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 そこにゴード先生が戻ってきた。
 
「アスランのリハビリは終わったのか?」
 
 ハインツ先生が尋ねた。
 
「ええ、今日のところは終わりです。もう歩くだけなら普通に歩けるようになりましたよ。走るのはまだちょっと難しそうですが。それでクロービス先生にお願いがあるのですが。」
 
「なんでしょう?」
 
「先日リハビリ室でお聞きになったと思いますが、アスランのこれからのリハビリは、怪我をする前の状態に戻すことが目標です。でなければ王国剣士という激務には耐えられないでしょう。でもそれはおいそれと達成できる目標ではありません。」
 
「そうですね。なかなか難しいとは思います。」
 
「ですが、せっかく歩けるようになったのです。アスランはここまで回復したのだと、ぜひ剣士団長殿に自分の足で報告に行きたいと言うのですよ。そこで、先生のご都合がよろしければなんですが、アスランに付き添っていただけないかと思いまして。」
 
「構いませんが、退院ということにはならないんですか?一人で歩けるまでに回復したなら、後は宿舎に戻ってリハビリに通う形でも問題はないかと思うのですが。」
 
「普通ならそうなるところなんですが・・・帰る場所が家族の待つ家ならばともかく、同僚の剣士達が大勢いる場所というのが、果たしてリハビリにいい影響を及ぼすかどうかが問題ですね。励みになるならいいんですが、以前のように自信をなくされたりするのは困りますし。」
 
「なるほど、確かになんとも言えませんね。アスランは今リハビリ室ですか?」
 
「ええ、待っててもらってます。」
 
「セーラさんはどうしたんだ?」
 
 ハインツ先生が尋ねた。そういえばリハビリの時にはいつも一緒にいたはずなのだが。
 
「セーラさんはさっきマレック先生のところへ行きましたよ。なんでも食事療法について聞きたいことがあるとかで。約束していたらしいので、そちらに行ってもらいました。医師を目指しているそうですから、いろいろ勉強したいこともあるでしょうしね。」
 
「わかりました。いくら回復してきていると言っても、まだ一人で歩かせるのは不安ですからね。ではちょっと行って来ます。もし向こうで話を聞きたいとか言われたら、時間をとられることになるかもしれませんが大丈夫ですか?」
 
「いきなり訓練したいなどと言い出さないでくれるなら問題ありませんよ。まだ剣を持つのは厳禁です。本人にもそれはよく言い聞かせてありますから大丈夫だとは思うんですが。」
 
 
 
 クリフの病室を出て、リハビリ室へと向かった。おそらくは、だが、ゴード先生にとって、剣士団の宿舎というのは行きづらいところなのかもしれない。まあこのくらいのことならいつでも請け負うつもりでいる。
 
「うーん・・・確かに宿舎で以前と同じようにカインと寝泊りするのは、アスランにとっていいことなのかどうか判断がつかないな・・・。」
 
 どんなに焦らないと思っていても、毎朝王国剣士達と顔を合わせ、その日の任務や赴任場所の話などを聞いていたら、その話の輪に加われないことで落ち込んだりすることだってあるかもしれない。それがいつまで続くのかはっきりしないなら、なおさらつらいものがあるだろう。
 
 
 リハビリ室は相変わらず賑やかだ。今日は年配者が多いだろうか。『はい、こちらまで歩いてください。』『あいたたた・・・。』『あー、まだそれは無理ですよ。』あちこちで歩く練習をしたり、椅子から立ち上がる動作を何度も繰り返したりしている患者達がいる。
 
「あ、先生。」
 
 アスランは椅子に座っていた。まだセーラは戻っていないらしい。
 
「ゴード先生から頼まれたんだよ。剣士団長室に行きたいそうだね。」
 
「はい、セーラは今日マレック先生と約束していたみたいだし、ゴード先生は『私は採用担当官殿に嫌われているからなあ』って渋い顔をしていたんですけど、クロービス先生なら引き受けてくれるだろうって、言ってました。」
 
「ははは、なるほどね。それじゃ行こうか。」
 
「はい。」
 
 アスランは椅子からすっと立ち上がった。健康な人と変わりない動作だ。歩く時の姿勢も随分よくなった。だが怪我をする前と同じかどうかはわからない。ちょうどいい、オシニスさんとランドさんにアスランの姿勢のチェックをしてもらおう。
 
 
 医師会を出てロビーに入った。執政館の入口前を通る時、警備の剣士達が声をかけてきた。
 
「おいアスラン、もう大丈夫なのか?」
 
 執政館の入口に立つ剣士達は2人とも驚いている。
 
「はい、退院はまだ先ですけど、歩けるようにはなりました。」
 
「そうか・・・。団長のところに報告はしたのか?」
 
「これから行くところなんです。まだ先生に付き添ってもらってですけど。」
 
「そうか・・・。クロービス先生、アスランをよろしくお願いします。」
 
 2人は神妙に頭を下げた。この2人は確かクロム達の同僚だと聞いた気がする。街中で警備している時に何度か顔を合わせたことがあったと思う。
 
(担当してるのはゴード先生だけど・・・)
 
