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 私は、ローランに寄った時にデンゼル先生から研究ノートを預かってきたことをマレック先生に話した。元々あれは、デンゼル先生が息子であるマレック先生に渡すはずのものだったのではないのか、それがずっと気になっていたからだ。
 
「いや、お気になさらず。昔は私も父と同じテーマの研究をしていたものでしたが、途中から今のテーマに興味がわきまして、すっかりこちらが専門になってしまいました。」
 
「でもあのノートには、テーマにこだわらないいろんな調査や研究の結果が書き込まれていましたよ。」
 
「そうですね。父の悪い癖で、一つのことを研究している途中であちこちに気を取られるもんですから、確かに情報の量は多いんですが、ずいぶんと読みにくかったでしょう。まったく、その悪い癖を私も受け継いでしまったようで、このテーマを研究しつつ、あちこちに気を取られるものですからなかなか進みませんよ。」
 
「私もですよ。今では麻酔薬の他にいくつかテーマを抱えて、あっちをやったりこっちをやったりしています。」
 
「なるほど、やはり研究者などというものはどこも似たようなものなんでしょうかねぇ。そのノートは父がクロービス先生ならと見込んで託したものです。どうぞお持ちください。それが先生の研究に役立つなら何よりですよ。」
 
「そうでしたか・・・。それではあのノートはこのまま私がお預かりします。でももしもご覧になりたい時はいつでもおっしゃってください。」
 
「はい、その時はお世話になります。しかし残念ですなあ。先生を医師会にお迎えできれば、会長はすぐにでも設備の整った研究室と優秀な助手を手配してくれるでしょう。先生が地位や名声に興味を持たれない方だと言うのは理解していますが、ここでなら存分に研究を進めることができると思いますよ。」
 
「あら先生、それは困ります。私達の島の大事なお医者様なんですから。」
 
「お、そうでしたな。これは失礼しました。」
 
 イノージェンの言葉にマレック先生が笑った。
 
「お気遣いはうれしいのですが、もう島での暮らしと研究の環境に慣れてしまいましたからね。」
 
「そうですなあ・・・。先生が医師を志されたころならともかく、今になって環境を変えるというのは難しいでしょうからねぇ。歳を取るといろいろ億劫に・・・・いやこりゃ失礼。先生はまだまだお若いんでしたね。」
 
「ははは、私も昔からしたらずいぶんと面倒くさがりになってしまいましたよ。」
 
「マレック先生、こちらは準備が出来ましたが、買ってこないといけない食材がありますよ。どうしますか。」
 
 後ろの机で献立の準備をしていた助手が言った。
 
「お、そうだな。それじゃ買ってきてくれていいよ。これで頼む。」
 
 マレック先生は懐から財布を取り出し、中から紙幣を一枚抜いて渡した。
 
「領収書を忘れないでくれよ。あと何をどのくらい買ったのかもきちんとな。これも全部記録として残さなければならないんだから、大雑把にしないでくれよ。」
 
「一番大雑把なのは先生じゃないですか。」
 
 こんなやりとりはいつものことなのか、助手は笑いながら部屋を出て行った。
 
「さて、これで今日の昼と・・・そうですね・・・夜まではここで作って出す予定ですが、、今後の食事の提供については出来ればチェリルに頼みたいところなんですがどうしたものかと思いまして・・・。」
 
「チェリルのことですが、昨日本人と話をしたんですよ。」
 
 私はチェリルが仕事については何も言われていないことを話した。そして、これから先長い間食事の調理を頼むことを考えて、一度行政局に問い合わせをしてみようと考えていることも。
 
「そういうわけですので、私がこれから聞いてきますよ。問題なければすぐにでも手を借りることは出来ると思いますが、継続的にとなると少し難しそうですね。」
 
「そうですねぇ・・・。ただ、今回はクリフ1人のためのものですから、頼むとなればなんとかやりくりしてもらうよう、私もお願いしてきますよ。」
 
「診療所の厨房では対応出来ないんですか?」
 
「実を言いますとギリギリの人数でまわしているんです。人を雇うにもそれなりに予算は必要ですから、なかなか難しくて・・・。それで、他の病人と同じ食事が食べられない患者の食事を作る時だけ、私のほうからチェリルに頼んでいたんです。ですが、今回のクリフの治療で食事のほうも大事だと言うことの理解が広まれば、おそらくは厨房の予算も増やしてもらえるだろうと期待しているんですがね。」
 
