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第51章 シャロンの秘密

 
「・・・・・・・・・!?」
 
 白い闇に飲み込まれそうな恐怖に、思わず目を開けた。ここは・・・そうだ、ここは『我が故郷亭』の部屋だ。私は妻と二人で故郷を出て、今日の夕方ローランの西の港について、宿屋で眠りについたところだ。そしてこれが、本当の私の居場所・・・。
 
「夢・・・だよな・・・。ははは・・・あんなことが起こるはずないか・・・。」
 
 なのに胸が痛む。
 
『とうたん・・・・』
 
 妻によく似たかわいらしい女の子は、夢の中で確かに私の娘だった。あれは・・・・もしも妻が流産しなければ生まれていた子供・・・?そしてあの世界は・・・もしも・・・もしもカインが死ななかったら、私が彼を救うことが出来ていればかなえられたであろう未来の・・・。
 
「何で・・・こんな夢・・・。今頃になって・・・。」
 
 涙が一筋頬を伝った。せっかく過去との決着をつけるために城下町までやってきたというのに、私は心の奥底で、未だにどうにもならないことをぐだぐだと考えていたのだろうか。もしもこうしていたら、あのときこうなっていれば、人は誰しも過ぎ去った自分の人生にこんな思いを抱いているものだ。ほんのちょっと選択肢を変えるだけで、それは叶えられたかも知れない。でも・・・『かも知れない』なんて何百回考えてみたところで、何一つ今を変えることなんて出来やしないのだ。つらい記憶から目を背けて生きてきた私でさえ、そのくらいのことはわかっているつもりだ。なのに今さらどうして・・・。
 
(・・・・・?)
 
 あまりにも鮮明に脳裏に残る夢を思い出しているうちに、妙なことに気づいた。あのかわいらしい私の『娘』の名前を、聞いたのは初めてのはずだ。夢の中でも、もちろん現実でも聞いたことは一度もないはずなのに、なぜ私は知っていたんだろう。もしも娘がいたら、などという話は妻と何度か話したことがあるが、もうずっと昔のことだ。でも名前まで考えたことなんて一度もない。そして息子が産まれた時に頭の中に浮かんだ名前は『カイン』だけだ。妙なことはまだある。どうしてユノとオシニスさんが仲良くなっていたんだろう。あの二人が一緒にいるところを見たのは、私達の訓練の時、ユノがオシニスさんに話しかけた、あの時一度きりだ。剣士団が王宮から撤収した後、オシニスさんは仲間としてユノを気遣ってはいたが、彼の心にはもうずっと昔からフロリア様が住み続けている。そしてユノも・・・オシニスさんとライザーさんの話を一度くらいは彼女から聞いたことがあるかもしれないが、ほとんど思い出せない。つまりたとえ夢の中ででも、あの二人が仲良く、しかもまるで恋人同士のように振る舞っているところなんて、私には想像のしようがないはずなのだ。もしやこの夢は・・・。
 
(・・・多分・・・そうなんだろうな・・・。)
 
 『もしかして』が確信に変わったとき、私はベッドの上に起きあがった。隣のベッドでは妻が先に起きあがっていて、こわばった顔で私を見ていた。
 
「やっぱり君だったのか・・・。」
 
「・・・あなたを巻き込んじゃったみたいね・・・。」
 
 やはりあの夢は妻が見た夢だったのか。私は妻の夢の中に迷い込んでいたらしい。妻の見ている夢を見たことは何度もあるが、あんな風に、夢の中の登場人物の一人になってしまうことなど珍しい。だからさっき目が覚めたとき、自分が見た夢だと思いこんでいた。
 
