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「泣きながら怒るかも知れませんね。ふふ・・・レイナックを引き合いに出されては、歳をとったなどと言えなくなってしまいましたね。」
 
「フロリア様はお若いですよ。私といくらも歳が違わないんですから。私も自分が年寄りになったなどと考えたくはないですからね。フロリア様にもまだまだお若くいてくださらなければ困ります。」
 
「でも、いつも一緒にいる侍女達は、親子ほども歳が離れているのですよ。」
 
「かわいらしいお嬢さん達でしたね。」
 
「ええ、毎日接していると、何だかあの子達が自分の娘のように思えてきて、毎日楽しく過ごしています。」
 
 それからしばらくの間、フロリア様は賑やかでかわいらしいあの侍女達のことをいろいろと話してくれた。国王陛下付きの侍女といえども身分で採用されるわけではないらしい。一般庶民の出の娘もいれば貴族の娘もいるとのことだが、彼女達はフロリア様について王宮の中のどこにでも行くので、身元調査はしっかりとされているとのことだった。昼間は執政館の奥にあるフロリア様の控え室や、最上階にあるフロリア様の私室に詰めていて、何かあればすぐに出られるように待機しているのだが、やはり先ほど同様、いつも賑やかなのだそうだ。若い娘達との交流は、フロリア様を元気づけてくれていることだろう。だがそんな話をしながら、さっきから感じている不安な気持ちが薄らぐことはない。やはり何か話したいことがあるが口火を切るきっかけがつかめない、そんなところか・・・。話しやすいように話の流れを持って行きたいところだが、さて昔のことと今のことと、どっちの方向に持って行くべきだろう。
 
(どっちにも話したいことはありそうだけど・・・・。)
 
 フロリア様と私の昔話となれば、避けて通れないのがカインの話題だ。それなりに覚悟はしてきたが、いきなり暗い話題になってしまう可能性もある。せっかくフロリア様が楽しそうに話しているのだから、ここはまず明るい話題に繋げたいものだ。そこで、まずは先行きに希望が持てるアスランの話を出してみることにした。
 
「さっきリーザが、あの子達がアスランのファンらしいと言っていましたね。」
 
「ええ、そうらしいですね。あなたの息子さん共々、剣士団の若手の中ではかなりの人気があるのだそうですよ。」
 
「ははは、アスランは確かになかなかの好青年ですが、うちの息子はどうなんでしょうねぇ。」
 
「あなたの息子さんの顔立ちはあまり『どちらかにそっくり』という感じではありませんが、なんというのでしょうか・・・。全体的な雰囲気があなた達どちらにも似ているという気がしますね。」
 
『どっちかにそっくりってわけじゃないと思うんだけどな』
 
 息子が以前そんな話をしていた。それは本人だけではなく、息子を見た誰もが持つ印象らしい。ライラは誰が見ても一目でライザーさんの子供だとわかったようだが、カインの父親が私だと、多分言われなければ誰も気づかないんじゃないだろうか。
 
「それは島の友人にも言われます。見る人によって、私に似ていたりウィローに似ていたりするようですよ。」
 
「ふふふ・・・わたくしも、母に似ているという人と、父に似ているという人がいますから、そんなものなのでしょうね。」
 
「そうかも知れませんね。・・・フロリア様。」
 
「はい。」
 
「こんな話が出来るのも、フロリア様がアスランを助けるためにあの呪文を使ってくださったおかげです。本当にありがとうございました。」
 
 私は心からの感謝の気持ちを込めて、フロリア様に頭を下げた。
 
「・・・わたくしは・・・そんなに頭を下げてもらえるほどのことは、何もしていません。クロービス、顔を上げてください。あれは国王として・・・いいえ、人として当たり前のことです。為す術がないならばともかく、わたくしの手の中には彼を助けることが出来るだけの呪文があったのですから。」
 
「でもへたに使えば世の混乱を招く・・・あの呪文はそう言うものではありませんか?だからおそらく、レイナック殿も使うことをためらわれていた・・・・。」
 
 フロリア様が小さくうなずいた。
 
「レイナックの顔色がよくなかったので、わたくしが問いただしたのです。それでやっと重い口を開いてくれたのですが・・・オシニスから、アスランを助けてくれるよう頼まれていると、あのオシニスがレイナックの前で土下座までして必死で頼み込んだそうです。それでレイナックも無下に断れなくて、どうしたものかと思案していたようでした・・・。」
 
「そうだったのですか・・・。」
 
「レイナックは、最高神官の肩書きに違わぬ、この国一番の治療術師です。ほとんどの怪我ならば、いいえ、ちょっとした内臓疾患さえも呪文だけで治すことも可能なほどの腕前です。でも・・・あの時のアスランは、それらの呪文で助けるにはとても無理な状態でした。ほかに彼を助けることが出来るのは、遠い昔に『魔法』として封印された呪文のみ・・・。多少なりとも治療術についての知識を持つ者になら、この世界で使われている呪文とはまったく違うものだと言うことがすぐわかってしまうでしょう。そのような呪文が表に出ることの危険性について、オシニスは十分に理解しているはずです。それが自分のためならば絶対に使ってくれなどとは言わなかったでしょう。それほどまでに彼は、アスランを救いたかったのだと思います。」
 
「それで・・・フロリア様が動かれたのですね・・・。」
 
「ええ・・・。神官が使えば不審に思われるかもしれませんが、『秘法』として国王が使う分には、誰も疑問を持ちません。もっとも、わたくしが受け継いでいる秘法としての呪文と、レイナックの呪文とはまた少し違うのですが、効果としては同じようなものですから。」
 
 すぐ後ろにいた私には、あの呪文の持つ圧倒的な力が感じられた。あれが、古のサクリフィアより伝わる『魔法』の真の姿か・・・。いや、もしかしたら、魔法にはまだまだ知られざる力が眠っているのかも知れない。
 