「なるほど・・・。では王宮本館の厨房からは人を借りることは出来ないんですか?」
 
「あそこなら確かに人手がありますから、その点では問題ないかと思われますが、なんといってもあそこはフロリア様のお食事も作っている部署ですから・・・病人食の調理など頼んでいいものかどうか、判断がつかなくて頼んだことはないんですよ。まあ今回の場合は、会長を通して正式に依頼すれば何とかなるとは思うんですがねぇ。」
 
「それではまず、チェリルのことを聞いてくるついでに厨房から人をまわしてもらうことが可能かどうかだけ聞いてきましょう。さすがに医師会の予算を増やしてくれとは言えませんから。」
 
「はははは、そんなことまで先生にお願いしたりしたら、私が会長から叱られてしまいますよ。・・・うーむ・・・先生にこんな使い走りのようなことをお願いするのは心苦しいのですが・・・とにかく今は専門の知識を持った調理人が必要です。よろしくお願いします。問題ないようなら、私からドゥルーガー会長に頼んで、行政局に話を通してもらいますので。」
 
「とんでもない。今のところ、私だけがクリフの治療に役に立てずにいるのですから、このくらいのことならいつでも言ってください。」
 
「そんなことはありません。先生が執刀されると言うことで、若い医師達の間でも士気が上がっています。ではよろしくお願いします。」
 
 
 
 マレック先生の部屋を出て、執政館へと足を向けた。チェリルの雇用や厨房の仕事の割り振りは行政局の管轄だが、私がいきなり行って話を聞きたいと言っても、教えてもらえるかどうかわからない。まずはレイナック殿に頼んで、行政局の責任者に話を通してもらった方が話がスムーズにいきそうな気がする。
 
「そういえばこうして1人で執政館に行くのって初めてかもしれないな・・・。」
 
 今まではいつもオシニスさんと一緒だったし、1人で、あるいは妻と2人で行く時でも、誰かしらに呼ばれているとか言うことがほとんどだった。今日は誰とも約束しているわけでなく、私自身の用事で向かっている。もちろんこれから執務室を訪問したとして、レイナック殿がそこにいるのかどうかもわからない。
 
「・・・部屋の前の王国剣士に聞いてからにするか。」
 
 フロリア様からの書状は持っているから、私が王宮の中のどこでも出入り自由なことに変わりはないが、だからといって人が仕事をしている場所に入り込んで勝手に話を始めたりすれば迷惑がかかる。そんなことになれば私を応援してくれているフロリア様の立場を悪くし、ひいてはエリスティ公に付け入る隙をあたえてしまう。この場所では特に慎重に行動しなければならない。
 