 それをこんなところで説明するのも面倒だ。第一彼らは仕事中なのだから、ここで時間を取らせることは出来ない。曖昧に返事をしてその場を離れた。
 
「疲れてないかい?どこか痛いとか、引っかかるとか、どんな些細なことでもいいから気になるところがあれば言ってくれ。」
 
「はい、今のところは大丈夫です。あの、歩くのゆっくりで先生のほうこそ疲れないですか?」
 
「ははは、私の心配はいらないよ。それにそんなにゆっくりというほどでもないよ。リハビリ室で歩き始めた頃とは比べ物にならないくらい、普通に歩けているよ。」
 
 筋力をあげる訓練は一定の成果が上がっているとゴード先生が言っていた。確かに寝たきりの時には細かった腕の筋肉も随分ついてきたように見える。それにさっきからずっと歩いているのに息が切れる気配もない。やがて剣士団採用カウンターへの階段の前に来た。
 
「手すりに掴まって、ゆっくり上ってくれ。くれぐれも無理はしないように。」
 
 アスランはうなずき、一歩一歩、階段を上り始めた。上を向いて、一段上るごとにアスランの目から涙が溢れ出し、頬を伝った。怪我をしてから、初めて自力で上る宿舎への階段。当たり前の風景だったはずの剣士団のロビーに、アスランはおよそ20日ぶりに自分の足で立った。本人にとっては気の遠くなるような長い時間だっただろう。
 
「・・・アスラン?」
 
 ロビーから階段に向かってきた剣士の一人が、アスランに気づいた。
 
「おう、久しぶりだな。」
 
 アスランは顔をごしごしとぬぐって笑顔を見せた。
 
「・・・本物・・・だよな・・・?」
 
「ばぁか!誰が俺に化けてここまで来るんだよ!」
 
 相手の剣士はまだ若い。こんな冗談を言えるということは、同期か、少し入団年の早い剣士だろうか。
 
「それもそうだ!もう歩けるようになったのか!?」
 
「おーい、アスランが来たぞ!」
 
 ロビーのほうから顔を出した誰かが叫び、一斉に王国剣士達が飛び出してきた。その中の一人が『団長を呼んでくる!』と叫んで駆け出していく。団長室まで行くこともなさそうだ。アスランはたくさんの王国剣士達に囲まれ、笑いながら話をしている。ふと・・・その姿が遠い昔のカインの面影に重なる。南大陸から帰ってきて、ローランの宿屋で懐かしい仲間と再会した時の、カインの笑顔に・・・。
 
(あの時もこんな風にもみくちゃにされたんだよな・・・。)
 
 私にとっては今でも胸に痛い光景なのだが、もうそのことで心が乱されることはなかった。それよりも今は医者として、アスランを気遣う気持ちのほうが大きい。あまり小突かれたりするようなら止めようかとも思ったが、アスランが怪我人だったことはみんな知っている。今のところはそれほど荒っぽい歓迎は受けてないようだ。ふと見ると、採用カウンターの前にランドさんが立っている。
 
「おう、クロービスが連れて来てくれたのか。」
 
「ええ、歩けるようになったことを団長に報告したいと言っていたので。一人で来させるのはちょっと不安だったので、付き添ってきたんですよ。」
 
「そうか・・・。ははは・・・歩けるようになったのか・・・。」
 
 ランドさんも、顔をごしごしとぬぐった。
 
「ゴード先生のリハビリのおかげですよ。私は最初に計画を作っただけで、後はゴード先生が全部指揮を執っています。」
 
「あの男がねぇ。」
 
 ランドさんはとても意外だ、とでも言いたげだ。
 
「今はもう日常生活に支障のないところまでは回復しているんですが、王国剣士として復帰するためには激務に耐えられる体力と筋力をつけなければならないということで、退院はまだ先のことになりそうですよ。」
 
「よぉ、クロービス!」
 
 声に振り向くとオシニスさんが立っていた。隣にはさっき団長を呼んでくると叫んで駆け出していった剣士が立っている。
 
「いきなり『アスランが歩いてきた』ってこいつが言うもんだから、何が起きたのかと思ったが・・・そうか・・・自分の足で、歩いてここまで来れるようになったんだな・・・。」
 
