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「その手紙を書き終えてすぐに容態が悪化して・・・。だから手紙の中身は母が書いた時のままだけど、封筒に入れたのは私よ。そして私は、母が亡くなったことと、今度こそ本当にお金を送るのも手紙をよこすのもやめてくださいとお願いする手紙を送ったけど・・・。その時は翌月どころかすぐに返事が来たわ。葬儀の足しにっていつもの倍のお金を入れて・・・。」
 
 イノージェンはため息をついて少しうつむいた。
 
「その時にこの手紙を同封するべきかどうか、悩んだんだけど・・・結局入れることは出来なかった。その理由は、あなたのお父様から届いたこの手紙と、それから私の母が書いたこの手紙、順番に読んでくれたらわかると思う。」
 
 イノージェンから差し出された手紙を、リーザは受け取って読んだ。そして悔しげに顔をゆがめ、小さな声で『父様のバカ・・・』そう言って泣き出した。
 
「リーザ、その手紙を見せてもらっていいか?」
 
 オシニスさんが尋ねた。リーザは顔を覆ったままうなずき、『皆さんに読んでいただいてかまわないです・・・。』小さな声で言った。
 
「それじゃ、ここで読むか。でかい声を出さなければ外にも聞こえないだろう。」
 
 オシニスさんは手紙を開き、リーザの父親からイノージェンの母さんにあてた手紙を読んだ。
 
「えーと・・・最初のほうは時候の挨拶だ。それは省くぞ。・・・ここからだな。『今日は、重大な報告をしようと思う。イノージェンを、正式にガーランド家の相続人として手続をしたい。君を不幸にしてしまった埋め合わせを、少しでもさせてくれないか。』・・・それは確かに重大だな。そして、この手紙に対する、イノージェンさんのお母さんの手紙がこれか・・・。イノージェンさん、こっちも読んでいいですね?」
 
「はい、お任せします。私はここに持ってきた手紙は全てこの場で皆さんに読んでもらっても構わないくらいです。」
 
 イノージェンの言葉を確認して、オシニスさんはイノージェンの母さんの手紙を開いた。
 
「・・・『あなたはいつまで夢の中にいるのですか。娘は私が今まで育ててきました。今さらあなたの家の一員になどならなくていいのです。それに、私は少しも不幸ではありません。どうか私達のことは忘れて、あなたの奥様とお子さん達をもっと大事にしてあげてください』・・・かな。最後のほうは文字が震えているが、読めないほどじゃない。かなり手厳しい文章だが、それだけ必死だったんだろうな・・・。」
 
「男爵様は手紙の中で、ことあるごとに『君を不幸にしてしまった』と悔やんでいたようです。でも本当に母は不幸なんかじゃなかった。亡くなる時も私とライザーの手を握って、『いい人生だったわ、ありがとう』って・・・。でも男爵様にとって母は、いつまでも『自分が不幸にしてしまったかわいそうな女性』だったのかもしれません。」
 
「あなたの言うことは多分あたってるわ・・・。」
 
 リーザが顔を上げた。
 
「父は自分の不甲斐なさを悔やんでいた。何かにつけて『私のようになっては行けない』って・・・。ハディとのことを許してくれたのも、本当に私達のことを思ってのことなんかじゃないわ。ただ自分の罪滅ぼしがしたかっただけよ・・・。」
 
「おいリーザ・・・。」
 
 ハディはリーザを見て、小さくため息をつき、椅子を近づけて肩を抱き寄せた。
 
「ちょっ・・・みんなが見てるじゃないの!」
 
「・・・罪滅ぼしだっていいじゃないか。ちゃんと許してくれたんだ。それに、親父さんがお前のことを大事に思ってくれていることは間違いないと思うけどな。親父さんはお前の幸せを考えて許してくれたんだと、俺は思うよ。ま、結果として未だにこんな状態になっちまったがな。」
 
 イノージェンはハディとリーザの姿を見つめていたが、小さい声で『お2人は大丈夫みたいね。』と言った。
 
「ハディ達のこと、知ってたの?」
 
「ええ、話に聞いていただけだけど。ライザーが気にしてたのよ。本当なら王宮に戻れたらすぐにでも結婚式を挙げられたはずなのに、うまく行かないものだねって。」
 
「・・・あの時のことは、手紙で知らせておいたからな・・・。」
 
 オシニスさんが言った。
 
「もしかして、私が預かった手紙ですか。」
 
 島に帰る前に、私はオシニスさんからの手紙を預かった。その手紙を受け取った時のライザーさんの顔は、今でも覚えている・・・。
 
「ああ・・・。書くか書かないか、随分迷ったんだが、奴が自分のいなくなったあとのことを、気にかけていないとは思わなかったからな。何が起きたか、誰がどうなったか、そのくらいのことは知らせておこうと思ったんだ。いろいろ書いているうちに飛んでもない長い手紙になっちまったから、ライザーの奴、読むのは大変だっただろうな。」
 
 オシニスさんが少し寂しげに笑った。
 
「でも知らせてもらえて、本当に良かったって、言ってました。島に戻ってから、ずっとずっと気になっていたからって。」
 
「そうですか・・・。」
 
 オシニスさんが微笑んだ。なんとなく、うれしそうだった。
 
「ねえリーザさん、私ね、母の手紙を男爵様に送らなかったことを後悔しているのよ。」
 
「・・・どうして送らなかったんですか?」
 
「あの時は・・・母が亡くなって私もかなり動揺していたし、男爵様にとっても母の死はつらいことだと思ったの。なのにその手紙を一緒に送ったりしたら、どれほど悲しいだろうって、そう思ってやめたんだけど・・・あの時母の手紙を送って、相続の話にけりをつけていたら、もしかしたらこんな形で私達が顔を合わせる必要はなかったんじゃないかと思うわ。だから、ここではっきりさせておきます。あの手紙はもう大分前の手紙だから、今現在、男爵様がどういうお気持ちでいるのかはわからないけど、男爵様のお気持ちがもしもあの手紙の頃から変わっていないとしても、私はガーランド家の一員になりたいとは思わないし、相続の権利も必要ありません。もしも直接お会いする機会があれば話をしようと思っていたけど、お加減がよくないみたいだし、リーザさん、あなたのほうから話していただければいいわ。母の手紙はこのままあなたに預けるから、あなたの、というか、ガーランド家の正式な相続人の皆さんで決めていただいていいわよ。」
 
