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 2人で診療所を出た。ロビーを抜けて外に出てみると、空はもう薄暗い。これから祭りに繰り出す人々が、通りにあふれ出し始めていた。その人混みを縫って宿に着くまで、妻は何もしゃべらなかった。ラドに食事を頼んで部屋に戻ったその時・・・
 
「ねえクロービス・・・。」
 
 妻の肩が震えている。
 
「いいよ。もう我慢しなくても。」
 
 妻が私にしがみついて泣き出した。助かる見込みのない患者の治療にあたってきたとき、妻はいつもこうして泣いていた。もはや先がないとわかっていながら、笑顔で励ましながら治療することがどれほどつらいことか、わたしも身を以て知っている。王国剣士として将来を嘱望されながら、志半ばで病に倒れていくクリフの姿を、ただ見ていることしかできない悔しさ・・・。今自分のしていることさえもむなしく意味のないものに思えて、くじけそうな心・・・。それを全て完璧に隠して、妻はいつも笑って患者を励まし続ける。せめて私の前でくらい、思い切り泣かせてやりたい。私にはそれしか出来ることがないから・・・。
 
「・・・ありがとう・・・。」
 
 しばらくして妻が顔を上げた。
 
「落ち着いた?」
 
「うん・・・。いつもいつも、こんなことじゃだめよねえ・・・。」
 
「そんなことはないよ。むしろ、こう言うことに慣れて痛みを感じなくなることの方が問題だよ。」
 
 人の死に直面して、眉一つ動かさずにいられる平常心。もちろん医師にも必要な落ち着きだとは思うが、それはあくまでも表面をそう見せることが出来る、演技力のようなものではないのかと私は思っている。失うことのつらさ、哀しさ、そしてどうやってもぬぐい去れない喪失感を、私はいやと言うほど味わっている。あんな思いは二度としたくないとも思っている。だが、だからといってそれを感じないようになりたいとは思わない。
 
「そうね・・・。でも本当に・・・あんなにいい子がどうして死ななければならないのかって、思うとね・・。」
 
 妻はまたにじみ出た涙を拭った。
 
「でも、成果はあったようじゃないか。」
 
「うん・・・それが一番の救いよ。もうしばらくがんばってみる。」
 
「明日からも3人で?」
 
「そうなんだけど、明日は医師会の看護婦さん達を何人か連れてきて見学させるそうよ。あとはお医者さん達もね。」
 
「へぇ。人材育成の前準備ってところかな。」
 
「そうみたいよ。私だっていつまでもここにいられるわけじゃないしね。」
 
「そうだね・・・。」
 
「ねえ、あなたのほうは?ライラとイルサのこと、本当にもう大丈夫なの?」
 
「ああ、それがね・・・。」
 
 私は今日一日に起きた出来事を、一通り妻に話して聞かせた。
 
「そんなことになってたの・・・。はぁ・・・みんなが無事でよかったわ・・・。」
 
 妻は疲れた顔でベッドにごろりと横になった。
 
「まったくだよ。ライラとイルサにつらい思いをさせてしまったのが、心残りだけどね・・・。」
 
「でもあなたの行動が間違っていたとは思わないわよ。」
 
「・・・そう・・・?」
 
「私がそこにいても、同じことを考えたと思う。それにカインは王国剣士なんだから、逆にあなたがカインを助けるために迷わず扉を開けていたら、今頃カインがつらい思いをしてたかも知れないわ。」
 
「・・・そうなのかな・・・。」
 
「ライラもイルサも、もう少し自分達をあてにしてほしかったんじゃない?何となくなんだけど、ライラだけじゃなくイルサもね、前から何とか私達の役に立ちたいって、考えてるみたいなところがあったから・・・。きっと、今がその時だと思ったのよ。」
 
「あてにか・・・。確かにそうかも知れないな。」
 
 2人の気持ちは私も何となく感じていた。まったく覚えていなくても、自分が結果的に私達の子供を死なせてしまったような気がしているのだろう。私や妻が、昔カインを失ったことに対して負い目を感じずにいられないように、あの2人も、私達が何を言ったところで、そのことをずっと心の奥に痛みとして感じ続けるのだろう。それは仕方ないことかも知れない。となると、私は今日、一番まずい対応をしてしまったのだろうか。
 
