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「食事は?食べられそう?」
 
 妻が私を覗き込んだ。
 
「大丈夫だよ。少しなら食べられると思う。」
 
 ゆっくりとベッドの上に体を起こした。少しめまいがしたが特に気分が悪いと言うこともない。
 
「大丈夫なの?なんなら食べさせてあげても・・・。」
 
「寝たままじゃかえって消化不良を起こしそうだよ。」
 
「ふふふ・・・そうね・・・。それじゃ、はい。」
 
 ちょっとだけ残念そうな顔の妻からスプーンを受け取った。手にもちゃんと力が入る。おそらくもうほとんど回復しているのだろう。だが今は無理出来ない。夕方フロリア様と話をするときのために、体力は温存しておこう。
 
「しっかり病人食ね。私がこの間食べたのと同じようなメニューだわ。」
 
 小さく切ってよく煮込んだ野菜たっぷりのスープとおかゆ。スプーンだけで食べられる。腹の中が温まってくると、体中に力が湧いてくるような気がした。少しならと思っていたのに、いつの間にか全部食べてしまった。そして満腹になれば眠くなる。
 
「一眠りするといいわよ。私はここにいるから。」
 
「うん・・・。君も横になってたらいいのに。」
 
「私は大丈夫。お休みなさい。」
 
「お休み・・・。」
 
 
 
 私は闇の中にいた。・・・・・無明の闇だ・・・・。なのに誰かが手を振っているのが見える。ひらひらと白い手が闇の中から私を呼んでいる。追いかけて捕まえたと思ったときには、もう遙か先でひらひらと踊っている。走って走って追いかけて・・・突然現れた扉を開けた途端に、白い手はふっと消えた。
 
−−−待ってるわ−−−
 
 とてもか細い・・・すがりつくような声を耳に残して・・・・。
 
 
 
 
「・・・る・・・・か・・・・?」
 
「ええ・・・さ・・き・から・・・・も・・・・・ぞ。そ・・・ろ・・・・」
 
「あ・・・・だな・・・・・ここ・・・・せて・・らうよ・・・・。」
 
 どのくらい過ぎたのだろう。話し声で目が覚めた。
 
「お忙しいのに、すみません・・・。」
 
「君が謝ることじゃない。悪いのはこっちだ。本当に迷惑をかけた。申し訳ない・・・。」
 
「オシニスさん、顔を上げてください。もう傷も治ったし、目が覚めれば元通りなんですから。」
 
 オシニスさん・・・・?
 
「わざわざ来てくれたんですか?」
 
 寝たままで私は声をかけた。
 
「あら起きたの?気分はどう?痛いところとか気持ち悪いのとか、ない?」
 
 妻はまだ心配そうだ。
 
「大丈夫だよ。」
 
 妙な夢を見たようだが、特にうなされたわけでもなさそうだ。体を起こしてみたが特に気分が悪いわけではないし、めまいも起きない。
 
「フィリスが呪文を使ったそうだが、焦って強い呪文を使いすぎたとだいぶ落ち込んでいたんだ。でもその様子じゃ大丈夫みたいだな。」
 
「ええ、その後クロムが気功で疲れを取ってくれましたからね。」
 
「そうか・・・。よかった・・・・。お前が刺されたと聞いたときには血の気が引いたが・・・はぁ・・・本当によかった・・・。」
 
 オシニスさんは何度も大きくため息をついた。
 
「すみません、ご心配をおかけしました。」
 
「バカ、お前が謝ることじゃないぞ。お前は被害者なんだからな。」
 
「でももうどこも悪くないですからね。それより、ラエルはこれからどうなるんです?」
 
「・・・王国剣士としての身分は剥奪だ。今のラエルは一罪人でしかない。実は今まで取り調べに立ち会ってきたんだ。内容についてはまだ話せないんだが・・・。」
 
「それは気にしないでください。私達に話しても問題ないと言うときになってから教えてくださればいいですよ。」
 
「ああ、それは約束する。本当ならしばらくゆっくり休んでおけって言いたいところなんだが、実はもしも動けそうなら明日にでも事情聴取に来てもらえないかと頼みに来たんだ。どうだ?来れそうか?」
 
「かまいませんよ。ただし・・・!」
 
「・・ただし?」
 
 オシニスさんが不安そうに眉根を寄せた。
 
「・・・嘘はつけません・・・・。」
 
「・・・ああ・・・・充分だ。」
 
 ため息と共に言葉がはき出される。
 
「お前は被害者として、どんなことが起きたのかを審問官に話してくれればいい。俺は立ち会うことは出来るが、今回に限っては一切の口出しが出来ないんだ。誰だって自分を刺した奴を弁護しようなんて思わないと思うから、腹が立っているならそう言ってくれてもいい。俺や剣士団に義理立てする必要はないぞ。もちろん、俺は嘘をついてラエルをかばってくれなどとは口が裂けても言わん。」
 