「す、すみません。僕も慌ててしまって・・・。」
 
 若い剣士は頭をかいている。
 
「ははは、いいよ。さて、そろそろアスランをここまで歩いてこさせてくれないか。」
 
「は、はい!」
 
 若い剣士はアスランを取り囲んでいる剣士達に向かって『おい、団長がいらっしゃったぞ!』と叫んだ。剣士達は慌てて振り向き、全員がアスランから離れた。
 
「団長!」
 
 アスランが笑顔になった。
 
「その姿をまた見れて嬉しいよ。ここまで歩いてきてくれ。焦らなくていいぞ。お前が俺の前に来てくれるまで、待ってるからな。」
 
 オシニスさんの目は優しい。アスランは『はい!』と元気よく返事をして、歩き始めた。周りの剣士達も見守っている。階段を上がった場所からオシニスさんがいるところまで、アスランはゆっくり、一歩ずつ床を踏みしめるように歩いて、オシニスさんの前に立った。その瞳からはまた涙があふれていた。
 
「やっと・・・ここまで自分の足で来ることができました。今まで・・・ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。」
 
 アスランが深く頭を下げた。その頭を、オシニスさんの手がぐりぐりとなでた。
 
「そんなことは気にするな。お前が悪いわけじゃないんだ。ほら、顔をあげろよ。横になってないお前の顔を見るのは久しぶりなんだぞ?」
 
 アスランはうなずき顔を上げたが、まだ涙は止まらず、何度も顔をごしごしとぬぐった。
 
「よし、それじゃ少し話を聞かせてくれ。クロービス、時間は取れるか?」
 
「構いませんよ。許可は取ってありますからね。」
 
 さっきまでアスランを取り囲んでいた剣士達は口々に『アスラン、また来いよ。』『待ってるぞ』といいながらアスランに向かって手を振った。アスランも応えて、笑顔で手を振っている。
 
「それじゃランド、お前も来てくれ。」
 
「よし、それじゃ案内板でも立てておくか。」
 
 ランドさんはカウンターの奥から小さな案内板を持ってきてカウンターの上に置いた。
 
『御用の方はロビーでお待ちください』
 
 そう書いてある。さすがに私がここにいたころと同じものではないが、今でもランドさんの留守にはこの案内板が置かれているとは、何だか懐かしい。
 
「さて、これで入団希望者がずらりと列を成して待っていてくれたりすると嬉しいんだがなあ。」
 
 そんな冗談を言いながら、私達は剣士団長室にやってきた。
 
「それじゃお茶を淹れるか。」
 
 オシニスさんがポットの蓋を開けてお茶の葉を入れ替えた。
 
「え!?団長が!?」
 
 アスランは慌てて『俺がやりますよ』と言ったのだが、例によってオシニスさんが『お前は実験台だ。あきらめて俺の淹れたお茶を飲め』と言われ、恐縮しながら椅子に座った。
 
「今のところオシニスの淹れたお茶を飲める若手の団員はお前だけだぞ。運がいいか悪いかはなんとも言えんが、ま、付き合ってやってくれよ。」
 
 ランドさんが笑いながら言った。
 
「運がいいか悪いかとはひどい言い草だな。これでもそれなりに腕は上がってきてるんだぞ。」
 
 オシニスさんが笑いながらみんなの前にお茶をおいた。アスランは緊張した面持ちで一礼し、お茶を口に運んだ。
 
「あ、うまい。」
 
 一口飲んで、すぐに言葉が出たと言うことは、それは愛想ではなく本当においしかったからだと思う。実際今日のお茶は以前よりまたおいしくなっている。前回は少し渋みが残っていたが、今日は飲みやすい。オシニスさんが『おい、無理することはないぞ。正直な意見を聞かせてくれよ。』と言って笑った。
 
「いや、本当にうまいですよ。こういっちゃなんだけど・・・病棟のメシの時に出るお茶より、すごくうまいです。あ、あの・・・比較する対象がおかしいかもしれないけど・・・。」
 
 日常生活に問題ないところまで回復しているアスランの食事は、もう病棟の他の患者と同じものが提供されている。食事と一緒にお茶が配られるのだが、確かにあまりおいしいとはいえない。たくさんの患者用に大きなポットをワゴンに載せて運んでくるので、仕方ないといえばそうなのだが、入院患者にとっておそらくは一番の楽しみである食事の内容を、もっと充実させることは出来ないものかと思う。王宮の厨房から人手を借りることが出来れば、以前よりは改善されるかもしれないが・・・。マレック先生は必要な人数をサスキア事務官に頼んだはずだが、さていつになったら増員できるものか。厨房を仕切るロイスシェフだって協力してはくれるだろうが、自分のところに必要な人員を削ってまで対応することは出来ないはずだ。
 
「そうだなあ。大量に作って配ることを考えれば仕方ないかもしれないが、確かにお茶くらいうまいのを飲みたいもんだよなあ。」
 
「おいランド、お前はお茶だけじゃなくてうまいメシも作ってもらえるじゃないか。」
 
「ははは、まあそうだな。」
 
「それじゃそろそろアスランに話を聞かせてもらうか。どうだ、リハビリの調子は。」
 
「あ、はい。今のところは順調なんだと思います・・・。」
 
 今では病室から歩いてリハビリ室まで行き、筋力をあげる訓練を午前と午後に行っているそうだ。アスランはカインがゴード先生に頼まれてダンベルをリハビリ室に持っていったことから、怪我をする前には軽々と持ち上げられたダンベルを、最近になってやっと少しだけテーブルから浮かせることが出来るようになったというところまで話した。
 
