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 私達はその厚意をありがたく受けることにした。カインは当然のように灯台守達のテントを借りて潜り込み、私達のテントにはウィローと私が残った。
 
(明日、大丈夫なのかしらね・・・。)
 
 ウィローが不安げに囁く。
 
(デレクさん達の考えは何となくわかる気がするよ。今日みたいな調子で南大陸に行ってしまったら、もう助けてあげることは出来ないからね・・・。)
 
(つまり、一人前に戦えるかどうかのテストって事?)
 
(おそらくはね・・・。だから、君も鉄扇を抜いたりしちゃだめだよ・・・。)
 
(・・・大丈夫よ。あなたが危険な目に遭わない限りはね。)
 
 ウィローにとって、それだけは譲れない一線らしい。その後何事もなく時は過ぎ、不寝番の交代の時間になった。私がテントを出たころにはカインはもう外に立っていて、灯台守と引継をしていた。
 
「お、来たか。今のところ静かだそうだよ。あとは朝まで何事もないことを祈ろうぜ。」
 
「だといいね。」
 
「では私達はのんびり眠らせてもらうよ。」
 
「はい、お休みなさい。」
 
 言ったときに気づいた。カインと私の声の他にもう一人の声が聞こえた。
 
「・・・ウィロー・・・?」
 
 いつの間にかウィローが起きていて、私の後ろに立っていたのだ。
 
「私もつきあわせてよ。一人だけのんびり寝ているのはいやなの。」
 
「それはいいけど・・・。」
 
「出来れば寝ていてほしいって顔に書いてあるぞ。いいじゃないか、今日は万一何かあっても人手もあるし、3人でやろうぜ。」
 
 カインが私の顔をのぞき込んで笑った。どうも私はウィローのこととなると、考えていることが全部顔に出てしまうらしい。3人で焚き火の回りに座った。眠気覚ましのコーヒーを淹れ、一口飲むと、不寝番の最中だというのに、なぜかホッとする。
 
「何だかいろいろなことがあったなあ・・・。」
 
 カインがぽつりと言った。本当に今日一日でいろんな事があった。
 
「でもたくさんのいい人達に出会えたわ。この出会いを大事にしたいわね。」
 
「そうだよな・・・。とくに、王国軍の奴らが、けっこういい奴だったってわかって、ホッとしたよ。」
 
「彼らみたいな考えの人が、王宮の中に誰もいないとも思えないから、多少なりとも希望は見えてきたね。」
 
「うん・・・。そうだよな・・・。いくらならず者みたいな奴らを集めても、中にはいい奴だって、いるよな・・・。」
 
 それは半分自分に言い聞かせるような口調ではあったが、カインは少しだけ安心したような表情になっていた。その表情を確認して、ウィローも微笑んでいる。心配していたんだろうな・・・。ウィローの笑顔を見ると、私も安心する。ゆっくりと流れる時間。モンスターの気配はあるが、大分遠い。このキャンプ全体に、穏やかな空気が流れていることを感じる。これが、モンスターとの共存と言うことだろうか。お互いがお互いの居場所を侵すことなく、同じ大地の上で共に生きていくこと・・・。
 
 
 翌朝、王国軍の兵士達は早々と起き出してきていた。みんな緊張しているのがはっきりとわかる。灯台守達の真意はともかく、自分達が『試される』事だけは理解しているようだ。
 
「では隊列を組もう。」
 
 デレクさんの言葉で、歩くときの順番を決めることになった。先頭に王国軍の兵士が3人、次にデレクさん、カインと私とウィロー、私達の後ろにナーリンさん、そしてしんがりがなんと、ロッドとレイトの2人だ。これは彼らから言いだしたことだった。
 
『俺とレイトをしんがりに使ってくれ』
 
 昨日のことがよほど悔しかったのだろう。何が何でも名誉挽回して、南大陸へ渡らせてもらおうという、意気込みがうかがえる。それはいいのだが、肩に力が入りすぎると、あまりいい結果を生まない。
 
「では出発しよう。君らのお手並み拝見と行こうか。」
 
 デレクさんの口調はのんびりとしている。彼らだけでモンスターを追い払えなくても、自分達がカバーできると気楽に構えているのか、それとも、本当に彼らだけで何とかなるだろうと思っているのか・・・。
 
 
 歩き始めてしばらくは静かなものだった。南地方でも西側の方はそれほど気候も厳しくなく、モンスターと言ってもそんなに数は多くない。灯台守は王国軍の兵士達を見ているのかいないのか、よくわからない。兵士達は彼らなりに必死であたりに注意をはらっている。
 
「あいつらの腕を見るつもりなんですか?」
 
 カインがデレクさんに声をかけた。
 
「腕を見ると言えるほど、私の腕はたいしたものではないよ。それに南大陸も、ここ南地方も、腕だけで乗り切れる場所ではないことは、君達だってわかっているだろう?」
 
「確かに・・・。」
 
「それに、たとえば彼らの腕に問題がないとしても、私達が勝手にロコの橋を渡らせることは出来ない。いろいろと面倒な問題があるのでね。」
 
「許可が下りないからってだけではなさそうですね。」
 
 カインの言葉にデレクさんがくすりと笑った。
 
「そうだな。だいたい、許可云々で誰もが黙って従うほど、今の王宮に力があるかどうかも疑わしいのさ。」
 
「え!?そ、それは・・・。」
 
 カインが青ざめ、つい今し方まで彼を包んでいた柔らかな空気が突然ピンと張りつめた。途端にあたりの空気までもがざわつき始め、モンスター達の気配が近くなった。
 
「カイン、落ち着いてよ。君の今の不安な気持が、あたりのモンスターに影響を与えてるよ。」
 
「あ、ああ・・・ごめん・・・。」
 
 カインが落ち着こうとしているのがわかる。だが時すでに遅かったようだ。
 
「うわっ!」
 
 先頭を歩くドリーが声をあげた。そこにいたのは口が耳まで裂けているコボルドの群れだ。体は小さいがかなり獰猛な種族で、知能は低く、ほとんど本能だけで動いていると言っても過言ではない。
 
