「自分で目を開けたのか?」
「うん。私が見てたら、薬を飲ませる時みたいに薄目を開けたの。名前を呼んだらちゃんと私のほうを見たのよ。そして・・・ちょっとだけ笑ったの!」
イルサは涙をぽろぽろとこぼしている。
「そうか・・・。わかった。先生はこのまま病室に戻るから、君達はフロリア様の執務室に行ってこのことを伝えてくれ。病室に来るときはくれぐれも静かに来てくれと付け加えてくれるとありがたいよ。ライラ、執務室の場所はわかるな?」
「わかるよ。イルサ、行こう。」
二人はそのまま廊下を走っていき、私は病室に向かって走り出した。本当に『目覚めた』のか、夢うつつでたまたま目を開けたように見えたのか、イルサを信用しないわけではないのだが、アスランの回復を願うあまり、あの娘には冷静な判断が出来ないかも知れない。だが私は誰よりも冷静でなければならない。はやる気持ちを抑えつつ、病室の扉を開けた。
「おお、クロービス先生、アスランが目を開けましたよ。」
笑顔で迎えてくれたのはハインツ先生だ。その隣で、私の顔を見るなりむすっとした顔に戻ってしまったのはゴード先生だった。彼にとっては『邪魔者が戻ってきた』ことに他ならない。だがそんなことを気にしている暇はない。私は改めてハインツ先生にアスランが目を開けたときの様子を聞きながら、彼のベッドに駆け寄った。確かに・・・薄目を開けている。そしてきょろきょろと目が左右に動いている。焦点は合っているように見えるが、まずは確認だ。
「アスラン、私の声が聞こえるか?」
アスランは眉間にしわを寄せ、ゆっくりと私に視線を向けた。声は聞こえているようだ。私はアスランの手を握り、もう一度話しかけた。
「私は医者だ。私の声が聞こえているならこの手を握りかえしてくれ。」
アスランの手に、ゆっくりと、少しだけ震えながら力が込められるのをはっきりと感じた。その手を握ったまま、私はアスランの目の前に自分の開いてる方の手の人差し指をかざしてみせた。
「よし、では、この指の動くとおりに、目を動かしてくれ。私の言うことがわかったらまた手を握ってくれ。」
また少しずつ手に力がこもる。ゆっくりではあるが、自分の手に力を入れたり抜いたりすることは出来ているようだ。そしてアスランの目は、私の指をちゃんと目で追っている。少しの間私はアスランの手を握ったまま、体の器官がどの程度動かせるか調べてみた。何度もアスランと呼びかけると、目がぴくりと動く。自分の名前を認識できていると考えていいだろう。目覚めたばかりでこれだけのことが出来るのなら上出来だ。
「よしよし、疲れたろう?もう一眠りしていいよ。」
私の言葉にアスランが、少し微笑んだように見えた。どうやら頭の中はだいぶはっきりしているようだ。記憶については何とも言えないが、少なくとも自分の名前を認識している。反応は遅いが、目や手を自分の意志で動かせる。相手の言葉を理解して、笑うことが出来る。アスランは微笑んだ顔のままで目を閉じ、程なくして寝息が聞こえてきた。疲れたのだろう。でもとても満足そうな寝顔だ。この若者は、きっと生きたかったのだ。どんな呪文や薬を使おうと、どんなに体力があろうと、本人が生に執着していなければ何の意味も持たない。そこにちょうど、ライラとイルサが戻ってきた。二人の後ろからぞろぞろと入ってきたのは、さっき執務室にいた全員だ。フロリア様までいる。
「クロービス、アスランはどうだ?もう話が出来るのか?」
オシニスさんがうれしそうに尋ねたが、さすがにそこまでは無理というものだ。
「まだまだ無理ですよ。今少しだけ、体の器官がどの程度回復しているか調べました。疲れたようなのでもう休ませましたよ。」
「あ、ああ・・・そうか・・・そうだよな・・・。さすがにいきなり話は出来ないか・・・。」
「ではクロービス、今の時点でわかっていることを報告してください。口頭でかまいません。報告書はあとからまとめて出してください。」
フロリア様も笑顔だったが、かなり気持ちを抑えているらしく、口調は冷静だった。
