小説TOPへ 次ページへ→


第88章 過去と向き合う 後編

 
 昼間調べた記録には、担当職員の手が足りないので誰かに依頼したようなことが書かれていた。それがおそらくウィット卿なのだろうが・・・
 
「変な話よね。あの当時ウィット卿は御前会議の大臣よ。その大臣が町の人の消息調査を買って出るなんてね。」
 
 パティは首をかしげている。
 
「担当職員から頼まれたとか?」
 
「行政局の職員が御前会議の大臣に用事を頼む?とんでもないわ。怒鳴りつけられるのが落ちよ。」
 
 パティが肩をすくめた。
 
「だろうなあ。その時のウィット卿の機嫌によっちゃ、そいつはその日のうちに閑職に廻されちまう可能性もあるくらいだ。そんな頼み事をするバカはいないと思っていいだろうな。」
 
 ランドさんが言った。
 
「ということは、何らかの理由でウィット卿のほうからそれをやってあげると言ったとか?それなら有り得ない話でもないですよね。」
 
 ウィット卿と言う人物をよく知っているわけではないが、エリスティ公の腰巾着だった人だ。公に気に入られるためなら何でもやると言う噂は、昔聞いたことがある。
 
「そうだなあ。あのウィット卿ってのは出世欲の強い大臣だったから、自分にとって得になることなら嫌な顔ひとつせず請け負うだろうな。」
 
 ランドさんも同意見らしい。
 
「となるとその目的がなんなのかってことになるわよね。」
 
 妻が言った。
 
「でも一市民の家族の消息調査よ?何か得になるのかしら。」
 
 パティが首をかしげた。
 
「まあそれは本人に聞いてみないとね。」
 
「え!?聞くつもりなの?」
 
 妻が驚いて私を見た。
 
「まさか。ものの例えだよ。本人にでも聞いてみなきゃわからないってことさ。パティ、教えてもらってよかったよ。」
 
 ランドさんは『まったくだ』と言って笑った。オシニスさんから麻薬の件は聞いているはずだから、調子を合わせてくれたんだと思う。ウィット卿という人物が、エリスティ公と繋がっていることは周知の事実だ。カルディナ卿を追い詰めて大臣を辞任させたことくらいは、パティも知っているだろう。だが、今回ウィット卿の名前が出たと言うことは、麻薬がらみの一連の騒動に、エリスティ公本人が関わっているかも知れないという可能性が出てきたことを示唆している。そう考えると、ここでその理由についてはあまり詮索されたくない。
 
「少しはお役に立てたの?」
 
 パティは不安そうだ。
 
「うん、すごく助かったよ。ありがとう。」
 
「それならいいんだけど・・・こうなると記録で追いかけるのは難しいかもしれないわね。相手が大臣じゃねぇ・・・。」
 
「まあ他の大臣ならきちんと調査結果を行政局に出してくれる可能性もあるんだが、ウィット卿じゃなあ・・・。」
 
 ランドさんがうーんと唸った。
 
「損得勘定で動いていたなら、そう簡単に情報を手放すとは思えませんからね。」
 
「そうなのよ。引き受けたのがウィット卿だったことは、マイサさんにとってはどうだったのかわからないけど、私達にとっては不運としか言いようがないわ。」
 
「はは、君にしては随分な言いようだね。確かに記録には残っていなかったからね。この間エミーに見せてもらったよ。オシニスさんが頼んでくれて、私達も久しぶりにエミーに会えて嬉しかったよ。すごく元気そうだったからね。」
 
 パティは少しすまなそうな顔で私達を交互に見た。
 
「その話は聞いたわ。私もほっとしてるの。エミーは今のだんな様と知り合ってから、本当に変わったのよ。あなた達に謝りたいってずっと言っていたから、その願いがかなってエミーも喜んでいたわ。そのうちまた顔を合わせることになるかもしれないけど、これからはお友達として交流はしてくれるわよね。」
 