「お、俺のせいか?」
 
 カインが不安げに呟く。
 
「まさか、そんなんじゃないよ。」
 
「君のせいではないさ。ただ、このあたりのモンスター達は知能が高くて、他の生物の不安や怯えの感情に同調するらしい。おそらくは、我々全体の緊張感が伝わってしまったのだろう。まず落ち着いて、とにかく動きを見ていよう。襲ってこなければそのまま通り過ぎるのが一番さ。」
 
 デレクさんが小さな声で言った。
 
「冗談じゃねぇよ!?しっぽを巻いて引き下がれってのか!?」
 
 先頭でドリーが怒鳴った。昨夜はロッドにあんなことを言っていたが、どうやら負けず嫌いなのは彼も同じらしい。ただ、ロッドと違うのは、敵と自分の力量差をきちんと見極めるだけの冷静さを備えていることだ。確かにコボルドならば、デスニードルほどの危険はない。
 
「襲ってこないのに、こちらからかかっていくことはあるまい。そんなことで君らの腕を誇示しようなどとは考えないことだな。」
 
 デレクさんの言葉に、ドリーが忌々しそうに舌打ちをした。コボルド達は、私達の一行をじっと見つめている。彼らから感じられるのは、「怯え」の感情だ。そうだ。彼らは怯えているんだ。私達を襲いたいのではなく、私達が恐いから、身を守るために戦おうとするのだ。
 
 
 しばらくにらみ合いが続いたが、結局コボルド達はそのまま引き上げていった。
 
「なんとかなったな・・・。」
 
 ホッとした声でデレクさんが言った。
 
「しかしいつもよりおとなしかったな、あいつら。」
 
 ナーリンさんが呟く。
 
「ふん、それもその剣の御利益ってことか?」
 
 背後でロッドの声がした。
 
「そんなわけじゃないと思うけどなあ・・・。」
 
 そもそも昨日、なんでモンスター達が引き上げていったのか、私達にも本当のところはわからないのだ。しかも今日、私の剣はずっと鞘に収まったままだ。一度も抜いていない。
 
「・・・まったく、あんたには嫌みも通じねぇのか・・・。あ〜あ、ばかばかしい。おいドリー、少しのんびり行こうぜ。目ぇつり上げてそこいら中に気配りしながら歩いてたんじゃ、クロンファンラに着く前にバテちまいそうだ。」
 
 嫌みを言われてたのか・・・。それも気づかなかった。まあいいや。争いごとは好きじゃない。
 
「どうやら、君の剣は鞘に収まっていても、その力を発揮するようだな。」
 
 デレクさんがぼそりと呟くように言った。
 
「本当にこの剣のせいだと思うんですか?」
 
「今のところそれ以外に原因が思い当たらないからな。」
 
「・・・・・・・・・・・・・。」
 
 どうにも複雑な気分だ。私にとってこの剣は、父の形見だ。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけだ。もちろん私にとってはこの上なく大事なものだが、この剣に本当に、モンスターの闘争心を弱めるような力があるのだろうか。
 
「考え込むことはないさ。無用な争いをせずに旅が出来るのは何よりだ。我々は君に感謝しなくてはならないくらいなんだからな。」
 
 そう言われても、私自身は実に複雑な気分だった・・・・。
 
 
 その後、まったく、本当にまったく何事もなく、私達はクロンファンラに着いてしまった。街の入口で、デレクさん達はロッド達を灯台守の詰所に泊まるよう勧めた。
 
「なんで俺達がそこに泊まらなきゃならねぇんだ?」
 
「君らとは、まだまだいろいろと話したいことがあるからな。それに、灯台守の詰所は結構広いんだ。お世辞にも豪華とは言いかねるが、乾いた清潔なベッドくらいは提供できるぞ?」
 
 ロッドの鋭い視線をするりと受け流し、デレクさんは涼しい顔をしている。ここは黙っている方が得策だ。
 
「ふん・・・何を考えてるのかしらねぇが、取りあえず世話にはなるよ。俺達もあんたらとはきっちり話をしておきたいからな。」
 
「では決まりだな。」
 
 してやったりと言った表情でデレクさんはうなずき、今度は私達に向き直った。
 
「ここまでご苦労だったね。君達はここの宿屋に泊まるのか?」
 
「そのつもりです。いろいろと調べ物をしたいので。」
 
「調べ物?」
 
「はい。」
 
 思った通り、デレクさん達は怪訝そうな顔をした。
 
「今回はたまたま無事にここまでたどり着けましたけど、この先はわかりませんから、モンスター達の生態なども、勉強しておいたほうがいいかと思って。」
 
「なるほどなぁ・・・。確かに、この先も今回のようにうまくいくとは限らんだろう。実際君達は、南大陸ではずいぶんとたくさんのモンスターを相手に戦ったようだからな。それじゃ図書館に通うのか?」
 
 私があらかじめ用意していたもっともらしい答えを、デレクさん達は不審がる様子も見せなかった。多少はおかしいなと思ったとしても、居場所を追われた私達が、ワラにもすがる思いでここの図書館を訪れたのだと、そう思ってくれたかも知れない。
 
「はい。」
 
「図書館に行くなら、ぜひフロリア様を元に戻す方法でも調べてくれよ。あの調子では、この国がいつまで持つかわかったもんじゃないからな。」
 
 ナーリンさんの言葉に、カインの心臓がドキンと鳴る音が聞こえたかと思うほどだった。でもそれはきっと、自分の心臓の音だ。もちろん、これは冗談なんだと思う。ナーリンさんは笑っているし、デレクさんも『バカを言うな』と呆れたようにナーリンさんをたしなめている。つまり、『フロリア様を元に戻す』など、冗談の域でしか語れないほどにあり得ないことだと思われていると言うことだ。
 
