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「その話をレイナックが持っていったとき、オシニスは笑い飛ばしたそうです。『臣下が君主と結婚するなんて馬鹿な話があるか』と言っていたそうですが、おそらく、本当の理由はそうではないと思います。」
 
 話を持っていった限りは、答えを持ち帰るのが使者の役目だ。オシニスさんがどんな風に断ったかを包み隠さずフロリア様に話すのは、レイナック殿にとってとてもつらいことだっただろう。
 
「つまり、フロリア様はその本当の理由について心当たりがあったということでしょうか。」
 
 フロリア様はしばらく思案していたようだったが・・・・小さくため息をついて、重そうに口を開いた。
 
「ええ・・・。昔、オシニスは、わたくしがわたくし自身でないことを、誰よりも早く気づいていたかも知れないのです。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 20年前、フロリア様を元に戻したいというカインの願いを、オシニスさんは否定的に見ていた。何となく何かを知っていると思った私の勘は当たっていたらしい。
 
「それはまた・・・どうして・・・。」
 
「さっき、猫の話をしましたね。」
 
「はい、それはお聞きしましたが・・・。ただ、その猫が縁でオシニスさんとフロリア様がよく話をするようになったとしか・・・。もしやその猫のことがきっかけで?」
 
「ええ、そうですね・・・。あれは・・・オシニス達が採用されて、1年近く過ぎたころのことだったでしょうか。そろそろ彼らの後輩に当たる剣士達が採用されて、剣士団の宿舎が賑やかになってきたころのことだったかと思います・・・。」





 そのころ、わたくしの護衛剣士はキャスリーンという女性剣士が務めていました。礼儀正しく真面目な性格で、ただそれ故にわたくしとは常に距離を置き、決して友人のように接してくれることはありませんでした。でもとても仕事熱心な剣士でしたから、わたくしは彼女を信頼していました。ある日、久しぶりにモルダナが王宮に遊びに来てくれました。一度は体をこわして王宮を去ったモルダナですが、あのころはもうすっかり元気になっていました。でももうわたくしの教育係という役目は必要ないだろうと、戻ってきてくれることはありませんでした。あの日は本当に久しぶりに顔を出してくれたのでうれしくて、中庭の奥にある王族専用の庭で、お茶を飲みながらいろいろと話していたのです。すると、どこかから猫の鳴き声が聞こえました。王族専用の庭の周りにはしっかりとした塀が張り巡らされ、その外側には常に王国剣士が巡回しています。あの庭までは町の喧噪も響いてこないので、外を歩く野良猫の声が聞こえたとは考えられませんでした。声のするほうに歩いていくと、まだ生まれてそれほど経たないと思われる小さな子猫が、庭の隅にうずくまっていたのです。
 
「あらまあこんな小さな子がどうしてこんなところに・・・。」
 
 最初に抱き上げたのはモルダナでした。モルダナは愛おしそうに子猫を腕に抱き、背をなでてやりました。すると子猫はかわいらしい鳴き声を上げて、何かをせがむように首を動かしたのです。
 
「お腹がすいているのかしら。」
 
 わたくしが子猫の顔を覗き込みながらそう尋ねると、
 
「そうかも知れませんね。ミルクをあげてみましょうか。小さいけれど、生まれてからもうだいぶ過ぎているようですわ。牛のミルクでもかまわないでしょう。」
 
モルダナは笑顔でわたくしに子猫を抱かせてくれました。子猫の体は温かくて、なんだかとても幸せな気持ちになったのを憶えています。けれど思っていたより子猫の体つきはしっかりとしていて、モルダナの言うとおり、生まれたての赤ん坊ではないようでした。
 
「生まれたばかりではないのね。」
 
「ええ。本当に生まれたばかりの子猫はまだ目もよく開きませんし、こんなところまで歩いてくることはないはずですよ。さあ猫ちゃん、お上がりなさいな。」
 
 モルダナはそう言いながら、小さな皿にミルクを少しあけて子猫に飲ませていたのですが・・・
 
「フロリア様、その子猫を渡してください。」
 
 私達の様子をずっと黙って見ていたキャスリーンが冷たい声で言いました。
 
「なぜですの?あなたに渡して、あなたはこの猫ちゃんをどうなさるのです?」
 
 モルダナが毅然とした口調で聞き返しました。
 
「その猫は危険です。モルダナ様が今おっしゃったように、こんな小さな猫が一匹だけこんなところに迷い込むのはどう考えても変です。何者かの企みによって、送り込まれたものかも知れません。」
 
「ずいぶんと殺伐としたお考えね。あなたが常にフロリア様の御身の安全を第一に考えてくださっているのはわかりますけど、迷い込んできた動物は幸せを運んでくると申しますのよ。そんなに邪険にすることはありませんわ。」
 
