小説TOPへ 第71章〜第80章のページへ ←前ページへ

「・・・落ち着いたか?」
 
 オシニスさんが覗き込んだ。口を開けばまた涙が出そうで、私は黙ってうなずいた。
 
「それじゃ、お茶でも飲めよ。このお茶は本当に香りがいいな。あとでセルーネさんにどこで買えるか聞いてみるか。」
 
 レンディール家から届けられたというそのお茶の香りが部屋中を満たした。この香りは心を落ち着かせてくれるのかも知れない。
 
「ありがとうございました。」
 
 やっと声が出た。もしもさっき1人でいたら、何をしていたかわからない。私はそれほど取り乱していた。
 
「俺は何もしちゃいないさ。このお茶だって・・・どうも自分で入れるとあんまりうまくないな。これじゃじいさんに笑われそうだ。」
 
「そんなことないです。おいしいですよ。」
 
 私を元気づけようとオシニスさんが淹れてくれたお茶だ。本当においしいと思った。
 
「ま、お前にとっちゃ、こんな時に一番いてほしいのはウィローだろうがな。ウィローがいるのがクリフの病室でなくて、治療しているわけでもないなら俺だって止めなかったが、事情が事情だ。俺で我慢してくれ。」
 
「いえ・・・。さっき私は自分のことしか考えていませんでした。ここに連れてきてくれて、感謝しています。」
 
 さっきのランドさんの驚きようで、自分がどんな顔をしていたのかは想像がついた。そんな顔のままクリフの病室に行ったりしたら、妻は心配して治療どころではなくなってしまう。妻は今自分の仕事をしている。私がそれを邪魔してはいけないはずなのに、さっきの私はそんなことも考えが及ばないほど、頭の中が真っ白になっていた。そんな状態の私をウィローの元に行かせてはよくないと、オシニスさんは冷静に判断してくれた。
 
「治療が終わるまでにはまだ時間があるからな。迎えに行くにしてもその顔じゃ、みんなにびっくりされちまうだろう。もうしばらく休んでおけよ。」
 
「お言葉に甘えます。少し頭を整理しないと、何が何だか・・・。」
 
「あんな話を聞いたあと、何事もなかったように冷静でいられる方が不思議だ。しかし、レグスの話が飛んでもない方向に転がっちまったもんだな・・・。」
 
「そうですね・・・。でも、聞けてよかったです。今までわからなかったことが、やっといろいろとわかりました。」
 
「納得は出来たのか?」
 
「ブロムさんも父も、私には何も教えてくれませんでした。父は未完の薬のことは日記に書いていたけど、それより以前のことは何一つ記録にも残していないんです。なんだかパズルのピースがあちこちが抜けているような、そんなもどかしい思いをずっとしていたけど、それがはっきりとした、その点では納得出来ました。ただ、濡れ衣を着せられたまま亡くなったのだと思うと・・・。」
 
「そうか・・・。出来るなら親父さんの名誉を回復したいところだろうが、さすがにそれは難しいしな・・・。」
 
「そうですね・・・。麻酔薬の研究が元々医師会で始めたことだなんて、知っているのはごく一部の人達でしょう。表沙汰になれば医師会の信用が失墜するでしょうし、迂闊に父の名を出せば、そのあとに起きたことまで詮索されかねませんからね・・・。」
 
 だからおじさんは私を開発者として申請することにこだわっていたのだし、ドゥルーガー会長は開発者の名前が私であったことに安堵したことだろう。そうでなければ、麻酔薬の実用化など今だって実現していなかったかも知れない。
 
「少なくとも、ローランのデンゼル先生あたりは覚えていそうだよなあ・・・。確かすぐ近くに住んでいてお前の親父さんとも交流があったんだよな?」
 
「ええ。それに、小さかった私の病気を治すために手術をしてくれたのは、デンゼル先生です。その手術代がどこから出たのか、そのあたりを詮索されたりすれば、この国がひっくり返る可能性だって充分にあるんですから。」
 
「・・・そうだったな・・・。」
 
 オシニスさんは渋い顔で黙り込んだ。父は私の手術のために、未完の薬を売り渡した。それを買ったのが誰なのか、そしてそれがどんなことに使われたのか、それが外部にもれれば、大変なことになる。だから、父と自分の名を出すなというブロムおじさんの判断は正しかったのだ。とは言え、あの時はどうしようもなく悔しかった。それでも私が自分の名前だけで報告書を出すことに同意したのは、父の望みは麻酔薬の完成と普及であって、自分の名前が広く知れ渡り名声を得ることではないと考えたからだ。その考えは間違っていなかったと、今でも思っているが、父が濡れ衣を着せられたまま亡くなったと聞いてしまっては、悔しくてやりきれない。でも、私が自分の感情だけで騒ぎ立てることが出来ないことも理解しているつもりだ。
 
「お前も俺も、昔からするとずいぶんと立場が変わっちまったもんだなあ・・・。昔なら、すぐにでもお前を引っ張ってじいさんかフロリア様のところに駆け込んでいただろうな。まずは親父さんの名誉を回復するべきだ!ってな・・・。」
 
