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「はぁ・・・料理のプロはすごいわねぇ。私なーんにも考えたことなかったわ。こっちに来てから勉強になることばかりよ。」
 
 イノージェンはセーラさんが料理に取り組む姿勢に共感したらしい。
 
「あのマスターは笑顔が素敵だけど、多分真面目な顔をしていたら怖そうよね。あんまり飲食店の人らしくは見えない、なんて言っちゃ失礼だけど、コーヒーも料理もおいしいし、ずっとあのお店をやっているのかしら。」
 
「ここ10年くらいじゃないのかな。その前は別な仕事をしていたらしいよ。」
 
「別な?」
 
 私はあの2人が以前していた仕事について、簡単に説明した。わざわざ言うことでもないとは思うが、あの2人はそのことを隠していない。私達が変に気をまわさないほうがいいような気がしたのだ。そして、私と妻が昔セーラさんを含む歓楽街の女性達に命を助けられたことも話した。
 
「・・・そうだったの・・・。それじゃ苦労したんでしょうね・・・。」
 
 セーラさんのことは話したが、その女性達の中にアスランの母親がいたことは黙っていた。それはまた別の話だ。
 
「だと思うよ。でも2人とも、もうそのことは乗り越えていると思うから、今までと同じように接していいと思うよ。」
 
「・・・・・・。」
 
「・・・イノージェン?」
 
 イノージェンははっとして顔をあげた。
 
「あ、ごめんなさい、ぼんやりしてて。そうよね。とても明るくて感じのいいご夫婦だもの。こちらが変に気を使わないほうがいいのよね。」
 
 なんだろう・・・。イノージェンから漠然と伝わってくる不安・・・。今セーラさん達の話をしてからのことだが・・・。
 
(もしかして・・・。)
 
 ライザーさんの手紙には、なぜライザーさんが島へと戻ってきたかイノージェンには話してあると書いてあった。これはあくまでも推測だが・・・もしかしたらライザーさんは、カレンさんとのことも話してたのではないか・・・。若いころの恋のことなんて、今さら気にする必要はないだろうけど、でもそれでも気になる気持ちは理解できる。この場は黙っていたほうがよさそうだ。
 
 
「午後からはどうするの?」
 
「とりあえずさっき途中になった話の続きをオシニスさんとしてくるよ。さっきの調査がどうなるかによるけど、午後からクリフの病室に行ってみようかと思ってるんだ。アスランのリハビリもあることだし、見学させてもらおうかな。」
 
「それじゃ私達はマレック先生の部屋に行ってるわ。」
 
 ロビーで妻達と別れ、私は剣士団長室に向かった。ノックをすると開けてくれたのはオシニスさんだ。中に入るとランドさんがいた。
 
「お、来たな。まあ座れよ。」
 
「パティに伝えていただけましたか。」
 
「ああ、聞きたいことがあるらしいと話したんだが、ちょっと困った顔をしてたな。」
 
「守秘義務に反するからですね。」
 
「まあそういうことだ。」
 
 ランドさんと私が話している間に、オシニスさんがお茶を入れてくれた。
 
「よし、クロービスも実験台だ。この間よりはうまくなったと思うが、飲んでみてくれ。」
 
 オシニスさんは今でも『独りで生きていくために必要なこと』を覚えるべくいろいろと試しているらしい。
 
(フロリア様と結婚すれば何もしなくていいですよなんて言ったら怒るだろうな・・・。)
 
 出されたお茶を一口飲んだ。確かに以前よりおいしくなっている。その感想を正直に言うと、オシニスさんはしてやったりとばかりににやりと笑った。
 
「今ランドにも同じことを言われたから、どうやら俺の腕も少しは上がったということか。」
 
「どなたかから指南を受けられたんですか?」
 
「ああ、前にじいさんにも教えてもらったが、じいさんだってフロリア様付きの侍女達から教えてもらっているからな、昼メシの時に侍女達に直接聞いたんだ。喜んでいろいろ教えてくれたよ。」
 
「まったく、独りで生きていくのに必要なことなんて覚えず、嫁をもらえばいいと思うがな。」
 
 冗談とも本気ともつかない口調でランドさんが言った。
 
「勝手なことを言うなよ。まったく。」
 
 オシニスさんが笑い出した。
 
「結婚はいいぞぉ。」
 
「そりゃお前は必死でパティのおやじさんに許可をもらいに通ってたからな。やっとのことで許されて結婚できたんだ。感動するのもわかるが。」
 
「ははは、まあな。さて、そろそろ仕事に戻るか。クロービス、お前がパティに話を聞きたい理由はオシニスから聞いたよ。そんなことになってたとはな・・・。ま、この話をそのままするわけにはいかないが、お前があの店の親父さんを心配してるってことで、何とか思い出したことを話してやってくれと伝えておくよ。」
 
「お願いします。」
 
「さてと・・・おいオシニス。」
 
 ランドさんは少し改まった口調で言い、オシニスさんを睨んだ。
 
「ん?な、なんだよ。」
 
「今の話だよ。お前がパティを巻き込みたくないと考えてくれたことはありがたい。お前の立場からすれば、そう簡単に話せない内容だったことはわかった。だが、一言言わせてもらうぞ。パティはともかく、俺にまで黙っていることはなかったじゃないか。俺は王国剣士だ。お前とはもうずっと一緒にこの国のために働いてきたんだぞ。」
 