「とは言え・・・正直に言うならば、あの時わたくしも迷っていました。いかに秘法と言えど、いえ、秘法であればこそ、たくさんの人々の前であの力を行使していいものかどうか・・・。この呪文は、わたくしがエルバール王家の長として受け継いだもの・・・。この手の中にある呪文をすべて解放して広く国民に知らしめれば、もしかしたら国中の病人やけが人をすべて救うことが出来るかもしれません・・・。でもそれは出来ない。してはいけない。一時的には国民は救われるでしょうが、そのあとにもっと大きな混乱が起きるかも知れない。いつもそんなことを考えています。でもあの時、アスランを助けたいと願うオシニスの心も、その願いを叶えてやりたいと思いながらも、周りへの影響を考えて承諾出来ずにいるレイナックの気持ちも痛いほどにわかって・・・。わたくしが腰を上げる以外に方法がないとの結論に至ったのです。だから、あなたに感謝されるようなことは何もないのですよ。だってもしかしたらわたくしは、たった1人の命よりも、あの呪文によって広がるかも知れない波紋を恐れて、そのままアスランを見殺しにするかも知れなかったのですから・・・。」
 
「いいえ、それでも私は感謝しています。私達医師の世界は、結果がすべてなんです。どんなに手を尽くしても、患者を助けられなかったらすべては無駄になってしまうんですから。」
 
 フロリア様はゆっくりと顔を上げて私を見た。
 
「ねえクロービス。」
 
「はい。」
 
「あなたは・・・魔法をどう思いますか?」
 
「・・・どうとは・・・?」
 
「魔法には圧倒的な力があります。医師として、あなたはそう言った力を使って病人を治したいと考えたことはないのですか?」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 確かに魔法の力は強い。治療術に比べて術者の消耗も少なく、病気を治すことも出来る。だが、魔法は所詮『人外の力』だ。人が自由に操れるものではないし、操るべきものでもないと私は考えている。だからこそ初代国王陛下は、魔法を『門外不出の秘法』としたのではないか。ある程度呪文と共存していくことは必要かもしれないが、それでも私は未だに考えている。『呪文に頼らず人の命を救う方法』を。
 
「私は医者です。」
 
 きっぱりと言い切った。フロリア様は私を黙って見つめている。
 
「医者として、人の命を救いたいと、そのためにどうすればいいか、いつも考えています。なるほど魔法ならば、怪我も病気も治すことは出来る。フロリア様のおっしゃるように、国民は救われるでしょう。でもその時だけです。魔法が優れたものであればあるほど、人々は魔法に頼り、やがてそれなしではいられなくなる、魔法ばかりが重要視されて、薬草学やそのほかの学問も、今の優れた医療技術もすべて失われてしまう。でも、魔法が未来永劫人々と共にあると、誰が言い切れるでしょう。目先の成果に囚われて大局が見えなくなってはなんにもなりません。そもそも魔法とはなんなのか、その力の源はどこにあるのか、誰もが気軽に利用できるものなのか、わからないことが多すぎます。そして何より、魔法は使える者が限られると言うことです。今でさえ治療術師はそんなにたくさんいるわけではなく、治療術をかけてもらうためには高額なお金がかかります。方法はあるのにお金がなくて命を落とすなんて、そんなバカな話がますます増えることになるでしょう。」
 
「そうですね・・・。ほんのちょっとした呪文にさえ高額な治療費を取る治療術師が、未だにこの国にはたくさんいます。レイナックは王宮の礼拝堂で神官達に修道させて、少しでも無料で治療術を施せるよう道を模索しています。レイナックもあなたも、同じ事を考えているのですね。」
 
「そうかもしれませんね。道は違いますが、出来る限りの命を救いたいという気持ちは同じだと思います。レイナック殿は治療術の一層の普及を、私は優れた医療技術の一層の進歩を目指しています。」
 
 レイナック殿と同じように、崇高な目的の下に治療術を覚えてくれる人達が増えてくれれば、いずれは医師と連携して怪我人や病人の治療にあたれるだろう。だがそううまく行かないのが現実だ。治療術を覚えた神官が、果たして無料で、あるいは暮らしていくためのほんの少しのお金と引き換えにその力を使ってくれるものか、それは誰にもわからない。治療術を覚えた途端神官の服を脱いで、高額な施術費を取る治療術師になってしまう例もあるらしい。それでもレイナック殿はあきらめないのだろう。出来る限りの治療術の普及を目指して、命のある限り神官達の育成に力を注いで行くに違いない。そして私も、あきらめるつもりはない。たとえ、あれほど苦労していたアスランの治療の突破口を、呪文によって目の前で簡単に切り開かれてしまっても、いつか必ず、魔法も呪文も使わずに怪我も病気も治せるようになる日が来ると信じている。
 
「あなたには、道が見えているのですね・・・。自分が進んでいくべき道が・・・。」
 
「・・・・・・・。」
 
 思わず言葉につまった。北の島の医師として今まで生きてきた。そしてこれからもその生き方を変えるつもりはない。それは確かなのだが、果たして私は、この医師としての道を今まで迷いなく歩んできたと言えるのだろうか・・・。
 
「あなたという人材を失ったのは、剣士団としては大きな痛手でしたが、それでよかったのですね。あなたはこの20年、医師として北の島のみならずこの国に生きるすべての人々に大きな希望をもたらしてくれました。わたくしも、あなたを見習わなければなりませんね。」
 