「・・・・・・・・。」
 
「もっとも、お前がフロリア様に願い出れば、おそらく今からだってその願いは叶うと思うぞ。」
 
「でもオシニスさんが反対するんじゃないですか?レイナック殿だってはいそうですかとは言わないでしょう。」
 
「・・・反対はしたくないが、迷うかも知れないな・・・。俺は剣士団長として、この国の防衛を担っている。お前には世話になっているし、何より濡れ衣を着せられたまま亡くなったお前の親父さんが気の毒だと思うが・・・感情だけで突っ走るようなことは、さすがにもう出来ないからな・・・。」
 
「父だってそんなことは望んでいないと思います。」
 
 だからあの時・・・父は黙ってこの世を去ったのだ。最後まですべて自分の胸に納めたまま・・・。
 
「まったく、剣士団長なんて言うのも窮屈なもんだ。毎日書類仕事ばかりでちっとも外に出られやしないし、昔なじみが困っていてもすぐに手を差しのべることさえなかなか出来ない・・・。レグスとの間にまで、いつの間にか距離が出来ちまった・・・。」
 
「サラさんが言ってましたけど、昔はずいぶんとやんちゃだったようですね。」
 
「ははは・・・まあな。サラとレグスと、あと何人かいたんだが、みんなしてバカばっかりやっていたよ。犯罪に手を染めたことはないが、弱い者いじめをする奴らが許せなくて、しょっちゅう町でケンカをしていたんだ。王国剣士に襟首をつかまれてゲンコツを食らったのは、一度や二度じゃないな。」
 
「どのくらい前の話なんですか?」
 
「うーん・・・もう30年近く前かなあ。いっぱしの正義の味方を気取っていたが、いくら弱い者いじめをしていた奴らとは言っても、怪我を負わせたことも数え切れない。そのたびに親父が相手の家に出掛けて謝ったり、俺も引き摺って行かれてむりやり頭を下げさせられたこともあったが・・・。それでまたイライラして、何かはけ口がほしくなってまた暴れるの繰り返しさ。あのころはそんな形でしか自分を静めることが出来なかったんだろうな。それで親父が見かねて、知り合いの剣術指南に面倒を見てやってくれと頼み込んだんだ。」
 
「そうしたら、思いもかけず剣がおもしろくなってしまったとか?」
 
 オシニスさんが笑った。
 
「そういうことさ。それまではケンカと言ったらこぶしでの殴り合い、つかみ合いだ。とにかく力の強い方が勝つもんだが、真剣の立合でそんなことをしたら怪我どころですまなくなる。剣を使うには頭も必要だと言われたんだが、それがなかなか理解出来なくて、悔しくてなあ。とにかく練習あるのみだって言うんで必死で稽古をしていたんだが、不思議なことにどんどん剣がおもしろくなってきたんだ。で、ハッと気づけば俺はサラに愛想を尽かされていたってわけさ。まあずいぶんと長いことほっといちまっていたから、仕方ないんだけどな。」
 
「でもそのあとも恋人とかはいたんでしょう?」
 
「・・・おい、なんで話がそっちに行くんだよ。」
 
「別にオシニスさんをからかおうって言うんじゃありませんよ。ただ、さっき言っていたじゃないですか。どんな時にもそばにいてくれる誰かがいるってのはいいって。」
 
「ああ、そうだな。それが俺の昔の女の話とどう繋がるんだよ。」
 
「オシニスさんは、考えたことはないんですか?」
 
「何をだ?」
 
「どんな時にもそばにいてくれる相手がいたらいいのにって、思ったことはないんですか?」
 
「俺が?何でまたそんな話に・・・」
 
「さっきドゥルーガー会長から父とブロムさんの話を聞いたとき、正直言ってもう何も考えられないくらいウィローの顔を見たかったんですよ。情けない話ですが、自分でもどうしていいかわからなくて、ウィローの顔さえ見られたら落ち着けるかも知れないなんて、さっきの私は本当にそれ以外何も考えていなかったんです。でも、ウィローは今クリフの治療にあたっているんです。それでも行きたいなんてのは、私のわがままです。それを察して、オシニスさんは私をここに連れてきてくれて、ずっといてくれたじゃないですか。本当に感謝してるんです。なのに当のオシニスさんのそばには誰もいないじゃないですか。いつだって何もかも一人で抱え込んでいるみたいで・・・だから、オシニスさんはそう言う人がいてくれたらって、考えたことはないのかなって。」
 
「うーん・・・わかるようなわからないような理屈だが・・・。」
 
 オシニスさんは困ったような顔で腕を組み、首をかしげた。今はとにかく何でもいいから話をしていたかった。黙っていればまた父やおじさんのことばかり考えてしまう。涙で腫れ上がった顔を落ち着かせるためにも、今は頭の中を何かほかのことでいっぱいにしていたかった。
 
「女とばかりは限らないと思うけどな。俺にとっちゃライザーは今でもそうだ。単に近くにいないから、そんな状況にならないというだけのことさ。」
 
「近くにいないなら、近くにいる誰かをっていうのは?」
 
「いやにしつこいな。」
 
 オシニスさんが笑った。でもなんだかとても穏やかな笑みだ。そしてこの部屋の空気も静かで心地よい。さっきより、自分がかなり落ち着いてきたことに気づいた。でも、まだしばらくこのまま話をしよう。今日のオシニスさんはとても素直に話をしてくれる。
 