「もちろん。友達は多いほうがいいからね。私もね、嬉しかったよ。もう20年も島に引きこもっていたのに、みんなが私達を歓迎してくれて。」
 
「当たり前でしょ。何十年間が空いたとしても、友達であることに変わりはないんだから。」
 
 
 
 久しぶりに会った懐かしい人達と楽しい時をすごし、私達はランドさんの家を後にした。宿に戻ったが、酒場のフロアは相変わらずの喧騒だ。食事はいらないからと例によってワインを一本頼んで、部屋に戻って鎧をはずし、ほっと一息ついた。
 
「楽しかったわぁ。食事もおいしかったし。パティさんて料理上手なのねぇ。」
 
「そうだね。急に行ったのにいろいろもてなしてくれて嬉しかったな。」
 
 そこにワインが運ばれてきた。今日のつまみはドライフルーツとチーズだ。
 
「これは今朝南大陸から届いたドライフルーツとチーズです。ワインはベルスタイン公爵家の領地で醸造された5年物です。」
 
 届けてくれたロージーが笑顔で説明してくれた。
 
「へえ、南大陸からかあ。どの辺りなのかな。」
 
「なんでも南大陸の中でもずっと南側にあるオアシスの街で作られたものだそうですよ。向こうは暑くて乾燥しているので、ドライフルーツを作るのに適した気候なんだそうです。ではどうぞごゆっくり。」
 
 
「ワインかあ・・・。うちの島でも誰か作らないかな。」
 
「産業としてやっていけるかどうかは別にしても、島の中に流通させられる程度の量が作れれば、食生活ももっと豊かになるわよね。」
 
「そうだね。食は人生の中でもかなり大きな位置を占めるし、どうせならおいしいものを食べたいからね。」
 
 今のところ、島で飲めるワインはみんなラスティの店が城下町の商人から仕入れている。そんな他愛のない話の後、妻が居住まいを正した。
 
「ねえクロービス、さっきの話なんだけど・・・。」
 
「今日は、話すことがたくさんあるよ。でもまずは、一杯飲もう。」
 
「ふふふ、そうね。」
 
 お互いのグラスにワインを注ぎ、乾杯して一口飲んだ。
 
「はぁ、おいしい。何だか頭の中がほぐれていくような気がするわ・・・。」
 
「そうだね。それじゃほぐれてきたところで、今日私が聞いてきたことを話すよ。」
 
 妻にとってもつらい話だ。こうして気持ちを落ち着かせてから聞いてもらったほうがいい。私はオシニスさんから聞いた、カインのこと、ライザーさんのこと、出来るだけ聞いた通りの言葉で表現しながら、妻に話した・・・。
 
「・・・・・・・・・。」
 
 妻は黙って最後まで聞いていたが・・・やがてその瞳から涙がこぼれだした。
 
「カインが・・・そんなことを考えていたなんて・・・何も気づいてあげられなかったわ・・・。」
 
「私もだよ・・・。あの時・・・君と仲直りできたことがただ嬉しくて、舞い上がっていたんだ・・・。」
 
 この町に出てきて、たくさんの懐かしい人達と再会した。そして、20年前のことでは誰もが傷ついてつらい思いを抱えていたことに改めて気づかされ、私達と再会することで前に踏み出した人達がいたことを嬉しく思った・・・。でも、私達が一番会いたい人は・・・もういない。カイン、君に一番に謝らなければならないのに、君にはもう会えないんだね・・・。
 
 いつの間にか目の前のワイングラスが涙でぼやけていた。私達は少しの間、黙って寄り添い、泣いた。二度と会えない懐かしい友のために・・・。
 
 
「前に・・・進まなきゃね・・・。」
 
 しばらくして、妻が小さな声で言った。
 
「うん、なんとしても、乗り越えなきゃね・・・。」
 
 ライザーさんとオシニスさんのことを子供達に話したように、私も・・・カインとのことを子供達に笑って話せるようになりたい。そうして、カインというすばらしい剣士がいたのだと、それが私の相方だったのだと、胸を張れるようになりたい。誰に対しても・・・。
 
