翌日の朝、起きだした妻の顔はまだ腫れていた。
「大丈夫?」
妻は黙ったままうなずいた。
「・・・話をした本人が言うのもなんだけど・・・無理しないで今日一日くらい休んでもいいんじゃない?それならハインツ先生に伝えておくよ。」
島ではなかなか私達の代わりになれる人材はいないが、医師会ならばそこまで心配することもない。
「大丈夫・・・。それより、ごめんなさい。あなたを責めても仕方ないのに・・・。」
「いいよ。君の気持ちはわかる。君が父さんのことをそこまで考えてくれていることは、本当にうれしかったんだ。」
昨夜、食事の後でまず妻の話を聞いた。クリフの容態は、いまのところ安定しているらしい。睡眠時間は昨日より少し長くなった。これならば食事も少しずつ増やせるようになるだろう。このまま行けば、多少なりともクリフの余命は伸びるのではないかというのが、ハインツ先生の見解らしい。だが・・・
「最初に決めた手順のままでは、そろそろ厳しいかもしれないわ。以前と同じ場所をマッサージしてもなかなか痛みが取れなかったりすることが何度かあってね・・・。」
「・・・そうか・・・。もう少ししたらそういうことになるかなあと思っていたけど、若いと慣れるのも早いのかな・・・。」
一度マッサージの手順を決めたら、あとはずっと同じ場所をマッサージすればすべて解決、というわけに行かないのが、この治療の難しいところだ。病気は体の中で確実に進行している。例えば、今までは腹をマッサージしていれば痛みを軽減できたのに、何回か過ぎるとそれが効かなくなる。また別な場所を探してマッサージをする、それに体が慣れるとまた違う場所を、という具合に、その時々の患者の状況に合わせて、何度も手順を考え直さなくてはならない。
「どうしたらいいのかなあって・・・。島ではいつもブロムさんかあなたが指示を出してくれてたわ。二人ともいない場所でこの治療をするのは初めてだし・・・。」
妻が心細い思いでいることはわかる。おじさんや私は医者として、一人では心細いなどと言ってられないが、妻はあくまでも助手であり看護婦だ。だが、私達はこれから後継者を育てなければならない身だ。もうしばらくは頑張ってもらうしかなさそうだ。そう言うと、妻は『そうねぇ』と、少しあきらめたような顔で微笑んだ。
「ゴード先生はなんて言ってるの?」
「なんといっても、この町では臨床例がない治療だから、本とにらめっこしてよく唸ってるわよ。ハインツ先生も専門ではないし、困っているみたいだったわ。だから、あなたに相談出来そうならしてみてくれって。」
「直接聞いてくれてもいいのにな。聞きづらいのかなあ。」
「そういうわけではないの。私ならいつも島でこの治療をしているし、私がいつものように相談した方が、あなたも答えやすいんじゃないかって。」
「なるほどね・・・。それじゃ、その解決策を考える前に教えてほしいことがあるんだけど・・・。」
私は以前気になっていた、クリフの体力が落ちた原因について、妻が聞いたかどうか尋ねた。
「ああ、そうねぇ・・・。確かに睡眠不足での体力減退もかなりあるって言ってたわ。だから今回の治療にはハインツ先生もゴード先生も期待しているって、最初の日に言ってたわよ。」
「ということは、このまま睡眠時間を確保できて睡眠不足が解消されていくなら、もう少し体力を取り戻せる可能性は高くなるわけか。」
「そうね・・・。まさか、本当にもう一度手術をするとか考えているの?」
「私が決めることじゃないけどね・・・怪しげな薬に頼るよりは確実性があると思ったのさ。どうせマッサージの手順も見直しが必要なようだし、私のほうからハインツ先生とゴード先生に相談してみようかと思ったんだよ。」
「・・・どういうこと?」
私は医師会でのクリフの両親との話し合いの後、母親だけが剣士団にオシニスさんを訪ねてきて、詳しい話を聞くことが出来たことを話した。
「そんなことになっていたの・・・。それでクリフのお父さんがあんなにいらいらしてたのね。」