 執務室の前に立っている王国剣士に、レイナック殿が在室かどうか尋ねた。
 
「レイナック様でしたら、ここの最上階にありますフロリア様の居室におられます。もしも御用のある方が来られたら、そちらを訪ねてくれとのことでした。」
 
「フロリア様の居室?」
 
「はい。フロリア様のご公務は先ほど午前の分が終わったのですが、ちょうどその時に剣士団長が来られまして・・・。」
 
 フロリア様の退出に合わせて、オシニスさんがレイナック殿に会いに来たので、みんなフロリア様の居室にいるとのことだった。
 
「わかった。ありがとう。」
 
 フロリア様の居室と言えばこの間行った場所だ。オシニスさんが来たと言うことは、もしかしたらリーザの一件だろうか・・・。
 
 
 フロリア様の居室についた。扉をノックして名を名乗ると、中から開けてくれたのはリーザだった。
 
「あらクロービス、どうしたの?」
 
「レイナック殿に用事があって来たんだけど、今は取り込み中かい?」
 
「うーん、これから取り込むかも知れないけど、今はまだ大丈夫よ。ちょっと待って。」
 
 リーザは中に戻り、程なくして中に入ってくれと言われた。今のリーザの言い方から察するに、やはりオシニスさんの用事はリーザのことだろう。
 
「何だクロービス、じいさんに用事とは珍しいな。」
 
「まあクロービス、いらっしゃい。レイナックに用事があるのですか?」
 
 フロリア様は笑顔で迎えてくれた。公務の間の休憩時間なせいか、今日はあのネックレスはしていない。ふと気づくと侍女達の姿も見えなかった。人払いをしたのかも知れない。
 
「はい、実は・・・。」
 
 私はチェリルの処遇について行政局の担当者と話したいことと、クリフの食事のためにもしも調理場から人を借りたいと申し込むことは可能かどうか聞いてみた。
 
「ふむ・・・行政局の人事部にタイラスと言う女性事務官がおる。その者がチェリルとローダに限らず、厨房についても人事の責任を負っているから、その者に話してみてくれぬか。わしのほうはまったく問題ないと言っていたと言うてくれて構わぬぞ。よし、ちょっと待っておれ。」
 
 レイナック殿は立ち上がって机の上に置かれた文箱から紙とペンを取り出し、何か書いた。
 
「ほれ、簡単な紹介状だ。行政局の窓口にいる受付の娘に渡せば、ちゃんと取り次いでもらえるだろう。」
 
「タイラスさんですね。わかりました。ありがとうございます。」
 
「クロービス、今ちょっとだけ時間をとれないか?」
 
 オシニスさんが言った。
 
「長くかからなければ構いませんよ。込み入った話になるなら、午後から時間をとりますが。」
 
「いや、そんなにかからないよ。午後からだとフロリア様に話を聞いていただくことが出来ないからな。」
 
「わかりました。」
 
 私は空いている椅子に座った。
 
「リーザ、さっき話したとおり、ライザーのかみさんがいま王宮に来ている。それで・・・」
 
 オシニスさんはイノージェンから聞いた話を、先代の男爵の『企み』だけを伏せて話した。リーザはイノージェンがこんなに早くやってくるとは思わなかったらしく、かなり戸惑っている。
 
「そういうわけだから、君が会いたいなら俺の部屋を貸してもいい。でも会いたくない、もしくは会う決心がまだ着かないというなら、その通りに返事をするが、どうだ?」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 リーザは黙り込んでしまった。
 
「ま、今いきなり聞いてすぐに答えを出すってのは難しいと思うがな・・・。」
 
「・・・す、すみません・・・。」
 
 リーザの不安が伝わってくる。
 
「いや、別にいいよ。もしも会う決心が着かないようなら、男爵に返したいって言う金は俺が預かってくるよ。」
 
「でも・・・本当に?ずっと送られてくるお金を・・・。」
 
「俺はそう聞いた。クロービスもその場にいたぞ。ただ、本当の本当かどうかは、君が直接確かめるしかないだろう。」
 
「だ、だけど・・・でも・・・どうして・・・。」
 
 男爵から送られていたお金を、イノージェンの母さんもイノージェン自身もまったく使わずに保管していたと言うことが信じられないらしい。
 
(いや・・・信じられないんじゃない。どうしてと聞くことで自分が出さなければならない答えを先延ばしにしているだけだな・・・。)
 
 本当かどうかなんてオシニスさんに何度聞いたところで答えは出ない。今のリーザは出ないとわかっている答えを考えるふりをして、『会うか会わないか』の答えを出すことから目を背けている・・・。
 
「リーザ、少し考えてから結論を出すってことでいいんじゃないかな。私もこんなに早くイノージェンが来るとは思っていなかったから、少し驚いているくらいだしね・・・。」
 
「どうして1人で来たのかしら。ライザーさんが一緒だったら・・・。」
 
「ライザーさんが一緒だとしても、このことについてはおそらく口を出さないと思うな。」
 
「それは・・・そうなんだけど・・・。」
 
「今オシニスさんが言った通り、イノージェンは君のお父さんにお金を返したいと思ってる。そして、もしも本当に長くなくて、死ぬ前に一目会いたいというならその願いも叶えたい。それだけなんだよ。だけど、今の君は会うか会わないかの決断を下す前から『会わなくてすむ理由』を考えているみたいに見える。それなら今回は無理に会わないほうがいいかもしれないね。」
 