「かしこまりました。ただ、私はアスランが目覚めたときここにはおりませんでしたので、その時の状況はハインツ先生にお尋ねください。」
「わ、私ですか?さっきクロービス先生にお話ししたじゃないですか。先生から・・・。」
「いや、やはりその時の状況は、実際に見た方から説明してくださった方がわかりやすいと思いますよ。」
背後に感じていたゴード先生の鋭い視線が、和らいだような気がした。彼はハインツ先生を尊敬しているようだが、ハインツ先生があまりにも立身出世に無頓着なので、いささか気をもんでいるらしい。
「そうですね。ではハインツ、その時のことを説明してください。」
「は、はぁ・・・それでは・・・。」
ハインツ先生が語ってくれたところに寄ると、最初に、アスランの眉間に皺が寄ったことに気づいたのが始まりだそうだ。なんだか苦しげに見えたので、何かよくない症状でも出ているのかと思い、しばらく様子を見ていた。すると首を振るように頭が動き、イルサがそれに気づいてアスランの名を呼んだ。そこでアスランが薄目を開けたというのだ。目ははっきりとイルサの声のした方向に向けられ、そこにいる誰かの顔を認識しようとしているかのようだったという。イルサがもう一度アスランの名を呼んだところ、彼の顔が微笑んだように見えた。そこで、試しにベッドの反対側からハインツ先生がアスランの名を呼んだところ、ゆっくりではあるが顔を向けようと頭を動かし始めたらしい。人の声を認識していることには間違いない。イルサの声を聞いて微笑んだのも偶然ではないだろうとの見解だった。フロリア様はうなずかれ、今度は私に視線を向けた。
「なるほど、わかりました。ではクロービス、あなたがここについてから、なにか行った治療はありますか?」
私はさっきアスランに対して行ったことを一通り報告した。そして最後に、今すぐ話が出来るか、立って歩けるか、仕事に戻れるか、その質問に今は答えは返せない、アスランの体の機能がどの程度戻っているのかをまず確認して、すべてはそれからだと伝えた。
「つまり・・・アスランの意識が戻ったのだと、そう考えていいことには違いないわけですね?」
「はい、それについては間違いないと考えていただいてかまいません。」
「よかった・・・。」
フロリア様の瞳から涙が一筋流れ落ちた。同時に、部屋の中に漂っていた緊張感が和らぎ、誰の顔にも安堵の色が浮かんだ。
「おお、えらく賑やかだなあ・・・・あれ!?フロリア様までどうなされたんです?」
開いたままの扉から顔を出したのはランドさんだった。
「こんなにみんなして集まって・・・ま、まさか・・・。」
ランドさんが青ざめた。
「ええ、アスランの容態に変化があったんですよ、ただし、いい方向にね。」
「と言うことは・・・・目が覚めたのか!?」
ランドさんの顔がぱっと明るくなったとき、
「目が覚めたんですか!?」
どこかで聞いたような声が廊下から聞こえ、人影が飛び込んできた。
「セーラじゃないか。」
「あ、先生!」
何とそれは、ローランのデンゼル先生の診療所で看護婦を務めているセーラだった。お互い思いがけない場所での再会だった。
「なんだ知り合いか?」
ランドさんが怪訝そうに尋ねた。私はセーラと知り合った経緯だけを手短に話した。
「そうだったのか・・・。アスランの身内として、面会に来てくれたんだ。ちょうど目が覚めたってのはいい知らせだが・・・話は出来そうか?」
「残念ですが・・・それはまだ先のことですね。」
「おいランド、せっかく来たんだから話は出来なくても早く会わせてやれよ。」
オシニスさんがランドさんに声をかけた。
「あ、ああ、そうだな・・・。その前にちゃんと紹介しておこう。セラフィさん、彼が剣士団の団長です。」
「初めまして。あの・・・セラフィ・・と・・・申します・・・。いつも兄がお世話になってます・・・。」
セーラは少し怯えたように後ずさりながら頭を下げた。おそらくアスランはセーラに『剣士団長は怖い人だ』とでも言っていたのだろう。