「こんなに近くにいるんだから、同じ夢を見てもおかしくないよ。」
 
 私はベッドから降りて、妻のベッドの隅に腰掛けた。
 
「そうよね・・・。今になって・・・あんな夢見るなんて思わなかったわ・・・。」
 
「今までは見たことがなかったの?」
 
 妻は私に上半身を預けて小さくうなずいた。
 
「かわいい女の子だったな・・・。君に似てたね。」
 
「そう?私はあなたに似てると思ってたわ。」
 
「そうかなぁ・・・。でも性格はきっと君だよ。」
 
「ふふふ・・・そう・・・かもしれない・・わね・・・。」
 
 妻が私にしがみつき、私は妻をぎゅっと抱きしめた。そのまま妻は私の胸に顔を埋めて、少しの間声を立てずに泣いていた。
 
「もしも女の子だったら、リゼルって名付けたかったんだね。」
 
 だから夢の中で私は、女の子の名前をすんなりと呼んだのだ。私が知っているはずのない、娘の名前を。
 
「・・・最初にお腹の中に赤ちゃんがいるってわかった時、女の子の名前ばかり浮かんだの。そして『リゼル』って言う名前がとても気に入ったから、だから、もしも女の子だったら私に名前をつけさせてって、あなたにお願いするつもりだったのよ。」
 
 でも結局その話をする機会は巡ってこないまま、赤ん坊はいなくなってしまった。だから妻はそのことを、誰にも話せなくなってしまったんだろう。島に来てから一番仲良くなったのはイノージェンだが、このことに限っては絶対に言えなかっただろうし、もちろん私にも・・・・。子供が男の子だったのか女の子だったのか、あの時処置をしてくれたサンドラさんも『こんなに小さいんだからまだわからないよ』と言っていた。
 
「でも不思議だわ・・・。あれからもう19年も過ぎているのに、どうして今ごろこんな夢見たのかしらね・・・。」
 
「でも君がこの夢を見てくれたおかげで、私達の娘の名前がわかって良かったよ。」
 
「でもあなたにもつらい記憶だわ。」
 
「君のほうが私の何倍もつらいと思うよ。私のことなんて気にしなくていいから、そんなに一人で抱え込まないで何でも話してほしいんだ。ユノのことだって・・・あんな風になればいいなって思ってたの?」
 
「そうね・・・・。ユノさんとは・・・あんな出会い方をしなかったらお友達になれていたかもしれないって、思ってたけど・・・。でもユノさんの相手がオシニスさんだなんて、自分でも驚いたわ。何であんな展開になっていたのかしら。」
 
 妻が小さな声で笑った。
 
「考えたことはなかったの?」
 
「う〜〜ん・・・そうねぇ・・・オシニスさんにも誰か身近にいてくれたらって思ったことはあるけど・・・。」
 
「そうか・・・。その誰かのイメージが、夢の中でユノと結びついちゃったのかな。」
 
「そうねぇ・・・。そうかも知れないわ。ねえ、あなたは・・・夢の中で私と話してたの?」
 
「そうだよ。ロビーに立っていたら、なぜか『副団長』って呼ばれて、わけがわからないうちに君は出てくるしカインは出てくるし、いつの間にか夢の中の世界に取り込まれていたよ。」
 
「ふぅん・・・不思議ねぇ。あなたが見る夢って、いつも誰かの夢を外から見ているような夢じゃない?」
 
「うん・・・実をいうと、すごく不思議なんだ。誰かの夢の中に取り込まれてしまうなんて初めてだよ。やっぱり君とは波長が合うってことなのかなあ・・・。」
 
「ふふふ・・・そうかも知れないわ。」
 
 妻に笑顔が戻ってホッとしたが、それにしても今回の夢は、私にとってはいろんな意味で衝撃的だった。誰かの夢に取り込まれるなんて初めてのことだったし、何より、妻が私達の初めての子供に付けたかった名前のことさえ、私は何も知らなかった。もう20年以上も一緒にいるというのに・・・。もしかしたら、一緒にいるからこそ言えないことが少しずつ増えていくのかも知れない。妻が王国に来るのを渋った理由もその一つなんだと思う。いつもそばにいて、手を伸ばせばその温もりに触れることが出来るというのに、なぜだか少しずつ妻との距離が開いていくような気がする。そんなことを考えてはいけないと思うのに、王国行きを決めた時からどうしてだか二人の間に溝が出来つつあるように思えてならない。なんだか不安になって、私は妻をもう一度思いきり抱きしめた。いくらしっかりと抱きしめてみても、いつの間にか妻の体がするりと抜けていってしまいそうな気がする。
 
