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 オシニスさんは浮かせかけた腰をまた椅子に沈め、私はオシニスさんの前に置かれたカップの中にお茶を注ぎ入れた。
 
「この間、ラエルという若い剣士が起こした騒ぎを覚えてますよね。」
 
「忘れるもんか。あいつはまだ当分謹慎だ。性根をたたき直さないと、仕事にも出せん。」
 
「あの時トゥラという娘と一緒にいた、ヘブンズゲイトの用心棒を覚えてますか?」
 
「ああ、あのやたらと低姿勢な奴か。あいつがどうした?」
 
「さっき会ったんですよ。」
 
「ほお、で?」
 
「彼女の借金を全部支払うという人物が現れたそうです。」
 
「・・・なるほど、あの娘の器量はなかなかのものだから、そう言う奴が現れてもおかしくはないだろうな。まあ・・・ラエルには残念な結果になったが・・・。」
 
「確かにそれだけならおかしくはないですけど、それがラエル本人だったら、やっぱりおかしいと思いませんか?」
 
「なんだと・・・?」
 
 オシニスさんの顔色が変わった。
 
「昨日の朝、ラエルがあの店に現れたそうです。あの娘の借金を肩代わりできる目処がつくかもしれないと。」
 
「な・・・・!一体どう言うことだ!?」
 
 出来るだけあの用心棒が使った言葉を思い出しながら、聞いた話をすべてオシニスさんに話した。オシニスさんは怒りに満ちた表情のまま、しばらく拳を握りしめていたが、何度も何度も深呼吸し、必死で落ち着こうとしているようだった。
 
「・・・まず、俺がわかっていることを言っておく。」
 
「はい。」
 
 オシニスさんの声は、まだ震えている。
 
「俺はあいつの謹慎を解くなんて話を一度もしたことがない。それに、あいつの家はごく普通の家庭だ。いくらだか知らんが、娼婦の借金を肩代わりできるような財力は、奴の家にはないと思っていい。加えて、王国剣士の給金は昔よりはましになったが、相変わらずたいした金額じゃない。仮に奴が入団以来の給金をすべて貯め込んでいたとしても、そんな大金になりようはずがないぞ。」
 
「娼館の主の見解も似たようなものらしいです。どうせホラ話だろうと言う結論にはなったようですが、以前の話とは全然違うし、いきなりトゥラを連れて逃げられたりしては困るので、どういうことなのかを教えてくれとのことでした。」
 
「そうだろうな・・・。これでは俺がいい加減な約束をしたようなもんだから、あの店にとってはバカにされているような気がしているかも知れん。あげくに女を掠われたなんてことになれば、あの店の面目は丸つぶれだ。とにかく事実関係を把握して、ちゃんと説明しなくちゃならんな。」
 
「そうですね。問題は、まず謹慎中のはずのラエルがどうやって外に出たのかがひとつ、もうひとつは一体何の根拠があってそんな話をしたかです。」
 
「・・・・・まずはハディだな。奴から話を聞いてみよう。ラエルのことはあいつにまかせてあるんだが・・・確かにひっついて見張れなんて言ったわけじゃないし、いくら謹慎中だからって、王宮の中でまで拘束するわけにはいかんからな。」
 
「呼んできましょうか?」
 
「頼む・・・。」
 
 部屋を出る前に、お茶をもう一杯オシニスさんのカップに注いだ。せめて落ち着いて待っていてもらわなければならない。
 
「訓練場はこっちか・・・。」
 
 昔と変わらない廊下を歩き出した。途中で何人かの王国剣士とすれ違ったが、みんな笑顔で会釈をしていくだけで、誰も私を止めようとはしない。王宮の中で、すっかり顔が知れ渡っているらしい。
 
 
 訓練場に着いた。中からは威勢のいいかけ声が聞こえてくる。ドスンと何かにぶつかったような音は、誰かが壁まではじき飛ばされた音だろうか。中を見渡すと、ハディがいるのがすぐにわかった。相手をしているのは・・・偶然と言うべきか、あのラエルという剣士だ。2人ともこちらに気づいていない。声をかけず、しばらく2人の立合を眺めていた。
 
「・・・なんであんなに隙だらけなんだろう・・・。」
 
 今年で入団3年になり、執政館勤務のローテーションに組み込まれたばかりだというラエルだが、実際には気心の知れた相方と一緒の仕事ではなく、変則的な組み合わせの時に代替要員としていろんな剣士達と組んでいるようだ。彼の相方が療養中な為に、そんな状況になっているらしい。しかもその相方の病気は治る見込みがない。その話はオシニスさんから聞かされているはずだが、彼の剣が隙だらけなのはそれが原因ではなさそうだ。案の定あっという間に打ち込まれ、ひっくり返っている。だが彼はまったく悔しそうにする様子もない。それどころか、なんとなくへらへらと笑っているようにさえ見える。めげない性格なのか、それとも剣の稽古自体どうでもいいのか・・・。ハディが昨日言っていたように、彼が入団当初は希望に燃えていたというのが事実なら、今の彼が初心を忘れているのは明らかだ。私は2人に近づいて声をかけた。
 
「お、クロービスじゃないか。こんなところまで来るなんて、どうしたんだ?」
 
 ハディが構えを解いて振り向いた。
 
「いや、君にちょっと用事があってね。」
 
「俺に?」
 
「うん。稽古中だったみたいだけど・・・。」
 
 突然、異様な『気』に圧倒されて、思わず振り向いた。そこには今までハディと稽古をしていたラエルが立っていて、鋭い視線で私を捉えている。さっきの、どちらかというとヘラヘラした笑顔からは一転し、まるで私という存在そのものを憎んでいるような視線だ。
 
「相手をしてたのは君か。久しぶりだが、私のことは覚えているかい?」
 
「忘れるはずがありませんよ。」
 
 ラエルは吐き捨てるようにそう言ってそっぽを向いた。やはり彼は未だに、私がトゥラの客だと思いこんでいるらしい。だからなのだろうか。胃の中がむかつくような、異様に重い『気』が彼から発せられ、ゆらゆらとあたりを漂っている。この『気』は・・・。
 
