小説TOPへ 次ページへ→


第89章 優しい幻

 
 専門分野に特化した医師の育成について、私は意見を述べられる立場にはない。だが話の中に妻が関わってくるとなると、そうも言ってはいられないようだ。
 
「もちろん今すぐの話ではない。この議案書は来週の会議に提出される予定のものだ。出したところではいそうですかと可決はせんだろう。今クロービス殿が言われたようなこと、先ほどハインツが言うておったことなどが大臣達の間からも意見として出てくる可能性は十二分にあるものだからな。ただ、ウィロー殿ならマッサージにしても、整体にしても、充分な知識と技術がある。それに薬草についての知識も豊富だ。そして今まで島で看護婦としてクロービス殿の仕事の助手を務めてこられたのだから、おそらく普通に医師の試験を受けても充分合格できるだろうが、今までそうしなかったと言うことは医師として働きたいとは考えていないのだろうと思う。」
 
「え、ええ・・・。今までは全然そんなことは・・・。」
 
 妻はまだぽかんとしたままだ。
 
「ウィロー、資格を取るかどうかはともかく、勉強を始めてみるのはいい事なんじゃないかな。」
 
 資格を取ったとしても、妻が島で医師として仕事をすることになるかどうかはわからない。ただ、後継者育成と言う観点から考えれば、それなりの資格を持つことがいい方向に働くことだってあると思う。もちろん本人にその気があればの話だが・・・。
 
(ブロムおじさんだって・・・多分反対はしないよな・・・。)
 
 島を出る前、後継者問題について考えておいてくれと言われている。もっとも、いくつかの専門分野に特化した医師と言うものをおじさんがどう考えるかはなんとも言えないけど・・・。
 
「それはそうだけど・・・ドゥルーガー会長、過分なお話でとてもありがたいのですけど、少し考えさせてください。」
 
「もちろんだ。今すぐ決めてくれなどと言うつもりは毛頭ない。ただ、島で診療所を続けていくには、いずれ後継者も考えなければならんだろう。技術の伝承に資格が必要なわけではないが、ある程度の権威と言うものが役に立つ時もあるものだ。取っておいて損はないと思う。考えておいてくれるかね。」
 
「わかりました。」
 
 妻はすっかり驚いているらしい。無理もない。私にとっても降って沸いたような話だった。その後私達はクリフの病室に戻った。ここに来たら、もう自分のことで頭を抱えていることは出来ない。とりあえずさっきの話は考えないでおこう。
 
「・・・全然痛まないみたいだね。」
 
「そうですね・・。さっきのはなんだったんだろう・・・。」
 
 クリフも首をかしげている。そろそろ夜勤の医師と交代する時間だが、クリフが痛みを訴えることはなかった。夕食もきれいに平らげ、相変わらず調子がいいようだ。
 
「まあ気を抜けないことに変わりはありませんから、夜勤の医師によく頼んでおきましょうか。」
 
 ハインツ先生が言った。
 
「そうですね。」
 
 ハインツ先生とゴード先生は、明日までにクリフの手術の日程について考えておくと言った。こんな風に調子がいいところを見ていると、やはり「もうしばらく様子見で」となりそうな気がするが、私としてはあまり時間を置きたくないと考えている。
 
(自分の意見をごり押しする気はないけど・・・何とかわかってもらえるよう説得するしかないか・・・。)
 
 まずは明日だ。今ここであれこれ考えていても仕方ない。私達は夜勤の医師が到着するのを待って引き継ぎをし、クリフの病室を出た。その足でマレック先生の部屋にイノージェンを迎えに行った。
 
「楽しかったわあ。この町の助産院にも行ってみたいわねぇ。」
 
 イノージェンは笑顔だったが、話を聞くとどうやら、それなりに意見のぶつかり合いもあったようだ。以前ブロムおじさんが医師会の医師達はプライドが高いと言っていたが、それは助産院の女性達にも当てはまるらしい。彼女達は毎月マレック先生と妊婦や患者の食事について意見交換をしていると今朝言っていた。そこに辺境の島の助産婦が現れ、マレック先生が何かにつけて頼りにするようなことを言えば、おもしろくないと思うことがあったとしてもおかしくはない。だがイノージェンは『今日はいろいろと勉強になったわ』とうれしそうだ。イノージェンはいつだって前向きだ。どんなことにぶつかってもそれを自分の糧として前に進んでいく。自分の父親のことも、サンドラさんのことも、そしてライザーさんのことも、イノージェンなりに受け止めて今まで生きてきたんだと思う。
 
(やっぱりあの母さんの娘だな・・・。)
 
