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第63章 奇妙な客

 
 乙夜の塔の中はしんと静まりかえっているが、廊下のランプはついているので明るい。執政館へと続く通路の前まで来たとき、そこにレイナック殿が立っているのに気づいた。
 
「遅かったな。」
 
「弟さんのところに行かれたのではなかったのですか。」
 
「行って帰ってきたところだ。なに、弟の孫娘が礼拝堂で結婚式を挙げるから、その打ち合わせに行ってきただけだからな。そうはかからぬ。もう戻っているかと思うてアスランの病室を覗いたのだが、まだだとウィローに聞いてな。」
 
「ウィローは病室にいるのですね。」
 
「うむ、今行ってきたばかりだからいると思うぞ。で、どうだ?フロリア様のご様子は?」
 
「詳しい話をするだけの時間があるのでしたら、レイナック殿のお部屋までお供しますがいかがです?」
 
「ふむ・・・長くなりそうか?」
 
「そんなには。」
 
「では頼む。わしの部屋へ行こう。」
 
 私はレイナック殿の部屋に行き、フロリア様との会話を一通り話した。もちろんカインのことは話せないので、あちこち抜いた話をうまく繋いで、何とか辻褄が合うようにしておいた。レイナック殿は怪しむかも知れないが、こればかりは話す気にはなれない。
 
「ふむ・・・ということは、フロリア様は精神的な何かの病気にかかられているようなことはないのだな?」
 
「その心配はありません。昔のことは今でも気に病んでおいでのようですし、最近はいろいろと騒動続きですから、それで心労が重なってお元気をなくされたのでしょう。かえってレイナック殿とドゥルーガー会長に、心配をかけてしまったと仰せでしたよ。」
 
「そうか・・・。すると今回のことは、ドゥルーガーがいささか気を回しすぎたと言うことのようだな。」
 
「そういうことになるのでしょうね・・・。ドゥルーガー会長のお立場を考えると、それもしかたのないことだと思いますが・・・。」
 
「うむ。それにドゥルーガーは、そうでなくては困るのだしな。医師会の長がフロリア様のご病気に気づかないなどと言うことが、あってはならぬ。」
 
「そうですね・・・。ドゥルーガー会長への報告は、明日でかまわないのですか?」
 
「ああ、それはかまわぬ。フロリア様に何事もなかったのだからな。ドゥルーガーめ、自分で直接おまえに頼めないことを気にしておったわ。明日にでも会ったら、気にしていないと一言言ってやってくれるとありがたい。」
 
「わかりました。」
 
 ドゥルーガー会長が私を買ってくれていると言うことはわかる。今回のこともそれ以上の意味はないのだろう。何か頼まれるたびにこちらが構えてばかりいては、通常の意思疎通もままならなくなってしまう。私はそこまで頑なになるつもりはない。
 
「でもレイナック殿、フロリア様のことですが、確かに今回は私と話をしているうちにだいぶ元気になられたようです。でも私もいつまでもここにいるわけではありませんから、何かあるたびに話を聞きに伺うというわけにもいきません。そうなると、やはり心を許せる誰かがおそばにいてくれたらと思いますね。」
 
「心を許せる誰か、か・・・。」
 
「はい。出来ればリーザのように同世代の女性だと言うことはないのですが、いきなり仲良くなってさあどんなことでも話し合いましょうと言うわけにはいきませんから、なかなか難しいですね。」
 
「そうだのぉ・・・。しかし・・・・。」
 
 レイナック殿はそこで言葉を切り、しばらく考え込んでいたが・・・。
 
「オシニスのことを、フロリア様がそんなふうにお考えだったとは・・・・。」
 
 ぽつりと言った。
 
「臣下としては心から信頼しておられるようですが、やはり昔のように、友人として親しく話をしたいと思われておいでのようでしたね・・・。実を言いますと、オシニスさんのように長いつきあいの方がフロリア様のおそば近くで何でも相談に乗ったりしてくれるのなら、こんなに心強いことはないんですが・・・。」
 
「うむ・・・あやつは長年フロリア様のおそばに仕えているし、年も同じくらいだからな。縁談のことはともかく、友人としてつきあうくらいのことは出来るはずだが・・・。まったく・・・オシニスの奴め、まるでフロリア様から逃げるような態度ばかり取りおる。話をしてみようにものらりくらりとかわしおって、何を考えているのかさっぱりわからん。」
 
「私が少しオシニスさんと話をしてみましょうか。もちろん、フロリア様の話は伏せておきます。私自身も、オシニスさんがどう考えているのか知りたいですからね。」
 
「ううむ・・・もしかすると、オシニス自身もどうしていいのかわからないのかも知れぬな・・・。」
 
「レイナック殿は、今でもあのお二人が結びついてくれないものかとお考えのようですね。」
 
 レイナック殿は『痛いところを突かれた』とでも言いたげに、私に向かってしかめっ面をして見せた。
 
「ふん・・・。オシニスの奴が腹を決めてくれさえすれば、わしだって後押しする用意はある。だが・・・残念ながら、今となっては難しいかもしれんの・・・。」
 
「・・・今となっては・・・・とは?」
 
「うむ・・・いかにフロリア様がお若いとは言っても、もう40も半ばだ。あのお年まで独り身で来られたのだから、もはやフロリア様のご結婚はないものと思うておる者が大半だろう。だが、フロリア様の代でこの国を途絶えさせるわけには行かぬ。となると考えなければならぬのは、フロリア様の跡を継ぎ、この国を動かしていくべきお世継ぎをどうするかと言うことだ。」
 