(素直ですねなんて言ったら怒られるだろうけどな・・・。)
 
「だって近くにライザーさんがいない以上、他にそう言う人がほしいなって思うのは自然なことじゃないですか。でも親友なんてそう簡単に出来るもんじゃないし、そうなると、やっぱり好きな女性がそう言う相手だったらって、思うもんじゃないんですか。」
 
「まあそりゃそうだが・・・だが好きな女だってそうほいほい出来るもんでもないだろう。だいたいお前はずっとウィロー一筋なんじゃないのか?」
 
「・・・痛いところをつきますね。」
 
「はっはっは!お返しだ。」
 
 オシニスさんは笑ったが、ふいに少しだけさびしげな顔になった。
 
「・・・ずっと昔は、この人がそうだったらいいのにと、考えたこともあったんだがな・・・。」
 
「・・・フロリア様のことですか?」
 
「ふふふ・・・まあな・・・。」
 
 すんなりと答が返ってきて、少し面食らった。
 
「前みたいに怒らないんですね。」
 
「泣き腫らした顔の奴に質問されて、怒鳴り返す気にはならんさ。」
 
「まだ腫れてますか?」
 
 オシニスさんは私の顔を覗き込んで、くすりと笑った。
 
「さっきよりはだいぶましになってきたな。」
 
「・・・それじゃ、もう少し話をしませんか。」
 
「そうだな。なんだか俺も、今日はいろいろと話をしたい気分なんだ。・・・たまには誰かに聞いてもらうのも悪くないだろう。誰でもってわけには行かないが、お前なら他にもれる心配もないしな。」
 
「信用してもらえてうれしいですよ。昔って、いつの話です?剣士団に入られてからのことですよね?」
 
「ああ。そうだなあ・・・。あれは俺が入団して・・・2年目くらいのことだったかな・・・。そのころフロリア様は、よく中庭に出て来て俺達としゃべったりしていたんだ。あの頃は王宮全体が賑やかだったような気がするな。ま、ハリーとキャラハンが入団してきた頃の話だから、あいつらが騒動を巻き起こしていたと言うことも言えるわけだが・・・。」
 
 そう言ってオシニスさんが話してくれたのは、レイナック殿やフロリア様から聞いたのと同じ、猫の話だった。
 
「・・・入団して、謁見したときに初めて間近で顔を見て、ああ、このお方は俺達とそんなに年の違わない女の子だけど、雲の上の国王陛下なんだよな、なんて思ったもんだが、中庭で猫を抱いておしゃべりをする姿は、雲の上の住人ではなく、俺達とどこも違わない普通の女の子そのものだった。猫が甘えてくると言ってははしゃいで笑って、猫の食欲がないと言ってはしょんぼりして、くるくる変わる表情があんまりかわいくて・・・いつだったか、うっかり頭を撫でちまってなあ・・・焦ったこともあったっけな。」
 
 オシニスさんが少し照れくさそうに笑った。なんとも微笑ましい光景だ。フロリア様はそこまでは言わなかったが、きっと2人の間には何か通じるものがあったのではないだろうか。
 
「あのころは・・・このお方がずっと自分のそばにいてくれたら、なんてことを考えたかも知れないな・・・。あの笑顔をいつでも身近に見られるなら、どれほどうれしかったことかと・・・。」
 
 オシニスさんの声が途切れ、小さな溜息が聞こえた。
 
「あのまま時が止まってしまえばよかったんだ。そうすれば・・・あの笑顔がフロリア様のすべてではないなんて、気づかなくてすんだのにな・・・。」
 
 オシニスさんの声が暗くなる。フロリア様が言われていたとおり、この人は誰よりも早く、フロリア様の異変に気づいていたのだ。
 
「あの笑顔がフロリア様の本当の顔ではなかったのか、次々と下される無慈悲な決定こそがフロリア様の本性なのかと、ずいぶんと悩んだものだが・・・」
 
 それでもオシニスさんは王国を取ると決めた・・・。愛する人を敵に回すことになっても・・・。
 
「王国を取ると決めてからも、嫌いになるどころかますます惹かれていく自分がいた。そしてその心が、フロリア様を信じたがっているんだ。あのお方がそんなことをなさるはずがない、それは何かの間違いなんだと・・・。だが、猫の亡骸を埋めたとき、せいせいした顔でほくそ笑んでいたフロリア様の顔だけはどうしても忘れることが出来なかった。あの時の、ぞっとするほど冷たい瞳を思い出すたび、それがただの独りよがりであることを思い知らされた・・・。あれがフロリア様の本当の姿なら、誰が何をどうしようとも、この国の未来はない、そう考えるしかなかった・・・。」
 
「やっぱり、フロリア様の異変についてご存知だったんですね・・・。」
 
「海鳴りの祠で聞かれたな。あの時はさすがに本当のことは言えなかったが。」
 
「そのお気持ちはわかります。それに、たとえ聞いても私もカインも信じなかったと思います。」
 
「そうだろうな・・・。あの時、ひたすらにフロリア様を信じているカインが心配になった。だが、そんな話をあの時のあいつにしたところで、信じるはずがない。しかもあいつは、フロリア様を元に戻すつもりでいた。その『元』というのは、あいつにとってはお優しいフロリア様だ。だが・・・それが本当のフロリア様だなんて誰にわかる?あの笑顔のほうが仮面だったのかも知れないのに。」
 
 お優しいフロリア様を信じていたカインは・・・遙か神話の地で死んでしまった。本気で自分を刺した私に、フロリア様を頼むと言い遺して・・・。
 
(え・・・?)
 