「・・・どうしたの・・・?苦しいわ。」
 
「ごめん・・・。」
 
 でも腕の力を緩められない。少しでも力を緩めたら妻が消えてしまいそうで・・・恐い・・・。なぜこんなことを考えるのかわからない。つらい夢のせいで弱気になっているのだろうか。
 
「ねえクロービス。」
 
「ん?」
 
「もう一人くらい子供がほしいって言ったら怒る?」
 
「は?」
 
 あまりにも思いがけない言葉に、思わず私は間抜けな返事をしてしまった。
 
「ふう・・・やっぱり無理よねぇ。歳も歳だし・・・。」
 
 妻があきらめたようなため息をついた。
 
「いや、その・・・別に無理とは言い切れないけど・・・どうかなあ・・・。今まで出来なかったんだから・・・。」
 
 カインが生まれたあと、もう一人か二人は子供がほしいねと話していた。でも今に至るまで出来なかったんだから、歳をとる一方のこれからについては、今までよりも格段に可能性は低くなるような気がする。
 
「そうよねぇ・・・。でももしも出来たら・・・産んでいい?」
 
「当たり前じゃないか。子供が増えるのはいつだって大歓迎だよ。それじゃ、可能性がゼロにならないうちは体力をつけておかなきゃならないなぁ。カインみたいなちょこまかした子供だったら、追いかけるだけで大変だよ。出来るならおとなしい女の子がいいなと思うけど、こればっかりはわからないからね。」
 
「女の子だからおとなしいなんて、思わないことね。」
 
 妻が私を見上げてにっと笑った。そう言えば妻は相当なおてんばだったと聞いている。それに島の子供達だって、女の子はたくさんいるがおとなしい子は一人もいない。アローラと言いイルサと言い、それにシンスの妹のマリアとクリスだって、十分おてんばだし、その上口も達者だ。グレイはいつもやりこめられっぱなしだし、アメリアとはかなり本気でけんかしているところを見たことが何度もある。アメリアに言わせると女の子は、相手が子供とわかっていても本気で腹が立つほど、大人びた言い方をするのだそうだ。
 
「つまり・・・ちょこまかしている上に、口まで達者な子供が出来る可能性もあるわけか。」
 
「女の子なんてみんなそうよ。」
 
 確かに・・・夢の中の娘は相当口が達者そうだったし、カインにひったくられた弁当を取り戻そうと暴れ出したところを考えても、とてもおとなしくはなさそうだ。
 
(夢の中のことを基準にしても仕方ないんだけどな・・・。)
 
 とは言え、これが自分の見た夢ならともかく、妻の見た夢となるとかなり現実に近いような気がしてくる。
 
「ふふふ・・・今急にいろいろ考えても仕方ないわよ。まずは明日に備えてもう一眠りしたいわ。」
 
「それもそうだね。今はとにかく、明日からの祭り見物に備えて体を休ませないとね。」
 
 外はまだ暗い。もう一眠りしても寝過ごすことはなさそうだ。
 
「そうだね。・・・もう夢は見ないといいね・・・。」
 
「そうね・・・。楽しい部分を見られるならいいけど、さっきの続きはいやだわ。」
 
「・・・どこで終わったの?」
 
「あなたと一緒に帰ろうとしたらね、あなたが抱いていたはずの女の子がいつの間にか私の腕の中にいるのよ。そして私の後ろに向かって手を振ってるの。でも振り向くと誰もいなくて、あなたを呼んでも返事がなくて、前を向いたらそこにもなにもなくて、いつの間にか一人になってたわ・・・。びっくりして飛び起きたんだけど・・・。あなたは?」
 
「私も似たようなものだったな・・・。外の景色が見えないのに、君はどんどん歩いていくし、抱いていたはずのリゼルはいつの間にか君が抱いてるし、ロビーにいたみんなも消えてしまって・・・いつの間にか真っ白いところに一人でいたよ。どうせなら、君と一緒に家に帰って、子供達と遊ぶところまで続いてくれたらよかったのにな。」
 