「いいえ、危険です。渡してください。」
 
「渡せばどうなるのです?」
 
 キャスリーンもモルダナもお互い引きません。この2人は元々あまり仲がよくなかったのです。
 
「フロリア様に近づく危険を見過ごすことは出来ません。その猫はこの場で殺します。」
 
「な、なんですって!?あなたはフロリア様の前で立てた不殺の誓いを破るおつもり!?」
 
 モルダナは青ざめて叫びました。わたくしもあまりのことに驚いていました。
 
「誓いも何も時と場合に寄ります!誓いを守ったがためにフロリア様を失うようなことになったら、この国はどうなるのです!?」
 
「あなたの言っていることは極論ですわ!よく調べもせずになぜいきなり殺すなど!何もなかったらどうするのです!?」
 
「猫一匹でこの国が助かるならば、安い代償です!」
 
 この言葉でモルダナもわたくしも、キャスリーンの様子がいつもと違うことに気づきました。確かに頑なで融通が利かないところはありますが、これほど非情なことを言う女性ではないはずなのです。
 
「キャスリーン、あなたどうなさったの?そんなに一方的に・・・。いつものあなたはそんなひどいことを言う人では・・・。」
 
 いかに仲がよくないとは言え、モルダナは大人です。キャスリーンの身を案じてそう言ったのですが・・・。
 
「早く始末しなければどんなことが起るかわかりません!」
 
 キャスリーンはそう叫び、猫の襟首を掴もうとしたのですが、猫は本能で危険を感じ取ったのか飛び上がって逃げ出しました。キャスリーンが猫を追いかけ、そのあとをわたくしが追いかけ、中庭への門まできたとき、子猫は軽々と門を飛び越えて行ってしまいました。門を開けて飛び出したキャスリーンは、いきなり
 
「その猫をつかまえていて!」
 
そう叫んでいました。走りながら彼女が叫んだ方を覗き込むと、そこにはオシニスが立っていて、きょとんとして子猫を抱いていたのです。彼にキャスリーンが近づき、子猫を受け取ろうとしたとき、やっと追いついた私は夢中で叫びました。
 
「だめです!オシニス!その猫を渡さないで!」
 
 いつの間にか目の前が涙でにじんでいました。
 
「どうしたんです?キャスリーンさん・・・それにフロリア様まで。おいかけっこにしては、2人とも凄まじい形相ですね。」
 
 オシニスは私達の必死の叫びもまったく意に介さないように、子猫を抱いたままのんきそうに笑っていました。
 
「くだらない冗談につきあってる暇はないの。さあ、その子猫を渡しなさい。」
 
「だめです!渡さないで!」
 
「フロリア様は黙っててください!さあオシニス!早く!」
 
 オシニスは呆れたようにキャスリーンとわたくしを交互に見て、ため息をつきました。
 
「キャスリーンさん、この猫をあなたに渡せば、こいつはどうなるんです?」
 
「その猫はね、王族専用の庭に迷い込んできたの。」
 
「へえ、こんな小さな体であそこまでたどり着くなんて、こいつには大旅行だったんでしょうね。」
 
 オシニスはそう言って、大きな声で笑いました。
 
「笑い事じゃないわ!こんな小さな体であそこまでたどり着くなんて、絶対おかしいわよ!そいつがどこかの暗殺者の手先でないとは言い切れないでしょう!?」
 
「あ、暗殺者ぁ!?」
 
 オシニスは驚いて聞き返しましたが、それはどちらかというと呆れているような響きでした。その口調を聞いて、キャスリーンはますます声を張り上げて怒り出しました。
 
「あなたね、私の仕事をバカにしてるの!?私の仕事はフロリア様の護衛なの!フロリア様に危険が及ぶかも知れないとなれば、何をおいてもその危険を排除しなければならないのよ!」
 
「それじゃ聞きますけど、こいつのどこに、何をどうやって、フロリア様を暗殺するんです?」
 
 オシニスは冷静でした。そして対するキャスリーンは顔を真っ赤にして怒っていました。中庭を通る他の剣士達は、2人を遠巻きにしてこそこそと通り過ぎていきました。
 
「ど・・・どんな方法でもあるでしょう!体のどこかに毒を仕込むとか・・・。」
 
 急に、キャスリーンの歯切れが悪くなりました。子猫の体は本当にとても小さく、どこかに何かを仕込んでもすぐに見破られてしまいそうに見えました。わたくしにさえそれがわかったのですから、キャスリーンがそのことに気づかないはずはなかったのですが・・・。
 