「そうですね・・・。早く何とかしないと・・・。」
 
「気にするな。レイナック殿でさえ説得に苦労されているのだ。今までの一連の出来事は、やはりフロリア様ご自身のお心によって決断されたとしか考えようがない。つらいだろうが、今はがんばって生き延びてくれ。そして必ずや王宮で再会を果たそう。」
 
 2人が差し出してくれた手を、私達はしっかりと握り返した。
 
 
 
「もう夜か・・・。さすがに図書館は閉まったかな。」
 
 カインがぽつりと言ったのは、宿屋の前について、扉に手をかけようとしたときだった。
 
「今日は一日歩いて疲れてるから、明日にしようよ。頭がきちんと働くようにしておかないと、どんなにいい資料が見つかってもちゃんと理解出来ないよ。」
 
 カインはくすりと笑い、『そうだな』と呟くように言って扉を開けた。
 
「いらっしゃいませぇ!!」
 
 迎えてくれたのは、以前と変わらない元気のいい声。
 
「こんにちは。」
 
 フロアには何組かの客がいた。以前ほどではなかったが、この宿屋は今でも賑わっているらしい。エリーゼがそのフロアの真ん中に立っていた。声と同じく、彼女の笑顔も以前と変わりない。
 
「・・・え・・・?」
 
 エリーゼは私達の顔を見、一瞬ぽかんとして・・・そしてパッと笑顔になった。
 
「あ、あなた達・・・帰ってきたのね!?」
 
「帰ってきたよ。久しぶりだね、エリーゼ。」
 
 次の瞬間エリーゼの笑顔が歪み、涙が溢れた。そして迷わずカインに飛びついてそのまましばらく動かなかった。
 
「お、おいエリーゼ・・・・。」
 
「しばらくそのままでいてあげなよ。」
 
 南大陸へと向かう日、エリーゼがとても不安そうに私達を見送ってくれたことを、今でも覚えている。エリーゼの心が誰に向いていたのかも、今ならわかる。こんなときには黙っているのが一番だ。
 
「おお!?エリーゼの彼氏か!?」
 
「なんだなんだ!?こいつエリーゼを泣かせたのか!?」
 
 客達の口笛やひやかしの歓声が聞こえる。
 
 カインは少し困ったような顔をしていたが、やがて小さく微笑んでエリーゼの肩に手をかけた。
 
「心配かけてごめんな。この通り、何とか生きて戻ってきたよ。しばらく泊まりたいんだけど、部屋は大丈夫か?」
 
 エリーゼは顔を上げて
 
「あ、あの・・・ごめんなさい、いきなり・・・。あなた・・・達の顔を見たらうれしくて・・・・。」
 
 顔を真っ赤にして、エリーゼは涙を拭った。「達」が付け足しだってすぐにわかった。エリーゼはきっと、ずっとカインが帰ってくるのを待っていたんだ・・・。
 
「はい、お部屋は空いてます。大丈夫よ。何日でも泊まれるわ。」
 
 エリーゼは何度も深呼吸して背筋を伸ばし、笑顔を作った。
 
「それじゃお世話になるよ。えーと、俺達は2人で。あと女の子がいるから1人部屋を頼むよ。」
 
「は、はい・・・。」
 
 ウィローをちらりと見たエリーゼの笑顔の奥に、探るような表情が一瞬だけ見えた。ウィローがカインの恋人ではないかと、心配しているらしい。
 
「あ、クロービス、勝手に決めちまったけど、何なら俺が1人部屋に行くか?それでもいいぞ?」
 
 にやにやしながらカインが言った。それはエリーゼに聞かせるためなのだろうか・・・・。いや、カインにそこまで気が回るわけがない。単に私達をからかいたいだけなんだろうけど、このタイミングではちょうどいい説明になったかも知れない。
 
「そうはいかないよ。エリーゼ、今カインが言ったことは気にしないで。カインと私が2人部屋で、ウィローが1人部屋でいいよ。」
 
「はい。」
 
 エリーゼの笑顔からは、さっきの探るような表情が消えて、心なしか返事も明るくなったような気がする。
 
「ウィローさんとおっしゃるのね。私、ここの宿屋の娘でエリーゼです。よろしくね。」
 
「はい、よろしくお願いします。」
 
 ウィローが笑顔で応えた。
 
 
「はあ・・・食った食った。」
 
 満足そうにカインが腹をさすっている。宿について、私達は何日、いや、何週間ぶりかの風呂に入り、豪華な食事を平らげたところだ。クロンファンラの宿代は、今も王国剣士は無料なのだという。どうやらレイナック殿が手を回してくれたらしい。ここの宿代を払える程度のお金は持ち合わせていたが、その前に宿屋の主人から『あんた達から金はとれねぇ』と言われてしまった。
 
「ここの食事もおいしいわねぇ。」
 
 ウィローも満足顔だ。なのに私はと言えば、自分の気持が少しずつ沈んでいくのをどうしても止められずにいた。今日は久しぶりに熱い風呂に入っておいしい食事を食べて、乾いたふとんでゆっくり眠れる。けれどこの街を出たあとは・・・またあてのない旅が始まる。『フロリア様を元に戻すため』などと言う大義名分を掲げてみても、所詮は自分にそう言い聞かせているだけのことで、そもそも本当にそんなことが出来るのかどうかもわからない。灯台守達の話を考えてみても、フロリア様は本当に心から変わられてしまっている。カインの言うような魔法が本当に存在したとしても、人の心というのは魔法ごときで簡単に変わってしまうものなのかどうかと、私は未だに疑っている。そしてもう一つ気にかかるのは、私の剣のことだ。昨日、私の剣が突然輝きだして、モンスター達が引き上げていった。そう、『追い払った』のではなく、モンスター達は『自分から引き上げていった』のだ。そして今日も、あのコボルドの群れは私達を怯えた目で見つめていたというのに、襲うどころか威嚇するそぶりすら見えなかった。しかも剣は、鞘から抜かれていなかったというのに。
 
 なぜだ?
 