「剣士団長のオシニスだ。遠いところをよく来てくれた。まず俺は、謝らなきゃならん。セラフィと言ったか、お前の兄がこんな目にあったのは、すべて俺の責任だ。すまなかった。」
オシニスさんはセーラの前で深々と頭を下げた。
「あ、あの・・・いいえ、そんなことはありません。団長さん、顔を上げてください。」
セーラはすっかりとまどっていたが、それでもはっきりとした口調でそう言った。顔を上げたオシニスさんは、少しだけほっとしたような表情だった。アスランのことで、オシニスさんがどれほど責任を感じていたか、わかるような気がした。そしてアスランの命を救うことが出来て本当によかったと思った。たとえそれが『人としての分を超えたこと』であったとしても・・・。
「そう言ってくれるのはありがたいが、祭りの間の警備を取り仕切るのは俺の仕事なんだ。ランドから聞いたと思うが、お前の兄は賊に襲われた。そんな連中が城下町に蔓延るのを許したのは俺の落ち度だ。だが、ここで誰が悪いかなんて言ってみたところで始まらないことも確かだからな。せめてお前の兄が回復するまでは、俺も精一杯手伝わせてもらうし、今後絶対にこんなことは起きないようにするよ。それで許してくれるか?」
「兄は・・・王国剣士になれたことをとても喜んでいたんです・・・。団長さんはすごく怖い人だって聞いてたけど・・・なんだかとても優しいからびっくりしました・・・。あ、す、すみません、失礼なこと言って。」
セーラはあわてて言い繕い、赤くなった。
「だから、きっと今度のことは誰のせいでもないんです・・・。それに、兄を助けるためにたくさんの人達が動いてくださったと聞きました。それだけで充分です・・・。」
「そうか・・・。ありがとう。」
「セーラ、お兄さんに会ってあげるといいよ。」
話の切れ目を待って、セーラに声をかけた。セーラはうなずき、ベッドに駆け寄った。私もアスランの様子を見るためにセーラの隣に立った。アスランは先ほどと同じように、安心しきった笑みを浮かべて眠っている。
「眠っているんですね・・・。」
「そうだね。さっき目が覚めたとき、少し体の機能を調べるのに手を動かしてもらったりしたからね、疲れたんだと思うよ。」
「そうですか・・・。」
セーラはしばらくアスランの寝顔を見つめていた。その目にみるみる涙がたまり、ぽとりと落ちた。
「よかった・・・。お兄ちゃんが死んじゃうかもって思ったら怖くて・・・。でもよかった・・・。」
セーラはわっと泣き出した。ずっと我慢していたのだろう。誰もがセーラの姿に涙を浮かべ、冷静がモットーのランドさんでさえ、目をごしごしとこすっている。セーラはしばらく泣いていたが、やがて顔をこすりながら何度も深呼吸した。
「すみませんでした。取り乱してしまって・・・。」
「無理もありません・・・。家族が危険な目に遭ったと聞いて、冷静でいられるほうが稀でしょう・・・。」
悲しげにつぶやいたフロリア様を、セーラは不思議そうに見た。
「あの・・・あなたは・・・。」
セーラの言葉に、レイナック殿が『おや』という顔で答えた。
「おお、お前はこの方のお顔を知らないのだな。このお方こそ、エルバール王国の女王であらせられるフロリア様じゃ。」
「フ・・・フロリア様!?」
セーラはすっかり驚いてしまい、大きく口を開けたままぽかんとしていたが、やがてはっとしたようにひざまずいた。
「ぞ、存ぜぬこととは言え、失礼いたしました!私は・・・王国剣士アスランの妹のセ・・・セラ・・セラフィと申します。あの・・・。」
その後の言葉が続かず、セーラは真っ赤になって口ごもってしまった。セーラは未だに自分の名前を素直に言えずにいるようだ。だが、ここにいた誰もそれを不審に思ってはいないだろう。フロリア様に初めて会ったことでの緊張だと、誰もが思ってくれるはずだ。
「セラフィというのは闇を照らす守護天使ですね。よい名前です。あなたのご両親は、とてもすてきな名前をつけてくれたのですね。」
「あ・・・ありがとうございます・・・。」
セーラは下を向いたまま小さな声でそう言ったが、言い終わるなり唇を噛みしめたのが私の位置から見えた。