「夢なんてそんなものよ。でも・・・」
 
 妻が私の背中に両腕を回してぎゅーっと抱きしめた。
 
「同じ夢を見られるって言うのは、悪いことじゃないわね。一人だったらきっととても悲しかったけど、あなたと一緒だと、何でだかホッとするわ。」
 
 それは私も同じ気持ちだった。
 
「それじゃ、どうせ見るなら楽しい部分だけ見られるよう祈ろうか。お休み。」
 
「ふふふ・・・だといいわね。お休みなさい。」
 
 もしも夢の続きを見るのなら、楽しいところから続いていきますように・・・。あんな真っ白い空間に置いてきぼりにされた続きなんて、見たくもない。
 
 
 
 
 
 
 朝、思ったより目覚めは爽快だった。一番東側の部屋だったので、朝日がカーテンの隙間から差し込んでくる。祈りが聞き届けられたのか、それとも無視されたのか、あのあと夢は見なかった。妻に聞いたが、妻もやはり何の夢も見なかったようだ。
 
「さすがに楽しい部分だけってわけにはいかないからかも知れないわね。」
 
 妻は笑っている。寂しげには見えない。取り繕っているのでもなさそうだ。少し安心した。
 
「それじゃ、気持ちを切り替えて祭り見物に出掛けようか。」
 
「王宮には行かないの?」
 
「出来れば今日一日は祭りを見物したいな・・・。あとはセディンさんの店とか、住宅地区の教会にも寄りたいしね。」
 
「神父様お元気だといいわね。」
 
「そうだね・・・。もしかしたら、ライザーさんの消息を聞けるかも知れないよ。」
 
「そう言えばそうよね。ライザーさんがあそこに寄らないはずはないし・・・。」
 
 何か思うところがあってこの街にやってきたのなら、いずれは寄るかも知れないけれど、今はまだ顔を見せていないかも知れない。でもどうせ私も、あの教会には挨拶をしなければならない身だ。さんざん世話になっておきながら、20年ものあいだ手紙の一通も書かなかったのだから。
 
「だと思うんだ。問題はどこから廻るかってことなんだけど、ここから一番近いところって言うと、やっぱりセディンさんの店かな。」
 
「こんな早い時間に開いてるかしらねぇ。」
 
「昔ならとっくに開いてた時間だよ。それじゃ、食事は下で食べようか。行こう。」
 
 私達は階下に降りていった。昨夜の喧噪が嘘のような静けさで、いや、実際にはこれから祭り見物に繰り出すらしい客が、たくさん食事をしていたのでそれなりに賑やかだったのだが、昨夜の大騒ぎからすると、実に静かに思えるから不思議だ。
 
「おはようございます。」
 
 フロアに出ると明るい女性の声が出迎えてくれた。カウンターには、ラドではなく私達と同じくらいの歳の女性が立っている。この店のおかみさんか・・・ということはラドの奥さんと言うことになる。昨夜ラドがフロアに出たあとは、老マスターが厨房からいそいそと出てきてずっと私達としゃべりっぱなしだったので、奥さんに会うのは今朝が初めてだった。
 
「おはようございます。ラドは・・・マスターはお休みなんですか?」
 
「ええ、朝は交代で出るんです。その分私達は夜早めにあがるんですよ。」
 
「そうですか・・・。朝食をお願いしたいんだけど、大丈夫ですか?混んでいるようだから時間はかかってもかまいませんが。」
 
「はい、大丈夫ですわ。すぐにご用意しますね。」
 
 そのあとおかみさんは、コーヒーがいいか紅茶がいいかや、卵の焼き加減などを聞いて、厨房に向かってオーダーを叫んでいた。私達はまたカウンターに座った。フロアは混んでいて、空いているテーブルと言えば6人掛けの大きなものしかなかったからだ。それを二人で占領するのは気が引けたし、知らない人と相席になるのは、避けられるものなら避けたかった。
 