「毒ねぇ・・・。ま、キャスリーンさんがそうおっしゃるなら、調べてみますか。」
 
 オシニスは相変わらず笑顔で、落ち着いてそう答えました。
 
「調べるって・・・そんなことが・・・・」
 
「出来ますよ。疑わしきはまず調査、それで容疑が確定すれば迷わず身柄拘束、無用の騒ぎは起こさないこと。団長がいつも言ってるじゃないですか。それに調べるのが俺なら、万一本当にこいつに何か仕掛けられていたとしても、痛い目に遭うのは俺だけですからね。それじゃキャスリーンさん、俺が毒にやられたらレイナックじいさんでも呼んできてくださいよ。」
 
「あなたに何かあったら必ずわたくしが助けます。だからお願い!この子の疑いを晴らしてあげて!」
 
 わたくしは夢中で叫びました。オシニスは少し驚いたようにわたくしに振り向きましたが、すぐに笑顔になって『任せてください』と言ってくれました。そして猫を草の上に仰向けに寝かせましたが、彼自身は子猫に毒が仕掛けられているなんて考えてもいないようでした。
 
「まったく・・・じいさんなんて神官様を気軽に・・・。」
 
 キャスリーンはなおもぶつぶつ言ってましたが、オシニスはまったく意に介さず、子猫の体を調べ始めたのです。
 
「さてと・・・ちょっとおとなしくしていてくれよ。お前の体に何かが仕掛けられていたりすれば、お前の命もないわけだからな・・・。うん、背中には何もない、腹は・・・・こっちも無しだな。うーん・・・首も大丈夫だからあとは・・・。」
 
 オシニスは子猫の体中を調べたあと、最後に口の中、それにお尻の穴まで調べていましたが・・・。
 
「これでよしと。キャスリーンさん、今一通り調べるところを見ていたわけですが、どうです?俺の調査では信用できませんか?」
 
 キャスリーンはますます真っ赤になっていましたが、
 
「それならいいわ。安全であるとわかれば別に問題ないから。フロリア様、お騒がせして申し訳ありませんでした。少し休憩させてください。」
 
 そう言って私達に背を向けたまま、中庭を抜けて王宮本館へと駆けていってしまいました。キャスリーンが恋人と別れたらしいと言う話は、侍女達の噂話で聞いていましたから、もしかしたら彼女はそのことで精神的に不安定だったのかも知れません。
 
「はあ・・・どうやらこいつは助かったみたいですね。こいつはフロリア様が飼うんですか?」
 
 子猫の背をなでながら、オシニスが尋ねました。
 
「フロリア様、どうなさいます?私は賛成ですわよ。フロリア様が慣れられるまで、私もこまめにここに来ることに致しましょう。いろいろお手伝いさせていただきますわ。」
 
 モルダナはうれしそうでした。わたくしも、子猫を抱いたときのあのぬくもりがうれしくて、そしてモルダナがこの子を飼うためにちょくちょく来てくれるという話を聞いて、それならば飼ってみようかという気持ちになっていました。
 
「ええ、そうですね。1人では不安だけれど、あなたがいろいろ教えてくれるなら、何とかなりそうだわ。」
 
「ええ、ええ、そうですとも。オシニス、本当に今日はありがとう。あなたのおかげで命を一つ救うことが出来たわ。」
 
 本採用のための研修で、オシニスはライザーと共にモルダナの指輪探しの試験を受けていましたから、モルダナとは顔見知りでした。そのオシニスが子猫を助けてくれたことは、モルダナにとっても喜ばしいことだったようです。
 
「あら、ライザーは?あなた達が別行動するなんて珍しいわね。」
 
「ああ、今日は非番なんですよ。ライザーは町の教会に行ってるんで、俺は剣の修理をしようかと思ってここを通ったんですが、こいつがいきなり、あの高い門を飛び越えて俺の上に降ってきたんです。」
 
「まあそうだったの。それじゃライザーによろしくね。フロリア様、そろそろ戻りましょう。」
 
「それじゃ、フロリア様、どうぞ。」
 
 オシニスから子猫を受け取ると、子猫はわたくしの腕の中で安心したように喉を鳴らしていました。
 
「ありがとう、オシニス。あなたのおかげで一つの命を失わずにすみました。」
 
「こんな事はなんでもないですよ。おい猫、おとなしくして飼われろよ。」
 
 オシニスが子猫の頭をなでると、子猫は顔を上げてオシニスを見つめていました。
 
「あなたが自分を助けてくれたことをわかっているのかも知れませんね。オシニス、よかったらまたここに来てください。この子もあなたに会いたいかも知れませんから。」
 
「ははは、俺みたいな男より、きれいな女の人がたくさんいる乙夜の塔のほうがこいつにはいいんじゃないですか?」
 
「え?」
 
 オシニスの言葉の意味がわからず聞き返すと、
 
「こいつオスなんですよ。」
 
そう言ってオシニスが笑って、釣られてわたくしとモルダナも笑い出してしまいました。
 
「猫でもやっぱりそんなことを考えるのかしらね。でもオシニス、これを機会に、フロリア様の話し相手になってくれたらうれしいわ。同じ年頃の人達と話す機会は多い方が、フロリア様のためにもいいですからね。」
 