 何があっても前向きで、辛さなどおくびにも出さずにいつも私達に笑顔を向けてくれた、あの母さんに本当によく似てきた・・・。
 
「送っていく前に話があるから、喫茶室に行こうか。」
 
 私達は今朝寄った東翼の喫茶室にやってきた。夜は人も多い。東翼に泊まっている人達や、一般の人達が食事に来ている。私達は席を見つけて座り、お茶を頼んだ。今朝飲んだのと同じ、香りのよいお茶だ。
 
「返事がもらえたってことなのね。」
 
 イノージェンが笑顔で言った。私はリーザがイノージェンに会うと言っていたことと、その時にリーザの『大事な人』、いずれ結婚することになるかもしれない男性から、ぜひ同席させてほしいと頼まれていることを話した。
 
「あらそうなの。私は構わないわよ。ただ、あんまり人数が多くなると、何だかすごい会合みたいになりそうね。」
 
「さすがにこれ以上は増やせないね。あと増える可能性があるのはライザーさんくらいかな。」
 
「そうねぇ。いつ会うかにも寄るけど、ライザーがいつ頃ここに来れるのかわからないのよねぇ。」
 
「いつにするかは、君がそのリーザの婚約者の、ハディって言うんだけど、彼の同席に対する返事をもらってからってことになってるんだ。明日にでもオシニスさんに話しておくよ。」
 
「私はいつでもいいわよ。ただ、そうねぇ・・・あまり先延ばしにはしたくないから、明日の午後か夕方くらいにしてくれると嬉しいわ。」
 
「わかった。それじゃ言っておくよ。」
 
「さばさばしてるわねぇ。」
 
 妻が感心したように言った。
 
「ふふふ、そうね。私はそのリーザさんに会っても、男爵様に会っても、特に自分にとって変わることがないからだと思うわ。ここで会ってお金を全部返したら、あとはもういつもの生活に戻るだけだもの。」
 
「なるほどね。でも君にとって、男爵はお父さんじゃないか。そのことについて何か思うところはないの?」
 
「そうねぇ・・・。実を言うと、ぴんとこないのよね。私にとって父さんみたいな人はサミル先生だったし、母さんにしたって島での暮らしの中で男爵様のことを思い出すことなんてあったのかしら。手紙が来た時だけかもしれないわよ。普段は私に限らず島の子供達の面倒を見るのに忙しかったしね。それに・・・。」
 
 イノージェンは言葉を濁し、少し考えていたが・・・
 
「ふふ・・・サミル先生も母さんももういないんだし、言っちゃおうかな。」
 
 そう言って、いたずらっぽい瞳で私を見た。
 
「何を?」
 
「あのね、母さんはサミル先生のことを好きだったのよ。」
 
「・・・・・・・・・・え?」
 
 一瞬言葉の意味が飲み込めなかった。
 
「好きと言っても、若い頃みたいな恋愛感情とは違うみたいだけどね。」
 
「それって、君の母さんが言ってたの?ダンさん辺りから聞いたとかじゃなくて?」
 
 イノージェンと妻が私の言葉に笑い出した。ダンさんはとてもいい人なのだが、話をしているうちに見てもいないことを大げさに話したり、変に脚色してしまったりするので、ダンさんが私について誰かに話したことが巡り巡って私の耳に届き、恥ずかしい思いをしたこともある。だからその話をしたのがダンさんだとしたら、話の信憑性は一気に低くなるのだが・・・。
 
「確かにダンさんなら、ちょっとしたことでもすごく大きな話にしてしまうかもしれないわね。」
 
「そうねぇ。でもこの話は母さんから直接聞いたのよ。手紙を見せてもらった時にね。」
 
「・・・そういえば昔、長老が父さんに君の母さんと再婚したらどうかって勧めたことがあったって、言ってたっけなあ。父さんは黙って笑ってたそうだけど。」
 
「ええ、長老は母さんのところにも同じ話を持ってきたわ。母さんは断ったんだけど、私は子供心にとても残念だったことを覚えているのよ。母さんがサミル先生と結婚すれば、先生は私のお父さんになったのにって。」
 
「そしたら君とは姉弟になってたわけか。」
 
「そうね。そうならなかったことも残念だったわ。あなたとはいつも一緒に遊んでいたけど、もしも家族になったら同じ家に住むわけじゃない?あなたが弟になったら楽しかったのにね。」
 