 最初に南地方に来たときは、この剣はまだ、ごく普通の剣だった。それがセントハースとの戦いで輝き始め、初めて行った南大陸では、思いもかけず一刀のもとにモンスターを追い払うことが出来た。この剣が持ち主を選ぶと言われる『ルーンブレード』だと教えてくれたのはカナのテロスさんだったが、あの人もこの剣の由来についてはよく知らなかった。あれほどの腕を持つ鍛冶師ですら、製法どころかその由来すら知らないと言われる『ルーンブレード』・・・。この剣は一体何なのだろうか。どんな出自で、誰の手によって作られたものなのか、そして父は・・・・そのことを知っていたのだろうか・・・・。
 
「それじゃ、明日は朝から図書館だな。」
 
「あ、ああ、そうだね・・・。」
 
 そうだ、今はこれからの予定を3人で話し合っていたところだ。
 
「どうした?疲れたのか?まあ、剣を抜かずにすんだとは言え、あの連中と一緒に歩いてくるのはけっこう気を使ったからな。」
 
「いや、疲れたって程じゃないけど、たしかにそうだね。敵の姿が見えれば反射的に剣に手が行くから、うっかり抜かないようにする方が大変だったよ。」
 
「はっはっは!まったくだ。ま、あの連中のことはもう灯台守達に任せよう。どっちみち俺達がロコの橋を渡る手助けなんぞ出来やしないしな。」
 
「そうだね・・・。」
 
「それじゃ、明日は図書館に行って調べ物をするとして、あと街の中を少し歩いてみないか。街の人にも話が聞ければいいなと思ってさ。」
 
「そうだね。大きい街だから、吟遊詩人とかもいるかも知れないし。」
 
「そう言えばシャーリーだっけ?セントハースのことを教えてくれたのは。」
 
「確かそんな名前だったと思うよ。あの時はこの街でしばらく興行してるって言ってたけど、さすがに今はもういないかな。」
 
「へえ、ここにも吟遊詩人がいたの?」
 
 ウィローが興味を示した。
 
「ああいたよ。きれいな人だったけど、多分俺達よりは大分年上だったかな・・・。民間伝承についてもいろいろ調べてるみたいなことを言ってたけど、どこにいるのかなあ。いたらきっといろいろ話が聞けると思うんだけど・・・。」
 
「でもオシニスさんは疑ってたみたいだね。」
 
「まあな・・・。聖戦竜にあんなに詳しい吟遊詩人てのも、確かに妙と言えば妙だったからな・・・。」
 
「でも会いたいわね。そんなに詳しい人なら、何か手がかりになるようなことを知っているかも知れないわ。」
 
「そうだなあ・・・。ただ俺達があの人に会ったのはもう何ヶ月も前だからな。」
 
「もしかしたら南大陸にでも行ってしまったか、でなきゃ城下町あたりにいるかも知れないね。」
 
「そうかも知れないな・・・。まあここで考えていても始まらない。今日はもう寝ようぜ。明日になったら、また考えよう。」
 
 カインの声はとても明るく、希望に満ちている。なのにこの部屋には、さっきからずっと張り詰めた空気が漂っていた。カインが明日からのことを、見た目ほどには楽観視していないことは何となくわかった。でも希望を持ちたい。きっと何かわかることがあると思いたい。その気持を痛いほどに感じる。
 
(・・・・・・・・・・?)
 
 変だ・・・。カインが実は緊張しているのはわかるとして、なぜかウィローからも妙に張り詰めた空気が感じられる。持ち前の勘の良さで、カインが実はかなり気を張っていると気づいているのか?でなければ何か、他に心配事があるのだろうか・・・。
 
「そうだね。それじゃウィロー、部屋まで送ってくよ。」
 
 立ち上がった背後にカインの視線を感じる。また『そのまま泊まってこい』とかなんとか思ってるんだろうか。このまま、ウィローの部屋で朝までずっと一緒に・・・。
 
 ドキンと心臓が波打った。
 
(・・・ウィローは・・・どう思ってるんだろう・・・。)
 
 廊下を歩きながら、ちらりとウィローの横顔を見た。何となく不安げに見える。明日をも知れない旅の途中だというのに、私が今こんなことを考えているなんて知られてしまったら、軽蔑されるんじゃないだろうか。何だか自分が情けなくて、思わずため息が出た。
 
「・・・どうしたの・・・?」
 
 ウィローが怪訝そうに私の目をのぞき込んだ。また心臓が高鳴る。
 
「いや、なんでもないよ。さっき言ってたじゃないか。今日はよけいな気を使いながら歩いてきたから、疲れたねって。」
 
 とっさに思いついた言い訳だったが、ウィローは特に不審に思った様子もなかったようだった。
 
「そうよねぇ・・・。でもあの人達、どうなるのかな・・・。出来れば灯台守の人達がうまく手配してくれるといいんだけど・・・。」
 
「それにはまず灯台守の人達を、多分全員納得させられなきゃならないんじゃないかな。こっちに今何人いるかわからないけど、全員と話を合わせておかないと、あとが面倒だからね。下手をすれば、フロリア様に灯台守を糾弾するきっかけを与えてしまうことになりかねないし・・・。」
 
