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「部屋なら空いてるぜ。二人部屋が3つくらいかな。祭りの時にうちの部屋がいっぱいになるのは、たいてい今頃なんだ。もっと遅くまで空いてるときもあるぜ。」
 
「でもここは通りのど真ん中じゃないか。何でそんなに空いてるんだい?」
 
「通りのど真ん中だからさ。祭り見物で城下町に来た連中は、まずうちの前を通ってこう言うんだ。『ここは通りのど真ん中だから、もういっぱいだよな。他を当たろう』ってな。」
 
 ラドが大声で笑った。
 
「なるほどね・・・。するとどこにも寄らずにまっすぐここに来た私達の判断は正解だったってことか。」
 
「大正解さ。そんなわけだから、ゆっくり出来るぜ。どうだい?泊まってくれるかい?」
 
「ぜひお願いするよ。宿屋がどこも満杯だったら町の外でテントでも張ろうかって言ってたんだ。だからありがたいよ。」
 
「よし、決まりだな。うちのモットーは、昔から変わらないんだ。安い、きれい、早い、うまいさ。清潔なベッドとおいしい食事の『我が故郷亭』へようこそ。それじゃ宿帳に名前を書いてくれ。」
 
 私達は差し出された宿帳に名前を書いた。ラドはそれを確認してうんうんとうなずき、
 
「これから祭り見物に行くのかい?」
 
そう尋ねた。
 
「いや、今日はローランから歩いてきたから疲れてるんだ。さっさと寝て、明日から本格的に見物に歩くことにするよ。しばらく滞在したいんだけど、大丈夫なんだよね?」
 
「もちろんさ。・・・って・・・えぇ!?ローランから歩いて来たぁ!?」
 
 ラドは驚いてカウンターから身を乗り出した。
 
「そうなんだ。久しぶりだから歩いていこうって、ウィローの提案でね。」
 
 私は妻を目で指し示した。
 
「はっはっは!元気だなあ!それじゃ疲れるわけだ。うちのほうはいつまでだって大丈夫だよ。それじゃメシにするかい?ちょっとこのフロアはうるさいから、部屋で食うなら案内するぜ。どうする?」
 
 私は妻にどうしようかと尋ねた。妻は楽しそうにフロアを見渡し、
 
「ここに来たのも久しぶりだもの。ここで食べたいわ。」
 
そう言った。
 
「そうだね。ラド、それじゃここでいただくよ。特製ビールももらおうかな。昔飲んだときのうまさは今でも覚えてるよ。」
 
「へへっ、うれしいこと言ってくれるじゃないか。あのビールは親父さんのこだわりのビールだからな。昔からずっと変わらない作り方で作ってるんだ。」
 
「うちの息子もここのビールはうまいって言ってたよ。知ってるかなあ。王国剣士になったばかりの・・・」
 
「カインだろ?知ってるも何も、採用試験を受ける時にうちに泊まってくれてから、相方のアスランて奴と一緒によくここに来てくれるよ。」
 
「そうか・・・。迷惑かけてない?結構おっちょこちょいだからね。」
 
「そんなことはないよ。カインはいい奴だよ。ふざけているようで、結構礼儀正しいしな。」
 
 ほめられていると受け取っていいものかどうか、微妙な言い方だ。
 
「最初名前を聞いたときは驚いたけどな・・・。親父さんの名前を聞いてもっと驚いたよ。でもうれしかったんだ。あんたが、自分の息子にカインて名前をつけてくれたことがさ。」
 
「・・・うん。あんなふうに、優しく強くなってくれるようにって願いがこもってるんだけど・・・願い通りに育っているかどうかは、何とも心許ないな。」
 
「親の目から見れば、子供の成長なんてみんなその程度にしか見えないもんさ。これからだよ。王国剣士になってまだほんの何ヶ月かしか過ぎてないんだから、これからいろんな経験をして成長して、いつの間にかあんたが目を見張るくらい立派な王国剣士になるよ、きっと。」
 