「・・・明日一度話をしてみるよ。誤解されていたりすると困るからね。」
 
「そうね・・・。わかってくれてるとは思うけど。」
 
「うん・・・。」
 
「それより、結局あの書記官の目的はわからないままよね。」
 
「そっちはお手上げだね。今回のことだって、本当にナイト輝石の採掘再開の邪魔をする気があったんだかどうだか・・・。」
 
 それが主目的だったと言っていたわりに、うまく行かなかったことについてはあまり問題にしていないように見えた。
 
「あなたに会いたいって言うのは・・・やっぱりそっちの関係なのかしら・・・。」
 
 妻がベッドに寝ころんだまま、ちらりと壁に立てかけられた私の剣に視線を走らせた。
 
「関係がある可能性は確かに高いんだけど・・・何をしたいのかがわからないな・・・。そもそも、彼の目的がエリスティ公の即位なら、邪魔になるのはフロリア様だけじゃないからね。」
 
「うーん・・・まさかと思うけど、王位を自分で乗っ取りたいとか・・・。」
 
「それは無理だろうな。彼が王位に就けるだけの根拠がないよ。」
 
「自分が就かなくても、誰かを就かせて操ることは可能じゃない?」
 
「操ることが出来そうなのはそれこそ、エリスティ公だけじゃないか。」
 
「それもそうねぇ・・・。」
 
「ま、深く考えないことにしよう。君は明日もクリフの治療に行くんだから、食事をして、お風呂に入って疲れを取っておかないとね。」
 
「そうね・・・。」
 
 考えれば考えるほどわからなくなってくる。一度全部頭の中から追い出して、整理してみたほうが良さそうだ。妻があくびをしている。とても眠そうだ。かなり疲れているのだと思うが、このまま寝てしまっても、翌朝それほどは疲れがとれないものだ。やはりちゃんと風呂に入ってさっぱりして、乾いた寝間着を着て眠ったほうがいい。そこに食事が運ばれてきた。おいしそうな匂いに、閉じかけていた妻の目が開いてむっくりと起き上がった。なんともはや、おいしい食事の力は偉大だと思う。妻は『我ながら現金だわねぇ』と言いながらベッドから降り、笑いながらテーブルについた。この笑顔があるうちは、大丈夫だ。食事を摂りながら、明日、オシニスさんと話をしてくることを妻に話した。妻は黙ってうなずいた。
 
「いろいろあって、こっちに来てからずいぶんと時間が過ぎちゃったけど、そろそろ話しておかないとね。」
 
「そうね・・・。私もそこにいたいくらいだけど、あなたに任せるわ。」
 
「うん・・・。」
 
 そのためだけに来たのではないにしても、私達がこの街に出てきた理由の中に、祭り見物が入ってなかったわけじゃない。今までいろいろあって、やっとのんびりしようかと言うときになって、何だかまた飛んでもない方向に事態が流れてしまったような気がするが、こうなってしまったからには仕方がない。それぞれがすべきことをしようということになった。それに、オシニスさんとの話は、遅かれ早かれしなければならないことだ。先延ばしにしたところで、いいことなんて何もない。
 
 
 翌朝は早めに宿を出た。妻がクリフの様子を気にしていたからだ。診療所のクリフの部屋まで行くと、ゴード先生とハインツ先生がもう来ていて、他に看護婦らしい制服の若い娘が2人、私達より少し若い程度かと思われる女性が一人、それに男性が2人いた。医師かと思ったが違うらしい。看護婦達と同じ仕事をする、ここでは「看護士」と呼ばれている男性達だとのことだ。2人とも歳は30歳くらいだろうか。しかしこの仕事に男手があるというのは実にありがたい。病人の看護をするというこの仕事は、この国ではまだまだ女性が中心になっているが、そのわりに力仕事が多いのだ。このマッサージなどもその一つだろう。ハインツ先生の説明によると、医師会に勤める医師、看護婦、看護士達全員に通達を出し、マッサージに興味のある者を連れてきたとのことだった。
 
「全員に通達を出してこれだけですか?」
 
 少し少なすぎるのではないかと心配になったが、ハインツ先生は笑って首を振った。
 
「いやいや、もっといましたよ。もしもこれしか集まらなかったら、ドゥルーガー会長に直談判にいこうかと思っていましたが、医師会の未来はまだまだ捨てたものではないようです。」
 
