの楽譜を『どこかで手に入れた』のではなく、この屋敷を訪ねてもらい受けたのか・・・。
「あの方はあなたのお父様なの?」
ファルミア様も驚いている。
「はい・・・。実は・・・。」
私はこの楽譜を手に入れた経緯を簡単に話した。父から直接渡されたものではないこと。なぜこの楽譜が、父が亡くなり埋葬も終わったあと、家の中のピアノの上に置かれていたのか、それもわからないことも・・・。
「そうだったのですか・・・。この楽譜は、あなたのお父様がぜひもらい受けたいとこの家にいらっしゃった時に差し上げたのだけど、それは・・・フロリアに渡すためと聞いていたのよ。今もう一度よく見てみたけれど、これは誰かの写しではなく、間違いなくわたくしが書いたものだわ。それでは・・・この楽譜はフロリアの手には渡らなかったのね・・・。」
ファルミア様は落胆したようだった。
「フロリア様に・・・。でも私の父がフロリア様と知り合い、いや知り合いどころかそんな大事な頼まれ事をするほど親しくしていただいていたなんて、聞いたこともないんです。」
「わたくしも詳しい経緯はわからないのだけど、不思議なご縁でお言葉をかけていただくようになった、とは言っていたわ。とても真面目そうな方だったし、フロリアがこの楽譜を欲しがっていると熱心に頭を下げてくれるので、わたくしはここにサミルさんを待たせて、急いで書いたのよ。」
「え、それではファルミア様が直接父に応対してくださったのですか。」
死んだことになっているこの方が、へたに顔を出せば大変なことになる可能性もあるというのに、わざわざ出て来てくれたのか・・・。なんともお優しい方だ・・・。
「ええ、もっとも、死んだはずの作曲者が現れたものだから相当驚いていたようですけどね。」
ファルミア様がくすりと笑った。
「ファルミア様がここにいらっしゃることは、父は知らなかったんですね。」
「エルバール国民は誰1人知らないはずですよ。まあ、例外というなら、レイナックとケルナーかしらね。」
『ルセナ、正確には、1人は惜しみ、1人は恐れた、というところね。』
ふいにヴェントゥスさんの言葉が脳裏によみがえった。あれはもしかして、レイナック殿とケルナー卿の、2人のことだったのだろうか・・・。
「ああ、もう1人いたわ。でも彼は・・・デールは・・・王宮から去ってしまった・・・。」
「ハース鉱山へ行くためですね。」
ウィローが尋ねた言葉に、ファルミア様はうなずいた。
「わたくしも我が家の諜報員から聞いた話でしかないのだけど、フロリアの即位を見届けてからハース鉱山の統括者として赴任するために、大臣の職を辞したと言うことでした。彼はレイナックが見出して大臣として推挙しただけあって、とても優秀な人物でしたよ。ただ、『正しきこと』のためには一歩も引かず、ケルナーとはよく諍いを起こしていたのを覚えています。」
「そうでしたか・・・。」
「でもね・・・。それもすべて国の行く末を憂えてのこと。ライネス様はあまり気になさっておられなかったと思います。いつだったかしら、『あのくらい歯に衣着せずものを言う大臣がいてこそ、この国の未来も安泰というものだ。みんながみんな私の顔色をうかがったり、右を向けと言えば即座に右を向くようでは、先が思いやられるよ』そんなことを言って笑っておられたことがありましたね。だからウィロー、あなたは胸を張りなさい。あなたのお父様は、この国を牽引する御前会議の一員として、間違いなく大きな業績を残した方ですからね。」
「はい・・・ありがとうございます・・・。」
ウィローが涙をぬぐった。
「でも不思議な縁ですね・・・。わたくしの作った曲が、あなた達の縁をより深く結びつけたようですね・・・。」
「不思議な曲ですよね・・・。忘れていた子供の頃の想い出が次々とよみがえってくるような・・・。」
「私もそう思ったわ・・・。父さんと一緒にいた頃のことなんて何も覚えていないはずなのにね。」
ウィローが笑った。
「そう・・・。そう言ってくれるのはうれしいわね・・・。そうなるといいなと思って作ったのは確かなのだけど、聞いてくれた人達が本当にそう思ってくれるなんて考えてもみなかったのよ。」
ファルミア様にとって『会心の出来』だった『Lost Memory』は、フロリア様がまだ赤ん坊の頃からずっと聴かせていたという。そしてその2年後、レイナック殿の推薦で大臣となったデール卿のところにも女の子が生まれた。ファルミア様はライネス様と相談し、デール卿をサロンに招いて、『Lost Memory』の楽譜を渡したそうだ。