「・・・悪かったよ。この話は、クロービスが祭りに出てきてあの店を訪ねたことで初めて表に出てきた話だったんだ。それに絡んでいる薬もまた厄介な代物だ。だからもう少し具体的な話になって、本格的に調査を始めると言うことになってからと思っていたんだよ。まさかその、本格的な調査を始めるための足がかりとしてパティに話を聞くことになるとは、思っていなかったんだ。」
 
「別に雲をつかむような話だとしたっていいじゃないか。いくら団長だからって、何でも1人で背負い込むな。俺だって多少助けにはなれると思うんだがな。」
 
「ああ、ありがとう。」
 
「・・・そう素直に礼を言われるのも薄気味悪いもんだな。」
 
「どうしろってんだよ。」
 
 そして2人とも笑い出してしまった。
 
 
「・・・悪いことしちまったな・・・。」
 
 ランドさんが出て行ったあと、オシニスさんが呟くように言った。
 
「ランドさんも心配しているんですよ、きっと。最近いろいろと騒動続きでしたしね。」
 
「そうだな・・・。」
 
「私としても、単におかみさんが誰と話したかを聞きたかっただけのはずだったのに、まさか麻薬までからんでくるとは思ってもみませんでしたけどね・・・。」
 
「うーん・・・その麻薬の話と、おかみさんの前の亭主の話が繋がるかどうかも今のところ判然としないしな・・・。ま、まったく関係ないとも言い切れないのは確かなんだが・・・。」
 
「パティに話を聞くことで、少なくとも関係があるかないかはもう少し詳しくわかると思うんですけどね。」
 
「そうだなあ。せめてもう少しはっきりしてくれれば、今後の対策も立てようがあるしな。それじゃクロービス、今日の夕方もう一度ここに来てくれないか。じいさんのところに一緒に行こう。俺はこれから、アレインが持ち込んだ書類の山を片付けなきゃならん。あと、この資料も文書館に返さなきゃならないからな。」
 
「手伝いましょうかと言いたいところですが、私が手を出してはまずいですか?」
 
「いや、まずくはないが、文書館から人が来てくれることになってるんだ。エミーは来れないらしいが、司書が何人か、あのでかい台車を持ってきてくれるそうだよ。」
 
「なるほど、それでは素人がいないほうがいいですね。かえって邪魔になりそうです。」
 
「ははは、多分俺も役に立てそうにないからな。」
 
「それじゃ私はクリフの病室に行きます。あと、アスランのリハビリもあるそうですから、見学させてもらいますよ。レイナック殿のところに行く時には私が一人で来ますから。」
 
「ああ、わかった。あいつらに、無理せずじっくり取り組めと言っておいてくれ。焦ったところでいい結果が出るようなことじゃないからな。」
 
「わかりました。」
 
 
 
「パティは・・・覚えているかな・・・。」
 
 さっきのランドさんの話を聞く限り、覚えている確率は高そうだ。
 
「早いところ話を進めてあげないと・・・シャロンもフローラもつらい思いを抱え続けることになる・・・。」
 
 フローラの話では、おかみさんは風邪をこじらせてあっけなく亡くなってしまったと言う話だったが、元の夫が人を殺した、しかも自分が仕えていたはずの鉱山の統括者を・・・。おかみさんにとってはつらく、重い現実だ。おそらくはそのことを誰にも言えないまま、ずっと心の奥底に抱え込んでいたのじゃないだろうか。その上働きづめに働いていたのだ、体を壊さないほうが不思議だと思う。そこにたまたま風邪をひいた。でもおそらく休んだりせずに働き続け・・・そして倒れた。
 
(おそらく・・・母親のつらい胸のうちを、シャロンだけが知っていたんだろうな・・・。)
 
 おかみさんがわざわざ娘に『お前の父親が人を殺した』なんて話はするはずがないだろうから、シャロンは母親と一緒に王宮に話を聞きに行った時のことを覚えていたか、でなければフローラのように日記を読んでしまったのかもしれない。だとすると・・・これは推測に過ぎないが、シャロンはもう一度王宮へ調査を願い出ようとしていたのではないだろうか。だが、おかみさんがセディンさんに気を使い、首を縦に振らなかった・・・。もしくは願い出ても却下されたか・・・。フローラが聞いた、病床のおかみさんとシャロンのやりとりは、そういうことなんじゃないかと思う。母親が亡くなってからも、シャロンは父親の身に何が起きたのかを知りたかったのだと思う。出来るなら汚名を晴らしたいとずっと思っていたかもしれない。だがその頃にはセディンさんが体を壊し、店の切り盛りもしなければならなくなっていたし、幼くして母親を亡くした妹の面倒も見なければならなかった。誰にも知られずに王宮に出向き、本当の父親のことを調べてもらうことは、難しくなっていたんじゃないだろうか。だが・・・もしもその不気味な客が現れなければ、シャロンはつらい気持ちを押し隠して、それでも何事もなく日々を過ごしていけただろう。
 