「わかりました・・・。」
 
 オシニスさんのつらい胸の内が伝わってくる。かわいい部下を、本当ならどんなことをしてでも守りたいだろうに・・・・。
 
「でも、彼が私をどう思っているかはともかく、私のほうは彼に対して悪い感情は持っていませんよ。」
 
「そう言ってくれると助かるよ・・・。世話をかけてすまないな。」
 
「何をおっしゃいますか。昔さんざん世話をかけたのは私達のほうですよ。この程度のことでお役に立てるなら、いつでも言ってください。」
 
「ああ、ありがとう。それじゃ、せめて今日はゆっくり休んでくれよ。ライラとイルサのことは心配しなくていいから。」
 
「いえ、もう大丈夫ですから。今日の夕方は、フロリア様のところにお伺いすると約束してあるんです。お忙しい中時間を作ってくださったということなので、またの機会にと言うわけにはいきませんからね。」
 
「フロリア様と?」
 
 フロリア様と聞いてオシニスさんの表情が少し揺れたような気がした。
 
「ええ。レイナック殿からお聞きになっていなかったんですか?」
 
「いや、最近忙しくてなかなか話す機会もなかったからな。・・・そうか・・・。まあ話の最中にぶっ倒れたりしなければいいんだが、本当に大丈夫なのか?」
 
「大丈夫ですよ。昔は怪我をして呪文で治しながらまた戦って、なんてことをよくやっていたじゃないですか。歳は取りましたけど、まだそんなに体力が落ちているわけじゃありませんからね。」
 
「ふん、それもそうだな。そんなことを考えるのはもっと年寄りになってからでいいか。」
 
 オシニスさんが笑い出した。
 
「そうですよ。それより、オシニスさんはこれから王宮に戻るんですか?」
 
「そうだな。お前の無事も確認できたし、ラエルの件でフロリア様に報告しなければならんからな・・・。」
 
 オシニスさんの顔から笑みが消え、沈痛な表情に戻った。
 
「もうそろそろ夕方になるようですから、私も出掛けようと思ってるんです。よければ王宮まで一緒に行きませんか。」
 
「ああ、それはいいが・・・・。そろそろ夕メシなんじゃないのか?」
 
「実は今日の昼は、宿舎の食堂でオシニスさんにおごってもらう予定だったんですよね。」
 
 言ってから私はオシニスさんを見つめてニッと笑った。
 
「な、なんだそりゃ・・・・?」
 
 オシニスさんはきょとんとしている。
 
「ちょ・・・ちょっとクロービス!」
 
 妻が慌てて私の腕をつかんだ。
 
「おい?もしかして、昼がダメになったから夕メシをおごれとか・・・。」
 
「さすがオシニスさん、察しがよくて助かります。」
 
「ぶ・・・ふふふ・・・ふふ・・・あぁっはっはっは!」
 
 オシニスさんがこらえきれないように笑い出した。
 
「まったく・・・勝手に予定を組んでおいてそれがダメになったから夕メシをおごれとは・・・あ〜ぁ、お前のことを心配する必要はないみたいだな。わかったよ。メシくらいいくらでもおごってやる。腹がはじけるまで食っていいぞ。」
 
「それは楽しみですね。ウィロー、おごってくれるってさ。」
 
 妻も隣で腹を抱えて笑っている。
 
「もうクロービスったら・・・何を言い出すのかと思えば・・・・!」
 
「だって今日の昼はすっかり宿舎の食堂のニューを食べるつもりでいたんだから、食べないといつまでも心残りだよ。」
 
「わかったわかった。ほら、それじゃもう行くぞ。」
 
「はい。」
 
 階下に降りてラドに外出を伝え、今日の戻りは遅くなるからと言っておいた。みんな怪我のことを心配してくれたが、もう本当に何ともない。大丈夫だからと何度も言って、私達は宿屋をあとにした。
 
 
 
「どれ、並ぶぞ。これからの時間帯は混むからな。今のうちに席を確保しておくか。」
 
 オシニスさんが食堂の入り口で中を見渡した。日勤の剣士達がそろそろ食事にやってくる時間帯だが、みんなオシニスさんを見てぎょっとした顔をしている。昔、食堂にパーシバルさんが現れるとみんな一様に緊張したものだが、いつの時代も同じらしい。私達はそれぞれ好きなメニューを選び、トレイを持って並んだ。剣士団長と一般人が2人、剣士団宿舎の食堂で列に並ぶ光景は、他の剣士達の目には異様に映ったことだろう。オシニスさんが近くに座っている剣士に、彼らの隣の席を取っておいてくれるように頼んでいる。あとから来た剣士がそこに座ろうとして『そこは団長が座るから開けておけよ』と言われ、慌てて立ち上がる一幕も見られた。
 
