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第90章 クイントの謎

 
 
『・・・古傷に拘泥しても・・・いい事なんて何もないよな・・・。』
 
 馬車に揺られながら、オシニスさんがつぶやいた言葉を思い出していた。ガーランド男爵にとって、イノージェンの母さんとのことは大きな傷として残っただろう。それはもちろん、イノージェンの母さんにとっても。だがイノージェンの母さんは、イノージェンを産んで母として生きていくことで、愛する人と訣別し、その傷を克服しようとしたのだと思う。でも男爵は違っていた・・・。愛した女性を『自分が不幸にした』と思い込んだ男爵は、ひたすら手紙を送り続けた。それが実は償いではなく『自分の気のすむようにしたいため』だということに、おそらく本人が気づいていないのではないか・・・。
 
 イノージェンは、送られてくるお金を返してもきりがないからと母さんが手紙を出さなくなったと言っていたが、もしかしたら、その理由がお金を返すためだけだったとしても、手紙を出し続ければ男爵はおそらく自分のことを思い切れなくなる、そう考えて、縁を切るつもりで手紙を出さなくなったのではないか。だがそれが、結果として男爵の誤解を招いた・・・。
 
「到着でございます。」
 
 馬車は貴族達の住む北側の地区の一番奥の道で停まった。ひときわ大きな門がそびえる、ベルスタイン家の入口だ。一緒に乗ってきた男性が降りて、門の前で声を張り上げた。
 
「お客様の到着でございます。開門をお願いいたします。」
 
 門の開く音がして、馬車は中に入った。門の内側には篝火が焚かれ、あたりを明るく照らし出している。私達は屋敷の玄関前で馬車から降りた。
 
「うわあ・・・すごいな。」
 
「素敵ねぇ・・・。」
 
 私も妻も、お屋敷を見上げてそれきり言葉が出てこなかった。さすがエルバール王国一の名門公爵家だ。建物全体がまるで美術館のような美しさと、荘厳さを兼ね備えている。明るい時間にもう一度来て、じっくりと見学したいとさえ思ったほどだ。昔こちらにいたころに遠くから眺めたことはあったが、こんなに近くで見ると、その美しさに改めてため息が出る。
 
「いらっしゃいませ。ようこそベルスタイン家へ。ご案内いたします。こちらへどうぞ。」
 
 家のほうから別な使用人の男性がやってきて、私達は玄関へと促された。
 
「王国剣士団長オシニス様、クロービス先生ご夫妻がお見えでございます!」
 
 またまた大きな声が張り上げられ、玄関の扉が内側からぱっと開いた。
 
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました!」
 
 なんと玄関の向こう側には使用人が通路の両側にずらりと並び、いっせいに頭を下げたのだ。
 
「うは・・・大歓迎はありがたいが・・・しかし大げさだなあ・・・。」
 
 オシニスさんがいささか呆れ気味に言った。まったくの同感だ。背中がむずむずする。
 
「こんな風に出迎えられたの初めてだわ。」
 
 妻も驚いている。玄関の中に入り、使用人が並んだ通路の奥を見た。そこにはセルーネさん、ローランド卿、そして2人の子供達が笑顔で立っている。
 
「ようこそ我が家へ。なんだ3人ともぽかんとして。」
 
 そういうセルーネさんは、いたずらが成功した子供のように『してやったり』という表情でくすくすと笑っている。
 
「なんだじゃないですよ・・・。こんな王族並みの歓迎を受けるとは思いませんでしたよ。」
 
 オシニスさんが呆れたように言った。
 
「ははは、心配するな。王族を迎える時は、使用人達のお辞儀の角度がもっと深くなる。」
 
 さらりと言ってのけたセルーネさんに、子供達もこらえ切れないように笑い出した。
 
「お・・・お母様・・・団長様のお言葉はそういう意味では・・・。」
 
 クリスティーナは言いかけたが、笑ってしまって言葉にならない。
 
「さあ、お客様をいつまでも立たせておいては申し訳ない。晩餐の会場に案内しましょう。こちらです。」
 
 ローランド卿がそう言って歩き出したが、彼も笑っている。とても和やかな、幸せな家庭の風景だ。
 
「晩餐とは・・・ごく普通の食事会と思ってこんな格好で来ましたが、大丈夫なんですか?」
 
 オシニスさんはマントこそ自分のマントを羽織っているが、剣士団長の制服を着たままだ。これは正装なので問題ないはずだが、私のほうはといえば、シャツにジャケットを羽織っただけの平服だ。
 
「私ももう少しおしゃれして来ればよかったかしら。」
 
 妻が肩をすくめたが、妻の場合は今の服装がどうのというより、おしゃれをしてこなかったのが残念そうだ。
 
「気にしなくていいぞ。私達だって別に正装しているわけではないからな。みんな平服だ。気楽にしてくれ。」
 
 確かにセルーネさん達の服装は、特に正装というほどではない。だが私の場合、本当に安物の上着を羽織っているだけなので、何だか自分がこの場で浮いている気がする。
 
(考えてみれば正装と言えるほどの服なんて持ってなかったなあ・・・。)
 
 それに今ここで頭を抱えても仕方ない。晩餐の会場として案内されたのは、思ったより派手派手しくない広間だった。シャンデリアといい装飾、家具調度と言い、質のいい高価なものだと言うことはわかるが、全体から受ける印象は質素で、落ち着いている。そこに、年配の男性と女性が立って、私達を出迎えてくれた。男性の顔には見覚えがある。この方は先代の公爵閣下だ。確かロランス卿と言う名前だったはずだ。隣に立っているのは当然先代公爵の夫人だろう。セルーネさんによく似ている。
 
「いらっしゃい。我が家へようこそ。今日はゆっくりと寛いでください。」
 
「お招きありがとうございます。」
 
 オシニスさんもさすがに少し緊張した面持ちで挨拶をした。先代公爵とは、私がまだ王国剣士だった頃に王宮の中で会ったことがある。もっとも私は当時執政館の中には入れなかったので、御前会議に出席した公爵閣下が帰る時、ロビーで偶然出会っただけだったが・・・。
 