「そうだね・・・そうなるといいなぁ・・・。」
 
「カインだと!?あの新米剣士の坊主が来たのか!?」
 
 奥の厨房から突然大きな声が聞こえた。
 
「あの坊主じゃないよ。その親父のほうさ。」
 
「なに?親父だと!?」
 
 厨房の入口からひょいと顔を出したのは、昔のこの店のマスターだった。
 
「・・・・・・・。」
 
 老マスターは私を見て、しばらく固まったように動かなかった。
 
「おいおい親父さん、しっかりしてくれよ。あの新米剣士の坊主の親父さんだよ。まさか忘れちまったんじゃないだろうな?」
 
 老マスターはラドをギロリと睨み
 
「ばかを言うな!俺はまだまだ若いぞ!う〜〜〜ん・・・・。」
 
今度は私に視線を移して、いや、正確には私を睨みつけてしばらくうんうんと唸っていた。そしていきなりニッと笑い、
 
「お!そうだそうだ、クロービス、あんたクロービスだったよな!?」
 
 どうやら私の名前は忘れられていたらしい。
 
「そうだよ。マスター、お久しぶり。あ、今はラドがマスターなのかい?」
 
「そうなんだけどな、親父さんのことだから、今でもこうして店を走り回ってるってわけさ。でも元気でいてくれるから、俺はうれしいよ。」
 
「ふん!あたりまえだ。俺はまだまだ若いんだから、そう簡単にはくたばらんぞ。クロービス、ゆっくりしていってくれよ。手が空いたらつもる話でもしようじゃないか。」
 
「そうだね。」
 
「こんな時間帯に手が空くようじゃ、うちの店も危ないぜ。」
 
 ラドが言いながら笑う。
 
「バカ言うな。危なくなったらそれはお前のせいだ。」
 
「へっ!手柄は全部自分で失敗は全部俺のせいか。参ったな全く。」
 
「俺はお前に店の権利を譲ったんだから、この店の先行きはお前の責任だ。」
 
 老マスターの毒舌は相変わらずだが、昔はそれを黙って聞いていたラドが、今は楽しそうに応戦している。まるで親子のようだ。老マスターが厨房に消えたとき、またウェイターの青年が空のジョッキを大量に持ってカウンターに駆け戻ってきた。
 
「父さん!ビール8つ追加だ!」
 
「おっしゃ、ちょっと待ってろよ!クロービス、すぐメシの用意をするよ。もう少し待っててくれるか。」
 
「いいよ、ゆっくりで。」
 
 私達の前にはすでにビールのジョッキが置かれていたし、つまみも何品か出されていた。周りはかなり騒々しいが、不愉快なうるささではない。妻とゆっくりビールを飲んで待っていればいいことだ。
 
「悪いな。」
 
 ラドは洗い上げられた大量のジョッキから素早く8つ取りだし、慣れた手つきで樽からビールを注いでいく。見ていたウェイターの青年が私達に話しかけてきた。
 
「父の知り合いなんですね。」
 
「ああ、昔ここに泊まったことが縁でね。」
 
「そうですか。僕はラドの息子でノルティです。いつもありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね。」
 
「ありがとう。」
 
「ノルティ!上がったぞ。持って行け!」
 
 ラドがビールのジョッキをいくつもカウンターに置いた。ノルティはまた軽々と両手で持ち上げて、さっきからすごい勢いでビールを飲み続けている一団の元にと駆けていった。
 
「ここはまたにぎやかねぇ。でもまだ早い時間だし、遅くなったらもっとすごいのかしら。」
 
 妻があたりを見渡しながら言ったとき、扉が開いてまた新たな一団がどやどやと入ってきた。
 
「おーい、空いてるかい!?」
 
「いらっしゃい!空いてる席に座ってくれ!」
 
 ラドがカウンターの中から怒鳴る。一団の先頭にいた青年は素早く中を見渡して空いている席を見つけ出し、仲間を招き寄せた。
 
「よーし、みんなここに座ろうぜ!今日はパーッと行くぞぉ!おいノルティ!とりあえずビールだ!」
 
「はい!ただいま!」
 
 さっきからノルティは立ち止まっている暇もない。だが彼は楽しそうにフロアの中を走り回っている。
 
「・・・確かにもっとすごくなりそうだね。でもみんな楽しそうだな。」
 
 少なくとも、私が初めてこの店に来たときのように、奥さんをモンスターに殺されて泣きながらやけ酒をあおるような暗い客は一人もいない。それはつまり今が平和だと言うことだ。
 
「そうよねぇ。私も楽しみになってきたわ。さっき住宅地区で見かけた仮装行列みたいな人達も、お祭りに行ったんでしょうね。」
 
「だと思うよ。夜のほうが盛り上がるみたいだしね。」
 
「それじゃこれから行ってみる?」
 
「今日はやめておきたいけど・・・君が行きたいならつきあうよ。」
 
 妻は上目遣いに私を見て、
 
「疲れてる?」
 
 そう尋ねた。
 
「すこしね。君は?・・・これから出掛けるって言うんだから大丈夫そうだね。」
 
「私も疲れてるわよ。それじゃやっぱりやめておこうかな。ちょっとだけのぞいて来るくらいなら大丈夫かなとも思ったんだけど、今無理して明日一日寝込んだりしたらばかみたいよね。今日は我慢してゆっくり休んで、明日から本格的に動き始めましょ。」
 
「それがいいと思うな。」
 
 別に動けないほどではないが、久しぶりに二日間歩きづめだった。今日の夜くらいは温かいベッドでゆっくりと眠りたい。
 
(こんなことを考えること自体、歳をとったのかも知れないなぁ・・・。)
 
「はいっ!お待ちどう!『我が故郷亭』特製ディナーだぜ!」
 
 老マスターの大声に、感傷は一気に吹っ飛んだ。私達の前には、おいしそうな食事が乗せられたトレイがドンと置かれている。
 
「なんだか懐かしいな。私が最初にここに泊まったときも、マスターがそう言って食事を用意してくれたんだっけね。」
 
「おお、そうだったなぁ。あの時のおとなしそうな兄さんがやがて立派な王国剣士になり、そして今では押しも押されもせぬ立派な医者か。全く時の経つのは早いもんだ。歳を取るわけだよなぁ。」
 
「医者なのは間違いないけど、別に立派でもなんでもないよ。」
 
「へっへっへ、謙遜しなくてもいいじゃねぇか。カイン坊からちゃんと聞いてるぜ。しかしなぁ・・・王国剣士をやめて親父さんの跡を継ぐって聞いたときは、剣士が医者に転職なんてうまくいくのかと心配してたもんだけど、ほんと、たいしたもんだなあんたは。」
 
(カインの奴・・・何を言ったんだ全く・・・。)
 