「オシニスさんの話ではユーリクがフロリア様の養子になることが決まったような口ぶりでしたが、そう言うわけではないのですか?」
 
「確かに話は出ている。だが、あくまでも私的にな。それに、セルーネからはまだ返事をもろうてはおらぬ。ローランドもあまりいい顔はしておらなんだ・・・。」
 
 やはりセルーネさんは、この話に乗り気ではないようだ。それはローランド卿にしても同じらしい。
 
「セルーネの気持ちもわからぬでもない・・・。ユーリクが王家に入ると言うことは、セルーネとローランドにとって愛する息子を失うのと同じことだ。ユーリクが王となれば、彼ら2人は愛する息子を王として崇め、二度と抱きしめることも出来ず、親子の語らいも出来なくなる・・・。そして第2子のクリスティーナは、望むと望まざるとに関わらず、次期公爵として家督を継がねばならぬ。好いた男が出来ても、うまい具合に婿入りの出来る立場にあれば問題はなかろうが、そうでなければ意に沿わぬ結婚を強いられることになろう・・・。もちろん相続を拒否することは出来るが、そうなればベルスタイン家はセルーネの代で消滅してしまうことになる。あの娘がそう言う道を選ぶとは思えぬ・・・。」
 
「あの娘はとても責任感の強い娘のようですね。そのような道を選ぶことは出来ないでしょう。」
 
「うむ・・・。あの娘は母親と同じように剣の道に進みたがっておった。剣士団に入りたいとまで言って、がんばって剣の稽古をしていた時期もあったのだがのぉ・・・。」
 
「先日医師会の診療所で会ったので剣のことを聞いたのですが、自分の剣など子供の遊び程度だから、ここで働いていた方がずっと人の役に立てると言っていましたよ。」
 
「むぅ・・・そのようなことを・・・。なんと不憫な・・・・。」
 
「実際に腕を見たわけではありませんから、私は何とも言いようがありませんでしたが・・・。」
 
「あの娘の腕はなかなかのものだ。もっともまだ子供だからな、あの年齢にしては、と言う条件付きだが・・・。」
 
「そうですか・・・。一度くらい見てみたかったものですが・・・。」
 
「実はあの娘が診療所で働くようになったのは、それほど前からではないのだ。フロリア様がセルーネとローランドに、ユーリクを養子に迎えることについての可能性を話してからだ。あの娘がぱったりと剣をやめて、診療所で働くようになったのは・・・。」
 
「・・・そうだったのですか・・・。」
 
 人々が豊かに暮らせるよう、けものの影に怯えることなく、共存していけるよう・・・。この国と結婚したつもりで、この国と運命を共にする覚悟で・・・。フロリア様はその思いだけでこの20年を必死で生きてきたはずだ。誰もが幸せになってほしい、そう願っていたはずなのに、その生き方が今、2人の若者の未来と、由緒ある公爵家の未来に影を落としている。何とも皮肉な話だ・・・。
 
「それにもう一つ・・・最近になって頭の痛い問題も出てきたことだしのお・・・・。」
 
「ほかにも問題があるのですね。」
 
「うむ・・・まあお前は口が堅いから言うてしまっても構わぬだろう。だが、これから話す事は、フロリア様のご結婚の話よりももっと内密な話だ。話すのは、せいぜいお前の細君程度に留めておいてくれ。」
 
「はい。」
 
「クロービス、お前はレンディール家を知っておるか?」
 
「聞いたことはあります。セルーネさんの姉上が嫁がれている家ですね。伯爵家の中ではかなりの名門とか。」
 
「古さと血統で言うなら、ベルスタイン家とそれほど違いはない。初代国王ベルロッド陛下の末娘である、初代ハーシアー公爵の流れをくむ家だからの。ハーシアー家は残念ながら100年ほど前に途絶えてしもうたが、その血脈はレンディール家に今も受け継がれておる。」
 
「スサーナという王国剣士がその家の出身と聞きました。」
 
「おお、そう言えば会ったそうだな。勝ち気で快活な娘だ。少しわがままなところもあるが、王国剣士の仕事に誇りを持って取り組んでおる。」
 
「・・・あの娘のことは知っています。」
 
「ほお、なるほど、噂にもなっておると言うことか・・・。むぅ、それもまた厄介なことだ。」
 
「・・・どういうことです?」
 
「実はな、レンディール家から、オシニスにスサーナを嫁がせたいので許可がほしいとフロリア様に申し出があったのだ。」
 
「え!?し、しかし・・・確かあの娘は25〜6歳では・・・。」
 
 まさかそこまで話が進んでいたとは思わなかった。
 
「確かに年は離れておるが、年齢の違いは問題にならぬ。貴族の結婚に国王の許可がいるのもいわば形式的なもの。もともとは初代国王陛下が、自分の臣下・・・まあベルロッド様は仲間と仰せられていたそうだが・・・・その仲間のことをきちんと知っておきたいから、結婚などをするときがあれば必ず知らせてくれるようにと言われたのが始まりだそうだ。」
 