「おい、その言い方はないだろう?こいつはアスランの命の恩人だぞ。」
 
 ハディがむっとしてラエルをたしなめた。
 
「そのこととは別です。どんな立派な医者だろうが、腰から下は別物なんでしょうからね。」
 
「この野郎・・・なんだその言い草は!?この間団長が言った話を聞いてなかったのか!?」
 
 ハディはラエルの胸ぐらを掴み、拳を振りあげた。
 
「ハディ、やめておきなよ。ここは訓練場だよ。殴り合いするのはよくないんじゃない?」
 
「あのなあ、もっと怒れよ!お前が侮辱されてるんだぞ!?」
 
「ここで私が怒ったところで、何も解決しないよ。それに、私が怒れば怒るほど、彼は私に対する疑いを強めるだけさ。私には何一つやましいことはないんだから、気にすることはないよ。」
 
 ハディは振り上げた拳をおろし、呆れたようにため息をつきながら、ラエルの胸ぐらを掴んでいた手を離した。
 
「お前は相変わらずだな・・・。ま、お前に免じてこいつを殴るのはやめておこう。ところで、用事ってのはなんだ?」
 
「オシニスさんが呼んでるんだ。団長室に来てほしいそうだよ。」
 
「今か?」
 
「うん。忙しくなければだけど。」
 
「そうか・・・。ちょっと待ってくれ。うーん・・・どうするかな・・・。」
 
 ハディはきょろきょろとあたりを見渡しながら、訓練場の奥に歩いていった。ラエルの相手をしてくれる誰かを捜しているのかも知れない。
 
「あなたはカインの親父さんだそうですね。」
 
 ラエルが相変わらず私を睨みつけながら聞いてきた。
 
「そうだよ。息子がお世話になってるね。」
 
「あいつはいい奴ですよ。自慢の親父さんが外で何をしてるのか知ったら、あいつは悲しむでしょうね。」
 
「さっきも言ったはずだよ。私には何一つやましいことはない。トゥラに限らず、お金を出して歓楽街の女性達を買ったことも一度もないよ。だが、たとえ君のまわりのすべての人が私の潔白を証明してくれたとしても、君は最初からその話を信じる気がないんだろう?」
 
「どういう意味です?」
 
 視線は鋭いままだったが、彼を包む気がゆらりと揺らめいた。動揺している。
 
「君はあの時、トゥラが君から逃げて私を頼ったという事実を、受け止めたくないだけなんじゃないのかい?彼女が私を頼ったのは、私が客だったから、大事な金づるを前にして恋人に寄り添うわけにはいかないから、とりあえず体裁を繕うしかなかった、でなければ彼女が自分を拒絶するはずがない、とね。」
 
「ち、違う!そんなことがあるわけがない!トゥラは僕を・・・!」
 
 どうやら図星だったようだ。この若者は、思いこみが激しいと言うより、思い込むことで自分を保っている、言い換えれば、自分にとって都合のいい理屈に逃げているだけだ。
 
「こら、大声をだすな!」
 
 ハディが戻ってきて慌ててたしなめた。
 
「お前の恋物語を、訓練場の中にいる剣士全部に聞かせたいってんなら別だがな。俺が戻るまでお前の相手をしてくれる奴を連れてきた。しっかり訓練しておけよ。クロービス、行こうぜ。」
 
「ああ。」
 
「よーし!俺が相手だ。びしびし行くぞ!」
 
 ハディが連れてきた剣士の声が背後で聞こえる。ラエルがなんと言っているのかはわからない。
 
「なあ、団長の用事はなんなのか聞いてるか?」
 
 歩きながら、ハディが尋ねた。
 
「あのラエルという剣士のことさ。」
 
「ラエルの?」
 
「まあ、詳しい話は団長室に行ってからするよ。」
 
「てことは、その話にお前も一枚かんでるってことか。」
 
「ちょっとね。」
 
「そうか・・・。ちょうどよかったよ。俺もあいつのことでちょっと団長に相談があったんだ。」
 
「未だにトゥラのことばかり考えているみたいだね。」
 
「そうだな・・・。今のあいつは、入団当時のあいつとは別人のようだ。以前のあいつは、実力としては突出したところはなかったが、、真面目で前向きだった。女ってのは魔物だな・・・。一人の男をあそこまで変えちまえるんだからな・・・。」
 
「でもそれは、相方の剣士の件とか、いろいろ悪い偶然が重なったってことなんじゃないのかい?」
 
「それは確かにそうだ。でもな、相方の奴が病気になったときだってあいつは前向きで、いつかまた2人で仕事が出来るようになる日のために、自分の腕を磨いておくって張り切っていたんだ。あいつは、ランドさんがその腕と人柄を認めた奴だ。どんなにつらい状況でも、必ず立ち直ってくれると俺達は思っていたんだ・・・。だが・・・相方の奴の療養が長引き、ラエルにも疲れが見え始めた。その頃あの娘と出会って、優しい言葉をかけられたらしいよ。その女がどう言うつもりで王国剣士なんぞに声をかけたのか、さっぱりわからんがな。」
 
 ハディが言いながら無意識のように胃のあたりをさすっている。
 
「胃の調子でも悪いの?」
 
「ん?あ、いや・・・なんか今日は腹の奥がむかむかしてな。まあ気にしないでくれ。そのうちおさまるさ。」
 
「原因はわかってるわけだね。」
 
「まあな。」
 
「多分、彼の周りにいた剣士達は、同じように不快な気分になっていると思うよ。」
 
「お前もか?」
 
「うん。今はそうでもないけど。」
 
 私がラエルの『毒気』にあてられたのはほんのわずかな時間だが、さっきからずっと同じ場所で訓練している剣士達は、みんな多かれ少なかれ体調が悪くなっているんじゃないだろうか。
 
