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「・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんはカップを持ったまま、ぼんやりと宙を見つめている。
 
「オシニスさん。」
 
「ん?」
 
「フロリア様は、ご自分の意志でアスランの治療に来てくださったのでしょうか。」
 
「・・・どういうことだ?」
 
 宙をさまよっていたオシニスさんの視線が、私に向いた。
 
「オシニスさんは・・・本当はレイナック殿のお力を使って何とかならないかと考えていたのでしょう。」
 
「そのことか・・・。」
 
 オシニスさんの視線が再び宙に浮く。その横顔は悲しげだ。
 
「俺はそのつもりだった。・・・だからお前と話した次の日、じいさんに頼んだんだ。誰にも気づかれずにその力を使う手だてはないのかとな。」
 
「レイナック殿はなんとおっしゃったんです?」
 
「その時は考えてみるとだけ言われたよ。だから今朝は絶対返事を聞かせてもらうつもりで、執務室に行ったんだ。そうしたら侍女達が、アスランのことで何かできることがあるかも知れないとフロリア様が仰せられてじいさんと一緒に診療所に向かったと言うもんだから、あわてて後を追ってきたというわけさ。おそらく、フロリア様はじいさんからアスランの状態を聞いて、治療が膠着状態に陥っていると気づかれたんだろうな。もしかしたらじいさんも、自分の力を使うべきか使わないべきか、悩んでいたのかも知れん。それにフロリア様が気づかれたとしてもおかしくはない。だからさっきのじいさんの言葉は嘘ではないと思うよ。フロリア様がご自分で腰を上げられたんだろうな。」
 
「そうだったんですか・・・。」
 
「・・・フロリア様には、お前と同じような力がおありだ。お前ほど強くはないようだが、じいさんが暗い顔をしていれば何か悩んでいるだろうくらいは気づかれるだろうし、ある程度その理由も予測がつくんだろう。人の心がわかる力ってのも、役に立つことはあるのかもな・・・。」
 
「たいていは邪魔なだけですけどね。」
 
「・・・お前は昔からそう言ってたからな。たぶん当事者にとっちゃそんなもんなんだろうとは思うが、俺のようになんの力もない凡人には本当にそのつらさを理解することは難しい。同じ力を持つもの同士のほうが心は通じ合う、そうは思わないか?」
 
「・・・それで私を呼び寄せたんですか?」
 
「それもある。だが、お前を呼びたかった一番の理由は、手紙に書いたとおりだ。」
 
「・・・カインのことですね・・・。」
 
 とたんに胸の奥がずしりと重くなる。
 
「ああ、そうだ。・・・お前の息子が入団してきたときのフロリア様の動揺は、傍で見ていてつらくなるほどだった。どんなことで悩まれているのか、なんの力もない俺にさえ容易に想像はついた。だが、今の俺では役には立てん。俺は昔フロリア様とカインの間に何が起きたか、何も知らない。無論、知っていたところでどうにか出来るわけでないとは思うんだが、知らないよりは多少違うだろうと思ってな・・・。」
 
「そんなことはないでしょう。フロリア様はオシニスさんをだいぶ頼りにされていると思いますけど。」
 
「俺は今、剣士団長だ。この国の盾となるべき王国剣士を束ねる立場にある。御前会議ではフロリア様の側近として、それなりに役に立っているという自負もある。そう考えれば、フロリア様は俺を頼りにしてくれてはいるかも知れん。だがそれでも、フロリア様にとって俺は一介の臣下に過ぎん。その臣下が出来ることと言えば、悩み事にちょっとした助言が出来るか、あの方をしっかり支えてくれる誰かを捜すことか、その程度がせいぜいさ。」
 