 リーザは赤くなってうつむいてしまった。
 
「そうだなあ・・・。決心が着かないまま顔を合わせて、ライザーのかみさんとリーザがお互いに悪い印象を持つようなことになるなら、会わないほうがいいとは思うな。」
 
 リーザはしばらく考えていたが、大きくため息をついた。
 
「ごめんなさい、クロービス・・・。覚悟していたつもりだったんだけど・・・。」
 
「私に謝る必要はないよ。前も言ったけど、私にとっては君もイノージェン大事な友達なんだ。お互いが納得して会ってほしいからね。」
 
「・・・そうね・・・。オシニスさん、すみません。明日まで待ってください。明日には必ず返事をします。フロリア様、今日の夕方、少しだけ時間をください。出掛けてきたいんです。」
 
「構いませんよ。ゆっくり考えて、一番いい答えを出せるといいですね。」
 
「はい・・・。」
 
(ハディに会うんだろうな・・・。いいアドバイスをしてくれるといいけど・・・。)
 
「よし、それじゃクロービス、ライザーのかみさんにちゃんとした返事は明日ってことだけ伝えておいてくれ。」
 
「わかりました。それでは私は行政局に行ってみます。タイラスさんでしたね。若い方なんですか?」
 
「年は俺と違わないよ。俺とライザーが執政館の警備に就くようになった頃に司法局に入ってきたんだ。牢獄の審問官の手伝いをしていたりしたこともあって、時々話すようになったんだ。タイラスって聞くより、名前の方のサスキアで聞いた方がわかりやすいかもな。なかなか男前な奴だぞ。」
 
「オシニスさんのお知り合いでしたか。・・・え?女性じゃないんですか?」
 
「いや、女は女だ。」
 
 オシニスさんが笑っている。
 
「うーん、セルーネさんみたいな?」
 
「言葉遣いと見た目は普通に女だが、印象としてはあんな感じかもなあ。まあ感じが悪いってことはないはずだ。俺もチェリルのことは気になってるから、少し話を聞いてきてくれよ。」
 
「わかりました。では皆さん、失礼します。」
 
「クロービス、クリフのこと、よろしく頼みましたよ。」
 
「はい、全力を尽くします。」
 
 クリフの手術を私が執刀することを、フロリア様もご存じなのか・・・。誰もがクリフの快復を願っている。
 
「ライザーさんの話は出来なかったけど・・・まずはイノージェンに話を聞くか・・・。」
 
 少なくとも、今のリーザに聞かせたい話じゃない。それにどうしても宿を引き払わなければならないような出来事が本当にあったのか、それをイノージェンに確認することが先だ。
 
 
 行政局は執政館の奥にある。この国で法律を決めるのは御前会議の大臣達だが、そこで決められた法律を実際に施行するのが行政局だ。一番人が多いので使っている場所もかなり広い。
 
「ここか・・・。」
 
 行政局の入口は常に開いているらしい。一般の市民もかなりの数来ていた。ここは市民生活に直結する様々な窓口になっているのだ。
 
「失礼ですが・・・何かの陳情でしょうか、それとも申請ですか?手続きによって窓口が違いますのでご案内いたします。」
 
 受付にいた若い女性が立ち上がって声をかけてくれた。私は自分の用件を伝えて先ほどレイナック殿から預かった紹介状を渡し、タイラス事務官に今会えるかどうかを尋ねた。
 
「まあ、あなた様があのご高名な・・・。人事とおっしゃいますと、サスキアさんのほうでよろしいのですね?」
 
「他にもタイラス事務官という方がいらっしゃるんですか?」
 
「はい、ご主人もここの事務官なのです。部署が違いますけど。お待ちください。今伺って参ります。」
 
 受付の女性は程なくして戻ってきた。
 
「事務官の部屋まで案内するように仰せつかって参りました。こちらです。」
 
 受付の女性について、私は行政局の奥の方へと入っていった。
 
「こちらです、どうぞ。」
 
 ずらりと扉が並んだ廊下の一角で受付の女性は立ち止まり、ノックをして扉を開けた。中に入ると、女性事務官の制服を着た・・・確かに印象としてはセルーネさんのような感じがした。もちろん着ている服はスカートだったのだけれど・・・。
 