「うーん・・・なるほど。なあアスラン、ちょっと立ってみてくれ。」
 
 ランドさんに言われ、アスランは椅子から立ち上がった。
 
「クロービス、姿勢を少し直すくらいなら問題ないか?」
 
「はい。実は私もランドさんとオシニスさんにそのあたりを見てもらえないかと思ってきたんですよ。」
 
「さっきこいつが歩いてくる時、ちょっと気になったんだよな・・・。」
 
 ランドさんは言いながら、アスランのあごを引かせたり背中を軽く叩いて『もう少し背筋を伸ばせ』などと言っている。普通に歩けるようになってからはかなり改善されたが、まだ少し猫背が残っていたようだ。
 
「よし、お前の姿勢は元々こんな感じだ。今は少し前かがみになっているぞ。歩く時に意識するようにしたほうがいいんじゃないか。」
 
「は・・・はい・・・。猫背は随分治ったかなと思ってたけど・・・。」
 
「歩く訓練を始めたばかりのころは随分転んでいたからね。気づかないうちに姿勢が変わっていたんだと思うよ。」
 
「普通に生活するなら気にしなくてもいいのかもしれないがな。おいアスラン、お前は今筋力をあげる訓練をしているんだろう?それが終われば今度はしばらく訓練場だ。どんなに吹っ飛ばされても大丈夫なように、きちんと力をつけておけよ。」
 
「は・・・はい!」
 
 アスランが嬉しそうにうなずいた。
 
「クロービス、こいつが剣を持てるようになるのはいつ頃だ?何か聞いてないか?」
 
 オシニスさんが尋ねた。
 
「いつ持てるようになるかまでは聞いていませんが、今はまだ持つのは厳禁だと言うことですよ。」
 
「あ、それは言われました。ちょっとだけのつもりで剣を振り回したり、絶対にしないようにって。」
 
 アスランは残念そうに言った。
 
(多分早く剣を持ちたくて仕方ないんだろうな・・・。)
 
「その気がなくてもついつい無理したりすることになるからね。そんなことになったら、完治が遠のいてしまうよ。」
 
 ふと、島の若者ラヴィの顔が浮かんだ。早く仕事に復帰したくて、地道な治療より仕事の勘を取り戻すことにばかり気を取られていたが、あれから真面目にリハビリをしているだろうか。
 
(ラヴィもちゃんとリハビリをしていたら、あのころはもう仕事復帰の時期を決められるところまで来ていたんだよな・・・。)
 
 今のアスランはあの時のラヴィと同じ状況に置かれている。多分、軽く素振りをする程度のことなら、今のアスランには何の問題もない。だが、ちょっとならいいよ、そう言われていても、一度剣を持てばすぐに勘を取り戻したくなり、知らず知らずのうちに無理をすることになる。結果として体に余計な負担をかけることになって、完治が遠のく・・・。
 
「まずはせっかく直してもらった姿勢を、きちんと直すことだね。君の本来の姿勢は、ゴード先生に伝えておくよ。そろそろ戻ろうか。」
 
 今は早く剣を持ちたい心をぐっと抑えて、リハビリに取り組むことが重要だ。カインが何気なさそうに持ってきたあのダンベルを、今アスランは『少しだけ』しか持ち上げられない。そんな状態で無理をすれば結果は目に見えている。剣士団長室を出て歩いて戻る途中、アスランはさっき直された姿勢をかなり意識しながら保とうとしている。が、今度は体が反り返って、逆に変な姿勢になってしまった。私は立ち止まり、もう一度さっきランドさんが直してくれた姿勢を思い出しながら背筋を伸ばさせた。
 
「そんなに意識しなくていいよ。それではかえってひっくり返ってしまうよ。」
 
 アスランを病室に送り届け、セーラに姿勢の話をして、ベッドから降りて歩く時に気をつけて見てやってくれるように頼んだ。セーラは熱心に私の話を聞き、責任を持って直しますと請け合ってくれた。
 
 クリフの病室に戻ってくると、さっそくゴード先生が話しかけてきた。クリフの前で話すことでもないので、廊下に出て、先ほどのアスランの様子と、姿勢について話をしておいた。
 
「助かりました。私は彼が怪我をする前にどんなだったかがわからないので、どうせ行くなら、そこまで見てきていただけるように、先生にお願いしたんですよ。」
 
 なるほど、剣士団の宿舎へ行けば、いやでもランドさんとは顔を合わせる。もちろんランドさんはゴード先生の顔を見るなり文句を言ったりそっぽを向いたりするようなことはないだろうが、ゴード先生としては、相手に嫌われているのがわかっていては必要なことも聞きにくい。
 
(でもなんでそんなに嫌われることになったんだろうな・・・。)
 