「・・・フロリア様は許可を出されるのですか?」
 
「形式的なものとは言え、それなりに決まり事はある。今のところ許可を願い出ているのはレンディール家のみだ。オシニスからの申し出がない限り、許可を出すことは出来ぬ。許可は両者の同意が前提だ。でないと、財産争いや家督相続などでもめ事を引き起こしかねないからな。」
 
「なるほど、どちらか片方だけの申請で許可を出してしまったら、一方的に縁組みをまとめたり、勝手に婚姻届を出して相手方の財産を強引に手に入れると言うことも可能になってしまうわけですね。」
 
「うむ、そういうことだ。正式な許可願いは2人一緒にが通例だが、たいていの場合は正式な申請の前に、私的に話を持ってくることが多いようだな。話が公になってから破談になったのでは、どちらも傷つくことになる。正式な使者を出した時点で、フロリア様には内々に話を通しておき、許可の準備をしておいていただく。そして当人同士と双方の家族が一緒にフロリア様に謁見を願い出、その場で申し出を受理していただくというわけだ。」
 
「でもそれは、許可を願い出る前にお互いが納得した形で約束が交わされている事が前提なのではありませんか。今のレイナック殿のお話を聞く限り、どうもレンディール家が一方的に許可を願い出ているように思えるのですが。」
 
「一方的という言い方はいささか語弊があるやも知れぬが、確かに相手方の同意が取り付けられていない状況で許可を願い出るというのは、異例のことではある。それに許可を願い出てから、そういつまでも待っているわけにも行かぬからな。三ヶ月待って相手方からの願い出がなければ、その時点でこの申請自体が失効する。」
 
「つまり、三ヶ月過ぎても相手方からの申請がないと言うことは、事実上破談になったと見なされるわけですね。」
 
「うむ、そういうことだ。期限があることなのに、オシニスの返事も待たずにレンディール家が許可を願い出たことに、実はわしも少し驚いたものだが・・・おそらくはあの娘が父親にせがんだのだろう。貴族から正式な申し出があれば、平民のオシニスは断れないだろうという計算があったとしても不思議ではない。」
 
「なるほど。しかしそんな事情があったら、オシニスさんだってその話を受ける気にはならないような気がしますが・・・。」
 
「ま、確かに些か勇み足の感は否めぬ。だが、あの娘がそれほどまでに真剣なことも、娘のみならず伯爵夫婦も自分を娘の夫にと望んでいることも、オシニスにはわかっておろう。あれだけ熱心に望まれれば、オシニスの心もいずれ動くかも知れぬ。」
 
 でもどれほど熱心に望まれたとしても、オシニスさんはその話を受けないだろう。
 
「フロリア様はそれでいいのですか?」
 
 さっきはそんなことは一言も言わなかった。やはり一度話したくらいではフロリア様の本当の心を伺い知ることは出来そうにない。いずれ妻と2人でお会い出来たときには、もう少し詳しい話を聞き出せるといいのだが・・・。
 
「さてそこだ。」
 
 レイナック殿が大きなため息をついた。
 
「フロリア様もオシニスも、君主と臣下としてお互いを認め合っているのならば、何の問題もない。レンディール家との縁組みはオシニスの問題だし、世継ぎの件は王家の問題。こちらはこのまま話を進めることになろう。だがお前の話を聞く限り、フロリア様は今の状態に納得してはおられぬ様子だ。とは言え、いかにフロリア様がオシニスを友人と思いたいと仰せでも、当のオシニスはフロリア様の臣下という立場に不自然なほどにこだわっておる。お互いがお互いにわだかまりを残したままでは、いずれ国の舵取りにも影響が出てこよう。」
 
「レイナック殿はどうお考えなのです?」
 
「うむ・・・フロリア様もオシニスもちゃんと納得しているのならば、どんな道を選ぼうとわしが口を出す筋合いではない。まあ政治的な観点からすれば、オシニスとレンディール家との縁組みというのはなかなか悪くない組み合わせなのだがな。」
 
「政治的にとは言ってもそれだけで結婚するというのは・・・。」
 
「それはそうなのだが、レンディール家はなかなかいい家なのだ。古来より続く名門であり、現在ではベルスタイン家との繋がりもある。」
 
「確かに身分としては申し分ないでしょうが・・・。」
 
「まあ聞け。わしがいい家だと言うたのは、そんな理由だけではないぞ。あの家は領地運営にも定評がある。レンディール家の領地は北大陸の東側から北側に伸びる列島群なのだが、場所が場所だけに土地も痩せておっての。あまり作物も取れず、貧しい島ばかりだった。それでもレンディール家は領地の場所に不平ひとつ言わず、領民と力を合わせて島の気候に合った作物作りに取り組み続けておる。今はだいぶ作物の出来も安定してきて、領民達の暮らし向きも少しずつよくなりつつあるようだ。現在の当主夫婦も、真面目で地道な努力を怠らず、常に謙虚な心を持ち続けておる。そう言う人物だから、貴族達の信望も厚い。そのような家がオシニスの後見となってくれれば、やつの剣士団長としての発言力も強まり、一層の活躍が期待出来るというわけだ。それだけではない。伯爵夫妻もオシニスを気に入っておるからな。あれだけの男ならば、身分など問題ではない、是非うちの娘を嫁がせたいと手放しの喜びようなのだ。あとはオシニスが首を縦に振りさえすればいい。この結婚には何一つ障害がない。」
 