 この宿屋に来たら、私の名前を言えばたぶんマスターもラドもわかってくれるだろうとは教えたが、どうも息子はよけいなことまでいろいろしゃべっているようだ。後で問いつめなければならない。
 
「おい親父さん、つもる話がしたい気持ちはわかるが、今うちの店はかき入れ時なんだぜ?あっちのテーブルにつまみを5つ追加、それとさっき入ってきた客がビールと一緒にメシも食いたいそうだから、大急ぎで作ってくれよ。」
 
「ふん!冷たい奴だな、お前は。わかったよ、クロービス、すまねぇな。ゆっくりしていてくれよ。」
 
「ありがとう、私達のことは気にしなくていいよ。」
 
 老マスターはぶつぶつ言いながら厨房に戻っていった。
 
「ふぅ・・・適当なところで追い立てておかないと、親父の奴いつまでもここに居座りかねないからな。せっかく夫婦水入らずで来てるんだから、のんびりしてくれよ。まあこの騒ぎじゃ・・・なかなか難しいかも知れないけどな。」
 
 ラドがすまなそうな視線を私達に向けた。
 
「気にしなくていいよ。マスターとは・・・じゃなくて今は君がマスターか。ややこしいな。」
 
「俺のことは名前で呼んでくれればいいよ。昔からのなじみの客は、親父のことを今でもマスターって呼ぶよ。そりゃ仕方ないさ。」
 
「そうか。それじゃ私もそう呼ばせてもらうよ。マスターとは私も話をしたいと思ってるからね。うるさいなんて思ってないよ。かえって私達がここにいたらマスターの手が止まって、仕事の邪魔になるんじゃないのかい?」
 
「何言ってんだよ。あんたらはお客さんなんだから、もっと堂々としていてくれよ。親父はあんたが来てくれたことをすごく喜んでいるんだ。もちろん俺もだけどな。親父はあんたの息子が来るたびに、『親が息子の仕事ぶりを見に来たりする予定はないのか』ってよく聞いてたくらいだから、会いたかったんだろうと思うよ。あんたが自分の息子にカインて名前をつけたことを、一番喜んでいるのは親父なんだぜ。」
 
「そうか・・・。そう言えばラド、昔、君はマスターのことを旦那さんて言ってたけど、今は親父さんなんだね。」
 
「あんたが島に帰ったすぐ後くらいかな。俺は正式に親父の養子になったんだ。そのとき、『俺はもうお前の主人じゃなくて父親なんだから、旦那さんじゃなくて親父って呼んでくれよ』って言われたんだ。それからはずっとそう呼んでるのさ。最初は慣れなくて、つい『旦那さん』て言っちゃってな、そうすると怒るんだよ。真っ赤な顔してさ。」
 
 老マスターは昔から口は悪かったが、とてもいい人であることは私も知っている。
 
「そういうことだったのか。それじゃマスターにとっては、君の息子さんは孫にあたるわけなんだね。」
 
「まあな。いつもさっきみたいにまだまだ若いって言い張るくせに、俺の子供達から『おじいちゃん』なんて呼ばれると、もうメロメロだぜ。」
 
 ラドが笑い出した。
 
「そりゃそうだろうな。孫ってものはかわいいらしいからね。」
 
「あんたのところではまだそう言う話は出ないのかい?」
 
「うちのって・・・つまりうちの息子が結婚して孫が生まれるとか?」
 
「そうだよ。あの雑貨屋の娘とはかなり熱烈なつきあいらしいじゃないか。」
 
「まあ確かにだいぶ盛り上がってはいるらしいけど、うちはまだまだだよ。まともな仕事も出来ない新米剣士が結婚なんて早すぎるよ。まともな給料も取れないのに。」
 
「なるほど、さすがに元王国剣士としては及第点はやれないってことか。でも仕方ないかもしれないな。王国剣士は今も昔もこの国の花形職業だが、不思議と高給取りだって言う噂だけは一度もたったことがないんだ。それなりの仕事が出来るようにならないと、まともな給料ってのはもらえないもんなのかな。」
 
「そうだね・・・。今は昔よりはましだろうけど、何年過ぎても高給取りなんて言う言葉には縁がないんじゃないのかなあ。」
 
「ははは。それもそうか。うちにも一人、その王国剣士を目指している奴がいるけど、まあ何とか食うに困らない程度の稼ぎをしてくれればって思ってたほうがいいんだろうなきっと。」
 
「へぇ・・・あのノルティって言う息子さん?」
 
「いや、あいつの下さ。まだ14歳だから、学校も出てないんだけどな。勢いだけは一人前だよ。だからあんたの息子が来ると、大騒ぎなんだぜ?『剣を教えてくれ』ってさ。」
 
「カインの奴には、人に教えられるような技術はないよ。まずは剣術指南にでも通わせたほうがいいんじゃないのかな。」
 
「やっぱりそうか・・・。来年は考えてやらなきゃな。もっとも、あいつがそのときまで同じ夢を持っているかどうかはわからないか。」
 
「どんな目標だっていいじゃないか。一生懸命実現に向けてがんばることが大事なんだから。」
 
「そうだな・・・。実現に向けてか・・・。あいつも・・・そう思ってはずなんだよな・・・。」
 
 ラドの視線が宙に浮いた。『あいつ』が誰を指す言葉なのか、すぐにわかった。
 
「ははは・・・悪いな。王国剣士の話なんてしてたら、カインの奴のこと思い出しちまったよ。あんたの息子じゃないぜ。昔あんたと組んでいた奴のことさ。」
 
「・・・わかるよ。私も今、思い出していたからね。」
 
「今更あんたにこんな話をしてもつらいだけだとは思うけど、うちの親父はカインの奴も養子にしたかったそうなんだ。」
 
「・・・カインを・・・・・。」
 
「ああ・・・。俺を養子にしてくれたとき、そう言ってたよ。本当なら、あの時王国剣士団が王宮に戻れたら、二人とも一緒に面倒を見るつもりだったんだって。そうしたら俺はあいつより一つ上だから、俺のほうが兄貴になってたはずなんだよな。」
 