「そうか・・・。気功でも呪文でも、気の流れを操れる奴にはわかるよな・・・。」
 
「何とかしてやらないとね。周りにもいい影響を与えないし、なにより彼自身が自滅してしまうかもしれない。」
 
「ああ・・・。何かいい方法はないのかな・・・。」
 
「まあ・・・そうだな・・・。いよいよになったら方法がないわけでもないけど、危険な賭けだな・・・。」
 
「何か打つ手があるのか?」
 
「なくはないけど、その前に何か別な方法はないものか、考えてみようじゃないか。とにかく、あんまりのんびり見ていられない状況であることは確かだからね。」
 
「まったくだ。何とかいい方向に転んでくれるといいんだがな・・・。」
 
 強すぎる思いは我が身を滅ぼす。今のラエルは、20年前のエミーと同じだ。自分の言うとおりにしてさえいれば、彼女は幸せになれると思いこんでいる。そしてその『思いこみ』の中に閉じこもり、思いをすべてその内側に抱え込んで、どんどん膨らませ続けている・・・。あの時カインが、エミーのゆがんだ『気』に自分の『気』をありったけぶつけて中和したように、腕の確かな気功の使い手がいれば何とかならないことはないと思うが・・・。でも今ならまだ間に合う。あそこまでひどくなる前に、何とかしてやりたい。
 
「そうだね。でも君も、あんまり考えすぎて無理したりしないでよ。ずいぶん疲れてるみたいじゃないか。」
 
「大丈夫だよ。疲れてるって言うより、一応頼んでは来たけどラエルの奴、ちゃんと訓練してるかなあと思ってな。それを考えると、ため息の一つもつきたくなるってわけさ。」
 
「君が席を外すときは、いつもああやって誰かに頼んでいるの?」
 
「誰かがいればな。だが、謹慎中とは言え王宮の中では自由に動けるんだから、そうそう拘束は出来ないよ。休んでおけって言うときもある。」
 
「ふぅん・・・。」
 
「なんでそんなことを聞く?」
 
「いや、同じことをオシニスさんから聞かれるかも知れないよ。」
 
「どう言うことだ?」
 
「団長室に行ってから話すよ。」
 
 
 団長室で、私はハディのお茶を淹れ、さっき用心棒から聞いた話をもう一度最初から話した。
 
「・・・まあ・・・そういうわけだ。それでお前に、あいつの様子を聞きたくて来てもらったのさ。」
 
 ライザーさん特製のお茶の効果か、オシニスさんはだいぶ落ち着いている。
 
「それじゃ・・・一昨日の午後あいつがいなかったのは・・・。」
 
 対してハディの声は怒りで震えていた。
 
「午後と言っても、昼メシが終わってすぐくらいの時間だったと思う。あいつがいなかったって言うのがその時間帯なのかどうかを確認したいんだ。どうだ?」
 
 オシニスさんの問いに、ハディは少し考えるような仕草をし・・・忌々しそうに舌打ちした。
 
「・・・ちょうどその頃ですよ。メシから戻るのが遅かったから、具合でも悪いのかと聞いたんですが・・・なんでもないって言うんでそのまま稽古を続けたんですけどね・・・。」
 
「昨日はどうだ?」
 
「昨日の朝ですか・・・。確かに訓練場に来るのは遅かったですね・・・。でもどこに行っていたのか不審に思えるほど遅かったわけじゃないんで、ついそのまま何も聞かずに稽古を始めちまった・・・くそ!俺としたことが!」
 
 ハディは唇をかみ、頭を抱えた。
 
「ま、朝だったらある程度早い時間にこっそり外に出て、話をして戻ってくることは出来るからな。」
 
「そりゃそうですけど・・・謹慎中の剣士の管理を任されていたのは俺なんですから、こんなことになったのはやっぱり俺の責任です。自分の注意力の足りなさが情けなくなりますよ。申し訳ありません・・・。」
 
 ハディはオシニスさんに向かって頭を下げた。肩を落として、見ているのが気の毒なくらいだ。オシニスさんは立ち上がり、頭を下げたままのハディの肩をポンと叩いた。
 
「そう落ち込むな。悪いのは俺だ。お前に任せっぱなしにしておいたのは、職務怠慢としか言いようがない。だが、ここで誰が悪いか言い合っても始まらん。まずは事実の把握だ。どうやらラエルが、一昨日ライラを襲った奴らの仲間であった可能性はかなり高くなってきた。そして昨日の朝、奴が歓楽街に現れたのは、今クロービスから聞いたとおりだ。それをふまえて、奴の動機を考えてみようじゃないか。」
 
「動機ですか・・・。そういや、ラエルの奴は執政館勤務になってまだ日も浅い・・・。南地方も南大陸も、これからローテーションに入る予定だからまだ行ったことがない・・・。奴とライラの間の、いったいどこに接点があるんだろう・・・。」
 
 ハディは考え込んでしまった。
 
「つまり、彼が自分からライラを襲うとは考えにくいってこと?」
 
 私はハディに尋ねた。
 
「ああ・・・。少なくとも、悪い感情を持つほどラエルのやつがライラをよく知っているとは思えないんだよな・・・。」
 
「それもそうだね。もっとも、知っていればなおさら、悪い感情なんて持ちようがないと思うけどな。」
 
 とうとう両親を説き伏せて単身ハース鉱山に行ってしまったこと、座り込みというとんでもない方法でロイを説き伏せてしまったことなどを考えれば、ライラが頑固者で行動力があることは確かだ。が、彼はとても温厚な性格だ。思いやりもあるし、誰かに恨んだりされるいわれはないと思える。
 
「確かにそうだ・・・。だが逆によく知らない奴が相手なら、誰かからそいつの悪口でも吹き込まれれば、ラエルなら簡単に信じ込むかも知れないな・・・。」
 
 ラエルという剣士の性格は、少し話してみればおそらく簡単にわかる。彼が望む餌をまいて、それを実現するためにライラがどれほど障害になってるか、そんな風に話を持って行けば、あの若者をだますことはたやすそうだ。
 