「そうですか。失礼しました。」
 
「看護婦達は大半が、ぜひこの技術を習得したいと申し出てくれました。医師達の中にも興味を持つ連中はいたんですよ。でもね、そんなに大挙してここに来られては、クリフの体調が心配になってしまいますからね。今日は取りあえず彼らだけです。今日は見学と言うことでしばらく見ていてもらおうと思ってます。下手に手を出されるとかえってじゃまになりますからね。」
 
 ハインツ先生が笑って言った。妻は、それなら今日は全体の流れを見てもらいましょうと早速提案を始めた。
 
「ではまた夕方伺います。」
 
「はい、本日も奥さんをお借りしますよ。」
 
 ハインツ先生の笑顔に見送られ、私は診療所をあとにした。
 
 
 これからもっとも気の重い仕事をしに行かなければならない。そう思うと足取りも重くなる。だが立ち止まれない。私の足はとうとう剣士団長室の前に着いてしまった。ノックをすると、中から扉を開けてくれたのはライラだった。
 
「おやおはよう。早いね。」
 
「おはようございます。今日は早朝会議に出ることになってるんだ。その打ち合わせだよ。」
 
「そうか。入っていいかい?」
 
「おう、入れ。」
 
 ライラの背後からオシニスさんの声がした。
 
「おはようございます。今日はどうします?」
 
「ああ、おはよう。そうだなあ・・・。朝の会議が終われば、俺のほうは特に用事はないんだが、ライラ、お前はどうだ?何か話があるなら聞いておくが。」
 
「いえ、今日は一日図書室で調べ物をしたいので、イルサに手伝ってもらって本探しをする予定なんです。」
 
「なるほど。イルサなら、書庫の中まで一通りわかるだろうからな。」
 
「はい。もう今からあれこれうるさいんですよ。昨夜は図書室の本について長々と話を聞かされました。」
 
 ライラはうんざりしたように首を振って見せたが、それでも何となく楽しそうだった。3年ぶりの兄妹の再会。このくらいの歳になると、男の子と女の子の兄妹というものはあまり口をきかなくなるなどとも言うが、この2人にはその説は当てはまらないらしい。そのライラの姿を見ると、レザーアーマーを身につけて、腰には剣を下げている。自分で自分の身は守ると宣言した以上、いつでも気を抜けないと言うことだろう。
 
(図書室か・・・。)
 