「ははは、そうだね。でもそれが本当なら、君の母さんにとって男爵はすでに過去の人になっていたってことなのかな。」
 
「そうかもしれないわ。いつまでも失った恋なんて追いかけていられる余裕はなかったと思うのよ。とにかく、食べて行かなきゃならないしね。」
 
「そうよねぇ。女のほうが現実的ですもんね。」
 
 妻がうなずきながら言った。
 
「そうそう。男性のほうがロマンチストよね。」
 
 それは確かにそうだと思う。この2人を見ているとよくわかる。
 
「そういうわけだから、私はいつでもいいわ。そのハディさんと言う人の同席も異存はないわよ。でも会うと決まったからには先延ばしにしないでほしい、私からの希望はそれだけよ。せっかく城下町に来たんですもの、ここである程度の決着はつけたいの。それにいつまでも待ってはいられないわ。ハース鉱山にも行きたいし、イルサの職場も見学したいし、もう行きたいところが山積みなのよ。もしもどうしても明日では決心がつかないというなら、いっそ今回のことは白紙に戻して、改めて考えたほうがいいんじゃないかしら。もしもそうなったら、団長さんにお金を預けて返してくれるようにお願いするわ。」
 
「わかった、伝えておくよ。」
 
 約束をいつにしようと、リーザの決心がつかないままずるずると先延ばしになるなら意味はない。この日イノージェンは子供達と夕食に出かける約束をしたらしい。明日は祭り見物にも行くそうだ。私達にもどうかと言ってくれたのだが、今日はいろいろと考えなければならないことが多いので、またの機会にということにした。明日は明日で私達には仕事がある。リーザからの返事を間違いなく伝えられるよう、イノージェンには午後から一度クリフの病室に顔を出してもらうことにした。宿に戻って食事を頼み、部屋に戻ってやっと一息ついた。
 
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 妻は椅子に腰掛けて考え込んでいる。
 
「まずは着替えをしたら?鎧を着けたままではいい考えも浮かばないよ。」
 
 以前私が刺されてから、妻も自分の鎧を身につけるようになった。ただ、病室でこの姿のまま診療にあたるのはどうにも気が引けたので、2人とも病室では鎧の上から白衣を着ている。
 
「そうよね・・・。」
 
 妻が立ち上がり、のろのろと着替えを始めた。多分頭の中はイノージェンのことや医師の資格のことで一杯なんだろう。顔を見るとボーっとしていて、案の定はずした胸当てをベッドの上に置こうとして足元に落としてしまった。
 
「痛っ!」
 
 ちょうど足の指の上に落としたらしい。
 
「ほらぼんやりしてるから。今は着替えに集中したほうがいいよ。服を着ないで外に出て行きそうで怖いよ。」
 
 妻はベッドに腰掛けて足の指をさすっていたが、また大きなため息をついた。
 
「そうよね・・・。はぁ・・・もう自分が何をやってんだか・・・。」
 
「今日はいろいろあったからね。でもウィロー、少し落ち着いて、考える順番を決めようよ。一度に全部考えるなんて出来ないし、今私達が一番考えなければならないのは、患者のことだよ。」
 
 妻は黙ってうなずき、はずした鎧をたたんで荷物にしまった。ナイト輝石の鎧は、身に着けている時以外は出来るだけ人目に触れないよう心がけている。妻が何度目かのため息をついた時に食事が運ばれてきた。おいしい食事を食べればもう少し元気になってくれるだろうか。妻の元気がないと私も調子が出ない。
 
「ああおいしかった。ふふふ・・・おいしい食事の力は偉大ねぇ。」
 
 食事をきれいに平らげ、ナプキンで口を拭きながら、妻が笑顔になった。
 
「そうだね。マレック先生が食事についてあれほど深く研究したいと思う気持ちがわかるよ。健康な人間でさえ食事一つでこれだけ気持ちが変わるんだから、病人ならもっと違うだろうね。」
 
「そうねぇ。食事か・・・。」
 
「ウィロー、島でも入院施設を本格的に考えてみようか。」
 
「・・・私もそれを考えたのよ。マレック先生の研究室では、本当に食に関するいろいろなことが研究されているわ。私やイノージェンに話を聞きたいというのも、医師としての目から見た研究は今のところ一段落らしいのよ。そして今回のクリフの件で患者本人の母親からいろいろ話が聞けたことで、今度は家庭料理を取り入れた患者ごとに違う食事内容での療法を考えているみたい。」
 
「つまり、患者ごとに違う薬を処方するみたいにってことだね。」
 
 薬は一人ひとり患者に合わせて処方されるのが当たり前だ。だが食事となると、医師会に限らず、入院施設で患者に出される食事は基本的にみんな同じものだ。その中で固いものがだめだとか飲み込む力が弱い患者などのために、固さを変えた食事を作る、特定の食材が病気に良くない場合はそれを抜く食事を作ることがある、その程度だ。だがマレック先生が考えているのは、そこから大きく踏み込んだ食事療法だと思う。
 
「そうよ。そしてイノージェンはその考え方を妊婦の食事にも取り入れたいと考えているの。もちろん妊婦さんなら普段は自分の家で食事を作るけど、細かい条件設定をした食事を毎回自分で作るなんて出来ない人のほうが多いわ。おなかはどんどん大きくなるし、人によってはずっとつわりがひどい人もいるしね。」
 