 本気で・・・刺した・・・。私はあの時、カインを本気で殺そうとしたのだろうか・・・。
 
「どうした?顔色が悪いぞ?泣きすぎて熱でも出たかな?」
 
 オシニスさんが私の顔を覗き込んだ。私は慌てて今頭の中に浮かんだ考えを振り払った。
 
「子供じゃないんですから大丈夫ですよ。」
 
 笑ったつもりだがうまく笑えたとも思えない。でも私が今何を考えたかまで悟られることはないだろう。今どんなに暗い顔をしていても、父とおじさんのことで気持ちが沈んでいると、そう思ってもらえるはずだ。
 
「子供よりもいい大人の方がタチが悪いかも知れんぞ。子供ってのは泣くだけ泣いたらあとはけろっとしているもんだ。熱なんぞ出たって一晩も休めば治っちまうだろう?」
 
「それは確かにそうですね。気持ちの切替がなかなか出来ない大人のほうが、精神的に参ってしまうことが多いかもしれません。」
 
「そうだな・・・。あの頃は俺も悩んだ。中庭にも足がだんだん遠のいて、フロリア様の顔を見るためだけには出掛けなくなった。それでも、鍛冶場への行き帰り、もしかしたら今日はいるかもしれない、明日は出てくるかも知れないと、少しだけ期待してみたりもして・・・若かったなあ、今思うと。」
 
「では今はどうなんです?」
 
「今?」
 
「そうです。今、オシニスさんにとってフロリア様というのはどんな存在なんですか?」
 
 この間聞いたときには、オシニスさんの気持ちは変わっていないと言っていた。オシニスさんにとって、フロリア様は今でも、『どんな時にもそばにいてほしい相手』なのか、それとも・・・。
 
「前にも言ったとおりさ。俺の気持ちは変わっちゃいない。だが、国王陛下と一王国剣士では、どんなにそばにいてほしいと思ってもその望みが叶うはずはないさ。」
 
「でも縁談があったじゃないですか。そのときに受けていれば叶ったはずの望みですよね。」
 
「ま、確かにそうだな・・・。実を言うと、俺に団長就任の話が持ち上がったころ、俺が団長になることで、フロリア様との縁談が持ち上がるんじゃないかっていう噂が流れていたことがあったんだ。」
 
「レイナック殿が話を持ってくる前ですか?」
 
「そうだ。ただの噂だと思ってはみても、今まで手が届かないと思っていた相手がいきなり身近に見えてきて・・・期待したいような、恐れ多いような、複雑な気分だったな・・・。」
 
「でも実際に縁談が来たときには断ったんですね。」
 
「そうだ。フロリア様には、最初からそんな気はないと思ったからな。」
 
 フロリア様も同じようなことを言っていた気がする。
 
「どうしてです?」
 
「俺は平民だ。どこにでもあるごく普通の家庭で育った。それに対してフロリア様は国王陛下だ。本気で結婚する気があるのなら、正式に使者を出して有無を言わせず話を進めればすむじゃないか。それが、わざわざじいさんを『私的に』使者として寄こして、どう考えても俺が断りやすいようにお膳立てをしたとしか思えない。つまり、フロリア様は俺と結婚なんぞしたくなかったんだろうなと、そう考えたわけさ。」
 
「それだけですか?」
 
「ふん、さっきまで泣いていたくせに、やけに突っ込んで来るじゃないか。」
 
「そりゃそうですよ。手が届かないはずの人に手が届く、もしかしたら千載一遇のチャンスだったんですよ?しかも以前と気持ちは変わっていないと言うのに、正式にではなく私的に使者が来たから断ったなんて言われても、納得出来ませんよ。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「なぜフロリア様がそう言う行動に出られたのか、それについて心当たりがあったんじゃないんですか?」
 
 オシニスさんは私をしばらく見つめていたが・・・やがて観念したように溜息をついた。
 
「・・・まあな・・・。」
 
「でも、その時からカインのことを気にしていたわけではないんでしょう?」
 
「・・・その時は考えなかったよ。あれからもう10年も過ぎた頃のことだ。フロリア様が俺と結婚なんぞしたくないと考えるとしたら、それはおそらく・・・誰にも知られたくない自分の顔を、俺が知っているってことだろうとな・・・。」
 
 さっき話に出ていた、猫を埋めたときのことだろう。『ぞっとするほど冷たい瞳』とは、おそらく私達が南大陸行きを志願したときの、あの御前会議でのフロリア様の瞳と同じだったんじゃないかと思う。
 
 
 