 ラドが寂しげに笑った。
 
「・・・・・・・。」
 
「あんたらが、カインが死んだことを知らせに来てくれたあと、もっと早くカインを自分の養子にしておけば、ここがあいつの家になんだから遠慮なんかしないでここにいてくれたかもしれない、そうしたら遠いところで死んだりしなかったかもしれないって、ずいぶん悔しがっていたんだよ。」
 
 濡れ衣を着せられて逃げ出す羽目になってから、私達はどこにも長くいられなかった。長くいればそこに迷惑がかかるかもしれないと、いつもあちこちを転々としていたし、自分が世話になった人達のところへは絶対に行くことが出来なかった。旅の途中、時々カインは言っていたものだ。『我が故郷亭の親父さんどうしてるかな。無茶してないといいんだけど・・・。』
 
「死んじまってからそんなこと言っても仕方ないんだけどな。でも親父がどれほどカインのことで悔しかったかは俺もわかるつもりさ。だから親父は、あんたの息子に昔カインが叶えられなかった夢を叶えてほしいのかもな。」
 
「夢か・・・。」
 
 カインの夢・・・。それは王国剣士として実績を作り、フロリア様にお礼を言うこと・・・。小さな頃いじめっ子達から守ってくれたことへの・・・。そして一生フロリア様のために、王国剣士として働くこと・・・。ラドや老マスターが知っているのは、多分『フロリア様のために王国剣士として働く』という部分だけだろう。この国で王国剣士を志す者ならばみんなが口にする『夢』だ。
 
「そうだね・・・。もっともうちの息子は不器用だから、一体いつになったらあの時のカインの域まで達することが出来るのか、想像もつかないな・・・。」
 
「あんたの息子はまだ18歳じゃないか。そんなに焦ることはないさ。今は昔みたいに、王国剣士をつけねらう悪党なんぞいやしないんだから、普通に仕事をしている分には命の危険はないだろうしな。」
 
「そうだね・・・。」
 
 昔・・・カインを死に追いやったのは、王国剣士をつけねらう悪党でも何でもない。この私だ。ラドがそれを知ったらなんと言うだろう。きっと許してはくれないに違いない・・・。
 
「ねえクロービス、温かいうちにいただきましょうよ。」
 
 妻に突っつかれて、ハッとした。そうだ。せっかくの食事が冷めてしまってはもったいない。いくら考えてももう取り戻せないことを、うじうじと悩んでいても仕方ないし、ラドや老マスターの前で正直にカインの死の真相を語る勇気もないのなら、思い悩むことさえただの自己満足でしかない。だが彼らに、カインの死の真相を語る必要はないだろう。自分がかわいいからではなく、真実が必ずしも幸せをもたらすものではないと思うからだ。私はこの街に、過去との決着をつけに来た。だがそれは私の問題で、ラドにも老マスターにもなんの関係もないことだ。せっかく忘れた悲しみを、わざわざほじくり出すようなことをする必要はない。
 
「そうだね、それじゃいただきます。ねえラド、うちの息子に期待をかけてくれる気持ちはうれしいよ。でもその期待は、君の二番目の息子さんに向けてあげてくれないか。期待をかけられすぎるのは重荷になるかもしれないけど、せっかくがんばっているんだから、みんなで応援してあげないとね。うちの息子のことはその次でいいよ。」
 
「ああ・・・そうだな。確かにその通りだ。でも、あんたの息子にも期待してるぜ。さてと、ちょいと混んできたから俺もフロアに出なきゃならないけど、気にしないでゆっくり食べてくれよ。」
 
 ラドは手早くエプロンを外して、ノルティがつけているのと同じ、腰から下だけを覆う黒い小さなエプロンをつけた。そして奥の厨房に向かって
 
「おい!フロアに出るからこっち頼む!」
 
と怒鳴った。厨房の奥から女性の声で
 
「はぁい!」
 
と返事があった。厨房には老マスターの他にも誰かいるらしい。ラドはカウンターの外に出て、ずらりと並べられた注ぎたてのビールのジョッキを片手に4つくらいずつ持ち上げた。奥のテーブルでは、さらに新しくやってきた客達がビールをくれと叫んでいる。
 
「はい、ただいまお持ちします!」
 
 ノルティよりもさらに軽々と、ラドはジョッキを両手に持ち、駆けだしていった。
 
 
 