 リーザは少し考えていたが・・・
 
「・・・イノージェンさん、ひとつだけ、聞いていい?」
 
「私にわかることなら何でも答えるわよ。」
 
「あなたのお母様は・・・」
 
 リーザは言いよどみ、なおも考えている様子だったが、やがて決心したように顔を上げた。
 
「あなたのお母様は、島に渡ってから一度も島を出ていないという話だったけど、それは本当なの?」
 
 イノージェンは特に驚いた様子も見せない。まるでその質問が来ることを知っていたみたいだ。
 
「本当だと、私は思ってるわ。少なくとも私が物心ついた頃からは、一度も島から出ていないわ。」
 
「それじゃその前は?」
 
「それは私にはわからないわ。でもね、母と一緒に島に渡った助産婦のサンドラさんが言っていたことがあるの。『あんなむちゃくちゃな約束なんて反故にしちまったって今さら誰も文句を言わないのに、あんたの母さんの頑固なことには参ったよ。』って。だから母は本当に島から一度も出なかったんでしょうね。」
 
「君の母さんが元気だったころは定期船もなかったしね。王国に向かうには井戸の底から極北の地に通じる洞窟を抜けていくしかなかったわけだから、出て行くのも一苦労だったと思うよ。」
 
「船なら?船なら出ることは出来たかもしれないわ。」
 
 リーザが言った。
 
「そうねぇ。島に来る時にはあなたのおじいさまが手配してくださった船で来たそうだけど、島には当時漁師さん達が使う手漕ぎボートくらいしかなかったそうよ。今でこそ漁業が盛んだから大きな船もあるけどね。でも、たとえば船で出て行くことが出来たとしても、どこへ行くの?島を出てみたところでどこにも行くところがないわよ。」
 
「あるかもしれないじゃない。たとえば・・・昔の恋人とか。」
 
 リーザは挑戦的な目でイノージェンを見つめている。だがイノージェンの表情は変わらない。こんな話が出ることも、予測していたのかもしれない。
 
「やっぱりガーランド家の皆さんが気にしているのはそのことなのね。でもそれはないわ。」
 
「・・・随分はっきり言い切るのね。」
 
「そりゃそうよ。そんなことがあったなら、わざわざ男爵様が手紙にお金を入れてよこす理由はないじゃない。いつでも会うことが出来た間柄なら、お金はこっそり手渡しして、証拠が残らないようにすればすんだ話よ。それが出来なかったからこんなにたくさんの手紙を書いたんだと思うわ。中身が男爵様ご本人の書かれたものだと言うことは、あなたが見てくれればわかるはずでしょう。」
 
 イノージェンが少し強い口調で言い切った。予想していたとは言え、母に不義密通の嫌疑がかけられているのでは黙っているわけには行かないだろう。
 
「俺もそう思ったよ。」
 
 しばらくしてポツリと言ったのはハディだった。
 
「お前からその話を聞いた時、確かに『もしも』はあるかもしれないと思った。確率は半分だ。事実がわからないうちからどっちかに決め付けるってのはやめておこうと思ってた。だが、さっきイノージェンさんからこの手紙の束を見せられて、その確率は『違う』方向にかなり傾いた。そして今話を聞いて、その確率はゼロになった。お前の感情が納得出来ないとしても、俺はお前を責めないよ。だが、事実は受け止めるべきじゃないのか。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 ハディがリーザの頭をなでた。
 
「でも・・・それがもしもカモフラージュだったら?わざと手紙にお金を入れて、こっそり会っているのを分からないようにして・・・。」
 
「おいリーザ・・・なんでそんなにこだわるんだよ。」
 
 ハディが怪訝そうにリーザの顔を覗き込んだ。妙な話だ。なんだかリーザは「父親が結婚後も恋人と会っていた」と信じたいように見える。
 
「だって・・・そんな都合のいい話・・・」
 
「何が都合がいいんだよ。イノージェンさんにとって都合がいいって言うのか?つまりそれはお前にとっては都合が悪いのか。あのなあ、お前の親父さんは潔白だったと、イノージェンさんはそう言ってるんだぞ?何でそれに対して文句をつけるんだよ。それじゃお前は、親父さんが家族を裏切っていたほうがよかったってことか?」
 
「ハディ、そんな風に責めないであげて。リーザだってお父様が家族を裏切っていたなんて思いたくないのよ。でも、きっとお母様は、そう信じたまま亡くなったのね?」
 
 冷静な・・・優しい声でそう訪ねたのは妻だった。そうか・・・。母親はそう信じ込んだまま亡くなった。なのにそんな事実が実はなかったとしたら・・・。
 
(いくらけんかしたってやっぱり母親と娘っていうのは仲いいもんだからな・・・。そうなったら母親がかわいそうだから・・・何とかそれが事実だったという証拠を見つけたいような、そんな気持ちになっているのかもな・・・。)
 
 矛盾した話だが、おそらくリーザ本人だってわかっているはずだ。
 
「そうよ・・・母様は・・・ずっと、父様のことを疑ってた。昔の恋人を今でも愛しているから、私は愛されないんだって、ずっと思っていたわ・・・。なのに、そんな事実がなかったら・・・だとしたら・・・どうして母様は愛されなかったの?何の落ち度もないのに・・・そんなの・・・そんなの母様がかわいそうすぎるじゃない!!」
 