「お客さん、クロービスさんよね。」
 
 おかみさんが不意に話しかけてきた。
 
「は、はい・・・そうですけど・・・。」
 
「私のことは覚えてないみたいね。」
 
「え・・・・?あ、あの・・・どこでお会いしてますか?すみません、全然覚えてなくて・・・。」
 
「ふふふ・・・。仕方ないわ。20年も前に一度会ったきりですものね。それに私、あの時は気が動転して、大泣きしちゃったから・・・。」
 
「・・・・・・・。」
 
 気が動転・・・大泣き・・・。
 
「あ!あなたもしかして・・・。」
 
 先に気づいたのは妻のほうだった。
 
「君も知ってるの?」
 
「ミーファさん・・・じゃない?カインの家の隣に住んでいた・・・ねえ、そうよね?」
 
「はい。ご無沙汰しています。」
 
 ミーファ・・・・カインの幼なじみだ。昔、私達はカインの死を、彼が世話になったとよく言っていた家に伝えに行った。そこは貧民街の入り口に近い通りで、カインがよく聞かせてくれたのと同じ風景だった。私達が訪ねたとき、その家のおかみさんであるらしいレイラさんという人と、私達と同い歳くらいと思われるよく似た顔立ちの女の子が二人いた。みんなカインの死を嘆き悲しんでいたが、ミーファと呼ばれていた女の子は気を失いそうなほどに青ざめ、そして号泣していた。おそらく彼女はカインに思いを寄せていたのだろうと、鈍感男と言われていた私でさえわかったほどだ。
 
「あの時の・・・君がラドの奥さんだったのか・・・。」
 
「ええ。そうよ。ふふふ・・・驚かせちゃったみたいね。」
 
「それじゃ、あのあと・・・?」
 
「う〜ん・・・確かに結婚したのはあのあとだけど、実はね、あなた達が来るずっと前から何度かこの店には来ていたの。カインはもうあの街には帰ってこないかもしれないから、せめて彼がいた場所で、どんなことをして何を考えていたのか、それだけでも知りたくて。そのときにラドと知り合ったのよ。ずいぶんしつこくカインのことばかり聞いてたんだけど、ラドもマスターも全然迷惑がらずに話をしてくれて、私の話も聞いてくれて・・・。でもきっかけはやっぱりあなた達が来てくれたことかしらね。カインは私をきっぱりと拒否して、そして自分の目的のために生きて、死んでいったわ。もちろん死にたくなんてなかっただろうけど・・・でも何となく、カインはそれで本望だったんじゃないかって思えるようになったのよ。そう思ったらなんだかいろいろと踏ん切りがついちゃって、やっとまわりを見渡せる余裕が出来たところに、いてくれたのがラドだったってわけ。あらやだ、なんだかのろけてるみたいねぇ。」
 
 ミーファは頬を染めて、肩をすくめてみせた。
 
(『みたい』じゃなくて充分のろけてるよなぁ・・・。)
 
 でも安心した。ミーファの瞳は生き生きとしていて、充実した人生を送っていることがよくわかる。ミーファの心の中では、カインのことはすでに決着がついているらしい。だからラドとの結婚生活も、この宿屋での暮らしも、きっと彼女にとってはすべてが幸せな毎日なんだろう。
 
「そういうわけで、今の私はこの店のおかみよ。だから、ラドと話す時みたいに普通に話して。もちろんカインのこともね。彼のことは誰にとってもつらい出来事だったけど、今もこうして毎日元気に暮らしている私達の再会まで、暗く悲しいものにしたくはないわ。」
 
「そうだね。では改めて、久しぶり、ミーファ。」
 
「ええ、本当にね。お祭り見物は初めてなの?」
 
「うん。ずっと田舎に引きこもってたから、そろそろ出てきてもいいかと思ってね。」
 
「それじゃ、えーと・・・ウィローさんよね、ウィローさんも楽しみなんでしょう?」
 
 ミーファは妻に視線を移して微笑んだ。
 
「ええ、すごく楽しみよ。街の外にまで芝居小屋や屋台が出ていたから、街の中はどんな風になってるのかしらね。」
 
「そうねぇ・・・。大規模な見せ物小屋は、今じゃみんな街の外よ。中にあるのは土産物屋さんとか食べ物を出してくれる屋台とか、あとは・・・比較的規模の小さい占い小屋なんかは結構あるわよ。みんな商業地区の中心にある広場に集まっているわ。道路は一応通行のために店は出せないことになってるけど、こんなに人が多くちゃ店がなくたってあんまり意味がないけどね。」
 