「クリフのことだけじゃなく、いろいろとたまっているものがありそうなんだけどね。」
「ふーん・・・あのお母さんがオシニスさんの元恋人か・・・ふふふ、なかなかの美人じゃないの。フロリア様とは、ずいぶんタイプが違うみたいだけど。」
「笑い事じゃないよ。おかげで今日はあのお母さんとオシニスさんが二人で会っていたんじゃないって言う証人にされたし、明日はどうやら医師会の用心棒になりそうだしね。」
「用心棒が必要なほど派手な登場の仕方をするとは思いたくないけど、病室で大声を出されたりするのは困るわね。期待しているわよ。」
翌日の午前中、ハインツ先生達とクリフのことで相談しながら、クリフの父親が訪ねて来たときに備えることにした。このときは妻も笑顔で、落ち着いていたのだが・・・
「・・・それじゃ・・・お父様のことは何もしないつもりなの?!」
ブロムおじさんと父が医師会を離れた理由について、おじさんのことは妻も納得したようだ。すべての罪を着せられたことには腹を立てたが、本人が今は穏やかに暮らしていることを思えば、昔のことなどほじくり出したところでいいことは何もないだろうという私の考えを理解してくれた。だが、話の内容が私の父のことに及ぶと、妻の表情は険しくなった。そして話を聞き終えた妻は、何とか父の名誉を回復するべきではないのかと言い出したのだ。
「父さんはもういないんだし、亡くなるまで何も言わなかったんだからいまさら騒ぎ立てても仕方ないよ。」
「だって・・・!!あなたのお父様の場合はブロムさんとは違うわ!完全な濡れ衣じゃないの!せめて医師会の中でだけでも・・・麻酔薬の発案者として、追放されたという不名誉だけでも正すことは出来るはずよ!・・・そんな・・・そんなひどい仕打ちを受けたままだなんて・・・。」
父のことで妻がここまで言うのは、自分の父親のことを考えたからなのじゃないかと思う。妻の父親であるデール卿は、以前はハース鉱山を乗っ取って私物化し、王国転覆をたくらむ犯罪者と言われていた。ハース鉱山に向かった私達までもが鉱山乗っ取りの一味として指名手配され、王国中を逃げ回る羽目になった。だがその後、妻の父の名誉は回復され、今では「エルバール王国中興の祖」と讃えられている。
「父さんの場合は、デール卿とは違うんだ。麻酔薬だって、未完のうちにどんなことに使われたかを考えれば、迂闊に表ざたには・・・。」
「だから、発表なんてしなくたっていいから・・・医師会に保存されているそんな記録を間違いとして正すくらいのことは・・・出来なくはないでしょう!!あなたが腰を上げれば・・・・!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら妻はそう叫ぶと、ものすごい勢いで着替えを袋につめて部屋を飛び出した。風呂に行こうというところにまで気が回るのなら、追いかける必要はなさそうだ。それに、今回だけは私も自分の考えを曲げることは出来ない。妻の頭が冷えるのを期待するしかなかった。
しばらくして、扉が開いた。出て行ったときの勢いはなかったが、口をぐっと結び、何もしゃべるもんかという顔をしている。『頑固者ウィロー』の顔だ。そのまま妻はベッドにもぐりこみ、布団をかぶってしまった。
(髪を乾かさなくていいのかな・・・。)
ふと心配になったが、この布団一枚をはがすだけでも相当な労力を必要としそうだ。まあ仕方ない。明日の朝まで待とう。私もあきらめて風呂に入ることにした。まだ時間は早いが、明日に備えて眠っておこう。でも明日はきっと仲直りする。何日も口をきかないような事態にする気はない。
そして今朝、はっきりと布団の中で泣いたとわかる顔で妻が起き出した。もう怒ってもいないし、私を拒絶してもいない。ほっとして、昨夜の分までしっかりと抱きしめた。
「ごめんなさい・・・。一番悔しい思いをしているのはあなたのはずなのに・・・。」