(その客がもしもクイント書記官だとしたら・・・。)
 
 フローラが聞いたその客とシャロンとの会話を思い返してみても、その客はシャロンがレクターという人物の娘であることを知っていたとしか思えない。では、どういう経緯でレクターという人物の元の家族があの店にいることを知ったのか、もしも昔の記録を調べたのだとしたら、どうやって調べたのか、その疑問は残る。あの記録はついこの間オシニスさんの部屋に持ち込まれるまで、ずっと文書館の保管庫にしまわれていたはずだ。さまざまな事件の記録も同じ場所にあるとは言え、クイント書記官はあくまでもエリスティ公の書記官であり、事件や事故のために昔の記録を調べたりする立場にはない。そんな人物が文書館の中で記録を見ていたりしたら変に思われるのが普通だ。そこが立ち入り禁止の場所でないとしても。そんな目立つことをあの書記官がするとは思えない。
 
 
 
「おやクロービス先生、これからアスランのリハビリなんですが、見学されますか?」
 
 クリフの病室に向かう途中、ハインツ先生が声をかけてきた。ゴード先生はアスランを迎えに行って、そこから直接リハビリ室に向かっているらしい。 いつもなら妻も一緒にくるのだが、今日はイノージェンと一緒にずっとマレック先生のところにいると言っていた。アドバイスをすると言うより、病人食は妊婦の食事指導にも生かせるからと、島に帰ってからすぐにいろいろ試せるよう、マレック先生と助手達に教えてもらうつもりでいるとのことだった。
 
「ぜひお願いします。クリフのほうはどうですか?」
 
「さっき少し痛むと言っていたんですが、それほどひどくはなかったようです。今は薬を飲んで眠っていますよ。まだまとまった睡眠時間はせいぜい3時間程度なんですが、それでも以前とは随分変わりましたよ。以前は眠っていても体をよじってうめき声を上げるなんてことはしょっちゅうでしたからねぇ。リハビリ室はこっちですよ、行きましょうか。」
 
 リハビリ室は外来の診療室がある1階の奥にあるらしい。
 
「昔より随分と広くなりましたね。」
 
「そうですねぇ。王宮の建物は何度も増改築を繰り返していますが、その都度診療所も広げていったんですよ。これはフロリア様のご意向なんです。1人でも多くの国民が、手厚い治療を受けられるようにと。」
 
「そうだったんですか。でも医師の皆さんは大変だったでしょうね。」
 
「まあ大変といえば大変でしたが、人も増えましたからね。それに忙しくなったおかげでみんな権謀術数をめぐらせている暇がなくなったので、だいぶ雰囲気が変わったんですよ。」
 
 ハインツ先生が笑った。
 
「ここです。もう始まっていると思いますよ。」
 
 リハビリ室の扉を開けた。中は思っていたより広く、あちこちに手すりが取り付けられている。他にもリハビリを受ける患者はいるらしく、なかなか賑やかだ。その中で、アスランが歩く練習をしていた。妻とセーラが見守り、ゴード先生が何か指示を出している。
 
「そう、無理はしなくていいよ。ゆっくりでいい、出来そうならそちら側を歩いてみてくれ。ほら、また猫背になってるよ。早く歩こうとしないで、背筋を伸ばして・・・そうそう、あごを引いて・・・うん、随分普通に歩けるようになったね。それじゃ、少し休もう。」
 
「え、もうですか?まだ少しいけそうなんだけど・・・。」
 
「歩く訓練はここまでだ。この後はまた筋力をあげる訓練があるよ。君は王国剣士なんだろう?普通の人と同じように歩けるだけでは、仕事復帰は難しいんじゃないのかい?」
 
「・・・はい・・・。」
 
 アスランが悔しそうに返事をした。ゴード先生は生き生きとしている。この人がどうして整体やマッサージに興味を持ったのかは知らないが、ずっと自分が研究していた分野が公に認められる可能性が高まったせいなのか、とても嬉しそうだ。
 
(アスランの歩く姿は随分と自然になったな・・・。)
 
 時々猫背になるのはおそらく転ぶことを恐れているのだろう。ただ、以前言っていたように何もない場所で転んだりすることはないようだ。歩く速度はゆっくりだが、これなら日常生活を送るのには支障がない。通常の入院患者なら、ここで退院、あとは普段の生活の中で以前と同じように動けるように訓練していくことになるのだが・・・
 
(アスランの場合は・・・やっと王国剣士として復帰するための訓練が出来る状態になったと言うことか・・・。)
 