「そうか・・・。住宅地区のほうは、何もないんだよね?」
 
 昨日の夕方通ったときは、仮装行列のような団体はたくさんいたが、店らしきものは見あたらなかった。
 
「ないわ。さすがにあっちにまで拡大したら、収拾がつかなくなるからじゃない?」
 
「それもそうか。となると、ここからまっすぐ広場に向かって、店屋はみておいた方が良さそうだね。」
 
「買い物をするなら昼間のほうがいいわ。お店もそのほうがありがたいと思うわよ。夜なんてね、人混みに紛れて黙って品物を持って行っちゃう人達が大分いるらしいわ。」
 
「それはひどいなぁ。でも暗いし人混みだしでは、王国剣士にもどうしようもないのかも知れないね。」
 
「そうねぇ。団長さんが大分がんばってるから、昔よりはずいぶんましになったみたいだけどね。」
 
 そこに厨房から、かわいらしい女の子が二人分の朝食を載せたトレイを運んできた。
 
「おまちどうさま、『我が故郷亭』特製の朝食でございます。」
 
 女の子は私達の前にトレイを置いたときは笑顔だったが、ミーファに振り向いたときにはふくれっ面になっていた。
 
「かあさぁん・・・話長いよぉ。」
 
「あらごめんなさい。でもいいじゃない。あんたがちゃんと作ってくれたんだから。」
 
「ふぅ・・・そりゃそうだけどぉ・・・。ちょっと自信ないなぁ・・・。」
 
 女の子はラドとミーファの娘らしい。盛りつけられた食事はとてもおいしそうで、老マスターの腕はしっかりこの娘に引き継がれていると思えるのだが・・・。
 
「はいはい、とにかく、お客様にご挨拶なさい。」
 
「あ、は、はい。えーと・・・いらっしゃいませ。」
 
「えーとはいらない!」
 
 厳しいミーファの注意が飛ぶ。
 
「あ、あの、この店の娘のロージーです・・・。えーと・・・。」
 
「だからえーとじゃないでしょ?きちんと挨拶くらい出来なくてどうするの?」
 
「あーもう!うるさいなぁ。母さんは黙っててよ。横からごちゃごちゃ言われるとよけいに出てこなくなっちゃうわ。」
 
 二人のやりとりを聞いていて、食べる手が思わず止まってしまった。妻も私も笑いをこらえきれなくなってきて、吹き出しそうになってしまったのだ。
 
「ほらお客様が笑ってるわよ。私達はお客様を笑わせるのが仕事じゃないのよ。お客様には笑顔でご挨拶が基本なの。」
 
 女の子がおとなしいという認識を、ますます改めなければならないようだ。ロージーはあわててくるりと私達に向き直った。もう笑顔になっている。この切替の速さはなかなかのものだ。一つ深呼吸して、今度はちゃんと挨拶してくれた。
 
「いらっしゃいませ。この宿屋の娘のロージーです。今朝の食事は私が作ったので、もしもまずかったら、はっきりおっしゃってくださいね。まだ勉強中なので自信がないんです。よろしくお願いします。」
 