 ふと、昨日のクイント書記官との「会話」が浮かんだ。何となく心配になったが、だからといって図書室に行くなとは言えない。その理由も説明できないというのに。
 
「先生は今日はどうするの?」
 
「今日はオシニスさんと少しのんびり、昔話でもしようかと思ってね。こっちに来てからいろいろあって、なかなかそう言う機会がもてなかったからね。」
 
「そうか・・・そうだよね。それじゃ先生、のんびりしててよ。あ、でもおばさんはまだ診療所なんだね・・・。」
 
「そうだよ。でも、あそこに先生がいては、かえって医師会の先生方の邪魔になるからね。今はおばさんに任せてあるよ。」
 
「ふぅん・・・。おばさんのマッサージは気持ちいいからなあ。」
 
 ライラも妻のマッサージはお気に入りらしい。
 
「ほぉ、それじゃ俺も今度やってもらおうかな。」
 
「構いませんが、今お疲れなら私がやって差し上げますよ。」
 
「それじゃ本当に頼もうかなあ。」
 
「ええ、いつでも。それじゃ会議が終わったらにしますか?」
 
「お、それはいいな。よしよし、ライラそろそろ行くか。会議が終わればクロービスのマッサージだ。」
 
 オシニスさんは楽しそうだ。でもきっと体はかなり疲れているはずだから、少しほぐしてあげたほうがいいんだろう。
 
「それではその間、私は図書室にでも行ってますよ。」
 
 それとなく安全を確認しておこう・・・。
 
 
 剣士団長室を出て、ロビーでオシニスさん達と別れた。そのまま図書室に行こうとして、後ろから肩をとんとんと叩かれた。振り向くと、そこに立っていたのはカインだっだ。
 
「お前か。今日も休みなのか?」
 
「今日は朝から祭りの警備の予定だったんだけどね、ローテーションが変わって僕だけあぶれちゃったんだ。だから午後から夜までだよ。」
 
「夜までってことは、初の夜警備か?」
 
「うん・・・。夜通しじゃないけどね。」
 
「でも大事なことじゃないか。少しは進歩できたってことだろう?」
 
「うん・・・。アスランと一緒ならよかったんだけど・・・。」
 
「アスランはこれからだよ。やる気満々でリハビリしているようだしね。」
 
「そうだね。ねえ父さん・・・今ちょっと話せない?」
 
「ああ、良いよ。どこで話す?」
 
「そうだなあ・・・。喫茶室に行こうよ。あ、時間あればだけど・・・。」
 
 息子がこんな遠慮がちないい方をするときは、たいてい『気が進まないけど話しておかなければならないこと』を話すときだ。息子の話がなんなのかは、ある程度想像がつく。
 
「わかったよ。行こう。」
 
 息子と2人で喫茶室に向かった。宿泊所の泊まり客を相手の商売とは言っても、一般客が入れないわけではない。朝からなかなかの賑わいだ。これならば、誰かに話の内容を聞かれずにすみそうだ。席について、コーヒーを注文した。ここのコーヒーを飲むのは初めてかも知れない。良い香りが漂っているが、ここのコーヒーは果たしてライラのめがねにはかなったのだろうか。
 
「あのね・・・。」
 
 コーヒーを飲んで、しばらく他愛のない話をしたあと、息子がおずおずと話し出した。
 
「ん?」
 
「あのさ・・・あの・・・」
 
 聞きたいことは山ほどあるが、さて最初になんと言って切りだそうか、息子の心の内が何となくわかる。
 
「昨日の話かい?」
 
 こちらから切り出してやったほうがいいだろう。どのみち私からも話しておかなければならないことがある。
 
「うん・・・。」
 
「さしずめ、父さんが一体何者なのかわからなくなってきた、てところかな・・・。」
 
 昨日オシニスさんに事情聴取の立ち会いを命じられた時、歯切れの悪い返事をしていたのは、事情聴取に対する気の重さもさることながら、オシニスさんと私の会話に違和感を覚えたからなのだろう。まるで見えない敵が見えるような私の話を、息子が奇妙に思ったことは想像に難くない。
 
「え・・・・」
 
 とっさに何もうまい返事が見つからない、そんな顔のまま、息子が口をぱくぱくさせた。
 
「昨日お前がオシニスさんに事情聴取の立会いをしろと言われていたとき、気が重そうだったからね。それは多分、事情聴取そのものだけが原因ではないんじゃないのかなと思ったのさ。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 息子がうつむいた。
 
「・・・島でお前に昔話をしたとき、この先はまだ話せないと言っていたことを覚えてるかい?」
 
「・・・海鳴りの祠を出てからのことだよね・・・。」
 
「そうだ。お前がおそらく今持っているであろう疑問の答えは、その先の話の中にあるんだ。」
 
「・・・今も・・・その先の話はしてくれないの?」
 
「あの時、いずれ必ずすると約束したね。だからその約束は守るよ。ただし、それは今ではない。父さんの気持ちの問題だけではなく、この場所にいる限り、それはそう簡単に口には出せないことなんだ。」
 
「この場所って・・・城下町のこと?」
 
 息子は不思議そうに尋ねた。
 
「そうだよ。この城下町にいる限りはね。」
 
「それじゃ、いつ話してくれるの?次の休み?」
 
 言ってから息子はまたうつむいた。
 
「・・・ごめん・・・。父さんがつらいって言ってたの忘れてるわけじゃないのに・・・。」
 
「いいよ。つらくても何でも、必ずお前に話さなければならないことなんだ。この、剣のことも含めてね。」
 
 私は腰に下げたままの剣を、上着の上からぽんと叩いた。剣帯の金具に柄が当たって、上着の下でシャランと涼やかな音がした。
 
「その、ルーンブレード?・・・て言うんだよね、その剣。」
 
「そうだよ。今となってはその製法すら伝わってない。」
 
「でも他にも同じ剣はあるんだよね?製法は伝わらなくても、現物はそんなに簡単になくならないだろうし・・・。」
 
「似たようなものは何本か作られたらしいが、今その所在が確認されているものは一本もないんだよ。もちろん、だからと言って絶対に存在しないとは言い切れないけどね。ただし、父さんの剣とまったく同じ剣は、本当にこの世に一本もないのさ。」
 