「そうね・・・。」
 
 ウィローが小さくうなずいた。今の言葉をカインが聞いたら怒るかも知れないけど、自分の考えが当たらずとも遠からずだろうなと、何となく確信がある。
 
「けっこう賑やかなのねぇ。ローランの宿屋はあんなにがらがらだったのに。」
 
 少しだけ黙ったまま歩いたあと、ウィローが不意に立ち止まり、辺りを見回した。廊下を歩いている途中、何人もの宿泊客とすれ違ったからだ。
 
『こんな時期でも旅をする人達はいるのよ。恐くないのかなって、不思議に思うわ。もっとも、そのおかげでうちは繁盛してるんだけど。』
 
 部屋を頼むとき、エリーゼがそう言って肩をすくめていた。
 
「下のフロアも、前ほどじゃないけどお客さんはたくさんいたしね。」
 
「前はもっといたの?」
 
「大賑わいだったよ。」
 
「廊下も長いわ。ここはかなり大きい宿屋なのね。」
 
 私達の先に続く長い廊下を見て、ウィローは感心したようだ。確かに言われてみれば、ここの宿屋の規模はローランの『潮騒亭』より遙かに大きい。
 
「おかげで君の部屋だけ遠くになってしまったけどね。」
 
 1人部屋というのはそんなに数はないらしく、建物の一番奥にあるという。2人部屋があまり空いてなかったので、私達の部屋とウィローの部屋はかなり離れてしまった。何日かすれば空くから、そうしたら部屋を替えるわとエリーゼがすまなそうに言っていたが、でもこのままでいいかもしれない。隣の部屋に送っていくというのはわざとらしいが、ある程度離れていれば、それを口実に一緒に部屋を出て、少しでも話が出来る。カインには悪いが、せっかく不寝番もモンスターも気にせずに泊まれるのだから、わずかでもいい、何も気にせず2人で話が出来る時間を持ちたかった。
 
「あらきれいな部屋じゃないの。他が空いても、ここがいいわ。」
 
 やっと部屋について、ウィローがそう言った。1人部屋なのでそれほど広いわけではないが、清潔で居心地の良い部屋だ。窓辺には花が飾られて、客へのさりげない気遣いが感じられる。
 
「それに、あなたが送ってくれるんだから平気よね。」
 
 ウィローが笑顔を向けた。でも笑っているのに、ウィローの回りを包む空気は未だにピンと張りつめている。やっぱりおかしい。
 
「そりゃ心配だからね。いつかみたいに酔っぱらいに絡まれたりするかもしれないし。」
 
「ふふふ・・・あの時は驚いたけど、さすがにそれほどのんきなお客さんは今日はいないみたい。」
 
「そうだね。さすがに今の情勢では、のんびり酔っ払って楽しく旅って気にはなれないのかも知れないよ。」
 
「そうよねぇ・・・。でも今ここに泊まっている人達は、城下町とここを往復してるのかしら。南大陸には渡れないはずだものね。」
 
「多分商人が一番多いんじゃないかな。ローランみたいに城下町から比較的近い場所なら、馬を走らせて荷物を運ぶことも出来なくはないけど、クロンファンラはローランより遙かに大きい街だからね。これだけの規模の街に物資を運ぼうと思ったら、キャラバンを組んで馬車に荷物を積んでこないと間に合わないと思うよ。だからみんな行儀がいいのかも知れないよ。ここで酔っ払って騒ぎを起こしたりしたら、売上にも響くじゃないか。」
 
 ウィローが笑い出した。
 
「そうねぇ。あの商人からは何も買わない!なんて言われたら困っちゃうものね。」
 
「だから、そんなに危険はないと思うよ。でも、部屋に入ってちゃんと鍵はかけておいたほうがいいけどね。」
 
「そうするわ。でも、ねえクロービス、少しだけ話さない?」
 
「そうしようか。今日は火の番もしなくていいし、少しくらい遅く寝ても、朝までゆっくり眠れるからね。」
 
 また以前のようにセントハースでもやってきたりしなければだが・・・。
 
「そうよね。今夜はゆっくり出来るのよね。」
 
 ウィローが言い出さなければ私が、少し話をしようと、言おうと思っていた。ウィローを取り巻くこの張り詰めた空気の原因を、少しでも探っておこう。心配の種を明日に残すようなことはしたくない。話すと言っても1人部屋にはソファやテーブルはない。私達はベッドの端に並んで腰掛けた。
 
「・・・・・・・。」
 
 少し緊張した。さっき自分が考えていたことを不意に思い出してしまったからだ。静かな宿屋の一室。不寝番もしなくていい、何も考えずにのんびり出来る貴重な時間・・・。そして今私達が座っているのはベッドの上で・・・・
 
「ねえクロービス?」
 
「・・・な、なに!?」
 
 心臓が飛び出しそうなほどに驚いた。今考えていたことがウィローに知られてしまったのかとさえ思った。この部屋の中で、私以外の誰もそんなことは出来ないというのに・・・。
 
「あの・・・気のせいかも知れないんだけど・・・。」
 
「何か気になることがあるなら言ってよ。ちゃんと口に出して話しておかないとね。」
 
 心臓の音をごまかしたくて、焦っている気持を知られたくなくて、つい早口になる。ウィローはくすりと笑って・・・すぐに真顔になって私の顔をのぞき込んだ。赤くなっていないだろうか。頬がひきつっていないだろうか。
 
「何か・・・あった?」
 
「・・・え・・・?」
 
 また心臓が波打つ。本当に・・・今考えていたことを・・・まさか!?
 