「誰かが関与している可能性があるとして、ではそれはどこの何者かってことだね。」
 
「そうだな・・・。たとえば、昨日セルーネさんが捕まえたとか言う怪しい男とかならどうだろうな・・・。」
 
「そうだね・・・。可能性はありそうだけど、それについては取り調べの結果を待つ以外にないから、今は何とも言えないな。」
 
「そうだよな・・・。仕方ない。わかっていることだけで話をまとめてみるか。」
 
 ハディがため息をついた。
 
「そのほうがよさそうだな・・・。よし、ハディ、クロービス、聞いてくれ。今まで聞いたことだけを考え合わせると、まずラエルがライラを襲った奴らに荷担していた可能性はかなり高い。だがやつはやっていいことと悪いことの区別がつかないほどにバカじゃない。考えられるのは、奴がだまされたか、脅されたか、でなければ・・・あまり考えたくはないが、最初から王国を裏切ることになるとわかっていて、それでも敵の出した条件に惹かれてしまったか・・・。まあそのうちのどれかだと俺は思うわけだ。どうだ?」
 
 そういうオシニスさんの顔は怒っているというより悲しげだ。無理もない。どちらに転んでも、自分の部下が裏切りに手を染めたことに変わりはないからだ。
 
「そうは思いたくないな・・・。入ってきたばかりのあいつは、すごくいい奴だったじゃないですか・・・?」
 
 ハディが寂しげにつぶやいた。
 
「そうだな・・・。俺もそこまであいつが堕ちているとは思いたくないが・・・。」
 
「オシニスさん、俺にはあいつが脅されてるってのは考えられないです。あいつの家は普通の家だし、あいつの弱みって言えばその女くらいだ。脅されるようなネタは出てこないと思います。」
 
 ハディが言った。
 
「となると、やっぱりだまされたか、あいつにとってよだれが出そうないい条件に乗せられたかのどっちかか・・・。そうなると次は、それが誰なのかってことになるんだが、そればっかりは奴に直接聞く以外になさそうだな・・・。」
 
「そうですね・・・。でも、そもそも彼の裏切りが本当だとして、その理由が一つだけかどうかはわかりませんよ。両方と言うことも考えられます。」
 
 私の言葉に、オシニスさんもハディもぎょっとして顔を上げた。
 
「両方って・・・どういうことだ?」
 
「さっきオシニスさんが言ったじゃないですか。ラエルはやっていいことと悪いことの区別がつかないほどバカじゃないって。」
 
「ああそうだ。やつは確かにいろいろと問題はあるが、愚か者ではない。今回の件にしても、もしも襲う相手がライラだと知ったら、最初は二の足を踏んだのではないかと思う。会ったことはなくても、ナイト輝石の一件はみんな知っていることだし、ライラはこのプロジェクトの発案者であり推進役だからな。どれほどこの国にとって重要人物であるか、そのくらいのことはちゃんと理解しているはずだ。」
 
「なるほど。でも彼は、どうやらだまされやすいようですね。」
 
「ふん・・・残念ながらな。あいつの性格を少しでも知っている奴なら、脅したりするよりもだました方がよほど話は簡単だと思うだろうな。」
 
「う〜ん・・・たとえば、実はライラが私利私欲のために動いているとか、実はナイト輝石の毒を中和する方法などすべてはインチキで、ライラは富と名声を得たいがためにでっち上げをしているとか、その手の話をたくさん聞かせるとか?」
 
「まあそう言うこともあるかな。」
 
「だがそんな話をそう簡単に信じるかな。あいつはバカじゃないって、今お前が言ったばかりだぜ?」
 
 ハディは納得がいかなそうだ。
 
「たしかにね。その辺で会ったばかりの人がそんなことを言ってもさすがに彼は信じないだろうけど、さっき私がヘブンズゲイトの用心棒から聞いた話を思い出してよ。ラエルはどうやら、今回の『仕事』の遂行と引き替えに、多額の謝礼と謹慎期間の短縮を約束されているんだよ。剣士団長の決定を覆せるほどの実力者が後ろに控えてるって言われたら?彼の今の望みは、おそらくトゥラを手に入れることだけだ。相手が王宮の中で力を持っていて、自分の望みが叶うかも知れない、そう考えた時点で彼には、相手の言葉の中に潜んだ嘘を見ぬくことは出来なくなると思うよ。」
 
「・・・なるほどな・・・。一度餌に食いつけば、あいつをだますのは簡単だろう。あとは、ライラを襲うことはすなわちこの国を救うことに繋がるから、結果的に裏切り者にはならないとでも締めくくっておけば、大義名分も出来るってわけか・・・。」
 
「これもまた可能性の一つですけどね。本当のことは本人に聞かなければ知りようがありませんが。もちろん、彼が潔白である可能性も、消えたわけではないと思いますよ。」
 
 限りなく低い確率ではあるが・・・。
 
「団長、ラエルの奴を泳がせてみませんか?」
 
 ハディが言い出した。
 
「泳がせる?」
 
「そうです。あいつは昨日も今日も訓練に身が入っていなかった。もしもそれが、どうせすぐに謹慎が解けて好きな女と一緒になれると思いこんでのことなら、たとえば団長が『謹慎期間を延ばす』とか言えば、何かしら行動を起こすかも知れない。『約束が違う』とか思って、その約束を持ちかけた相手に接触しようとするかも知れませんよ。」
 
「なるほど・・・。」
 
「やるなら今だと思います。セルーネさんがつかまえた奴の話では、まだ王国剣士がこの件に絡んでいるって話は出てきていないんですよね?」
 
「ああ・・・。その話を奴がどうしてしないのか、俺達も理解できずにいるところさ。もしかしたらラエルと一緒にいた奴とあの男は別人で、本当に知らないという線もあるにはあるが・・・。」
 
「でもハディ、それをやるとしたら、誰かがラエルについて尾行でもしてないと難しいよ。」
 
「そのくらいは俺がやる。おそらく、今回の一件はあいつの性根をたたき直す最後の機会だ。これで目が覚めないようなら、あいつはもうこの仕事を辞めたほうがいい。」
 
「そうかも知れないけど、彼が逆上してトゥラを無理矢理連れ出したりすることも考えられるじゃないか。あの店ではそれを何より心配しているしね。」
 
「そうなったら俺が命に替えてもあいつを取り押さえるさ。人道的にはどうでも、歓楽街で行われている女達の売買は、今のこの国では合法なんだ。きちんとした契約に基づいて売られてきた女を手に入れたければ、女の背負っている借金を肩代わりする以外にない。無理矢理連れ出したり逃げたりすれば、その時点であいつも犯罪者になってしまう。それだけはなんとしても阻止しなきゃならん。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんは腕を組んでしばらく考え込んでいたが・・・
 