 余程間の悪い行き違いでもあったということか。ただ二人とも何も言わないのに、首を突っ込むわけにも行かない。アスランの姿勢についてはセーラにも指示を出してあるが、次回のリハビリの時に顔を出してみますよと伝えておいた。
 
 
「今のところクリフの容態は安定していますね。クロービス先生、今朝の打ち合わせの続きをしましょうか。ライロフとオーリスも呼んで来ましょう。」
 
 ハインツ先生が言ってくれたので、ゴード先生も交えて5人で打ち合わせをすることにした。呼ばれてやってきたオーリスとライロフは不安そうな顔をしていたが、どうやら気づかないうちに何か失敗をしていたのではないかと、びくびくしながら来たそうだ。その話を聞いたハインツ先生が笑い出した。
 
「たとえば君達が何かやらかしていたとしても、それを私が呼びつける筋合いはないよ。今日来てもらったのは、君達にクリフの手術に参加してもらおうと考えてのことなんだ。」
 
「参加・・・?あの、見学はさせていただくことになっていますが・・・。」
 
 2人ともきょとんとしている。
 
「見学じゃない。参加だよ。君達には手術のための薬の管理をしてもらいたいんだ。」
 
「僕達がですか!?」
 
 驚いたのはライロフよりオーリスのほうだった。
 
「君のほうが驚くとは思わなかったな。君は医師の資格があるんだ。駆け出しとは言っても立派な医者じゃないか。それに、ライロフ、君だってここで見習いをやっていて、何一つ知識を身につけていないわけではないだろう。しかも、別に君らに執刀しろなどと言っているわけではないんだぞ?」
 
 ゴード先生が少し呆れたように言った。
 
「い、いや、しかし・・・急なお話なので・・・。」
 
 クリフの手術は、医師会の威信をかけてのプロジェクトだ。そこに参加すると言うことは、単に勉強させてもらう、程度のことではすまなくなる、2人ともそれはよく理解しているのだろう。怯む気持ちがわからないわけではないが、とにかくやってもらわなければならないのだ。
 
「医者の仕事なんてものはいつだって急だぞ。今回のように事前に準備して取り掛かれることのほうが少ないんだ。第一、君達がそんなに腰が引けていては、せっかく君達を推薦してくださったクロービス先生に申し訳が立たないじゃないか。」
 
「え・・・先生が僕らを・・・?」
 
 ハインツ先生の言葉に、二人が私を見た。
 
「そうだよ。今回の手術で、ハインツ先生には私と一緒に執刀医として参加してもらうことになったんだ。もちろん君達だけで全て判断しろなどとは言わない。その場にはハインツ先生ももちろんいるし、マレック先生にも立ち会っていただく予定だからね。ただし、薬の管理は君達の仕事だ。タイミングをきっちり見計らって用意できるよう、今から打ち合わせしておいてくれないか。」
 
「それと、これは今回の手術で使う予定の薬だ。薬草を煎じて用意するものから、薬品まで幅広い。君達もクリフの今の状態はきちんと把握しているだろう。それを踏まえて、使ってみてはどうかと思う薬を、いくつか考えて出してみてくれ。それが今日の宿題だな。」
 
 ハインツ先生は笑ったが、2人はすっかり顔がこわばっている。無理もない。その薬にクリフの命がかかっている。むろんハインツ先生が全て二人に丸投げするとは彼らも思っていないだろうが、医師としてあまりとんちんかんな薬を選べば、自分達の知識が疑われかねない。翌日また打ち合わせすることにして、2人は真剣な顔のまま病室を出て行った。
 
「今回のことはあの2人にとってもいい刺激になるでしょう。オーリスは資格があるのに自信がない、ライロフも前回の試験に落ちたことですっかり自信をなくしている。あの2人が自信を取り戻してくれるといいんですがねぇ。」
 
 それは私の思いでもある。私はハインツ先生にもぜひ自信を取り戻してほしい。そしてゴード先生も同じことを考えていると思うが、当のハインツ先生はどう考えているのだろう・・・。
 
 
 夕方まで病室にいたが、相変わらずクリフの容態は安定している。やはりあの痛みは一過性のものだったのか。
 
(いや・・・まだ結論は出せない・・・。)
 
 慎重に、焦らず見極めよう。
 
 
 夕方、夜勤の医師に後を任せて、私達は剣士団長室に向かった。
 
「お、来たな。」
 
 部屋の中にはオシニスさんと・・・見慣れない年配の男性がいる。使い込まれた剣と、型は古いがよく手入れされたナイト輝石製の鎧を身につけている。
 
「ダンタル殿、彼がクロービスですよ。」
 
「おお、これはこれは・・・」
 
 男性が慌てて立ち上がった。ダンタル殿というと、確かベルスタイン家の・・・。
 
「お初にお目にかかります。私はダンタルと申しまして、ベルスタイン家に仕える護衛にござります。」
 
「やはりそうでしたか。確か祭りの時にユーリク達を護衛されていた方でしたね。あの時はありがとうございました。大変な目に遭われたようですが、2人のおかげで本当に助かりましたよ。」
 