「あなたが生まれた時、わたくしはこの曲の楽譜をデールにあげたの。奥様がピアノを弾かれるという話は聞いたことがあったから、子守歌代わりに聞かせてあげてねって言って・・・。でもあとで聞いたら、デールは自分でピアノを弾けるようになりたくて、奥様に教わっていたそうね。」
『あなたの奥様はピアノを弾かれると聞いたの。よければ娘さんに聞かせてあげてね。名前は何というの?』
『ウィローと言います。男の子のような名前になってしまいましたが、元気に育ってほしいと思いまして・・・。』
『かわいらしい名前ね。首がすわって連れ歩けるようになったら、ぜひここに連れてきて。フロリアと会わせてあげましょう。』
「そんな会話を交わしたのが・・・つい昨日のことのようだわ。その後赤ん坊だったあなたをデール夫妻が連れてきて・・・ふふふ、フロリアはまだ2歳だったのに、一生懸命あなたの面倒を見ようとしていたのよ。」
「ファルミア様、父がこの楽譜をフロリア様に渡すという約束をしたのに果たせなかったこと、大変申し訳ありません。私がその約束を引き継ぎます。必ずこの楽譜をフロリア様にお渡しします。」
以前フロリア様を乙夜の塔から連れ出した日のあと、教会でこの曲を弾く機会があった。あの時オシニスさんが言ってたような気がする。この曲を乙夜の塔で聴いたことがあると。おそらくは、だが、フロリア様はこの曲を弾くだけならもうすでに覚えていらっしゃるのだろう。単にこの曲の楽譜が欲しいと言うことではなく、母君の思い出として、母君が書かれた楽譜を欲しがっているのではないか。そこで、経緯はわからないがたまたま知り合った父さんに頼んで、この家まで楽譜を取りに来てもらったのではないか・・・。
「ありがとうクロービス。あの子がこの楽譜を欲しがっていると言うことが真実なら、あの子はわたくしのこの曲を覚えてくれていると言うことだわ。小さな頃はよく2人で弾いたものだけど・・・。クロービス、改めてあなた達にお願いします。その楽譜を、なんとかフロリアに届けてください。この曲を聴いてくれたら・・・あの子が忘れているかもしれない小さな頃の記憶を思い出してくれたら・・・もしかしたらあの子を変えるきっかけになるかもしれない、そんな気がするの。」
「確かに、お約束します。」
ファルミア様は笑顔で頷いた。
楽譜をデール卿に下賜されたのはウィローが生まれた頃・・・。その頃にはすでに王位に就いていたライネス様だったが、後宮廃止についてはかなり苦労されたそうだ。即位当時後宮にいたのは亡くなった国王陛下のご側室数人だったから、皆ご実家に帰られたり、子供がいれば『現国王の兄弟姉妹は全員臣下に降る』という王室典範に則り、公爵家を創設してその母君と共に後宮を去った。問題はそのあとだ。これまでならば、次はライネス様のご側室が何人も後宮に入り、王妃の座に就かれたファルミア様が後宮を統括するはずだったが、ライネス様のご側室は誰もいない。そしてファルミア様はお輿入れの際にハスクロード家から侍女を何人か連れてきていた。つまり当時後宮に務めていた女官達の仕事がなくなってしまったのだ。
「本当ならば、ライネス様は国王陛下を説得して、後宮の女官達を少しずつ減らしていく予定でいたの。皆美しく教養豊かな女性達ばかりですもの。再就職も容易だったでしょうし、嫁ぎ先も世話してあげられたはずよ。ところがそれが出来ないうちに国王陛下が亡くなられて、いきなりたくさんの女官達の今後の世話をしなければならなくなったのよ。だからすぐに後宮そのものを廃止することが出来なくなってしまったの。」
仕事がないからと言っていきなり追い出すわけにはいかない。女官達の食と住をこれまで通りに提供し、彼女達の再就職先や嫁ぎ先の世話をしているうちに時は流れ、結局すべての女官達が王宮を去り、後宮を廃止することができたのは、即位より1年ほど過ぎた時のことだったという。
「あの時・・・国王陛下がもう少し長生きしてくださっていたら、また事態は変わっていたのかもしれないわね・・・。今更言っても仕方のないことだけど・・・。」
「失礼ですが、先々代の国王陛下はどうして・・・。一度お倒れになったという話は先ほど伺いましたが・・・。」