「フロリア様をしっかりと支えてくれる誰かという立場に、私をおきたいと考えているのですか。」
 
「その通りだ。話し相手になることくらい別にかまわんだろう。」
 
「確かにかまいませんが、単なる話し相手がフロリア様を『しっかり支える』ことが出来るとは思えませんし、私もここにずっといるわけではありませんからね。」
 
「ちょくちょく来りゃいいさ。それに、他愛のない話だけでもそれで心が安まったり元気になったりすれば、充分『しっかり支える』ことになると思うぞ。」
 
「そうそう出ては来れませんよ。島に戻れば患者を抱えているんです。思い出したようにたまにしか来ないのでは、ろくな話も出来ないと思いますが。」
 
「お前の師匠はまだ元気なんだろう。今回だって任せてきたんだろうし。」
 
「元気と言っても、もう高齢ですからね。無理はさせられませんよ。」
 
「高齢ったってじいさんよりは遙かに若いんじゃないのか?たしかドゥルーガー会長の部下だったと聞いたが。」
 
「それはそうですけど、レイナック殿のお元気さを基準に出来ませんよ。あの方は特別です。」
 
「はっはっは。まあそれもそうだな。」
 
「それに何より、突然現れた田舎医者がフロリア様のおそばにしょっちゅういたりしたら、何を言われるかわからないじゃないですか。」
 
「お前でも人の評判を気にするのか。」
 
「私のではなく、フロリア様のです。手紙の中に書かれてましたよね?この国は見た目ほどに盤石ではないと。やましいことなど何一つなくても、ちょっとしたことからフロリア様の醜聞をでっち上げるくらいのことはやりかねない方が、いるんじゃないですか?」
 
「それはお前が気にすることじゃない。いまのところじいさんを始めとした御前会議の大臣達の力で押さえ込んでいられるからな。」
 
「御前会議の方達の力が弱くなったら?」
 
「・・・そう言うことが起きると思うのか?」
 
「オシニスさんは怒るかも知れませんが、レイナック殿がいくらお元気だと言ってももう高齢ですよ。無理をさせられないと言ったのはオシニスさんじゃないですか。私などあてにするより、フロリア様の夫となられる方を探したほうがいいのではありませんか。女王陛下の支えとなるべき大公殿下にふさわしい男性は、いくらでもいるでしょうに。」
 
 国王が女性の場合、その夫は『大公殿下』と呼ばれる。フロリア様の治世においては、当然ながら大公殿下がこの国の男性の最高の地位となる。
 
「・・・・・・・。」
 
 オシニスさんは答えない。
 
「フロリア様は見た目もお心もすばらしい女性です。縁談は山ほどあったでしょう。どうしてご結婚されなかったんでしょうね。」
 
 オシニスさんにするには、かなり意地の悪い質問だと言うことはわかりすぎるほどにわかっていた。それでも私には、確かめなければならないことがある。今をおいてその機会はもう巡ってこないような気がして、私はいつの間にかオシニスさんを問いつめていた。
 
「ああ、あったさ。お前が島に帰ったあと、いずれ劣らぬ名門貴族の子息がこぞってフロリア様に結婚を申し込んだ。じいさんが、その中から選ぶもよし、でなければ誰でもいいから、これはと思う相手がいるなら話を進めるからとかなりしつこく聞いていたんだが、結局全部断っちまったみたいだな・・・。」
 
「でもそろそろお世継ぎのことも考えなければならないでしょう。」
 
「そんなことを考えるのはじいさんの役目だ。俺が気にしてもどうにもならん。」
 
「剣士団長がこの国のお世継ぎについて気にしないわけにはいかないでしょう。仕える相手が代わるわけですから。」
 
「・・・フロリア様の次の時代になれば、剣士団長も代わるさ。」
 
「フロリア様の治世が終われば、剣士団長を辞めるつもりですか?」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんの目は宙を泳いだまま、お茶をすするのも上の空だ。
 
「オシニスさんはどうなんです?」
 
「どうって、何がだ?」
 
「オシニスさんが名乗りを上げる気はないんですか?」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんの視線が再び私を捉えた。
 
「まさかと思うが、フロリア様の結婚相手として、って言いたいのか?」
 
「はい。」
 
「・・・起きたまま寝言を言うとぶん殴るぞ!まったく・・・。」
 
「寝言じゃありませんよ。ちゃんと、何を言っているのかわかって言ってるんです。」
 
 オシニスさんは『やれやれ』というように頭を振り、大げさにため息をついてみせた。
 
「あのなぁ、俺は由緒正しき一般庶民の出身だ!・・・そんな話、笑い話にもならん。」
 
 そう言うと、鼻先でふふんと笑ったが、本当は動揺していることくらい、ちゃんとわかる。別に私の力のせいじゃない。頬杖をついた手が、白くなるほど握りしめられていたからだ。
 
「出身など気にすることはないでしょう。今のあなたは剣士団長だ。王国剣士としても団長としても実績がある。年も同じくらいだし、もちろん独身ですよね。別にどこからも文句は出ないかと思いますが・・・。」
 