「フロリア様、私には見習っていただけるようなことは何もありません。確かに20年前、私は父の遺した研究をどうしてもこの手で完成させたくて、故郷に帰りました。そして今まで、北の島の医師として生きてきました。その生き方に疑問を持ったことはないし、これからもこの生き方を貫くつもりではいます・・・。でも、実を言いますと、最初から大きな志を持って故郷に帰ったわけではないのです。もっと正直に申し上げてしまうならば、私は、この町から逃げるために故郷に帰ったようなものでした・・・。」
 
「逃げる・・・ように・・・。」
 
 フロリア様がつぶやくように繰り返した。
 
「そうです・・・。フロリア様の御前でこのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、理由のひとつは、フロリア様と私との間に持ち上がった縁談に決着をつけるため、そしてもう一つは・・・。」
 
「カインの・・・ことですね・・・。」
 
 私は黙ってうなずいた。フロリア様は大きくため息をつき、にじみ出た涙をハンカチで拭った。
 
「20年前、傷ついて帰った私達を、島の人達は温かく迎えてくれました。父の研究について私は素人でしたが、父の助手をしてくれていたブロムさんとウィローのおかげで少しずつ研究もはかどり、子供も生まれ、その子にカインという名前を付けて、カインという名前を愛するわが子の名前として、いままで・・・つらい出来事から目を背けて生きてきたのです。だからフロリア様、私のことなど見習わないでください。逃げ続けていてもそれなりに人生をまっとう出来るのかも知れませんが、そんな後ろ向きの人生をフロリア様に送っていただきたくはないのです。」
 
「でもあなたは、逃げ続けの人生をこれからも送るつもりでいるわけではないのですよね?」
 
「・・・何事もなければ、結果的にそうなっていたかも知れません。」
 
「・・・どういうことです・・・?」
 
「2ヶ月・・・いや、もう3ヶ月近くになるかも知れませんね。20年ぶりに見た奇妙な夢が、私に生き方を見つめ直すきっかけをくれました。」
 
「2ヶ月前・・・?」
 
 フロリア様はきょとんとして私を見つめている。
 
「ええ。その夢を見たとき、今のままではいけないのだと思いました。過去に背を向けて、何もかも忘れたふりをしていても、何一つ解決できるはずがない。きちんと向き合い、受け入れて、その上で『自分の道』を見つけ出さなければと・・・。それでこの町に出てくる決意をしたんです。もっとも・・・自分の過去と向き合うより、騒動と追いかけっこをしているようでなかなか思ったように自分の目的を達することが出来ずにいますけどね。」
 
 聞いているうちに、フロリア様の表情が険しくなった。『夢』がどんなものであったのか、おおよその察しがついたのかも知れない。
 
「わたくしには・・・あなたがとても自信に満ちて見えました。この20年、あなたはひたすらに努力を重ねて、この国で押しも押されもせぬ地位を確立しているのです。たとえあなたが自覚していないとしても、医師の世界では、あなたは間違いなく『第一人者』に数えられているのですよ。アスランのために病室に出向いたとき、胸を張って診療にあたるあなたを見て、ああ、あなたはもう自分の信じた道を歩いているのだと、とてもうらやましく思ったほどです。」
 
「・・・フロリア様には、道が見えないのですか?」
 
「・・・・・・・・。」
 
「20年前までは、この国に住む人々は『モンスター』に怯えていました。なにをするにもまずは『モンスター対策』をしっかりとしておかなければ、うっかり旅にも出かけられなかった・・・。でも今は違います。誰もが武器も持たずに、気軽に城壁の外に出て行ける。遠く南大陸や離島との交流も盛んになり、今までは存在すら知らなかった野菜や果物、珍しい工芸品などが商業地区のバザーに並んでいる。この国の発展は、フロリア様なくしては語れないものではありませんか。」
 
「でもそれもあなたのおかげです。あなたが危険を顧みず、いいえ、自分の命を犠牲にすることも厭わずに驚異に立ち向かってくれたからこそ、今のこの国があるのです。20年前、あなたとウィローが絶望的な戦いに挑もうとしていたとき、私のしていたことといえば、黙ってただこの部屋にこもっていただけでした。長い時間をかけてばらまいた災厄の種が、独りでに結実する日を今か今かと待ちかねていたのです。あのときのわたくしは、この国に住む国民すべての命さえ、顧みようとはしませんでした。」
 
「・・・もう昔のことです。」
 
「昔の話だと割り切ってしまえるような、軽いことではありません。あのとき、どれほど大勢の命が失われたことか。それらは皆、わたくしが殺したようなものです。」
 
「私が見た限りでは、フロリア様は充分に償いをされていると思いますよ。一生かかっても償うつもりだとおっしゃっていた、あの時のお言葉どおりに。」
 
「そのつもりで今まで生きてきたことは確かです。一生かけても償いきれないと思っていますが、それでもわたくしはあきらめるわけにはいかなかった。あのとき無念の死を遂げた者たちのために、あのような非道なことをしたわたくしを、変わらずこの国の王として受け入れてくれた国民のために・・・この国と結婚したつもりで、がむしゃらに今まで生きてきましたが・・・」
 
 フロリア様の言葉がとぎれた。
 
「それでご結婚なさらなかったのですか?私がこの町を出た後、だいぶ縁談があったと聞きましたが・・・。」
 
「・・・レイナックですね、そんな話をあなたにしたのは。」
 
 フロリア様がため息をついた。
 
「レイナック殿を責めないでください。レイナック殿は、誰よりもフロリア様のことを心配されているのですから。」
 
「ええ、それはわかっています・・・。でも縁談を断ったのは、償いのためなどではありません。あのときは、今まで自分がなにをしてきたのか、どういう状態にあったのか、それらのことを受け入れるのが精一杯で、とても自分の結婚など考えられる状態ではなかったのです。でも今思えば、わたくしは逃げていただけなのかもしれませんね・・・。自分の幸せなど考えてはいけないと、心のどこかでずっと思っていたような気がします。」
 