「悔しいよ。だけど、父さんが何も言わずに亡くなった理由も理解出来る。それに、ドゥルーガー会長も当時のことを知っている先生達も、父さんが濡れ衣を着せられたことをちゃんとわかってくれている。口に出さないだけでね。それを責めることは出来ないし、わかってくれる人がいるならいいよ。少なくとも、私自身は医師会の中でそれなりに認めてもらえているようだし、あとは自分の力でもっと技術が進歩するようがんばる。それくらいしか父さんに報いることが出来ないからね。」
妻は黙ったままうなずいた。
その後、食事をして外に出た。今日も町の中は大賑わいだ。
「人のエネルギーって言うのはすごいわねぇ・・・。」
妻があたりを見渡してため息をついた。
「町が活気づいているのはいいことだよ。フロリア様の政治手腕が確かなものだって、みんなわかってくれていると思う。」
「それじゃ、今日の夜はそういう話から進めてみる?」
「まあ楽しい話から始めた方がいいだろうからね。」
「楽しくない話になると思ってるの?」
「楽しいだけではすまないとは思ってるよ。すくなくとも、フロリア様が私達とただ楽しい話をしたいだけだとは思えないな。」
「そうよね・・・。」
妻はうなずきながら、私の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「・・・なに?」
「昨日から、なんだかすごく前向きになってるから、どうしたのかなと思って。」
妻はそう言ってニッと笑った。
「あんまり考えすぎてもよくないなって思ったんだよ。誰かの気持を思いやってとか、誰かが気にするといけないからとか、そんなに考えすぎていたら、何も話せなくなってしまうじゃないか。せめて楽しかったことやおもしろかった話くらい、子供達とも共有したいからね。それにそういう話なら、同じ昔話でもみんな楽しくなれるじゃないか。」
「そうね・・・。ふふふ、確かにそういう話なら、楽しくなれるわね。ライラもイルサも昨日はずいぶんと楽しかったみたいだし、私達が気を回しすぎるほうがよくないのよね、きっと。」
「そういうこと。いくら頭を抱えてみても、過去のことを変えるなんて出来やしないんだしね。けりをつけるのなんのって言う話は、私達の心の問題じゃないか。それなら話せることは話してしまった方がいいんじゃないかな。昨日は私も楽しかったよ。オシニスさんだって楽しかったんじゃないかな。」
ライザーさんのことも、気を回さず普通に話そう。二人は親友だと、オシニスさん自身が言っていたじゃないか。その親友のことを話すのに、なんだかんだと考える必要はない。
(カインのことも・・・話せるようになりたいな・・・。)
昨日オシニスさんとライザーさんの話をしたように、カインと過ごした若かりしころの思い出話を、子供達にしてあげられるようになる日が来るだろうか。いや、来るかどうかは私次第なのだ。カインのことだけは、私自身の心の決着なしには口に出来そうにない。
王宮の玄関では、日勤と夜勤の剣士の引継ぎが行われていた。その脇をぞろぞろと外の警備に向かう剣士達が出かけていく。その中に息子の顔を見つけた。
「あれ?こんなところで会うの珍しいね。」
息子は屈託のない笑顔で私達に近づいてきた。
「これから仕事なのか?」
「そう。今日は、ジョエル達と一緒に南門の近くを警備することになっているんだ。」
「へぇ、ということは念願の『城壁の外』ってことか。」
「へへへ、そういうこと。すぐ中に戻れる程度の距離でも、門を出た場所での警備は初めてだから、緊張しているんだよ。」
そこにティナとジョエルが近づいてきて、私達は挨拶を交わした。二人ともカインが一緒に仕事に出かけられることをとても喜んでくれているようだ。無理だけはしないようにと言って、私達は王宮の玄関をくぐった。息子とは、また後で食事をしようと思っている。そのときにどんな体験談が聞けるか楽しみだ。
「・・・いざ城壁の外に出るって聞くと、なんとなく心配になるわね。」
妻が笑いながら、小さくため息をついた。