「いい加減にしないと本当に怒るぞ。だいたいフロリア様の結婚話が出ていたのはもうずっと昔のことだ。それに、万一王家に世継ぎが生まれなかった場合の決まりは、お前だって知っているだろう。」
 
「それはそうですけどね・・・。」
 
 エルバール王国では、もしも王家に世継ぎが出来なかった場合や、世継ぎが若くして亡くなったりした場合、この国で一番家柄の古い公爵家の跡取りを、王家の養子として迎えることになっている。今、この国で一番古い家柄の公爵家と言えばセルーネさんの家だ。そこの跡取りというならセルーネさん本人だが、彼女はすでに爵位を継いでいる。と言うことは、セルーネさんの子供達、あのユーリクとクリスティーナのどちらかと言うことになるのだろう。次期国王の地位が約束された養子縁組であれば、やはり年長の者が妥当であろうから、兄のユーリクがフロリア様の養子として王家に入ることになる。
 
「ま、そういうことだ。フロリア様のご結婚がない以上、ユーリクが次期国王になることは決まったようなものなのさ。だからこそセルーネさんは、ユーリクを特別扱いしないように俺達に頼んでいるんだ。」
 
「セルーネさんがそんなつもりでいるとは思えませんね。それに、この国には王位継承権第一位の方がいるじゃないですか。」
 
「・・・確かにセルーネさんはユーリクの養子縁組に乗り気なわけじゃない。誰だってかわいい息子にそんな重責を負わせたくはないだろう。だが、あの男の即位だけはなんとしても阻止しなければならん。今となっては、我々はユーリクに期待をかける以外にないんだ。」
 
「今からではだめなんですか?」
 
「なにがだ。」
 
「フロリア様のご結婚ですよ。」
 
「そりゃ今からでも求婚者が現れればいいだろうが、難しいだろうな・・・。フロリア様にちょうどいい年頃の貴族は、みんな跡を継ぐなりどっかに婿養子に行ったりしてるし。何よりこれから結婚されたとしても、世継ぎが生まれるかどうかはなんとも言えないと思うが・・・。」
 
「お世継ぎはユーリクがいるんでしょう?ユーリクの治世を盤石なものにするためには、フロリア様がある程度お元気なうちに譲位されて後見となられるのが望ましいと思いますが、その時にフロリア様が独身か結婚されているかというのはかなり重要なんじゃないかと思いますけどね。」
 
「確かにそうだ。だが誰でもいいってわけじゃないんだから仕方ないだろう。」
 
「ええ、誰でもいいってわけではありませんよ。フロリア様と同じ年頃で、身分も地位も何も関係なく、フロリア様を大切にしてくれる方でないと、ということですよね?」
 
「そういうことだ。そんな男がそう簡単に見つかるもんか。」
 
「いるじゃありませんか。」
 
「どこにだよ。いるなら言ってみろ。」
 
「私の目の前ですよ。」
 
「なんだと・・・?」
 
 オシニスさんが私を見た。射るように鋭い目だった。
 
「しつこい奴だなお前も。さっき俺が言ったことをちゃんと聞いてなかったのか!?」
 
「聞いてましたよ。私は今、ちゃんと目が覚めていて、オシニスさんの声も十二分に聞こえていますからね。」
 
「・・・貴様何を考えてる・・・?」
 
 オシニスさんの口調が変わった。本気で怒ったときの口調だ。
 
「私は、オシニスさんの気持ちを知りたいだけです。」
 
「俺の気持ちなんぞ問題じゃない。」
 
「問題かどうかじゃなく、オシニスさんの気持ちは変わっていないのかどうかを知りたいんです。」
 
「変わってなければどうだと言うんだ。」
 
「変わってないんですね?」
 
「・・・・・・・。」
 
 オシニスさんが黙り込む。でもこの沈黙は、否定ではなく肯定の沈黙だ。
 
「それを知ってどうしようと言うんだ・・・?」
 
「私がどうこう出来ることではありませんよ。ただ、それならもう少し素直になったらいいのにとは思いますけどね。」
 
「ばかばかしい。この歳になって素直もくそもあるか。」
 
「それじゃずっとこのままなんですか?フロリア様はずっとお一人で、どんなにつらいときにも頼る人もなく、すべて一人で決めなければならない、そんな孤独な人生をこれからもずっと送っていくというのに、オシニスさんは何もせず、黙って見ているだけなんですか。」
 