 リーザはそう叫んで泣き出してしまった。リーザの母親が、子供達とあまりうまく行ってなかったというのは、ずっと昔に聞いたことがある。リーザと妹は、『身持ちの固い真面目な人』と結婚するべきだという話をいつも聞かされ、次期男爵たる弟は、男だというだけでいつも冷たく扱われ、母親としての愛情を注いだことなどあったかどうかもわからないと言っていた。妻を苦しめ、子供達をもこんなに苦しませて、それでもなお、昔の恋人との間に出来た子供に執着するのは、夫として、親として、どうなんだろう・・・。『イノージェンに親らしいことをしたい』その気持ちは理解できるが、そのために自分のほかの子供達を苦しませていることに、気づいているのだろうか・・・。
 
(たぶん、イノージェンの母さんは気づいていたんだろうな・・・。)
 
 だから母さんにしてはかなり強い文章で、手紙を書いた。だが、その手紙が男爵の手元に届くことはなく、時間だけが流れていった・・・。
 
「ねえリーザさん、さっきハディさんが言ったようにね、確率は半分なのよ。母が幸せになれる確率は半分、不幸になる確率も半分。でもね、男爵様は私の母をいつだって『不幸な女性』『かわいそうな女性』としてしか見ていなかったと思うの。そしてそれは自分が原因だから、何かしてあげたい。多分それだけなんだと思うわ。だから本当なら、どれほど手間がかかっても、母は届くお金をその都度送り返すべきだったのよ。そして島での暮らしが少しも不幸でないことを、辛抱強く手紙で知らせるべきだったのよ。途中から送り返さなくなってしまったから、男爵様は母がお金を受け取っていると思ってしまった。そして私が、その送られたお金で養育されていると思い込んでしまっていたんでしょうね・・・。相続についての話が出た時、母はとても悔やんでいたわ。早い段階できっぱりと言わなかった自分の責任だって。それでさっきの手紙を書いたんだけど、その頃にはもうだいぶ弱っていて、それからすぐだったのよ、亡くなったのは・・・。」
 
「・・・あなたの・・・せいじゃないわ・・・。」
 
 リーザが涙を拭きながら小さな声で言った。
 
「そうよ・・・あなたが悪いわけじゃないわ、何もかも・・・。母が父に愛されなかったとしても、それはあなたのお母様のせいじゃない・・・。だけど、母は最後まで父を、あなたのお母様を恨みながら死んでいったの。もうあなたのお母様がこの世にいないとわかっていても、母はただひたすら憎むことをやめなかった・・・。母とは随分衝突したわ。ハディとのことも最期まで許すと言ってくれなかった・・・。でも、そんな人でもやっぱり私の母親なのよ・・・。母をそこまで頑なにさせたのは、あなたのお母様の存在なの。だから・・・あなたのお母様は少しも悪くないけど、だけど・・・どうしてもあなたに対して素直になれない・・・。ごめんなさい、イノージェンさん、私ひどいこと言ってるわね・・・。」
 
 少し落ち着いたらしく、リーザは大きく深呼吸して、顔をあげた。
 
「あなたが聞いているかどうかわからないけど、私の母の実家はね、伯爵家なの。だから本当なら、男爵家に嫁ぐなんて有り得ないことだったのよ。だけど、4人姉妹の末っ子で、なかなかちょうどいい嫁ぎ先が決まらずにいた時、ガーランド家の後継ぎは物静かで真面目な人物だって、母の父親、つまり私の母方の祖父がどこかで聞いてきたらしくて、それで縁談が持ち上がったんですって。父の両親にとっては願ってもない話よね。伯爵家から長男の嫁を迎えられるとなれば、家名にも箔が付くわ。それに、当然それなりの持参金を携えてくるはずだもの。それで祖父が独断で話を進めていたらしいのだけど、父はそれを知らずにあなたのお母様と結婚するつもりでいたそうよ。」
 
 そして恋人の妊娠を機に、ガーランド男爵は両親に恋人の存在を打ち明けた。ところが縁談はもうほぼまとまっていて、先代の男爵としては今さら破談になどしたら家名に傷がつくどころか貴族社会から追放されかねない、そこで息子に言い含め、妊娠した恋人を抹殺しようと企んだと言うことか・・・。もちろんリーザはそんな事は知らない。「無理矢理別れさせる代わりに離島で子供を産むことだけは認めさせた」と言っていたが・・・。
 
「なるほどね・・・。母がどこまで事情を知っていたかはわからないわ。私に全て話してくれたのか、それとも実は墓の中まで持って行った秘密があるのかもしれない。サンドラさんなら知っていそうだけど、そこまでは私も聞かなかったのよ。母が私に知られたくないと思っていることがあるとしたら、それはそのままにしておいたほうがいいと思って。」
 
「・・・あなたは強いのね。その強さは・・・あなたのお母様譲りなんでしょうね。私の父にはそんな強さはない・・・。」
 
「私は男爵様にお会いしたことがないからなんとも言えないけど、もしもお加減がそれほど悪くないなら、直接会ってはっきりと言ったほうがいいのかもしれないわね。母が不幸じゃなかったことも、私が不幸じゃないどころかもうすごく幸せだってことを、男爵様にわかっていただかなきゃならないわ。」
 
「なあリーザ、お前の親父さんだが、どこが悪いんだ?」
 
 ずっと黙って聞いていたオシニスさんが尋ねた。
 
「わからないんです・・・。」
 
 リーザが悔しげにうつむいた。
 
「・・・わからない・・・?どういうことだ?具合が悪くて長くないかもしれないから、イノージェンさんに一目会いたいと、そういう話じゃなかったのか?」
 
「そう言ってました。だから聞いたんです。どこが悪いのか。でも言わないんです。主治医のところに直接行って話しも聞いたのですが・・・『男爵様の御意向だから』って教えてもらえなくて・・・。」
 