 食事も終わり、ビールを飲んでほろ酔いのまま、私達は案内してもらった部屋に来ていた。裏通りに面しているというのに外の喧噪が聞こえてくる。
 
「夜も遅いのにまだ賑やかね。もしかして朝までこの調子かしら。」
 
 妻はカーテンを少し開けて外を覗いた。
 
「どうなんだろうなぁ・・・。さすがに真夜中はみんな寝ると思うけど。もっとも夜に備えて昼間寝ていたりすれば平気かも知れないけどね。」
 
「ねえ、ここから見える通りって、もしかして歓楽街?」
 
「えーと・・・ああ、そうかも知れないな。この店の一本裏の通りからずっと奥まで歓楽街だからね。」
 
「ふぅん・・・。ここで働く女の人達は、お祭りも何も関係ないかも知れないわね。」
 
「お金を持っている客なら、連れて行ってくれたりするんじゃないのかな。昔エリオンさんがそんなことを言ってたよ。あのころは祭りなんてなかったけど、お金を持っている人達は馴染みの女の人を芝居見物に連れて行ったりすることもあるって。祭りもそんな感じなんじゃないのかなあ。」
 
「そう・・・。ねえ、私達が昔会った女の人達って、今頃はどうしているのかしらねぇ。普通に結婚して、子供もいたりするのかしら。」
 
「この街を生きて出られたなら、きっとそうなっていると思うよ。」
 
 みんな自分の置かれている現実を受け入れてたくましく生きていると言う印象を受けた。出来るなら幸せになっていてほしいが・・・。
 
「だといいわね。」
 
 妻がカーテンを閉め、振り向いた。
 
「そうだね。もう寝ようか。明日は朝から動き始めるんだよね?」
 
「そうね。ふふふ、どこに行こうかな・・・。」
 
 明日・・・すぐに王宮に向かうべきか、それとも明日くらいは祭り見物にあてるべきか。息子には着いたらこちらから連絡すると言ってあるので、一度は王宮に向かわなければならない。仕事中にうまく出会えればちょうどいいのだが、昼間の警備とはいえ、この広い城下町のどこにいるのかもわからない状態では探しようもない。いっそセディンさんの店に寄ってフローラから伝えてもらうという手もあるが、直接連絡を取らなかったら息子がへそを曲げそうだ。
 
「とにかく寝ようか。さすがに眠くなってきたよ。」
 
「そうね、お休みなさい。」
 
「お休み。」
 
 またフロリア様の夢を見るのだろうか。こっちに来てからは、いろんなことがありすぎたせいがまだあの夢は見ていない。だがここは王宮に近い。覚悟はしておいたほうがいいかもしれない。
 
 
 
 
 
 私は、王宮のロビーに立っていた。私がいた頃とあまり変わっていないように見えるのは、いつでもきれいに掃除されているからなんだろう。ロビーの人影はまばらで、案内係のカウンターにも人がいない。休憩時間なんだろうか。予約無しで剣士団長に会えるものかどうかわからない。案内係が戻ってきたら聞いてみよう。それまで図書室ででも時間をつぶそうか。
 
「副団長。」
 
 背後で呼ぶ声がした。確か今の副団長はハリーさんだ。ハリーさんがいるなら話は早い。案内係を待たなくてもオシニスさんに取り次いでもらえるかもしれない。どこにいるんだろう。私はロビーを眺め渡したが、ハリーさんらしい人影は見当たらない。
 
「副団長。」
 
 また呼ぶ声。でも何度見渡してもハリーさんはいない。もしかして私の後ろのほうにいるのだろうかと振り向いた。そこには若い王国剣士が立っている。
 
「ああ、やっと気づいてくれた。副団長、お帰りなさい。久しぶりの故郷はいかがでしたか?」
 
「・・・・・・・・・・・・。」
 
 この若い剣士は何を言ってるんだろう。まさか私とハリーさんを見間違えているんだろうか。
 
(ハリーさんと顔が似てるなんて言われたことはないけどなあ・・・。)
 
 いや、たとえ似ていたにしても、副団長と赤の他人を間違えるというのはどうなんだろう・・・。そんなことを考えている私を、目の前の若い剣士は怪訝そうに見ている。
 
「・・・どうしたんですか?まだ旅の疲れが取れていないのかもしれませんね。まだ休暇は残っているんだし、今日は家に帰られてゆっくりされてはいかがですか?」
 
「い、いや、私は・・・。」
 
 ハリーさんじゃないよ、よく見てくれ、そう言おうとして口を開く前に、どすんと背中をたたかれた。
 
「よお、クロービス、帰ってきたのか。」
 
 背中をたたいたのはオシニスさんだった。
 
「あ、オシニスさんお久しぶりです。」
 
「ああ、全く久しぶりだ。だが、お前にとっちゃ自分の故郷のほうが久しぶりだったんじゃないのか。親父さんはどうだ?元気だったか?孫の顔を見られて喜んでいただろう。」
 
「は?」
 
「なあにが『は?』だ!仕事にかまけてほとんど里帰りもしなかったくせに。」
 
「い、いや、でも今はちゃんと故郷に・・・。」
 
「さんざん追い立てられてやっとな。出掛けるときの子供達のうれしそうなこと。ウィローが俺達に頭を下げてたんだぞ。『やっと里帰りする気になってくれてうれしい。説得してくれてありがとう』ってな。」
 
「それは逆ですよ。ウィローのほうがなかなか里帰りできなくて・・・。」
 
「何言ってんだよ。ウィローはしょっちゅうカナに帰ってるじゃないか。もっとも最近は子供を産んでそんなに過ぎてないから、しばらく遠出は控えてるって話だったな。まあ確かにそれを考えれば・・・」
 