「一人じゃないんだから大丈夫だよ。」
私だって気にはなる。だがたまたま今は同じ町の中にいるから気になるけれど、これがいつものように島にいたら、息子が今このとき何をしているのかなんてわからない。気にしすぎてもしょうがないのだ。今の私達の仕事は、クリフのことだ。直接治療に関わっているわけではないとは言え、オシニスさんにクリフの父親のことで頼まれてしまっている。きちんと役目は果たそう。せめて、用心棒のまねごとをしなくもすむ程度でなんとかなってほしいものだ。
医師会の廊下は静かだ。妻はいつものように直接クリフの病室へと向かった。私はまず、ドゥルーガー会長に話を通しておこうと会長室を訪ねた。
「・・・ふむ、昨日剣士団長殿から話は聞いておる。せっかく祭りに来たというのに仕事にばかり引き込んでしまってすまぬな。」
「とんでもない。このくらいのことならかまいませんよ。」
医師会に入れなどと言われるより、雑用の手伝いをしていたほうがはるかに気楽だ。最も今回ばかりは雑用どころの話ではない。一人の若者の命がかかっている。気を引き締めて、何が何でもクリフの父親を説得しなければならない。
「クリフの病室に向かうには、医師会の受付を必ず通らなければならぬ。まあ窓を破って飛び込んでくるとでもいうなら話は別だが、若い者でもあるまいし、そんな馬鹿なことはせぬだろう。受付の辺りに気を配っていてくれてもよいし、クリフの病室につめていてくれてもよい。」
私は昨日妻から、マッサージの手順の見直しについて相談を受けたことを話し、出来れば病室で話をして、その後受付につめていたいと申し出た。ドゥルーガー会長は快く承諾してくれて、私はクリフの病室に向かうことにしたが、ふと思い立ち、立ち止まった。
「ドゥルーガー会長、1つだけ教えていただけませんか?」
「私に答えられることならば何なりと答えよう。」
会長を包む『気』には、張り詰めた覚悟のような雰囲気が漂っている。
「もしも麻酔薬の開発者が、父かブロムさんの名前だったら、あの報告書はすんなりと認可されたでしょうか。」
「・・・ブロムの名前は無視するわけには行かなかっただろうな・・・。たとえ医師会の医師達が全て当時と入れ替わっていたとしても、亡くなった人々の家族は、奴の名前を忘れはしまい・・・。サミル殿のことは、昨日の記録に残っているのみで、今となっては名前も存在自体も知っている者はごくわずかだ。とは言え、除名された者の名前が2人、あるいは1人でも書かれた報告書では、私とて認可のための推薦をすることは出来なかったかも知れぬ・・・。」
「そうですか・・・。わかりました。いろいろありがとうございました。」
私はそのまま部屋を出た。もうこの話は、終わったことにしてしまうべきなのだろう。もう考えないでおこう。今私が考えなければならないのは、クリフのことだ。
病室では、今日の予定が話し合われていたようだ。クリフのベッドを窺うと、眠ったところらしい。全員ベッドの反対側にあるテーブルに集まっていた。看護婦の制服を着た、まだ若い娘が2人、30代くらいの女性が2人、それに、男性が3人ほど見学に来ている。クリフの体力が少しずつ回復していることで、見学者を増やすことにしたのだそうだ。ハインツ先生が紹介してくれたが、どうやら男性3人のうち1人が医師の見習い、1人が駆け出しの医師らしい。クリフのマッサージは、妻が病室についてすぐに一度行ったそうなのだが、あまり痛みがとれず、また違う場所をマッサージしていたのだと聞いた。
『一度場所を決めたら後はもうそこだけ揉んでいればいいというものじゃないぞ。年寄りの体は中の変化に外側が追いついていかないようなことがあるが、それでもいずれ同じ場所では痛みを取り除けなくなってくる。そのときにどうするかが大事なんだ。』