「・・・父さんの剣はそれほどすごい剣なの?」
 
「すごいと言うより、この剣はある特別な目的のために作られたものだからね。」
 
「・・・その特別な目的と、昨日のことは関係があるの?父さん、シェリンさんの様子がおかしいわけを知ってたよね?」
 
「知っていたってわけではないよ。ただ、話しているうちに気づいたんだ。シェリンを操っているのが誰かをね。そしてその誰かは、もしかしたらこの剣と関係あるかも知れない。はっきりとした証拠はないが、その可能性は高い。」
 
「・・・僕は・・・どうしたらいいの?」
 
「・・・・・・・。」
 
 この質問は、正直私の予想外のものだった。てっきり昨日のことで質問攻めにされるものだと思っていたからだ。
 
「・・・島で父さんの昔話を聞いた次の日、僕が泣いてたってわかったよね。」
 
「うん。」
 
「あの時・・・父さんから聞いた話をいろいろ考えていたら悲しくなったって言ったけど・・・それは、半分は嘘なんだ。」
 
 いつの間にか、カインが泣きそうになっていた。
 
「父さん・・・ごめん!」
 
 頭を下げた瞬間、息子の顔の下にぽとりと涙が落ちた。息子は顔を上げて涙を拭って、深呼吸した。自分を落ち着かせようとしているようだった。
 
「本当は・・・恐かったんだ。父さんの話を聞いて、人の心の中がわかるとか、人の心の強い感情を受け取ってしまうとか、そう言うことが自分に起きたらどうしようって・・・。」
 
 突然見た夢・・・。いつも夢に現れる少女・・・。そして南大陸では、闇の中から聞こえる声を聞いた・・・。人の心がわかってしまう、その力を目覚めさせて、私はロコの命を奪った。それが彼女の願いだったとしても、あの時の心の痛みは今も胸の奥に残っている。あんなことが自分の身に起きたら・・・そう考えただけで誰だって恐い。その感情はよくわかる。
 
「お前が謝ることじゃないよ。誰だって恐いさ。父さんも恐かった。」
 
「僕も・・・そう言う力を持つようになったりするの?」
 
「・・・それはわからないんだ。それは、この剣がお前を選ぶかどうかにかかっているかも知れないな。」
 
「・・・どういうこと・・・?」
 
「今はまだ詳しいことは話せない。でもこれだけは言っておくよ。この剣とその力とは密接な関係がある。だからカイン、これだけは約束してくれ。もしかしたら、この剣やその力のことで、誰かがお前に何か言ってくることがあるかも知れない。でも、たとえそれが誰でも、父さん以外の人のいうことを信じてはいけない。」
 
「・・・それが剣士団長でも?」
 
「そうだよ。」
 
「フロリア様でもレイナック殿でも?」
 
「そうだよ。」
 
 それが誰であろうと、私以外の誰も息子にこの剣について話す権利はない。真実を知っているのはレイナック殿・・・そしておそらくはフロリア様・・・。この2人だろう。だがこの2人が、私を差し置いて息子に剣のことについて話すとは思えないし、もしもこの2人がそんな行動に出たとしたら、彼らの口から語られることは、真実ではないだろう。それは断言出来る。
 
「だから、もしも誰かが何か言ってきたら、必ず父さんに教えてくれ。誰にも言うなと言われても、必ず父さんには言ってくれ。」
 
「・・・わかった。」
 
 息子の瞳には、涙はもうなかった。
 
「僕は、父さんが話してくれるのを待つよ。」
 
「必ず話すと、あらためて約束するよ。」
 
「それじゃ僕はもう行くよ。アスランのところに顔を出したいから。」
 
 立ち上がった息子が、歩き出しかけて不意に立ち止まった。
 
「ねえ父さん、さっきの話だけど。」
 
「ん?」
 
「もしも母さんだったら?」
 
「母さんは、父さんに黙ってそんな話をお前にしたりしないよ。」
 
「それもそうか。」
 
 息子は笑って、『あ、コーヒー代よろしくね』とちゃっかり言って喫茶室を出て行ってしまった。
 
「コーヒーくらいいつでもおごるけど・・・我が息子ながらちゃっかりしてるなあ。」
 
 思わず笑みがこぼれた。
 
「ウィローは・・・そうだなあ、剣のことは言わないだろうな。」
 
 ひとりでそんなことを考えながら、2人分のコーヒー代を払って喫茶室を出た。図書室に行ってみたが、クイント書記官の姿は見えない。しばらくはおとなしくしていてくれると良いのに・・・。
 