「幸せになる権利は誰にでも平等にあるものです。そんなふうに考えてはいけませんよ。」
 
「でもわたくしは、その権利を自ら手放してしまったのです。」
 
「手放してしまったなら、また掴めばいい。チャンスはまだあると思いますが?」
 
「・・・まさかと思うけれど、レイナックから何か頼まれてきたのですか?わたくしに結婚を決意させてくれとかなんとか。」
 
「ははは・・・そんなことは頼まれていませんよ。今の言葉は私の気持ちです。フロリア様にも、お幸せになる権利があるはずですよ。それに、ご結婚されてお世継ぎをもうけて、この国をますます発展させていくことも償いになるのではありませんか。一生かけても償いきれないとお思いなら、フロリア様の一生のうちで、出来る限りのことをすればいいと思いますが、いかがです?」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 フロリア様は黙り込んだ。
 
「実を言いますと、最近になって私もそう思えるようになってきたんです。」
 
「あなたが・・・・?」
 
 フロリア様が顔を上げた。不安そうに眉をひそめている。
 
「先ほど申し上げた、私が見た夢の話ですが・・・その夢を見てから、私は改めて自分の歩んできた道を振り返ってみました・・・。」
 
「あなたが見た夢というのは・・・もしかしたらカインのことですか?」
 
 さっき夢と聞いて顔をしかめたのは、私が未だにカインのことで悪夢に苛まれているのではないかと案じてのことらしい。
 
「いいえ、カインの夢ではありません。底知れない闇の中で泣きながら、カインに許しを請う女性の声でした・・・。」
 
 少し遠回しに答えた。
 
「許しを・・・・」
 
 私は、その時見た夢について話した。何一つ見えない無明の闇の中から聞こえてきた誰かの泣き声・・・。それが次第に大きくなり、はっきりと「カイン、許してはくれないのね」と言い続けていたこと。そして声が最後に叫んだ名前が・・・私の名前だったことまで・・・。
 
「・・・そんな・・・ことが・・・。」
 
 フロリア様は青ざめた。肩が震えている。
 
「最初に『カイン』と聞いたとき、私は真っ先に息子のことを考えました。カインに何かあったのかと。でも息子のことで誰かが泣いていたとしても、私に助けを求めるのはおかしいと気づいたとき、謎が解けたような気がしたんです・・・。」
 
「で、でも・・・あれは、あの夢は・・・。」
 
「・・・フロリア様も夢を見られたのですね・・・。」
 
「ええ・・・・。」
 
 フロリア様はうなずきながら呆然としていた。今になって、まさかこんなことが起きるとは思わなかったのだろう。
 
「あの夢を見てから、私は幻覚に悩まされるようになりました。突然脳裏にカインの死に顔が浮かんだり、目の前にカインの死体があるような気がして駆け寄ろうとしたり・・・そんなことが続いて、私が今まで、いかに過去から目を背けて生きてきたか、思い知らされたんです・・・。」
 
「でもそれはあなたのせいではありません!すべてはこのわたくしの・・・」
 
「カインを手にかけたのは私です。それが誰かの手で仕組まれたものであったとしても、その事実はかわりません。今の私は、そのことだけは受け入れられるようになりました。」
 
 そうだ・・・私がカインを殺した・・・・。それだけは事実として、やっとの事で受け入れられるようになった・・・。
 
「そんな・・・あなたがそんな重荷を負う必要はなかったのに・・・」
 
 何もかも、フロリア様はご自分で引き受けるつもりでいたのだと、この時改めてわかった。確かに、20年前の騒動の発端はフロリア様であり、その罪は消えるものではないのかも知れない。でも・・・カインを実際に殺したのは私だ。そしてそれを決めたのは・・・。
 
「何もかも・・・わたくしがしたことです。死ぬ必要のない人達が大勢死んだのも、あなたとカインが殺し合うよう唆したのも、みんな・・・。彼らの死の咎は、わたくしがすべて背負います。だからあなたはそんなふうに考えないでください。」
 
「フロリア様、そのお言葉、私からもフロリア様に申し上げます。何もかも背負おうとなさらないでください。」
 
「でも・・・わたくしは・・・!」
 
「カインは、フロリア様のことを最後まで案じていたんですよ。そんなにフロリア様が何もかも背負おうとしているお姿を見たら、カインはきっと悲しみます。」
 
「わたくしを・・・カインが・・・・。」
 
 フロリア様の瞳から、涙が一筋落ちた。
 
「はい。」
 
 カインの望みはただ一つ、フロリア様と共にあることだった。フロリア様のために働き、一生を捧げ尽くすことだった。カインはその望みを叶えたのだろうか。あの日、雪に覆われた森の中でカインが私に向けた刃は・・・カインが自分を失っていた故のことではなく、彼の出した答えだったのだろうか・・・。
 
「カインは最期に、私に向かって微笑みました。そして『フロリア様を頼む』と言い残して亡くなったんです。」
 
 今となってはもう真実を知ることは出来ない。死を前にした彼の微笑みだけが、私の脳裏に焼きついている。
 
「そんな・・・。」
 
 フロリア様は顔を覆い、涙声で叫んだ。
 
「わたくしには・・・彼のために涙を流す資格さえありません。なのにどうして・・・わたくしを頼む、などと・・・!」
 
「旅の間、カインはフロリア様のことだけを考えていました。カインの望みは、フロリア様のおそばで、フロリア様のために働くことだったんです。だからこそ、死にゆく自分のかわりにフロリア様を守ってくれと、言いたかったのだと思います。」
 