「普段はここで食事しないんですか?」
 
「ああ。俺がここにいると、みんな食事を喉につまらせそうだからな。たいていは部屋で食ってる。」
 
「いつの時代も、剣士団長は怖い存在なんですね。」
 
「ははは、まあ仕方ないさ。」
 
 私達の番になったとき、頼んだ食事を作ってくれたのは優しそうな笑顔の太った年配の女性だった。この人が昨日チェリルの話に出てきた『ローダおばさん』だろうか。
 
「おやおや、あんたがここに来るなんて珍しいねぇ。こっちの人達はあんたのお客さんなのかい?」
 
 ローダさんとおぼしき女性は、オシニスさんを見て目を丸くしている。
 
「ああ、今日はこいつらに、ここのメシがいかにうまいかを教えてやろうと思ってな。この2人はクロービスとウィロー、今年入ったカインの両親なんだが俺の古い知り合いでもある。とびきりうまいところを頼むぜ。」
 
「カインの・・・?あの元気のいい新人剣士のカインのかい?」
 
「ああ、そのカインのさ。クロービス、この人はローダさんと言って、ここの厨房の総元締めだ。腕は一流だぜ。」
 
「よろしくお願いします。うちの息子もご迷惑をかけているかも知れませんが、何とか面倒を見てやってください。」
 
「はいよ、よろしくね、あ、あのね、ちょっと待っておくれよ。」
 
 ローダさんはそそくさとカウンターを離れて奥に駆け込んだ。
 
「チェリル!そっちはいいから、ほら、カウンター頼むよ!」
 
 やはりチェリルを呼びに行ったか。きょとんとした顔で出てきたチェリルは、私達の顔を見て驚き、すぐにカウンターに駆けてきた。
 
「あ、あの、こんばんは!」
 
 また顔が真っ赤だ。
 
「こんばんは。今日はオシニスさんにごちそうになりに来たんだよ。君の料理の腕がいいって言うのは聞いていたからね。楽しみにしてるよ。」
 
「はいっ!」
 
「お、なんだお前、もうチェリルと知り合いになったのか?」
 
「アスランの食事を届けてくれたときに会ったんですよ、ちょうど私も病室にいたので。」
 
「ああ、そういや医師会の連中が時々ここで病人食を注文してたっけな。なるほど、その心遣いはありがたいな。アスランの奴も、チェリルのメシを食ってればここで早くまともなメシが食いたくて、早くよくなろうとするだろうしな。」
 
「病人にとっておいしい食事は唯一の楽しみですからね。そう言えばチェリル、アスランの妹さんが君に病人食の味付けについて教えてほしいような話をしていたんだけど、聞いてるかい?」
 
「は、はい!あの、今朝食事を届けに行ったときに頼まれたので・・・その、レシピとか教えてあげるって約束したから、今まとめているところなんです。」
 
「そうか、患者さんにおいしいものを食べさせてあげたいって言ってたからね。君の都合もあると思うけど、無理のない範囲でいろいろ教えてやってくれるかい?」
 
「は・・・はいっ!」
 
「はいよー、ご注文の食事が出来たよ。チェリルの自信作だからね、あんた達、よく味わっておくれよ。」
 
 真っ赤になったまま心ここにあらずと言ったチェリルの代わりに、ローダさんが私達の食事をトレイに乗せて持ってきてくれた。多分ローダさんも、チェリルがカインを好きなことを知っているのだ。そして当然ながら応援しているのだろう。そう思うと、食事を乗せたトレイが妙に重く感じられる。
 
「だいぶ王宮中で顔が知られているみたいだな。」
 
 席に着いて、食べながらオシニスさんが言った。おもしろがっているような口調だ。
 
「別に王宮中を歩いたわけじゃないんですけどね。いつの間にか顔が知られていたようです。」
 
 返事をしながら、スープを一口飲んだ。うまい。今日のメニューはジャガイモのポタージュスープと温野菜のサラダ。メインディッシュはラムステーキだ。赤ワインを使ったソースがかけてあって、付け合わせの野菜はほんのりと甘みがある。これだけでもかなりのボリュームがあるので、ライスはやめてパンにしておいた。そのパンもふっくらとしてほんのり温かい。焼きたてらしい。単に料理上手と言うだけでなく、細やかな心遣いが感じられる。料理が好きで、おいしいものをみんなに食べさせてあげたいという、優しい気持ちが伝わってくる。なるほど、これは確かに料理上手と言われるだけのことはある。妻をちらりと見ると、時々目を見開いたり、うんうんとうなずいたり、かなり厳しくチェックしているようだが、終始笑顔で食べていたのでかなり気に入ったようだ。
 