「なるほど・・・。でも、オシニスさんがそんな理由で結婚を承諾するとは思えませんね・・・。」
 
 オシニスさんからの返事ももらっていない状況でフロリア様に許可を願い出るなど、賢人として名高いらしい伯爵夫婦のすることとは思えない。レイナック殿の言うとおり、おそらくはあの娘が、何が何でも結婚するために強引に両親を説得したのだろう。思いこんだら一直線というのは、事を成し遂げるためには必要な力かもしれないが、これが男と女の仲となると逆効果になりかねないことくらいは、この手の話にそれほど詳しくもない私でさえ理解出来る。オシニスさんとしても自分の部下なわけだから、私的な理由でぞんざいに扱うわけにも行かない。だが団長としてならば当然部下の誰にでもかけるべき労いの言葉でさえ、あの娘にとっては恋しい相手からの優しい言葉になってしまい、ますます思いを募らせることになる。
 
(一方的に好かれると、厄介な相手って感じだなあ・・・・。)
 
「もちろん、今の話はこちらの都合だ。フロリア様の治世を盤石のものとするためには、そう言った選択肢もあるというに過ぎぬ。だが今のところ公でないとは言え、正式に使者が出ておる以上、オシニスとていつまでもはぐらかしているわけにはいかんだろう。あまりいいかげんな態度をとり続けていては、伯爵家を怒らせることにもなりかねん。そしてフロリア様もだ。いつまでも叔父君を王位継承権第一位の座に座らせて置くわけには行かぬ。だいたい今のままではどう考えても、国王陛下より世継ぎが先に死にそうではないか。こんなばかな話があるものか。フロリア様もオシニスも、何かしらの答えを出さなければならないところまで来ておるのだ。だからせめて、それぞれが納得する形で答えを出してほしかった。この先の自分の人生を、悔いながら生きていくことにならぬ為にもな・・・。」
 
「そう言うことだったのですか・・・。しかし、私が一度話したくらいでは、さすがにそこまで話していただくことは出来ませんでした。妻と一緒にまた来てくれと言われているので、そのうち時期を見てもう一度くらいはお伺いしたいと思っているのですが・・・。」
 
「ほお、フロリア様がそう仰せられたか。では明日にでもフロリア様から、時間を都合してくれとの話が来よう。そのときはまたよろしく頼むぞ。」
 
「わかりました。出来る限りのことはさせていただきます。」
 
「うむ・・・。しかし頭の痛い問題ばかりだ・・・。おまえは明日、今日の騒ぎの事情聴取で牢獄へ出向くそうだな。」
 
「ええ、気が重いですが、そう言うことこそ早く終わらせてしまいたいですからね。」
 
「それもそうだ。よし、あまり引き留めては申し訳がないな。今日はここまでと言うことにして、また後で話を聞かせてくれるか。」
 
「わかりました。」
 
 レイナック殿と別れて、執政館の中を歩く。ここは夜でもあまりしんと静まりかえっているとは限らないらしく、あちこちの大臣や官僚達の執務室からは、話し声や足音が聞こえてくる。その中を歩きながら、先ほどのレイナック殿の言葉が耳の奥に繰り返し響いていた。
 
『自分の人生を悔いながら生きていくことにならぬ為にも』
 
 その言葉が、胸の奥に鉛のようにずしりと重くのしかかる。悔いることすら出来ずに、つらい出来事から目を背け続けてきた20年。そして今、私が出来たことと言えば、カインを殺したのが自分であるという事実を受け止めることだけだ。本当にやっとの事で、そのことだけは理解することが出来た。進歩と言えなくもないのだろうけれど、あの果てしなく深い孤独の中で生きるフロリア様に比べれば・・・まだまだ何も出来ていないのと同じことだ。だが焦っても仕方がない。まずは妻に今日のことを話そう。レイナック殿の部屋に寄っていた分だけ遅くなってしまった。心配しているかも知れない。
 
 
 病室の前には、もう王国剣士の護衛はいない。ライラが退院したことで、ここでの護衛は必要なくなったと判断されたようだ。扉をノックすると妻の声がした。中にはライラとイルサがまだ一緒にいて、アスランと話しているところだった。
 
「遅かったのね。話は出来たの?」
 
「うん。リーザは君のところに来なかったの?」
 
「来たわよ。ちょうど子供達を連れて東翼のレストランに行くところだったから、みんなで行って話をしていたんだけど、途中でなんとハディが現れたのよ。で、2人で話したいって言ってたから、今頃はハディの家にでも行ってるんじゃない?」
 
「家?」
 
「なんでも住宅地区に一件借りてるんですって。宿舎ではずっと1人部屋だったんだけど、王国剣士も増えたし、ほかの剣士が利用出来るようにって出たみたいよ。」
 
「そうか・・・。」
 
「忙しいときは空いてる部屋に泊まるそうだけど、たいていは家に帰ってるみたい。」
 
「その家に行くって?」
 
「そうは言ってなかったけど、今どこかで話をしようにも、あの大騒ぎの中ではまともに声も聞こえないじゃない?多分静かなところでゆっくりと話をするつもりだと思うから、家まで行ったんじゃないかしらね。」
 