「妙な話だなあ。」
 
 ハディも首をかしげている。だがオシニスさんは何か考えるところがあるらしい。特に不思議そうなそぶりも見せていない。そんなオシニスさんを見て、リーザがため息をついた。
 
「やはり・・・疑っていらっしゃるんですね・・・。」
 
 オシニスさんは少し厳しい顔でリーザを見て、小さくうなずいた。
 
「ああ・・・じいさんも疑っている。ガーランド家にとって、あまりいい状況じゃない。」
 
「・・・どういうことです?」
 
 私はオシニスさんに尋ねた。
 
「うーん・・・そうだなあ・・・。リーザ、ここに立ち会ってくれているみんなには、この話もしておいたほうがいいと思うが、どうだ?」
 
 聞かれてすぐに答えないと言うことは、本当ならあまり表沙汰にしたくない話か・・・。余計なことを聞いてしまったかもしれない。
 
「はい。立ち会ってくださる皆さんにも、イノージェンさんにも、聞いていただいたほうがいいと思います。」
 
 リーザの声が弱々しい。どうやらあまりよくない話のようだ。
 
「わかった。つまりこういうことだ。男爵家には立派な後継ぎがいる。リーザの弟だ。もう結婚して子供もいて、実際の領地運営や事業の運営はすでにこの次期男爵夫婦が担っている。ガーランド家はとっくに家督相続が終わっていても不思議じゃないんだ。ところが現当主は未だにリーザの父親だ。しかも病気で伏せっているという。それでじいさんが心配して、そろそろ家督相続をして隠居したらどうだと、現男爵に勧めたんだよ。気候のいい土地で静養すればすぐに病気も良くなるだろう、そしたらまた城下町に帰ってきて、趣味でももってのんびりと過ごせばいいのじゃないかとな。ところが男爵はいっこうに家督相続をする気配がない、そして男爵が病気だという噂が妙に広まっている。それでじいさんもおかしいと思ったんだ。もしかしたら、ガーランド男爵の病気は、仮病じゃないかってな。」
 
「け・・・仮病!?」
 
「ああ、当主本人が病気で、家督相続を延期するということ自体は特に問題にはならない。その家ごとの事情もあるだろうし、相続者の準備が出来ているからって何が何でも家督相続を行わなければならないってわけではないんだ。代々当主が死んでから相続という形をとっている家もある。だが、当主が仮病を使って家督相続を先延ばしにしているとしたら、その理由は厳しく調べられるだろう。」
 
「一番先に疑われるのは・・・父が家の事業や領地から上がってくる収益を、王宮に申告しないで着服していたってことでしょうね・・・。」
 
 リーザが小さな声でつぶやくように言った。
 
「そうだな。もしもそれが事実なら大変なことになるが、どうも今回のケースはそういうことでもないらしいな・・・。イノージェンさんに送られていた金も、これだけならおそらく、男爵個人の金で充分まかなえる程度のものなんじゃないのか。」
 
「・・・つまり、私に会って相続の手続をするために、今まで家督相続を先延ばしにしていた可能性があると、そういうことですか・・・?」
 
「イノージェンさんにとってはかなり不本意な話でしょうが、王宮ではそう考えています。金については今言ったように、着服の疑惑はなくなったと思っていいと思いますが、それでもこの話が明るみに出れば、男爵家の立場はかなり悪くなるでしょうね。ただし、それはあなたに責任のあることではありません。なあリーザ、お前だってそれは理解しているよな?」
 
 リーザが力なくうなずいた。
 
「イノージェンさんは何も悪くないんです・・・。遠い昔の幻ばかり追いかけている父の責任です。」
 
「でも、やっぱり母の懸念は当たってしまったわね・・・。相続のことで手紙が来た時ね、ここできちんと言わないと、きっと男爵様はいつまでも目を覚ましてくれないって言っていたの。もしも、なんていくら言っても仕方ないけど、あの時母の具合が悪くならなかったら、その手紙もとっくに男爵様のお手元に届いていたのに・・・。いえ、違うわ。私はやはり母の意思を尊重してこの手紙を送るべきだったのよ。おそらく、母の死を知らせる手紙に相続の話を何も入れなかったことで、男爵様は私をガーランド家の一員として迎えられるかもしれないと、期待してしまったのかもしれない・・・。」
 
 イノージェンがため息をついた。
 
「誰かが目を覚まさせてやる必要がありそうだが・・・ハディ、お前が行ってガツンと言うのはどうだ?」
 
「・・・お、俺ですか!?」
 
 突然話を振られ、ハディは驚いて顔を上げた。
 
「ああ、リーザの婚約者として、ガーランド家に乗り込んでな。」
 
「バカなこと言わないでくださいよ。俺じゃ話を聞いてもらえませんよ。それこそ、イノージェンさん本人が話したほうが余程効果があるんじゃないですか。」
 
「ちょっと待ってくれませんか。」
 
 気になることがあって、私は話に割り込んだ。
 
「どうだクロービス、お前の意見を聞かせてくれないか。」
 
「その前に、どうも今の話の流れだと、ガーランド男爵が仮病を使っているということになってますが、別な可能性というのも、あると思いませんか。」
 
「別なって・・・どういうこと?」
 
 リーザが尋ねた。
 
「こんなことを言ったら君にはつらいことだと思うけど、君のお父さんが本当に大変な病気かもしれないってことだよ。」
 
「ま・・・まさか!?」
 
「こんな言い方は失礼だと思うけど、確かに君のお父さんはだいぶロマンチストのようだ。仮病を使ってでもイノージェンに何かしてあげようと考えているのかもしれない。でもね、主治医の先生まで一緒になって病名を隠すって事は、二通り考えられると思わないかい。ひとつは君の考えるように仮病であることを知られないよう口裏を合わせている。でももうひとつは、本当に余命幾ばくもなくて、どうしても死ぬ前に昔愛した人の子供に何か残してやりたいと考えている男爵のために、主治医が口をつぐんでいる。まずはどちらの可能性も排除しないで考えてみようよ。」
 