「クロービス先生ですね、ご高名はうかがっております。私は事務官のサスキア・タイラスと申します。」
 
 背筋をピンと伸ばしたタイラス事務官が頭を下げた。私も名を名乗り、先ほど受付の女性に話したことをもう少し詳しく話した。
 
「チェリルさんのことですか・・・。実を申しますと、こちらでもどうしたものかと思案しているのです。」
 
「どういうことですか?」
 
「結論から申し上げますと、チェリルさんに医師会から仕事を頼むということについては、今までどおりで問題はありません。今のところチェリルさんの仕事については、このまま継続して雇用していくということになっています。確かに先日の一件以来監視がついていますが、それは別にいつも動向を見張っていると言うことではないんです。ただ、外出する時などに必ず届け出をしないと出掛けられないとか、そういうことですから。ですが、そういった処遇について異を唱える者がいないわけではありません。」
 
「つまり・・・悪いことをしたのだからやめさせろ、そういうことですか?」
 
「単純に申し上げればそういうことになります。」
 
「でも事務官殿はそうお考えではないということですよね?」
 
「もちろんですわ。チェリルさんが関わっていたらしい騒動ですが、先生は被害者でしたわね。」
 
「そうですね。もっとも怪我をしてすぐに治してもらいましたから、それほど大変な目に遭ったという意識はないんですが。」
 
「ええ、そのことも伺っております。若い王国剣士が呪文と気功で見事に先生を救ったということでしたね。王国剣士はこの国の守りの要です。若い剣士達のほとんどが宿舎で寝泊りし、食事も食堂でとっています。宿舎はそれぞれ住んでいる剣士達が掃除をしたり時には簡単な修理をしたりして丁寧に使用していくことになっていますが、食事となると当番や持ち回りでどうにかなるものではありません。」
 
「おっしゃるとおりです。私も王国剣士だったころには、あの食堂の食事をおいしくいただいてましたよ。そのころはまた別な方が食事を作ってくださってましたが。」
 
 タイラス事務官がくすりと笑った。
 
「あ、あら、申し訳ございません。実を申しますと、先生が王国剣士になられたころに、やっと新人が4人に増えたと今の剣士団長と相方のライザーから話を聞いたことがあるものですから。とても物静かな性格らしいから、あまりよけいなことを言わないようにと、ライザーがオシニスにくどくど言っていたものですのよ。」
 
「・・・私のことをご存知だったのですか・・・。」
 
「ええ、それに牢獄に泥棒を連行してこられた時に、何度かお見かけしていますわ。もっとも私の仕事場はまた別なところでしたから、こうしてお会いするのは初めてですが。」
 
「そうでしたか・・・。」
 
「話をそらして申し訳ございません。剣士団の食堂についてですが、そういうわけですから、調理人の人選には気を使っております。」
 
 その後タイラス事務官が説明してくれたところに寄ると、王宮の厨房で働く人達の人選については、料理上手はもちろんのこと、その仕事に誇りを持って、愛情をこめておいしい食事を提供してくれる、そんな人材を選んでいるつもりだということだ。確かに、ローダさんもチェリルも、そしてロイスシェフも、その条件にぴたりと当てはまる素晴らしい人材だと思う。
 
「それに、もしも今回の騒動で、チェリルさんが悪意を持って敵に与したということが証明されたならともかく、いくら調べてもそういった事実は見つからなかったと聞いております。それなのに取調べを受けたというだけのことで、チェリルさんを解雇してしまうのはあまりに短絡的だと私は思うのです。チェリルさんは若くてかわいらしく、男女を問わず王国剣士達に人気者だと伺っております。そういう方を一方的に解雇したりすれば、たとえ後任の調理人がチェリルさんをしのぐ腕前だとしても、王国剣士達の士気は下がってしまう、私はそう考えたのです。」
 
「それは確かにそうですね。私も先日食堂で食事をしましたが、とてもおいしい食事でしたよ。邪な心を持つ人間に、あんなに愛情のこもったおいしい食事は作れないんじゃないかと思いましたからね。」
 
 タイラス事務官はうれしそうにうなずいた。
 
「チェリルさんの件については、本当ならすぐにでも本人にこのことを伝えて、なおいっそう仕事に打ち込んでいただける環境を作るのも私達の仕事ではあるのですが・・・。」
 
「肝心の騒動の行方が不透明なので、はっきりとした答えを出せない、そんなところでしょうか。」
 
「おっしゃるとおりです。剣士団長を煽って早く解決しろと言いたいところですが・・・どうやらその剣士団長の身辺もだいぶ賑やかなようですし、あまり煽り立てるのも気が引けまして・・・。」
 