「まあ、俺でよければ伺いますよ。俺はしょっちゅうここを通ってますから。今度はライザーの奴も連れてきますよ。動物の扱いは、俺よりあいつのほうがうまいですから。」
 
「ええ、ではまたね。」
 
「はい、また。」





「あの時、わたくしにはオシニスがとても頼もしく見えました。そして同じ年頃の友人が出来たような気がしてうれしくて、その後わたくしは、時々猫を連れて中庭に顔を出し、中庭を警備する剣士や、鍛冶場へ行く途中の女性剣士などとも話をするようになりました。話してみるとみんな笑顔でわたくしの話を聞いてくれて、あのころはとても楽しかったように思います。もっともわたくしがあまり頻繁に中庭に出て行くことを、キャスリーンは快く思ってはいないようでしたが・・・それでも黙ってわたくしに付き従ってくれました。ただ、そのころにはもう自分の記憶があちこち飛んでいることにも気づいていて・・・自分が自分でないような不安を感じていたのも事実です。そんなある日のこと、朝起きると猫がいません。いつもわたくしが起きるのを待ちかねて泣き出すのに、その日の朝は妙な静けさが漂っていました・・・。」
 
「猫は・・・どうしたのです?」
 
「不安になってわたくしは庭に猫を探しに行きました。そして・・・」
 
 フロリア様が声をつまらせた。
 
「あの子が現れた庭の片隅で、現れたときと同じ場所で、冷たくなっていました。壁には血がべったりとつき、猫がそこにぶつかって・・・いいえ、叩きつけられて死んだのだと、一目でわかったのです・・・。」
 
「誰がそんな・・・。」
 
 言いかけて言葉を飲み込んだ。まさかそれは・・・。
 
「ええ、多分あなたが今考えたとおりです。今のわたくしにはそのことがはっきりとわかりますが、あの時はまさかそんなこととは気づきもしませんでした。記憶に残っていないのですから当たり前ですが・・・。」
 
「では、キャスリーンさんが疑われたのではありませんか?」
 
「その日モルダナが来ていなかったのが幸いでした。彼女がいれば真っ先にキャスリーンを疑ったでしょう。わたくしも、もしやと思いましたが・・・。キャスリーンがわたくしのことをいつも一番に考えてくれていることは確かですから、わたくしが子猫をかわいがっていることを知っているのに、そんなことをするはずがないと思いました。結局真相はわからないまま子猫を埋葬することになりましたが・・・王族専用の庭に埋めるよりも、人通りも多く、誰にでも手を合わせてもらえるようにと、中庭に埋めることにしたのです。ちょうどその時、オシニスに会いました。ライザーと一緒に鍛冶場から戻ってきたところでした・・・。」





「おはようございます。今日は早いですね。」
 
 2人は笑顔でしたが・・・オシニスがわたくしの手元を見てぎょっとしました。
 
「・・・そいつは・・・どうしたんです?」
 
「死んでいたのよ。今朝早く。」
 
 わたくしが答えるより早く、キャスリーンが答えました。
 
「死んでってなんでまた・・・・。」
 
「塀に飛び移ろうとして失敗したみたいね。かわいそうだけど、それがこの子の寿命だったのよ、きっと。」
 
 キャスリーンはあくまで冷静でした。オシニスとライザーが少し眉をひそめて、彼女の顔をまじまじと見ていたほどです。
 
「なるほど・・・それはかわいそうなことをしましたね。で、ここに埋めてやるんですか?」
 
「ええ・・・ここならみんなに手を合わせてもらえるかと思って。ここを通るあなた達には迷惑ですか・・・?」
 
 恐る恐る尋ねたわたくしに、オシニスは笑顔で答えてくれました。
 
「まさか。ここに埋めるなら、誰でも手を合わせてやれるからいいんじゃないですか。手伝いますよ。少し深めに掘って埋めてやらないと、雨が降ったりしたときに出てきちまいますからね。おいライザー、塀の近くなら問題ないよな?」
 
「ああ、大丈夫だと思うよ。通り道でもないし。きちんと埋葬してあげないとね。」
 
 2人は中庭の整備のために置かれているスコップを持ってきて、庭の隅に穴を掘り始めました。
 
「それじゃオシニス、ライザー、あなた達に任せたわ。」
 
 キャスリーンはもしかしたら動物が元々苦手だったのかも知れません。ほっとしたような顔をしていました。オシニスとライザーが2人で掘ってくれた穴に、わたくしは猫を入れましたが・・・・。