 そう、最初から一つの可能性を排除してしまうべきじゃない。そこに真実が隠されていることだってあるはずだ。
 
「なるほど、医者としてのお前の目から見た見解と言うことだな。」
 
「そうです。もしも主治医が男爵の仮病の片棒を担いでいるとしたら、口をつぐませるためにそれなりの報酬を払っていると思って間違いないでしょう。逆に言うならその主治医は、金をもらえればどんなことでもやる人物と言うことになる。リーザ、君の家の主治医はどういう人なんだい?もちろん君達の前では完璧に取り繕っているかもしれないけど、君だって王国剣士として今までやって来ているんだ。特にフロリア様の身辺警護では、見た目に惑わされない『目』も必要になる。その君の目から見て、君の家の主治医というのはどんな人物なのか、それを聞かせてくれないか。」
 
 リーザは考え込んでしまった。
 
「そうね・・・。うちの主治医としてはもう長いのよ・・・。いえ、長いのは、その診療所とのお付き合い・・・。私が小さな頃は先代の先生がいつも家に来ていたわ。でも先生が高齢になって、後継ぎの息子さんが来るようになって・・・。」
 
 リーザは必死に考えている。リーザの頭の中に映し出される光景が、目の前で起きていることのように見える。リーザが余程必死でいろいろと思い出そうとしているのだろうが、それにしても困った。リーザが話し出すまで、迂闊なことを言うわけに行かない。だが、その光景を見る限りでは、その主治医はかなりいい人物らしく、ガーランド家のみんなから慕われているらしい。やがて光景はすうっと消えた。リーザはため息をつき、頭を抱えてしまった。
 
「だめだわ・・・。とてもいい先生なの。先代の先生もいい人だったけど、今の先生もとても優しい穏やかな先生よ。弟の子供達にとても慕われているわ・・・。客観的に見なければならないのに、どうしても『あの先生はお金で動くような人じゃない』っていう自分の感情が邪魔してしまう・・・。」
 
「なるほど、今いきなり見極めてくれって言うのは難しい注文だったね。一番いいのは、やっぱりイノージェンが君のお父さんに会うことだと思うな。その後、君のお父さんがどんな行動をとるかで、本当に病気なのか、仮病なのかはわかると思うよ。そもそもイノージェンがここに来たのは、君の家から男爵に会ってほしいという手紙を出したからだそうじゃないか。君や君の弟さんや妹さんの気持ちがわからないわけじゃないけど、ここでいつまでも頭を抱えていたところで、事態は何一つ進展しないよ。万一君のお父さんが本当に助からない病気だったりしたら、取り返しのつかないことになってしまうんじゃないかな。」
 
「それは・・・。」
 
「立会人として、俺もその考えに賛成だ。そりゃまあ、リーザ達にしてみれば、イノージェンさんと男爵を会わせたくはないだろうが、今クロービスも言ったように、元々はガーランド家から会いに来てくれと連絡をした話だからな。ここまで来たのにやっぱり会わないでくれと言うのは筋が通らんだろう。それに、おそらく男爵も、イノージェンさんに会うまではそれこそ死ぬまで家督相続をしない可能性もある。今のままではガーランド家の立場が悪くなる一方だと思うぞ。」
 
 リーザは考え込んでしまった。
 
「失礼します。」
 
 重い沈黙は、扉をノックする音と、訪問者の声によって破られた。
 
「クロービス、出てくれ。」
 
 オシニスさんに促され、立ち上がって扉を開けた。どこかで見た記憶のある顔の男性が立っている。こぎれいな身なりで、真面目そうな人物だ。だが、なんとなくそわそわとして落ち着かない。
 
「あの・・・こちらにリーザ・ガーランドがいると聞いてきたのですが・・・。」
 
「どちら様ですか?」
 
「あ、これは失礼しました。私は、ラッセル・ガーランドと申します。リーザの弟です。」
 
 なるほど、どうりで見覚えがあったわけだ。もうだいぶ昔だが、リーザ達と、あれはおそらくセディンさんの店を紹介しようと出かけた時のこと、道でばったりと出会ったのだ。彼はまたあの頃、高等学院の学生だった。その日はみんな非番だったので、近くの喫茶店でお茶を飲んだ。物静かで真面目な印象を受けたものだが、それは今でも変わらない。それにしても、なぜ彼は今ここに来たのだろう。彼の周囲には、もやもやとした不安が渦を巻いている。
 
「ラッセル?」
 
 リーザが立ち上がった。私はラッセル卿を中に招き入れ、扉を閉めた。
 
「ラッセル、ここに座れよ。」
 
 ハディが椅子を持ってきて、ラッセル卿の分の席を作ってくれた。オシニスさんはいそいそとお茶を入れ、ラッセル卿の前においた。
 
「こ、これは申し訳ありません!団長殿にお茶を入れていただくなど!」
 
「いや、気にしないでくれ。最近お茶に凝ってるもんでね、みんなに実験台になってもらっているんだ。」
 
 お茶を一口飲み、ラッセル卿は落ち着いたようだった。彼を包んでいたそわそわと落ち着かない『気』が少し薄らいでいる。
 
「ラッセル、どうしたの?ここに来るなんて。」
 
 リーザが尋ねた。
 
「姉上、申し訳ありません・・・。お任せすると言ったのに・・・。」
 
「それはいいんだけど・・・そろそろ話も終わるところだったのよ。・・・団長、団長から弟に今までの話し合いの経緯を説明していただけますか。私では、うまく説明できないところもあるので・・・。」
 