「ど・・・うして・・・?」
 
 声がうわずっている。今すぐにでもここから逃げ出したい。そして落ち着いてからまた話をしたい。そんな突飛な考えが頭をもたげる。
 
「さっき3人で話していたとき、何となく上の空だったから・・・。」
 
「・・・そう・・・かな・・・。」
 
 一気に力が抜けた。やっぱり私の思い過ごしだった。ウィローには今私が考えていたことを知られたわけではないらしい。
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 まったく情けないことこの上ない。ウィローは心から私のことを心配してくれているというのに・・・。
 
「何もないならいいけど・・・。ずっと元気がないみたいだったから、剣を抜かないようにするために気を使っただけだなんて、思えなくて・・・。」
 
「そうだね・・・。」
 
 今ここで何でもないよと、疲れてるだけだよと、言ったところでウィローは信じないかも知れない。半端な嘘は私達の間に溝を生むだけだ。ここは正直に言おう。・・・今考えていたことは別にして。
 
「・・・ごめん、隠したいわけじゃなかったんだけど、せっかくカインが明日からがんばろうって言ってるときに、あんまり気分が沈むようなことを言いたくなかったんだ・・・。」
 
「そう・・・。やっぱり気になるのは剣のこと?」
 
「うん・・・それにフロリア様のことも・・・。」
 
「レイナック様というのは、フロリア様にとっては親代わりみたいな人なの?」
 
「そうだね。前の国王陛下が亡くなったあと、6歳で即位したフロリア様をずっと見守ってきたのはレイナック殿だよ。即位当時は君のお父さんもいたしケルナー卿もいたけど、どちらももういないから、今となってはフロリア様に意見を言える数少ない重臣なんじゃないのかな。」
 
「父さんがもしも生きていたら・・・何か事態は変わっていたのかなあ・・・。」
 
「どうかな・・・。歴史にもしもは存在しないからね。仕方ないよ。もう起きてしまったことなんだから、これからのことを考えよう。」
 
「これからのこと・・・そうね・・・。」
 
「今王宮にいるフロリア様は、もう私達の知っているフロリア様じゃない、カインがどう考えていようと、それを事実として受け入れるしかない状況になってると思う。それは頭ではわかってるんだけどね、でもやっぱり思ってしまうんだ。何でこんなことになっちゃったんだろう、どうしてなんだろうって・・・。」
 
「そうね・・・。カインは受け入れることが出来ているのかしら・・・。」
 
「出来ていると思いたいけど、正直なところわからないよ。明日図書館で、何か希望が持てるようなことがわかればいいんだけどな・・・。」
 
 何一つわからないままになる可能性もあるし、カインにとって一番受け入れたくない事実を突きつけられることもあるかも知れない。そうなったとき、カインはどうするのだろう・・・。
 
「あなたの剣のことはわからないのかしらね。」
 
「気になる?」
 
「そりゃなるわよ・・・。単に持ち主を選ぶだけにしては、不思議な力がありすぎる気がするわ。」
 
 そこまで言って、ウィローは不意に顔を上げた。
 
「あ、あのね、勘違いしないで。気味が悪いとか思ってるんじゃないの。ただ、もしもあの剣が何かとてつもない力を秘めているのだとしたら、あなたにとってあの剣を持ち続けることが、必ずしもいいことではないような気がするの・・・。大きすぎる力って・・・そんなにいいものじゃないと思うわ・・・。」
 
「大きすぎる力か・・・。」
 
 確かにウィローの言うとおりなのかも知れない。ドラゴンの瞳を貫き、モンスターを一刀のもとに追い払った私の剣。今では抜いただけでモンスターが道を空け、彼らの闘争心すら失わせる・・・。それらが全てこの剣の持つ力だとすれば、それは私ごときが操るにはあまりにも大きすぎる力ではないのか・・・。
 
「だから、明日はカインの言っていた本の他にも、ルーンブレードのことがわかるような本も探したいわ。」
 
「そうだね・・・。でもどうかなあ。王立図書館と言っても、あんまり古い本は置かれてないからね。王宮の文書館にでも行かなければ、はっきりしたことはわからないかも知れないよ。」
 
「文書館・・・あのサクリフィアから持ち出したって伝えられるような本がたくさんある、あの?」
 
「そうだよ。そう言えばパティのお父さんはその文書館の管理官をしてるはずなんだけど、今はどうなってるんだろうな・・・。王国軍の連中に蹂躙されるようなことがないといいけど・・・。」
 
「そうね・・・。」
 
 ウィローはどうしても剣のことが気になるらしい。もしかしたら、今すぐにでもあの剣を手放してほしいと思っているのかも知れない。でも私にとってあの剣は大事な父の形見だ。何があっても手放すつもりはないし、そんなことはウィローだってわかっているから、せめてその出自だけでも知ることが出来れば、不安も和らぐとでも思っているのだろうか。
 
「でも、とにかく明日になってからだよ。今あれこれ考えてみても、どうしようもないんだから、今日はぐっすり眠って、また明日から動き始めよう。」
 
 出来るだけ明るく言って、ウィローの肩をぽんと叩いて、立ち上がった。いや、立ち上がろうとしたのだが、ウィローが私の肩に両腕を回していたので、立ち上がることが出来なかった。
 
「ウィロー・・・どうしたの?」
 
 また部屋の中の空気がピンと張りつめる。私の首にまわされた腕に力がこもり、ウィローはそのまま私の胸に体ごと預けるような体勢になった。思わずウィローを抱きしめる。まるで熱でもあるかのように、ウィローの体が熱い。
 
「あ・・・あのね・・・。今日、ここに・・・」
 
「・・・え・・・?」
 
「ここに・・・いて・・・。このまま・・・。」
 
「・・・・・・・・!?」
 
 ウィローの頬が触れている部分が熱くなっている。この言葉にどんな意味が含まれているか、わからないほど鈍感ではないつもりだ。さっきからの張り詰めた空気は、このためだったのか・・・。
 