「フロリア様?」
 
 フロリア様の言葉がとぎれ、顔が青ざめた。
 
「そのあと・・・気がついたときには猫の埋葬が終わって、わたくしは部屋に戻っていました・・・。」
 
「それじゃその時・・・。」
 
 フロリア様がうなずいた。
 
「部屋に戻ったわたくしの頭の中に、猫を埋葬したあとの記憶はありませんでした。でもドレスも着替えていて、洗濯物を集めるカゴの中に、さっきまで着ていたドレスが入っていました。裾に土が付いていましたから、多分それで着替えたのだと思います。でもそのことさえも思い出すことが出来ずに、わたくしはぞっとしました。」
 
「その時のことを今は・・・。」
 
「ええ、今でははっきりと思い出すことが出来ます。あの時のわたくしは、疎ましかった猫がいなくなってくれて、ほくそ笑んでいました。泣きながら祈っている振りをしていましたが、内心はうれしくて仕方なかったのです。その時、オシニスが猫を埋め終わって、花でも供えてやりましょうかと言いながら振向いたのです。わたくしと目があった瞬間、オシニスはぎょっとして顔をこわばらせてわたくしを凝視し、すぐに視線をはずしました。」
 
「そんなことがあったのですか・・・。」
 
「真実に気づいたかどうかはわかりません。ただ、彼はおそらくわたくしの異変を誰よりも早く感じ取っていたことでしょう。その後しばらくしてキャスリーンは結婚のために剣士団を辞めることになり、ユノが護衛剣士の任に就きました。それから程なくしてケルナーが死に、そのころから少しずつ、聖戦の噂が町の中に広がり始めたのです・・・。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「そのあとわたくしがロコの橋を封鎖し、南大陸を切り捨ててハース鉱山へ至る船の便を独占したこと、カナの村に赴任していた王国剣士を強制的に帰還させ、孤立したカナを守るために単身南大陸へと渡ったガウディを『禁を破った』として剣士団から除名処分にしたことは、あなたも聞き及んでいる事と思います。それらの非情な決定を下したのが、間違いなくわたくし自身であったことを、オシニスだけはおそらく理解していただろうと思います。今では彼も、あの時のわたくしがどういう状態にあったか知っています。でも、一度芽生えた不信の芽は、そう簡単にぬぐい去れないものです。そんな女を妻にして大公の座に座ったところで、苦労するのは目に見えてますものね。」
 
「それで・・・オシニスさんが断りやすいように、レイナック殿に私的に話を持って行ってもらったと・・・?」
 
「ええ。」
 
「ではオシニスさんがその時断らなかったら?」
 
「その時は肚を括って彼を夫として迎えるつもりでした。『肚を括って』なんて言うと大げさに感じるかも知れませんが、あの時のわたくしにとっては本当にそのくらいの気持ちだったのです。少なくとも、彼がわたくしを心から信頼してくれることはないだろうと思っていましたし、わたくしも、自分を信頼してくれないかも知れない相手を、心から信頼することは出来ないと思っていましたから。」
 
 夫婦というものは元が他人同士だ。愛情はもちろんだが、結婚生活においては信頼関係を築いていくことが出来なければ、いずれ破綻するのは目に見えているのだが・・・。
 
「しかし・・・フロリア様は今、オシニスさんを心から信頼しておられるように思えるのですが・・・。」
 
「もちろん信頼しています。オシニスは剣士団のみならず、エルバール王国再建に力を尽くしてくれました。団長も副団長も不在の剣士団にあって、ティールやセルーネと共に戻ってきた剣士達のまとめ役として動く傍ら、あの騒動の後始末のためにあらゆる場所に調査に出かけてくれました。剣士団長就任も、彼のそれまでの功績と、団長としての資質を鑑みての決定です。でもその時に縁談まで飛び出すなんて、わたくしにはまったく予期しないことだったのです。オシニスにはよけいな気を使わせてしまって、申し訳なく思っています。」
 
 つまり・・・フロリア様はオシニスさんを信頼している、これは間違いないらしい。でも、オシニスさんが自分をよく思ってはいないだろうとも考えている、それが不安だから、結婚までは考えられない・・・と言うことなんだろうか。君主として臣下であるオシニスさんを信頼することは出来るが、夫婦としての信頼関係を築いていけるかどうかはまた別物だと言うことか・・・・。まあそれはわかる気がするのだが・・・。
 