『今の人は?』
 
『あの方がベルスタイン公爵様よ。セルーネさんのお父様ね。』
 
 そう教えてくれたのはパティだった。先代の公爵は大臣ではなかったが、賢人として名高く、たまに御前会議に招かれて意見を聞かれることがあったと聞いたことがある。
 
「あなたがウィローさんね、やっとお会いできたわ。」
 
 笑顔で妻にそう言ったのは、先代公爵夫人だ。驚いたのは妻のほうだ。
 
「あの・・・私をご存知でしたか?」
 
「娘から聞いていたの。カナの村にとてもかわいいおてんば娘がいるって。あらごめんなさい。でもとても優しくてきれいな娘さんだって、娘が南大陸から戻ってきた時にはね、必ずあなたと、あなたのお友達の話が出ていたのよ。あなたとお友達が肌掛けを作るって聞いて、家中のハギレを大量に集めて持っていったこともあったわね。一度お会いしたいと思っていたけど、カナは遠いし、あきらめていたのよ。だから20年前、あなたが城下町にいらっしゃると聞いた時は、本当ならあなたのご主人と一緒に我が家に招待したかったのだけど・・・あの時はフロリア様の結婚問題で大騒ぎになってしまったからそれも出来なくて・・・だからこうしてあなたと会えて、とても嬉しいわ。ごゆっくりなさってね。」
 
 とても優しく、慈愛に満ちた微笑が美しい。ふと・・・フロリア様の母君ファルミア様を思い出した。あの方も年齢的には先代公爵夫人と同じ世代なんじゃないだろうか。こちらに来てから、ファルミア様のことを聞くのがどうにもためらわれてそのままになっているが、あの方は今どうしていらっしゃるのだろう。
 
「はぁ、びっくりしたわ。私のことをセルーネさんがそんな風に言ってたなんて。」
 
 席についてから、妻が言った。『木登りの得意なおてんば娘』ウィローは、どうやら王国剣士だけでなく、その家族にまでも知られる存在だったらしい。
 
「君は有名人だったんだね。」
 
「からかわないでよもう!なんだか恥ずかしいわ。」
 
 やがて料理が運ばれてきた。セルーネさんが言うとおり、王宮で催されるような正式な晩餐会とは違い、テーブルもそれほど大きくないので向かい側に座っている人達とも話が出来る。話の内容は、昔のことから今のことまで、さまざまな範囲に及んだ。前公爵は私の麻酔薬開発の話を聞きたがった。この方が父の話を知っているかどうかはわからないが、下手に隠すと変に思われる。父が以前医師会にいた研究者だったことだけは話しておいた。
 
「ほぉ、先生のお父様は先見の明があった方だったのですね。ご病気で亡くなったとのことですが、実に残念だ。お元気だったならぜひ我が家にお招きして話を聞かせていただきたかったものです。今になれば、もはや私も隠居の身、気楽にご招待に応じていただけましたでしょうに。」
 
 先代の公爵とこうして話したのはもちろん初めてだが、その博識さに驚いた。きっと父とならいい友人同士になれたのではないか、そんな気がする。
 
「わたくしもお会いしたかったですわ。いろいろとお話を聞かせていただけたら、楽しかったでしょうね。」
 
 そう言ったのはクリスティーナだった。しばらく医師会で見かけないと思っていたら、学校に戻っていたらしい。先日のライラとの手合わせでクリスティーナは、もしもユーリクが王家に養子に入ったら、というはっきりしない将来の話ではなく、『今自分がどう言う道に進みたいか』それを本気で考え始めたとのことだ。そこでやっと、父親のローランド卿と落ち着いて話し合い、まずは学校を卒業して、その後本気で剣の道に進みたい、しかし屋敷の中で腕を磨こうにも私兵の長とてこの家の使用人だ。なかなか『本気で訓練』は出来ないのではないか、そこで、父親も通っていたという町の剣術指南に通わせてくれと頭を下げたそうだ。
 
「正直言いますと、賛成はしたくなかったのですが・・・娘が初めて私に対してきちんと頭を下げて頼むものですから、私としても認めざるを得なかったというわけですよ。」
 
 ローランド卿はそう言って笑ったが、何となく寂しそうにも見えた。まだまだ自分の手の中に置いておきたかったかわいい娘が、思いもかけず成長した姿を見せられて、戸惑っているのかもしれない。
 
「なるほど、それでは今のところは勉強中なんだね。」
 
「はい、ずっとさぼっていましたから、覚えることがたくさんありすぎて。」
 
 クリスティーナはそう言ってふふっと笑ったが、ふいに真顔になって小さくため息をついた。
 
「でも・・・ずっと医師会でお手伝いさせていただいていましたのに、突然いなくなって、やはり貴族の娘の気紛れだと思われてしまいそうで、それが心配なんです。」
 
「それじゃ学校が休みの日にでも、一度顔を出してみたらいいんじゃないかな。事情を話せばきっとわかってくれるよ。」
 
 実を言うと、看護婦達が何人か、クリスティーナの噂をしているの何度かを耳にしたことがあった。
 
『もうずっと来てないわよね・・・。』
 
『お嬢さまはきっと気が向かないのよ。遊び半分でこられちゃ迷惑だわ。』
 
『貴族のご婦人方にとっちゃ、看護婦の仕事なんて気が向いた時だけの慈善事業なんじゃないの。』
 
 だがそう言う手厳しい意見がある一方、こんな声も聞かれた。
 
『でも仕事は真面目にやってたじゃない。』
 
『そうよね。食事のワゴンなんて重いし、食事を配るだけでも大変なのに1人1人に声をかけて、あの子患者さんの評判はいいのよ。』
 
『あの子のおかげで私達だって随分助かってたわ。』
 
 でもそのことを今ここで言ったところで、私が気を使っていると思われるだけかもしれない。本人が自分できちんと事情を説明したほうが、他の看護婦達とも打ち解けられるんじゃないだろうか。
 
 話はやがてローランド卿が剣術指南に通っていた頃の話になった。ティールさんとドーソンさんと、3人は仲が良かったらしい。ローランド卿がティールさんを官僚に誘った時、ドーソンさんにも声をかけたのだという。
 
「ところが、彼もティール同様、剣士団に入るつもりだからと、断られてしまったのですよ。でも、実際には自分の進むべき道をだいぶ迷ったらしくて、なんとティールやセルーネと同期入団だったと聞いて、残念に思ったものです。そんなに迷っていたならもっと頑張って説得すれば、一緒に官僚として仕事が出来たかもしれませんでしたからね。」
 
 ドーソンさんが官僚として執政館の奥にいる姿なんて想像できないが、もしも最初から官僚になっていたのであれば、それなりに見えたんだろうか。
 
 
 