「黙って見ている以外に、俺に何が出来る!?」
 
「もう少し近づくことは出来るでしょう。手を伸ばせばすぐに届く場所にいるのに。フロリア様をしっかりと支える役目には、私などよりオシニスさんのほうがよっぽどふさわしいと思いますよ。」
 
 がちゃんと音がして、オシニスさんの持ったカップがテーブルの皿の上に置かれた。オシニスさんはそのままゆっくりと立ち上がり、私の胸ぐらをぐいと掴んだ。
 
「お前がそれを言うのか。」
 
「・・・・・・・。」
 
「20年前、俺が海鳴りの祠で何を考えていたか、王宮に突入したとき何をしようとしたか、お前は知っているはずだ。忘れたとは言わせんぞ!?」
 
「覚えていますよ。」
 
 そしてオシニスさんが、そのことでどれほど深く悩み傷ついていたかも、私なりに理解しているつもりだ。
 
「それなら俺にそんな資格があるのかどうか、考えなくてもわかるだろう!」
 
「そうでしょうか。」
 
「まだ言うか!?」
 
「いくらでも言います。資格があるとかないとか、そんなことにこだわってオシニスさんはそれでいいかも知れません、ではフロリア様のお気持ちはどうでしょう?さっきのご発言は、オシニスさんのことを思ってのことだったのではありませんか?」
 
 オシニスさんがセーラに頭を下げたとき、フロリア様がオシニスさんをとても悲しげに見ていたことに気づいたのは、私だけだったかも知れない。
 
「俺はフロリア様の臣下だ。君主が臣下をかばって下されたと、それだけのことだ。フロリア様にかばっていただくとは、まったく情けない話だがな!」
 
 オシニスさんの口調は厳しかったが、それは私にではなく自分に向けているのだろう。フロリア様がセーラに頭を下げたあと、オシニスさんの顔が一瞬泣き出しそうに見えた。そんなオシニスさんの姿を、フロリア様はとても切なげに見ていた。どちらも相手を思いやっているはずなのに、その思いそのものがすれ違い、お互いを傷つけあう。こんなオシニスさんを見ているのはつらい。
 
「本当にそう思ってるんですか?」
 
「・・・・・・・・・・・。」
 
 嘘でも『思ってる』と言うかと思ったが、オシニスさんは言葉につまった。同時に私の胸ぐらを掴んでいた手が離れ、そのまま私に背を向けた。肩が震えている。オシニスさんはどこまでもフロリア様の『臣下』であり続けようとしているが、それは自分に『資格がない』からではなく、それを言い訳にして自分の気持ちに嘘をついているだけだ。でもここまでにしておこう。少なくとも、フロリア様のお気持ちを推測でしか語れないうちは、この続きを言うべきではなさそうだ。
 
「・・・帰ります。」
 
「クロービス。」
 
「・・・はい。」
 
「俺の気持ちは確かに変わっていない・・・。だが、俺ではだめなんだ・・・。」
 
「でもカインはもういないんです。」
 
「・・・・・・・・・・・・・・。」
 
「あれからずっと、フロリア様のそばにいたのはオシニスさんですよ。カインでもないし・・・私でもないんです。」
 
「・・・そこまで気づいてたのか・・・。」
 
「やはりそうだったんですか・・・。」
 
「・・・・・・・・・・・・・・。」
 
「でも無駄ですよ。私はカインのかわりにはなれないし、なる気もありません。」
 
「・・・俺は本気だ。」
 
「それならば私も本気で、オシニスさんとフロリア様の結婚式の算段でもしましょうか。」
 
「ふん・・・ばかを言え。そんな話、誰も耳を貸さんさ。」
 
「それはどうでしょうね。」
 
「じいさんを抱き込もうとしても無駄だぞ。俺と同じ考えだからな。」
 
「なるほどわかりました。とにかく今日はもう帰ります。あまり無理をしないでくださいね。」
 
「ふん、お前が無理させてるんじゃないか。」
 
「ははは・・・そうかもしれません。それでは失礼します。」
 
「気をつけてな・・・。」
 
 
 
 外はもう祭りが最高潮に達しようとするところだった。夜も遅いというのに花火がいくつも打ち上げられ、通りは昼間よりも賑やかなくらいだ。いかに交通規制をしようとも、王宮から南門への大通りにさえ人があふれている。その人波を縫って、私は『我が故郷亭』へ急いだ。王宮の外に出たときから妻のことを考えていたつもりだったのに、私の脳裏には肩を落としたオシニスさんの姿ばかりが浮かんでいた。あんな風に追いつめるつもりじゃなかった。ただ、オシニスさんの気持ちが今も変わっていないかどうか知りたかっただけだ。
 