(ややこしいなあ・・・。あとでウィローに相談してみよう。やっぱり連れてくればよかったかな・・・。)
 
「猫が死んでしまったころから、わたくしの記憶障害は少しずつひどくなってきました。そして記憶がないときに限って重要な決定がなされ、わたくしが気づいたときにはもう、国王としての署名入りの命令書が発行されてすべてが動き出したあとなのです。そうなってはもう、記憶にないから取り消すと言うわけにはいきません。そんなことをすれば国王としての権威を失い、命令書は紙切れ同然になってしまいます。わたくしはどうしていいかわからず、でもそれを誰かに尋ねる勇気もなく、だんだんと部屋にこもりきりになっていきました。中庭に出て行って、昔のように王国剣士達と話をすれば気が紛れるかも知れない思ったこともありましたが、南大陸を切り捨てたことで剣士団とわたくしとの間には大きな溝が出来ていましたから、それも出来ませんでした。そんなときに・・・わたくしは、新採用の王国剣士との謁見で、思いがけない出会いをしたのです・・・。」
 
「・・・それがカインだったのですね。」
 
「ええ・・・わたくしにとってはうれしい出来事でしたが、あの時、わたくしはもう引き返せないところまで来てしまっていました・・・。オシニスにとって、カインもあなたも大事な後輩で、おそらくは兄として弟を見るような気持ちで見守っていたことでしょう。あの御前会議の日、そのあなた達にわたくしがした仕打ちを、オシニスは目の前で見ているのです。彼がわたくしと距離を置くようになったとしても、彼を責めることは出来ません。」
 
「でもオシニスさんは、カインと私の間にあったことは知りません。」
 
 フロリア様は悲しげに微笑んだ。
 
「そうでしょうね・・・。もしもそんなことを知っていたら、おそらく彼はわたくしのそばになど近寄ろうともしなかったでしょうから。」
 
「・・・そうでしょうか・・・。」
 
「あら、誰でもそうではありませんか?オシニスにとって、わたくしは言わば大事な弟を殺したようなものですもの。」
 
「そんなおっしゃりようをなさらないでください。それに、オシニスさんがフロリア様を遠ざけたいと思っている理由はそんなことではないと思います。そうでなければ、あんな手紙をくれたりはしなかったと思います。」
 
「・・・手紙?」
 
「ええ、フロリア様の様子がおかしいことを心配して、オシニスさんが息子に手紙を預けたのです。私はその手紙を読んで、この町に出てくる決心がついたのです。」
 
「ではあなたは、夢のことでここにきたわけではないのですか?」
 
「夢もきっかけの一つではありましたが・・・そんな雲をつかむような話だけで女王陛下にお会いするわけにもいかないと、そのときはためらっていました。そこでフロリア様のご様子でも聞ければと思い、息子に手紙を出しました。休みが取れたら必ず帰ってくるようにと念を押して、息子からなんとかフロリア様の様子が聞けないかと思っていました。その時に息子が預かってきたオシニスさんの手紙が、背中を押してくれたんです。」
 
 息子が預かってきたオシニスさんの手紙を読んで、オシニスさんがフロリア様を心から心配していることを知り、あの夢がやはり昔見ていた夢と同じ類のものであることを確信したこと、そして今回の旅で、オシニスさんにあのときのことをすべて話すつもりでいることを、フロリア様に伝えた。
 
「・・・・・・・・。」
 
「私は、フロリア様とオシニスさんの間にどんなことがあったのか、今聞いただけですからよくはわかりません。ただ、オシニスさんがフロリア様を心から心配していることは確かですよ。そのことだけはわかっていただきたかったのです。」
 
 フロリア様は黙ってしばらく考え込んでいたが、やがて、まるで独り言のような小さな声でつぶやいた。
 
「心配・・・ですか・・・。」
 
「・・・信じられませんか?」
 
「いえ・・・そうではなく・・・。」
 
 また黙り込む。この件について、何か言いたいことがあるらしい。
 
「心配してくれる気持ちがうれしくないわけではありません。でも・・・わたくしはこの国の国王として、この国の中のことを、誰よりも知っていなければならない立場にあります。」
 
「確かに、おっしゃるとおりですが・・・・。」
 
「そのわたくしが、何もかも剣士団長に任せきりにして、何も知らずにのうのうとしていることが、正しいことだと思いますか?」
 
「いえ、そんなことは・・・。国王陛下がなにもご存じなくては、国民の信頼が失われてしまうのでは・・・。」
 
「わたくしもそう思います。でもオシニスは、そうは考えていないようなのです。」
 
「・・・どういうことですか?」
 
「・・・先日、アスランが目覚めたときの病室での出来事を覚えていますか?」
 
「アスランの妹が来たときのことですね。」
 
「ええ。あのとき、オシニスはアスランの妹のセラフィに、アスランのことはすべて自分の責任だと言いました。でもあの場では、やはりわたくしがセラフィに頭を下げるべきではなかったかと思うのです。」
 