「いやそう言っていただけると・・・私のことなどまでお気にかけていただいてありがとうございます。」
 
 ダンタル殿は恐縮したように頭を下げた。
 
「クロービス、ダンタル殿はセルーネさん達の伝言を持って来てくれたんだ。この間のことでな。」
 
「そうでしたか。それでセルーネさん達は・・・?」
 
「はい、わが主よりの伝言でございます。先日の調べ物について、剣士団長様と、クロービス先生ご夫妻にぜひご意見を伺いたい、大変急な話で申し訳ないが、今夜我が家で食事でもしながら話を聞かせてくれないかと、こういうことでございまして。」
 
「ということなんだ。俺は特に問題ないが、お前達はどうかと思ってな。」
 
 つまりその時に昨日の返事が聞けるということか・・・。このダンタル殿という人は、どうやら話の内容までは知らないらしい。だが、そのことについて不満を持っているわけではなく、彼はいつだって、自分に与えられた任務を忠実に遂行する、それが自分の使命だとでも思っているかのようだ。
 
(でも妙だな・・・。特に何もしていないのに、周りの人の考えていることがなんとなくわかる・・・。)
 
 最近そう思うことが多い。今さらこの力を手放せるとは思っていないが、それにしても人の心が勝手に聞こえてしまうような事態は避けたいものだが・・・。
 
「私達も大丈夫ですよ。あ、となると宿屋に夕食はいらないと伝えてこないと・・・。」
 
 この力のことは自分の問題だ。今あれこれ考えてみても仕方ない。少しの間黙っていた私を、ダンタル殿は不審に思う様子も見せなかった。医師会の予定を思い出しているとでも思ってもらえたらしい。
 
「おお、それでは差し支えなければ私どもが行って伝えておきますが・・・。」
 
 私が返事をしたので、ほっとした様子でダンタル殿は頭を下げた。
 
「ではお願い出来ますか。使い走りのようなことをお願いして申し訳ないのですが・・・。」
 
「とんでもございません。突然の申し出はこちらでございますから。では帰りに宿屋によって伝えてきましょう。」
 
「お願いします。それでは夜に伺います。」
 
 私は宿の名前を伝え、多分今の時間は忙しいだろうけど、必ずマスターの『ラド』に直接伝えてくれるよう頼んだ。
 
「はい、かしこまりましてございます。急なお願いを快くご承諾くださりありがとうございます。ご招待申し上げるのに徒歩でおいでいただくというわけにも行きませぬので、馬車をご用意いたしました。団長様によれば夕方は御用があるとのことでございますので、玄関前に馬車を待機させておきます。案内の者を残しておきますのでご準備が出来ましたらお声をかけてください。」
 
 
「・・・わざわざきてくれと言うことは、ちょっと王宮に出向いて軽く話が出来る内容ではないということか・・・。」
 
 ダンタル殿が剣士団長室を出て、その足音がだいぶ遠ざかった頃、オシニスさんがつぶやくように言った。
 
「容易ならざる話なのか・・・でももしかしたら、それを口実に食事に招きたいと言うことかもしれませんよ。」
 
 オシニスさんが笑い出した。
 
「そうだなあ。前からセルーネさんには誘われていたしなあ。」
 
「私も以前ここにいた時、何度か誘われましたよ。あの頃は気持ちの上でも余裕がなかったし、何より名門公爵家の門を通るのは気後れして。」
 
「でも楽しみだわ。セルーネさんがよく言ってたのよ。『うちのシェフは腕がいい』って。レシピを教えてもらおうかなあ。」
 
 妻は楽しそうだ。
 
「心配だなあ。しつこく言ったりしないでよ。」
 
 料理のこととなると、妻は実に積極的に情報収集をしようとする。普段からそうなのに、最近はマレック先生のところで手伝いしたりしたこともあって、ますます食に対する興味が強くなっているらしい。
 
「あら大丈夫よ。」
 
 けろりとしてそう言って見せる妻の顔には、あのいたずらっぽい微笑が浮かんでいる。全然大丈夫じゃないような気がしてきた。
 
「よし、みんなが来る前に椅子の準備でもするか。ちょっと手伝ってくれ。」
 
 オシニスさんは部屋の奥に行き、寝室部分のカーテンを閉めて予備の椅子を出してきた。元々この部屋にあるベッドはあくまでも「仮眠」のためのもので、本来ここで生活するようには出来ていない。でもパーシバルさんはずっとここで寝起きしていた。城下町に家があるので時々帰ってはいたが、いつもはここに住んでいた。そしてオシニスさんもそうだ。さすがに兄弟が継いだ実家に住み続けるのは気が引けるとしても、別にここで寝起きする必要はない。でもオシニスさんはここにいて、フロリア様に何かあればすぐに飛んでいけるようにしているのじゃないか、なんとなくそう思った。
 