「亡くなった人達に引きずられてはいけない・・・セルーネさんの言うとおりよね・・・。」
 
「そうだね・・・。」
 
『だから死んだ者に囚われて、引きずられてはいけないと思った。どんなにつらくても悲しくても、前を向いて生きていく以外に、私が歩いて行ける道はない』
 
 あの言葉は、私の心にずしりと響いた。おそらくはオシニスさんの心にも・・・。だが、その言葉を言えるようになるまでに、セルーネさんはいったいどれほど苦しんだのだろう・・・。
 
(ローランド卿の存在は大きいんだろうな・・。)
 
 もちろんローランド卿がいなかったとしても、セルーネさんは自力であの悲しみを乗り越えられただろう。でも、そばにずっと寄り添ってくれる誰かがいることがどれほど心強いか、私は身を以て知っている。
 
「ライザーさんは・・・どうしているのかしらね・・・。」
 
 イノージェンが王宮に来てからあと、彼の消息はわからない。きっと遠い日の心の傷を乗り越えるべく動いているのだろうと思うが・・・。
 
「きっと無事だと信じよう。ライザーさんが出来るだけ早くここに来れるように、私達は今出来ることをしていくしかないんだ。」
 
 ライザーさんが調べている案件が何であれ、それが必ずしもシャロンが巻き込まれているかもしれない麻薬の件と繋がりがあるとは限らない。それに彼の身の安全は、オシニスさんとレイナック殿に頼んだ。今のところ、ライザーさんのことで私達が出来ることは何もない。
 
「次に会えたら、ライザーさんが剣士団を去った理由も、聞かせてもらえるのかな・・・。」
 
「どうかなあ。聞けば教えてくれるのかもしれないけど・・・。」
 
 その場にいなかった私達が、それをライザーさんに尋ねる筋合いはない。妻が小さくため息をついた。
 
「そうね・・・。それはライザーさんの問題よね。ライザーさんにとって、そのことは今でもつらい出来事なんだと思うし、私達があれこれ推測するのは失礼だわ。あなたの言うとおり、まずは、私達に出来ることをしましょう。さっきのウィット卿のことは、明日にでもオシニスさんに話しておいたほうがよさそうね。」
 
「そうだね。もしかしたらランドさんからも話がいくかもしれないけど・・・。」
 
「ウィット卿が関わっているということは、『あのお方』が裏にいると思っていいのよね。」
 
「おそらくはね・・・。まさかここでまでウィット卿の名前を聞くことになるとは思わなかったけどね・・・。」
 
 私達が城下町を去ってから、妻がカルディナ家の屋敷に軟禁されたことを持ち出して、トーマス・カルディナ卿を失脚させた人物・・・。だがその醜聞はカルディナ家の凋落を招いたものの、フロリア様の責任問題まで発展することはなかった。そして『失敗』したウィット卿はエリスティ公から見捨てられた・・・。
 
「・・・・・・・。」
 
 妻が黙り込んだ。
 
「ウィロー?」
 
「・・・ねえクロービス。」
 
「ん?」
 
「ローランド卿にお願いして、トーマス卿に会わせてもらっちゃだめ・・・?」
 
「トーマス卿に?」
 
「うん・・・。」
 
「だめなんて言わないよ。でもどうして?」
 
「私も・・・あの時のことに決着をつけたいの。」
 
「そうか・・・。」
 
「ローランでドーソンさんからトーマス卿のことを聞いた時にね、あの時、何もせずにここから逃げてしまったことは間違いだったのじゃないかって、思ったの。」
 
「それを言われるとつらいな・・・。早くここを出ようってせかしたのは私だからね。」
 
「あなたのせいじゃないわ。私がもう少し強かったなら、あの時点できちんとトーマス卿と話し合いが出来たかもしれない。・・・今さら言っても遅いけどね・・・。」
 
「でもトーマス卿と会って何を話したいの?今さら文句を言いたそうでもないみたいだけど。」
 
 妻がくすりと笑った。
 
「まさか。そんな事は考えていないわよ。そりゃ・・・あの時私はまんまと眠らされてしまって悔しい思いをしたのは確かなんだけど・・・。結果として何事もなかったんだし、そんな事じゃないの。」
 