「でも・・・!わたくしがもっとしっかりしていれば・・・。あんなことには・・・・」
 
「フロリア様。」
 
 フロリア様は答えず、背中を丸めて顔を覆っている。せめて落ち着くまで待とう。私は立ち上がり、顔を覆って肩を震わせるフロリア様の隣に腰を下ろした。
 
「泣きたいときは泣いてしまったほうがいいんですよ。私でよければ、しばらくこうしていますから。」
 
 そう言って、フロリア様を抱き寄せた。妻に対していささか後ろめたい思いはあったが、下心は一切ない。ちゃんと話せばわかってくれるだろう。フロリア様は黙って私の肩に顔を埋めて、しばらくの間泣いていた。
 
 
 こうして触れあっていると、フロリア様の心が手に取るようにわかる。声が聞こえるわけではなくとも、感じることが出来る。それは・・・深く果てしない闇・・・・。天もなく地もなく、ただどこまでも続いている・・・。ああ・・・あの夢と同じだ・・・。あの果てしない闇は、フロリア様の心だったのか・・・・。闇の深さはそのまま、フロリア様の孤独の深さを現している。そう・・・フロリア様は孤独だったのだ。今も、昔も、この方はたった一人ですべてを背負って生きてきたのだ。フロリア様を慕うたくさんの人達の温かさに触れながらも、なおもぬぐい去れなかった孤独感を、今でも抱いたまま毎日を過ごしているのだ。だが・・・この果てしない孤独を抱えながらも、その闇の中はとても静かだった。フロリア様はこの孤独を受け入れているのだ。カインのことも、あの日死んでいったすべての人達のことも・・・。時と共に流してしまえるほどに軽くはなく、反芻して我が身を責め続けるにはあまりにも時が経ちすぎた。それらすべてをこの闇の中に沈め、受け入れて生きている・・・。もしも何事もなければ、いずれこの闇がすべてを呑み込み、時の彼方へと運び去っていたかも知れない。だが、『彼』は現れた。赤い髪も、サファイアの瞳も持っていなかったけれど、あの頃のカインと同じように『彼』は元気いっぱいに挨拶したことだろう。
 
『このたび王国剣士として採用されました、カインと申します。』
 
 『王国剣士カイン』の存在が、フロリア様の心の奥に沈んでいた闇を揺り起こした。受け入れて癒されたはずだった心の傷が開き、開いた傷が上げた悲鳴は夢を通して私の元に届いた・・・。これもまた巡り合わせか・・・。今は黙ってこのままでいよう。私の父が亡くなったとき、イノージェンがそばにいてくれたように、カインを失ったとき、妻と二人で抱き合って泣いたように、悲しいときにこうして誰かがそばにいるだけで、気持ちはとても落ち着くはずだ。
 
 
 しばらくして、フロリア様の肩の震えが止まった。だいぶ落ち着いたようだが、まだ顔を上げようとはしない。私はそのままの姿勢で、フロリア様が顔を上げるまで待った。
 
「・・・ごめんなさい・・・ありがとう、クロービス。」
 
 フロリア様がハンカチで目を押さえながら顔を上げた。
 
「まったく情けない話です。自分で彼を殺しておいて、今頃になってその死に涙するなんて、本当に・・・わたくしは何という愚か者なのでしょう・・・。」
 
「そんな言い方をなさらないでください。大事な人を失った悲しみというものは、どんなに時が過ぎても消え去ることはないと思います。」
 
「あなたも・・・そうなのですね・・・。」
 
「はい・・・。でも、ウィローがそばにいてくれてさえ、私はカインの死を受け入れることが出来ないまま、今まで生きてきてしまいました。フロリア様は、カインのことも、亡くなったほかのみんなのこともしっかりと受け止めて、今まで生きてこられたというのに・・・。」
 
「わたくしは・・・本当に彼らの死を受け入れることが出来ていたのでしょうか・・・。もしもきちんと受け入れることが出来ていたなら、今になってこんなにつらくなるはずがないのに・・・。」
 
「それは仕方ないことかも知れません。まさか今頃になってカインという名の王国剣士に会うことになるとは思われなかったでしょうから。」
 
「クロービス!そ、そんなことを一体誰から!?」
 
 フロリア様の顔色が変わった。
 
「あの夢を見たときから、私もずっと考えていました。なぜ今なのかと。あれから20年も過ぎた今になってなぜ、と・・・。そしてその唯一とも思える接点が、私の息子の剣士団入団だったのです。」
 
「でも、でも!それは決してあなたの息子さんが悪いわけではありません!」
 
 フロリア様は私にしがみつくようにして叫んだ。
 
「聞いてください。あの日・・・入団が決まった剣士の名がカインだと聞いて、動揺したことは確かです。でも、その剣士の父親があなただと聞いて、わたくしはとても楽しみにしていたのです。あなたのように穏やかな落ち着いたタイプではないとオシニスに聞いていたので、ウィローに似ているのだろうかといろいろ想像を巡らせていました。そして翌日の朝、わたくしの前に現れた新人剣士のカインは、あなたにもウィローにもそんなに似ていない、でもどちらにも似ているような、かわいらしい顔立ちの若者でした。でも・・・カインが、『このたび王国剣士として採用されました、カインと申します。よろしくお願いいたします!』そう元気いっぱいに挨拶した途端・・・髪の色も目の色も違うはずのあなたの息子さんに、遠い昔のカインの面影が重なりました・・・。ああ、あの日、カインもこんな風に、希望に目を輝かせて元気いっぱいに挨拶してくれたと。・・・そしてわたくしは、その彼の忠誠を裏切り、瞳から希望を奪い、彼の未来さえも摘み取ってしまったのだと・・・。自分の罪の重さを改めて思い知ったのです・・・。だから・・・だからあなたの息子さんにはまったく何一つ非はないのです。わたくしが・・・弱いばかりにこんなことに・・・。」
 