「よし、これでいいな。」
 
 剣士団長室にある打ち合わせ用のテーブルの周りに、人数分の椅子を配置した。お茶の用意もオシニスさんが始めている。今日の会合が、無事に済むといいのだが・・・。
 
 
 「失礼します。」
 
 扉がノックされた。この声はイノージェンだ。オシニスさんが立って扉を開け、イノージェンを中に招き入れた。なんだか重そうな袋を提げている。
 
「子供達は?」
 
「剣士団宿舎に上がる階段の前で別れたわ。ここまで来たらあの子達帰りそうにないもの。」
 
 イノージェンは肩をすくめて笑ったが、子供達にとっては笑い事ではないに違いない。多分気になって仕方ないだろう。
 
「仕方ないですね。せめて話がいい方向にいって、子供達に明るい話が出来るよう、俺も全力を尽くしますよ。」
 
 オシニスさんが言った。イノージェンは『よろしくお願いします』と頭を下げた。
 
 「失礼します。」
 
 また扉がノックされた。これはハディの声だ。リーザも一緒だろうか。
 
「開いてるぞ。」
 
 オシニスさんの声に応えて扉が開き、入ってきたのはハディ、そして後ろにリーザがいる。オシニスさんは全員が中に入ったのを確認して、扉を閉めて鍵をかけた。扉の外には「会議中」の札をかけてある。
 
「よし、これで全員だな。それじゃ座ってくれ。リーザはこっちに。隣はハディな。俺がここに座るから、イノージェンさんはこっちで、クロービスとウィローは扉側で・・・。」
 
 私が扉を背にして座り、もしもノックする誰かがいたら鍵を開けて出ることになった。おそらく今の私なら、ここに座っているだけで扉の外にいる誰かの気配をすぐに感じ取ることが出来る。最もオシニスさんはそこまで考えていないだろうけど・・・。
 
「さてと、始める前にはっきりさせておく。俺はリーザとイノージェンさんからの依頼でこの席に立ち会うことになっていたが、昨日、正式な形でフロリア様とレイナックじいさんからも立会人として任命されたんだ。ガーランド家の家督相続に絡む話だからな。立会人として、話し合いが無事に進むよう口も出させてもらうし、必要な資料には目を通させてもらう。とは言っても、俺もハディとクロービス達と同じく、まったくの部外者だ。まずは初対面同士で自己紹介をしてもらって、自由に話してもらおうかと思う。」
 
「はい、わかりました。」
 
 リーザは落ち着いているように見えるが、実は不安で一杯だ。それはイノージェンに対するというより、自分達のために集まってくれたこの場の人達のためにも、自分が冷静を保たなければならないと言う重圧のようにも感じる。
 
「それじゃ私から自己紹介をします。」
 
 対するイノージェンはいつもと変わりない。名を名乗り、持っていた袋をテーブルの上に乗せて、中から手紙の束を取り出し始めた。おそらくは数年分をひとまとめにしたと思われる手紙の束をいくつも取り出し、最後に大きな紙袋を取り出すと、袋はすっかりぺしゃんこになった。テーブルの上には、取り出した手紙の束が積みあがっている。もしかしてこれは、全部リーザのお父さんからイノージェンの家に宛てて送られた手紙だろうか。とすると最後に取り出した大きな袋の中身はもしかして・・・。
 
「これが、リーザさんのお父様から送られてきた手紙と・・・こちらがお金です。これは全部あなたのお父様の持ち物なの。だからお返しするわ。」
 
「これで・・・全部なんですか?」
 
 笑顔を崩さず話すイノージェンとは対照的に、リーザの顔はこわばったままだ。
 
「ええ、そうよ。それを確かめてもらうために、その手紙も一緒に持ってきたの。中には必ず「今回はこれだけ送ります」と書かれているから、大変かもしれないけど、全部照合していただければ、これで全部だと言うことはわかってもらえると思うわ。」
 
「そうですか・・・。」
 
 リーザはテーブルの上に置かれた手紙とお金の入った袋をぼんやりと見たままだ。だがイノージェンは構わず話し続ける。
 
「このお金はね、全てエルバール王家発行の紙幣よ。そこにガーランド家の印が押してあるの。確認してくれる?」
 
 リーザはうなずき、金の入った袋を開けた。中の紙幣はどれもきれいで、印もくっきりと押されている。この国では紙幣を金と交換できるのだが、通常は王宮か大きな町にある換金所で交換する。だがこの印が押してある場合、この紙幣はガーランド家で額面と同じだけの金と引き換えることが出来る、つまりこの紙幣の価値をガーランド家が担保することを意味するので、この印をうっかり大量の紙幣に押してしまうと、大変なことになるのだ。
 