『さっきの会議室・・・妙に寒くなかったか?』
 
 カインと私が南大陸へと行くことが決まったあの御前会議のあと、オシニスさん達の部屋を出て食堂へ向かうとき、ライザーさんがそう言いだしたっけ・・・。でも、おそらくその空気の冷たさを一番感じていたのはオシニスさんだっただろう。あの時オシニスさんがさりげなさそうに私に『お前は感じたのか』と聞いたのは、もしかしたらそれがライザーさんと自分の気のせいであってほしいと思っていたのかも知れない。でもあの時の執務室の空気の冷たさは、私も感じていた。気づかなかったのはカイン1人。フロリア様のためにお役に立てる、その事だけを考えていたカインだけが気づいていなかった。もっとも気づいていたところで、結果が変わったとは思えないのだが・・・。
 
 
 
「あの頃ご自分がどんな状態にあったか、フロリア様はそのことを今でも悔やんでおられる、おそらくは思い出したくもないことだろう。だが、自分でも思い出したくないような自分の姿を、俺がずっと前から知っていたことは、フロリア様だってご存じのはずだ。俺が振り向いたとき、一瞬だったがしっかりと目が合ったんだからな。」
 
「フロリア様もおっしゃってましたよ。猫を埋める時から、部屋に戻って着替えをしたところまでの記憶が抜けていたと。最も今はすべてご自分の記憶として、そのとき何があったかも理解されているようですが。」
 
「・・・そうか・・・。」
 
 患者とのやりとりを勝手に人に話してはいけない。それは確かにそうなのだが、フロリア様はどこもお悪いわけではなく、患者とは言えない。私は昔なじみとして会いに行ったのだから、このくらいのことなら話しても問題はないだろう。もっとも、本当ならばオシニスさんとフロリア様が直接腹を割って話し合ってくれれば私だってこんな話をしなくてもすむのだが、この2人が腰を上げるのを待っていたのでは、いつになるかわかったもんじゃない。
 
「今となっては、あのころのフロリア様の本当の顔を知っている奴なんて、俺くらいしかいないんだ。あのころフロリア様がおそばに置かれていた奴らはもうみんな死んじまったか追放されたかだ。それ以外で一番フロリア様のお側近くにいるのはじいさんだが、じいさんだって取り繕った笑顔抜きの姿は見たことがないだろう。」
 
「自分がそんな状態だったことをずっと前から知っている男と、結婚などしたくないと思ったのではないか、そう言うことですか?」
 
「そう言うことだ。夫婦になって毎日顔をつきあわせていたら、いやでも昔の自分を思い出させられる、フロリア様にとっては耐え難い苦痛だろう。おまけに結婚してしまえばあとはその男との間に子供まで作らなければならないんだからな。そんな目に遭うとわかっていて、縁談なんぞ承知したくはないだろうと、誰だって思うじゃないか。」
 
「フロリア様も同じことをおっしゃってましたよ。」
 
「・・・なんだと?」
 
『・・・それらの非情な決定を下したのが、間違いなくわたくし自身であったことを、オシニスだけはおそらく理解していただろうと思います。今では彼も、あの時のわたくしがどういう状態にあったか知っています。でも、一度芽生えた不信の芽は、そう簡単にぬぐい去れないものです。そんな女を妻にして大公の座に座ったところで、苦労するのは目に見えてますものね。』
 
 私はフロリア様が言っていた言葉をそのまま、オシニスさんに伝えた。
 
「フロリア様がそんなことを・・・。」
 
「正式に使者を出さずに、オシニスさんが断りやすいようにしたのだと、それは確かにそうなんですが、理由は正反対ですよ。オシニスさんは自分のことを信頼することは出来ないだろうから、無理に結婚しなくてもいいようにと。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「夫婦というのは元が他人同士なんですから、愛情だけでなく、結婚生活の中で信頼関係を築いていくことが出来なければ、いずれは破綻してしまうでしょう。オシニスさんが自分を信頼することは出来ないだろう、そして相手が自分を信頼してくれないとわかっていたのでは、自分だって相手を信頼することは出来ないだろうともね。もっとも、剣士団長としてのオシニスさんのことは、とても信頼していると仰せでしたが。」
 
「ははは・・・つまり、男としてはだめだってことか。」
 
「だめかどうかはわかりませんよ。第一、お二人ともそのことを一度でも口に出して話し合ったことなんてないでしょう。」
 
「そりゃそうだ。人前で話せるようなことじゃないしな。それに、いまさら男として信頼できるといわれても、どうなるもんでもないしな・・・。」
 
「少なくとも、友人としてお互いを認め合うことは出来るじゃありませんか。」
 
「・・・友人か・・・。」
 
「そう、友人です。お二人がそれぞれ相手に対して勝手に思い込んでいるわだかまりをなくすことが出来れば、オシニスさんだってフロリア様の友人として、いろいろと話し相手になることは出来るじゃありませんか。今の状況では、どちらも相手を思いやりすぎて勝手に思い込んで、かえって傷つけあっているようにしか見えませんからね。」
 
 言いながら、ずいぶんとひどいことを平気で言うものだと自分に呆れていた。心から愛している女性のそばにいて、友達として話し相手になれなんて、自分が言われたって出来っこないと思えるのに。もちろん、もしもオシニスさんがフロリア様とご結婚ということになるなら、それが一番いいのではないかと思っている。だが私が国王陛下のご結婚に口を出せる筋合いはないし、肝心の当人達が二の足を踏んでいるのでは、他人があれこれ言ってもどうしようもない。今の私に出来ることは、フロリア様が心を開ける友人を探すことだけだ。その候補として、オシニスさんならば申し分ない。
 