「わかっています。フロリア様は、弱くなどありません。すべてを受け入れて、すべてを背負って、今まで生きてこられたではないですか。そしてご自分の弱い部分もちゃんとわかっておられる。私などより遙かにお強いですよ。でもフロリア様、少し肩の力を抜きましょう。国王陛下と言えども人間です。なにもかも一人で背負い込まず、時には誰かに頼ることも必要ではありませんか。」
 
「そうですね・・・。わたくしは・・・誰かに頼りたかったのかも知れません。でもどうしてあなたを呼んだのか・・・本当は自分でも不思議でした。少し・・・不安なくらいに・・・。」
 
「・・・・・・・・・・・。」
 
 フロリア様は私にしがみついていた手を離し、体を起こした。
 
「でも、わかりました。きっとわたくしは、カインのことを心おきなく話せる相手がほしかったのです。何もかも知っているあなたとしか話せないから・・・だからあなたを呼んだのかもしれません。あの夢を見てからずっと、カインの夢ばかり見ていました。執務中でさえどうしていいかわからなくなることもあって、恐ろしくなったこともありました。このような弱音を吐いていられるほど、この国は安寧ではないというのに・・・。」
 
「きっとカインが見守っていてくれますよ。」
 
「見守っていてくれるのでしょうか。本当に・・・カインはわたくしを恨んでは・・・いないのでしょうか・・・。」
 
「カインにとってフロリア様は、自分に生きる目的を与えてくれた大恩人だったのです。恨むはずがありません。ご心配なさらないでください。」
 
「生きる・・・目的・・・?」
 
「貧民街でフロリア様と出会った時、カインのお父さんは地下牢にいたんです。」
 
「・・・え・・・?」
 
 フロリア様の顔がこわばった。どうやらこの話は初耳らしい。もっとも、剣の腕と人柄を認められて採用された王国剣士の過去など、誰もほじくり出そうとしたりしない。ましてやそれをフロリア様に進言するなど、あってはならないことだ。フロリア様が知らなかったとしても無理はない。
 
「当時は貧民街に住んでいるというだけで、雇ってくれるところなんてほとんどなかったそうです。あの町に住んでいる人々が職を得るためには、労働者の住まいになどこだわらない、日雇いの仕事を探すしかなかったそうですね。でもそれもそう簡単に見つからなくて、カインのお父さんは明日食べるものにも困って、思いあまって市場から野菜を盗もうとして捕まったそうですよ。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「カインのお父さんが盗みでつかまるのはそれが初めてではなかったので、審問官がどうがんばっても牢獄に3日ほどはいなければならなかったとか。」
 
「それで・・・『泥棒の子供』と・・・。」
 
「だからカインは我慢したそうです。ここで自分がやり返しても事態は悪くなるだけだから、彼らを相手にしないで、ひたすら耐えるしかないと思っていたと・・・。」
 
「そうだったのですか・・・。」
 
「だからその時、フロリア様が助けてくださったことは、本当はうれしかったそうです。でも相手が、自分をいじめていた子供達とおそらくは同じ貴族だと思うと、なんだかそれだけで悔しくて、八つ当たりで怒鳴りつけてしまったと、とても後悔したと言ってました。」
 
「いいえ・・・怒鳴られても仕方ないと思います・・・。あの時は、一方的にいじめられていた赤毛の少年を助けるために、わたくしは必死でした。なのに、なんとかいじめっ子達から救い出した彼にわたくしが最初に言った言葉は、彼への非難の言葉でした。『どうしてやり返さないの?』と・・・。やられたらやり返せばいいと、わたくしは簡単に考えていたのです。彼が怒ったのは当たり前です。『あんたに生まれが貧しいと言うだけでさげすまれる自分の気持ちはわからない』あの言葉がどれほど深くわたくしの胸に突き刺さったことか・・・。」
 
「でもそのおかげで、フロリア様がなすべきことをなされたと、レイナック殿から聞いていますよ。貧民街の救済について本格的に乗り出されたそうですね。」
 
「ええ・・・。あの町の現状を知るにつれて、わたくしがその時までいかに何も知らずに過ごしてきたか、考えただけで顔から火が出そうなほど恥ずかしかった・・・。わたくしは必死でした。あの町に住む人々が、明日に希望を持って生きていけるよう、あの少年がわたくしに向けた冷たい眼差しが、少しでも温かくなってくれるようにと・・・。そしてもしも次に会うことがあったときこそ、笑顔で挨拶が出来たらうれしいのにと思っていました・・・。」
 
「カインに再会されたときにはうれしかったでしょうね。」
 
 フロリア様がパッと笑顔になって、頬が赤く染まった。
 
「ええ。まさか王国剣士として来てくれるなんて夢にも思っていませんでしたから。カインが採用されてから、わたくしは彼のことをずっと見守っていこうと決めていました。なかなか相方が見つからなくてだいぶ焦っていたことも聞き、何とかならないものかと案じてみたりして・・・。だからあなたが試験に合格して、ランドの見立てでカインを研修に同行させ、その時の行動次第では2人を組ませるつもりだとパーシバルから聞いたとき、とてもうれしかった・・・。まさかその時にあなた達が乙夜の塔に訪ねてくれるとは思いませんでしたけど。」
 
「あ、あれは・・・その・・・訪ねたと言うよりは・・・。」
 
 私達は、フロリア様の影を賊と間違えて踏み込んだのだ。カインも私も、抜き身の剣を振りかざしていた。
 
「・・・あの時は驚かせてしまって、申し訳ありませんでした。」
 
「ふふふ・・・確かに驚きましたけれど・・・わたくし、うれしかったのです。思い違いとは言え、あなた達がわたくしを訪ねてくれたのには変わりありませんもの。あなた達を見たとき、天がわたくしに味方してくれたのだと思いました。そのあとはもう、何も考えている余裕はなかった・・・。これで漁り火の岬に行けると・・・。でも、わたくしの思いこみのおかげで、かえってあなた達には迷惑をかけてしまいました。あとからオシニス達に叱られたのではありませんか?」
 