昨日、妻はおじさんのこの言葉を思い出しながら、別な場所をマッサージするよう提案していたのだそうだが、果たしてそれだけで十分なのか、妻としてはそこが不安らしい。なんと言ってもクリフはまだまだ若者だ。そして23歳ということは、そろそろ体が出来上がってくる年齢なのだ。病気のせいでずいぶんと痩せてしまってはいるが、それでも最初に会ったころよりは格段に元気になってきたように見える。それならばもっと出来ることがあるのではないか、その若さという部分に、何かしら治療の活路を見い出せないものか・・・。
「痛みの程度はどうです?」
私はハインツ先生に尋ねた。
「一昨日まではすこぶる順調だったんですがねぇ。昨日あたりからなかなか痛みが取れなくなって、どうしたものかと思っているところですよ。」
「でも以前よりはだいぶ改善していますよね?」
「ええ、前のように、痛みで眠れないということがだいぶ少なくなってきたようです。おかげで、睡眠時間のほうはそこそこ確保できていますよ。」
「痛み止めはもう少し増やせそうですか?」
「それは問題ありません。実は以前処方していたより、ずいぶんと少ない量で何とかなっているんです。だから、まだ増やすことは可能ですが・・・何か問題がありますか?」
「いえ、問題ということではないんですが、出来れば少しお時間をいただけませんか。昨日のこともありますし。」
「おお、そうでしたね。では昨日の会議室に行きましょうか。」
ハインツ先生はゴード先生に指示を出し、一緒に病室を出て会議室へとやってきた。
「・・・奥さんから、もしかしたら今日あたりクリフの父親が来るかもしれないとお聞きましましたが・・・。本当に来るんでしょうかねぇ。昨日の勢いで来られると、窓でも蹴破られるのではないかといささか身構えてしまいますよ。」
ハインツ先生はドゥルーガー会長と同じようなことを言う。なんだかんだと言いながら、2人は気が合っているようだ。
「あんな高い場所まで壁を伝って行けるとしたらすごいですが、さすがにそうなるとおとぎ話の世界ですからね。ただ、医師会の廊下を駆け抜けて病室に飛び込むくらいの可能性は、考えておかなければならないかもしれません。私はいわばそんなときのための盾ですよ。」
「なるほど、あなたが盾になってくださるなら、私達は何の心配も要りませんな。先日の訓練場での立合を見て、ゴードがすっかり驚いていましたよ。」
そういえばあの時、ゴード先生が呆けたような顔をしていた。
「用心棒としては全力を尽くしますが、医師としても実はハインツ先生に提案がありまして、それでここまできていただいたわけなんですが・・・。」
私は昨日クリフの母親が剣士団を訪ねてきたことから、夕べ妻と話したように、怪しげな薬にこだわる父親の目を覚ますためにも、もう一度手術を視野に入れてクリフの治療にあたってはどうかと言ってみた。
「・・・うーむ・・・そんな話だったのですか・・・。しかしいい加減なことを吹き込むその薬屋には困ったものですなぁ。」
「今のところ、その薬屋がそんなことを言う根拠がわからないんですけどね。本当にいい薬を知っているのか、その薬屋も誰かに何か吹き込まれているのか、そのあたりは、もう少し調査をしないとなんとも言えませんが、得体が知れないのは同じですから、そんなものに頼らなくても医師会できちんと治療をしているのだということがわかれば、納得してもらえるんじゃないかと思うんですよね。」
「うーん・・・。しかし、マッサージの効果がいささか薄れてきていることも確かですから、有効な対策が見つからないことには、そう簡単に手術をするというわけにも・・・。」
「それなんですが・・・。」
私は、体の慣れを防ぐために、今日一日、薬だけで乗り切ってはどうかと提案してみた。そもそもマッサージは『これさえあれば』といえるほど絶大な効果があるものではない。だが効果が出ているとなれば、どうしてもそれにばかり頼ってしまう。病気が体の中で進行し続けている以上あまり楽観的な見方は出来ないが、今日一日マッサージをしなかったとしてもいきなり症状がすべて逆戻りするわけではない。食事や睡眠をきちんと取れるようになってきたことで、体力も回復してきているのだ。マッサージの手順を見直すにしても、一日様子を見て、そのうえで考えてもいいのではないか。