「あ、あの、オシニスさん、そんなことより、剣士団長になられたんですよね?」
 
 なんだか訳がわからなくなって、私はあわてて話題を変えた。
 
「は?」
 
 だが今度はオシニスさんがぽかんとして私を見た。
 
「え?だって・・・カインに聞いたんですけど・・・。」
 
 オシニスさんは厳しい顔になり、いきなり私の額に手を当てた。
 
「・・・おい。やっぱり今日は休めよ。明日まで休暇は残ってるんだから、疲れをきっちりとっておけよ。」
 
「いや、疲れって・・・それはこっちに来たばかりですから疲れてはいますけど、宿屋に帰れば休めますから・・・。」
 
「宿屋って、お前まさか自分の家に帰ってないのか?」
 
「いやその、ですから私の家は北のはずれの島で・・・。」
 
 オシニスさんはやれやれと言った風に首を振った。
 
「あのなぁ、お前いいかげんに目を覚ませよ、まったくもう。お前は二週間前に長期休暇をとって、ウィローと子供達を連れて実家に帰ったんじゃないか。親父さんの顔を見てくるって言って。それで一日早く帰ってきたから今日からはもう仕事に戻るって、お前昨日の夕方カインに言いに来たんだぞ?」
 
「カインに・・・?」
 
「おいオシニス、カインじゃなくて、剣士団長だろ?ちゃんとけじめはつけたほうがいいよ。」
 
 そう言ってオシニスさんの肩をたたいたのはライザーさんだった。
 
「ラ・・・ライザーさん!やっぱりオシニスさんに会いに来たんですか?」
 
「会いにって・・・そりゃコンビを組んでいるんだから毎日会ってるよ。一人じゃ仕事に出かけられないからね。」
 
「そ、それは・・・ずっと前のことじゃ・・・。」
 
 ライザーさんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
 
「本当におかしいな。何か心配事があるのかい?サミル先生は元気だったんだろ?それとも先生に何か・・・。」
 
「いえ・・・あの・・・父は・・」
 
 いったい何がどうなっているんだろう。私は今、20年ぶりに王国に出てきて、王宮のロビーに立っているはずだ。
 
「しかしお前の親父さんもたいしたもんだよな。麻酔薬なんてすごいものを完成させちまうんだから。あの技術のおかげで救われた命は数限りない。あんなすばらしい人には元気で長生きしてもらわないとな。」
 
 オシニスさんが笑顔でそう言った。ライザーさんは今もオシニスさんとコンビを組んでいて・・・私の父は元気で、麻酔薬をその手で完成させていて・・・。そして私は・・・・。
 
「お、奥方達のご登場だぞ。」
 
 オシニスさんの声に振り向くと、妻とイノージェンが二人で玄関から入ってくるところだった。妻は小さな女の子を抱いている。どこの子供だろう。よく見るとイノージェンも男の子を抱っこしている。この顔には見覚えがある。ライラだ。イノージェンのスカートにしがみつくようにして歩いてくる女の子がイルサ。でもなんでこんなに小さいんだろう。それに妻が抱いているのは・・・この子は・・・。
 
「クロービス!」
 
「ライザー!」
 
 二人とも私達を見つけて駆け寄ってきた。そして二人そろって手に持った包みをライザーさんと私にそれぞれ差し出した。
 
「はい、お弁当。」
 
「ウィロー・・・。」
 
「どうしたの?ぽかんとして。やっぱり毎日お弁当を届けるのは・・・まずいのかしら・・・。カインがもうちょっと大きくなるまでは後から届けることにさせてほしかったんだけど・・・。」
 
「い、いや、そうじゃなくて・・・。なんで・・・。」
 
 こんなことになっているんだと聞こうとしたとき、妻が抱いている女の子が怒った顔で両手を弁当に伸ばしてきた。
 
「かあたん、あたちがわたしゅっていったのに!」
 
 女の子がしゃべったとたん、頭の中に記憶があふれた。この女の子は、私の娘だ。名前は・・・。
 
「あらごめんなさい、リゼル。それじゃ、はい。」
 
 妻は一度私に渡した弁当を取って、リゼルに渡した。リゼルは私に向かって満面の笑顔で、
 
「とうたん、はい、おべんとう。」
 
小さな手にやっと持った弁当の包みを差し出した。
 
「ありがとう、リゼル。」
 
 自然に言葉が出て私は娘の頭をなでた。でも頭の片隅に何かが引っかかる。誰かが『違う』と叫んでいる。その時いきなり私の隣からにゅーっと手が伸びて、リゼルが持たせてくれた弁当の包みをひったくった。
 
「愛妻弁当か。ウィローも毎回ご苦労だな。」
 
 私の隣にいたのは・・・カイン・・・!?
 