「黙っているつもりだったのですが、やっぱりオシニスさんとライザーさんの目はごまかせませんでした。」
 
 フロリア様が笑い出した。
 
「まあやっぱり。あの日の翌朝、オシニスとライザーから提出された夜勤の報告書に、奇妙な痕跡があるも異常なし、とあったので、もしもあのあとあなた達が2人に会っていたら、知られてしまったかも知れないと心配していたのです。万一大ごとになるようなら、わたくしがあなた達に頼んだことをきちんと話すつもりだったのですが・・・。」
 
 私は、その話がばれたのが神父様のところだったことと、神父様の助言もあり、フロリア様がご無事ならばわざわざ問題にすることもないだろうとオシニスさん達が言ってくれたおかげで、処分を受けることなくすんだことを話した。
 
「でも2人とも、オシニスさんにかなり痛いげんこつを食らいまして・・・それでカインも私もすっかり肝を冷やして、そのあとは当分乙夜の塔に近づくのはやめようと話してたんです。」
 
「まあ?また訪ねてくれたなら、今度はお茶でもごちそうしようかなんて考えていましたのに。」
 
「そうだったんですか。それは残念でしたね。」
 
 ひとしきり笑ったあと、フロリア様はにじみ出た涙を拭った。
 
「あの時、カインに手を引かれて走りながら、この時間がずっと続けばいいのにと思っていました。漁り火の岬のオーロラよりも、カインと2人手を取り合って走っている時間のほうが大事に思えてきたのです。でも・・・途中モンスターに襲われたことでわたくしは我に返りました。そしてわたくしが自分のわがままで、あなた達を危険にさらしているのだと思い知り・・・せめて3人で歩いたこの時間を大事にしよう、思い出として一生胸に刻もうと・・・。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「あの時の感情が、愛情と言えるものだったのか、幼い恋心だったのか、今思い出してもはっきりとわかりません。でもわたくしがカインに惹かれていたことだけは確かです。彼はあのころのわたくしの、唯一の心の支えでした。身に覚えのない自分の言動や、抜け落ちた部分が少しずつ大きくなっていく記憶への恐怖と戦いながら、彼ともう一度会って、昔貧民街で出会ったことを話し合える日を夢見ていました・・・。そうすれば、自分を取り戻せるような気がしていたのです。」
 
「そう・・・だったのですか・・・。」
 
「けれどわたくしが、彼を死に追いやったこともまた事実です。しかももっとも卑劣な方法で・・・。それなのにわたくしのことを最期まで心配してくれていたなんて・・・。やはり今まで、わたくしがしてきたつもりの償いなど、何一つ意味をなさなかったのかも知れません・・・。わたくしは、どうやって彼に償えばいいのでしょう・・・。」
 
「カインは償いなど望んではいないと思います。償いよりも、フロリア様がお幸せになること、そしてこの国をますます発展させていくことが一番ですよ。それがカインへの何よりの手向けとなるでしょう。」
 
「幸せというならば、この国の発展と安寧、そして民の幸せこそがわたくしの幸せです。」
 
「すばらしいお考えですが・・・国民にとっては、フロリア様の幸せが国民の幸せだったりすることもあるものです。」
 
「・・・それは・・・。」
 
 フロリア様は言いかけて、小さなため息をついた。
 
「あなたの言いたいことはわかりますが・・・。」
 
「フロリア様、フロリア様にとって、カインは今でも唯一の心の支えなのですか?」
 
「・・・え・・・?」
 
 フロリア様は少し驚いたように顔を上げた。
 
「私はそれを知りたかったのです。あの夢を見たときから、フロリア様が今でもカインへの思いと彼を死に追いやったことへの罪悪感に囚われて生きておられるのではないかと心配していました。」
 
「そうですね・・・。カインはわたくしにとってとても大事な人でした。今でもその思いに変わりはありません。出会った日のカインの言葉はわたくしにとってとてもつらい言葉でしたが、国王という地位についていながら貧民街のことなど何も知らなかったわたくしに、なすべきことを教えてくれました。今思えば、あの日からわたくしは、本当の意味で国王として生き始めたような気がします・・・。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「そのカインをわたくしは死に追いやってしまいました。こんな言い方をするのはあなたを傷つけることになるのかもしれませんが・・・それでも、このことを忘れてはいけないのだといつも思っています。でもね、クロービス、この20年間わたくしは、自分のしたことを少しでも償うために必死で生きてきました。そのわたくしを、いつもそばにいて陰ひなたなく支え続けてくれたのが誰なのか気づかずにいるほど、わたくしは愚かではないつもりです。」
 
 その『誰か』が誰なのかはすぐにわかった。
 
「そのお言葉を聞けて、うれしく思います。それならば、そろそろフロリア様ご自身の幸せもお考えになってはいかがですか?・・・この際、レイナック殿の提案を受け入れてみるのも、ひとつの選択肢であると思いますが?」
 
「・・・・・・・・。」
 
 フロリア様が、探るような瞳で私を見つめた。
 
「本当に、あなたはレイナックから何か頼まれてきたのではないのですか?」
 
「私がレイナック殿に頼まれてきたことは、フロリア様を元気づけてくれと言うことだけです。ただ、フロリア様と出来るだけ話が弾むようにと、レイナック殿からいろいろと予備知識を伝授していただきました。その話の中で、レイナック殿が今でもフロリア様にご結婚を勧めたいと思っておられることがわかったのです。」
 