「確かに危険は伴うが・・・それしかないのかも知れんな・・・。本人がいくらやる気を失っていないとしても、今のようなことを繰り返すようでは、一般国民に迷惑がかかる・・・。よし、ラエルを呼んできてくれ。」
 
「私はいないほうがいいでしょう。彼はどうしても私をトゥラの客にしたいようですからね。」
 
「そうか・・・。そうだな。」
 
「それじゃ、私はライラの病室に行ってます。明日にでもまたうかがいますよ。」
 
「ああ、悪いがそうしてくれ。」
 
「おいクロービス、俺も途中まで一緒に行くよ。」
 
 ハディと一緒に廊下に出た。
 
「はあ・・世の中ってのは、なかなかうまくいかないもんだなあ。」
 
 ハディがつぶやく。その言葉は何となく、ラエルのことのみならず、自分とリーザのことも指しているように聞こえた。
 
「仕方ないよ。うまくいくことばかりだったら、誰も努力なんてしないじゃないか。だからうまくいかないことでうまく釣り合いがとれてるんだよ、きっと。」
 
「まあそれも一理あるが、だからって納得できるかどうかは別だぞ?誰だって自分の人生くらい、順風満帆に進んでいってほしいもんだからな。」
 
「それはそうだけどね・・・。」
 
「ま、だからってどんなことをしてもいいわけじゃない。ラエルのやつは、自分のことしか考えていないんだ。なんだか、昔の俺を見てるようだぜ。」
 
 そう言いながら、ハディはふふっと笑った。
 
「あのころ、俺のことを気にかけてくれていたたくさんの人達がいた。それに気づくことが出来たのは、実を言うとな、お前に負けてからなんだぜ?」
 
「そうだったの?」
 
 初めて聞く話だ。ハディは驚く私を見て、呆れたようにまた笑った。
 
「ああ、そうだったのさ。まさかお前みたいな細っこい奴に負けるとは思わなくてなあ。あの時、何人もの先輩達が俺を怒ってくれた。その時、自分が今までどれほど周りを見ていなかったか気づかされたんだ。だから俺としては、ラエルの奴が今回のことをきっかけにして、もっと周りを見るようになってほしい。好きな女がいること自体を非難する気はないし、それがどこの女だろうととやかくは言わんさ。奴が自分の道を見いだして、その上で女のことを励みにしようという気があるならな。」
 
「なるほどね・・・。」
 
「ところが、今のあいつは女に逃げてるだけだ。剣が上達しないことからも、仕事がうまくいかないことからも、相方の病気が治らないことからも、何もかもから逃げて、女と幸せになる気でいる。あげくにこんなことしでかしちまいやがって・・・・バカ野郎が・・・。」
 
「ハディ、ラエルを泳がせる気なら、トゥラの店にも連絡しておいたほうがいいよ。」
 
「そうだな。誰か行かせるよ。」
 
「私が行こうか?」
 
「ライラのほうはいいのか?」
 
「特に目を離せないような状態じゃないからね。それに、私ならあの用心棒の顔も知ってるし。」
 
「そうだな・・・。頼むよ。その女をおとりにする気はないが、ラエルの奴も何するかわからないところがあるからな。」
 
「わかった。」
 
 ハディはそのまま訓練場へと戻り、私は王宮を出て、歓楽街の裏道へと向かった。ずっと昔夢中で走り回った裏道も、今通ってみればそれほど入り組んではいない。久しぶりに見かけるあの店の裏口は、20年前と何一つ変わっていなかった。扉を叩くと、ややあって中から男性の声で返事があり、開いた扉から顔を出したのはあの用心棒だった。
 
「おやおや、旦那じゃございませんか。先だっての件でございますかね?」
 
「結論が出たわけじゃないけど、今の時点でわかっていることだけでも話しておこうかなと思ってね。中に入れてくれるとありがたいんだけど。」
 
「どうぞどうぞ。お茶でもいかがです?」
 
「いや、いいよ。時間がないんだ。」
 
 本当は別に急いでいるわけじゃない。ただ、ここにあまり長居したくないだけだ。中に入り、置かれている椅子に座った。テーブルも椅子も、家具の配置も昔とは変わっている。私達が身を隠した小さな納戸の扉は、今は取り外されていた。中には棚が設えられ、もの入れになっているらしい。
 
「では早速お伺いしましょうかね。」
 
「そうだね。」
 
 とは言え、わかったことを全部話すわけにはいかない。王宮の中で起きた騒動は伏せて、『調査の結果』ラエルが誰かにだまされているらしいことがわかったから、その黒幕をおびき出すべくラエルを泳がせることになるので、彼が万一ここに来てトゥラを連れ出そうとしたら、何が何でも止めてほしいと頼んだ。
 
「・・・なるほど、あの溺れっぷりでは、そのくらいのことやりかねませんからねぇ・・・。ですが、当然そうならないための策ぐらいはあるんでございましょうね?」
 
 用心棒の目が鋭くなった。仕事中の彼は、きっといつもこうなんだろう。
 
「もちろん。剣士団の腕利きが彼の跡をつけてるはずだから、大丈夫だとは思うよ。君に頼むのは、いわば保険のようなものさ。」
 
「なるほど、そう願いたいもんでございますねぇ。」
 
 結局のところ、用心棒の仕事が増えただけだ。だがハディがラエルを見張っていれば、心配は要らないだろうと思う。ため息をつく彼をなだめて、私は『ヘブンズゲイト』の裏口をでた。
 
 
 