「ふう・・・そろそろ混んできたかな・・・。」
 
 食事を終えてコーヒーを飲み始めた頃には、食堂にはかなりの数の剣士達が入ってきていた。オシニスさんを見つけると、皆一様にぎょっとして足を止め、慌てて会釈をして通り過ぎていく。
 
「ふふふ・・・そろそろ出るか。俺がいつまでもここにいたんじゃ、みんな食った気がしないだろうからな。」
 
「もっと頻繁にここに来るようにすれば、皆さんもいちいちびっくりしたりしなくなるんじゃないんですか?」
 
「それはハリーの役目さ。俺がしょっちゅうウロウロしていたんじゃみんな落ち着かないからな。昔グラディスさんが言っていたように、団長は団長室に控えて、副団長がみんなの中に入ってまとめてくれる、このやり方が一番いいみたいだ。ハリーとキャラハンは、その役目を充分果たしてくれてるよ。あいつらもそろそろ戻ってくる頃だぞ。顔を見るなり抱きつかれるんじゃないか。」
 
「ははは・・・覚悟してますよ。私も会いたいですし。」
 
「さて出るか。俺はこれからラエルの件でフロリア様に報告に行かなきゃならん。お前の面会はそのあとでいいな?」
 
「かまいませんよ。私はライラの病室にいますから。」
 
「わかった。終わったら声をかけるからな。」
 
 宿舎からの階段を下りて、執政館への入り口でオシニスさんと別れた。私とフロリア様の面会のことを聞いて、オシニスさんがかなり動揺しているのには気づいていた。でも彼にはちょうどいい刺激になったかも知れない。
 
「見た感じは平気そうだけど・・・・どう?」
 
 オシニスさんの後ろ姿を見送って、妻が小さな声で尋ねた。
 
「動揺してるみたいだけど、それを知られまいとしているんじゃないかな。」
 
「ふうん・・・これがいい刺激になってくれればいいんだけど。」
 
「本気でオシニスさんとフロリア様を結びつける気?」
 
「そうなってくれるならこれほどいいことはないんだけど、まずは2人がそれぞれ抱え込んでいる、20年前の因縁を断ち切ってほしいわ。そっちが何とかなれば、いずれ答えも出るでしょう。それが必ずしも結婚という形をとらなかったとしてもね。」
 
「そうだね・・・。今の状態では、答えを探すところまですら行ってないみたいだものな・・・。」
 
 
 
 ライラの病室の前には、王国剣士が立っている。私を見ると神妙な面持ちで頭を下げた。初めて見る顔だが、今日の騒動については、一通り伝えられているのだろう。
 
「カインの親御さんですね。」
 
「そうだよ。中に入れてくれるかい?」
 
「怪我をされたと聞きましたが、具合は大丈夫なんですか?」
 
「フィリスの呪文と、クロムの気功のおかげでね。」
 
「そうですか・・・。実は昼間カインと一緒にバザーの警備をしていたんですが、ちょうどその時事件のことを聞きまして・・・・。かわいそうなくらい青ざめていたんですよ。でも今はまだ仕事を放り出せないって、健気にがんばっていたものですから我々も気になりまして・・・。」
 
「そうか・・・。あとで会いに行ってみるよ。もっとも、カインのほうからここに来るかも知れないな。」
 
「そうですね。ご無事でしたなら何よりです。どうぞ。中でもみんな心配しているようですよ。」
 
「ありがとう。」
 
 扉を開けた途端、イルサが真っ青な顔で抱きついてきた。
 
「先生!本物よね。生きてるのよね!?」
 
 イルサは泣きじゃくって離れようとしない。ライラも目を真っ赤にしている。それでも彼はベッドから降りようとはせず、健気に私の言いつけを守っていたのだった。
 
「生きてるよ。大丈夫だからね。心配かけてごめん。」
 
 イルサの頭をなでながら、目の前の気配に顔を上げると、目を真っ赤にして立っていたのはセーラと・・セーラの肩により掛かるようにして立っているアスランだった。
 
「歩けるようになったんだね。」
 
「はい。まだそんなに早くは動けないけど、ゆっくりなら自分で起きあがって、歩けるようになりました。ずっと立っているのは、まだ支えがないと無理なんだけど・・・。でもここまで回復したんだって、今日先生が来たらそのことを報告しようと思ってたのに・・・今度は先生がこんなことになるなんて・・・。」
 
「でもよかった・・・。先生が刺されたって聞いて、みんなもうびっくりして・・・・。」
 
 セーラが泣き出し、アスランはセーラの髪をなでながら、自分も鼻をすすっている。目は真っ赤だ。彼らとは会ってからまだ日も浅いというのに、こんなに心配してくれていたのか・・・。
 