 リーザが言葉を濁した。オシニスさんはうなずき、イノージェンをラッセル卿に紹介して、今日の話し合いの内容を話して聞かせた。ラッセル卿は終始こわばった表情のまま聞いていた。
 
「・・・とまあ、こういうわけだ。ラッセル卿、ここに置かれている金、手紙は、全部ガーランド家に返すということだから、ちょうどいい、君が預かって父上に渡してくれるか。」
 
 ラッセル卿は黙ったままうなずいた。が・・・
 
−−いや、だめだ!−−
 
 突然頭の中に声が響いた。目の前のラッセル卿の心の声か。同時に彼を包む不安な『気』が一気に膨れ上がった。
 
「これは差し上げます。」
 
 ラッセル卿がテーブルの上に置かれた金の入った袋を、イノージェンの前に押し戻した。
 
「え?」
 
 きょとんとしているイノージェンに、ラッセル卿はテーブルに額をこすり付けるようにして頭を下げた。
 
「お願いします。そのお金は差し上げます。だから、もう帰ってください。父には会わないでいただきたいんです。」
 
「ラッセル、急にどうしたの!?」
 
 リーザが驚いて声を上げた。
 
「姉上だって難色を示していたじゃありませんか!でもこちらから連絡を差し上げたのに今度は会わないでくれとお願いするのですから、せめてものお詫びとしてこのお金を受け取っていただこうと考えたんです。イノージェンさん、本当に申し訳ありません。このお金は父からではなく、我が家からのお詫びの印ということにしてお受け取りください。」
 
 イノージェンは突然の話にしばらくぽかんとしていたが・・・「仕方ないわねぇ」とでも言いたげにため息をつき、自分の前に置かれた金の袋を、もう一度ラッセル卿のほうに押しやった。
 
「お金なんて要りません。そもそも私は夫と2人でお祭りの見物に来たんですもの。たまたま今回ガーランド家から手紙が来ていたから、城下町に行くなら少しは顔を出せるかなって、そのくらいの気持ちだったのよ。どうしてもお会いしたいって言うわけではないし、そういうことなら、手紙の話はなかったことにしましょう。私は予定通り夫と2人で子供達の職場見学に行くわ。でももうしばらくはこっちにいることになりそうなの。夫の用事が終わらなくて、私だけ子供達に会いに来たから。だけど、このお金は受け取りません。これは私ではなく母があなたのお父様から受け取ったもの、そして母が受け取るいわれはないと、ずっと保管しておいたもの。だから持って帰ってくださいね。」
 
「し、しかしそれでは・・・。」
 
 ラッセル卿というのは、真面目な人物のようだ。だが、今回ここに来たのはおそらく突発的なものだと思える。
 
「ラッセル卿、君はどうしてここに来たんだ?」
 
 オシニスさんの声に、ラッセル卿がビクッと肩を震わせた。
 
「君はリーザにイノージェンさんの人となりを見極めてもらえるよう頼んでいたんだろう?おそらくは今日リーザが持ち帰る答えを元に、イノージェンさんと君達の父上を会わせるべきかどうか、話し合いをすることになっていたはずだ。だが君は今ここに来た。それはなぜだ?俺はさっき説明したように、フロリア様とレイナックじいさんからこの場の話し合いの立会人として正式に任命されている。俺が納得できる答えを君は持っているのか。」
 
「そ・・・それは・・・その・・・やはり姉に任せきりにするのは申し訳ないと・・・。」
 
 質問に答えているのに、ラッセル卿はオシニスさんを見ようとしない。
 
「それなら最初から同席を申し出るべきじゃなかったのか。君はガーランド家の跡継ぎだ。堂々とここに同席してよかったはずだぞ。それにさっきからずっと落ち着かないようだが、何かあったのか?」
 
「・・・・・・。」
 
 ラッセル卿は黙っている。
 
「ねえラッセル、あなた今日は父様と領地の作物のことで話し合いをするって言ってたわよね?」
 
 ラッセル卿はリーザに視線を向けて、苦しげに顔ををゆがめた。
 
「・・・・姉上・・・私は・・・ガーランド家にとって、なんなんでしょうね・・・。」
 
「・・・ラッセル・・・?」
 
「さっきまで、父上と作物の改良について話をしていました。その話の後・・・」
 
 
『ラッセル、大事な話がある。君もイノージェンのことは知っていると思うが、彼女にはガーランド家の一員となってもらう。もちろんここで一緒に住んでくれというわけじゃない。彼女にはもう家も家族もある。ただ相続権者として、領地の運営には携わってもらおうかと考えているんだ。たいしたお金を渡せるわけではないが、これで彼女の暮らしも少しは楽になるだろう。なんと言っても極寒の地でずっと苦労して来たんだ。いたわってあげないとね。』
 
『い、いやしかし、その方は相続権者になることを承諾されたのですか。』
 
『まあすぐに快諾とは行かないだろうが、説得するよ。会って話をすればわかってくれるさ。』
 
 
「な・・・なんなのその話・・・。」
 
 顔色を変えたのはリーザよりイノージェンのほうだった。
 
「お金が入れば少しは暮らしが楽になるとか、極寒の地で苦労してきたとか、それって・・・どういうこと?」
 
「多分・・・父の思い込みよ。北の島が寒い場所なのは確かだから、きっと苦労しているだろう、寒い場所では暮らしは貧しいだろうという、何の根拠もない思い込みだわ・・・。」
 
 リーザが頭を抱えてため息をついた。なんともはや、とんでもない話になったものだ。
 
「ま、城下町に住んでいる人にとって、北の島での暮らしなんてそんな風にしか思えないんだろうね。思い込みとは言っても、おそらく北の島に行ったことがある人から話でも聞いたか、本でも読んで、そんなことを考えたのかもしれないよ。」
 