「20年間か・・・。」
 
 無意識につぶやく。20年・・・。私がカインの死から逃げ続けてきた時間、ライザーさんが仲間を裏切ったという罪悪感に苛まれ続けてきた時間、そして・・・オシニスさんにとっては、フロリア様への思いを心の奥底に閉じこめ続けてきた時間・・・。フロリア様にとってはどうなんだろう。この20年間、カインを死に追いやったことをただ嘆き悲しみ、彼への思いに囚われ続けているのだろうか。それとも・・・。
 
 
 
 
 『我が故郷亭』のフロアは相変わらず賑やかだったが、景気づけの組がもう祭りに出掛けたあとらしく、空席も目立った。カウンターで夕食を頼み、私は階段を駆け上がり、部屋の扉を開けた。
 
「ただいま。」
 
「お帰りなさい。遅かったのね。」
 
 妻は窓の外を見ていたが、私の顔を見ると笑顔で駆け寄ってきた。そのまま抱きしめるとなんだかほっとした。
 
「熱は出なかった?」
 
「大丈夫よ。ちゃんとあなたの言いつけを守ってここにいたもの。おかげでとってもゆっくり休めたけど、とっても退屈だったわ。」
 
 最後の言葉に少しだけすねた響きがこもっていた。
 
「なるほどね。明日は一緒に出掛けられるな。」
 
「そうね。明日は絶対に行くわよ。アスランの具合はどうなの?」
 
「いい知らせがあるよ。」
 
「え・・・・?」
 
 私はアスランが目覚めたことを伝えた。妻は驚き、涙を流して喜んだ。
 
「よかったぁ・・・。私・・・呪文のかけ方がよくなかったのかとか、気を流し込むのに時間がかかりすぎたかしらとか、いろいろ考えちゃって、すごく不安だったの・・・。」
 
「もう大丈夫。一度自力で目を覚ましたんだから、明日にはもう少し意識がはっきりしてくると思うよ。」
 
 そして今日一日の出来事を妻に話して聞かせた。
 
「・・・フロリア様が・・・?」
 
「うん・・・。報告を受けてって言ってたけど、レイナック殿のこともあるのかなと思って。」
 
「そうかも知れないわね・・・。レイナック様がいつもとあまりに違う治療術を使われたら、みんな変に思うかも知れないけど、フロリア様が門外不出の秘法を使われたのなら、誰もが納得するわ。」
 
 やはり妻もそう考えたようだ。誰もが納得する形で、この国に本来存在するはずのない呪文を使うためには、フロリア様が行動を起こす以外になかったのだと。
 
「でも、そのおかげでアスランが早く目覚めたなら、それはとてもありがたいことよね。」
 
「結局は私の力が及ばなかったってことなんだけどね・・・。」
 
「ほらほら、そんな顔しないの。きっといつか、呪文に頼らなくてもよくなる日が来るわ。そのためにずっと研究を続けているんでしょう?」
 
「・・・そうだね・・・。」
 
「それじゃ、明日からのことを考えましょ。明日の朝は早めに行かないとね。やることがたくさんあるわ。」
 
「それもそうだな・・・。ごめん、なんだかちょっと自信なくしちゃってたかな・・・。」
 
「私達の仕事と呪文は、元々全く別物ですもの。呪文にかなわなかったからって落ち込むことないわ。」
 
 妻がこうして励ましてくれると、本当にそんな気持ちになれるから不思議だ。やっぱり妻がそばにいてくれないと調子がでない。
 
「失礼します。」
 
 ちょうどそこにミーファが食事を持ってきてくれた。
 
「お風呂も沸いてるからどうぞ。そろそろ他のお客さん達がお祭りに出掛ける頃だから、今ならゆっくり入れるわよ。」
 
「ありがとう。」
 
 アスランの目覚めを、今はまだミーファには言わなかった。この店の人達はみんな心配してくれている。王宮では誰でも知っていることだし、あの時近くを歩いていた祭りの見物客も少しはいたらしく、大きな音を聞いたとか、けんかをしていたらしいとかいう噂話が『我が故郷亭』のフロアでもささやかれていたのは確かだが、安易に情報を漏らすべきでないことに変わりはない。
 