「・・・いや、紹介は出来るが・・・君の父上が通っていたところのほうがいいんじゃないか?」
 
 ふと話が途切れた時、戸惑ったようなオシニスさんの声が聞こえて振り向いた。ユーリクはずっとオシニスさんと話し込んでいたのだが、何か頼み事をしたらしい。今の言葉から察するに、やはり剣術指南の話だろうか。
 
「いえ、そこはクリスティーナが行きたいと言っていたところですから、僕は最初から別なところを探していたんです。剣士団長さんの学ばれたところなら、きっともっと力をつけられると思って。」
 
「・・・しかしあそこはなあ・・・。」
 
 オシニスさんの返事は歯切れが悪い。
 
「気は変わらないのか、ユーリク。」
 
 セルーネさんが尋ねた。
 
「変わりません。僕はもっと力をつけなくちゃならないんです。剣の道に進むわけではなくとも、今の状態では自分で自分の身を守ることすら出来ません。そんな領主に、領地の人々がついて来てくれるでしょうか。それに、我が家はこの国に何かあれば剣士団と協力して王家をお守りするという役目も担っています。そんな家の当主がろくに剣を使えないのでは家自体が信頼されなくなってしまいます。」
 
 その考えはいささか飛躍しすぎではあるが、次期公爵の心構えとしては悪くない。このまま精進していってほしいものだ。
 
「君の気持ちはわかるが、俺としてはあの剣術指南は勧められんなあ。」
 
 オシニスさんはまだ頭をかきながら首をかしげている。
 
「ははは、お前がそんな言い方をすると言うことは、だいぶ荒っぽいところなんだろうな。」
 
 セルーネさんが笑った。
 
「そりゃそうですよ。そこいら中の不良息子を放り込んで、剣の道というより性根を叩き直すという意味合いの強いところですからね。」
 
「今でもそんな感じなのか?」
 
「うーん・・・指南役は代替わりしてますから現状はよくわからないんですが、少なくとも貴族の子弟が通うようなところじゃありませんよ。」
 
「団長殿、もしもよろしければなんですが、紹介状を書いていただくことは出来ますか。一度見学に行ってきたいのですが。」
 
「ローランド卿が付き添われるんですか?」
 
「ええ、一度見学させていただければと思いまして。」
 
「うーん・・・今も言ったとおり、俺は勧められませんが・・・紹介状くらいなら・・・。」
 
 オシニスさんが心配しているのは、おそらく一緒に学ぶことになる弟子達の素行だろう。オシニスさん自身、相当な暴れん坊だったらしいから、そんな子供達がたくさん通う道場に、ユーリクを、もしかしたら次期国王となるかもしれない子供を連れて行っていいものか、判断がつかないのだと思う。
 
「お父様、それならわたくしもご一緒させてください。」
 
「え、クリスティーナ、君は父上が通われていた道場に行くんじゃなかったのか。」
 
「ええ、そのつもりです。でも兄様が通われるかもしれないところなら、わたくしも見ておきたいですわ。」
 
「それでは団長殿に紹介状を書いていただいてから、一緒に行こう。どちらの道場も自分の目で見て判断しなさい。」
 
 ローランド卿もセルーネさんも、オシニスさんほどにはその道場について心配していないらしい。
 
 
 その後デザートが運ばれてきて、食べ終わった頃に晩餐会はお開きとなった。笑い声の絶えない晩餐会だった。先代の公爵夫妻は気取らぬ人柄で、話もとても楽しかった。食事はおいしかったし、本当に楽しいひと時だった。妻はずっと先代の公爵夫人と話していたが、とても優しい、そして楽しい方だったという。晩餐が終わり、先代公爵夫人は子供達と一緒に退出した。これから本を読んだりおしゃべりをしたりと、孫達との語らいがあるらしい。おそらく先代公爵夫人にとっては一番の楽しみなのだろう。
 
「さて、昨日の話をしたいのだが、我が家の図書室に案内しよう。昨日掃除をしたから、埃でむせずに話が出来ると思うぞ。で、その前にウィロー、お前にプレゼントだ。我が家のシェフからのな。」
 
 セルーネさんがにやにやしながら妻に差し出したのは白い封筒だった。
 
「あら、なあに?」
 
「まあ開けてみてくれ。気に入ると思うが。」
 
 
 妻が封筒を開けた。
 
「こ・・・これは・・・。さっきのメニューの・・・。」
 
 なんとそれは、先ほどの晩餐会に出てきたメニューのレシピだった。ここに来る前には『レシピを教えてもらおうかな』などと言っていた妻だったが、出てくる食事はとてもおいしく、話にも花が咲いたことですっかり忘れていたらしい。
 
「お前のことだから、おそらくレシピを聞く気満々でくるだろうと思って用意しておいたのさ。どうやらその話を出す機会がなかったようだが、あとから聞きに来るというのも難しいだろうから、持っていってくれ。」
 
「でも・・・いいの?シェフがレシピを全部誰かに教えてしまうなんて・・・。」
 
「うちのシェフはダンタル同様頑固者でな、誰が相手だろうと納得できないことは承諾しない。そのシェフが納得して作ってくれたんだ。気にすることはないぞ。でも一度会ってくれると嬉しいよ。ちょっと一緒に厨房に行こうか。」
 
「ええ、ぜひ直接お礼が言いたいわ。」
 
 セルーネさんと一緒に家の奥に入って行った妻は、満面の笑みで戻ってきた。
 
「本当に嬉しいわ。せっかくだからマレック先生の研究に役立てたいってお願いしたら、それも快く承諾していただけたのよ。」
 
「さて、それじゃウィローの気がすんだところで図書室に行くか。」
 
「本当にいいんですか?」
 
「何だお前まで心配してるのか。今日出した料理のレシピ全てとは言っても、シェフにとってはレパートリーのほんの一部だ。それに、作る人が違えば、まず同じ味にはならないだろうという話だったからな。気にするな。」
 
「やっぱり腕のよしあしによって変わるって言うことなんですね。」
 
「ふふふ、腕についてはもちろん私はシェフにかなわないけど、シェフはそういう言い方はしなかったわよ。あのね・・・。」
 
 妻がシェフの言葉を話してくれた。
 
『まったく同じレシピでも、作る人が食べる人のために愛情をこめて作るのです。ですから、同じレシピでも同じものにはならないんですよ。』
 
「なるほどね、誰のために作るかによって、同じように作っても違う味になるってことか。」
 
「そういうことよ。私はあなたやブロムさんのために食事を作るんだもの。」
 
(うまい言い方だなあ・・・。それも相手に気を使わせないようにという心配りなんだろうけど。)
 