 王宮に戻り、病室に顔を出した。
 
「あ、先生、お帰りなさい。」
 
 ライラが気づいて顔を上げた。
 
「あちこち回ってたら遅くなっちゃったよ。あれ・・・・?」
 
 妻とイルサの姿がない。と言うより、いたのはライラ1人で、アスランもセーラの姿もなかった。
 
「みんなは?」
 
「アスランのリハビリが、今日から本格的に始まるらしいよ。ちゃんと専用のリハビリ室があるからって、そこに行ったよ。」
 
「へぇ。でもベッドには起きあがれるようになったのかい?」
 
「今朝はちゃんと起きあがれたみたいだよ。一日ごとによくなっていく気がするって自分でも言ってたくらいだから、きっと調子はいいんだろうね。うまくいけば歩く訓練まで行けるかも知れないって、ゴード先生も言ってた。ここから出て行くときは車椅子に乗せられてたけど、まるっきり足が動かないわけではないみたいだから、あの分ならそんなにかからずに歩けるようになるだろうって。」
 
「へぇ・・・すごい回復力だな・・・。」
 
「それでね、ゴード先生がイルサに訓練の様子を見に来てくれるよう頼んだんだ。セラフィさんからも頼まれて、それじゃって、おばさんが付き添っていったよ。イルサ一人で外に出せないからね。」
 
「なるほど。確かにリハビリの時には、親しい人や家族が励ましてくれるのが一番だからね。」
 
 セーラがイルサに頭を下げたというのにはちょっと驚いた。昨日の平手打ちは、セーラの心にも響いたのだろうか。そしてイルサにも、多少なりとも心の変化はあったようだ。
 
「うん。それにこの部屋にいる分には外に王国剣士さんもいるし、少しだけなら僕一人でも大丈夫だからね。」
 
「それじゃ今のうちに君のほうを診てあげようか。」
 
 ライラをうつぶせにして、骨がずれていた部分をなぞってみたが、今のところなんでもないようだ。ライラは私の言いつけを守ってちゃんと寝ていたらしい。このまま様子を見ようか。ずれた部分がちゃんと元に戻ってくれれば、何もわざわざ治療をすることはない。
 
「あと2〜3日安静にしていれば、君のほうは心配なさそうだな。」
 
「ほんと?退院できる?」
 
「経過観察は必要だけど、退院は出来るよ。こっちにいる分には重いものを持ったり走り回ったりはしないだろうから、すぐによくなるよ。」
 
「そうかな・・・。だといいなぁ。セーラズカフェにまた行くよって言ってたのに、顔を出さないからマスター達が心配しているかも知れないな・・・。」
 
「よくなってからまた行けばいいさ。」
 
 あの店ならば、ライラはゆっくりと羽を伸ばせる。襲われることがあったとしても、あのマスターならばうまく撃退してくれるだろうし、ライラだっておとなしくやられっぱなしではない。その点を考えれば、しばらくはライラとイルサを一緒に行動させるべきか・・・。2人一緒なら、仮に町中で襲われても、敵の撃退は可能だ。
 
「・・・・・・・・。」
 
 そうだ・・・。この2人ならばそのくらいのことは可能なのだ。イルサが襲われたとき、もしも一緒にいたのがアスランではなくライラだったら、きっと2人ともさっさとかわして逃げ切ることが出来ただろう。たとえ足止めをされたとしても、妻と私が加勢すれば、あの程度の連中は敵ではない。だが・・・もしも一緒にいたのがライザーさん夫婦だったら・・・。イノージェンは戦えない。彼女は剣にも風水術にも縁がない、ごく普通の女性だ。現に城下町に出てきたばかりの頃、トゥラに財布をすられても気づかなかった。
 
(まさかそこまで見越して・・・ライザーさんは顔を出さないのか・・・・?)
 
 ナイト輝石を復活させたいと御前会議に願い出ただけで、ライラとロイは危うく処刑されるところだったかもしれないと、ロイの手紙に書いてあった。今では国を挙げて事業に取り組んでいるが、それでも一般国民の中には、ナイト輝石の復活を望まない人々はまだたくさんいるんじゃないだろうか。その中には、昔作られたナイト輝石の武器防具に付加価値がなくなるからと言う損得勘定でそう言っている人達もいるのだろうけど、ただ闇雲に『ナイト輝石は悪いものだ』と思いこんでいる人達も少なくないような気がする。そういう人達にとって、ライラはいったいどんな存在か。そしてその両親が現れたと聞いたら、どう思うだろう・・・・。
 
(・・・・・・・・・・・・・。)
 
 ライザーさんは心配ないにしても、もしもイノージェンの身に危険が降りかかったら・・・。ライラは母親を見捨てても自分の夢を追おうとするだろうか・・・。
 
「ねえ先生。」
 
「なんだい?」
 
「父さん達は見つかった?」
 
「・・・・・・・。」
 
 勘の鋭い子だ。私がライザーさん達を探してきたと気づいていたようだ。嘘をつくのはやめておこう。
 
「いそうな場所はわかったけど、会えなかったよ。」
 
「そうか・・・。やっぱり来たくないのかな・・・。」
 
「先生はそうじゃないと思うな。」
 
「それじゃどう思う?」
 
 私は、たった今考えていたことを正直に話した。『これはもちろん、先生の考えたことだから、本当かどうかはわからないよ』と付け加えて。
 
「・・・そう・・・なのかな・・・。」
 
 ライラは半信半疑のようだ。
 
「君の父さんは、この街で6年近く王国剣士として仕事をしていた。危機管理能力では、先生は君の父さんにはかなわないよ。踏んだ場数の違いは歴然だからね。その君の父さんが、君達と君の母さんと、どちらも傷つけずに守るためにはどうすればいいのかと考えて出した結論は、こういうことじゃないかと先生は思うよ。」
 
「それじゃ、いつかは会いに来てくれるかな・・・。」
 
「当たり前じゃないか。そのために君の父さん達は城下町にやってきたんだからね。もしもここで会えなければ、きっとハース鉱山まで行くさ。ところで、試験採掘は見学できるのかい?」
 
「採掘現場は坑道の一番深いところにあるから、実際に掘り出すところを見るのは無理だと思うけど、精錬はハース城の中でやるから見学出来るよ。先生も来てくれる?」
 
「祭りが終わったあとはカナに行く予定だからね。うまくいけば見に行けると思うな。」
 
「そうか。それじゃ見に来てよ。絶対だよ!」
 
 ライラに笑顔が戻った。
 
 
 