 王国剣士は激務だ。ここからの訓練でどこまで体力、筋力をつけられるかが鍵となる。私は休んでいるアスランに近づき声をかけた。
 
「オシニスさんからの伝言だよ。『無理をせずじっくり取り組め、焦ったところでいい結果は出ないぞ』って。」
 
「・・・はい、わかりました。」
 
 アスランは嬉しそうに笑ってうなずいた。
 
「あのぉ、クロービス先生・・・。」
 
 ゴード先生が、妙に遠慮がちに話しかけてきた。
 
「はい?」
 
「王国剣士というのは、その・・・先日の剣士団長殿と先生の立ち合いのような、あのくらい激しく動けないといけないわけですよね・・・?」
 
「まあ・・・そうですねぇ。」
 
「ちょ・・・ちょっと待ってくださいよ。団長と立ち合いなんて、俺じゃあっという間に吹っ飛ばされて終わりですよ。」
 
 アスランが慌てて言った。
 
「ははは、今の話は君がオシニスさんと立ち合いすると言うことじゃなく、あのくらい激しく動けないと王国剣士としての仕事が出来ないのかという意味だよ。でもいずれは互角に戦えるようになるくらいじゃないと困るんじゃないのかい。君は今でこそ新人剣士だけど、いずれは後輩が入ってくるだろうし、3年過ぎれば執政館も乙夜の塔も、そして南大陸への赴任が待っているんだよ。いつまでも吹っ飛ばされて終わりでは、オシニスさんのほうでも張り合いがないじゃないか。」
 
「それはそうなんですけど・・・。」
 
「なるほど、これで、今後のリハビリの計画がある程度出来ましたよ。」
 
 ゴード先生が確信を持ったようにうなずきながら言った。
 
 
 
「失礼しまーす。」
 
 聞き覚えのある声が聞こえて、リハビリ室の扉が開いた。入ってきたのはなんとカインだった。
 
「あれ、父さんもアスランのリハビリ見学?」
 
「ああ、そうだけど、お前仕事はどうしたんだ?」
 
「さっきお昼を食べに戻ってきたんだ。そしたら先輩から、医師会のゴード先生がアスランのダンベルをリハビリに使いたいから、リハビリ室に持って行ってくれって言ってたって言われてさ。」
 
「ダンベル?」
 
「ああ、こっちに持ってきてくれるかい。」
 
 ゴード先生が立ち上がって息子を手招きした。
 
「はい、これです。」
 
 見るからに重そうなダンベルをふたつ、息子がゴード先生の前にあるテーブルの上に置いた。
 
「これ、かなり重いですよ。」
 
 カインは心配そうにゴード先生とアスランを交互に見ている。
 
「うん、重いだろうね。私ではまあ持ち上げるくらいは出来るだろうけど、運ぶのは無理だろうな。でも、君は今こうして、ここまで持ってきてくれたね。」
 
「そりゃ・・・これが持ち上がるくらいじゃないと、この仕事はできないですから。」
 
「なるほど、ではアスラン、無理はしなくていいから、これを持ち上げられるかどうか、試してみてくれ。」
 
 ゴード先生が言った。
 
「・・・はい・・・。」
 
 アスランは緊張した面持ちで立ち上がり、ダンベルに手を伸ばした。が・・・
 
「・・・だめだ。ぜんぜん持ち上がらない。くそぉ・・・怪我をする前まではこれを両手に持って動かせたのになあ・・・。」
 
「怪我をする前は簡単に動かせたのかい?」
 
「はい・・・。こんな感じで。」
 
 アスランはダンベルを持つように手のひらを丸め、両腕を交互にあげて見せた。
 
「よし、アスラン、まずはこのダンベルを軽々と持ち上げられるように、訓練しようじゃないか。君の体は、多少動作が遅いくらいで、それほど問題なく日常生活を送れるまでに回復している。普通ならここでもう退院だ。でも、君は王国剣士だ。それこそ団長殿と立ち合いしても吹っ飛ばされないくらいには力がつかないとやっていけないんだろう?これから先の君の訓練は、そのくらいの激務に耐えられるようになるための訓練だ。」
 
「は・・・はい!」
 
 アスランが笑顔になった。
 
「アスラン、やったな!」
 
 息子も嬉しそうだ。
 
「だからここでもう一度言うよ。絶対に無理をしてはいけない。もう少しで出来そうだと思っても、こちらからの指示がない限り勝手に進めてはいけないよ。先に進めるかどうかの判断はこちらでする。それだけは忘れないでくれ。それと、君はアスランの相方だろう。彼を励ますのはいいが、先走って訓練をせかすようなことは言わないでくれないか。一日も早く2人で仕事が出来るようになりたいなら、それは守ってくれ。」
 
「はい!ゴード先生、よろしくお願いします!」
 
 息子が笑顔で頭を下げた。ゴード先生は少しだけ照れくさそうだったが、『確かに請合うよ』と言ってうなずいた。
 
 
(ゴードは変わりましたよ。以前より随分と物腰が柔らかくなりました・・・。整体が正式に医師会の研究対象として取り上げられる可能性が出てきたことで、仕事に取り組む姿勢も変わってきましたよ・・・。)
 
 ハインツ先生が私に耳打ちをした。今までは医師会どころか同僚の医師達にさえ認めてもらえなかったテーマをずっと研究し続けるというのは、かなりの精神力が必要だっただろう。だが、それがもうすぐ報われるかもしれない。そう考えれば誰だってやる気が出るものだ。
 
(アスランの回復振りといい、クリフの件といい、かなりの成果は出せているはずです。その可能性はかなり上がったと見ていいんじゃないでしょうか。)
 
(そうですね・・・。)
 