「・・・はい、間違いありません。」
 
 リーザの声が震えている。イノージェンの母さんと別れたあと、リーザの父親は結婚した。家督相続が行われるのは、通常その跡継ぎ夫婦に子供が出来てからだ。貴族の家では実子以外に跡を継ぐことが許されないので、跡継ぎ夫婦に子供が出来なかった場合、そこでその家が途絶えてしまうことになる。ということは、リーザの父親がイノージェンの母さんにお金を送り始めたころは、まだ家督相続の前だったはずだ。にもかかわらずこの印を押した紙幣を送ってきたと言うことは、もしかして先代男爵の目を盗んで、勝手に印を押していたということだろうか・・・。
 
「ただ、この中にはね、母が北の島に渡る前にあなたのおじいさまからいただいたお金は入っていないの。」
 
「私の・・・祖父から?」
 
「ええそうよ。男爵様と別れて、北の島に渡って子供を産んで、そしてそこから一生出ないことを条件にいただいた、当座の生活費と出産の費用よ。」
 
 リーザの顔がいっそうこわばった。
 
「そのお金は、あくまでも母が条件を飲んだ見返りとして受け取ったものよ。だから返すいわれはないと思うの。だけど、そのあと送られてきたお金のほうは、受け取るいわれがないものよ。だからお返しするわ。」
 
 リーザはうつむいたままだ。なんと答えていいか分からない。そんな風に見える。リーザの中の不安が少しずつ膨らんでくるのがわかる。大丈夫なんだろうか・・・。
 
「さ、これでお金の話はおしまい。それで、お父様の具合が悪いと言うお話だったけど、今はどうなの?回復していらっしゃるならいいんだけど。」
 
 リーザは答えず、何か考えをめぐらせているようだったが・・・
 
「イノージェンさん・・・だったわね、ごめんなさい。私・・・本当はあなたに会う心の準備が全然出来ていないの。」
 
 リーザが頭を下げた。少しほっとした。少なくともリーザは、自分の感情をコントロールしようとしている。
 
「それは仕方ないわ。いくら結婚前のこととは言え、実は自分達以外に親に子供がいたなんて聞いたら、はいそうですかって簡単に言えないでしょうし。」
 
「随分・・・落ち着いているのね。」
 
 リーザを包む『気』がゆらりと揺らめいた。
 
「ええ、落ち着いているわ。この話を聞いたのはもう随分と前のことだもの。」
 
「本当に?」
 
「ええ、あなたのお父様と私の母とのことは、もうずっとずっと昔のことなのよ。今さら私が気を揉むようなことはないわ。」
 
「それじゃ、私の父があなたに会えないと言ったら?」
 
 リーザが探るような目で言ったが、イノージェンは落ち着いたままだ。
 
「あら、お加減がよくないの?」
 
「そんなことじゃないわ!」
 
 リーザがドンとテーブルを叩いた。が、すぐにはっとして赤くなり、『ご・・・ごめんなさい。怒鳴るつもりじゃ・・・。』そう言ってうつむいた。
 
「ああ・・・だめだわ・・・。やっぱり今日じゃなくすれば・・・でもきっといつだって無理だわ・・・。ごめんなさい、イノージェンさん、私、あなたにひどいことを言ってしまうかもしれない・・・。」
 
 リーザは頭を抱えてしまった。
 
「ひどいことでもいいわよ。この際だから言いたいことを全部言っちゃわない?」
 
 リーザは驚いて顔を上げた。
 
「そ、それは・・・!?」
 
「我慢するのは体によくないわよ。それに、私も今回のことは早く決着をつけたいと思ってるの。」
 
「・・・で、でも・・・。」
 
「それじゃ、あなたの話したいことがまとまるまで、私が話すわ。ちゃんと聞いていてね。」
 
 リーザはぽかんとしてイノージェンを見ている。
 
「今回私がここに来たのはね、まずこの手紙と、そしてお金を返すためよ。それから・・・。」
 
 イノージェンは袋とは別に持っていたかばんの中を探って、白い封筒を取り出した。
 
「これはね、あなたのお父様に宛てた、私の母の最後の手紙よ。」
 
「宛てたって・・・どうして出さなかったの?」
 
 リーザが尋ねた。
 
「これを書いたのはね、亡くなる少し前よ。その少し前に・・・えーと・・・」
 
 イノージェンは今度はテーブルの上に置かれた手紙の束の一つを手に取り、一番上になっている封筒を抜き出した。
 
「これ、この手紙があなたのお父様からきていたわ。母はね、私が生まれたあと、何度かは手紙の返事を書いていたけど、何度断ってもあなたのお父様がお金を送ってよこすから、あきらめて返事を出さなくなったの。そうして、お金はこうやってまとめて取っておいたわけ。でも、この手紙を読んで、今回だけは返事を書かなきゃねって、そう言って、ベッドの上にテーブルを置いて、その上で書いたの。だけど・・・」
 
 イノージェンの顔が曇った。
 

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