「心配かけたんだね・・・。大丈夫だよ。みんなが助けてくれたんだ。もうどこも痛くないし、なんだって出来るよ。」
 
 そう言ったとき、ものすごい勢いの足音が廊下から聞こえてきて、バターンと派手に扉が開いた。
 
「父さん!?」
 
 飛び込んできたのはカインだった。
 
「よ、よかった・・・・生きてる・・・・。」
 
 言うなりカインはへなへなとその場に座り込み、ぽろぽろと涙をこぼした。診療所の廊下を全速力で駆け抜け、病室の扉を力任せに開けたりすれば、普段なら怒鳴りつけるところだが・・・・それが私を案じてのことだと思うと、今だけはとても怒る気にはなれない。
 
「生きてるよ。フィリスとクロムが助けてくれたんだ。お前も、あとで礼を言っておいてくれるか?」
 
「うん・・・よかったよ・・・。よかった・・・。よかっ・・・・」
 
 息子は声をつまらせて泣き出した。
 
「すまなかったな、心配かけて・・・。」
 
 私はしゃがみ込んで息子の頭をなでた。私が刺されたことを息子が知ったあと、どれほどつらい気持ちで警備にあたっていたか、それを思うと胸がつまる。それでも息子はこらえて、『王国剣士が人を刺した』という噂のおかげで混乱に陥った町の中を、何とか静めようと今まで走り回っていたに違いない。
 
「いいよ・・・無事だったんだから・・・。」
 
 息子は立ち上がり、涙を拭いた。
 
「さっき食堂に行こうとしたら、父さんが来てたってチェリルが教えてくれたんだ。へへへ・・・父さんの顔見て安心したら、お腹すいちゃったな。ゴハン食べてくるよ。」
 
(・・・・・・・・・?)
 
 何かが引っかかったような気がした。なんだ?今のカインの言葉の中に、何かおかしな部分がある。が、それがなんなのかわからない・・・。
 
「顔を洗ってから行きなさい。そんなべそかき顔で歩いていたら、みんなに心配をかけてしまうわ。」
 
 妻が優しく微笑んでカインに声をかけた。
 
「うん。父さん達はもう帰るの?」
 
「いや、さっき来たばかりなんだ。今日はちょっと用事があってね。まだここにいるよ。」
 
「そうか・・・。僕も今日の仕事は終わりなんだ。ゴハン食べてからここに来てもいい?」
 
「いいよ。」
 
「それじゃ行ってくるね。アスラン、ライラ、あとでゆっくり来るから、その時話そう!」
 
「わかったよ、食い過ぎるなよ!」
 
「待ってるよ。ゆっくり食べてきていいよ。」
 
 息子は笑顔でうなずき、そして今度はそっと病室を出て行った。
 
 
「ふぅ・・・・。」
 
 思わずため息が出て、私はライラのベッドの脇にある椅子に腰を下ろした。
 
「疲れた?」
 
 妻が心配そうに私の顔を覗き込む。
 
「いや、大丈夫だよ。ただ、みんなに心配かけたなって思うと申し訳なくてね・・・。」
 
「でも本当によかったよ・・・。先生が刺されたって聞いたときは生きた心地がしなかったんだ。また・・・誰かが僕のせいで・・・・」
 
「ライラ!」
 
 思わず言葉を遮った。ライラはもしかしたら、私のことを聞いたときからずっと、自分を責めていたのか・・・。
 
「君のせいじゃない。そんな言い方をしてはいけないな。」
 
「だけど・・・・。」
 
 ライラはうつむいて、涙をこすった。腫れ上がった目・・・。何度も泣いては涙を拭いていたのだろう。
 
「今回のことは、先生を刺した人と先生との個人的な行き違いなんだ。断じて君のせいではないんだよ。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 ライラは黙ったままだ。私が言えば言うほど、彼は自分をかばってくれているのだと思うのだろう。せめて大まかな事情だけでも話せるといいのだが、さて勝手に話していいものかどうか・・・。
 
「先生のことより君のことだよ。ほら、うつぶせになって。」
 
 黙り込んでいても気持ちは沈むばかりだ。話題を変えてライラの診察をすることにしてみたが、ライラはうなずいてうつぶせになったものの、枕を抱えて肩を震わせている。せめてきちんとした事情を説明してくれるよう、オシニスさんに頼んでみよう。
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 ライラの首はもう何ともない。今日は予定が狂ってしまったが、明日は街に連れ出してあげよう。
 