「あのねえクロービス、あなたももっと怒りなさいよ。ひどいわそんな言い方。確かに島の冬は寒いけど、夏はそれなりに暖かいし浜辺で泳ぐことだって出来るじゃない。作物だってそりゃそんなに豊かとは言えないけど、食べるにも困ったことなんてないし、何より材木の出荷と薬草栽培のおかげで島の経済状況はそんなに悪くないはずよ。」
 
 イノージェンが口を尖らせた。
 
「そうよねぇ。私だってカナから島に渡ったけど、ちゃんと今まで楽しく暮らしてきたわ。寒いのは寒いけど、暮らしが立ち行かなくなるようなことは今まで一度もなかったしね。」
 
 妻が呆れたように言った。
 
「もちろん私もそう思うよ。悪くないどころか最近はかなり上向いてきているはずだ。どうやらガーランド男爵はそこまではご存じないようだね。いや・・・おそらくは見ようとしていないのかもしれない。」
 
「どういうこと?」
 
 リーザとイノージェン、そして妻がほぼ同時に言った。
 
「ラッセル卿の話を聞いていて思ったんだよ。どうやら男爵は、イノージェンのためというより自分の気がすむようにしたいってことなんじゃないかってね。」
 
「・・・自分の気がすむように・・・ですか・・・。」
 
 ラッセル卿が独り言のように言った。
 
「そう。男爵と面識のない私があれこれ言うのは失礼だけど、それでもこの場の立会人の一人として、あえて言わせてもらう。男爵にとってイノージェンの母さんとのことは、おそらく悔やんでも悔やみきれない出来事だったんじゃないかと思う。イノージェンから聞いた話を考えても、父親の言葉に逆らえなかったとは言え、別れることを選択したのは男爵自身らしい。その時男爵は誓ったんじゃないかな。いずれ必ず恋人とその子供に償いをしようと。」
 
「・・・それで償いの一環としてお金を送り続け、それだけでは気がすまずイノージェンをガーランド家に迎え入れようとしたってこと・・・?だけど、たとえばイノージェンが『それではガーランド家に入ります』と言ったところで、男爵様の気がすむとは思えないけど・・・。」
 
 妻が言った。私もそう考えている。
 
「遠い昔の、悔やんでも悔やみきれない出来事なんて、誰だってあるからね。私にももちろんある。古傷をこじあけるような言い方をしてすまないけど、リーザ、君にだってあるよね。」
 
 リーザがうなずいた。
 
「そうね・・・。今あなたの話を聞いていて、まるで父が少し前の私のようだと思ったわ。グラディスさんを死なせてしまった。自分の考えの甘さと不甲斐なさに腹が立つばかりで、自分は幸せになってはいけない、この国のために償いをすることだけを考えなければって、そんなことばかりで頭の中が一杯だったわ・・・。」
 
「・・・それを言われたら俺だって同じだ。俺は確かにあの時浮かれていたからな。この戦いが終われば、お前と結婚式を挙げられる、なんてな。」
 
 ハディが悲しげに言った。
 
「私だって同じだよ。大事な親友を死なせてしまった、その悔いは今でも消えないし、多分消えることはないと思う。でもね、いつまでもそのことに囚われていたらいつまでも前に進めない、城下町に出てきて、それを痛感したよ。でもリーザ、ハディ、君達はその悔いを、克服するために一歩を踏み出したじゃないか。男爵にはっきりと現実を認めさせるために、説得できるのは君達だけだと思うよ。それとラッセル卿、今のまま男爵がイノージェンに会わないでいたら、おそらくはいつまでも家督相続の話は進まない。君達が心をこめて説得して、イノージェンが男爵と会って正式にこの話を断れば、男爵も目を覚ましてくれると思うんだけどどうかな。」
 
 カインのことを、こんな風にさらりと言えるようになったことに自分で驚いていた。少しずつでも、私も前に進めているのかもしれない。いや、進まなければならないのだ。
 
「姉上、ハディさん、お願いします。父を説得してください。私では・・・。」
 
「ラッセル、もしかして父様に何か言われたの?」
 
 さっきからラッセル卿を取り巻く不安な『気』が大きくなっている。
 
「・・・我が家の事業はそれほど順調とは言えません。男爵家としての体面を保ち、使用人の生活の面倒を見るだけで精一杯なんです。そのことを父上にお話したのですが・・・。『君は全ての事業を引き継ぐんだ。わずかばかりのお金を惜しがらないでくれ。イノージェンは君のお姉さんなんだからね。』と・・・。私は・・・私は金が惜しいのではありません!我が家の事業の財政状態は、ずっと切り盛りしてきた私が一番よく知っています!金が惜しいなど・・・そんなことではないのに・・・。」
 
 ラッセル卿が肩を震わせてうつむいた。膝の上に置かれた手の甲に、涙が滴り落ちる。男爵自身はおそらくそれほど深い考えもなくそう言ったのだと思うが、家督相続もまだだというのに実際に事業を切り盛りして苦労してきた子息に、あまりの言いようではないか・・・。
 
「そ・・・そんな言い方って・・・。」
 
 リーザは呆然としている。
 
「うーん・・・男爵としては、おそらくイノージェンさんをガーランド家に迎え入れるっていうのが、ものすごくいい考えだと思っているんじゃないか?ラッセル卿の話はその『いい考え』に水をさすようなもんだ。だからそんなことを言ったんだろうな。信頼して任せている息子なんだから、多分深い考えはないんだろうと思うが、その言い方はなあ・・・。なあリーザ、ラッセル卿、やはりさっきクロービスが言ったように、イノージェンさんと男爵を会わせて、君達が説得したほうがいいんじゃないか。そうすれば、病気の話も本当か嘘かわかるだろう。」
 