「・・・以前マダム・ジーナに謝罪されたようにですね?」
 
「そうです。わたくしは別に自分の権力を振りかざしたいわけではありません。ですが、わたくしはこの国の民すべてを守らなければならない立場にあるのです。人一人が死にかけたというのに、わたくしがあの場にいて知らぬふりをしているなど、あってはならないことです。けれど、オシニスはわたくしになにも言わず、いきなりセラフィに頭を下げてしまって・・・わたくしがどれほど驚き、そして悲しかったか・・・。」
 
「・・・フロリア様は・・・あんな風にオシニスさんが頭を下げるのを見るのが、つらかったんですね。」
 
 フロリア様は顔を上げ・・・少しとまどった表情を見せたが、小さくうなずいた。
 
「わたくしはオシニスをよき友人と思っています。でも残念なことに、そう思っているのはわたくしだけのようです。オシニスはあくまでもわたくしの臣下という立場を頑ななまでに崩そうとはしません。でもそれが仕方のないことなのだと納得してはいるつもりです。ただ・・・臣下であれ友人であれ、心配してくれているというのなら、わたくしの目と耳を奪うようなことをせず、どんなことでも話してほしいと思っているのですが・・・。」
 
「私が見ている限りでは、お二人とも相手を思いやりすぎて、それがかえってお二人の間に溝を作っているような気がします。時には腹を割って話すことも必要ではありませんか。」
 
「腹を割って、ですか・・・。」
 
「はい。公の場では言いにくいことも、二人で話せばいろいろと話せると思いますよ。今私と話しているように、少し二人でじっくりと話し合われてはいかがですか?以前はもっと砕けた調子で話していたようですが、今は以前と立場も違いますし、なにより、他の大臣や侍女達の目があれば、やはり気を使うのではないかと思うのですが・・・。」
 
 フロリア様がクスリと笑った。
 
「・・・昔のオシニスは、相手が国王どころか神様だってきっと態度が変わらないに違いないとよく思ったものですが、やはり歳をとってそれなりに気を使うようになったのでしょうか。」
 
「はっはっは!確かにそうかも知れませんね。」
 
「実を言うと、わたくしがオシニスを剣士団長に推した理由のひとつがそれなのです。」
 
「それと言いますと・・・あの・・実に、その、率直・・・な・・・。」
 
 フロリア様は、うまい言葉が見つからなくて口をぱくつかせる私を見ておかしそうに笑った。
 
「ええ、あの歯に衣着せぬ、率直な物言いです。彼の言葉遣いはとても丁寧とは言えません。それどころか時に無礼にさえ聞こえることもあります。でもそれは彼の飾らぬ性格の表れだと思っています。何よりも、彼の判断は的確で、行動力もあります。あの気概を以て剣士団長の任にあたってくれることを、わたくしは期待していました。そしてその期待通り以上の働きをしてくれてはいるのですが・・・。」
 
「大丈夫ですよ。今までのフロリア様のお話を聞く限り、フロリア様とオシニスさんの間にある信頼関係は、以前と何も変わっていないように思えます。」
 
「だといいのですが・・・わたくしはいったいどうすればいいのでしょうね・・・。」
 
「『どうしたらいいのかわからなくなったときは、自分がどうしたいのかを考えることだ』と昔言っていた人がいましたよ。」
 
「自分がどうしたいのか・・・。」
 
 フロリア様がつぶやく。
 
「あの時は・・・パーシバルさんを失って、カインも私もどうしたらいいのか、何も考えられなかったんです。その時、キリーさんの相方だったディレンさんがそう言ってくれました。あの時一度聞いたきりなのに、あの言葉は今でも心に残っているんです。」
 
「そうでしたか・・・。」
 
「フロリア様、まずは、ほかのことは何も考えないでください。その上で、自分がどうしたいのかを見極められてはいかがですか?」
 
「そうですね・・・。少し考えてみたいと思います・・・。」
 
「幸い今日は誰もおそばにいませんから、この際ベッドに寝転がってでもいいんです。ゆっくりとくつろいで、ご自分が一番どうしたいと思っておられるのか、お考えになってください。」
 
「寝転がってですか?ふふふ、それも楽しそうですね。」
 
「ええ、せっかくご自分の部屋に一人きりなのですから、思い切りごろごろしてください。」
 
 フロリア様が笑い出した。
 
「ええ、それじゃ今日はのんびりごろごろして、考えてみたいと思います。」
 
 2人で話し始めた頃に感じたあの漠然とした不安はもうすっかりなくなっていた。ドゥルーガー会長が心配したような『病気』と言えるほど重い精神的な障害は何もない。おそらく夢がきっかけとなって、忘れかけたつらい記憶が呼び戻されて一時的に鬱状態に陥っていたのだろう。
 