「そこで入院施設か・・・。うーん、診療所と産院は分けて考えたほうがいいけど、確かに食事を作る場所を二ヶ所作るのは非効率的かもしれないね。」
 
「そう。だから病気の人のためには入院施設が必要だけど、妊婦さん達なら、一休みできる程度の場所でもいいと思うのよね。妊婦さん達が集まって交流出来て、食事はきちんと計算されたものが出されるとしたら、妊婦さん本人の負担はかなり減るでしょ?」
 
「なるほどね。確かに余程つわりがひどいとか流産の危険がある妊婦さん以外は、特に安静にしている必要はないからね。休憩所と交流をかねた、サロンみたいな感じになるのかな。食事つきのね。」
 
 いまのところそういう場所の役割はサンドラさんの家が担っている。サンドラさんとイノージェンの母さんが島にやってきた時は一緒に住んでいたので、そこそこ広めの家を提供してもらえたらしい。だがそれも最近では随分と手狭になってきた。島の人口が増えたことで、妊婦の数も増えているからだ。
 
「そうそう、イメージとしてはそんな感じね。そういう場所を作って、イノージェンとも協力して施設を運営出来ないかなと思ったの。ただイノージェンにはアローラという後継者が出来そうだけど、私達のほうはその当てがないから、どうしたものかなあと思って。」
 
「後継者もそうだけど、お金の問題もあるからな・・・。」
 
「ま、実現の一番の障害はそれよね。」
 
 妻が肩をすくめた。
 
 診療所の診察も薬代も、島の人なら全部無料だが、観光客からは必要最低限の診療費と薬代だけはもらう。島の医療費補助は人口で決まっているからだ。これは出産にも当てはまる。だがもしもここに入院施設の費用が加わるとなると、島民と言えども全部無料というわけには行かなくなるだろう。そうなった場合の負担割合も決めなければならない。つまり、まだまだ問題は山積みで、すぐに実現できる話ではないと言うことだ。
 
「こっちにいる間にもう少し将来の展望が開けそうなら、帰ってからおじさんとサンドラさんに相談してみよう。それである程度具体的な構想が出来たら、それからグレイに話してみないと。まずは情報収集だね。今ここであれこれ考えてみても仕方ないよ。だから、さっきのドゥルーガー会長の話も、あんまり考えないほうがいいんじゃないかな。あの議案書が御前会議を通過するのもだいぶ先になりそうだしね。」
 
「そうするわ。もうさっきからね、私が医師として活動するってどうしよう、なんてことばかり考えてたの。なんだかばかみたい。たとえば資格を取ったとしても、私が一人で診療することなんてないのにね。」
 
「そういこと。さ、こんな日はさっさと風呂でさっぱりして、早く寝よう。ゆっくり眠れば疲れが取れて、もう少し頭の中もスッキリすると思うよ。」
 
 妻は笑いながら『そうねぇ。』と言って、お風呂に行ってくるわと部屋を出て行った。
 
「ウィローが医者かあ。確かに出来ないことはないよな。資格がないからやらないって言うだけだし・・・。」
 
 妻の知識は私とそう変わりないと思う。私が医師の勉強を始めてからは、妻も一緒にいろいろと教わっていた。『私は看護婦として頑張るから』とは言っていたが、ブロムおじさんは私達2人に同じように教えてくれた。
 
「おじさんは・・・どう考えていたのかな・・・。」
 
 帰ったらよく話し合ってみよう。入院施設についても、もしかしたらおじさんはおじさんで、何か考えていることがあるかもしれない。
 
 
 
 翌日・・・昨日のように慌てて出て行かず、私達はゆっくりと朝食をとっていた。食後のコーヒーを飲み終えた時・・・
 
「今日は返事がもらえるのかしらね。」
 
 妻がぽつりと言った。
 
「どうかな・・・。ローランド卿はおそらく昨日のうちに実家に行ったと思うから、そっちはもらえるんじゃないかと思うけど、セルーネさんのほうはなんとも言えないね。」
 
「そうね・・・。そして私達もオシニスさんとハディに返事を持っていかないとね。」
 
「うん・・・。イノージェンは大丈夫だと思う。無理している様子もないし、リーザと会う時には私達もついてるし。問題はリーザのほうかな・・・。」
 
 ハディがわざわざやってきて、同席させてくれと頭を下げるなんて、それほどリーザが危なっかしく見えたんだろう。だとすると、私達も少し気をつけておいたほうがいいかも知れない。
 
(でも・・・気になることがあるなら、この際全部口に出してしまうほうがいいって気もするんだよなあ・・・。)
 