 ロージーはぺこりと頭を下げて、顔を上げたときには大きなため息をついていた。
 
「はぁ・・・母さん、ちゃんと言えたよね?」
 
「言えたけど、その言葉は裏に行ってから小声で言うべきね。」
 
 ミーファの指導はかなり厳しいようだ。
 
「はぁい・・・。あ、あの、それじゃごゆっくりどうぞ。」
 
 ロージーは私達に向かってまた頭を下げ、そそくさと厨房に戻っていった。
 
「ごめんなさいね。見苦しいところを見せてしまって。」
 
「ロージーか。かわいい子だね。いくつなの?」
 
「今16歳よ。昨日フロアでウェイターをやっていたノルティと、ラドから聞いたと思うけど、王国剣士を目指して勉強中の一番下の息子の間なの。上も下も男の子だからおてんばになっちゃってねぇ。いずれこの店を継ぎたいって言うからいろいろ教えてるけど、どうなるもんだか。」
 
「女の子ばかりの姉妹だって、おてんばになるときはなるものよ。」
 
 妻は微笑んでロージーの去った厨房を見つめている。
 
「そうなのかしら。はぁ〜・・・ため息をつきたいのはこっちのほうよ。あ、あのね、食事、食べてみてくれる?なんだかあなた達を実験台にしたみたいに聞こえたかもしれないけど、そういうわけじゃないのよ。一週間ほど前から朝の食事はほとんどロージーが作ってるの。いつもは私も手伝うんだけど、今日はたまたま一人で作っただけよ。だからまずくはないと思うけど、義父の代から比べて味が落ちた、なんて言われたらお客さんが来なくなっちゃうから、ぜひ厳しい評価をお願いしたいわ。」
 
「わかったよ。それじゃいただきます。」
 
 メニュー自体はそれほど目新しいわけではない。トーストとスクランブルエッグ、フルーツとサラダ、それに注文の時に聞かれたミルク。妻のほうはオレンジジュースだ。サラダのドレッシングはかなりうまいと思った。だがパンはいささか火を通しすぎで、ほんの少しかたくなっている。このあたりは好みの問題で、かたいほうが好きだという人もいるが・・・私の場合は外はカリカリ中はふんわりが好きなので、ちょっと食べづらかった。その点においてローランの『潮騒亭』の朝食はかなり優れていると言える。よその宿屋のまねをしてもいいことはないかもしれないが、見習うべき点は多々あるのではないだろうか。とは言え、そこまで言うのはさすがに失礼と言うものだ。まずは食事に対する正直な感想を伝えて、『潮騒亭』の話はローランで人気のある店の情報として、さりげなく言うにとどめておいた。妻のほうも私と似たような感想だったようで、卵の焼き加減は好みにぴったりだったしドレッシングもうまいのだが、パンの焼き加減にはもう少し気を配ったほうがいいのではないかと言っていた。
 
「・・・ふむふむ・・・・なるほどね・・・。」
 
 ミーファは私達の言葉をこまごまとメモしながら聞いていた。
 
「言いたい放題して申し訳ないけど、正直な感想だよ。役に立ったかな。」
 
「ありがとう。すごく参考になったわ。やっぱり義父の域まではなかなかいけないわねぇ。もっとも、その前にラドを抜いてもらわなきゃならないんだけど。」
 
「ラドはずっとマスターの仕事を見て育ったみたいだから、なかなか抜けないだろうなあ。」
 
「ふふ・・・そうよねぇ。でもこの宿屋の灯は消したくないもの。がんばってもらわないとね。『潮騒亭』の食事については、ぜひ参考にさせていただくわ。ローランには行ったことがあるけど、そこまで詳しく歩き回ったわけではないから、いい情報を教えてくれてありがとう。」
 
「そう言ってもらえるとうれしいな。この店にはぜひがんばってもらわないと、城下町に来たときの楽しみが減っちゃうからね。」
 
「うれしいこと言ってくれるわね。本当にありがとう。これからすぐ出掛けるの?」
 
「そうするよ。お昼はここで食べられるの?」
 
「大丈夫よ。でもちょうどお昼の時間帯だと混んでるかもしれないわ。そのときはお部屋に運んであげるから、遠慮なく言ってね。」
 
「うん、ありがとう。それじゃ出掛けてくるから。」
 
「いってらっしゃいませ。」
 
 
 『我が故郷亭』の扉を開けて外に出た。空はよく晴れていて、さわやかな朝だ。だがこんな朝早くだというのに、通りにはたくさんの人が歩いている。みんな商業地区の真ん中にある広場に向かっているらしい。
 