 書架の間を歩いていると、肩を叩かれた。振り向くとイルサが立っている。
 
「君か。ライラと待ち合わせ?」
 
「あらどうして知ってるの?」
 
 イルサは目を丸くしている。
 
「今朝ライラに会ったんだよ。早朝会議に行くって言う前にね。今日は君と資料探しだとかって言う話だったな。」
 
「そうなの。今度の試験採掘のあと、結果によって進め方が変わってくるから、いろんな場合を想定するのに資料が必要なんですって。」
 
「まだ来ないみたいだね。」
 
「そうね。仕方ないわ。お仕事だもの。ねえ先生、何か本を探しているなら案内しましょうか?」
 
「そうだなあ・・・。でもここには医学書なんてあるかい?昔は何冊かあったみたいだけど、今はさすがに場所が変わってるみたいで、見つけられなかったな。」
 
「医学書かぁ・・・。」
 
 イルサが考え込んだ。
 
「実はねぇ・・・。医学書に関しては、もしかしたら先生の書斎のほうが充実してるかも知れないわよ。」
 
「うちのほうが?」
 
「そうよ。ちょっとこっちに来て。」
 
 イルサに案内された先は、奥の書庫だった。その一角に医学書を集めた書架がある。
 
「医学書はこのあたりかな。見に来る人なんて医師会の先生方だけだから、ここにいつもまとめてあるみたいね。でも、どう?みんな先生の家にあるようなものばかりじゃない?」
 
 なるほどイルサの言うとおり、どの本も家の書斎にある。父が昔集めたものがほとんどだが、ブロムおじさんや私が購入したものもあった。
 
「クロンファンラに行けば、もう少し充実しているんだけどね。でもやっぱり医学書っていうと、そんなにすごい本は置いてないみたい。文書館に行けばあるらしいけど、あそこの本が図書館で公開されるためには、けっこう長い準備期間が必要みたいだから。」
 
「内容的にもいろいろ問題がある場合が多いようだからね。」
 
 遠い昔、サクリフィアの王宮から持ち出されたと伝えられる本まであると聞く。中身によってはこの国を根底からひっくり返しかねない、飛んでもない記述があるかも知れない。
 
「そうねぇ・・・。でもあそこの本を持ってくることが出来れば、先生がびっくりするような本がここにずらりと揃うかも知れないわよ。」
 
「ははは、それはそれで楽しみだね。・・・そろそろライラが来るんじゃないのかい?」
 
「あ、そうだわ。見に行ってくるわね。」
 
「先生も行くよ。他の書架を見たいからね。」
 
 2人で書庫から出たとき、入口からライラが入ってくるのが見えた。声をかけようとして一瞬声が喉の奥に絡まった。ライラの後ろからクイント書記官が入ってくるのが見えたからだ。
 
「あ、ライラ、こっちこっち。」
 
 イルサはそんなことは気にもとめず、ライラに声をかけた。クイント書記官は黙って入ってくると、私に向かって一礼し、
 
−−ご心配なく・・・。ライラ博士とご一緒したのはただの偶然でございます・・・。−−
 
 例によって心の中で話しかけてきた。
 
−−彼ら2人に手を出すようなことがあれば、私はあなたを許しませんよ・・・。−−
 
−−・・・・・・・−−
 
 少しの「沈黙」のあと・・・
 
−−殿下にお気をつけなされませ・・・。あのお方は、あなた様が思うよりずっと残忍でございます・・・・−−
 
 それきり「声」は聞こえなくなり、クイント書記官は笑顔で私達に会釈をすると、書架の中に消えていった。
 
「ずっとあの書記官と一緒だったのかい?」
 
 ライラに尋ねた。
 
「うん。執政館の廊下で会ったんだ。ニコニコして声をかけてきたよ。」
 
 本当にただの偶然だろうか・・・。ライラに声をかけ、自分に注意を向けさせさえすれば、彼の心の中を読み取ることは可能だろう。ライラが執政館から出てきたとき、何を考えていたかは想像がつく。試験採掘のその後を考えて、イルサの案内で本を探そうとしていた、そのことをずっと考えていたはずだ。
 