「なるほどね。それは進歩だな。」
 
「まあそうよね。」
 
 妻が笑った。どうやらハディは本気で腰を上げたらしい。リーザだってさっきの様子からして、まだハディに思いを寄せていると思う。あとは2人がつまらない意地を張ってケンカしないことを祈るだけだ。もう夜も遅いので、私達も引き上げることにした。ライラとイルサを東翼の宿泊所に送り届けて、宿屋へと戻った。扉を開けると賑やかな笑い声が響いてきた。ちょうど団体の客が入ったばかりのところらしく、フロアのあちこちで『乾杯!』という大きな声と共に、大きなジョッキをぶつけ合う音が響いている。
 
「遅かったな。あんなことがあったあとだし、心配してたんだよ。」
 
 ラドがカウンターから出ながら声をかけてきた。
 
「うん。ちょっとなつかしい人に会っちゃったもんだから、話が弾んでね。」
 
「へぇ、そうだったのか。安心したよ。メシはまだなんだろ?」
 
「そうなんだけど・・・一番忙しいときに戻って来ちゃったみたいだね。」
 
「あんたらはお客なんだから、そんなことを気にしなくていいよ。すぐに部屋まで持っていくから、休んでいてくれよ。今日はゆっくり寝たほうがいいぜ。」
 
「ありがとう、そうするよ。」
 
 そう言って階段を上がろうとしたとき、背後に妙な気配を感じた。思わず振り向くと、そこには王宮の書記官達が着るような裾長のローブを着た、若い男が立っていた。
 
「失礼ですが、クロービス先生ではございませんでしょうか。」
 
「はい、私ですが?」
 
 この顔には見覚えがない。だが男は私の返事を聞いて、丁寧に頭を下げた。
 
「おお、やはりさようでございましたか。お初にお目にかかります。私はクイントと申します。王太弟殿下であらせられます、エリスティ殿下の元で書記官を務めさせていただいております。」
 
「・・・エリスティ公の?」
 
 『王太弟殿下』などともったいつけた呼び方をしているが、本来この国にそんな身分は存在しない。世継ぎが国王として即位するとき、その兄弟姉妹は全員公爵家を創設して臣下に降る。エリスティ公とて例外ではなく、フロリア様の父君であるライネス陛下の即位に伴って一度は臣下に降った身だ。ライネス様が亡くなり、幼いフロリア様の即位の際にごり押しをして王位継承権第一位となり、王族として扱うことをケルナー卿に承諾させたという話は誰でも知っている。そのエリスティ公の元で働いていると言うことは、かなり忍耐強いのだろうかなどと一瞬考えた。
 
「はい。3年ほど前から、恐れ多くもエリスティ殿下おそば付きの書記官として、いろいろと勉強させていただいております。」
 
 エリスティ公は、自分の臣下達みんなに『殿下』などと呼ばせているのだろうか。
 
「そうですか。私がこの町に出てきたのは20年ぶりなものですから、何も知らなくて申し訳ありません。」
 
 見た目はごく普通の若者だが、先ほど背中に感じた視線は間違いなくこの男のものだ。どうやら見た目だけでは判断出来ないらしい。これは慎重に話をしなければならない。
 
「とんでもございません。まだまだ若輩の身でございます。お気になさらないでください。私のほうこそ、お疲れのところをお呼び止めして申し訳もございません。」
 
−−−なるほど−−−
 
 突然声が聞こえた。『頭の奥』に。
 
「いいえ、そんなことはありません。初めまして、クロービスと申します。」
 
 素知らぬふりで名を名乗り、妻を紹介した。見た目には特に変わったところのない普通の男だが、今の声も間違いなくこの男の声だ。ただ者ではない。気を引き締めてかかったほうが良さそうだ。若者はうやうやしく礼をし、懐から何か取りだして私の前に差し出した。
 
「これは・・・?」
 
「実は本日の騒動を我が主が聞き及んで大変お心を痛めまして、ぜひお見舞いに伺ってくれと仰せられるものですから、僭越ながら私が名代として参った次第でございます。これは主からの心ばかりのお見舞いの品、どうぞお納めくださいませ。」
 
「それはご丁寧にありがとうございます。ですが、こういったものを受け取るわけにはいきません。この通りもうすっかり元気になりましたので、お気持ちだけはありがたく頂戴いたしますとお伝えいただけませんか?」
 
 まったく妙な話だ。エリスティ公となんてほとんど面識がない。クロンファンラから戻った日の御前会議で顔を合わせたことはあるが、向こうは私のことなど覚えてもいないだろう。私にとってあの方は、権力欲が強く剣士団をバカにしているという印象しかないので、出来る限り関わり合いたくない相手だ。とは言え、今この国ではあの方が王位継承権第一位であり、フロリア様の治世下においては王族として扱われることになっている。その方が部下を遣わしたということは、どんなに気に入らなくても追い返すわけには行かないと言うことだ。だが、だからといって何かもらってしまったら、どんな大きな見返りを求められるものかわかったものではない。
 