「あーっ!おじちゃんひどい!それはとうたんのなの!」
 
 リゼルは怒ってカインから弁当を取り戻そうと身を乗り出し、妻があわててリゼルを支えた。
 
「ほら静かにしてなさい。大丈夫よ。おじちゃんはちゃんと父さんにお弁当を返してくれるから。」
 
「おじちゃんて・・・おいウィロー、君までそれはないだろう。ちぇっ、クロービスとは二つしか違わないんだぞ・・・ん?なんだよクロービス、ぼんやりしてどうした?」
 
 カインは私に振り向き、きょとんとしている。懐かしい・・・カインの顔、もう二度と会えないと思っていた・・・。
 
「カ・・・カイン!どうして・・・ここに!?」
 
「どうしてって・・・。」
 
 カインは一瞬ぽかんとしたが、すぐに怒った顔になって怒鳴った。
 
「お前が帰ってくるのを待ってたんだよ!お前の休暇中、俺はめちゃくちゃ忙しかったんだからな!今日からバリバリ仕事をしてもらうぞ!」
 
 そのとき、最初に私に声をかけた若い剣士が、今度はカインに向かって声をかけた。
 
「剣士団長、どうも副団長はお疲れのようなのですが・・・。先ほどからぼんやりして、よくわからないことを言ったりして・・・。」
 
 剣士・・・団長・・・・?カインが・・・?しかも私が・・・副団長・・・。いったい何の冗談なんだ!?何がどうなってるんだ?
 
「なんだよ、お前まだ副団長って呼ばれるのに慣れてないのか?いいかげん慣れてくれよ。俺達がこの役目を拝命してからもう2年になるんだぞ。ま、お前らしいと言えばそうなんだけどな・・・。あれ?ウィロー、今日はカインはどうしたんだ?」
 
 妻が抱いているのはリゼルだけだ。カインが不思議そうに尋ねる。
 
「連れてくるわけだったんだけど、眠っちゃったから教会のシスターにちょっとの間見ててくれるように頼んできたの。だからあんまり長い時間いられないのよ。」
 
「そうか。はぁ〜・・・しかし・・・おいクロービス、なんだってお前、自分の息子の名前に俺と同じ名前なんて付けたんだよ?カインて呼ぶたびに自分を呼んでるみたいで、どうにも調子が狂うんだよなあ。」
 
「まあまあいいじゃないか。お前みたいに、腕の立つ王国剣士になってほしいってことなんじゃないか?」
 
 オシニスさんがからかうような笑みをカインに向ける。『だから団長に向かってお前ってのは・・・』とライザーさんがたしなめ、『いいですよ。オシニスさんに敬語なんて使われたりしたらかえって恐いですからね。』とカインが笑って答えている。これが今の私の日常なのだ。でもそう思う頭の奥でまた『違う』と声がする。
 
「腕が立つってことなら、オシニスさんとかライザーさんの名前をもらえば良かったんですよ。まあ一番いいのはパーシバルさんかな。なんと言ってもエルバールの武神だからな。」
 
「今頃になってそんなこと言っても、もう遅いぞ。カインが生まれてからもう・・・半年くらいか?」
 
「そうですね。最近は動きも活発になってきましたから、目が離せませんよ。」
 
 笑顔で答える。王国剣士として、私はこの町で暮らし、妻とかわいい子供が二人いて、カインと二人、史上最年少の剣士団長と副団長として剣士団の運営にあたっている。父は今も元気で、念願の研究を完成させ、王国の救世主として医学博士の称号を贈られている。
 
「おいクロービス、お前本当に大丈夫なのか?無理しなくていいんだぞ?」
 
 カインが心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
 
「そうだな。無理しないでゆっくり休めよ。あと一日くらいカインに任せておけ。」
 
 オシニスさんが笑った。
 
「ちぇっ・・・まあいいですよ。疲れがたまってぶっ倒れられたりしたら、それこそえらいことになりますからね。それよりオシニスさん、未来の奥方ユノさんが来ましたよ。」
 
(・・・え・・・?)
 
 カインが振り向いた方角を見ると、ユノがやってくるところだった。花を見つめるときと同じ優しい笑顔はなんとオシニスさんに向けられている。
 
(あれ・・・?この二人のことはずっと前から知ってるじゃないか・・・。)
 
 剣士団が王宮を奪い返したとき、王国軍が最後の悪あがきでフロリア様を殺そうとしたのだが、フロリア様を守って必死で戦っていたユノにオシニスさんが加勢したことで、二人は急速に親しくなった。
 
(今初めて知ったわけでもないのに・・・、何で一瞬でもユノの笑顔に驚くなんて・・・。)
 
 本当に今日はどうかしているのかも知れない。
 
「オシニス、今日は買い物につきあってくれるんだろうな。」
 
 ユノはいたずらっぽい微笑みをオシニスさんに向けた。
 
(話し言葉は変わらないなあ・・・。)
 
 いつと・・・?いや、ユノはもうずっと前からフロリア様の護衛剣士だ。私もしょっちゅう話をしている。・・・何でこんなことを考えたんだろう・・・。まるでユノに会ったのが久しぶりみたいな・・・・。
 
「夕方でいいのか?」
 
「ああ、今日こそはちゃんと店の中まで入ってもらうぞ。」
 
「ああいうしゃれた店ってのは苦手なんだよ。外で待ってるってのは・・・。」
 
「だめだ。」
 
 むっとした顔でユノが答える。
 
「わかったよ。はぁ・・・覆面でもしていくかな。」
 
「夕暮れ時に覆面か。怪しい者でございと看板を出して歩くつもりか?」
 
「ちぇっ・・・仕方ないなぁ・・・。わかったよ。」
 
 オシニスさんは観念したようにため息をついた。
 
「ライザー、そう言うわけだから、夕方少しオシニスを借りるぞ。」
 
 ライザーさんは楽しそうに笑って、
 
「何なら一晩中でも貸すよ。」
 
そう言った。その言葉にユノの頬が赤く染まる。
 
「おいライザー、妙なことを言うな。」
 
 オシニスさんも少し赤くなっている。この人が赤くなるなんて初めて見た。いや・・・ちがう、ユノとオシニスさんの仲は王宮中の誰もが知っていて、二人ともからかわれるたびに赤くなって・・・。
 