「・・・と言うことは、もしかして君としては、まだローランド卿のことが引っかかってるってこと?」
 
 ローランでドーソンさんから話を聞いたあと、妻がそんな話をしていたことを覚えている。
 
「それもあるけど・・・。でもそれだけじゃない。何ていうのかな・・・。あの時はあなたと私を引き離そうとする人達から、逃げることばかり考えていたわ。だからあなたが町を出て故郷に帰ろうって言ってくれたことがとても嬉しかったの。でもね・・・そうやって逃げて、私達は島で暖かい人達に囲まれて幸せな毎日を過ごせたけど、その間にもあの頃の出来事が元で苦しんでいる人達がいたことを、この町に来て改めて気づいたわ・・・。トーマス卿が今どうしているかはわからないわ。お元気ならそれでいいけど、もしも昔のことで苦しんでいるとしたら・・・私にも何か出来ることがあるんじゃないかって。もちろんトーマス卿が私と会いたいと思わない可能性もあるけど・・・。何か出来ることはありませんかって、聞いてみるくらいのことはしたいの。迷惑だっていうなら無理にとは言わないけど・・・。」
 
「わかった。それじゃローランド卿に頼んでみよう。2人でトーマス卿に会いたいとね。」
 
「明日は御前会議があるのよね。朝のうちにオシニスさんに頼んでみない?ローランド卿に話を聞きたいって。」
 
「そうか、セルーネさん達は2人とも王宮には来るはずだしね。」
 
 こういうことは早いほうがいい。もっとも20年も間が空いているのだから、一日や二日早めたところで何がどうなるというわけでもないのだが・・・。
 
 
 
 翌日はかなり早めに宿を出た。あまりに早かったので、まだ宿の朝食も準備できていないほどだった。突然早く出かけることにしたのだから気にしないでくれと言って出てきた。食事はあとからでも食べられるが、オシニスさんが会議に行ってしまうと話が出来ない。まっすぐ王国剣士団のロビーに向かったが、採用カウンターにはランドさんの姿も見えない。早く来すぎてしまったかもしれないと思ったが、とりあえず剣士団長室に行ってみた。ノックをするとオシニスさんが扉を開けてくれて、『随分早いな』と笑った。オシニスさんはもう制服にマントを身につけている。今朝の会議の最後の打ち合わせのため、これからレイナック殿の部屋へ行き、朝食もそこで取る予定らしい。
 
「まあここで立ち話もなんだから、入れよ。」
 
 オシニスさんに促され、私達は剣士団長室に入った。
 
「すみません、お忙しいのに。」
 
「いやそれは別にいいんだが、何かあったのか?こんな時間に。」
 
「実はオシニスさんにお願いがあってきたんです。」
 
 妻が事情を話し、ローランド卿に話を通してもらえないかと頼んだ。
 
「なるほどな・・・。ただ、ローランド卿はともかく、トーマス卿が会ってくれるかどうかは何とも言えんなあ。」
 
 身から出た錆とは言え、大臣の座を追われる原因となった出来事だ。そんなこと、今さら思い出したくないと言われれば、それでも無理にとは言えない。
 
「それならそれで仕方ないです・・・。その時にはローランド卿と話をさせていただきたいと思ってます。」
 
「わかった。話をしてみるよ。それじゃ今日の午後にでも一度ここに顔を出してくれ。その時にローランド卿の返事をもって来れるようにする。あと、多分リーザのほうの返事ももらえると思うぞ。」
 
「そうですか・・・。どちらもいい方向に向いてくれるといいんですが・・・よろしくお願いします。」
 
「夕べはランドの家に行ったのか?」
 
「行きましたよ。おいしい料理をご馳走になってきました。」
 
「残念だなあ。パティの料理はうまいんだよな。」
 
 オシニスさんが笑った。
 
「ま、その話も午後から聞かせてもらうか。じゃあまた後でな。」
 
 
 