 あとは、クリフの手術が成功すればもう誰も文句を言わないだろう。整体もマッサージも、それだけで患者の病気を治せるようなものではないが、他の治療の効果を飛躍的に高めることが出来ることには間違いない。
 
 その後、アスランのダンベルはリハビリ室に保管されることになった。アスランのリハビリの時にはいつも目の前においておくということらしい。
 
「今は持ち上げられなくても、筋力がつけば必ず以前と同じように持ち上げて動かせるんだと、身近なものを置くことで希望を持って訓練してほしいと思ったんですよ。」
 
 ゴード先生が言った。
 
「それでうちの息子に頼んだのですか。」
 
「リハビリの休憩の時、先生の息子さんの名前がよく出るんですよ。コンビを組んでいるというだけでなく仲もいいようですし、リハビリに一役買ってもらおうと思いましてね。この先のリハビリ計画を作っている時に、アスランから先生の息子さんとふたりで、ダンベルで筋力をあげる訓練をしていたと言う話を聞いたものですから。」
 
「役に立つなら遠慮なく使ってください。」
 
「そうさせていただきます。しかし先生、息子さんはお一人だとお聞きしましたが、跡を継がれるお子さんは他にはいらっしゃらないんですか?」
 
「子供は1人ですよ。でも私の代で島の診療所を閉めるわけには行きませんから、誰かが後を引き継いでくれるなら、診療所ごと譲ろうか、なんて話もしています。まあまだ先の話ですけどね。」
 
「いっそのこと、医師会から誰か派遣して先生がこちらに出てこられるというのはいかがです?」
 
 思いがけない言葉が、一番思いがけない人の口から出て少し驚いた。
 
「私がこんなことを申し上げるとは思っていないでしょうが、実のところ、私にはまだ悔しい思いがあるんですよ。あなたほどの方がどうしてへんぴな島に今まで籠もっていたのかとね。」
 
「・・・・・・・・。」
 
「ま、いろいろとお考えもあるのでしょうけど、これからはもう少しこちらにも出てこられるんでしょう?」
 
 意外だった。整体の件をきっかけに随分と物腰が柔らかくなってはいたが、私が城下町に顔を出すようになることを、この人が容認するとは思っていなかったからだ。だが彼の言葉が口先だけでないことはわかる。
 
「そのつもりではいますよ。以前は自分でも頑なすぎたと反省していますからね。ただ、前にも申し上げたとおり、医師会に入る気はありません。私の居場所は今までもこれからも、北の島の診療所ですから。」
 
 そこに看護婦が顔を出し、2階の病棟の医師がハインツ先生を呼んでいると言われたので、ハインツ先生がリハビリ室を出て行った。
 
「ハインツ先生は皆さんに頼られているようですね。」
 
「あのお人柄ですからね。敵意を持つ人はなかなかいないと思いますよ。あの方なら、これからの医師会を背負って立つには十分な方だと思っています。」
 
 ゴード先生の口調が心なしか誇らしげに聞こえる。この人がハインツ先生を尊敬しているのは間違いない。ふと、以前から考えていたことを、この時急に話してみる気になった。
 
「そうですね・・・。ゴード先生、今度のクリフの手術ですが、先生は私が手術をして成功させることで、私の力を医師会で認めさせ、ひいては整体やマッサージを正式な研究対象として認めさせたいとおっしゃってましたね。」
 
「・・・は、はあ・・・。」
 
 ゴード先生は少しだけばつの悪そうな顔でうなずいた。
 
「しかし今までクリフの手術はハインツ先生が行っていました。今回私が執刀することについてどうお考えです?」
 
「・・・先生からそんな質問をされるとは思いませんでしたよ。正直申し上げて、『面白くない』とは思いましたが、上の決定ですし、私にとっても益のあることなので、了解したんです。」
 
 随分と率直な言い方だが、このくらいはっきり言ってくれると、かえってありがたい。今の言葉には裏も表もないとわかる。変にもってまわった言い方をされる方が、相手が何を考えているのかわからないのですっきりしないものだ。
 
「ハインツ先生についてはどうです?」
 
「・・・それはどういう意味です?」
 
 ゴード先生が少しむっとした表情になった。私がハインツ先生を馬鹿にしたようにでも聞こえたのかもしれない。だが私は構わず話し続けた。
 
「クリフの手術はハインツ先生が3度とも執刀しました。でも病巣がかなり難しい場所にあるらしくて、2度目と3度目に全て取り去ることが出来なかった。それはハインツ先生の問題ではないと私は思っていますが、ご本人はそう考えていないようなのです。」
 
「・・・ハインツ先生がクリフの手術のことで自信をなくされていることは、気づいていましたよ。で、クロービス先生はそのことについて何をおっしゃりたいんです?」
 
「このままではよくないと思ってます。だから今回の手術では、ハインツ先生に自信を取り戻していただきたいんですよ。」
 
「それは確かにそうなってほしいとは思ってますが・・・策はあるんですか?」
 
「残念ながらまだありません。そこで、ゴード先生にも一緒に考えてほしいんです。」
 
「私がですか?」
 
「そうです。クリフの治療にも、ゴード先生は最初から関わっておられると聞きました。何かしら方法があるはずだと思うんですが、私一人ではなんともなりません。ご協力いただけませんか。」
 