「セラフィ、あなたの兄上のこと、大変申し訳なく思っています。このような事態を招いたのは、オシニスではなくわたくしの責任です。せめて、一日も早い回復を祈らせてください。」
「そんな・・・もったいないお言葉、ありがとうございます。」
セーラはすっかり緊張してしまい、必死で頭を下げた。
「フロリア様、そんなことは・・・!」
あわてて口をはさもうとしたオシニスさんを、フロリア様は目で制した。
「確かに、オシニスは剣士団長として今回の祭りの警備もすべて仕切っていますが・・・最終的な責任はすべて、この国の王たるわたくしにあります。オシニス、あなたの責任ではないのです。そのことで気に病まないようにしてください。セラフィ、あなたの兄上を賊の手から救い出したのは、ここにいる医師のクロービスと、その妻のウィローです。そしてその命を呼び戻すために、剣士団長のオシニスと医師会の者達が尽力してくれました。礼ならばその者達にしてくださいね。」
「は、はい・・・。」
フロリア様の言葉に、レイナック殿がわざとらしい咳払いをした。
「あー、その、セラフィよ、今のフロリア様のお言葉は確かに正しいのだが・・・実は今朝、フロリア様がお前の兄の一日も早い回復を祈って、王家に代々伝わる秘法の呪文を授けて下されたのじゃ。だから、その、フロリア様にもお礼を言って間違いはないぞ。」
「お・・・王家の秘法・・・。」
赤かったセーラの顔が青ざめた。それがどれほど重大なことか、おそらくこの娘は認識しているのだろう。
「レイナック、わたくしの力など微々たるものです。そのようなことを言っては、セラフィを混乱させてしまいます。さあセラフィ、もうお立ちなさい。あなたは看護婦だそうですね。兄上の看病に来られたのでしょう?ここは謁見室ではないのですから、わたくしに礼などとることはないのですよ。」
フロリア様は膝を折り、セーラの肩に手をかけて立たせた。セーラはすっかり感激した様子で、流れる涙をぬぐいながら立ち上がった。
「いやフロリア様、わしと致しましては、クロービス夫婦も医師会も、オシニスの気功もフロリア様のお力も、どれ一つ欠けてもアスランを救うことはかなわなかったと思うておりまするぞ。クロービス、ドゥルーガー、おぬし達はどう思う?」
「まったくレイナック殿のおっしゃるとおりでございますぞ。我らの力など微々たるもの。我らも団長殿とフロリア様には感謝しておるのでございます。」
ドゥルーガー会長が言いながらうなずいた。
「そうですね。私もそう思います。でも毎回お二人をあてにするわけにはいきませんから、私ももっと気を引き締めて治療にあたりたいと考えています。」
今回のことでは確かにフロリア様の好意をありがたいと思う。でもその反面、自分の力不足を鼻先に突きつけられたようで、いささか悔しい思いでいることも確かだ。
「うむ、それではよろしく頼むぞ。」
「こんなにたくさんの方達が・・・兄のために・・・。皆さん、本当にありがとうございます!」
セーラが部屋の中にいた全員に向かって頭を下げた。その時、ずっと黙ったまま部屋の隅っこに立ちつくしていたライラとイルサが、身を縮めたように見えたのは私の気のせいではないかもしれない。
「ではフロリア様、われらは執務室に戻りましょうかの。本日の会議の議事録がそろそろまとまる頃ですから、明日の予定を確認せねばなりませんしな。」
「そうですね、では戻りましょう。みなさん、アスランのこと、よろしく頼みましたよ。」
「お任せください。」
ドゥルーガー会長が応えて、レイナック殿とフロリア様は病室を出て行った。セーラはぼーっとしたまま、出口をぼんやり見つめている。
「びっくりさせたね。」
「あ、あの・・・どうしてフロリア様のような方がお兄・・・あ、兄にそこまで・・・。」
「フロリア様はね、国王だろうが一般市民だろうが、命の重みには何ら変わりないとお考えなんだ。『出来ることがあるのに手を貸さないのは人として許されない』そうおっしゃって、王家の秘法を使ってくださったんだよ。それより、君はしばらくこっちにいられるのかい?」