 私達は剣士団長室を出た。でもまだ時間は早い。こんな時間にイノージェンを迎えに行くのも気が引ける。ライラは会議があるからとっくに起きているだろうけど、イノージェンもイルサも、特に早起きするほどの用事はないはずだ。東翼の宿泊施設にある喫茶室で時間をつぶそうかと、私達は王宮のロビーに戻り、東翼の別館に向かって歩き出しかけたのだが・・・
 
 突然飛び出してきた人影が私にぶつかった。
 
「あ、失礼。」
 
 一瞬スリかと思ったが、ここは王宮の中だ。こんなところにスリがいるはずがない。しかもロビーにはまだ見学客も来ていないのでがらんとしている。
 
「も、申し訳ございません。」
 
 人影は慌てたように頭を下げたのだが・・・その声は・・・。
 
「・・・クイント書記官殿ですか?」
 
 人影は目深にフードをかぶっていたが、間違いなくクイント書記官の声だった。私にぶつかったのは本当に偶然だったらしく、かなり狼狽しているのがわかる。
 
「これはクロービス先生、大変失礼いたしました。ではこれで・・・。」
 
 慌てて走り去ろうとしたクイント書記官のフードの間からちらりと見えた口元に、血がにじんでいる。
 
「待ってください。怪我をされているのではありませんか?」
 
「あ、これは・・・さっきぶつけまして・・・。何でもございませんのでどうかお構いなく・・・。」
 
 クイント書記官は慌てて顔を背けたが、その拍子にフードがずれてしまい、顔があらわになってしまった。口元の血だけではなく、顔半分が青黒く腫れあがっている。ぶつけただけでこんなになるはずがない。これは明らかに殴られた跡だ。
 
「医者に向かってけが人を構うなというのは無理ですよ。ちょっとこちらへ。」
 
 私は少し強引にクイント書記官の腕を掴み、ロビーの真ん中から、隅のほうに移動した。そしてクイント書記官の顔に手を添え、周りに聞こえないようにごく小さな声で呪文を唱えた。青黒い腫れはゆっくりと消えて行き、すっかりきれいになった。念のため頭蓋骨にひびなどがないかも調べてみたが、何とか大丈夫そうだった。この人にこれほどの傷を負わせるのは、エリスティ公以外に考えられない。何があったか知らないが、おそらくは杖か何かで力任せに殴ったのだろう。どんな理由があろうと、こんなことは許されてはならないのだが・・・。
 
「痛みはどうですか?」
 
「はい、もうすっかり・・・。本当に・・・ありがとうございました。」
 
 クイント書記官は深々と頭を下げた。
 
「今日は確か御前会議のはずですが、どうしてこんなところに?」
 
「え、ええ・・・顔をぶつけてしまって、とてもこの顔では会議に出ることは出来ませんから、今日の午前はお暇をいただいてきたのでございます。」
 
「そうでしたか・・・。大事になさってくださいね。」
 
 どうしてもぶつけたことにしたいらしい。私としても気にはなるがここで『エリスティ公のせいですか』と訊くわけにも行かない。そ知らぬふりをしているしかなさそうだ。
 
「ありがとうございます・・・。」
 
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
 
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
 
 クイント書記官は立ち去ろうとしない。何かとても複雑な思いでいることだけはわかる。私は思い切って、これから東翼の喫茶室に行くので一緒にお茶でもどうかと誘ってみた。
 
「そうでございますね・・・。本日は思いもかけず時間が出来てしまいましたことですし・・・。本当は屋敷に戻って顔を冷やしておこうかと思っていたのですが、こうして治していただいたお礼もしなければなりませんね。」
 
「そんなことはいいんですよ。ではご一緒しましょうか。」
 
 隣で妻が戸惑っているのはわかった。それを顔に出せずに笑顔を作っていることも。そしてそれはもしかしたらクイント書記官も感じ取っているかもしれない。私としては、せっかく偶然ここで会えたのだから、頭の中ではなく耳から聞こえる声で、この書記官と話をしてみたかった。
 