「それは・・・構いませんが・・・。」
 
 ゴード先生の顔は、私が何か企んでいるのではないかと疑っている。だがそれを今釈明しようとしてもかえって言い訳と受け取られて気まずくなる可能性のほうが高そうだ。ハインツ先生に自信を取り戻してほしい、それは間違いなく私の本心なのだから、いずれわかってくれることを期待しよう。
 
 そこにハインツ先生が戻ってきた。アスランのリハビリはまだ続くようだ。
 
「それじゃ私はもう一度クリフの病室によってから、剣士団長室に顔を出してきます。そのあとまた病室に戻りますよ。」
 
「そういえば、剣士団長殿は最近お茶に凝っているそうですね。ドゥルーガー会長が笑ってましたよ。」
 
「ははは、オシニスさんだけじゃなくてレイナック殿もですよ。なんでもレイナック殿がまたお茶の味を見てくれとオシニスさんに言ってるらしくて、私も付き合わされるようなんです。」
 
「なるほど、先生も大変ですね。」
 
 
 ハインツ先生は笑い出し、それじゃクリフの病室で待ってますよと言った。
 
 
 
「・・・ほお、その裁判官の名前は知っておるぞ。しかしその者が我らと同じような力を持っていたとは・・・わしとしたことが気づかなんだとは情けない限りだ。」
 
 レイナック殿は私室にいた。訪ねた私達を笑顔で迎え入れてくれて、お茶を淹れてくれた。レイナック殿の部屋をオシニスさんと2人で訪ねる口実が、とりあえずは本当のことになったわけだ。
 
「今日ラエルに会いに行ったのが私一人でよかったと思いますよ。」
 
「まったくだ。俺が一緒だったりしたら、洗いざらい頭の中を読まれていたかもしれないと思うとぞっとするよ。」
 
「ううむ、まったくだ。コレルの真意がよいものだとしても、それこそ国家機密に関わるようなことまで探り出されてしまうようなことがあってはならぬ。ふむ・・・オシニスよ、今ちょっとお前の心の中が見えぬようにしてみるから、静かにしておれ。」
 
 レイナック殿が小さく呪文を唱え、オシニスさんが『ウェ』と顔をしかめた。
 
「どうだ?気分が悪くなったりしてはおらぬか?」
 
「ああ・・・しかしなんか妙な感覚があるな。今のは何をやったんだ?」
 
「お前の精神の周りに、障壁を作ったのだ。この状態なら、誰かがお前の心を探ろうとしても読まれる心配はない。」
 
「なんだよ、そんな方法があるならさっさともっと前からやってくれりゃよかったじゃないか。」
 
「ばかを申せ。これはあくまでも緊急の場合の措置だ。コレルが何を考えているのか、それにクイントが関わっておるのか、はっきりさせるまでは泳がせて置かねばならぬ。その間に好き放題心を覗かれたのではたまったものではあるまい。それにこの方法は、かけたわしとクロービスには通用せぬ。」
 
「私もですか・・・。」
 
「それはそうだ。この方法は、元々剣の使い手の指示で神官が行っていた術だ。命じた当人より力が強いわけはなかろう。」
 
「なるほどな・・・。なんか引っかかるような感覚はあるが、特に気分が悪いってこともないよ。で、この状態でどのくらいもつんだ?」
 
「今かけたのはせいぜい3日ほどだ。3日後にもう一度かけてやるから忘れずに来るのだぞ。」
 
「もっと長くも出来るんだな。」
 
「出来るのは出来る。だがこんな術をかけられたのは初めてだろうからな。なんと言ってもお前の精神の周りにわしの『気』で囲いを作ってあるのだ。波長が合わなかったりすると、気分が悪くなったりめまいがしたりすることもある。まずは3日で様子見だが、その前に変だと思うことがあったら、どんな些細なことでも言うてくれ。わかったな?」
 
「ああ、わかったよ。今のところは大丈夫だ。」
 
 相手が裁判官であること、その内容がファルシオンに関わるものであることを考慮して、今回はレイナック殿の密偵が動くことになった。
 
「それじゃクロービス、わかったことがあれば声をかけるよ。じいさん、ちょうどいいから明日の会議の打ち合わせをしないか。」
 
「うむ、そうだな。クロービスよ、ご苦労だったな。お前は誰かから心を探られる心配はないが、それでも用心はしてくれよ。」
 
「わかりました。では私は失礼します。オシニスさん、明日の午後は空きそうですか?」
 
「そうだなあ・・・。明日の会議の結果次第だな。それによっては俺のほうも別な仕事が入るかも知れん。」
 
「わかりました。それじゃ明日、午後から一度は顔は出しますよ。」
 
 2人に別れを告げ、私はレイナック殿の私室を後にした。これからもう一度クリフの病室に顔を出すつもりでいる。多分妻もそこにいるだろう。それから手土産を買ってランドさんの家を訪問すれば、ちょうどいい時間になると思う。
 
 
 