「・・・・・・・・。」
 
 このまま・・・。このままここでウィローと一緒に朝まで、この部屋で2人きりで・・・。そう考えただけで心臓が波打つ。それはきっとウィローにも伝わっているのだろう。こんな時に男たるものどういう態度を取るべきか、なんてことを、ずっと昔ダンさんやドリスさんから聞かされた気がするけれど、何一つ思い出せない。頭の中は真っ白で、ただ腕の中のウィローの体の熱さだけが伝わってくる。今までずっと一緒に旅してきて、こんな日を何度夢見たことだろう。毎晩カインに不寝番の先番を任せて、2人一緒にテントに入ったとき、ウィローの寝息を仕切布一枚隔てた向こう側に感じて眠れなかったことは、一度や二度じゃない。でも今、私達はテントの中じゃなく快適な宿屋の一室にいて、不寝番で夜中に起きる必要もない。あとは何も言わず、部屋の明かりを消せばいいだけだ。
 
「ウィロー、少しだけ、腕をゆるめてくれる?」
 
 耳元でささやいた。私の首にしっかりと回された腕のおかげで身動きが取れない。ウィローは顔だけ私の肩に埋めたまま、腕の力を緩めてくれた。私はウィローを抱きかかえるような格好のまま立ち上がり、ランプの明かりを絞った。部屋の四隅は暗く沈み、ベッドの足下がほんのり照らされているだけになった。ウィローの顔も暗くてよく見えない。部屋が暗くなっただけなのに、自分の心臓の音まで大きくなったような気がした。深呼吸を一つして、もう一度ベッドに戻って、ウィローの熱い体を抱きしめた時・・・。
 
(・・・・・・・・?)
 
 なんだろう・・・。何かが違う。いつもと同じように抱きしめているはずなのに、妙な違和感があった。もう一度ぎゅっと抱きしめてみる。その途端ほんのわずかだが、ウィローの肩が反り返った。そして慌てたように元に戻る。
 
(もしかして・・・。)
 
 真っ白だった頭の中が、少しずつ冷静さを取り戻していた。こんどは抱きしめた腕を、少しだけゆるめてみる。
 
(・・・・・・・・。)
 
 少しだけ戸惑ったように、ウィローの肩が私の腕の中で泳いだが、その時だけ、張り詰めた空気がほんのわずか和らいだ。
 
(そう・・・か・・・。)
 
 何となく、この違和感の正体がわかったような気がした。
 
「ウィロー。」
 
 もう一度名前を呼んだ。ウィローの肩がびくっと震える。まるで怯えてでもいるみたいに・・・。
 
 思い切ってウィローの両足を抱えて膝に乗せた。またウィローの体が跳ね返るようにこわばったが、構わなかった。膝に乗せて、もう一度しっかりと抱きしめて、額にキスをした。そしてなだめるように背中を軽く何度か叩いた。
 
「はい、今日はここまで。」
 
「え・・・?」
 
 ウィローが驚いて顔を上げた。
 
「君の気持はうれしいよ。本当に、すごくうれしい。でも、今日は部屋に戻るよ。」
 
「あ、あの・・・私・・・。」
 
 不安そうに私を見上げる目に、私は微笑んでみせた。
 
「正直言って、私もこのまま君と一緒にいたい。でも君を泣かせたくはないんだ。」
 
「わ、私、泣いてなんか・・・。」
 
 その時、ウィローの瞳から大粒の涙が落ちた。ウィローは慌てて涙をごしごしと擦った。
 
「やだ!なんで・・・?私・・・私、ちゃんと決めたのに!」
 
 また涙が一つ。
 
「無理しないで。ずっと一緒なら、別に焦ることはないよ。」
 
「無・・・無理して・・・なん・・か・・・」
 
 ウィローの目からは、後から後から涙がこぼれてきた。私は黙ってしっかりと抱きしめ、ウィローの肩が震えている間、ずっと背中を撫でていた。こんな風にしているだけでも、今は充分に心が安らぐ。しっかりと抱き合ってお互いの愛情を確かめ合いたい気持はあるけれど、それは今でなくてもいいような気がした。ウィローにとってはきっとそれは一大事だ。せめて心の準備が出来てからにしたい。どれほど愛し合っていても、体の結びつきがうまくいくとは限らない。そうなったときに傷が大きいのは女性のほうだ。
 
(なんてことを言ってみても・・・私が逃げてるだけなのかな・・・。)
 
 ふとそんな考えが頭の中をかすめていく。もう一歩踏み込めない、己の勇気のなさをごまかすための・・・・。でもその弱気な考えは、顔を上げたウィローの安心したような笑顔できれいに吹き飛んだ。
 
「ごめんなさい・・・。自分から言いだしておいて・・・。」
 
 鼻をすすりながらウィローが言った。さっきまでのあの張り詰めた空気はもうすっかり和らいでいた。
 
「君が謝ることじゃないよ。きっとね、私達にはまだその時が来ていないんだよ。」
 
「・・・その時・・・」
 
「そうだよ。」
 
「もしかして・・・ドーラおばさんとの約束、まだ気にしてるの・・・?」
 
「気にしていないよ。君と離れるなんて考えてないから。」
 
 これは全くの正直な気持だった。北大陸へと戻って来るなり喧嘩をして、海鳴りの祠で仲直りするまでの間、たった10日間だというのにまるで10年にも感じられるほどに長かった。もう二度とあんな思いはしたくない。絶対にウィローと離れたりするものか。もちろんそれは、ウィローが私の顔など見たくもないと言い出さないことが大前提だ。でもそれは今は言わないでおこう。それはウィローの問題だ。そんな心配をしたところで私にはどうしようもない。出来ることと言えば、せめて嫌われないように、ウィローに対して常に誠実であろうとするくらいのものだ。
 
「ただ、泣き顔の君より、笑顔の君のほうがいい。だから、今はこうしているほうがいいよ。」
 
 もう一度ウィローを抱き寄せた。泣きながら、半分拒絶されながら抱き合うより、こうして笑顔で寄り添っていたほうがよほどいい。少しの間、2人ともただ黙っていた。部屋の中に流れる穏やかな空気に身を任せて、ゆったりと流れる時間を過ごした。
 