 
 東翼の喫茶室に着いた。時間が早いせいか人はそんなにいない。紅茶を3つ頼んだ時、ウェイトレスから、今日からメニューに追加されたお茶はいかがですかと勧められた。
 
「ベルスタイン公爵家の領地で獲れた、とても香りのよいお茶がございます。いかがですか?」
 
 この間スサーナの両親がフロリア様に献上したと言うお茶だろうか。
 
「それじゃ私はそれを。」
 
「あ、私も。」
 
 妻が言った。
 
「では、私もそれでお願いいたします。」
 
 クイント書記官が遠慮がちに言った。
 
 
「・・・書記官殿、お疲れではないですか?」
 
「いえ・・・大丈夫でございますが?」
 
 クイント書記官はフードを下ろして顔を見せている。こうして正面から向かい合うのは初めてかもしれない。とても穏やかな、優しい顔立ちをしている。
 
「先ほどの怪我を呪文だけで治してしまいましたからね。軽い呪文でも何度もかければ、かけられるほうも疲れるものなんですよ。何でもなければ何よりです。」
 
 そんな話をしている最中にお茶が運ばれてきた。この間のお茶とは香りが違うが、これもまたいい香りのお茶だ。
 
「いい香りねぇ。それにとてもおいしい。」
 
 妻が言った。
 
「そういえば、書記官殿のご出身は大陸の西側のほうだそうですね。」
 
 こんな話をするつもりでいたわけではないのだが、このお茶の香りをかいでいるうちにふと口をついて出た。
 
「はい。おそらく先生はご存知でしょう。私の出身はベルスタイン公爵家の領地のひとつでございます。」
 
 言葉の裏に妙な意図は感じられない。別に今この書記官の肚のうちを探るつもりなどない。せっかくの話の糸口なので、もう少しこの話題を出してみることにした。
 
「あちらのほうは気候がいいそうですね。作物もよく獲れるとか。」
 
「はい。とてもいいところでございます・・・。あの、先生?」
 
「はい?」
 
 クイント書記官の声が妙に遠慮がちになった。
 
「先生は・・・ユノ様をご存知ですよね?」
 
「フロリア様の護衛剣士だったユノですか?」
 
「はい。」
 
 まさかクイント書記官のほうからユノの名前が出るとは思わなかった。
 
「知ってますよ。剣士団にいた間、というより王宮にいた間ですが、随分と世話になりました。そう言えば書記官殿はユノと同じ島のご出身と聞いていましたが、ユノのこともご存知だったのですね。」
 
 このくらいのことは、とっくに私が把握済みだろうとこの書記官はわかっているようだ。あえてとぼけ通すこともないだろう。クイント書記官を包む『気』は穏やかだ。下手にとぼけてしまうと、こちらが何か企んでいるなどと思われてしまう可能性がある。せっかく穏やかに話が出来るのだから、何もわざわざ疑念を持たれるようなことをする必要はない。
 