 フロリア様が笑い出した。
 
「やっぱり・・・そんなことだろうと思いました。レイナックはわたくしが即位したばかりのころから、両親のない寂しさを出来るだけ感じさせないようにと、いろいろと気を遣ってくれました。そして今は、わたくしの幸せを誰よりも願ってくれています。その気持ちはありがたいのですけれど・・・・。今さら結婚と言われても・・・。」
 
「今さらという言い方はなさらないでください。先ほども申し上げましたが、フロリア様はまだまだお若いんですから。それに何よりも、どんなときにも支え合って、寄り添って人生を過ごしていける相手がいるというのは、何ものにも代え難い喜びです。」
 
「・・・・・・・。」
 
 フロリア様は私を見て微笑み、いつの間にか空になっていたカップにお茶をそそいでくれた。
 
「つまり、あなたにとってウィローは、そしてウィローにとってあなたは、そういう存在なのですね。」
 
「ええ。子供はもうこの町に生活基盤が出来つつありますから、歳をとってからも、せめて誰の世話にもならずに生活していけるように、お互い足腰を鍛えておこうなんて話をしてきたところですよ。」
 
「あらあら、本当にもう老後の話が出ているのですか?あなた達だってレイナックよりは遙かに若いでしょうに。だいたい、わたくしよりも若いのですからね。」
 
 フロリア様は私を睨むまねをしてみせたが、すぐにうつむいて寂しげに微笑み、ため息をついた。
 
「確かに・・・歳をとってから一人というのは寂しいかも知れませんが・・・寂しさを紛らわすと言うだけなら、動物を飼っても同じことです。そんな理由で結婚を考える気にはなれませんし・・・。」
 
「そう言えば、フロリア様はだいぶ昔、猫を飼われていたようですね。」
 
「・・・レイナックがその話をしたのですか?」
 
「ええ、そんなこともあったという程度でしたが。」
 
 レイナック殿が詳しい話をしなかったのは、この話題をここで私に出してみてくれということだったのかも知れない。猫の話が出れば、当然オシニスさんが話に出てくることになる。オシニスさんとフロリア様との結婚を否定的に見ているような口ぶりではあったが、やはりレイナック殿は心の奥底で、この2人が結びついてくれないものかと今でも願っているに違いない。
 
「そんな話まであなたにするなんて・・・レイナックはまだあのことをあきらめていないのですね・・。」
 
「あのこと?」
 
「もう10年ほども前になりますが・・・わたくしとオシニスとの間に結婚話が出たことも、あなたは聞いているのでしょう?」
 
「オシニスさんが剣士団長に就任された頃のことですね?」
 
「ええ・・・。はっきりと口には出さなくても、レイナックは未だにオシニスを夫として迎えてはどうかと思っているようです。あなたにそんな話をしたのも、おそらくそのことをわたくしに勧めてくれるようにと願ってのことだったかもしれません。」
 
「私は国王陛下のご結婚に口出しできるような立場にありませんが・・・正直に申し上げるなら、お似合いだと思いますよ。」
 
「・・・どうなんでしょうね・・・。でも似合っても似合わなくても、それが国益のために一番いいとなれば、わたくしは迷わずその道を選びますが・・・。」
 
「国益・・・ですか・・・。」
 
 フロリア様は穏やかに微笑んだ。
 
「あなたにはピンと来ない話でしょうけれど、国王の結婚は個人の感情だけで決められるものではありません。わたくしが担うべき責務は大きく、わたくしの夫となればその責務を共に担う覚悟でいてくれる、そして実際に一緒に担ってくれる男性でなければならないのです。」
 
「その点について、オシニスさんは申し分ないように思えますが・・・。」
 
「あの時、レイナックもそう言いました。オシニスを剣士団長として推挙することが決まったときのことです。もっとも、最初に言い出したのはレイナックではありませんでしたが。」
 
『お相手が剣士団長ならば、どこからも文句は出ますまい。これを機会にフロリア様が身を固められるというのはいかがです?』
 
「あの頃わたくしはすでに30を過ぎていましたから、おそらくその大臣は世継ぎの心配をしたのだと思います。レイナックは我が意を得たりとばかりにその話に乗り気になりましたし、他の大臣達も同調し始めました。年齢もそう違わないし、オシニスには結婚歴もありません。一番問題になりそうなのが身分でしたが、この国でそんなことを気にするのは、今では叔父上くらいのものです。それまでの彼の実績を考えれば、身分のことなどを騒ぎ立てる者も誰もいませんでした。」
 
「つまり・・・その時はフロリア様もオシニスさんとの結婚を考えたと・・・?」
 
「あの時は周りも乗り気でしたから、わたくしなりに覚悟を決めたことは決めたのですが・・・でもそれも、オシニスにその気があればの話です。そこでまず、オシニスと親交の深いレイナックから、私的に話を持って行くように命じました。公の場で尋ねられれば、オシニスのほうから断ることは出来ないでしょうから。」
 
「まるでオシニスさんが断ることをご存じだったような口ぶりですね。」
 
 普通ならば、国王からの申し出をそれこそ『臣下』が断れるはずがない。本気で結婚するつもりなら、すぐにでも正式な使者を差し向ければ問答無用に話は決まっていたはずだ。今頃はとっくに子供も生まれていたことだろう。だがフロリア様はそうはしなかった。わざわざ私的にレイナック殿から話を通して、オシニスさんが断りやすいように仕向けたとしか思えない。私が口にした疑問に、フロリア様は驚く様子も見せずうなずいた。
 
「・・・あなたの目はごまかせませんね・・・。その通りです。わたくしは、オシニスがわたくしとの結婚を快く承諾することはないだろうと思っていました。」
 
「なぜです?」
 

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