 タイラス事務官が肩をすくめた。ここでもオシニスさんのことが噂になっているらしい。もっとも医師会にまで伝わっていたのだから、当然ここにも伝わっていておかしくないか・・・。
 
「ではもしも差し支えなければ、私のほうからチェリルに今の話をしてみましょうか?まあ今までどおりに仕事をしていていいという話くらいは、伝えても問題ないような気がするのですが、いかがでしょう。」
 
「でも先生にそんな使い走りのようなことをお願いするわけには・・・。」
 
「構いませんよ。チェリルも気にしていたようですし、仕事の先行きがある程度見渡せるようになれば、こちらとしても仕事を頼みやすいですからね。」
 
「わかりました。それではよろしくお願いします。もしもそのほかに聞きたいことがあるようなら、遠慮なく私を訪ねてくれと伝えていただいてよろしいでしょうか。」
 
「それも伝えておきます。ところで事務官殿、チェリルの件はこれで何とかなりそうですが、もう一つお願いした執政館の厨房から人を借りるという件はどうでしょう。」
 
「そちらは問題ありません。依頼される時には医師会として正式に厨房の管理人であるロイスシェフに依頼してください。人事についてはこちらの管轄とはいえ、実際に現場で指揮を執っているのはロイスシェフですから。私のほうから話は通しておきますので。」
 
「わかりました。ありがとうございます。」
 
「それと、次においでになるときには、タイラスよりも名前のサスキアで受付に話してくださると、早いかもしれませんわ。今日の受付はたまたま私のほうだと気づいてくれたようですが、時々間違えて夫のほうに話を通してしまう者もいるものですから。」
 
「オシニスさんも言ってましたよ。お名前のほうがわかりやすいって。それでは次回からはサスキアさんのお名前で伺うようにします。」
 
 
 私はその足でまっすぐ剣士団宿舎の厨房へと行った。もう昼の仕込が始まっている時間だが、仕事の事についてだけは話しておこうと思ったのだ。カウンターから声をかけて、チェリルとローダさんに話をすると、2人ともとても喜んだ。
 
「よーし、それじゃ腕によりをかけておいしいものを作らなきゃ!」
 
 チェリルは大張り切りだ。私はいずれマレック先生から仕事の依頼が来ると思うから、その時には対応してくれるようにも頼んでおいた。チェリルとしてもラエルのことではずいぶんと後悔している、せめてクリフの病気が少しでもよくなるように手伝えるならと、笑顔で請け合ってくれた。
 
「これで、こっちは問題なしと。あとはマレック先生に話しておけばいいか。」
 
 マレック先生の部屋に戻り、事の次第を話した。
 
「おお、それではどちらも解決しましたか。いやありがたい。ではさっそく、会長を通じて正式に依頼することにします。もっともその前に、どの程度の人手が必要なのかをきちんと考えておかないと。」
 
「クリフの分についてはチェリル1人で何とかなりそうですね。」
 
「そうですね。以前時々頼んでいたように、お願いしてみます。もしも大変なようでしたら、厨房からも応援を頼むと言う形であたりたいと考えています。」
 
 それからしばらく、今後のクリフの献立についてどういう形で進めていくかの打ち合わせをした。しばらくして先ほど買い物に出た助手が戻ってきたので、今度は献立の調理にかかるという。そう言えばそろそろお昼になる。私達は一旦出て、妻とイノージェンが午後からまた手伝うことになった。妻の方はクリフのマッサージも午後からあるらしい。痛みや睡眠の状況を見ながら、あと1回くらいはマッサージをする予定だとのことだった。
 