「はい。兄の看病をするつもりで、デンゼル先生にはしばらくお休みをいただいてきたんです。」
「君の親御さんは?」
「母が・・・こっちに来るはずだったんですけど・・・ちょっと風邪をひいてしまって・・・父は、もしも兄が長く入院しなくちゃならないなら、お金が必要になるからもっと働かないとって・・・。だから私が・・・。」
「えーと、セラフィさん、あなたの兄上は王国剣士ですからね。王国剣士が怪我や病気で入院した場合、費用は一切剣士団持ちとなるんですよ。だからあなたのご両親には、お金の心配はしなくていいと伝えてくださいね。」
ランドさんが、あの『優しい笑顔』でそう説明すると、セーラは驚き、また涙を流して何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます・・・。」
何の仕事をしているのかは知らないが、ファロシアという村自体がそれほど裕福には思えない。アスランの父親は、もしかしたら入院費用を稼ぐために無理して仕事をしているか、それでなければ借金の算段で走り回っているかも知れない。
「一つ確認ですが、あなたが今回こちらに来られたと言うことは、アスランを家で療養させると言うことではないのですね?」
「それも考えたのですけど・・・デンゼル先生がせっかく医師会の診療所にいるのなら、無理に動かさずに様子を見たほうがいいとおっしゃったものですから・・・。」
「なるほど、わかりました。では、あなたがここに滞在される間の宿は、王宮の宿泊施設を手配しておきます。あとで誰かに案内させますからね。」
「で、でも、そこまでしていただくわけには・・・。」
「してくれると言うんだからしてもらっておくといいよ。王宮の宿泊施設ならすぐにここに来れるしね。」
もじもじするセーラにそうささやいた。
「ふん、自分ではここに泊まってないくせに。」
オシニスさんがぼそっとつぶやいた。
「最初に宿屋を決めてしまいましたからね。それに、私はそっちのほうが落ち着きますから。」
「さてと、おいオシニス、俺の仕事はこれで終わりだからもう戻るよ。片付けてうちに帰らないとな。」
「ああ、おつかれさん。」
「じゃ、クロービス、またな。」
ランドさんは帰っていった。セーラは荷物の中から何か封筒のようなものを取りだし、ドゥルーガー会長に近づいた。
「あの・・・医師会の会長さんですね?」
「いかにも。私がドゥルーガーだが、何かな?」
「あ、あの・・・申し訳ありません、挨拶が遅くなってしまって・・・。兄がお世話になります。よろしくお願いします。これ、デンゼル先生からの手紙を預かってきましたので・・・。」
恐る恐る手紙を差し出すセーラに、ドゥルーガー会長は少し微笑んだ。
「そんなにかしこまらずともよい。そなたは兄の看病にやってきたのだろう?家族の暖かい看護は、病人にとって何よりの薬だ。看病をしてくれる者がおれば、こちらもより治療に専念できるというものだ。どれどれ、デンゼル老はなんと言ってこられたのかな・・・。ふふふ・・・また小言かな。」
少しだけ柔らかな笑みを浮かべて、ドゥルーガー会長は封筒を受け取った。
「おや、会長に小言を言える方がいらっしゃるとはね。初耳でございますな。」
ハインツ先生がおどけた口調で言った。
「ふん、ローランのデンゼル医師は私の大先輩だ。あの方にかかっては、私などまだまだひよっこにすぎぬ。」
「ほぉ、デンゼル先生がですか。なるほどねぇ、一度お会いしてみたいものですな。ご子息のマレック先生にお願いすべきですかね。」
「何とでも言うておれ。ふむ・・。」
ドゥルーガー会長は、手紙を読み、うんうんとうなずいた。
「ふむ、これにはセラフィという看護婦に、いろいろと教えてやってくれと言うことが書いておるの。そなた医師を目指しておるのか?」
「はい。」
セーラの答えはきっぱりとしている。
「なるほど、筋がいいとあのデンゼル先生がほめておるから、よほどのものなのだろう。だがセラフィよ、ここは医学院のような勉学のみに励める場所ではなく、患者が大勢いる診療施設だ。そなた一人に関わってやれる時間はそれほどはない。それはわかるな?」