 妻もそれはわかっているらしいが、そのうえでシェフの気遣いに感謝しているんだと思う。剣士団長室で護衛殿に会ってからここに来るまで、出会ったベルスタイン家の使用人達はみんないい人達ばかりだ。
 
「うちのシェフも母同様ウィローに会うのを楽しみにしていたからな。レシピを提供してくれと頼んだ時も、『その方にでしたら喜んで』と言ってくれたんだ。ま、普通は料理人にレシピを一食分丸々提供しろなんて言ったら、怒鳴られても文句は言えないからな。」
 
 やっぱりそうか・・・。でも今はそのシェフに素直に感謝しよう。それだけ私達がこの家で歓迎されているという証でもあるのだから。
 
 
 その後他愛のない話をしながら、先代公爵ロランス卿、セルーネさん夫婦、オシニスさんと妻と私は、ベルスタイン家の図書室に向かった。
 
「さあ、ここだ。」
 
 開けられた扉の中に促され、入った私はここでも思わず「うわあ」と声を上げてしまった。中はかなり広い。テーブルと椅子がずらりと並んだ閲覧室の、壁一面の本棚は天井までびっしりと本が収蔵されている。その一角にはお茶を飲めるテーブルが設えられていた。
 
「クロンファンラ並みですね・・・。」
 
 クロンファンラの一番大きい閲覧室が、このくらいの規模だったはずだ。
 
「そうだな。実を言うと、この図書室をモデルにしてクロンファンラの図書館を作ったんだ。」
 
「え、そうだったんですか!?」
 
「ああ、初代のベルスタイン公爵はかなりの本好きだったそうだ。2代目の国王陛下が即位され、公爵家を創設したのを機に、サクリフィアから持ち出された蔵書を収蔵して私設図書館として作ったのさ。当時は本の収蔵場所といえば文書館くらいのもので、その中の一部を王宮図書室で貸し出ししていた程度だ。初代の公爵は、もっとたくさんの人達に、懐かしい故郷の本を読んでほしいと思ったんだよ。だからこの場所は今は屋敷の中だが、建てられた当時は部屋の入り口が玄関になっていたんだ。」
 
「ということは、このお屋敷のほうがあとから増築されたということですか?」
 
「ああ、そうだ。だがここの図書館としての機能はそのままにしておこうと、この部屋に来るまでに他の部屋を通らずに来ることが出来るように設計したというわけさ。建てられた当時は外から本を読みに来る人達がかなりいたそうだ。懐かしい故郷のことが書かれている本だからな。涙を流しながら一日読んでいた人達もいたと言うぞ。やがて城下町の人口が増えてきて、大陸の南側にも小さな集落が増えてきた。あのあたりは以前から大陸の北側よりも獰猛なモンスターが多かったから、きちんとした安全な街を作ろうという話になって、クロンファンラの町ができたんだ。城下町から遠く離れた場所に住んだ人々の中から、今までどおりに本が読める場所がほしいという声が上がって、それを機に、クロンファンラにも図書館を作ろうという話が出たらしいよ。ところがその頃図書館といえば王宮の図書室かここか、どちらかしかなかった。文書館は外からの閲覧者を迎え入れるような造りにはなっていないからな。王宮の図書室は当時まだまだ規模が小さかったらしいから、我が家の図書館を元にして、同じ規模の図書館を作ったんだよ。もちろん向こうはその後増築を重ねて蔵書も増えたから、今ではここよりはるかに大きな規模になっているがな。」
 
 私達は喫茶スペースに案内され、メイドがお茶とお菓子の用意をしてくれた。セルーネさんはメイドに『後はこの部屋には誰も近づかないように』と念を押し、扉を閉めた。
 
 
「さてと、先日依頼のあった件だが、まずはうちの領地に絡む話のほうからでいいか?そのために父にも同席してもらったんだ。」
 
「こちらからお願いしたことですから、私のほうは構いません。」
 
「俺もいいですよ。奴の動向は気になりますからね。」
 
「わかった。では父上、昨日伺った話を、彼らにもしていただけますか。」
 
「うむ、そうだな。では剣士団長殿、クロービス先生、お2人が気にしておられる『あのお方』の書記官についてですが、彼について話す前に、クロービス先生に一言お断り申し上げて置くことがあります。」
 
「私に・・・ですか?」
 
 ・・・どういうことなんだろう・・・。
 
「20年前、先生が剣士団と共に城下町に戻ってこられた後、フロリア様にいろいろと報告されたことがおありですね?」
 
「・・・はい。私達が経験したことを、フロリア様にはご報告申し上げました。」
 
「その話はフロリア様からレイナック殿に伝わり、そしてレイナック殿が我が家にもたらしました。20年前、フロリア様の身に何が起きたのか、そしてあなた方がどのような体験をされたのか、全てではないかもしれませんが、大体のことは我が家でも承知しております。そのことはお知り置きください。」
 
「わかりました。」
 
 そういうことか・・・。以前セルーネさんが、当時フロリア様の身になにが起きていたか、いろいろな人がセルーネさんのところに聞きに来たという話を聞いた時、その話は聞いたが、どうやらフロリア様のことだけでなく、私についても報告が届いていたらしい。おそらくは、私の持つ剣に絡んで、ベルスタイン家に隠し事をしたままにするのは得策ではないと、レイナック殿が判断したのだろう。正直、あまり広められるのは困るが、確かにベルスタイン家には話を通しておかないと、後々面倒になることはありそうだ。
 
「では本題に入りましょう。まずはクイント書記官についてですが、クロービス先生がお聞きになったというクイントの『声』、それについてはいささか心当たりがあります。ただ、あくまでも推測の域を出ません。それでよろしければと言うことになりますが、いかがでしょう。」
 
 やはりロランス卿には何かしらの心当たりがあったらしい。推測でよければというのは気になるが、まずは話を聞いてみよう。
 
「もちろん、それで構いません。なんと言っても彼についてはわからないことが多くて、どんな手がかりでもあればありがたいのです。あの声の中に出てきた『子供』というのがクイント書記官自身のことだとすれば、彼とユノとの交流がそこから始まっていると考えられます。この謎が解ければ、あるいはクイント書記官ともう少し腹を割って話せるかもしれません。」
 