「・・・お受け取りいただくことは出来ませんか?」
 
「申し訳ありませんが・・・。」
 
 書記官は残念そうにため息をついた。
 
「そうですか・・・。かしこまりました。ですが私も使者として、このまま帰るわけにはまいりません。エリスティ殿下は先生の功績を絶賛され、城下町に出てこられているのなら、ぜひ一度一献酌み交わしたいものだと仰せでございます。いずれ改めてご招待をさせていただいたときには、お受けいただくというお約束をさせていただくことは出来ませんか。私の顔を立てると思ってどうかそれだけは・・・。」
 
 書記官が深く頭を下げた。ここまで言われてそれも断ったのでは、この使者の面目をつぶすことになる。
 
「・・・わかりました。ただ、私達もこちらでいろいろと忙しい日を送っていますので、時間が合えばと言うことでよろしければ・・・。」
 
「おお、ありがとうございます!」
 
 クイント書記官はパッと笑顔になった。この人なつっこそうな笑顔が、計算の上の表情でないことを祈りたいものだ。
 
「では失礼いたします。本日はお疲れのところ大変申し訳ございませんでした。」
 
「いいえ、とんでもない。エリスティ公によろしくお伝えください。」
 
 なんだか罠にはまったような気がした。私がものをもらって喜んだりはしないことを、おそらくこの男は調査済みだ。だからあえて持ってきたのだ。そして私が断ったら、そのかわりとして招待に応じるという約束をさせるために。本当なら金を積まれたって行きたくない相手だが、この状況では断ることも出来ない。クイント書記官はうれしそうに何度も頭を下げながら、扉の外に姿を消した。その瞬間
 
−−−さすが・・・ファルシオンの使い手−−−
 
また『声』が聞こえた。
 
「・・・・・・・・。」
 
 クイント書記官が出て行った扉を、私はぼんやりと見ていた。なんだあの声は?確かに珍しいことではない。心の中に響く声・・・。近しい誰かが強い思いをその心の内に抱いたとき、その思いが声となって私の頭の中に届くことがある。だが・・・今始めて会った人物に、しかもまったくと言っていいほど『強い思い』とはかけ離れたような言葉・・・。オシニスさん達が今回の一連の騒動の黒幕をエリスティ公だと思っていることは、話を聞いているだけですぐにわかった。だがあの方は口ではかなり冷酷なことを言うのだが、その割に行動力はさっぱりだという印象がある。本気で人を殺したりするほどの残忍さも、そんなことを画策するほどの度胸も、とてもあるとは思えないのだ。これほど巧みに自分の存在を隠したまま、様々な工作をしかけてくるなど、私が知る限りのあの方からは考えられない。だが、もしもこれが公本人ではなく、だれか軍師のような配下がそばについていれば、それも不可能ではないのではないかと考えたこともある。その軍師たる存在が今の男なのだろうか。だがその説についても疑問が残る。それならばここでも、『若輩者の書記官』を演じ続ければいいのではないか。なぜわざわざ『声を』聞かせた?あれはわざと、だ。自分が私と同じ力を持っているのだと知らせるための・・・。
 
「変な人ね。」
 
 妻がぽつりと言った。
 
「かなりね。」
 
 私はラドに、今の書記官がいつ頃ここに来たのか聞いてみた。
 
「そうだなあ。第一陣が出て行って・・・その次の・・・あ、そうか。今ここで飲んでる連中に混じって入ってきたのさ。最初は一緒に宴会でもやるのかと思ったが、別々だから席を作ってくれといわれてな。」
 
「ふぅん・・・。」
 
「しかし、あんたに用事だとは特に言わなかったな。」
 
「言ってもどうせ、私がここに泊まってるなんて君は言わないじゃないか。」
 
 ライザーさん達が泊まっているらしい宿屋同様、ここもまた『健全な宿屋』だ。老マスターもラドも、自分の店の信用を落とすようなことはしない。
 
「それもそうだな。ところで、怪しい奴なのかい?」
 
「いや、エリスティ公の書記官だそうだから、身分もしっかりしてるし、特におかしいところはないと思うけど、ただ、何でエリスティ公が私に興味を持つのかがわからないだけだよ。」
 
「そりゃあんたが時の人だからじゃないのか?町でも噂になってるぜ。『夜盗に襲われた王国剣士を死の淵から生還させた優秀な医者が、医師会に来たらしい』とさ。」
 
「医師会を頼ったのは確かだけど、医師会に入ったわけじゃないよ。」
 
「ははは、噂なんてのはたいてい無責任なもんさ。あんまり気にするなよ。そのうち立ち消えになるさ。」
 
「だといいけどね。」
 
「メシはすぐ出来るよ。部屋に運ぶから、ゆっくりしててくれよ。」
 
「うん、よろしく。」
 
 部屋に戻ってやっと一息ついた。考えれば考えるほど訳がわからない。エリスティ公はなぜいきなり私に興味を示したのだろう。そしてあのクイントと言う書記官・・・。彼が私と似たような力を持っていることは明らかだ。あの声はおそらく私に聞かせるためのもの・・・。だが何のために?自分が私と同じだとわからせるため?だとしたらなぜそんなことを知らせたかったのだろう。やがて運ばれてきた食事を食べながらも、そのことばかりが気にかかって、私はずっと黙り込んだまま食べ続けていた。
 