 そのことが原因で激昂して罵り合い、なんてことになるのは困るが、イノージェンがあの調子なら、万一リーザが多少強い態度をとったとしても、険悪な雰囲気にはならないと思うのだが・・・。
 
 
 宿を出て王宮へと向かった私達は、まず剣士団長室へと足を向けた。
 
「ああ、おはよう。」
 
 オシニスさんは言うなり大きなあくびをして、『お、すまんすまん』と口を押さえた。昨日はあれから資料探しと打ち合わせで、夜遅くまでレイナック殿の部屋にいたらしい。
 
「大丈夫なんですか?」
 
「ああ、たまってる仕事もあるし、今日は一日ここで書類整理だ。その合間に休めるから心配するな。で、ここに来たと言うことは、ライザーのかみさんから返事がもらえたってことか?」
 
「はい。」
 
 私は昨日の夕方、イノージェンが言っていたことをそのまま話した。もちろんイノージェンの母さんが私の父を好きだったという話は伏せておいたが・・・。
 
「なるほどな。どうやらライザーのかみさんはもう肚を括ってるみたいだな。後はリーザに出来るだけ落ち着いてもらうように、ハディに頼んでおくか。」
 
「穏やかな会合にはならないような気がしますね。」
 
「うーん・・・リーザのやつも複雑みたいなんだよな。剣士団に入る時やハディとのことではだいぶ母親ともめたらしいんだが、それでも母親に対する同情はあるだろうし。」
 
「私達が気をつけておくしかなさそうですね。それで、今日の午後か夕方というのは何とかなりそうですか?」
 
「俺とハディは問題ないが、肝心のリーザがどう出るかだな。だが確かに、先延ばしにしてもいい事はない。もしもリーザが先延ばしにするようなことを言ったら、もういっそやめにして、金だけ預かることを考えてもいいかもしれないな。」
 
「そうですね。そこはもうお任せします。」
 
 返事はお昼が終わってからもう一度ここに来て聞くことになった。その後私達は医師会へと足を向けたが、セルーネさん達には出会わなかった。今朝は会議がなかったようだから、いなくても不思議ではないのだが、さてローランド卿はどんな返事を持ってくるのだろう。そしてセルーネさんは・・・。
 
 
「クリフは大丈夫かしらね。」
 
 妻は落ち着いている。今朝起きた時にはもういつもの妻に戻っていた。トーマス卿のことは、返事が来ない以上私達があれこれ考えても仕方ないと、割り切っているのだと思う。そして私達が今一番に考えなければならないことは、クリフのことだ。
 
「だといいね。さて、ハインツ先生達はどういう判断をするのかな・・・。」
 
「私もあなたの考えに賛成よ。体力がついている今のうちに、出来るだけ早く手術したほうがいいと思うわ。」
 
「そうなんだよね・・・。」
 
 今、クリフはだいぶ体力がついて、元気になったように見える。ゴード先生はもう少しマッサージで痛みを軽減して体力をつけたいと考えているらしいが、この先も順調に行く保証はどこにもないのだ。なんと言っても病気は進行し続けている。そして何より、では手術をしようと決まっても、今すぐいきなりというわけには行かない。前準備が必要だし、それも入念にしておかなければならない。そのためにも早めの決断が重要になる。
 
 
 
「おはようございます・・・あれ?」
 
 いつもの席にゴード先生がいない。
 
「おやおはようございます。ゴードなら今はアスランのリハビリですよ。」
 
 ハインツ先生が答えた。病室の雰囲気はいつもと変わりない。クリフは今朝も調子がいいようだ。
 
「そうですか・・・。でもいつもより早いような気がしますが・・・。」
 
「本人がやる気満々のようですよ。無理をさせるわけには行きませんから、早めに始めて、時間をかけてじっくり取り組ませたいということでしたね。」
 
「それは何よりですね。では昨日の話はゴード先生が戻られてからのほうがいいでしょうか。」
 
「いや、その話は私が聞いています。返事だけでも先にしておいてくれとのことでしたので、これから会長のところに行きませんか。」
 
「わかりました。」
 
「それじゃ私が見てるから行ってきて。」
 
 妻が言って、看護婦に今朝のクリフの様子を聞き始めたので、ここは任せることにして私達は病室を出た。
 
「ゴード先生が同席しなくて大丈夫なんですか?」
 
「だいぶ悩んではいましたが、最終的に先生のご意見に同意すると言っていましたよ。体力のある患者の病気は進行が早いと言うことは、彼も理解しています。あまり先延ばしに出来ないなら、手術をして、その後のリハビリにマッサージが役立てるよう、計画を作ると言っていました。そこで私が、話が決まったなら出来るだけ早く会長に報告して準備に入ろうと言ったわけなんですが、アスランのリハビリもありますので、今朝は私が先生と一緒に会長に報告に行くということになったんです。」
 