「もう大丈夫だよ。明日は退院できるように手続きしてもらおうか。」
 
「・・・普通に動ける?」
 
 枕に顔を埋めたまま、ライラが尋ねた。
 
「動けるよ。もしもよければ、訓練場の隅っこでも借りて軽く手合わせしようか。」
 
「ほんと!?」
 
 急にライラがガバッと飛び起きた。
 
「ああ、先生も少し体慣らしをしたいしね。あとでオシニスさんとハディに頼んでみるよ。」
 
「・・・絶対だよ?」
 
「わかったよ。それじゃ、今からもう普通にしていていいよ。手続きの都合上退院は明日ってことになるけど、もう寝ている必要もないくらいだ。手も何ともないだろう?」
 
「うん。もう全然。はあ・・・よかった。それじゃロイさんに手紙を書こうかな。この間南大陸に向かった人達から怪我のことを聞いたら、心配するかも知れない。」
 
「そのほうがいいね。怪我の話だけ聞いて怒鳴り込んでこないうちにね。」
 
「ははは、そうだね。」
 
 それからどのくらい過ぎたのだろう。すっかり満腹になって満足げな表情の息子が戻ってきた。
 
「はあ・・・安心したらお腹すいて、いつもの倍くらい食べちゃったよ・・・。」
 
「ば、倍って・・・お前食い過ぎじゃないのか・・・・?」
 
 アスランが不安そうに息子の顔を覗き込む。ベッドの上でなら、アスランはもうすっかり普通の病人のように、ずっと体を起こしていられるようになっていた。これで立ち上がったり歩いたりをまったく誰かの支えなしに出来るようになれば、もう普通の生活をするのに支障はなくなる。そしてそこからが、彼の王国剣士としてのリハビリの始まりなのだ。
 
「大丈夫だよ。明日一日歩き回ればきれいに消化しちゃうさ。」
 
 息子はけろりとしている。
 
「確かに、食堂の食事はうまかったな。」
 
「そうだよね。へへへ、おかげで、あんまり外で食べようって気にならないんだよ。外は外でいろいろおいしい店もあるんだけどな。」
 
「でもコーヒーはやっぱりセーラズカフェだよ。」
 
 ライラがちょっとだけ挑戦的な口調で話に入ってきた。
 
「コーヒーだけじゃなくて、食事もおいしいよ。でも僕らって、なかなか外で食べる機会ってないんだよ。特に今の時期はみんなそうだって言うよ。」
 
「それは仕方ないだろう。何が起きるかわからないんだからね。」
 
 そして実際に事件は起きて、剣士団は窮地に立たされつつある。そこに扉がノックされた。
 
「どうぞ。」
 
 顔を出したのはオシニスさんだった。
 
「クロービス、俺のほうは終わりだ。執務室でじいさんが待ってるから、先にそっちに来てほしいそうだ。」
 
「わかりました。」
 
「あれ?父さん何か用事?」
 
 子供達は不思議そうに私を見ている。
 
「レイナック殿とちょっとね。あ、オシニスさん、ライラのことなんですけど・・・・」
 
 忘れないうちに、明日訓練場を少し借りられないかと話してみた。オシニスさんは思ったとおりにやりと笑って、俺も立ち会わせてもらうぞと楽しそうに言った。
 
「かまいませんよ。・・・さっきの話は・・・その前のほうがいいですね。」
 
「いや、そんなに急がないそうだから、お前の都合でかまわないという話だったぞ。あとでもいいんじゃないか?」
 
「うーん・・・そうですねぇ・・・・いや、やっぱり先にしましょう。体を使ってから頭を使うより、頭を使ってから体を使った方が、すっきりしそうです。」
 
「なるほど、それもそうだな。それじゃ明日の朝は、いったん俺の部屋に来てくれないか。」
 
「わかりました。」
 
 『さっきの話』とは事情聴取の話だ。ここではっきりと『ラエルの話』とは言いたくなかったのでそんな風に言ってみたのだが、オシニスさんがちゃんとわかってくれたのでほっとした。
 
「それじゃクロービス、遅くなりそうなら、私はレストランでお茶でも飲んでるわ。」
 
「わかった。行ってくるよ。」
 
 病室を出た。後ろでオシニスさんが妻に話している声が聞こえる。
 
「リーザが君と話したいって言ってたぞ。これから来るみたいな話だったな。」
 
「あれ、団長、フロリア様の護衛はいいんですか?」
 
 これは息子の声だ。
 
「この時間なら乙夜の塔には夜勤の連中がいるからな。入り口で賊を止められれば、リーザがいなくても何とかなるさ。せっかく古い昔なじみが訪ねてきたんだから、たまには出掛けて羽を伸ばさないとな。」
 