「ふむ・・・今では彼はクロービス先生にとって敵とも言うべき位置にいるはずですが、それでも彼と話し合いたいと思われるのですか?」
 
「確かに・・・ラエルの件といい、彼は私にとって『敵に与する者』という位置にいるのかもしれませんが、私にはクイント書記官がどうしても心底悪い人間には思えないのです。もしも彼が心の底まで邪悪に染まりきっていたなら、彼の主人を王位につけるために、もっと容赦ない手段を講じてきたのではないかと思うのです。」
 
「なるほど、確かに私も戸惑っています。島にいたころの彼はとても礼儀正しく、島の子供達ともすぐに打ち解けました。エリスティ公の書記官として働くことになったからと挨拶にこられた時には驚きましたが、それでも彼が選んだ道ですから、応援しようと思っていました。まさかこんなことになるとは・・・。」
 
 ロランス卿が言った。
 
「こちらに挨拶に来たんですか?」
 
「ああそうだ。クイントの顔は私も知っていたし、家督を引き継いでからも何度か顔を合わせていたが、まさかエリスティ公のところで働くなんて言い出すとは思わなかったよ。」
 
 セルーネさんが心なしか忌々しそうに言った。その気持ちは理解できる。仕事を探してここにくれば、世話できる仕事はいくらでもあっただろうに、よりによってエリスティ公を頼るとは・・・。
 
「クイント書記官がエリスティ公の書記官になってから、まだ3年程度でしたよね。ということは、それは島を出てすぐの話なんですか?」
 
 クイント書記官と初めて会ったのは、私がラエルに刺された日の夜だ。フロリア様とのお茶会で話をしたあと、宿に戻った時、フロアの隅で待っていたクイント書記官が声をかけてきた。その時言っていたはずだ。3年ほど前からエリスティ公の書記官として働いていると・・・。
 
「いや、島を出たのは5年ほど前だと聞いている。」
 
「ということは、彼が島を出てから『あのお方』の書記官となるまでにどこかで仕事をしていたことになりますが・・・。」
 
「そういうことになるが、さすがにそこまでは私達も把握してはいない。村長や村の者はもしかしたら聞いていたかもしれないが、そこまで届け出る義務はないからな。まあ母親は『息子が城下町で働いている』とは言っていたし、手紙と一緒に珍しい食べ物を送ってくれたとか言う話はしていたことがある。・・・そう言えば、一度どこで働いているのか聞いたことがあったなあ・・・。その時はっきりと言わなかったんだよな・・・。」
 
 
 あの時は確か、前の月の収穫高の報告をもらうために島に行った時のことだったと思う。村長の屋敷で打ち合わせをしている時に、珍しい食べ物を送ってもらったと母親が大喜びで、食べてくださいと持ってきたんだ。商業地区にある有名な店の焼き菓子だった。わたしもご馳走になったあと、聞いたんだ。
 
『ほお、まじめにやっているようだな。どこで働いているんだ。』
 
 だが母親は困ったような顔をして・・・
 
『いえ・・・公爵様にお話できるようなところではございません。小さな市場だと聞いております・・・。』
 
『小さくても大きくても、真面目に働いていることには変わりないじゃないか。』
 
『はい、ですが・・・本当に、申し上げてもご存じないような小さなところでございますから・・・。』
 
『いや、こちらこそ立ち入ったことを聞いてすまなかったな。』
 
『申し訳ございません・・・。』
 
 
 
「とまあ、頭を下げられてしまってな。こちらとしては世間話のつもりで聞いたんだが、人によっては小さな職場で働いていることを言いたがらないということもあるから、なんだか悪いことを聞いたかな、なんて思ったよ。」
 
「お母さんは今も島にお住まいなんですね。」
 
「ああ、元気だぞ。息子からの手紙を楽しみにしているらしい。」
 
 クイント書記官は、自分がこの町で何をしているのか、母親に真実を話しているのだろうか・・・。
 
「そうですか・・・。ロランス卿は、クイント親子が島に来た時にお会いになったんですか?」
 
「ええ、会いました。我が家の領地に移り住んできた住民には、必ず会うようにしているのですよ。」
 
「ではロランス卿、私がセルーネさんにお願いしていたことについてですが、推測でしか話せないというのは、例えばクイント書記官親子と会われた時に、何かそれらしいことを感じたとか、そう言うことなんでしょうか。」
 
 私の問いに、ロランス卿は少しだけ戸惑ったような顔をした。
 
「いえ・・・会った時にはと言いますか・・・。」
 
 何か・・・複雑な感情がロランス卿の周りで渦巻いている。クイント親子と会った時、何かしら思うところがあった、だがそれをここで言うべきか、それを決めかねている、というところだろうか。
 
(まいったな・・・。妙に周りの人達の考えてることが感じ取れる・・・。)
 
 最近どうも自分の『力』が強くなったような気がする。頭の中をかき回されるようなことはないが、なんとも居心地がよくない。
 
「父上、昨日話していただいたことを、クロービス達にも聞かせてください。私はやはり奇妙だと思いました。」
 
 セルーネさんが言った。
 
「私もですよ、義父上。理由付けはいろいろ出来るでしょうが、やはり妙だと思います。」
 
「ロランス卿、その話を、俺達にも聞かせてください。もしかしたら何か気づくことがあるかもしれませんし。」
 
 オシニスさんもそう言ったことで、ロランス卿はやっと決心がついたらしい。
 
 
「あの時は・・・島に何人か移住してきた人達がいるから、折を見て会いに来てくれないかと、島の村長から連絡が来たので出かけていったのですが・・・。」
 
 
 気候が温暖で作物がよくとれ、風光明媚なその島には、周辺の島も含めてさまざまな場所から移住者がやってくる。一番多いのが『老後をこの島で暮らしたい』とやって来る年配の夫婦らしいが、その時島に移住してきた何組かの家族の中に、クイント親子はいた。移住者がある場合、まずは村長が異動の記録を作るために今まで住んでいた場所からの移住証明を見せてもらい、その後いくつか聞き取り調査をするとのことだった。島の外からやってきた家族の場合、出身地や他の土地にいる身内の話など、『記録として残さなければならない情報』というものがあるのだそうだ。移住者の出身地、もしもクイント親子のように母親と子供2人の場合、夫とは死別か離婚か、その夫の名前や出身、母親の出身、子供はどこで産まれたのかなども聞くらしい。そしてその記録は二部作り、ひとつは島の記録として、ひとつは領主の記録として残される。領主は島での農業や事業で得られる収益の中から、国に税金を納めなければならない。そのため、住民の数、年齢分布や男女比など、正確な記録が必要になる。だが・・・
 