「だが、だからって今さらさあ話し合いましょうってのも、なかなか難しいんだぞ。」
 
「せめて、オシニスさんがフロリア様から逃げるような態度をとらなければいいんじゃないですか?そのくらいならそんなに難しくないと思いますけど。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「あまり臣下であることにこだわりすぎるのもよくないと思いますよ。オシニスさんがそういう態度を表に出すたびに、フロリア様が傷ついているんです。・・・まあ、フロリア様はフロリア様で、昔のことを忘れようとなさらないし、それも確かによくないことですけどね・・・。でも、たとえばフロリア様が昔のことを忘れようと決意されたとしても、オシニスさんが臣下であることにこだわる理由が昔のことに起因しているとわかれば、やっぱりフロリア様は、ご自分だけ忘れてしまってはいけないのではないかと、思ってしまうのではありませんか。」
 
「俺のせいだって言うのか?」
 
「そんなことは言ってません。あえて言うなら、どっちもどっちだと思います。」
 
「どっちもどっちか・・・。」
 
「そうです。もうそろそろ、あのころのことから自由になることを考えてもいいんじゃないですか?」
 
 オシニスさんは私をじっと見つめている。
 
「どうしたんです?」
 
「いや、さっきまでの泣き顔が嘘みたいだなと思ったのさ。」
 
「・・・そうですね・・・。泣きたいだけ泣いたせいかもしれませんよ。なんだか、ずいぶんと心が軽くなったような気がします。オシニスさんには感謝してますよ。」
 
 いつの間にか、さっきの悲しみも苦しみも、ずいぶんと薄らいでいた。
 
「泣きたいだけか・・・確かに、一度抱えているものを出しちまえば、気持は軽くなるし次はまた頑張ろうと思えるもんだ。そうだな・・・今日はもう少しお前と話をして、その前向きな気持を分けてもらうかな。」
 
「胸を張って言い切れるほど前向きでもないんですけどね。ただ、多少なりとも前向きでなければ、今頃私はここにいませんよ。きっと今でも、島で過去から逃げながら、ぐずぐずと一人で悩んでいたでしょうね。」
 
「その前向きになれるきっかけってのは、なんだったんだ?」
 
「私が前向きになれるきっかけをくれたのはオシニスさんからの手紙ですよ。」
 
「俺の?カインに持たせた、あれがか?」
 
「そうですよ。オシニスさんはずっとここでこの国を守って来たというのに、当事者の1人である私が島に引きこもって、のうのうと暮らしていていいのかとね・・・。でもどうしても踏ん切りがつかなくて、ライザーさんと話をして、それでやっと決心がついたんです。私が前向きになれたのはオシニスさんとライザーさんお二人のおかげですよ。本当に感謝しています。」
 
 あの時、ライザーさんにカインのことをすべて話してしまったことも、私の背中を押すきっかけになったと思う。それまでは、このまま島に留まり、黙って事の成り行きを見守ろうかなどと本気で考えていた。そうしなくてよかったと、今では心から思っている。
 
「そうか・・・。」
 
「私は、昔のことに決着をつけるために島を出たんです。だから、ウィローと2人、あの頃辿った道を出来るだけ辿ろうと話し合ってここまで来ました。昔のことにすべて決着をつけることが出来れば、子供達にも昔話をしてやれるとか、ライザーさんとも剣士団時代の話をもっといろいろと話せるようになるんじゃないかとか、いろいろ考えていましたけど・・・。」
 
「・・・・・・・・・・・。」
 
「何もそんなに気構えなくてもいいかなって、最近思うようになったんですよ。」
 
「それはまたどうしてだ?」
 
「そうですね・・・なんて言えばいいのかな。息子に昔話をしたり、自分でも昔のことをいろいろ思い出したりしているうちに、気づいていたのかも知れませんよ、『過去はどうあがいたって取り戻せない』ってね。」
 
 こんな当たり前のことに気づくまで、どれほどの時を費やしたことか。過去は取り戻せない。未来は選べない。ならば、今この時を大事にしていくしかないのだと・・・。
 
「・・・さっき聞いた話も、私にとってはどうしようもないくらいつらい話でした。でもそれはもう昔の話なんです。父はもういません。ブロムさんはドゥルーガー会長の言われるように、島で穏やかに暮らしています。いまさら私がその話について騒ぎ立てたところで、誰も幸せにはなれないんです。」
 
 どれほど悔しいと思っても、それはあくまでも私の感情だ。私がこのことで騒ぎ立てれば、黙ってひっそりと旅立った父の思いを無にすることになる。それに、私のために古傷をこじ開ける思いで医師会と連絡をとってくれたおじさんをも、さらに苦しめることになるだろう。
 