「それもそうですね・・・・・・・。」
 
 声は遠ざかり、私はロビーに出て執政館の入り口に向かった。夜勤の剣士は笑顔で通してくれた。彼らの顔にも見覚えはないのだが、向こうは私を知っているらしい。
 
「変な気分だな・・・。」
 
 執務室に着いた。護衛の剣士は今はいない。この時間になると、執政館の警備は出入り口のみで、中のそれぞれの部屋の前は無人になる。扉をノックした。
 
「誰だ?」
 
 レイナック殿の声だ。
 
「私です。クロービスです。」
 
「おお、入れ。」
 
「失礼します。」
 
 中にはいると、レイナック殿は心配そうな顔で迎えてくれた。
 
「・・・大変な目に遭ったようだな。傷はもういいのか?」
 
「大丈夫です。フィリスとクロムが治してくれましたし、しっかりと休んできましたから。」
 
「そうか。さっそくだが、行けるかの?」
 
「はい。」
 
「ウィローは・・・何か言っておらなんだか?」
 
「・・・しっかりと決着をつけようと、話し合ってきましたよ。」
 
「決着か・・・・。」
 
「ウィローも、今さらフロリア様に対してわだかまりはないそうです。昔のことに囚われて前に進めずにいるのなら、進むためのきっかけを作る手伝いでも出来ればと・・・。」
 
「そうか・・・。そうだな・・・。どのような形ででも、昔のことに決着をつけることが出来れば・・・せめて前に踏み出すことは出来るであろう・・・。では行こうか。フロリア様がお待ちだ。」
 
「はい・・・。」
 
 執政館から乙夜の塔へ向かう通路は、本来フロリア様以外は誰も使えないのだが、今日はレイナック殿が使用許可を取ってきたと言うことだった。この通路をフロリア様が通るときは、護衛も侍女達もたくさんついていくのだろうが、今は誰もいない。しんと静まりかえった通路は、何となく不気味でさえある。
 
「外から行かないのですね。」
 
「うむ、なんといっても、今日のお前はフロリア様の客だからな。外を歩かせるような無礼は出来ぬと言うわけだ。」
 
「客と言っても、単に昔から知っていると言うだけで、私は一介の医師に過ぎません。わざわざここの通路の使用許可を取ってまで中を行くなんて、かえって変に思われやしませんか?」
 
「その心配はあるまい。お前はフロリア様の客であると同時に、フロリア様のご気分が優れない原因を突き止めるべく、医師会から派遣された医師でもあるのだ。」
 
「・・・それは初耳ですが・・・。」
 
 一瞬気構えた。また妙な肩書きを背負わされるのはごめんだ。その気持ちが口調にもでたものか、レイナック殿は慌てて首を振った。
 
「いやいや、そんなに大げさに考えんでくれ。フロリア様のご気分が優れないのは、周知の事実。昔なじみのお前と話すことで気が晴れるならばそれは何よりだが、せっかく医者のお前が話し相手になるのなら、フロリア様の病状も見極めてもらえるのではないかと、ドゥルーガーが言い出してな。」
 
「ドゥルーガー会長が?」
 
「うむ、あやつはお前の医師としての腕を認めておる。そこで、フロリア様の昔なじみとして話し相手になりながら、医師の立場からフロリア様の今の病状を分析してほしいというわけだ。」
 
「なるほど・・・そういうことでしたら、出来る限りのことはしましょう。」
 
 今さら医師会との間に軋轢を生じるようなことはしたくない。ゴード先生あたりは私が出ていくたびに嫌な顔をするのかも知れないが、取りあえずドゥルーガー会長が容認していることなら、私も胸を張っていなければならないだろう。
 
「うむ、そう言ってもらえるとありがたい。」
 
「ところで今日のことは、オシニスさんには話してなかったのですか?」
 
 オシニスさんの名前を口にした途端、レイナック殿は立ち止まり、少しばつが悪そうに肩をすくめた。
 
「いずれお前を呼んでとは言うておったがな、今日という話はしておらなんだ。さっきラエルの件でフロリア様に報告に来たとき、わしを廊下に引っ張り出して尋ねて来おったわ。『いきなり今日とは聞いてないぞ』とな。」
 
「護衛のこともありますし、悪いことをしましたね。私もうっかりしていました。この話が出たときにきちんと話しておくべきだったのに・・・。」
 
「ふん、気にすることはない。わしも言うてやったわい。『わしがお前の企みに荷担しているような話を、クロービスに吹き込んだ罰じゃ』とな。ふぉっふぉっふぉっ。」
 
「ははは、そんなことまでおっしゃったんですか。」
 
「あのくらい言うてやってちょうどじゃ。あの度胸なしが。」
 
「・・・・・・・・・・・・。」
 
 そう言いながらレイナック殿の瞳が寂しげだ。
 
「レイナック殿。」
 
「ん?」
 
「レイナック殿はどうお考えです?」
 
「なにをだ?」
 
「フロリア様のことですよ。昨日の話しぶりからして、レイナック殿は今でも、フロリア様とオシニスさんが結婚してくれたらと思っているのではないかと思ったものですから。」
 