「会議は終わりですか、とか、あとは暑いとか寒いとかの世間話を二言三言交わしただけなんだけど・・・やっぱりまずかったかなあ・・・。」
 
 ライラは不安そうだ。
 
「いや、そんなことはないよ。特に今のところ何か仕掛けてきているわけではないしね。」
 
 少なくとも直接は、だが・・・・。
 
「あんまり考えすぎないようにね。彼自身がどんな人物かなんてよくわからないんだから。」
 
「わかってるよ。普段話している分にはいい人だしね。」
 
 やはりライラも、クイント書記官には好感を持っているらしい。
 
「そうだね。それより、ライラ、イルサ、昨日はすまなかったね。」
 
 2人の表情が少しだけ陰ったが、すぐに元の表情に戻った。
 
「謝るのは僕らのほうだよ。せっかく先生が僕らを守ってくれようとしたのに、勝手に扉を開けちゃったんだから。」
 
「でもね、先生、少しは私達をあてにしてくれるとうれしいわ。」
 
 イルサは笑顔でそう言った。
 
「そうだね。何かあればあてにさせてもらうよ。でも2人とも、無理はしないようにね。」
 
「うん。それじゃイルサ、本を探すの手伝ってよ。」
 
「はいはい。先生、またね。」
 
「ああ、またね。」
 
 2人の笑顔に救われた思いで、図書室を出てきた。クイント書記官のことは、オシニスさんに話だけしておこう。
 
 
 剣士団長室では、オシニスさんが一人で待っていた。私は先ほどの一件をオシニスさんに話し、注意をしておくに越したことはないだろうと、付け加えた。
 
「ふん・・・エリスティ公が、俺達が思うより残忍だってことか・・・。」
 
「確かにそれは言えてるかも知れませんよ。」
 
「まあな・・・。」
 
 実のところ、公にはそう言われるだけの『実績』があるのだ。
 
「ただ、クイント書記官はライラとイルサには手を出さないつもりのようですから、今しばらくは安心できるかも知れませんね。」
 
「そうだな・・・。まあそれは俺が考えるさ。そこまでお前の頭を悩ませちゃ申し訳ない。」
 
 言いながら、オシニスさんが何となく落ち着かないのがわかる。
 
「ところでオシニスさん、昨日はありがとうございました。お礼も言ってませんでしたね。失礼しました。」
 
「なんだよ、急に。俺は何もしてないさ。」
 
「私達を助けてくれたじゃありませんか。『気』を使って。」
 
「そのことか。しかしお前、よく避けたな。実を言うと声をかける間もなかったから、うまくシェリンに飛ばせなければ、お前を巻き込むかも知れないと思っていたんだが、助かったよ。」
 
「あの『気』を受けたのは初めてじゃありませんでしたからね。」
 
「・・・カインか・・・。」
 
「ご存じだったんですか?」
 
「あのやり方を奴に教えたのは俺だからな。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 そう言えば、カインはあの時、実際にあんなに大きな『気』を操ったのは初めてだと言っていたっけ・・・。
 
「宿屋での一件は、あとからランドに聞いたよ。聞いたからってわざわざお前達に言うほどのことじゃないからな。俺達も黙っていたわけさ。」
 
「そうだったんですか・・・。」
 
「ま、もう昔の話さ。」
 
「ではそろそろ、その昔話の続きをしましょうか。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんは答えず、複雑な表情をしている。
 
「どうしたんです?気が変わりましたか?」
 
「ばかを言うな。俺は聞くと決めたんだ。お前がこれから話すことがどんな話だろうと、俺は最後まで聞くぞ。」
 
 オシニスさんは気づいているのだろうか。私とカインの間に起きた出来事を。何となくだが、気づいていないまでも、そこまで最悪のシナリオもオシニスさんの心の中には用意されているのかも知れない、そんな気がした。本当に最悪な話が私の口から出ても、取り乱したりしないよう、そのシナリオを心の中で繰り返し演じて、準備をしているのかも知れない・・・。
 
「わかりました。ところで、どこから話せばいいですか?私達が海鳴りの祠を出たあと、ローランに寄ったことはご存じですよね?」
 
「その話は聞いた。タルシスさんやドーソンさん達からもな。そうだな・・・。お前達が、ローランを出てからの話を聞きたいな。何でも西部山脈の麓に広がる原生林に向かったそうだな。」
 
「そうですね・・・。あの時は、まともに城下町近辺を歩くのは危険だからと、出来るだけ人目につきにくい。西部山脈の原生林に向かって歩いていったんですよ・・・。」
 

第68章へ続く

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