 オシニスさんが言った。ラッセル卿は黙って聞いていたが、小さくため息をついてゆっくりと立ち上がった。
 
「・・・考えさせてください。イノージェンさん、こちらから来てくれとお願いしたのに、こんなことになってしまって申し訳ありません。もう少しだけ待ってくれませんか・・・。」
 
 そう言って、ラッセル卿はイノージェンに向かって深々と頭を下げた。ラッセル卿からは、イノージェンに対する複雑な思いを感じ取ることが出来る。悪い感情というほどのものではないようだが、イノージェンを男爵に会わせた途端、イノージェンが手のひらを返して相続権の話を承諾してしまうのではないか、そんな不安はあるように思える。
 
「私はどちらでも構いません。でもここにあるお金と手紙は、あなたかリーザさんが持って帰ってほしいの。またこんな重いものを抱えて部屋に戻るのは遠慮したいわ。」
 
 イノージェンはそう言って肩をすくめた。イノージェンにとって、このことはさっさと終わらせたい、言うなれば『厄介ごと』の一つでしかないのかもしれない。
 
「わかりました。お預かりします・・・。イノージェンさんひとつだけ聞かせてください。あなたにとって、私の父はどんな存在なんですか?」
 
 その質問に、イノージェンは顔をこわばらせ、少しだけ思案するように目を閉じた。
 
「・・・ここまで来たんだから、正直に言うしかなさそうね・・・。私にとって、男爵様は男爵様、それだけよ。少なくとも、父親だと思ったことはないの。でも血が繋がっているという事実だけは変えようかないから、もしも病気で長くないと言うなら、ひと目会うくらいの願いを叶えるのは私の義務なのかもしれない。そう思って来たのよ。だけどね、毎回届く手紙、お金、そしてガーランド家に入るという話、相続権、どれもこれも私には必要のないもの、もっとはっきりと言うなら、迷惑なの。だから今回は、会っても会わなくても、ここで決着をつけたいわ。これが本当に私の正直な気持ちです。でも私の言葉をあなたが信じるかどうかはあなたの問題よ。私にはこれ以上どうしようもないもの。」
 
 少し強い口調で、イノージェンはきっぱりと言った。迷惑だなんて、本当は言いたくなかったのだろう。だがどうやら、ガーランド男爵は自分の考えに酔って、それですべてがうまく行くと思い込んでいるらしい。それが単にロマンチストな男爵の思い込みのせいなのか、それとも、病気の症状の一つなのか、そこが気になる。
 
「それじゃそろそろお開きかな。ラッセル卿、リーザ、君達の考えは明日聞かせてもらう。これ以上今のままの状態で家督相続を先延ばしにしていると、ガーランド家の立場がますます悪くなることだけは頭に置いておいてくれ。」
 
 オシニスさんの言葉で、みんな立ち上がった。ラッセル卿とリーザは、ハディが送っていくと、3人で部屋を出て行った。さっきの口ぶりから察するに、ハディとラッセル卿の仲は悪くないらしい。いずれ兄と呼ぶ相手を、とても頼っているように見える。
 
「・・・古傷に拘泥しても・・・いい事なんて何もないよな・・・。」
 
 リーザ達が部屋を出てしばらく過ぎた時、オシニスさんが独り言のようにポツリとつぶやいた。
 
「でもその中に囚われているうちは、そうは思えないんですよね。誰かがきっかけを作ってあげないと。」
 
「そうだな・・・。さてと、俺達も出かけるか。馬車を随分待たせちまったな。」
 
「それじゃ私達はイノージェンを送ってきますよ。イノージェン、ライラ達は部屋にいるの?」
 
「もしかしたら、ここのロビーで待ってるかもね。」
 
「なるほどね・・・。」
 
「それじゃ俺は少し遅れてここを出るよ。お前らと一緒にロビーを覗いたりすると、仕事が終わってのんびりしている連中をびっくりさせちまうからな。」
 
 オシニスさんとは馬車の前で待ち合わせることにして、剣士団長室を出た。・・・いた。ライラとイルサが、剣士団のロビーの片隅で、コーヒーを飲みながら若い剣士達と話をしている。
 
「ふふふ、やっぱりね。」
 
 イノージェンが笑った。
 
「でも団長室まで来ようとしなかったのは、随分と我慢したんでしょうね。」
 
 妻も笑い出した。
 
「それじゃイノージェン、話をするなら部屋に戻ってからだね。外でこの話はしないほうがいいよ。窮屈かもしれないけど、はっきりと決着がつくまでは慎重に行動してほしいんだ。」
 
「ええ、わかってるわ。この話は私達だけの問題ではないもの。」
 
 ライラが私達に気づき、駆け寄ってきた。これから食事に出かけるらしく、ライラもイルサも『おなかがすいた』を連発している。2人もこの話の大元が『貴族の家督相続問題』であることは承知しているのだろう。そして話し合いに加わることがなくても、自分達も当事者の一人であることも理解している。心配する必要はなさそうだ。
 
(あとは・・・クイント書記官あたりに目をつけられなければいいんだけどな・・・。)
 
 最近は静かなようだが、次の陰謀を企てていないという保証は何もない。
 
 
 宿舎を出て、王宮の玄関まで来たところで、オシニスさんが追いついてきた。馬車は玄関前の端のほうに停まっている。その前に男性が立っている。どうやら私達を間違いなく家まで連れてくるようにと申し付かった、ベルスタイン家の使用人らしい。私達は馬車に近づき、オシニスさんが名を名乗った。
 
「お待ちしておりました。ではどうぞお乗りくださいませ。ご案内いたします。」
 
 使用人の男性は深々と頭を下げ、私達が馬車に乗ったのを確認して、自分も乗り込んだ。
 
「ではご案内いたします。」
 
 表通りの喧騒を避け、私達の乗った馬車はベルスタイン家へと向かうべく、北側の道を軽やかに走り出した。
 

第90章へ続く

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