「そうでしたか。」
 
 どうやらゴード先生も納得してくれたらしい。元々術後のリハビリについては彼に担当してもらう予定でいた。
 
 
 
 
「ふむ・・・なるほどな。」
 
 ドゥルーガー会長はいささか厳しい表情で私達の報告を聞いていた。
 
「ではクロービス殿、貴公の腹積もりとしては、だいたいいつ頃の手術を予定しておるのだ?」
 
「一週間以内にと思っています。もっと早くてもいいくらいですが、万全の体制で臨むために、前準備は入念にしたいと考えています。私だけの都合の問題ではないので、そのくらいの時間は必要だと思いますがいかがでしょうか。」
 
「うむ、確かに皆それぞれ患者を抱えておる。では皆の予定を合わせて、問題ない日が手術ということにしよう。一週間後を目安に決めて、こちらから連絡する。で、手術の助手は奥方で問題ないかね。」
 
「そうですね。私の助手は妻にやってもらおうと思っています。」
 
 島での手術の時はいつも妻が助手をしてくれる。慣れた相手のほうがやりやすい。
 
「では私はゴードと一緒に薬の調合と器具の準備をしましょうか。」
 
 ハインツ先生が言った。
 
「ハインツ先生、それは困ります。私は先生にも執刀医として手術に参加していただきたいと考えているんですよ。」
 
「え?」
 
 ハインツ先生がきょとんとして私を見た。
 
「執刀医が2人ということかね。それでは万一の責任の所在が曖昧になる可能性があるが・・・。」
 
 ドゥルーガー会長は不安げに眉根を寄せた。
 
「もちろん手術における全責任は私にあります。ですが以前にも申し上げたとおり、私がクリフに関わるようになってからまだ日が浅いのです。クリフが入院してからずっと主治医として治療にあたっているハインツ先生の、知識と助言を当てにしたいというのが本音なんですよ。ゴード先生にはハインツ先生の助手をしていただきたいと考えています。薬については事前に使うものを決めて、どんな状況にでも対応できるよう準備をしておけば、誰でも調合は可能だと思います。」
 
「確かにそれはそうなんですが、担当は決める必要がありますねぇ・・・。」
 
 ハインツ先生が思案げに腕を組んだ。
 
「オーリスとライロフはどうでしょう。あの2人なら十分役目を果たせると思いますがいかがですか。新人とは言えオーリスは医師の免許を持っているのですし、ライロフだって知識についてはオーリスに引けはとらないでしょう。あの2人で不安だということなら、マレック先生にも待機していただくようにすれば、体制としては万全だと思います。」
 
 医師としてはまだまだ経験が足りない駆け出しの医師オーリスと、前回の医師の試験に落ちたことで自信を失くしかけている見習いのライロフだが、薬の調合なら問題なく出来るはずだ。どんなことでもやらせてみなければ、経験を積むことは出来ない。
 
「なるほど、確かにあの2人ならやる気はありますし慎重ですから、事前にきちんと教えておけば問題ないでしょう。不測の事態が起きても、その場に私もいますし、マレック先生がついていてくださるなら安心できそうですね。しかし・・・。」
 
 ハインツ先生は不安げに言葉を濁した。
 
「先生の不安はお察しします。ですがここは一つ、私を助けると思ってご協力いただけませんか。」
 
「・・・・・・・・・・・。」
 
 ハインツ先生はしばらく思案していたが・・・。
 
「わかりました。私のほうこそ、クロービス先生のお力で何とかクリフを助けていただきたいんです。私が役に立つのなら、何でも言ってください。」
 
 以前クリフの手術で、ハインツ先生が病巣を取りきれなかったことは、先生のせいではないと私は考えている。だが当の本人がそうは思っていない。ゴード先生にも、何とかハインツ先生の自信を取り戻す策を考えてくれるよう頼んではいたが、変に策を弄するより、先生自身の手で手術を成功させてこそ本当に自信を取り戻すことが出来るのではないか、私はそう考えた。
 
「では決まりだな。ハインツ、クロービス殿と相談して、薬については早めに準備をしておいてくれ。オーリスとライロフなら充分役目を果たせると思うが、本人達は実際に手術に参加することになるとは考えていないはずだ。不安にかられて失敗しないよう、よく言い聞かせておくのだぞ。」
 
 ドゥルーガー会長は、心なしかうれしそうだ。自分の後継者にと考えているハインツ先生が自信をなくしたままでいることは、会長にとってもつらいことだったに違いない。私と同じく、会長も今回の手術でハインツ先生が自信を取り戻してくれないものかと期待しているのではないかと思う。
 