「なるほど、しかしせっかく成果が上がっているのに、一日とは言えやめるには勇気が要りますね・・・。」
ハインツ先生は迷っているようだ。今回の治療がうまくいけば、おそらくは医師会の内部からも反対意見の出ているマッサージや整体を医療技術として認めさせるための布石になる。だが、まだ始まってほんの数日だ。今は焦らず、多少歩みが遅くなっても確実に結果を出すことを考えたほうがいいと思う。
「その成果の出方が鈍ってきたのですから、ここは少し立ち止まって考えてみるのもいいかもしれませんよ。」
「そうですねぇ・・・。では病室に戻りませんか。まずは今の話をゴードと奥さんに提案してみましょう。」
「そうですね。」
「今日1日ですか・・・。」
案の定、ゴード先生は複雑な顔をした。私はさっきハインツ先生にしたと同じ説明をしたが、ゴード先生は納得していないようだった。
「確かに昨日と今日は最初の日ほどの成果が出ていないからな。一度頭を切り替えるつもりで1日様子を見るというのもいいと思う。」
ハインツ先生も思案げだ。
「何も無理して手術をしなくても、これで成果が出ているならこのまま様子を見るという選択肢もあるのではないですか?」
ハインツ先生が私の考えを支持するようなことを言ったので、ゴード先生としてはあまりはっきりと反対は出来ないようだったが、彼の顔には『今さらやめたくない』と書いてある。
「ねぇ、でもどっちにしても手順の見直しは必要よね?」
妻が尋ねた。
「もちろん。それは考えておかないと、明日の朝すぐに治療再開が出来ないからね。」
「はぁ・・・私としては今日も場所を変えて何とかならないかと思っていたんですが・・・。」
ゴード先生が溜息をついた。見学に来ていた医師や看護婦も、戸惑っている。せっかく来たのにマッサージの様子が見られないのでは、どうしたものかと思案しているらしい。
「せっかくたくさんの皆さんが見学にいらっしゃるんですから、今日は一日マッサージ体験会というのもいいかもしれませんよ。」
とっさの思いつきだったが、そう提案してみた。せっかく興味を持ってきてくれたのだ。だが、妻のようなマッサージの仕方をいきなり憶えるというのは無理な話だ。まずは基本から始まって、少しずつ技術を習得していくしかないのだから、今日は思い切って、健康な人の体をもみほぐすマッサージを憶えてもらってもいいのではないかと考えたのだ。
「・・・クロービス先生はおもしろいことを考えつきますねぇ。まあここにいる者達はみんな今日予定を組んでここに来ていますから、時間はありますが・・・。それもいいかもしれない。ゴード、どうだ?」
「マッサージはゴード先生もされますよね?」
「い、いや、私は肩や腰のこりをもみほぐしたりとか、それくらいしか・・・。」
いきなり話を振られて、ゴード先生は戸惑ったような顔をしている。
「それがマッサージの基本です。ゴード先生は基本をしっかり押さえられている、しかもその道について常に研究しておられる、講師としては申し分ないではありませんか。」
いささか率直に言い過ぎたか、ゴード先生は赤くなってそわそわしている。それを見ていたハインツ先生が笑い出した。
「たしかに、この道について医師会ではゴードが第一人者です。ゴード、どんな技術もまずは基本だ。今日は彼らにマッサージの基本を憶えてもらおう。私より君のほうが遙かに熟練しているだろう。せっかく技術を習得するのだから、症状の重い軽いにかかわらず、患者の痛むところをさすったり、肩をもんだりすることが出来るようになれば、医師会全体の治療にも役に立つと思うが。」
「・・・そうですね・・・。」
ゴード先生はなおも迷っているようだったが・・・。
「わかりました。今日は空いてる病室を借りてマッサージ教室だ。廊下の一番奥があいてるはずだから、そこでやろう。みんな移動してくれ。途中で一度、リハビリを受ける患者がいるから、その様子も見学してもらおう。」