 
「・・・すると、クイント親子についての記録だけ、情報量が格段に少なかった、ということなんでしょうか。」
 
「そうです。書かれていたのは、母親の出身地と今まで住んでいた場所、そして子供が生まれた場所だけでした。移住証明は城下町だったので、別に嘘をついているとか言うことはなさそうでしたが・・・。あまりに少ないので、村長に聞いてみたのです。しかし、城下町で随分と苦労したらしいから、なかなか話したがらないらしい、その親子が心を開いてくれるまでしばらく待ってくれないかと言われ、了承したのです。」
 
「ところが、この家族についてだけはこれっきりになってしまった、そういうことですか。」
 
「そうです。私もこの家族の記録についてだけ気に留めていたわけではありませんでしたが・・・。」
 
 
 半年ほど過ぎても何も追加記録が送られて来なかったので、ロランス卿は村長に問い合わせた。しかしはっきりとした答えが返ってくることはなく、それきりになってしまった・・・。そうなると、領主としては難しい判断を迫られる。無理に問い詰めたりすれば島の自治に口を出すことになりかねないし、そうなれば領民との信頼関係が壊れてしまう可能性もある。この家族の件以外では、村長始め村の人々とベルスタイン家の関係は良好で、作物の取れ高や島の出来事など、何一つ隠し立てされているようなことはなかったので、ロランス卿としてもあまり強くは言えなかったのだそうだ。
 
「こちらとしても気にはなりますが、彼らに関して何か揉め事が起きたという話も聞きませんでしたし、島の人々にそれとなく聞いてみても、母親は穏やかで人当たりがよく、子供も利発で礼儀正しく、すぐに他の子供達とも仲良くなったようなので、私だけが騒ぎ立てては島の人々を不安にさせてしまいます。結局彼らの話はそのままになってしまいました。」
 
「でも、ロランス卿がクイント親子に会われた時、おかしいと思ったことはあったんですよね?」
 
「ええ、まあ・・・この話は村長にもしてみたのですが、その時も取り合ってもらえなかったので、私としても考えすぎなのかもしれないと思っていたことなのですが、夕べ娘夫婦に話したところ、それはやはりおかしいと言われまして・・・。」
 
「差し支えなければ話してはいただけませんか。」
 
「そうですね・・・。私がおかしいと思ったのは、母親の手と、子供の着ていた服です。」
 
「手と、服・・・?」
 
「手と・・・服、ですか・・・。」
 
 何がどうおかしいのだろう。オシニスさんと顔を見合わせてしまった。
 
「手と服・・・あ、もしかして!」
 
 妻がハッとしたように言った。
 
「ウィロー、どう言うこと?」
 
「こっちに来てからね、いろんな人に言われたのよ。寒い場所で暮らしているのに、手が荒れてないねって。ロランス卿、もしかして、貧しい暮らしをしていたというわりに、そのお母さんの手がとてもきれいだったのではありませんか?それと子供の服も、お金持ちの子が着るようなおしゃれな服を着ていたとか。」
 
 ロランス卿がうなずいた。
 
「ウィローさんのおっしゃるとおりです。会って話をした時には、城下町での暮らしはつらく、とても貧しかったと言っていたのに、手がとてもきれいだったのですよ。まるでいつもクリームを塗ってきちんと手入れしているみたいにね。そして子供の着ていた服も、島の子供達が誰も着ていないような、いい服を着ていました。単に仕立てがいいと言うことではなく、その当時城下町で流行っていたデザインだったのです。生地もいいものでした。もちろん、貧しくても子供にはいいものを着せたいという親心と言えば、その通りかもしれません。ですが、まるで食うや食わずの暮らしだったような話をしていたのに、手の手入れをしたり、そんなにいい服を子供に着せる余裕があったのかどうか、そのあたりがどうにも妙だなあと思ったのですよ。そして、その妙なことはまだありました。親子と話したあと、村長とも話したのですが、村長は私のその疑問を、妙に素っ気なくはぐらかしてしまったのです。まるでその話には触れたくないというように。」
 
『・・・そうですか?女性はおしゃれには気を使いますからね。貧しくても手入れを欠かさなかったのでしょう。それにあのクイントという男の子の服も、見た目はいいものですが、誰かのもらい物かもしれませんよ。それよりこちらの記録についてですが・・・』
 
 村長はさっさとその話を切り上げ、半ば強引に別な作物の記録についての説明を始めてしまったのだそうだ。
 
「・・・そんな言い方をされてしまうと、私もそれ以上尋ねるのがはばかられて・・・。見た目や服で領民の差別をしているなどと誤解されるのは困りますしね・・・。」
 
 なるほど、クイント親子については明らかに何か秘密がある。そしておそらく村長達はその秘密を知っていて、領主に隠しているのだ・・・。。そうでなければ、村長はもっと公爵の話に耳を傾けていただろう。
 
「そういうわけですから、クロービス先生が聞かれたという『声』についてもはっきりと『これだ』といえるほどの話を知っているわけではありません。ですが彼については、いや、クイント親子については私にもわからないことが多いのです。それははたして村長も知らないのか、もしかしたら知っていても事情があって私に隠さざるを得ないのか、そのあたりについては何とも・・・。明らかに犯罪のにおいがするとか、島で揉め事が起きているとでも言うなら、村長がなんと言おうと私は引きません。必ず事情を説明してもらいます。しかしクイント親子が来てからも島は穏やかで、人々は今まで通りうまくやっているのです。かえって私が波風を立てるようなことは出来ませんから、そのままにせざるを得なかったのですよ。」
 
「うーん・・・。」
 
 オシニスさんが椅子に寄りかかって考え込んだ。いつの間にかお茶は冷めていて、妻が入れなおしてくれた。
 
「なるほど、クイント親子について何かあるらしいというのはわかりました。しかし村長達も一緒になってその情報を隠しているのだとすると、クロービスが聞いたという声はいったいなんだったのかってことになりますね。」
 