「・・・確かに、過去は取り戻せない。だが、忘れようとしてもどうしても忘れることが出来ないこともある。」
 
「それはお互い様ですよ。私だってそうです。」
 
「ふん、昔、剣士団が王宮に突入したとき、俺が何をしようとしていたか、わかっていると言ったな。」
 
「わかってますよ。あの状況で挨拶に来ただけだとは誰も思わないでしょう。」
 
「何があっても、俺はあのときのことを忘れることは出来ない。そしてフロリア様も、あの時俺が何をしようとしていたのか、おそらく気づいただろう。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「だいたい、どんなときにでもそばにいてくれる相手ってのは、俺なんかよりフロリア様にこそ必要だ。だが、俺ではだめなんだ。その理由はさっきお前が言ったじゃないか。フロリア様は俺を心から信頼することが出来ないと。」
 
「でもだからって私がってわけには行かないでしょう。」
 
「わかってるよ。今はもうそんなことは考えていない。・・・ばかな考えだと笑うかも知れんが、こんな時にはやっぱり、カインがいてくれたらと思ってしまうのさ・・・。」
 
「今カインがここにいたら、フロリア様の心の支えになってくれていたでしょうけど、もうカインはいないんですよ。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんは黙ったまま、宙を見つめている。
 
「フロリア様がご自分の置かれている状況を受け止めて、乗り越えて、国の再建に乗り出すことが出来たのは、カインよりもオシニスさんのおかげじゃないかと私は思ってるんですけどね。」
 
「カインの話よりばかな話だな。そんなことがあるわけないじゃないか。」
 
「そんなことがあるかないか、確かめたことがあるわけではないんでしょう?」
 
「それが出来るなら苦労はしない。第一、フロリア様は俺にはそんな話をしてはくださらないだろう。」
 
「どうしてです?」
 
「そんな話をするなら、いくらでも機会はあったはずだ。だが、この間聞いたような、俺を団長に推薦してくれたときの話さえ、俺は一言もフロリア様の口からは聞いていないんだ。」
 
(意地っ張りなのはオシニスさんだけじゃないってことか・・・。)
 
 なんだか恋の橋渡しをしている気分だ。お互い意地をはって、私を通して相手の気持ちを探ろうとしている・・・。2人とも、せめてもう少し素直に向き合ってくれないものか・・・。
 
「失礼します。」
 
 ノックと共に声が聞こえた。私がずっと聞きたかった声だ。
 
「あれ?今の声はウィローだよな。」
 
「そうですね・・・。」
 
 私がここにいることを知っているのだろうか。それとも単にオシニスさんに用事があったのか・・・。いや、でももう一日の治療の時間は終わる時間だ。
 
「俺が出るよ。お前はここにいろ。顔の確認でもしておけ。」
 
 オシニスさんが立ち上がって扉をあけ、『どうしてここに?』と、聞いている。そして・・・
 
「会長が?」
 
「ええ、オシニスさんのお手伝いをしているからここにいるだろうって。・・・いるんですか?」
 
 妻の不安そうな声が聞こえた。私は立ち上がり、奥の部屋から出た。一応『顔の確認』はしたが、どうせ取り繕ったところで妻にはばれる。
 
「ここだよ。」
 
 扉の前には妻が立っている。私を見て少し驚いた顔をしたが
 
「オシニスさんのお手伝いをしているって聞いたからここに来てみたんだけど、もういいの?」
 
すぐに普通の表情に戻ってそう尋ねた。
 
「誰に聞いたの?」
 
「ドゥルーガー会長さん。さっきクリフの病室に来て、オシニスさんの調べ物のお手伝いであなたがさっき会長室に来たから、終わったら剣士団長室に顔を出してみたほうがいいんじゃないかって。」
 
「・・・そうか・・・。」
 
 先ほどの私の動揺を慮って、ドゥルーガー会長が動いてくれたのか・・・。この町に来てさえ、私はとても恵まれている。
 
「それで、どうなの?お手伝いのほうはもういいの?」
 
「俺のほうはいいよ。今日はクロービスにいろいろ手伝ってもらったおかげで、仕事がはかどったんだ。クロービス、助かったよ。」
 
「お役に立ててよかったですよ。オシニスさん、明日はどうします?私はいつでも来れますが。」
 
「そうだな・・・。明日は午前中は会議なんだ。だから午後からなら時間はあるんだが・・・なあ、もしも明日、特に用事がないなら、ちょっと頼まれてくれないか。」
 
「構いませんよ。なんですか?」
 
「レグスを止めてくれ。」
 
「・・・・・・・・・・・・。」
 
「もちろん、あいつが明日来るとは限らない。ただ、一番可能性が高いからな。もしも来たら、何が何でも止めてくれ。頼む・・・。」
 
「わかりました。明日の午前中、医師会に顔を出してみます。ドゥルーガー会長やハインツ先生には、話をしておいていただけますか。」
 
「ああ、もちろんだ。今日のうちに会長には言っておく。」
 
「・・・失礼するぞ。」
 
 二人で剣士団長室を出ようとしたとき、ノックとともに声が聞こえて扉が開いた。
 
「お、なんだよじいさん。用があるならこっちから行くのに。」
 
 レイナック殿だった。ここで会うなんて珍しいが、どうしたのだろう。
 
「いや、お前のところにクロービスがいないかと思うて来てみたのだが、大正解だったようだな。」
 
「私に御用だったんですか。」
 
「うむ、おお、ウィローもおったのか。ちょうどよい。実は急で申し訳ないのだが、お前たち、明日の夕方に時間を作ってくれぬか。フロリア様がぜひお前たちと話がしたいと仰せなのだ。」
 