そう言って立ち上がった。
「私もお手伝いしましょうか?」
妻が言った。
「いや、今日はクリフの治療がなくなったことですし・・・。」
「私がここにいるのは、クリフの治療のためだけではありませんもの。クロービス、いいわよね?」
「君が決めることなんだから私のことは気にしなくていいよ。」
「いつも申し訳ないですがお願いしますよ、奥さん。ここには医師も常駐していますし、私も今日は一日いる予定ですから。」
ハインツ先生がそう言ってくれたので、妻はゴード先生と一緒にマッサージ教室へと行くことになった。医師や看護婦に技術を広めると言うことも、医師会で整体やマッサージを扱う上で重要なことだ。ただ研究されて論文の対象になるだけでは、実際に患者の助けにはならない。
「ところでクロービス先生、もう少しお時間はありますか?」
見学の医師達と、ゴード先生、それに妻が病室を出て行ったあと、ハインツ先生が少し声を落として言った。
「ええ、少しなら多分大丈夫だと思いますが・・・。」
「ではもう少しおつきあいください。」
ハインツ先生はそう言うと、部屋の隅で記録をとっている医師と看護師に指示を出し、『すぐ戻るから』とだけ言い置いて病室を出た。そしてやって来たのは、あの薬草庫の隣にある、医師会の物品を管理している倉庫だ。
「多分、先生のところに送られる医療器具はここにあるものと同じだと思うんですが、いかがです?」
「そうですね・・・。」
積み上げられている箱に書かれた備品の名前は、私の見知っているものばかりだ。うちの島に送られてくる医療備品はここから出荷されるらしい。
「どれもうちにあるものと同じですよ。でもそれが何か?」
ハインツ先生は棚の1つから小さな箱を取り出して開いた。
「これですよ。」
「これは・・・。」
中に入っていたのは、手術用のメス・・・。大きめのものから細い小さなものまで、外科手術に欠かせない様々な種類のメスが箱の中におさまっている。
「うちで使用しているものと同じものですね。何か問題があるんですか?」
「・・・いや、問題というほどのものではないんですが、私がさっきクリフの手術を渋ったのには、このメスも関係しているんですよ。」
「どういうことですか?」
病巣を切り取るときに、その場所がメスを入れやすい場所とは限らない。そのためにかなり形にも工夫を凝らして、実に多彩な形のメスが存在するのだが、それでも対応しきれない病巣の場合もある。メスの形状、切れ味、それに医師の技術を総動員しても、取り除ききれない部位も存在する。私自身、何度そう言った微妙な部位の手術で悔しい思いをしたかわからない。ハインツ先生の心配は、つまりそういうことらしい。
「・・・クリフの病巣は、それほど難しい場所なんですか?」
「いや、場所はそれほどでもありません。そしてある程度肉眼でもとらえることは出来るんですが、病巣が深いんですよ。あともう少しという時に、このメスでは対応しきれないんです。無理に切除しようとすれば、その奥にある健康な内臓まで傷つけてしまう危険性もありましてね・・・。」
「となると、もっと刃を鋭く、薄くしなければ厳しいと?」
ハインツ先生はうなずいた。
「でもそんなに薄くしたら折れてしまう危険性がありますよね。」
「おっしゃるとおりです。それで悩んでいるのですよ。確かに今のままクリフの体力が戻っていくなら、再手術出来る可能性は高くなるでしょう。でもこの道具を使って、執刀するのが私では、また同じことになる危険性も、同じだけ高くなるというわけです。」
このメスのような医療器具は、一般的な鍛冶屋では作れない。剣などを作る設備ではこんな小さなものまで対応出来ないからだ。メスのような小さな刃物は専用の設備で作られるのだが、その鍛冶場はほとんどが南大陸西側の村々にある。あのあたりは元々気候がいいので、モンスターがおとなしくなったあとは畑も作れるようになったし羊などを飼って暮らすことも出来るようにはなった。だが、それだけではなかなか暮らし向きがよくならない。そこでフロリア様が、南大陸西側地域の基幹産業となるよう、設備投資をしたとのことだった。