「そうね・・・。その後も特にご病気になられたわけではなかったのだけど、お仕事の量はますます増えていったの。わたくしがライネス様に嫁いだことで、わたくし達にもお手伝いできることはあったのだけど、それでも国王陛下でなければならないお仕事はとても多かったの。真面目なお方だったから、無理をなされたのでしょうね・・・。」
後宮廃止と実力本位の人事登用制度について、ライネス様は国王陛下と何度も話し合いを持たれたらしい。公務が終わった後、二人で遅くまで話し込むこともしばしばだったそうだ。
「・・・国王陛下が亡くなられた後、ライネス様が泣いていたのを見たのは・・・多分わたくしだけだったでしょうね・・・。」
『改革だ何だと自分の考えばかりに囚われて、父上のお体を思いやる余裕もなかった・・・。息子として、私は何と父上に謝ればいいのだろう・・・。』」
そんなライネス様にファルミア様は『これからこの国をよりよくしていくことで応えていかれるのが一番ではないでしょうか、そのお手伝いを、ぜひわたくしにもさせてください』そう言って励まされたのだという・・・。
ライネス様の即位後1年をかけて、なんとか後宮は廃止にこぎ着けた。だがその頃、後宮は貴族の子女達にとって『行儀作法を学べて、いい嫁ぎ先が見つかるかもしれない』場所として、実は人気があったのだという。それに『うまくいけば国王陛下のお目にとまって側室になれる』かもしれない。そんな場所の廃止は、当時の貴族達にとってまったく望まざることだったらしい。ライネス様は一般庶民には人気があったが、貴族の間ではあまりよく言われないと言う話を聞いたことがあった。なるほどそれはこういうことだったのだろうか・・・。
「ですが叔母上、私が今の話を聞く限りでは、叔母上とライネス様はとても仲がよく、ご両親である国王陛下ご夫妻との関係も良好であったように思います。私には、叔母上がとても幸せな家庭を築かれているとしか思えなかったのですが、なぜ、叔母上は今ここにいらっしゃるのか、しかも王国では亡くなったことになっているとは・・・なぜなのです?」
ずっと黙って聞いていたリアン卿が口を開いた。確かにその通りだ。話を聞く限り、王家とファルミア様の間には何の問題もなく、国王陛下の早すぎる崩御で思惑より早く即位されることになってしまったライネス様だが、ライネス様とファルミア様のご即位を、国民みんなが熱狂と拍手で迎えたというのに・・・。
ファルミア様は微笑んでうなずいた。
「あなたの言うことも最もです。結婚して、子供が生まれて、国王陛下ご夫妻やライネス様の部下との関係も良好でした。気がかりだったわたくしの持つ力のことも、どうやらレイナックが気づいていたらしく、表向きは何事もなく受け入れてもらえました。もっとも、ケルナー辺りはあまりいい顔をしていなかったようですが、それよりもライネス様が結婚されて『国王陛下に何かあればいつでも即位できる』状態になったことの方が、重要だったのではないかと思います。わたくしも幸せでした。でも・・・。」
ファルミア様は少し言いよどんだあと、ため息と共に言葉を続けた。
「結婚してからわかったというか気づいたのだけど、ライネス様はあまり人に物事を相談なされない方だったのよ・・・。だから大臣として登用した側近の数も2人。それ以上増やそうとはお考えにならなかったみたいね。その他にいた御前会議の大臣達は、ライネス様のやり方にはあまりいい顔をなさらない方ばかりだったと聞くわ。でもレイナックは神官としての務めもあるし、何もかも政治的なことを任せてしまうと負担が大きいからという理由で、デールにはレイナックの補佐をしてもらうつもりで大臣への登用を許したのよ。ウィロー、あなたの前でこんな言い方をしたら失礼だとは思うけど、ライネス様があなたのお父様をどこまで信用していたかはわからないの。いいえ、レイナックだってケルナーだって、本当に心から信頼していたのかどうか・・・。」
細かいことは何でも彼らに相談していたようだが、大きな取り決めとなるとライネス様が独断で動く事が多かったらしい。重要な法案の作成はほとんどライネス様が1人で行い、ほぼそのままの形で御前会議を通す。誰も反対出来なかったのは、その法案の内容が実に機能的で文句の付けどころがなかったから、と言うことらしいのだが、側近と言われながら蚊帳の外に置かれた格好のレイナック殿とケルナー卿は、あまりいい気分ではなかっただろう。デール卿もあまりいい顔はしていなかったそうだが『あの内容は素晴らしいものです』と言っていたそうなので、いかに『歯に衣着せぬ』大臣と言われても、国王陛下の作成された法案に、しかもほとんど非の打ちどころのない内容には異を唱えることが出来なかったのだろう。