「わかりました。では薬については、まず今まで使用した薬の他に、今後のことも考えてある程度の候補を出してみましょう。クロービス先生、それから打ち合わせをしたいと思いますので、出来れば時間がある時には出来るだけ病室に顔を出していただけませんか。」
 
「もちろんです。私のほうこそ、執刀医となったのになかなか落ち着いて病室にいられなくて申し訳ありません。」
 
「いやいや、先生を頼りにしているのは我々だけではありませんからな。」
 
「さよう、剣士団長殿もレイナック殿も、フロリア様もクロービス殿を頼りにしておられる。われらが独占するわけにも行くまい。」
 
 この日ももう一度オシニスさんのところに顔を出さなければならない。ちっとも患者のそばにいられないことが不安になる。リーザやイノージェンには申し訳ないが、今回のことは出来るだけ早く決着をつけたい。そして少しでも長くクリフのそばで手術のために準備を始めたい。
 
 
 この日の昼は前日と同様『新しい店』を開拓すべく、商業地区の中心街に足を向けた。軽めの食事を提供するカフェから、本格的なコース料理の店までなかなか幅広いタイプの店が並んでいる。こんなところにも時の流れと平和のありがたさを感じる。この穏やかな毎日が続いてほしいものだが・・・
 
(当分は無理かもしれないな。『あのお方』のことを何とかしないと・・・。)
 
 ふと、クイント書記官の顔が浮かぶ。彼は今どうしているのだろう・・・。
 
 
「ついに本格的な準備段階に入るのね。」
 
 妻が言った。
 
「うん。私のほうはブロムおじさんの返事が届けば、ある程度手術の手順を組み立てることは出来るよ。薬のほうはハインツ先生に任せられるし、日程が決まれば後はもう成功させることを考えるだけだね。」
 
「絶対成功させましょうね。クリフがせめて普通の生活に戻れるように。それにハインツ先生にも自信を取り戻していただきたいわ。」
 
「うん、頼りにしてるよ。」
 
「ふふふ、私はいつも通りよ。それと、縁起でもない話かもしれないけど、呪文のほうもちゃんと準備をしておくわ。」
 
「縁起でもないけどそれも必要な準備だからね。私のほうもある程度は心の準備をしておくよ。使えるものは何でも使うつもりでかからないとね。」
 
 必要なら、『クリムゾンフレア』でも何でも使うつもりだ。だがハインツ先生が一緒に手術に参加してくれれば、もう少し彼の知識と記憶を当てに出来る。
 
 
「クロービス!」
 
 王宮のロビーでイノージェンが声をかけてきた。ライラとイルサもいる。
 
「ここで会えてよかったわ。これから医師会に行こうと思ってたのよ。」
 
「祭りはどう?まだまだ賑やかみたいだけど。」
 
「あともう少しで終わるなんて思えないくらいよ。遠くから来ている人達もいるはずなのに、小屋や店を畳んだところなんてひとつもないの。先生達も一緒だったらよかったのに。」
 
 イルサが残念そうに言った。
 
「クロービスは忙しいのよ。ねえ、剣士団長さんのところへはこれから?」
 
「そうだよ。せっかくここで会えたんだし、一緒に行こう。ライラ、イルサ、東翼の喫茶室で待っていてくれるかい。」
 
「うん、それじゃイルサ、行こうか。」
 
「はーい、それじゃあとでね。」
 
 2人は素直にうなずいて、東翼へと向かっていった。
 
「同席したいって言い出さなかったの?」
 
「言われたわ。でもそれはだめって言ったの。子供達に聞かせたい話ではないしね。」
 
「そうか。聞き分けてくれて助かるよ。2人とも大人になったんだね。」
 
「ふふふ、そうね。」
 
 話が決着したあとちゃんと話すからということで、2人とも納得してくれたらしい。
 
 
 
 剣士団長室に向かい、扉をノックした。中からあけてくれたのはなんとハディだった。
 
「お、ちょうどよかったな。俺も今来たところなんだ。入れよ。」
 
「あれ、訓練場のほうはいいの?」
 
「ああ、今ちょっと任せてきた。あ、そちらは・・・。」
 
 ハディは私の後ろにいるイノージェンに目を留め、少しだけ不安げな顔で会釈をした。
 
「この人がイノージェンだよ。ライザーさんの奥さん。イノージェン、彼がハディだよ。」
 
 イノージェンは私の後ろから進み出て、笑顔で自己紹介をした。ハディも慌てたように頭を下げて、名前を名乗った。昨日の話では、ハディはオシニスさんから話を聞くということになっていたと思うのだが、どうにも気になって訓練にも身が入らない、そこで自分から出向いてきたとのことだった。
 