「失礼します、入りますよ。」
 
 ノックと共に聞こえてきたのはハインツ先生の声。すぐに扉が開いて、車椅子に乗せられたアスラン、それを押すセーラに、ハインツ先生とゴード先生、その後ろから妻とイルサが入ってきて、病室はにわかに賑やかになった。
 
「あらクロービス、戻ってたの。遅かったわね。」
 
「あちこち回っていたからね。」
 
「おお、クロービス先生、アスランは順調ですよ。今も立って50歩ほど歩きましたよ。この分なら、自分で歩けるようになるのももうすぐでしょう。」
 
「すごい回復ですね。やはりリハビリの専門家にお任せしてよかったようです。」
 
「いやまあ・・・元々回復力が強いようですからな、先生方の治療も適切だったでしょうし・・・。」
 
 謙遜しているようなことを言うわりには、ゴード先生はまんざらでもないようだ。私としても別に口先だけで持ち上げたつもりはない。ゴード先生の適切な治療には本当に感謝しているし、彼が私に対する悪い感情を、アスランの治療にまで持ち込まなかったことはありがたい。
 
「もう手のほうはだいぶ動かせるようになってますからな。これでちゃんと歩けるようになれば、自分で自分のことは一通り出来るようになるでしょう。もっとも・・・王国剣士としてはそこが出発点になるんでしょうがねぇ。」
 
 少し不安げに眉根を寄せて、ハインツ先生が言った。
 
「それは覚悟してます。とにかく今の俺は、自分で自分のことが一通り出来るようになることが一番の目標ですから。剣の稽古はまた一からやり直すつもりで始めますよ。」
 
 アスランは笑顔だ。この笑顔に曇りが見られないうちは、心配するのはやめておこう。それに、案外そんなにかからずに、アスランは王国剣士として復帰できるかも知れない。それはおそらく、アスラン自身の回復力と言うよりフロリア様の呪文のおかげだろう。対象を包み込み、圧倒的な力で癒やす『王家の秘法』。それは太古の昔『魔法』と呼ばれていた呪文の一部だ。あの呪文をかけられたアスランが、よくならないはずがない。でもアスランの回復は、いつの間にか私と妻のおかげと言うことになってしまった。魔法を使ってもらっておきながら、自分の力で治したような顔をするのはどうにもすっきりしなかったし、だからよけいに悔しかったのだが、今となってはどうでもいいことだ。アスランが元気になりつつあること、それが一番なのだから。
 
「ところでクロービス先生、アスランの見舞客の制限ですが、そろそろ解除してもいいと思うんですがいかがでしょうねぇ。」
 
「ハインツ先生がそう思われるのなら、大丈夫だと思いますよ。」
 
 何となくだが・・・ハインツ先生は『セーラとイルサのことは大丈夫か』と言外に聞いているような気がした。私もそのつもりで答えを返した。2人の仲はそんなに仲良くなっているわけではないかも知れないが、少なくとも出会った当初の険悪な雰囲気は消えている。そしてイルサも、もしもアスランとのことで何か言われたとき、ちゃんと自分で釈明をするべきだ。黙って部屋の隅で顔を背けていても、なんの解決にもならない。
 
「そうですか。ではあとで採用担当官殿に伝えておきましょうかね。」
 
「そうですね。お願いします。」
 
「ハインツ先生、そうなると、リハビリの時間を決めて、その時間だけは遠慮してもらうことになりますよ。」
 
 ゴード先生が言った。
 
「そうだな。それじゃ、一日の予定を君が決めて、あとで採用担当官殿に渡しておいてくれ。」
 
「私がですか?」
 
「君が担当なんだから、それは当然だろう?」
 
 ゴード先生が見せた複雑な表情は、自分がランドさんに快く思われていないことを承知しているからなのだろう。そしてハインツ先生もそれを承知で言っているのだ。ここは口をはさまないほうがいい。
 
「わかりました・・・。」
 
 ゴード先生は観念したようにうなずいた。
 
 
「ちょいと失礼するぞ。」
 
 ノックと共に扉が開き、レイナック殿が入ってきた。
 
「おやレイナック様、どうなされました?」
 
 ハインツ先生が不思議そうに振向く。
 
「いや、アスランの様子を見に来たのだが、どうだ?」
 
「順調そのものですよ。」
 
 ハインツ先生は笑顔でアスランの経過説明をした。レイナック殿はうんうんとうなずき、うれしそうに微笑んだ。
 
「よしよし、これなら、フロリア様にいい報告が出来そうだの。だいぶ心配なされておいでだ。きっとお喜びになるじゃろうて。」
 
「フロリア様が・・・?」
 
 アスランもセーラも驚いた顔をしている。
 
「うむ、本当ならば、ご自分で話を聞きにおいでになりたかったようなのだが、仕事が立て込んでおっての、それでわしが様子を聞きに来たというわけだ。これアスラン、無理をしてはいかんぞ。今はじっくり養生してくれよ。がんばるのは完全によくなってからだ。今はまだその時ではない。わかるな?」
 
「はい・・・。あの・・・ありがとうございます!フロリア様に、よろしくお伝えください!」
 
 アスランはすっかり感激しているようだ。
 
「うむ。さてと、クロービスよ、今ちょいと時間はとれんかの?」
 
「私はかまいませんが、なにか?」
 
「さっきの件で少し話を聞きたいのだが。」
 
「わかりました。」
 
 妻に『行ってくるよ』と声をかけて、部屋を出た。胸の奥がちくりとしたのは、妻の不安・・・。レイナック殿が私を呼びに来た理由が、ずっと自分が恐れている理由ではないかと不安に思っている・・・。
 
 
「さっきの件とはなんです?」
 
 廊下に出てから尋ねてみた。もちろんそれが、私をあの病室から連れ出すための口実であることはわかっている。だいたい今日、レイナック殿に会ったのは今が初めてなのだ。『さっきの件』などあるはずがない。
 