「はい。あの・・・今回は兄の看病に来たので皆さんにそこまでお願いするわけには・・・。」
「だが、デンゼル先生がこうして頼んでいる以上、無視したりしたら雷が落ちるからのぉ、まあそなたの兄の治療についてなら一通り教えてやることは出来よう。それでよいか?」
「は、はい・・・!ありがとうございます!」
「話はまとまったようだな。それじゃセラフィ、今日はもう休んだほうがいいんじゃないか。ランドのことだからもう部屋の手配も出来ているだろう。さて誰に案内させるかな・・・。」
「団長さん、その前に私セラフィさんに謝らなきゃ・・・。」
オシニスさんが頭をかきながら考え込んだところに、イルサが進み出た。セーラがこの部屋に入ってきてからと言うもの、ライラとイルサは二人とも黙ったまま、アスランのベッドから一番遠い壁の前に所在なげに立っていた。セーラは二人を不思議そうに見ている。
「たまたま一緒にいただけだろう。別に君のせいじゃない。」
イルサがセーラに『謝れば』アスランとイルサが襲われた訳まで話さなければならなくなる。オシニスさんはそこを察してくれと言いたげに『たまたま一緒にいた』と言うところを強調した。そしてそのことに気づいたのは、イルサではなくライラのほうだった。
「イルサ、団長さんの言うとおりだよ。」
「でも・・・。」
「・・・あなたはもしかして・・・クロンファンラの司書さん?」
「え?」
イルサは驚いてセーラに振り向いた。
「お兄ちゃんから手紙が来てたの。お祭りに来ないかって。でもクロンファンラの司書さんと出掛けることになってるから、空いてる日を連絡するって。もう少し後の予定だったから、その時は休みを取ってこっちに来るつもりだったんだけど・・・。」
セーラは悲しげに目を伏せた。
「イルサさんて言うのね。お兄ちゃんはあなたをかばったの?それで刺されたの?」
「あ・・・あの・・・・。」
いささか挑戦的な口調のセーラの言葉に、イルサがひるんだ。
「セーラ、その通りだよ。君の兄さんは、イルサをかばって刺されたんだ。だからイルサは責任を感じてる。でもそれがイルサのせいってわけじゃない。男なら誰だって女の子をかばうさ。」
私はセーラの言葉通りに話を持って行くべく口をはさんだ。イルサが何か言う前に・・・。
「そうですか・・・。」
セーラは明らかに納得していない表情をしている。私が言った言葉を、おそらくはイルサの口から聞きたいのだろう。
「セラフィさん、本当にごめんなさい。みんな私が悪いの。私のせいであなたのお兄さんが・・・」
「イルサ!」
なおも謝ろうとするイルサの言葉を、強い口調で遮ったのはライラだった。イルサはびくっとして驚いた顔でライラに振り向いた。
「さっき団長さんもおっしゃったじゃないか。今ここで誰が悪いかなんて言い合ってどうするんだ!?大事なのは、アスランが一日も早く回復することだろう?セラフィさんと言ったね、僕はライラ、イルサの兄だ。君の兄さんは僕の妹をかばって刺された、そのことについて僕も本当に申し訳なく思ってる。許してくれなんて言える立場じゃないから、君が僕らに腹を立てるのは仕方ないと思う。でも僕達も、君の兄さんが一日も早く元気になれるよう、精一杯手伝わせてもらうよ。」
「・・・わかりました。さっきも団長さんに言ったけど、誰が悪いわけでもないと思います。だから気にしないでください・・・。」
セーラは目を伏せたままそう言って、黙り込んだ。イルサもそれ以上何も言えず黙り込み、二人の間に異様な沈黙が流れた。
「ねえイルサさん、一つだけ教えてください。」
しばらくして、セーラが意を決したように顔を上げ、その視線が初めてイルサを正面から捉えた。
「・・・なに・・・?」
「あなたは・・・私の兄のこと好きですか?」
思いがけない質問に、イルサが言葉をつまらせた。セーラはしばらくイルサを見つめていたが、少しだけ寂しそうに微笑んで、
「そう・・・。」