「はい・・・。私が小さな頃に島を出てしまわれましたが、それまでとてもかわいがっていただきました。」
 
 クイント書記官は心なしか嬉しそうにそう言った。2人は知り合いだったらしい。しかも、それなりに交流もあったようだ。
 
「立派な最期だったとは聞きましたが・・・もう会えないことに変わりはありませんでしたから、悲しくて・・・随分長いこと泣いてばかりいましたよ。」
 
 クイント書記官の顔が悲しげに曇った。もしかしたら、『王国剣士の碑』に花を手向ける人の中に、この書記官も含まれているのかもしれない。
 
「確かに立派な最期でした。でも、私も悲しかったですよ。もっと話したいこともあったし、稽古もつけてほしかったと、今でもそう思います。」
 
「そうですか・・・。」
 
 その時喫茶室に何人かの人達が入ってきて、一気に賑やかになった。
 
「宿泊所に泊まっている人達かな。」
 
「そろそろ王宮の中も騒がしくなってくる頃合いかしらね。」
 
 妻が周囲を見渡して言った。
 
「そうでございますね。では私はこれで失礼させていただきます。屋敷に戻って少し片付けなければならない仕事もございますので。」
 
 クイント書記官が立ち上がり、頭を下げた。お茶はきれいに飲み干されている。
 
「そうでしたか。お引き留めしてしまって申し訳ありませんでした。あと、怪我は治りましたが、もしも何か気になることがあったら遠慮なく私を訪ねてください。医師会のハインツ先生でも大丈夫ですから。骨折などはしていないと思いますが、どこに影響が出るかわからないんですから、大事になさってくださいね。」
 
「ありがとうございます。怪我を治していただいて、先生とお話が出来て、とてもうれしゅうございました。」
 
 伝票を持とうとするクイント書記官の手を制し、私は伝票を自分で持った。
 
「先生、ここは私が・・・。」
 
「お気になさらず。それより、本当に何か気になることがあれば、いつでも言ってきてくださいね。」
 
「は、はい・・・。こちらこそありがとうございました。」
 
 クイント書記官は深く頭を下げて、喫茶室を出て行った。その時・・・
 
『お父様、子供に罪はありません』
 
 突然頭の中に声が響いた。
 
「・・・・・・・・・・・。」
 
 今のはクイント書記官ではない。女性の声・・・。聞き覚えのある・・・・
 
「ユノ・・・?」
 
「え?」
 
 妻が驚いて私を見た。
 
「・・・私達も出よう。イノージェンを迎えに行かないと。」
 
 喫茶室を出て東翼の宿泊所の入口に着いた。
 
「さっきの話は、あとで説明するよ。今は出来るだけ、気にしないでおいて。」
 
「わかった。それじゃ今日の夜ね。」
 
「でなければ、もしかしたら午後かな。」
 
「・・・そっか・・・。わかった。」
 
 クイント書記官とユノが顔見知りでもおかしくないと思っていたが、その推測は当たっていた。・・・さっきの声は、ユノの声だと思う。でも、私がいつも聞いていた声とは少し違う。もしかしたらあの声は、クイント書記官の記憶の中にあるユノの声なんだろうか。だとしたらそれは、喫茶室で私達と別れた時にクイント書記官が頭の中で考えていたこと、ということになる。さっきの様子からして、特にその声を私に聴かせたいと考えていたわけではないと思う。つまりあの声は、さっき彼がよほど強く、心の中で考えていたこと・・・。ではあれはどういう意味なんだろう・・・。ユノが『お父様』と呼ぶ人物、それはユノとクイント書記官の故郷である島のいわば村長だ。遠い昔、エリスティ公があの島を統治していた時、不審な死を遂げた長老の息子でもある。
 
(子供というのは・・・順当に考えればクイント書記官のことだよな・・・。)
 
 私とユノの話が出た時、おそらくはクイント書記官が思い出していた光景の中で語られた言葉があのユノの声だとするなら、誰か他人のことを思い出していたと言うのは考えにくい。
 
 
「あらクロービス、ウィロー。おはよう。早いのね。」
 
 イノージェンとイルサはちょうど身支度を整えたところだと言うことだった。やはりさっき来なくてよかった。眠っているところを叩き起こすことになっていたかもしれない。
 
「ちょっと用事があって早く来たんだけど、早すぎちゃってね。食事もまだなんだね?」
 
「まだよ。今日は外に出て、商業地区のカフェで食べようかなってイルサと話してたの。朝ごはんまだなら一緒に行かない?」
 
「それもいいね。実は宿を出るのが早すぎて、私達も食事はまだなんだ。」
 
 
 4人で外に出た。そろそろ通りは混雑してきている。
 
「こっちよ。」
 
 先導しているのはイルサだ。王宮図書室の司書と一緒に、以前食べに行ったことのある店らしい。
 
 
「へぇ、朝食を食べられる店っていうのは結構多いんだね。」
 
 その場所はセーラズカフェのある場所よりも随分と中心街に近い。そしてカフェはその一軒だけではなく何軒もあり、しかもほとんどが朝早くから店を開けている。
 
「そうね。ここからは工房通りが近いでしょ?あの辺りから2本くらい向こうの通りまではほとんどお店や会社だから、ここで朝ごはんを食べて出勤て言う人達が結構多いみたいなのよ。こういう場所はいいわよねぇ。さすがにクロンファンラではここまでたくさんのお店はないから、城下町に住んでいる司書達がうらやましいわ。」
 