「それだけ薄くしても折れずに、しなやかによく切れるとなると・・・」
「・・・・・・・・。」
「・・・ナイト輝石ですか?」
ハインツ先生は黙ってうなずいた。
「なるほど・・・ナイト輝石なら、もっと薄く鋭くしなやかに作ることが出来るし、今の時代なら、採掘再開の気運も高まっている。」
「とは言え、今すぐにナイト輝石のメスを作ってくれなどという気はありませんよ。ナイト輝石が昔のように供給されるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうですからね。ただ、今作られているメスも、もう少し技術が進歩してくれないかと思いましてね・・・。もっとも、それでも執刀する側の問題は残るわけですが・・・。」
その後、ハインツ先生はクリフの病室に戻った。私は受付に向かい、廊下におかれている椅子に座ってハインツ先生の話を改めて考えた。
(深い病巣か・・・。確かに、今あるメスではどうがんばっても無理な部位でも、ナイト輝石で作られたメスならば、あるいは・・・。)
ナイト輝石で医療用器具を作る、これはなかなかの名案だ。ハインツ先生には『ぜひドゥルーガー会長を説得して、フロリア様に正式に願い出てください』と言っておいた。ハインツ先生はもとよりそのつもりだろうが、今のところナイト輝石の先行きはあまりにも不透明だ。医師会はまだ動けないだろう。
(今はナイト輝石のメスはない。では・・・)
ではどうする?
メスを研いでもらうか?そのほうが現実的だ。とは言え、普通の剣を研ぐような設備でメスは研げない。それに、そんなことはとっくにハインツ先生だけでなく、医師会の医師達も試していることだろう。以前私もドリスさんに何とかならないかと尋ねたことがある。
『確かに設備の問題もあるが、こりゃ材質そのものから考え直さないと無理だぞ。鉄の中でも飛び切り良質な鉱石でもあれば、もう少しましなものは作れると思うが・・・これだって相当いい仕事をしている代物だ。これ以上の鋭さと薄さ、しなやかさを追求するとなると・・・』
ドリスさんはそう言葉を濁し、ため息をついた。そのあとに言いたかったことが『ナイト輝石なら』と言う言葉だろうと言うことは想像がついた。
(・・・・・・・・・。)
クリフの病気は、病巣が体中のあちこちの臓器に転移していくという厄介な病気だ。今のところその転移先が腹部でおさまっているから手術して取り除くことが出来るのだ。もしもこれが、肺や脳にまで転移してしまったらもうどうしようもない。そうなる前に、手を打つ必要がある。クリフがここに入院してからもう半年が過ぎるが、実際の発病はもう少し前だと聞いた。体の不調を隠して仕事を続けていたらしい。その『最初に体の不調を感じた時期』は特定出来ない。おそらく最初の兆候なんて本人だって覚えていないだろう。となると、手を打つなら今このあたりがぎりぎりか・・・。手遅れでないことを祈るしかない。
(・・・でも、うまく行ったところでどこまで生きられるかは不透明なままってわけか・・・。)
『完治までは行かなくても、薬で抑えながら普通の生活が出来るようにまでは・・・ならないもんなのかな・・・』
オシニスさんの言葉が胸に痛い。王国剣士としてはやっていけなくても、せめて普通の生活が送れるようになれば、その後の人生が人並みよりも短かったとしても、クリフがやりたいことをするための猶予はもう少し長くなるというのに・・・。
(道具の進歩はどんなに急いでも時間がかかる。対応できることがあるとすれば・・・)
思わず自分の両手を見た。この手の中にあるもの。これを使うことが出来れば、あるいは・・・。
(でも、手術をするのは私じゃない・・・。)
どうすることが一番いいのだろう。
|