それだけ言って、くるりとイルサに背を向けた。その背中が、はっきりとイルサを拒絶していた。
「イルサ、行こう・・・。では僕達は帰ります。失礼します。」
ライラが呆然としたイルサを引っ張るようにして、病室から出て行った。セーラはもうイルサには振り向かず、荷物の中からローランで見たときと同じエプロンを取りだして身につけ始めた。
「セーラ、今日はもう遅い。ここには夜勤の医師がいるから、君はもう休みなさい。早く兄さんを看病したい気持ちはわかるが、君が体をこわしたら兄さんが悲しむよ。」
「・・・・・・。」
セーラの手が止まり、ややあって身につけかけたエプロンをはずした。
「わかりました・・・。」
「さてさて、それでは私がこのお嬢さんを別館に案内しましょうかねぇ。」
笑顔でそう名乗り出てくれたのはハインツ先生だった。
「うむ、それがよい。この男はそうは見えぬかも知れぬが、これでなかなか優秀な医師だ。ハインツよ、案内がてらこのお嬢さんに、アスランの今までの治療経過なども教えてあげなさい。」
「はいはい、わかっておりますよ。しかし会長、今のお言葉は、ほめてくださっていると解釈してよろしいんでしょうかねぇ。」
「さてどうだろうな。はっきりとほめているとわかる言葉を聞きたければ、もう少し落ち着いた言動を心がけてもらいたいものだ。」
二人の会話にセーラが少しだけ笑った。多少は緊張がほぐれてきたらしい。
「お手数かけてすみません。よろしくお願いします。」
「とんでもない。こんなかわいらしいお嬢さんをエスコートできるとは、実にうれしいことではありませんか。さあ、それでは参りましょうか。」
セーラはハインツ先生について病室を出て行った。
「・・・今回ばかりは、ハインツの減らず口に感謝だな。」
ドゥルーガー会長は、ほっとしている。私もいささか冷や汗ものだった。
「ではそろそろ私も帰ります。だいぶ遅くなってしまったので、妻が心配しているかも知れません。」
「おお、そうであったな。奥方にもよろしく伝えてくれ。」
「わかりました。では失礼します。」
「俺も失礼しますよ。明日また来ます。ただ、何かあったら夜中でも遠慮なくたたき起こしてくださいよ。」
「わかっておる。団長殿も、無理はしないようにな。」
「ちょっと俺の部屋によっていかないか?」
一緒に病室を出てしばらく歩いた頃、オシニスさんがぽつりと言った。
「・・・かまいませんよ。」
「・・・ほぉ・・・ウィローが待ってるから帰るとは言わないんだな。」
「言いたいところですが、そんな顔のオシニスさんをおいていく気にはなりません。」
「お前には、今の俺はどんな顔をしているように見えるんだ?」
「そうですねぇ・・・何か言いたいことがあるけどここでは切り出しにくいという顔ですよ。」
「ははは・・・まあその通りだ。時間も時間だから手間は取らせん。少しだけつきあってくれ。」
「わかりました。」
本当は、なんだかとても切なげな、苦しげな顔だった。アスランの目覚めは間違いなく朗報だったが、セーラとイルサの確執、ライラとイルサがアスランに対して感じている負い目、例の脅迫状の一件を考えれば、彼らの個人的なこととして無視してしまうわけにもいかないことばかりだ。でもそれ以上にオシニスさんを打ちのめしているのはおそらく・・・さっきのフロリア様のお言葉なんだろう。もう誰もいなくなったロビーを通り抜け、剣士団の宿舎へと上がる。宿舎のロビーにも人はまばらだ。黙ったまま歩き続けて、剣士団長室に入り扉を閉めたときに、初めてオシニスさんが大きなため息をついた。
「そのへんに座ってくれ。・・・お茶ぐらいはあるかな・・・。」
壁際のワゴンにポットと茶器がのっている。
「私がやりますよ。お湯は入っているみたいですし。」
「そうか・・・。久しぶりにお前の淹れたお茶を飲ませてもらうか。」
「ウィローがいればきっとうまく淹れてくれるんですけどね。」
「ウィローの具合はどうなんだ?」
「今朝はもう熱が下がっていましたよ。今日一日は大事を取って宿にいるように、やっと説得してきたんです。遅いから怒ってるかも知れませんね。」