「どうしたの?難しい顔して。」
 
 声に気づくと、妻が不思議そうに私の顔をのぞき込んでいる。
 
「さっきからずっと黙ってるけど、フロリア様との話で何かあったの?」
 
「あ、ごめん。そうじゃないんだ。」
 
 私はさっきの書記官の声のことを妻に話した。
 
「・・・そうだったの・・・。あなたがずっとむすっとした顔をして話してたから、どうしたのかしらと思っていたけど・・・ずいぶんとまた妙な話ねぇ。」
 
「わざわざお見舞いなんて持ってきたのは、おそらく私が後でエリスティ公から招待を受けたときに、断れなくするための仕掛けだったんじゃないかと思う。何にせよ、ただ者じゃないね。気をつけておくに越したことはなさそうだな。」
 
「明日にでもオシニスさんに聞いてみたら?その人のことが何かわかるかもしれないわ。」
 
「そうするよ。これ以上やっかいごとに寄ってこられるのはごめんだからね。」
 
 妻が笑い出した。でも聞いてみるのならば、オシニスさんよりレイナック殿のほうが良さそうだ。あの男が間違いなく、私と同じような『力』を持っているのだとしたら・・・。
 
「そうよね。それじゃ、この話はもうおしまい。今日のフロリア様との話を聞かせてくれる?」
 
 すっかり満腹になって食後のお茶を淹れながら、妻が言った。おそらく妻としては、得体の知れないエリスティ公の書記官のことよりも、フロリア様と私との話の内容のほうが重大な関心事なのだ。
 
「うん、実はね・・・。」
 
 私はフロリア様の部屋へ向かう前の、レイナック殿との会話から、フロリア様の部屋で起きた出来事、交わした会話、そのあとでもう一度レイナック殿に会って聞いた話まで、出来る限り記憶をたどり、覚えていることは全部話した。
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 聞いていたときの姿勢のまま、妻はしばらく動かなかった。よく見ると目に涙がにじんでいる。
 
「そっか・・・。フロリア様は・・・ちゃんとカインのことに自分で決着をつけていたのね・・・。」
 
「うん・・・。」
 
「ふふ・・・よかった・・・。それだけが心配だったの・・・。昔のことに囚われたまま、どうしていいかわからずにいるのじゃないかって・・・。でも、あなたが見た夢は、そう言うことではなかったのね・・・。」
 
「うちのカインがきっかけになっていたのは確かだったようだけどね・・・。」
 
「そうね・・・。でもそれは私達が気に病んではいけないことだと思う。少なくとも私は、カインが王国剣士になれたことを心から喜んでいるわ。あの子の存在がフロリア様の心の傷を開かせるきっかけになったとしても、あの子を城下町に来させたことを後悔なんてしないわよ。」
 
「私だってしないよ。ただ、おそらくフロリア様はそのことを気にしているだろうから、こちらから話を出して、気にする必要がないことだってわかってほしかったんだ。それに、かえってそれがいい方向に向かうきっかけになったかも知れないし。」
 
「いい方向に?」
 
 妻は顔を上げ、少し不思議そうに首をかしげたが、すぐに納得した顔でうなずいた。
 
「そうね・・・。つらいことではあるけど、確かにいい方向に向かっているのよね・・・。」
 
 フロリア様にとっては、自分を見つめ直すきっかけになったかも知れない。そして私達も、あの夢のおかげで自分が今までいかに過去から逃げていたか、思い知ることが出来た。問題はこれからだ。思い知ってそれでおしまいでは、また同じ事の繰り返しになってしまう。
 
「ねえクロービス・・・。」
 
「ん?」
 
「私ね、口には出さなかったけど、あなたがフロリア様と話をして来るって言ったとき、ひとつだけ心配なことがあったの。」
 
「なに?」
 
「これは私の推測でしかないんだけど・・・・フロリア様は、今までカインのことを誰にも話せずにいたと思うの。」
 
「そうだと思うよ。」
 
 例えレイナック殿にだって、本当のことなど言えやしなかっただろう・・・。
 
「だからあなたと会えば、必ずその話が出ると思った。そうしたらあなたはきっと、カインがフロリア様のことをずっと心配していたことや、どんな風に死んでいったかも話すと思ったわ。フロリア様にとっては、冷静にすべてを聞き流すなんて出来ないようなことばかりだから、もしかしたら泣くかも知れない。その時、あなたはどうするんだろうって・・・。」
 
「そうか・・・。それで、私の取った行動は、君にはどう映ったんだい?」
 
 妻はくすりと笑った。
 
「私がしてほしかったことを、ちゃんとしてくれたなって、そう思ったわ。」
 
「・・・そう?」
 
 思わず探るような言い方になる。これは妻の本心だろうかと・・・。そんな私の気持ちを見透かすかのように、妻はまたくすりと笑った。
 
「別に嘘なんてついてないわよ。大事な人を亡くしたとき、誰かがそばにいてくれるってとても心強いの。父さんがもう亡くなってたって知ったとき、あなたがそばにいて泣かせてくれたことが、どれほどうれしかったか・・・。だからフロリア様が泣いているのを見て、あなたが私に気を使ってぼけっと見ていたなんて言ったら、怒ろうと思ってたのよ。」
 