「ミーファさん達に言えないのは残念ね。」
 
「明日になって、回復の見込みがある程度わかれば公表出来ると思うよ。」
 
 話しながら、私の頭の半分では、さっきのオシニスさんとの会話がぐるぐると回っていた。
 
「どうしたの・・・・?」
 
「・・・・ん・・・?何が?」
 
「アスランが目覚めたって言うのに、なんだかあんまりうれしそうじゃないんだもの。何か心配なことがあるの?どこか体の機能が戻るかどうか不安だとか・・・」
 
「いや、そう言うことはないよ。まあ明日以降の状況次第だから断言は出来ないけど、いまのところ自分の名前を認識しているようだし、多少は顔や手を動かすことも出来るようだから、あとは・・・・」
 
「それならいいけど・・・。」
 
 妻がうつむいた。いつもなら『だったらどうして』と聞いてくるのだが、妙に遠慮しているような、そんな顔をしている。はっとした。こんなときに私まで黙り込むと、ろくなことにならない。なに一つ『話せない』ことなんてないのだと、きちんとわかってもらわなければ。
 
「ごめん。今考え事をしていたのはアスランのことじゃないんだ。オシニスさんのことでちょっとね・・・。」
 
「オシニスさんの?」
 
「うん、実は・・・・。」
 
 私はさっきのオシニスさんとの会話を妻に話した。帰り際にかわした、オシニスさんの真意の部分だけを除いて。話せないことはなにもないはずなのに、どうしてもそれだけは言えなかった・・・。
 
「それはまた・・・ずいぶんと思いきったことを言ったものねぇ。」
 
 妻はすっかりあきれた顔をしているが、さっきよりは安心しているように見える。
 
「話し始めたときはそこまで言うつもりじゃなかったんだけどね・・・。でもあのくらい言わないと、オシニスさんの本当の気持ちを知ることは出来なかったと思う・・・。」
 
 オシニスさんの気持ちを確かめたところで、本当にオシニスさんとフロリア様の結婚を進めようなんて考えていたわけじゃない。そんなことは当事者同士の問題だ。でもオシニスさんが自分の気持ちにいつまでも嘘をつき続ける理由が、20年前の出来事に起因するのであれば、それはほっとくわけにはいかない。あれはもう終わったことだ。あの時オシニスさんが何を考えていようと、今は違う。それでいいじゃないか。
 
「そうね・・・。それで、あなたはどうするの?」
 
「どうって?」
 
「フロリア様の話し相手よ。それは引き受けるんでしょう?」
 
「どうしてもって言うなら引き受けるしかないけど、少なくとも、私より君のほうが適任だと思うな。」
 
「私が?」
 
「そうだよ。女同士だし。君が熱を出したことも報告されていたみたいでね、心配していたよ。」
 
「そう・・・。明日はお会いできるかしらね。」
 
「聞いてみよう。話が出来れば、いろいろとわかることもあるだろうし。」
 
 あの夢の意味も、せめて糸口くらいはわかるかも知れない・・・。無論本人は意識して見ているわけではないのだろうけれど。
 
「ねえ・・・。」
 
「ん?」
 
「あなたは、フロリア様に会って平気?」
 
「・・・そうだなぁ・・・よけいなことをあれこれ考える間もなく会ってしまったから、もう平気かな。もしもこれが『さあ会いに行くぞ』って意気込んで出掛けたなら、気が重かったかも知れないけどね。」
 