「そうですね・・・。ローランド卿が聞かせてくれた仮説は、かなり説得力があったのですが、もしも長老の死に関わっていたかもしれない島の若者とクイント親子の間に何らかの繋がりがあるとしたら、そのことについて村長が情報を隠す理由はないわけですから・・・。」
 
 だとすると、クイント親子の秘密はいったいなんなのだろうということになる。領主にも隠さなければならないほどのどんなことがあるのだろうか・・・。
 
「まあ私のは、単なる仮説ですからね。父親が何か罪を犯していたとすれば、誰しも引け目を感じるものだと思うのですが・・・。タネあかしをしますと、私がこの間皆さんに聞かせた仮説は、私自身の体験でもあるのですよ。」
 
「・・・・・・。」
 
『父親が何か罪を犯していたとすれば』
 
 それはもちろん、トーマス卿のことだろう。
 
「父の件が公になって以来、肩身の狭い思いをしていたことは事実です。同僚達は私を気遣ってその話には一切触れませんでしたが、その沈黙がかえって私の心に鉛のように重くのしかかっていました。しかし、それでもフロリア様は私の実績を認めてくださいました。それはとても嬉しかったのに、任命書を渡された時、私は思わず『私のようなものが国の運営に携わるなど大それたことではないのでしょうか』と言ってしまって・・・その時フロリア様がこう言われたのです。」
 
『あなたが父親のことで肩身の狭い思いをしているのは分かっていますが、この任命はあなたへの正当な評価です。ローランド、もっと胸を張りなさい。あなたには何の罪もないのですよ。それどころか、あなたは自分の力で大臣として認められるだけの実績を残しました。これからは、誰に対しても引け目を感じることなどないように。あなたはこの国を動かす、御前会議の大臣のひとりとなったのですから。』
 
 その言葉が、涙が出るほど嬉しかったと、ローランド卿は言った。
 
「なるほど・・・。今の話のフロリア様の部分を当時のユノに置き換えれば・・・。」
 
「剣士団長殿、そのユノ殿という方は、私はフロリア様の護衛をされていた時のことしかわからないのですが、義父やセルーネから聞いた話では、島にいたころは穏やかで優しげな女性だったとか。だとすれば小さな子供に父親の罪を負わせるようなことは、ユノ殿としては納得行かなかったのではないかと思うのです。」
 
「そうですね・・・。なあクロービス、ユノは、いい奴だったよな?」
 
「ええ、もちろんですよ。とても優しい人でした。」
 
 そう、ユノは本当は優しい人だった。『アイスドール』などというあだ名を甘んじて受け、仲間と距離を置いていたのは、理由があったからだ。ユノがずっと胸の奥に秘めていたその理由を、あの日私と妻に初めて話してくれた。冷たい瞳の奥に、抑揚のない声の裏側に、どれほどの悲しい決意を秘めていたか・・・。今でも思い出すたびに胸が痛む。今さらどうしようもないことだと頭ではわかっていても、何か違うやり方はなかったのかと、もっと違う考え方はなかったのかと、思わずにいられない・・・。
 
「しかし・・・クロービスの聞いた声について謎は残るが、情報を隠しているのが村長達だとすると、じいさんの密偵が情報を手に入れられなかった理由は、なんとなく察しがつくな・・・。」
 
 オシニスさんが独り言のように言った。
 
「お前はレイナック殿から何か聞いていないのか。」
 
 セルーネさんが尋ねた。
 
「何か言ってくれるなら、俺としてもいろいろ動けるんですけどね・・・。あのじいさんはあれでかなりの策士ですからね。まずは自分で情報を集められるだけ集めて、その中で俺に話してやってもいいと思ったものしか教えてくれないんですよ。まったく食えないじじいですよ。」
 
 言葉だけを聞くと文句を言っているようだが、本当は、オシニスさんはレイナック殿を心配しているのだ。動けと言われればいつでも動くのに、どうも『肝心なこと』となると、レイナック殿はあまりオシニスさんを当てにしてはくれないらしい。
 
「まあそうだろうな・・・。レイナック殿が今に至るまで筆頭大臣の地位にあるのは、別に年の功ではない。あの方の政治手腕は誰もが認めるところだが、それを支えているのが綿密な情報収集とその活用法だ。あの方ほど情報の集め方も使い方も、心得ている方は他にはいまいよ。いるとするなら・・・いや、いたとするならば、それはケルナー卿だけだろうな。」
 
 セルーネさんもレイナック殿の情報収集能力は認めている。つまりそれは、レイナック殿が情報収集にかけては凄腕の密偵を何人も抱えているということだ。
 
「確かにそうだろうな・・・。レイナック殿もケルナー殿も、他に得難い素晴らしい政治家だ。私など足下にも及ばぬ・・・。しかし剣士団長殿、先ほどのお言葉はどういう・・・。」
 
 ロランス卿はオシニスさんの言葉が引っかかっているらしい。それは私も同様だ。
 
「いや、お気に障ったのならすみません。なんとなく・・・。」
 
 オシニスさんは言いかけてため息をついた。
 
「ここまで来てとぼけるのはやめましょう。今セルーネさんとロランス卿が言われたように、じいさんの情報収集能力はすごいの一言に尽きます。大量の情報を集め、操り、今まで数知れない困難をくぐり抜けてきたと、俺も思います。そのじいさんが情報を手に入れられなかった、これは実に妙な話だと思いませんか。」
 
「・・・そうですね。レイナック殿の密偵は優秀ですから、妙なこともあるものだと思いましたが・・・。」
 
「こちらには問い合わせがなかったんですか?じいさんなら、裏では密偵を動かしながら、何食わぬ顔でこちらに問合せをするくらいのことはやってのけると思ったんですが。」
 
 オシニスさんはそう言って肩をすくめた。
 
「もちろん、問い合わせはありました。エリスティ公の書記官ともなれば、公の行くところどこにでもついて行くことになります。もちろんフロリア様の御前にも。そういった人物の身元調査はしっかりとやりますから、出身地の領主である我が家に問い合わせが来ないほうが問題になりますからね。しかし、実際には先ほど申し上げたとおり、問い合わせに対して答えられるだけの情報が、我が家にはなかったわけです。」
 
「そのことはじいさんには・・・。」
 
「もちろん申し上げました。レイナック殿としても、領地から情報が上がってこないのではどうしようもないと理解しては下さったと思うのですが・・・もしかしたら、それ以外にも理由はあるかもしれませんね・・・。」
 
「それ以外、ですか・・・。」
 
 オシニスさんを包む『気』が、ゆらりと揺らめいた。なんだろう、この感じ。オシニスさんは、この言葉を待っていた・・・?
 