「そうか・・・。」
 
 妻が立ち上がり、私の隣に座って頭を私の肩に載せた。
 
「・・・怒ると思った?」
 
 私を見上げる妻の目がいたずらっぽく光っている。
 
「怒ったらちゃんと説明しようとは思ってたよ。」
 
「ふふふ・・・怒ったりしないわよ。理由があってすることだもの。でもそれでフロリア様があなたに惹かれたりしたら困るけど。」
 
「そんなことはないと思うよ。」
 
「・・・そうよね・・・・。」
 
 言葉とは裏腹に、妻の心からぼんやりとした不安が漂ってきた。でも今急に感じたわけじゃない。さっきからずっと、不安に思ってるけれどそれを私に尋ねるべきか迷っている、そんな感じだ。
 
「何が不安なの?」
 
 こういうときははっきりと聞くべきだ。変に気を回して黙り込んでうまく行ったためしはない。
 
「え・・・・?」
 
 妻は驚いて顔を上げ、そしてまた私の肩に顔を埋めた。
 
「わかるの・・・?」
 
「何となくね。」
 
「あのね、フロリア様があなたを好きになったんじゃないかなんて、本気で考えてる訳じゃないのよ。ただその・・・フロリア様はどうして夢の中であなたを呼んだのかなって・・・。自分でもわからないようなことを言っていたみたいだけど、本当はどうなのか、それが気になって・・・。」
 
「多分その理由はわかってると思うよ。ただ、私には言わなかっただけなんじゃないのかな。」
 
「あなたもその理由を知ってるの?」
 
「だいたいの見当がつくっていう程度だけどね。」
 
「それは、私の知らないことなのね。」
 
「君も知ってるよ。君と私がフロリア様の部屋に行ったときのこと、思い出せばわかるはずだよ。」
 
 しばらく考え込んでいた妻がまた顔を上げた。
 
「まさかあの時の・・・?」
 
「多分ね。」
 
「それで・・・フロリア様も不安だったのね・・・。」
 
「そうなんだと思うよ。」
 
「それじゃ『わかったことがある』というのは何のことだったのかしら・・・。」
 
「そこまではわからないな。」
 
「聞いたら教えてくれるかなあ。」
 
「聞かなきゃならない状況になったときに聞けば、教えてくれるかもね。」
 
「それ以外では・・・言わないわよね・・・。」
 
「言わないと思うな。いくら私達が、カインとフロリア様の間に起きたことを知っていたとしても、だからって何もかも話せるわけがないと思うよ。」
 
「そうよね・・・。」
 
 フロリア様の心に広がる闇は、まだまだ奥が深そうだ。今はまだ、あの闇の奥底まで踏み込まない方がいいと、私の頭の中で声がする。1度話をしたくらいで、フロリア様のすべてをわかった気になってはいけないのだ。そんな傲慢なことを考えていたのでは、真実にたどり着くことなど出来やしない。
 
 
「ねえ、明日はどうするの?」
 
 少しだけあきらめを含んだようなため息をついて、妻は立ち上がった。風呂へ行くための準備を始めている。さっきまでのぼんやりとした不安はもう感じられない。フロリア様のことは、妻なりにいろいろと考えているらしい。いずれ話してくれるまで、私が余計なことを言う必要はなさそうだ。
 
「そうだな・・・。まずはオシニスさんのところに顔を出して・・・出来ればレイナック殿とドゥルーガー会長にも話をしておきたいから、出掛けるのはそのあとだね。君はどうする?」
 
「それなら私は、ライラとイルサと一緒に少し王宮の中を見物して歩くわ。東翼のレストランで待ち合わせしましょうか。」
 
「それじゃ、終わったらそこに行くよ。出来るだけ午前中で終わらせて、午後からライラの相手をしてあげないとね。」
 
「ライラが楽しみにしてたわよ。」
 
「きっと体を動かしたくてうずうずしてるんだよ。」
 
「ふふふ、そうね。」
 
 朝から牢獄に出向くというのも気の滅入る話だが、そうも言っていられない。明日の事情聴取次第で、ラエルの罪は変わるのだろうか。彼に対して悪い感情は持っていない。だが嘘をついて庇い立てすることは彼のためにならない。出来るなら彼の相方のクリフという若者にも会っておきたかったのだが・・・・さすがに会いに行くための理由がなければ、不審に思われてしまうだろう。フィリスとクロムの話に寄れば、本人は自分が治らない病気だと言うことを知っているらしい。人間誰しも、いずれ自分は死ぬのだと言うことを漠然と理解はしているだろう。だが、あと何年、何ヶ月と余命を区切られたときの衝撃は、言葉では言い尽くせないものがあるはずだ。それでもなお、そのクリフという剣士は自分の死を受け入れ、なおもラエルを気遣っている。もしかしたら・・・ランドさんは、クリフのその強靱な精神力でもってラエルを支えて、やがてはラエルが自立出来るようにと考えて組ませたのではないだろうか。だが、その前にクリフが病に倒れて、支えを失ったラエルはやがて一人で自分自身を支えきれなくなり、すべてから逃げ出した・・・。
 

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