「そう・・・。ふふ・・・それならいいわ。会わないですませるわけにもいかなくなっちゃったものね。呪文のお礼も言わなくちゃ。」
 
「そうだね。」
 
「はぁ〜・・・なんだか考えなきゃならないことばかり増えていくわ。イルサとセーラのこともだし・・・あーもぅ!イノージェンてばどこにいるのよまったく!」
 
「オシニスさんは知らないかなあ、そのおじさんの家。」
 
「知ってても言うかどうかわからないじゃない?ライザーさんのところにもオシニスさんから手紙が来てたかも知れないんでしょ?」
 
「うん・・・。あの2人が連絡を取り合っていたのだとしたら教えてはくれないだろうなあ・・・。」
 
 『取り合っていた』のかオシニスさんが一方的に手紙を書いていたのか、何となく後者のような気はするのだが・・・。
 
「それに、今その家がどこかわかったとしても、行ってる時間はないわよ。アスランのことを何とかしなくちゃね。」
 
「まあ・・・それはそうなんだけどね・・・。」
 
「それじゃ・・・・・。」
 
 妻が言いかけて、私をちらりと上目遣いに見た。
 
「なに?」
 
「今日は・・・お風呂に入ってもいいわよね?」
 
 さっきから妻がしきりに髪をいじっていたので、きっと洗えなくて気持ち悪いのだろうなと思っていた。本当は念のために今日くらいは入らないでほしいと思うが・・・。
 
「・・・上がってすぐにあったかくして寝るならいいよ。」
 
 もう熱がぶり返すこともなさそうだ。あまりうるさく言わないでおこう。妻は笑顔になって、着替えを引っ張り出して袋に詰め、部屋を出て行った。
 
「・・・・・・・・・。」
 
 一人になると、急に外の喧噪が耳に入ってきた。誰もが祭りを楽しみ、気軽に城壁の外に出掛けていく。もう獰猛な『モンスター』に怯える必要もない。20年前には想像もつかなかったこの時代を築いたのは、間違いなくフロリア様だ。
 
『わたくしのしたことは、どんなに謝っても許されることではありません。せめて・・・この国を自然と共に発展させていくことで、少しでも償えればと考えています。』
 
 私達が島に戻る挨拶をしに行った日、フロリア様が言われた言葉だ。フロリア様は、もう十分に償ったと言えるのではないだろうか。いつまでもあの時のことを、カインを死に追いやったことを、気に病む必要はないのではないだろうか。もう・・・ご自分の幸せを考えてもいいのじゃないだろうか・・・。
 
「カイン・・・君はどう思う・・・?」
 
 もしここにカインがいたら、なんと言うだろう。この国の反映ぶりを喜ぶことはあっても、フロリア様に恨み言なんて言うはずがないと思う。カインがフロリア様を許さないなんてことが、あるはずがないんだ。最後の最後まで、フロリア様を頼むと繰り返していたんだから・・・。でも、その願いを聞き届けるどころか、私は妻と二人、逃げるように城下町を出てしまった。そして故郷に戻って、あの優しい暖かい人達の中でのうのうと暮らしてきた・・・。
 
「許されるべきでないのは・・・私だよな・・・。」
 
 無二の親友をこの手にかけて、最後の約束すら守れずに逃げ出した・・・。そうだ、許されるべきでないのはこの私だ。他の誰でもなく・・・。
 
 
 
 
 翌日、私としては妻に負担がかからないよう多少遅めに宿を出るつもりでいたのだが、妻にたたき起こされた時にはまだ外は薄暗かった。
 
「さ、出掛けるわよ。」
 
「張り切ってるねぇ。」
 
「2日分の力が余ってるんですもの。今日と合わせて3日分がんばるわよ。」
 
「気持ちはわかるけど、無理しないでよ。それに、アスランの看護はセーラがしてくれるだろうし。」
 
「あら、それは最初からお任せのつもりよ。医師会の皆さんもいることだしね。でもそのほかにもいろいろと、やらなきゃならないことはあるでしょ。さあ早く着替えをして。」
 
 あおられるようにベッドから起き出した。よほど外に出たかったらしい。結局私達はかなり早めの朝食を取り、宿屋をあとにしたのは日が昇り始める頃だった。さすがにこの時間だとあまり人が歩いていない。そして歩いている人達のほとんどは朝日をまぶしそうに見上げ、大きなあくびをしている。夜通し祭りで騒いで、これから一眠りするのだろう。セディンさんの店の前では、シャロンが掃除をしている。こんなに早い時間から開けているとは思わなかった。
 
「あ、おはようございます。あら、ウィローさん、もう大丈夫なんですか?」
 
 シャロンは変わらない笑顔で挨拶してくれる。
 
「おはよう。もう大丈夫よ。心配してくれたのね。ありがとう。」
 
「無理しないでくださいね。あの・・・ちょっとお寄りになりません?」
 
「大丈夫かい?もう店は開けているんだろう?」
 
「この時間だと、あんまりお客さんは来ないんです。ただ、遠出する王国剣士さん達が寄られることもあるので、朝はいつもこの時間にあけるんです。お忙しいようなら無理にとは言えませんけど・・・。」
 