「ふむ、言い間違えたかの。昨日の件だったかな。」
 
 レイナック殿はとぼけた顔で首をかしげている。
 
「昨日の件というなら、私に聞きに来るのは筋違いですよ。はっきりおっしゃってください。私に話があったのでしょう?おそらくはウィローにも一緒に来てほしくなかったから、あんな言い方をしたのではありませんか?」
 
「ふぉっふぉっふぉ。なかなか冴えておるのぉ。そのとおりじゃよ。実は今、フロリア様のご気分が優れなくての。お前に話し相手になってもらおうかと思うたのじゃ。」
 
「話し相手というなら、同じ女性同士でウィローのほうがいいと思いますけどね。」
 
「お前でなければならん理由があるから、呼びに来たのじゃよ。」
 
「・・・・・・・。」
 
 一度フロリア様と話をしたいとは思っていたが・・・。いや、前向きに考えよう。これはチャンスだ。あの夢の謎を解き明かすためには、フロリア様と2人きりで話が出来る環境がほしいと思っていた。
 
「行く前に少しわしの部屋につきあわんか。ちょいとお前に聞きたいことがあるのでな。」
 
「かまいませんが、フロリア様がお待ちなのではないのですか?」
 
「ふむ、まずはわしの部屋まで来てくれ。話はそれからだ。」
 
 口調は穏やかだったが、何となく有無を言わせぬ響きがある。どうやら私は、レイナック殿とも駆け引きをしなければならないらしい。オシニスさんの言っていたように、本当にこの方がオシニスさんと同じ考えの持ち主なのか、それをきちんと見極める必要がありそうだ。
 
 
「さてそのへんに座ってくれ。茶でも淹れるか?こんなじじいの淹れたものでよければだが。」
 
 執政館の片隅にあるレイナック殿の部屋は、思ったより質素だった。使われているカーテンの生地や家具調度品が立派なものであることは一目見ればわかったが、ベルスタイン公爵家の部屋のような広さはなく、執務室と仮眠室の二つだけだ。もっともこの方は、王宮本館の東側にある礼拝堂の隣にも部屋を持っているはずなので、こちらにまでそんな大きな部屋は必要ないのかも知れない。家族が身の回りの世話をしたりするならともかく、この方は独身を通してきた。兄弟姉妹の配偶者や子供達はいるらしいが、自身の家族は誰もいない。
 
「私がやりましょうか。」
 
「いや、それには及ばぬ。この歳になると、誰でもわしをいたわってくれての、何でもやってくれるのだ。だがなぁ・・・わしは今まで1人で生きてきた。今わしが倒れれば、兄弟の家族に迷惑をかけるやも知れぬ。そうならないよう、出来る限り体を動かして、何でも1人で出来るようにしておきたいのじゃよ。そんなわけで大したうまくはないのだが、お前にはぜひわしの淹れた茶を飲んでもらいたい。ま、有り体に言えば実験台じゃの。」
 
 レイナック殿が笑った。
 
「そうですか・・・。ではお願いします。」
 
 実験台などと言うわりに、レイナック殿のお茶を淹れる手つきは慣れている。
 
「さあ出来たぞ。まずは茶でも飲んで、少し喉を湿らせてから話すとしようかの。」
 
 レイナック殿が淹れてくれたお茶が私の前に置かれた。
 
「でもあまり時間をかけると、フロリア様をお待たせしてしまうことになるのではありませんか?」
 
「ああ、フロリア様を訪問するのは明日でよい。」
 
「明日?」
 
「うむ、フロリア様のご気分が優れないのは本当じゃ。だが最近仕事が立て込んでおるのも本当なのでな。実はな、今日はもうご公務を切り上げて乙夜の塔に戻られておる。今日はゆっくり休まれて、明日の夕方にお前を連れて行くと話してあるのだ。」
 
「私がいやだと言ったらどうされるおつもりだったのです?」
 
「お前はいやだと言わんだろう。」
 
 確信に満ちた返事だった。確かにそれはそうなのだが・・・。
 
「・・・今更お前の手を煩わせるのはわしとしても本意ではないが・・・。時々思う・・・。あの時無理にでもあの話を進めておけばよかったかとな・・・。」
 
 レイナック殿がお茶を飲みながらぽつりと言った。
 
 (『あの話』か・・・。)
 
 昔、トーマス・カルディナ卿が、妻を掠ってまで息子の嫁に据えようとした一番の理由は、もちろん『デール卿』の看板がほしかったからなのだが、実はそれ以外にも大きな理由があった。それは私達が城下町に戻ってしばらくしたある日、御前会議でこんな話が出たことに起因していた。
 
『救国の英雄を、フロリア様の夫として迎えてはどうか』
 
 最初に言ったのが誰だったのかはわからない。女の身で国を動かすという重責を担うフロリア様を、しっかりと支えてくれる誰かを探そうという考え自体に異論はない。だが、よりにもよって私に白羽の矢が立つとは思わなかった。そのころすでに私と妻の婚約の事実は公にされていたのだが、相手が女王陛下となれば当然私がそちらの話に乗るだろうと考えた人達は多かったようだ。ところがいっこうに話が進む気配がない。そこで少しでも王家に取り入りたい貴族や有力者達が、挙って私達を引き離そうと画策してきたというわけだ。トーマス卿としても、デール卿の名前を手に入れて、なおかつ王家に取り入ることが出来ればこれほどうまい話はない。それであんな暴挙に出てしまったらしい。
 
「無理に話を進められても同じことでしたよ。それに、そんなことは当のフロリア様が望まれなかったでしょう。」
 
「王族の結婚など、元々そういうものだ。ライネス様の御代より以前は、『殿下の結婚が決まりました』と言われて初めて、自分が結婚するのだと知ったという王子もいたそうだからのぉ。」
 
「そんなのはそれこそ昔の話ですよ。それに・・・あの時のフロリア様にそんな無理を押しつけたらどうなっていたことか・・・。」
 
「無理だったと思うのか?」
 
「それはそうでしょう。あの時のフロリア様は、知らなかったこととは言えご自分が今までどんなことをしてきたかを知って、その重圧にやっとの思いで耐えておられたんですよ。」
 
「そんなことではなく・・・・」
 
 言いかけて、レイナック殿は不意に言葉を切った。
 

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