「そうですね・・・。レイナック殿の密偵は、もしかしたら『調べられなかった』のではなく『調べるのをやめた』ということかもしれません。」
 
「・・・つまり、じいさんが密偵を引き上げさせたということですか。」
 
 まただ・・・。まるで予めわかっていることを確認するかのようなこの感覚。今の質問の裏に、オシニスさんの奇妙な意図を感じる・・・。そんなことにはもちろん気づかず、ロランス卿は小さくうなずき、ため息をついた。
 
「・・・まさか?あのじいさんが公爵家や領民に遠慮して密偵を引き上げさせるなんて、考えられませんよ。もし本当にそんなことがあったとしたら、それは表向きだけでしょう。一応手を引く振りをして、裏できっちり情報を手にいれる、それがじいさんのいつものやり方じゃありませんか。」
 
 オシニスさんの眉間に皺が寄った。でもこれも芝居だ。オシニスさんは、ロランス卿と、いやもしかしたら、ベルスタイン家と駆け引きをしようとしている・・・。
 
「ははは、剣士団長殿は率直でいらっしゃる。私も普通ならばそう思ったと思いますよ。」
 
「普通ならば、ということは、何か普通ではないことがあると?」
 
「はい。・・・この話は我が家の、いや、私の恥ですが、今さら隠し立てするようなことではありません。お聞きいただきましょう。皆さんは、この島にかつて不幸な出来事があったことはご存知ですね?」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 それはユノの祖父である長老が不審な死を遂げたことだろうか。誰も何も言わなかったが、ロランス卿はその沈黙を肯定と受け取ったようだ。
 
「あの時・・・私はあの島に、どう償っても償いきれない傷を負わせてしまったのです。領地の譲渡など安易に承諾するのではなかったと、どれほど後悔したことか・・・。無論私は島の人々に謝りました。償えるものならと精一杯のことはしてきたつもりでしたが・・・一度崩れた信頼関係を元の通りに修復するのは、無理だということなのかもしれません。村長も島の人々も笑顔で許してくれはしましたが、失ったものは戻らない。そのことで、島の人々が私に何か隠しているとしても、私には強くそのことを聞き出すことは出来ないのです。この話は、レイナック殿にもお話ししました。レイナック殿もその件ではだいぶお心を痛めておられた様子でしたから、あるいはそういうこともあるかもしれないと、その時思ったものです。」
 
「・・・それだけでしょうか。」
 
 オシニスさんが、呟くように言った。
 
「・・・それだけとは?」
 
「じいさんが密偵を引き上げさせたと仮定して考えてみたんですよ。確かにあのタヌキじじいでも、あの島のことはかなりつらい思いをしたと言っていたことがあります。ですが過去にどんな出来事があろうと、そのことだけで密偵を引き上げさせるとは思えないんですよ。今のじいさんの望みは、フロリア様の治世の安泰です。『あのお方』はいわば目の上のたんこぶだ。出来るなら排除したいと思っているでしょう。そんな人物に志願して書記官になるような男の氏素性を、途中で調べるのをやめるなんてことは、俺はないと思っています。」
 
「・・・つまり、剣士団長殿は何か他に理由があるとお考えなのですね?」
 
「俺はそう思ってます。」
 
 オシニスさんの声は確信に満ちている。確かに・・・ベルスタイン家の場合は立場や領民との信頼関係の問題もあるから強く出られないとしても、密かに行動して情報を集める密偵ならば何とかなりそうではある。にもかかわらず、レイナック殿が本当に密偵を引き上げたとしたら・・・それはよほどのことではないだろうか。単に公爵家に遠慮したとか、そんな話ではないような気はするが・・・。
 
「ロランス卿、この話はおそらく、俺が知っていることをじいさんも知らないでしょう。実を言うと、ウィローとクロービスがいるこの場で話すべきことではないかもしれないと思って、言わないでおこうかと思っていたんですが・・・。」
 
 オシニスさんはなんだかあまり言いたくなさそうに言葉を濁した。これは芝居ではなく、本当にそう思っているらしい。それにしても・・・先日クイント書記官に心を読まれないようにと、レイナック殿がオシニスさんの心に『防壁』を張ったはずだが、その時言われたとおり、その防壁は私にはまったく効果がないらしい。
 
「私達がいてはまずいなら席を外しますよ。」
 
 聞かなくてすむ話なら、出来るだけ聞かずに済ませたい。
 
「いや・・・出来ればお前達には聞かせたくない話だが、実はお前は本来知るべきことなのかもしれないって言う話さ。」
 
「・・・つまり、これに関わっていると言うことですか。」
 
 私はテーブルの脇に立てかけてある自分の剣を指さした。
 
「実を言うと確証はないんだが、可能性はある、というところかな。」
 
「では剣士団長殿、お聞かせ願えますか。建国より続く公爵家の末裔として、我が家ではこの国にまつわるあらゆることについて、後世に伝えるための記録を残すのが役目と思っております。ここにいるセルーネもローランドも今では当代の公爵とその夫です。二人にもぜひお聞かせください。」
 
 これからオシニスさんが話そうとしていることを、ロランス卿はある程度推測しているように見えた。でもまずは聞いてみよう、そう考えている。別に彼らの心の中を覗こうとしているわけではないのに、こんな風に感じ取ってしまうととても悪いことをしているような気分になる。
 
「・・・わかりました。まあこの話は、ベルスタイン家の方達なら知らないはずのないこと、そして、おそらく一般には知られていないことだと思うんですが、その話をする前に、さっきの話の続きです。じいさんが密偵を引き上げさせたとすればその理由、それはおそらく、クイント書記官のことを全て調べようと思えば、多分普通の方法では無理だと考えたのだと思いますよ。無論じいさんから直接聞いた話ではありません。あくまでも俺の推測です。」
 
「どういうことです?普通の方法では、というと、例えば、危ない橋を渡る、あるいは誰かを傷つける、そう言った方法もとらざるを得ないような、そういうことですか?」
 
 オシニスさんに尋ねた。
 
「まあそういうことだな。」
 
「剣士団長殿には、そう考える根拠がおありだと言うことですね。」
 
 ロランス卿の声は静かだ。
 
「そうです。まずは俺の話を聞いてください。」
 
 そう言ってオシニスさんが話し始めた。

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