「ではそろそろおいとまします。フロリア様のお元気なお顔も拝見できましたし、楽しいお話も聞かせていただけましたし、実に有意義な時間でした。」
 
「わたくしのほうこそ、あなたには感謝しています。こうしてあなたと話すことが出来て、いろいろとわかったことがありました。」
 
 『わかったこと』というのが何のことなのかわからないが、フロリア様の笑顔を見る限り、少なくともいい方向に向かいつつあることは確かなようだ。それならば詮索することもない。
 
「それは何よりでした。フロリア様の責務が誰よりも重いことは承知していますが、時には誰かを頼って、あまり背負い込まないように心がけてくださいね。」
 
「ええ、ありがとうクロービス。ところで、あなたから見てわたくしの病状はどうだったのかしら?」
 
「病気と言えるほどのことはありませんでしたよ。あとは一人で悩まないことですね。・・・カインのことや、あの頃のことで誰かに話したいと思われたなら、いつでも声をおかけください。吐き出してしまえばすっきりするものです。」
 
「・・・ええ、そうします。クロービス、近いうちにまた訪ねてくれませんか?時間はなんとか作ります。今度は、ぜひウィローも一緒に。」
 
「ええ、いつでもお伺いしますよ。」
 
「待っています。必ずウィローと一緒に来てくださいね。あなた達2人に、ぜひ聞いてほしいことがあります。」
 
「・・・わかりました。フロリア様のご都合がよろしいときに、必ず伺います。」
 
 フロリア様はうれしそうにうなずいた。妻を一緒にと言うのは、単なる社交辞令ではないらしい。
 
「では失礼します。」
 
「今日は本当にありがとう。あなたも気をつけて帰ってくださいね。」
 
 しんと静まりかえった廊下を歩き出した。確かこの塔の中も、王国剣士が何度か巡回するはずだ。そろそろその時間かも知れない。ここに来るときにレイナック殿と一緒に歩いた通路を一人で戻る。外は相変わらず月の光に照らされて美しい。歩きながら、フロリア様との会話を最初から思い返してみる。あの夢を見たとき、フロリア様はカインのことでずっと囚われているのだと思っていた。ずっとカインのことで嘆き悲しんでいるのだと思っていた。でもそうではなかった。私よりも、オシニスさんよりも遙かに、フロリア様は強い心で今まで生きてこられたのだ・・・。
 
「フロリア様は強いな・・・。」
 
 思わずつぶやいた。だが私は?今までずっとカインの死から逃げていた。そして彼を殺したのが自分であるという事実を、最近になってやっと受け入れることが出来た。次は・・・そう考えて思考が止まる。なぜ彼を殺したのか。カインが私たちを殺そうとしたから?妻にまで危害を及ぼそうとしたから?
 
(・・・・本当に・・・そうなんだろうか・・・。)
 
 どうやらまだまだ、私は強くなりきれずにいるらしい。そしてそれはオシニスさんもおそらく同じだ。フロリア様がオシニスさんに対して距離を置いていた理由は、今日の話である程度理解できた。だがフロリア様は、何度か歩み寄ろうとはしたらしい。結婚云々は別にしても、国王と剣士団長として解り合えないのでは国政もうまく行かなくなってしまう。オシニスさんは、自分がフロリア様の側近としてそれなりに役に立っているという自負はある、と言っていた。そのわりには、フロリア様が歩み寄ろうとするたびにオシニスさんが遠ざかろうとしているように思える。オシニスさんがフロリア様と距離を置く理由は、この間言っていた20年前のことなのだろうが・・・・それにしてもなぜそんなに頑ななのか。なんだか『距離を置く』と言うより、嫌われようとしているようにさえ感じられる。どうやら、オシニスさんからも少し話を聞き出す必要がありそうだ。もちろんそう簡単に話してはくれないだろうけど・・・・。
 
(やっぱり、こちらがある程度情報を提供しないと無理か・・・・。)
 
 私たちがあの日海鳴りの祠を出てから何があったのか、なぜカインは死んでいったのか、誰がカインを殺したのか・・・・おそらくは、オシニスさんがもっとも知りたがっているのがそこだ。オシニスさんは多分、カインの死とフロリア様の間に何かしら因果関係があるものと考えている。真実を知ったオシニスさんが果たしてどんな行動に出るのかが気がかりだが、ここは私が肚を括るしかなさそうだ。
 
 

第63章へ続く

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