「ライネス様としては、側近達はわかってくれると思っておられたようなのだけど、出来るならきちんと言葉にしてその気持ちを伝えないと、本当に理解してくれているのかなんてわからないわよね・・・。あの時もそうだった・・・。文書館の文書管理は国王陛下の役目ですから、毎月定期的に行かれていたのだけど、ある日戻ってこられたライネス様が、随分とふさぎ込んでおられたの・・・。」
その時のことを思い出したのか、ファルミア様が悲しげに眉根を寄せた。
何かあったのかと聞いても『なんでもないよ』と優しく微笑むライネス様が、ファルミア様は怖くなった。こんな風に優しい笑顔を見せる時、ライネス様は大抵何かを抱え込んでおられて、そのつらさをファルミア様に見せまいと明るく振る舞われるのだという。
「わたくしは王妃として式典や行事にはライネス様と共に顔を出していたのだけど、御前会議には出たことがなかったの。本来ならば王妃は国王陛下とともに御前会議の玉座に座り、意見を言うことも自由に出来たのだけど、ライネス様の母君はあまり政治的なことに興味を持たれず、もっぱら花を愛でたり楽器を弾いたり、詩を詠んだりと、文化的なことについて貢献されることがほとんどだったの。それを見て育ったライネス様は、わたくしには御前会議に無理に出なくていいから、ピアノや音楽などの文化面に貢献してくれと言われて・・・。」
ファルミア様は残念そうだった。
「あの時、ライネス様の笑顔が怖いと思ったあの時、どうしてはっきりとそう言わなかったのか、今でも後悔しています。あの頃から少しずつ、レイナックもケルナーも、そしてデールも険しい顔をすることが多くなっていったのです。でもそれがなぜなのか、踏み込んで知ろうとしなかったのは、わたくしの至らなさです。」
ライネス様とレイナック殿、ケルナー卿、デール卿の4人は、いつも御前会議があったあとは執務室で話し込まれることが多かったそうだ。だが、ある日その執務室から怒鳴り声が聞こえてきたと、たまたま前を通りかかった王国剣士がファルミア様に話したのだという。
「わたくし達はその頃はもう乙夜の塔に住んでいたのだけど、警備は王国剣士が担っていました。その子はわたくしのピアノを気に入ってくれてね、よく聞きに来てくれたりしたこともある若い剣士のコンビだったんだけど・・・執務室の怒鳴りあいに驚いて、教えに来てくれたの。」
『我々が口を出すことでないのは承知しています。でもあの様子はとても普通じゃない、デール卿とケルナー卿の諍いとも違うようです。もしかしたら、何か大変なことが起きているのかもしれません。』
後宮が廃止されたあと、王宮は大規模な改築を行った。今まで後宮として使われていた場所は、貴族の部屋として与えられたり、王国剣士団の宿舎の一部になったりと、すっかり様変わりした。そして国王夫妻とフロリア様のお住まいは、別な場所に建築した。それが乙夜の塔と呼ばれている、今の私達にはとてもなじみ深い場所だ。ライネス様は、王宮から離れた場所で家族水入らずで過ごしたかったらしい。
「あの塔はその時に新築したのですか?」
「あそこには元々塔があったの。時々サロンなどに使ったりしていたのだけど、そこを改築したのよ。」
その頃には、ファルミア様にも『何か尋常ならざる事態が起きている』と感じられた。王宮内の噂にもなり始めていたのは
『国王陛下と側近の不仲』
『国王陛下が御前会議に無理難題を吹っかけた』
というものだった。ライネス様がそんな事をなされるはずがないと思う一方で、自分達に心配をかけまいとするライネス様の笑顔にどうしても不安を感じていたファルミア様だったが、ある日届いたご実家からの手紙で、それどころではなくなってしまったのだという。
「あの時・・・フロリアの6歳の誕生日パーティを開いたの。そんな大げさなものじゃなくて、ケーキでお祝いして、あの時はレイナックもケルナーもデールもいて、みんな笑顔だったわ。ウィロー、本当はその席にあなたも呼ぶはずだったのよ。ところがちょうど熱を出して来られなくなってしまったの。フロリアはとても残念がっていたわ。」
そしてその席で、フロリア様は『お父様とお母様にお願いがあるの』と言いだした。