「少しだけね。ね、いいでしょ?」
 
 妻が私を見上げた。
 
「そうだね。せっかくだし。」
 
 店に入り、シャロンがお茶をいれてくれた。宿で食後に飲んだものとはまた違う、ほっと一息つける味だ。
 
「あの・・・カインの相方の子が目を覚ましたって聞いたんですけど・・・。」
 
「・・・誰から聞いたんだい?」
 
「昨夜遅くにカインが来たんです。アスランが目を覚ましたってフローラに言ったとたん泣き出して・・・カインが今までどんなにつらかったか、そう思うと私まで涙が出ちゃいました・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
 息子はもうアスランに会ったのだろうか。
 
「でもなんだかあんまり人に言わないでって言ってたので、フローラが心配して、それで・・・。」
 
「私達に聞きたかったわけか。」
 
「はい・・・。すみません。何か事情がおありのようなのに・・・。」
 
「いや、秘密にすべき事情があるというわけではないんだ。でも昨日やっと目覚めたばかりで、本格的な治療はこれからなんだよ。だからある程度治療の目処が立つまでは、あまり人に言わないでほしいってことなんだ。」
 
「そう言うことだったんですか・・・。よかった・・・。」
 
「シャロン、私からも聞いていいかい?」
 
「はい?」
 
 私は思いきって、エルガートとのことを尋ねてみた。もっともいきなり『結婚する気があるのか』と聞くわけにもいかないので、アスランを背負って王宮へと向かっていたあの日、店の明かりが消えていたようだけど、その日にエルガートと出掛けていたのかいと、出来るだけさりげなく。もちろんそうでないことはわかっていたし、エルガートが私に相談を持ちかけたことも黙っていた。
 
「あの日・・・ですか・・・。」
 
 なぜかシャロンがうつむいた。動揺が伝わってくる。まさか本当に、他の誰かと出かけていたのだろうか・・・。
 
「いや、詮索したいわけじゃないから、言いたくなければかまわないよ。ただ、この間ここでエルガートと会ったときはかなりお似合いに見えたからね。もうだいぶ話は進んでいるのかなと思って。気を悪くしたなら謝るよ。」
 
 シャロンはあわてて首を振った。
 
「あ、いえ、違うんです。あの日はその・・・本当はフローラが出掛けていたからずっとお店番のつもりだったんですけど、お客さんがこなかったのでちょっとだけ・・・その・・・お店を閉めてお祭りを見に行ってたんです・・・。でもエルガートには出かけられないって言ってしまったし、だから誰にも見つからないように・・・。」
 
「なるほどね、それじゃ確かに内緒にしておきたいね。」
 
「そうなんです・・・。せっかく誘ってくれているエルガートに申し訳なくて・・・それでその・・・。」
 
 シャロンが赤くなった。
 
「シャロン、他人の私がこんなことを言うのは失礼なんだけど・・・君はいつもフローラのことを一番に考えているよね。でも、そろそろ君自身の幸せを考えてもいいんじゃないかな。エルガートはいい青年だと思うよ。セディンさんも、君の花嫁姿を見たいんじゃないのかい?」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 シャロンは赤くなったままうつむいている。何か複雑な感情が感じられるのだが、その正体がわかるほどはっきりとしていない。やはりこの娘の心の中には、何か引っかかっていることがあるらしい。
 
「差し出がましいことを行って申し訳ないね。ただ、私達も君には幸せになってほしいんだよ。」
 
「・・・いえ・・・お気遣いありがとうございます・・・。エルガートのことは・・・とてもいい人だと思います。でももう少し、考えたいことがあって・・・。」
 
「そうか・・・。あまり一人で抱え込まないようにね。何かあったらいつでも相談に乗るよ。」
 
「ありがとうございます。」
 
 いささか複雑な気持ちのまま、私達はセディンさんの店をあとにした。
 
「なかなかうまくいかないものねぇ。」
 
 妻がため息をつく。
 
「君の目から見てどうだい?シャロンはエルガートのことどう思っているのかな。」
 
「そうねぇ・・・。何か引っかかるような、そんな感じがするのよね。エルガートの話を出されたとき、なんだかシャロンがとまどっていたような気がして。」
 
「う〜ん・・・私がそんなことを言い出すとは思っていなかったからとか。」
 
「それもあるでしょうけど・・・。」
 
「ふう・・・ここで私達が頭をひねってみても仕方ないか・・・。何とかなるならなってほしいけど、あんまりしつこく口を出すのもなあ・・・。」
 
「そうよねぇ・・・。とにかく王宮に早く行きましょう。今はアスランのことが最優先よ。」
 
「そうだね、行こう。」
 

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