「何がいいかしらねぇ。お菓子かなあ。」
 
 妻と2人、王宮を出て商業地区の飲食店街に来ていた。おいしそうなケーキや香ばしい焼き菓子を売る店が何件も軒を連ねている。
 
「子供さんもみんないるだろうから、こういう時はやっぱりお菓子が無難だと思うなあ。」
 
「ふふふ、そうよね。子供のころ、家にお客さんが来るとね、お土産の中身が何なのかすごく気になってたわ。お菓子だとすごく嬉しくて、いつもジョスリンの家におすそ分けに行って、2人で食べてたのよ。」
 
 カナには昔宿屋がなかったから、顔見知りの商人を家に泊めたりしたこともあったらしい。そういう時の手土産はいつも珍しいものばかりだったそうだ。私が小さな頃、故郷は『世捨て人の島』だったので、子供のころお客さんなんてまず来なかった。ただ、患者さんはたくさん来ていたから、父のおかげで病気がよくなったと、お礼に手土産を持ってきてくれる人はいた。小さな島ではおいしいお菓子なんてほとんど手に入らなかったので、手土産の中身は野菜や干し肉、あとは暖かい季節なら果物くらいだっただろうか。でも子供には嬉しいものだった。頂き物がたくさんある時には、グレイやラスティ、イノージェンにも声をかけて、みんなで食べたりすることもあった。
 
「それじゃお菓子にしようか。ある程度日持ちしそうなもののほうがいいのかな。」
 
「そうねぇ・・・。」
 
 2軒ほど店を回って、焼き菓子の詰め合わせを選んだ。ちょうど焼きたてで、店頭に並べ始めたところを箱に詰めてもらったのだ。ランドさんの家への道は聞いてある。そこは住宅地区の中ほどにある、多分普段ならば静かな場所なのだろうけど、祭りの時期はやはり騒がしいらしい。人通りが多く、その人々の誰もが奇抜な服装をしている。
 
 
「いらっしゃあい!待ってたわよ〜。」
 
 扉を開けてくれたのはパティだった。私達は久しぶりの再会を喜んだ。ランドさんとパティが結婚する前に町を出てしまったので、こうして幸せそうな2人の姿が見られたことがとても嬉しかった。
 
 私達の手土産は、主に子供達に喜ばれた。偶然だが、手土産を買った店はかなりの人気店らしく、この焼き菓子の詰め合わせもすぐに売切れてしまうらしい。
 
「へー、私達が入った時にはちょうど並べているところだったんだよ。それじゃちょうどよかったんだね。」
 
「そうなのよ。嬉しいわあ。それじゃ食後のお茶のお茶菓子にしましょ。いろいろ作って待ってたのよ。」
 
 招き入れられた部屋のテーブルには、豪華な食事が並べられていた。私達は食卓を囲み、しばらくの間昔話に花を咲かせた。そして近況報告となり、20年もの間島に引きこもっていたことについて、パティの愚痴を聞かされることになった。
 
「もっと早く出て来てくれてもよかったと思うわ。」
 
 パティが口を尖らせた。
 
「今回出て来てみてそう思ったよ。でも仕事が仕事だからね。」
 
 あいまいに言葉を濁した。私が進んで城下町に来たくなかった理由を、パティがどこまで把握しているかはわからないが、医師という仕事を考えれば、そうそう家を留守に出来ないことは理解してくれたようだ。
 
「でも不思議よねぇ。あの日ロビーに現れたおとなしそうな人が、精鋭の王国剣士になって、そして今はお医者様だなんてね。」
 
 私が初めて王宮に足を踏み入れた時、受付にいたのがパティだ。私の顔を見るなりパティはさっと立ち上がり、エルバール王国の観光案内を立て板に水のごとくしゃべり始めた。
 
「だ、だって・・・まさか剣士団の試験を受けに来たとは思わなかったし、てっきり観光案内が必要なのかと・・・。」
 
 パティが赤くなった。
 
「ま、俺もまさか本気で試験を受ける気なのかなと思ったくらいだからな。」
 
 ランドさんが笑った。
 
「念を押されましたよね。」
 
『・・・王国剣士は・・・危険な仕事です。生半可な覚悟では務まらない、きつい仕事です。そう言う世界に身を投じるだけの覚悟がないのなら、私に背を向けて、今昇ってきた階段を降りていくのがいいでしょう。』
 
「ああ、でもあれは、入団希望者には全員に話をしてるんだよ。まあ意気揚々と来た奴か、肚が決まってないような奴かによって多少文言は違うがな。」
 
 
 そんな昔話のあと、食後のお茶と共に私達が持ってきた焼き菓子が並んだが、子供達は別な部屋で食べていいと、ランドさんが半分を別な器に入れて、子供達に渡した。そして・・・
 
「さて、そろそろ本題と行こうじゃないか。クロービス、ウィロー、何か聞きたいことがあるなら、遠慮なく聞いてくれ。」
 
「ちょっとランド、それは私の台詞よ。本当なら、何を聞かれても話しちゃいけないんだけどね・・・。あの家の人達のことは私も心配しているの。お母さんが早くに亡くなって、妹のフローラにさびしい思いをさせまいと、シャロンが随分気を使っていたのよ。最近はお父さんも弱っているみたいだしね・・・。」
 