「・・・そろそろ部屋に戻るよ。」
 
「うん・・・そうね・・・。今日はごめんなさい。」
 
「謝らないでよ。君は何も悪くないんだから。」
 
「はあ・・・やっぱり背伸びしてたのかな・・・。決心したつもりだったんだけど・・・。」
 
 ウィローがため息をついた。
 
「無理はしないでよ。いずれその時が来るよ、きっと。」
 
「そうね、それまでにがんばってこの国の平和を取り戻さなきゃね。」
 
 ウィローが笑った。
 
 
 部屋を出て、鍵がかけられる音を確認してから、私は自分の部屋に向かって歩き出した。長く広い廊下を吹き過ぎていく風が、火照った体に心地よい。私の頭の中はすっかり冷静さを取り戻していたのだが、体のほうはそう簡単に言うことを聞いてはくれなかった。こんな時、男ってのは不便だなあといつも思う。自分で自分の体をコントロール出来ないとは、まったく情けない。
 
 
「ただいま。」
 
 部屋に戻って中に入った。カインはまだ起きていた。
 
「寝てなかったの?」
 
 私の問いには答えず、カインはじっと私の顔を見つめている。
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 まだ顔が赤いんだろうか。それとも変な顔をしてただろうか。だが、カインはやがてにやりと笑って
 
「しっぽを巻いて逃げだしてきたなら、叩き出してやろうかなと思ってたんだけど、そうでもないみたいだな。」
 
 そう言って笑った。それが何のことを言っているのかはすぐにわかった。
 
「ずいぶん晴れ晴れとした顔をしてるけど、泊まってこなくてよかったのか?」
 
「泊まってきたいくらいだったよ。」
 
「泊まって来りゃいいじゃないか。俺に気を使うことはないんだぞ?」
 
「そう言うわけじゃないよ。ただ・・・。」
 
「ただ、なんだよ?」
 
「泣き顔を見たくなかっただけだよ。」
 
「泣き顔って・・・なんだそりゃ?」
 
 言ってからカインは「あ」と言うようにうなずき、私の顔を見てまたニーッと笑った。
 
「なるほどな・・・。」
 
「わかってくれる?」
 
「何となくな。ま、野暮なことは言わないよ。お前もずいぶん我慢してたみたいだし。」
 
 カインはそう言って、こらえきれないように笑い出した。
 
「笑い事じゃないよ・・・。君だって身に覚えがあることだと思うけどな。」
 
 鼓動と体の火照りはやっとおさまってきた。廊下で風にあたったのがよかったのだろうか。
 
「まああると言えばあるかな・・・。」
 
 カインが複雑な顔で首をかしげてみせた。
 
「何だか含みのある言い方だね。」
 
「んー・・・実を言うとさ、俺って、どっちかっていうと押し倒すより押し倒される方が多かったんだよな・・・。」
 
「なにそれ?」
 
 男のほうが押し倒されるなんて、いったいどんな状況なんだろうと、こんな時にさえ、私の好奇心がムズムズと騒ぎ出す。
 
「今までに何人かの女とつきあったことはあったけどさ、今ひとつ本気になれなかったって話は前にしたことがあったろ?」
 
「ああ、そう言えば聞いたね。」
 
「ま、そのせいで何回平手打ちを喰らったかわからないんだけど、中には『その気にならないならさせてみせる』と考える女もいたってことさ。」
 
 何となく展開が見えてきた。その後カインの話してくれたところに寄ると、相手の女性が突然家にやってきて、服を脱ぎ出すのだという。驚いているカインをベッドに押し倒して迫ってくると言うのだから、それはそれでちょっと恐ろしいような気がする。
 
「あの状況じゃ、ますますそんな気になれなくなるよ。」
 
 カインがため息をついた。
 
「うーん・・・確かにそうだろうけど、でも、それじゃ相手の女の人は納得しなかったんじゃない?」
 
「そうなんだよなぁ・・・。」
 
「じゃどうしたの?」
 
「うーん・・・まあその・・・その時はさ、俺だって相手のことを好きだと思ってるわけだ。」
 
「うん」
 
「だからその・・・やっぱり申し訳ないと思うんだよ。だから、なんとか自分の気持を盛り上げて、相手をするわけさ。それしかないからな。」
 
「それもまた大変だね・・・。」
 
「でも結局、そのあと平手打ちを喰らうのは同じなんだけどな。」
 
「どうして?相手の女の人の望みは叶ったんじゃないの?」
 
「今度は気持が入ってないって怒り出すんだ。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 思わず口をあんぐりと開けてしまった私の顔を見ていたカインが、笑い出した。
 
「まあそういうわけさ。だから、恋人を抱きたくても我慢して、必死に自分を押さえるなんて経験は、そんなにないんだよ。まるっきり1回もないわけじゃないけど、今思うと、その時もやっぱりどこか本気になっていなかったなって気がするよ。」
 
「なるほどなあ・・・。」
 
「俺に言わせれば、そこまで大事にしたいと思える相手に巡り会えて、一緒にいられるお前が羨ましいと思うよ。」
 
 フロリア様のことはどうなんだと、聞こうとしてやめた。フロリア様を1人の女性として見ているのかなんて、聞いてみたところでどうにもならない。かえってカインを苦しませるだけだ。
 
「ありがとう。今日は少し頭を冷すよ。」
 
「ははは、それがいいよ。いずれその時が来るさ。」
 
「そうだね、お休み。」
 
「ああ、お休み。」
 
 上着を脱いでベッドに寝ころんだ。ウィローの笑顔が今も頭の中に浮かぶ。体よりも心だなんて、きれい事を言う気はないけれど、あの笑顔を手放すのだけは絶対に嫌だ。

第70章へ続く

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