「でももしかしたらこっちに転勤と言うこともあるんじゃないの?」
 
 イノージェンが尋ねた。
 
「その可能性はあるけど、まだ先だと思うわ。だいたい一ヶ所に3年くらいいるのが普通だって言うし。それに、この先もしかしたらだけど南大陸にも図書館を建ててそこに司書を常駐させようかって言う話も出ているのよ。」
 
「そう言えば南大陸には図書館がないわね。カナでもずっと移動図書館ばかりだったわ。」
 
 妻が言った。
 
「昔はその移動図書館も命がけだったって、聞いたことがあるわ。でももうそんなことはないし、確かにあんなに広い場所に図書館のひとつもないのでは、不公平よね。クロンファンラの王立図書館にも王宮図書室にも、書庫に眠っている本はたくさんあるのよ。もっといろんなところでいろんな人達に読んでほしいわ。それに、ライラはいつも王宮の図書室で資料探しをするって言ってたのよ。向こうにも図書館があれば、もう少し手軽に調べものをすることが出来るのにね。」
 
「そうなるといいわね。そしてそこにあなたが転勤になったら、そこに行けばライラにもイルサにも会えるんだから、私ももっと気軽にあなた達に会いにいけるわ。」
 
「島から出る手間は同じだけどね。」
 
 城下町から南大陸へ向かう経路はいくつかあり、昔よりもずっと便利になっているが、島からだとまずはローランへ行き、そこから城下町に来るという手順は変わらない。
 
「ふふふ、そうなのよねぇ。家の中で扉を開けたら、もうそこは城下町、とかだとすごく嬉しいんだけど。」
 
「そんな夢みたいなことが実現出来るわけないでしょ。母さんてば相変わらずねぇ。」
 
 イルサが笑い出した。
 
 
 店を出て、商業地区の店を覗いたりしながら私達は王宮へと戻った。イルサはクロンファンラから出てきたと友達と会う約束があるらしい。
 
「それじゃ私は西翼の宿泊所にいくから。」
 
「友達は西翼に泊まってるのかい?」
 
「そうよ。彼女は本の入れ替えでこっちに来たから。西翼はね、王宮の出先機関で働く人達が、王宮に仕事で来た時のための宿泊施設なのよ。私も本の入れ替えの時はそっちに泊まるわよ。でも今回みたいに遊びに来た時は泊まれないの。」
 
「それで君は今東翼にいるのか。」
 
「そう。だから本当はライラも西翼に泊まるはずだったんだけど、あんなことになっちゃったでしょ。だから私と一緒に東翼に泊まってくれたの。」
 
 別館の施設については私はよく知らない。東翼の宿泊施設が、王宮で働く人達が安く泊まれる福利厚生施設のひとつだという話も、イルサが泊まっていると聞いた時に教えてもらった話だ。だいたい私がこっちにいたころには影も形もなかった建物だ。昔とは随分変わってるなあと、今さらながら思う。でも、こういう変化はいい事なんじゃないだろうか。そもそも昔は、王宮の出先機関などというものがほとんど存在しなかった。昔からあったのはクロンファンラの図書館と、ロコの橋の灯台くらいだろう。だが今では南地方との境界にも簡易宿泊所がいくつかあるようだし、馬車が立ち寄る駅もあるらしい。王宮の仕事にかかわる職員が増えたことで、東翼と西翼の別館が建ったと言う事だし、人の行き来が増えれば、町も活気づく。
 

次ページへ→

小説TOPへ