『ほお、お前の願い事では聞かねばならぬな。それはなんだい?』
ライネス様が尋ねた。
『あのね、わたくし、妹がほしい。』
『え?』
ライネス様とファルミア様は顔を見合わせた。
『だって、ウィローは今日来られないんでしょう?お熱を出したなら看病してあげたいけど、違う家の子だからそれは無理だってお母様がおっしゃったわ。だけどわたくしに妹がいたら、ずっと一緒でしょう?いつも一緒に遊べるし、お熱を出したら看病してあげられるもの。だから、お父様、お母様、わたくしの妹がほしいの。そうしたら、妹とウィローと、みんなで遊べるわ。』
「・・・わたくし達は笑って・・・そろそろ二人目もちゃんと考えなければならないね、なんてライネス様がおっしゃっていたわ。あの時は部屋全体の空気がとても穏やかで優しかった。でも・・・」
パーティからしばらくして、メッセンジャーから手紙が届けられた。差出人はご実家の兄君からのものだった。
「父が倒れたという知らせだったの。ただ・・・その手紙の文面が何だかとても冷たい感じで・・・実家のほうでも何かが起きていると感じたわ。」
ファルミア様のお輿入れと時を同じくして、ファルミア様の兄上がご実家の家督を継いだ。子供達にも恵まれ、小さいながらも温かい家庭を築いていかなければなと笑っていた兄上だったはずだが、届いた手紙の文面はとても冷たくぶっきらぼうで、何となくファルミア様を責めているような雰囲気があったという。
「わたくしは、父の元に看病に行きたいとライネス様にお願いしたの。王妃が私的なことで王宮を離れるのはよくないとわかっていたけど、胸騒ぎがしたわ・・・。父の容態は気にかかっていたけど、それより何より、兄にも何かが起きていることが感じられて、すぐに行かなければと思ったの。」
『あなたの父上は私の父上でもある。遠慮しなくていいんだよ。看病に行ってお上げなさい。私が一緒に行くことが出来ないのが残念だ。なあに、あなたが看病すればきっとすぐによくなるさ。里帰りも兼ねてのんびりしておいで。』
ライネス様は笑顔でそう言ってくれた。ファルミア様の兄君については
『お父上が倒れられて、お忙しいのだろう。かわいい妹の顔を見れば、疲れもきっと吹っ飛ぶよ。』
里帰りとは言え、病の父上を看病しに行くのにお世継ぎであるフロリア様を連れて行くことは出来ない。当時はまだ乳母兼教育係としてフロリア様に仕えていたモルダナさんが、『こちらは心配なさらずに、お父様を看病して差し上げてください』と言ってくれたので、モルダナさんと、ライネス様、レイナック殿達やその他の侍女達にもフロリア様のことを何度も念を押して頼み、すぐに帰ってくるから、帰ってきたら約束を果たしますよと、寂しがるフロリア様をなだめて、ファルミア様は王宮をあとにした・・・。
「あれが・・・ライネス様とフロリアに会った最後になりました・・・。ライネス様の笑顔、そしてわたくしの手をしっかりと握ってなかなか離さなかったフロリアの小さな手を、今でも覚えています。」
その時のことを思い出したのだろう、ファルミア様は流れ出た涙を拭った。
「そしてわたくしはこの家に戻ってきました。幸い父の容態はそれほど悪くなく、何日か看病すればよくなってくれるだろうと思われましたが・・・問題だったのは、兄のほうだったのです・・・。」
「・・・どういうことです?」
リアン卿が尋ねた。
「家に戻って、わたくしは屋敷の中に入ったの。そこにはあなたのお父様が立っていてね・・・」
『ほお、お前の夫は来ないのか』
ファルミア様を見下すように見て、ユジン卿は言ったという。ファルミア様は驚いて、国王が王妃の親の看病にそう簡単に来られるわけがないと言ったが・・・優しかった兄君の、まるで別人のようなあまりにも冷たい態度に、ぞっとしたそうだ。
『やはりな。我が家を軽んじて見下している証拠だ。ふん、父上は部屋で休まれておられる。せめてお前くらい顔を出して差し上げるがいい。』
それだけ言うと、さっさと自室に戻ってしまった・・・。
「その後、わたくしは父に会って、しばらくの間看病することにしました。そして父に、兄の様子がおかしい理由を尋ねて・・・わたくしは驚いてしまいました。わたくしが嫁いだあと、我が家では飛んでもない事態になっていたのです・・・。」
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