「それでは午後からまた伺います。」
 
 マレック先生の部屋を出て、イルサのいる図書室に向かうことになった。
 
「お昼はどうするの?」
 
 歩きながら妻がイノージェンに尋ねた。
 
「ライラとイルサがお気に入りのお店に連れて行ってくれるって。」
 
「それじゃ私も一緒に行こうかな。いい?」
 
「もちろんよ。いいどころか、クロービスもウィローも一緒に誘うつもりのような話だったわよ。」
 
「それじゃ一緒に行くよ。」
 
 多分行き先はセーラズカフェだろう。今ではあの店は、イルサにとっても居心地のいいお気に入りの店になっている。普段は紅茶が好きだというイルサだが、あの店でだけはコーヒーをおいしそうに飲んでいる。以前行った時にも『ここのコーヒーはすごくおいしいと思うわ。このお店に来て紅茶を頼む気にはなれないわねぇ。』と言っていたほどだ。午後からはオシニスさんの手伝いと、なんとしても昔話の続きを話したい。そして、海鳴りの祠でオシニスさんがカインに何を言ったのか、それも教えてもらわなければならない。その話をしてくれと頼んだ時、オシニスさんは言いたくなさそうだった。その理由が、そのせいでカインが死に急ぐことになったのではないかという不安だけではなく、私自身にも聞かせたくない、そう思っているのではないか。なんとなくだが、何かそんな理由があるような気がする。
 
「あ、クロービス先生。」
 
 廊下で声をかけてきたのは医師見習いの青年だった。確か名前はライロフと言ったはずだ。
 
「先生、ハインツ先生がお呼びなんですが今お時間は・・・。」
 
「ああいいよ。行こうか。」
 
「それじゃクロービス、私はイノージェンと一緒に先に行ってるわ。ライラとイルサを迎えに行って、それから出るから。」
 
「わかった。それじゃおすすめとコーヒーでよろしくってライラに言っておいて。」
 
「ふふ、言っておくわ。」
 
 妻達と別れて、ライロフと一緒にクリフの病室へと向かった。
 
「クリフの様子はどうだい?」
 
「先ほどお母さんと話をしてから、なんだか明るくなった気がしますよ。やはりご家族のお見舞いがもう少し頻繁にほしいところですねぇ。・・・あ、いや、もちろん皆さんの手厚い治療があれば・・・。」
 
 なぜかライロフが口ごもった。
 
「いや、君が言うとおりだよ。親しい友人や家族の見舞いって言うのはね、病人にとって何よりの薬なんだよ。どんな最先端の治療も、患者本人の生きようという意欲がなければその効果は半減してしまう。クリフが明るくなれたのはいいことだね。」
 
「やっぱり精神的なものって馬鹿に出来ないですよね・・・。」
 
「もちろん。誰かに何か言われたのかい?」
 
「は、はい・・・僕の医学院での友達で、今は城下町にある診療所の跡取りとして働いている友達に言われまして・・・。精神的なものなんて当てにならないけど、薬や手術を適切に施せば、患者は絶対によくなるんだからって・・・。」
 
「君は医学院を出てどのくらいになるんだい?」
 
「もう3年です。僕は最初看護士を目指していたので、入るのも遅かったんですよ。だからもうすぐ30になるって言うのに未だに見習いなんです。その友達は僕より少し若いんですけど、ちゃんと国家試験にも合格して、今ではお父さんと一緒に医者として立派にやってます。そう言う奴に言われると、僕の考えなんてなんだか全部間違ってるような気がして・・・。」
 
「適切な治療というのは当たり前の大前提となるものだからね。そのほかに、おいしくて栄養のある食事、家族や友人の暖かい励まし、そういうものを馬鹿には出来ないよ。これから先一人前の医師になるために勉強を続ける中で、そういうものを研究テーマとして考えてみるのもいいかもしれないよ。」
 
「研究テーマですか・・・。そこまではなかなか考えられないです。国家試験にも合格出来ないですからね・・・ははは・・・。」
 
 ライロフが頭をかいた。
 
「次の試験はいつなんだい?」
 
「今年の冬に受ける予定です。机の上で学ぶだけでは限界な気がして、ここで見習いとして働かせてもらいながら勉強しているんです。」
 
「実際に医師として仕事をするようになれば、紙の上での理論だけではなかなか難しい局面にしょっちゅうぶつかるよ。ここで現場の仕事を学べるというのは何よりじゃないか。見習いだということを気にしないで、もっと堂々としていていいと思うよ。」
 