「リーザと直接話がしたかったんだが、用もないのに執政館をうろうろしていたら変に思われるしな。何より俺はあの執務室の雰囲気が苦手なんだ。だから出来るだけ足を踏み入れたくないわけさ。でもどうしても気になるもんだから、メシの後すぐに来たところだよ。」
 
「それじゃちょうどよかったね。私達もここで聞いた話をあとでイノージェンに伝えるはずだったんだけど、さっきロビーで会ったんだ。せっかくだから一緒に返事を聞こうと思ってきたんだよ。」
 
「ま、俺としては一回ですむからありがたいがな。」
 
 オシニスさんが笑った。
 
「確かにそうですね。それでリーザはどうでした?」
 
「ああ、今日の夕方ではどうですかということだったぞ。」
 
 さすがに午後ではいきなりフロリア様の護衛を抜けることになる。もちろん昼間の執政館には王国剣士が大勢いるが、フロリア様の護衛剣士として、私事で仕事を抜け出すことについては気が引けたのだろう。それに、おそらくは自分の心の準備もしたかったのだろうし・・・。
 
「場所はここだ。ハディ、夕方になったら自分でくるとリーザは言っていたが、腰が重いかもしれないから、様子を見に行ってやってくれ。」
 
「わかりました。夕方なら大臣達も官僚もいなくなるから、執務室に入るのもそれほど抵抗はないですからね。」
 
 ハディは余程あの執務室が苦手らしい。まあ気持ちはわかる。私も今は慣れたが、あの雰囲気には緊張したものだ。もっとも今の会議で使われている執務室には、私が王国剣士だったころに使われてた『御前会議場』のような、部屋自体が威圧的な雰囲気というのはない。あの会議場は今では行政局の一部として改築されたらしい。
 
「それじゃ王国剣士が夜勤と交代するくらいの時間でいいですね。」
 
「そうだな。そのあたりを目安にここに来てくれ。」
 
「わかりました。イノージェン、外にいても夜勤の剣士と日勤の剣士が引継ぎを始めたりするから、わかるよね。」
 
「わかるわよ。それじゃ剣士団長さん、ハディさん、よろしくお願いします。」
 
 
 
 話は決まった。後はリーザが落ち着いて会見の場に現れることを祈るしかない。私達は東翼の喫茶室にイノージェンを送っていった。ライラとイルサはお茶を飲みながら待っていたが、私達を見て少し不安げに眉を寄せた。
 
「決まったわよ。リーザさんとは今日の夕方会ってくるわ。」
 
 イノージェンがさっきの話を説明し、それまでの間もう一度祭り見物に出かけることになった。私達はクリフの病室に戻り、この日は夕方までここでクリフの診療にあたることにした。
 
「クロービス先生、薬のことですが、少し調べて候補を出してみたので一度打ち合わせをしませんか。」
 
 ハインツ先生に促され、私は病室の隅にあるテーブルについた。一口に薬と言っても、手術に使う薬はさまざまだ。まずは麻酔薬。その麻酔薬もたくさんの種類があり、組み合わせ次第で目覚めるまでの時間を調整することが出来る。完成当初の麻酔薬は3時間程度の効き目しかなかったが、その後薬草学、その薬草から抽出した薬品についての薬学などの研究が進み、麻酔薬は飛躍的に改良された。それでも私としてはまだまだ改良が足りないと思っている。
 
「先生が改良された組み合わせの中で最新版のものと言うと、これですね。」
 
 ハインツ先生がレシピを見せてくれた。
 
「そうですね。同じものを使ってももう少し効き目を調整しやすくならないか、目下研究中です。」
 
「うーむ、まあ今回の手術ならこれで充分でしょう。そしてこれとこれを・・・このくらいの分量で混ぜ合わせて・・・」
 
 麻酔薬の調合は当然だが一番大事だ。そして不測の事態に備えて、さまざまな薬を個別に準備する。手術が無事終われば、今度は小さくなった病巣をさらに押さえ込む薬・・・。薬漬けにしたくはないが、ある程度回復するまでは、たくさんの薬を飲んでもらうしかない。この日は一回目の打ち合わせということで、麻酔薬のレシピや分量を決めるだけにしておいた。そのほかに候補に挙がった薬については、お互いもう少し調べてみることになった。その薬の中には先日から価格が高騰している薬草もいくつか含まれている。だが今はまだそのことには触れないでおこう。患者にとって一番いいものを準備すること、それが先決だ。
 
「では明日の午後、もう一度打ち合わせをしましょう。私ももう少し調べてみます。その時にはオーリスとライロフにも同席してもらって、手順の説明などもしながら進めておいたほうがいいと思うんですがいかがですか。」
 
「そうですね。では2人にも伝えておきましょう。」
 

次ページへ→

小説TOPへ