「そのことでは私も心配しているんだよ。」
 
 私はセディンさんがかかっている診療所に行き、病状を聞いてきたことを話した。
 
「そうなの・・・。あなたにとってもあのお店の人達は恩人だって、前に言ってたものね・・・。」
 
「そうなんだ。パティ、君に聞きたいことって言うのは、シャロンとフローラのお母さんのマイサさんに関することなんだけどね、20年前、多分私達がこの街を出た後のことじゃないかと思うんだけど、マイサさんが王宮に出向いていると思うんだよ。だから君が見かけてないかなと思って。」
 
 まずは無難に尋ねてみた。パティはあの家の抱える事情についてどこまで把握しているのだろう。
 
「その話はランドからも聞いたわ。何でも剣士団が動かなきゃならないような事態になりかねない話だって・・・。」
 
 実際にはもう動き始めているのだが、どうやらランドさんはうまくぼかして説明してくれていたらしい。
 
「そうなんだよ。どうかな、覚えてる?」
 
 パティは小さくため息をついた。
 
「覚えているわよ。でもクロービス、その前に聞いていい?」
 
「なに?」
 
「あなたは城下町に出てきてから、ずっとあの家の人達と親しいのよね?」
 
「そうだね。剣士団の募集のことを教えてくれたのがセディンさんだったし。」
 
「この話は・・・他所様の家の事情だから本当なら話したくはないんだけど、あなたとウィローなら口が堅いから話してもいいんじゃないかと思うんだけど・・・。」
 
「もしかして、セディンさんとシャロンの間に血の繋がりがないってこと?」
 
「やっぱり知っていたのね。」
 
「その話は知っているよ。君も知っているなら私も話しやすいよ。マイサさんが王宮を訪ねた理由はね、南大陸で生き別れた元のだんなさんの消息調査だったんだよ。」
 
 パティがため息と共にうなずいた。
 
「そうだったの・・・。それで納得がいったわ。」
 
「マイサさんはどんな様子だったの?」
 
「あの頃はね・・・もう毎日すごい人混みだったわ。誰もが自分の順番を早めてもらおうと、我先に受付に押し寄せていたのに、あの時・・・マイサさんだけが私の顔を見て目をそらしたの。そして列の後ろのほうに移動したわ。でもその時は変だなと思っただけだったの。私も大量の陳情者を捌くのに精一杯で・・・。」
 
「受付の人達は、陳情者が来た時にどういう対応をするの?」
 
「まず名前と住所を聞いて、それから用件を聞くの。その用件の内容によって、案内する場所が違うから。でもあのころは名前と用件を聞いて記録するのが精一杯だったわ。それにほとんどが行方不明者の捜索願だったから、案内する場所もみんな一緒だったの。そのまま並んでいたら、私と顔を合わせてしまうと思ったんでしょうね。」
 
「ということは、君はその時シャロンのお母さんとは話をしなかったんだね。」
 
「ええ、あのころは受付嬢もほとんど全員で陳情者を捌いていたから、別な人が受付をしたみたい。だからその時はおかしいなと思ったけど特に気に留めなかったのよ。そのあとお店に買い物に行った時も普通だったし、私も仕事中に見かけたことを話したりはしないから。でも何日かして、マイサさんがまた王宮に来たの。その時は私を見ても特に顔をそむけたりはしなかったわ。」
 
 それがおそらくあの日記にあった日付の日か・・・。
 
「その時マイサさんがどんな用件で来たかなんて話は・・・知っているかな。」
 
「ええ、ちょうど私が受付をしたのよ。『前に依頼していたことの結果がわかったからと通知が来たんですけど』って。」
 
「通知と言うことは、何かしら書面を持ってきたとか?」
 
「そうよ。陳情の結果については、実際に話を聞いて調査をした部署から直接届くから、通常受付は通らないの。通知を持って該当部署の受付で取次ぎをしてもらうのよ。でもあの頃はとりあえず受付を通してからそれぞれの部署に案内してくれって言われてたの。でないと大量の人が一斉に行政局になだれ込んだりする危険性もあったから。」
 
「通知は見せてもらったの?」
 
「ええ、見せてもらったわ。最も書いてあったのは『先日の依頼について回答をしたいので、何月何日に王宮に来てください』だけだったけど。今思うと、内容が元のだんなさんに関わる話だったなら、そのことが書いてなかったから見せてくれたってことなんでしょうね。」
 
 いかに王宮の受付嬢といっても、親しくしている客に自分の用件は知られたくなかったに違いない。
 
「調査をした部署はどこだったのか、それは教えてもらえるのかな。」
 
「それが、あなたが一番知りたいことなのよね。」
 
「そうだね。」
 
「部署じゃないわ。そこに書かれていたのは、個人の名前よ。」
 
「個人?」
 
「そうなの。私も変だなと思ったから覚えていたのよ。ねえクロービス、あなたウィット卿って知ってる?」
 
「・・・エリスティ公の側近だった?」
 
「そうよ。その通知に書かれていたのが、ウィット卿の名前だったのよ。」
 
 セディンさんの店に現れた不気味な客、おかみさんの元の夫の消息調査、そのふたつの出来事を繋ぐ糸が、うっすらと見え始めた。
 

第88章へ続く


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