「フロリア様が・・・。」
 
 妻を取り囲む空気がぴんと張り詰めた。
 
「うむ、用事があるなら無理にとは言わぬが、出来れば何とか時間を作ってほしい。以前クロービスと話をした後で、すぐにでもウィローとも話したいと仰せだったのだが、なかなか時間が取れなくてのぉ。」
 
「私はかまいませんが・・・ウィロー、君のほうは?」
 
「私のほうも明日はいつもと同じだからかまわないけど・・・。」
 
 妻は少しだけ戸惑っている。
 
「それでは何とか頼む。フロリア様もご公務があるし、お前たちの用事が終わってからでよい。夕食を一緒にとも考えたのだが、それではお前たちに気を使わせることになりそうだからの。食事の後にお茶会ということにでもしようか。」
 
「わかりました。」
 
 私たちがうなずいたのを確認して、レイナック殿はくるりとオシニスさんに向いた。
 
「オシニスよ、今日はちゃんと、お前にもわかるように話をしたぞ。これで文句はあるまい?」
 
 レイナック殿は得意げに胸を反らして、にやりと笑った。
 
「・・・ああ、ちゃんと事前に話を通しておいてくれれば文句はないよ。・・・そんないやみを言うためにここまで来たのか。筆頭大臣て言うのは、ずいぶんと暇なんだな。」
 
 オシニスさんは忌々しげにレイナック殿を睨んでみせた。
 
「仕事の途中で執務室から引っ張り出されるのは困るからな。それから、クロービスとウィローには、あくまでも友人として昔話でもしてくれればよい。以前のように、診察のなんのという面倒くさい話は一切ないから、気楽に行ってくれ。」
 
 妻を取り囲む空気の変化を、おそらくレイナック殿は敏感に感じ取ったことだろう。
 
「わかりました。では明日の夕方お伺いします。」
 
「うむ、よろしく頼む。さてと、オシニスよ、少し話をせんか。」
 
「なんだよ。明日の会議の前準備でもするって言うのか。」
 
「いや、最近お前となかなか話をする機会がなかったからな。のんびりと話をしたくなったのだ。お茶の淹れ方も教えてやるぞ?」
 
「・・・わかったよ。その辺に座ってくれ。」
 
 なんだか楽しそうに聞こえるレイナック殿の声と、あきらめたようなオシニスさんの声を聞きながら剣士団長室を出た。オシニスさんがさっきと同じように素直に話をしてくれるといいのだが・・・。
 
 採用カウンターにはもう誰もいない。ランドさんは帰ったらしい。そろそろ見物客が引き始めたロビーを抜けて、外に出た。祭りの日程ももうそろそろ半分は過ぎようかというのに、外は相変わらず人でごった返している。ふと、あの薬屋を出たときにつけてきていた連中のことを考えたが、この人ごみの中では見つけ出される心配はなさそうだ。それにもう薄暗くなってきているから、顔もわからないだろう。
 
「レイナック様はオシニスさんに何を話すつもりなのかしら・・・。」
 
「この間フロリア様と話をしてきたときも、最近なかなか話す機会がないって言っていたからね、いろいろあるんじゃないのかな。」
 
「そうね・・・。」
 
 妻の声は私の言葉をあんまり信じていないような感じだった。まあいい。今日はこれから、もっと重要な話を妻に伝えなければならないのだ。オシニスさんとレイナック殿の話は、私たちが聞いてもいい話なら明日聞かせてもらえるだろう。そうでないのなら気にしても仕方ない。
 
 宿に戻って食事を頼み、部屋に戻ったところで私は大きくため息をつき、鎧と剣を外しただけでベッドに寝転がった。
 
「なんだかいろいろとあったみたいね。」
 
「・・・ものすごくね・・・。君のほうは?クリフのほうはどうだった?」
 
「そうね・・・。あなたに相談したいことがあったんだけど、あなたの話を先に聞くわ。」
 
「いや、まずはクリフの事を聞くよ。私の話はそれからだっていいんだ。別に急ぐ話でもないからね。それに、結構長くなると思う。」
 
「そう?」
 
 妻の目が疑っている。不安が瞳に滲み出す。私は体を起こし、妻に向かって微笑んでみせた。
 
「うん、本当に大丈夫。さっきずっとオシニスさんの手伝いをしていたから、落ち着いてるよ。まずは君の話を聞くよ。患者が一番の優先事項だからね。」
 
「わかった。でもまず着替えをして、食事くらいゆっくりして、それからにしましょうよ。」
 
 オシニスさんの部屋で会ったとき、妻が驚いた顔をしたわけはなんとなくわかる。自分でも、とても普通の顔に戻れていたとは思えない。妻の言うとおり、食事をして落ちついておこう。父の話を、おじさんの話を、妻が聞いたらどう思うだろう。せめて私だけでも落ち着いていなければならない。その後届いた食事をゆっくりと楽しみ、妻の話を聞きながら、父とブロムおじさんの話をするための心の準備を整えることにした。

第77章へ続く

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