「俺が引き留めたと言っておけよ。」
「ははは、言い訳なんてしなくても、アスランのことを話せばわかってくれますよ。」
「そうだな・・・。」
私はオシニスさんの前の机の上に、出来上がったお茶を運んだ。お湯はだいぶ前に入れたものらしく少し冷めていたが、それがかえってお茶を入れるための適温になっていた。
「・・・お前にはずいぶんと世話になったな・・・。」
お茶を一口すすり、オシニスさんがぽつりとつぶやいた。
「たいしたことはしていませんよ。」
「そんなことはないさ。アスランが助かったのは間違いなくお前のおかげだ。」
「オシニスさんの気功がなければ成功したかどうかわかりません。私のほうこそお礼を言わなければならないですよ。本当にありがとうございました。」
今さらではあったが、本当に感謝の気持ちを込めて、私は頭を下げた。
「部下を守るのは俺の仕事だ。当たり前のことさ。」
「それを言うなら、人の命を救うのは医者の仕事です。私も当たり前のことをしたまでですよ。」
「なるほどな。」
オシニスさんがくすりと笑った。
「ではお互い様と言うことにするか。・・・・とにかくあとは、あいつがどこまで回復するかだな・・・。」
「目が覚めたときに少し調べた限りでは、頭の中ははっきりしてきていると思います。多少なりとも自分の意志で手や顔を動かすことは出来ていますが、記憶についてまでは何とも言えませんね・・・。」
「イルサの顔を見て笑ったそうじゃないか。」
「イルサの話だけでは、目を開けたときに見えた顔がイルサと認識して笑ったのか、単に自分に向けられた笑顔に対して笑ったのか、そこまでの判断はつきません。あの子は誰よりもアスランの回復を願っています。どんなことでも、彼が元通りになっている証拠だと思い込んでしまう可能性があります。」
「・・・そうか・・・。確かにそうだな・・・。」
「あとは明日からの治療にかかってます。私も全力を尽くします。」
「ああ、頼む・・・。」
オシニスさんがまたため息をついた。顔色もあまりよくない。
「だいぶお疲れですね。無理はしないでくださいよ。」
「ふん・・・こんなの疲れのうちに入らんさ・・・。」
「・・・昔とは違いますよ。」
「・・・まあ、確かにそうだな。認めたくなくても歳だけはちゃんととっていくもんだ。」
「そうですね・・・。」
もう若くはないのだと、こんなときにいつも思い知らされる。自分のために剣の腕を磨き、仲間との日々が楽しくて仕方なかった若かりし頃には、もう戻れる日はこないのだ。別に戻りたいと願ったことなどないのだが、それでもふと・・・寂しく思うことはある。
「イルサはどうしているでしょうね・・・。」
セーラからはっきりと拒絶され、うちひしがれたイルサの顔が浮かんだ。多分イルサは、アスランに思いを打ち明けられたのだろう。だが、彼の気持ちを受け止めることが出来なかった・・・。
『アスラン、ごめんなさいね・・・。あんなこと言ったのに、私をかばってくれて・・・。』
アスランの治療中にイルサがぽつりとつぶやいた言葉は、たぶんそう言うことなんだろうと思う。そしてさっきのセーラの問いにも、イルサは答えられなかった。
「ライラがうまく言い聞かせてくれただろう。さっきは冷や汗が出たよ。あのセラフィという娘まで巻き込むわけにはいかないからな・・・。」
「そうですね・・・・。」
アスランとイルサが襲われた本当の理由・・・イルサを誘拐すること、そしてその命を盾に、ロイやライラ、ひいてはフロリア様を頂点とする現在の王国の中枢を脅迫する・・・。もしも失敗したところで、騒動の噂が広がれば、ナイト輝石の採掘再開にはかなりのマイナスとなる。ナイト輝石が再び世に出ることを望まぬ誰か、未だ見えざる敵が仕掛けた罠だ。それを知る者は常に危険にさらされることになる。出来る限り情報は漏らさないようにしなければならない。
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