「・・・・・・・。」
 
 当たり前のことだと思っていたことが、なぜか今日は奇妙に感じられる。どうやら真剣に疲労がたまっているらしい。でなければこんなことを考えるはずがない。
 
−−違う−−
 
(・・・・・・・。)
 
 まただ。さっきから奇妙な声が頭の奥で響いている。
 
「おいクロービス、ぼけっとしてないで、今日はもうウィローと一緒に帰れよ。予定通り明日からでいいよ。今日一日くらい俺が何とかしておくさ。」
 
 カインが私の肩を叩いた。いつもとおなじ温かい手で・・・。
 
(いつものこと・・・だよな・・・。)
 
 カインが私の肩を叩くなんていつものことだ。それなのに、カインの手の温かさがなんだか妙にうれしく感じられる。
 
「あ、ああ・・・それじゃ・・・。」
 
「もうかえるの?」
 
 私達のやりとりを少しつまらなそうに見ていたリゼルが、不安げに妻を見た。
 
「そうねぇ。父さんも忙しいし、早く帰ってカインと遊んであげようね。」
 
「うん・・・。とうたんは・・・?」
 
 娘の瞳は、『一緒に帰ろうよ』と訴えている。
 
「リゼル、今日は父さんを連れて帰っていいぞ。疲れているみたいだけど、お前と遊べばすぐに元気になるさ。」
 
 カインがリゼルの頭を撫でながら言った。
 
「ほんと!?やったぁ!カインおじちゃん、ありがとう!」
 
「だからそのおじちゃんてのは・・・。」
 
 カインは言いかけてため息をつき、『仕方ないか』というように肩をすくめてみせた。
 
「カイン、ごめん。」
 
「気にするなよ。さっきも言ったろう?今無理されてお前に倒れられたりしたら、俺はもっと大変な目に遭うんだ。ほらほら、早く帰れよ。」
 
「ありがとう。さあリゼル、一緒に帰ろう。帰ったら、一緒に遊ぼうね。」
 
「うん!それじゃおままごと!」
 
 ぱっと目を輝かせた娘を妻から受け取り、その頬にキスをした。
 
「それじゃ、カイン、みなさん、すみません。ちゃんと休ませて明日は来れるようにしますから。」
 
 妻がカイン達に頭を下げた。
 
「あー!リゼルばっかりずるいのぉ!」
 
 やはり父親と遊びたがってひとしきり駄々をこねていたイルサが、帰ろうとする私に気づき怒りだした。
 
「父さんは帰れないのよ。ほら早く行きましょう。」
 
 イノージェンは必死でなだめにかかっている。
 
「イルサ、ライラ、今日はかわりにおじさんが遊んであげるよ。一緒に帰ろう。」
 
 私の声にイルサとライラはパッと目を輝かせた。
 
「ほんと!?きたのしまのおはなししてくれる?」
 
 この二人は、なぜか私の故郷の話がお気に入りだ。里帰りから戻ってきたばかりなので、きっと楽しい話をしてやれる。
 
「こ、こら!それじゃクロービスがちっとも休めないよ。」
 
 ライザーさんが慌てる。
 
「いいですよ。子供達の相手をしていれば、調子も出てくるでしょう。」
 
「クロービス、すまないね。」
 
「さあ、みんなで帰ろうか。」
 
 カイン達に背を向け、玄関に向かった。なぜか玄関はまぶしいほどに明るく、いつもは見えるはずの外の景色が何も見えない。得体の知れない不安に駆られて立ち止まった。なのに妻もイノージェンも、どんどん歩いていく。
 
「ウィロー、待って!」
 
 妻は振り向かない。追いかけたいのに足が動かない。私が抱いていたはずのリゼルが、いつの間にか妻の腕に抱かれ、笑顔で私に手を振っている。その姿が玄関の白い光に包まれ、少しずつぼやけて消えていく・・・。
 
「ウィロー!リゼル!」
 
−−違う−−
 
 また声が響いた。恐怖が背中を駆け抜ける。その時突然、背後で聞こえていたはずのみんなの声が消えた。振り向いた私の前に広がっていたのは・・・白い・・・どこまでも白い闇・・・。ロビーにいたはずのカインの姿も、オシニスさんもライザーさんも、私に声をかけた若い剣士も誰も・・誰もいない・・・。
 
「・・・カイン・・・・!?」
 
 答えはない。
 
 −−違う−−
 
「オシニスさん!ライザーさん!ユノ!」
 
 今までいたはずの王宮のロビーももうない。何もかもが白い闇の中に取り込まれ、消えてしまった。頭の中で響く『違う』という声ばかりがどんどん大きくなっていく。
 
 −−違う−−
 
 −−違う−−
 
 −−お前の居場所はここじゃない−−
 
 声は割れ鐘のように響いて頭の中を埋め尽くし、何もかもが消え去った真っ白な闇の中を、私はどこまでも落ちていった・・・・。
 
 

第51章へ続く

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