「はい、ありがとうございます。」
 
「あ、そう言えば。」
 
 先日リハビリをする患者に付き添っていた看護婦が患者の妹であり、彼女が今は看護婦で、いずれ医師として身を立てたいと考えていることを話した。
 
「あの女の子が・・・。でもまだ随分若いですよね。」
 
「16歳だよ。君にとってはまだ子供にしか見えないだろうけど、ローランの診療所では看護婦達のリーダー的存在で、患者達にも人気があるらしい。君は看護士から医師を目指したと言うことだから、彼女に何か助言出来ることもあるかも知れない。もしも話す機会があるようなら、話を聞いてあげてはどうだい?」
 
「うーん・・・僕では役に立たないような気も・・・」
 
「君はどうも自分に自信が持てないようだね。今まで勉強してきたことは、君の中に確かに蓄積されているんだから、もっと自信を持ってもいいと思うよ。」
 
「そ、そうですね・・・。」
 
 首をかしげるライロフの姿を見て、ふと、昔オシニスさんに良く言われていた言葉を思い出した。
 
『自惚れるのは論外だが、自分が今どの程度の実力なのかくらいはちゃんと把握しておけ。』
 
 あの言葉が、今ではよく理解出来る。
 
 
 
 クリフの病室に戻ると、ハインツ先生からさっそく紙の束が渡された。昨日の分のクリフの治療記録だ。
 
「今週一週間は手術の日程を決める上で大事な週ですから、こうして毎日渡すようにします。追い立てるみたいで申し訳ないんですがね。」
 
「とんでもない。ありがたいです。今日も順調なようですね。」
 
「ええ。まあ、順調じゃないのはゴードのマッサージくらいでしょうな。」
 
「ハインツ先生・・・そう言わないでくださいよ・・・。はぁ・・・ずいぶん練習したつもりだったんですが、まだまだどころか、まだまだまだまだですよ・・・。よーく自覚してますから・・・。」
 
 ゴード先生が頭をかいた。おそらく必要以上に緊張してしまったのだろう。
 
「これからはずっとゴード先生がマッサージをされるんですか。」
 
「まずは私がやるようにと、奥さんから指示が出ましたよ・・・。」
 
「でもウィローさんのおっしゃることは筋が通っていましたよ。医師会で医療技術として認めてもらおうというなら、まずは第一人者としての責任を果たすべきではないかとね。確かに、先生ご夫婦は元々祭り見物にいらしたわけですから、いつまでも手を当てにしていてはいけないですからね。」
 
「クリフの手術が終わってもすぐにここを離れるわけではないですが、いつまでもいられるわけでもありませんからね。この先マッサージや整体が医療技術として認められれば、ゴード先生の背負う責任は今とは比べ物にならないくらい大きくなるでしょう。それから技術を磨いて、というのでは遅すぎます。疑問なところがあれば、妻でも私でも何でも聞いてください。出来る限りの協力はします。」
 
 
 
 クリフの病室を出て、セーラズカフェへと向かうべく私は商業地区への道を曲がった。今日はパレードの日ではないようだが、パレードなどあってもなくてもこの地区の混雑は変わりない。
 
「裏通りを行くか・・・。」
 
 この町の裏通りを歩くと、たいてい何かしらの騒動に巻き込まれたものだが、今日はさすがにそんなことはないだろう。商業地区の北側の道をたどり、途中から南に曲がって道なりに進めば、セーラズカフェの通りに出られるはずだったのだが・・・
 
 
「うーん、迷ったかな・・・。」
 
 普段通らない道なんて、やっぱり通るものじゃないと考えたのはすでに迷ってしまってからだ。
 
「困ったな・・・。」
 
 まだ昼になったばかりだから、妻達は今頃セーラズカフェに着いたくらいだろう。とは言え、いつまでもこのあたりをうろうろしていたのではせっかくのおいしい食事を食べ損なってしまう。しばらく歩き続けているうちに、城壁の近くまで来てしまっていることに気づいた。
 
「こんなところまで来てたのか・・・。それじゃセーラズカフェの道を通り過ぎちゃったんだな・・・。」
 
 さてどうしようか。どっちに行けばセーラズカフェの前に出られるのだろう。きょろきょろしている私の耳に、突然言い争う声が聞こえてきた。
 
「何するの!離してよ!」
 
「離すもんですか!あんた何考えてんのよ!」
 
 どうやら私は、また騒動に出くわしたらしい。

第82章へ続く

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