「ふん・・・まあ確かに・・・そうなってくれるならば言うことはないが・・・今のオシニスにフロリア様を任せる気にはなれん。」
 
「なぜです?」
 
「昨日言うたとおりだ。オシニスの奴には覚悟がない。お前が言ったように、好きな女のためならばどんな困難にもあえて立ち向かおうとするだけの覚悟がな。カインのこととか、身分のこととか、確かに避けて通れぬことではあるが、あやつは一度でもその困難に立ち向かおうとしたことがあるか?わしには最初から逃げているようにしか見えぬ。そのような情けない男に、大事なフロリア様を任せるわけにはいかん。」
 
「なるほど・・・。」
 
「それにもう一つ、正式でないとは言え、以前フロリア様から奴にこの話を打診しておるのに、奴が断った恰好になっておる。今さらもう一度話を持ちかけるわけにはいかん。王家にも体面というものがあるからな。」
 
「そうですか・・・。仕方ありませんね。」
 
「わしは自分の子を持たぬと決めておる。そのわしにとって、オシニスは息子のようなものだ。だからこそ情けなくてな・・・。」
 
「わかりました。よけいなことをお聞きして申し訳ありませんでした。」
 
「いや・・・お前が気にすることではない。実を言えばわしも、あやつが考え直して詫びを入れてくるのではないかと密かに期待している部分もあるからな・・・。」
 
「つまり、断った男性の側から頭を下げてくれば、王家としても考えないことはない、そういうことですか?」
 
「うむ・・・オシニスの奴が、以前のことは大変申し訳なかった、改めて考えさせてくれとでも言ってくるならば、それでは改めて正式に話を持っていこうという流れにもなるかもしれん。無論フロリア様のお気持ち次第だから、ここでフロリア様がいやだと仰せられればこの話は完全に終わりだがな。」
 
「もしもそう言った状況になったとして、フロリア様はいやだと言われるでしょうか。」
 
「さてわからぬ・・・。昔はフロリア様も積極的に中庭などに姿をお見せになられたものだが、そのころは良くオシニスと話をしていたものだがのぉ・・・。」
 
「いつ頃の話です?」
 
「そうさな・・・。オシニスとライザーが入団して、わしを不審者と間違えてつかまえようとした・・・それからしばらくあとの話だったかのぉ・・・。神官の衣を『汚い色の服』とぬかしおったとフロリア様に話して聞かせたところ、フロリア様はたいそう笑われてな・・・入団の挨拶の時にはあやつもさすがに神妙にしておったらしく、そんなにおもしろい剣士だとは思わなかった、ぜひまた会って話したいものだと仰せられたのだ。・・・それからすぐだったかのぉ、あの猫のことは・・・。」
 
「猫?」
 
「うむ、猫じゃ。その猫の件がきっかけとなって、フロリア様とオシニスはなかなか親しくなったようだったのだが・・・それからしばらくしてその猫が死んでしもうての・・・。そのあとオシニスは中庭にあまり現れなくなった。」
 
「・・・何があったんでしょうね・・・。」
 
 こんな話は初めて聞く。昔、オシニスさんがフロリア様の異変の原因を知っていそうな口ぶりだったと思ったことがあったが、その猫の話が関係しているのだろうか。
 
「さて、それはわしにもわからぬ。まあこの話は、フロリア様から直接聞くがよかろう。話題の提供にもなると言うものだ。第一、フロリア様のことをわしが何でもかんでもべらべらとしゃべってしまっては、フロリア様に申し訳が立たぬ。」
 
 オシニスさんに聞いたところで、素直に話してくれるとは思えない。やはりフロリア様に聞くのが一番確実か・・・。もっとも、2人にとって何か嫌な思い出になってでもいるのなら、そう簡単に教えてはもらえないだろうが・・・。
 
「いい話を聞かせていただいてありがとうございました。ちょうどいい話題の提供にもなると思いますよ。」
 
「そうだな。クロービスよ、一つ確認しておくが、わしの本心はともかく、今日のお前の仕事はフロリア様にお元気になっていただくことと、フロリア様の状態がどんなものなのかを見極めることだ。無理にオシニスの話を持ち出すようなことはせんでくれよ。」
 
「わかってますよ。ただし、必要であればその話もさせていただきます。今日の私は、あくまでも昔なじみとしてフロリア様に会いに行くのですから、特定の誰かに関する話題を極端に避けるというのは、それはそれで不自然ですからね。」
 
「ま、まあ・・・・それもそうだな・・・。さあ、少し急ごう。今日はあまりのんびりと話している時間はないぞ。フロリア様がお待ちだからな。」
 
「わかりました。」
 
 長い通路には窓もあり、外の様子も窺うことが出来る。月明かりに照らされた外の風景は、遠い記憶を思い起こさせる。今夜、あの夢の謎を解明することは出来るのだろうか。フロリア様は本当に、今でもカインのことを思っているのだろうか。それとも・・・。
 

第62章へ続く

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