「考えることは同じねぇ。私達も急がないと、人混みに流されて一日終わっちゃうわ。」
 
 私達は人の流れに乗って商業地区中央部にある広場へと向かった。さすがにこの時間ではそんなに混んでいなかったが、もうしばらくすれば歩くのも大変なほどになるに違いない。
 
「うわぁ・・・すごい店の数ねぇ・・・・。」
 
 妻は広場の入り口に立ち、驚いた声を上げた。
 
「さ、片っ端から見て回るわよ!」
 
 半ば妻に引っ張られるようにして、私達は人混みの中に入っていった。並んだ店の店頭には、珍しい色とりどりの髪飾りや服が並べられ、売り子が大声で、いかに自分の店がいいものを売っているかを叫んでいる。中にはなんと武器屋まであった。
 
「珍しいね、祭りに武器を売るなんて。」
 
 私の声を聞きつけた店主が媚びるような笑みを浮かべてしゃべり出した。
 
「へっへっへ、旦那、祭りだからこそですぜ。スリやかっぱらいなんてまだいいほうでさぁ。いきなりのど元に刃物を突きつけられて『金を出せ』なんて言われることもあるくらいですからね。護身用にダガーの一つも持っていないと、おちおち祭り見物も出来やしませんよ。」
 
「なるほどね。確かに人混みで長剣は振り回せないから、ダガーくらいならいいかもしれないな。」
 
「そうでしょうそうでしょうとも。おひとついかがです?」
 
「残念だけどダガーは持ってるからね。」
 
「おやおや、そりゃ残念でございますな。それではまたのお越しを。」
 
 店主はぺこりと頭を下げ、さっさと別な客に交渉を始めた。つまり買う気がないなら早く立ち去れと言うことらしい。店先から離れて、また別の店の軒先をのぞいた。ここにはなんだか妙なものが売られている。小さな人形・・・きらきら光るネックレスやイヤリングや・・・隅のほうにはランプやカードもある。ただのアクセサリー店にしては、ちょっと変わった品揃えだ。
 
「さあさあ見ていってくださいな。これは南方の神秘の島から見つかったという幸運を呼ぶ宝石を使ったアクセサリーでございます!これらのアクセサリーを身につければあら不思議、想う相手と幸せな人生が送れること請け合いでございます。うちのアクセサリーで幸せを掴んだ恋人同士は数知れず!それでも不安なあなたには、恋人との未来を占える道具もご用意してございます!さあお一ついかがでございますか!」
 
 この店をのぞき込んでいる客はほとんどが若い男女だ。私達のようないい年の客には、店主は見向きもしない。並べられているアクセサリーはともかく、隅のほうにある占いの道具からは、いささか奇妙な波動が感じられる。あまり身近に起きたくないと感じたので、私達は早々にその店を離れた。
 
「いろんな店があるのねぇ。」
 
「そうだね・・・。でも、なんだかまともな物を売ってる店は少なそうだな・・・。」
 
 言い終わるのと同時にあくびが出た。
 
「あら・・・退屈しちゃった?」
 
 妻が私の顔をのぞき込んだ。実を言うと、さっきからいささか退屈してきている。妻はこうして店をのぞくこと自体が楽しいようだが、男はその点、買う気がない店をいつまでものぞいていたいとは思わない。
 
「仕方ないわね・・・。私が一人で見てくるから、あなたはここで待っててくれる?」
 
「でも大丈夫かなぁ。結構目つきのよくない連中があちこちにいるみたいだけど・・・。」
 
 そういう連中にとって、一番の『上客』は私達のような旅行者だ。
 
「大丈夫よ。ここにいて見ていて。そんなに遠くには行かないから。」
 
 広場の周りには、他の通りに抜けるための路地がある。そこだけは店が並んでいないので、広場がだいたい見渡せる路地の入り口に陣取り、妻を待つことにした。路地の入り口の壁にもたれ、妻の背中を見送る。さっきより遙かに人どおりは増え、思った通り『恰好の獲物』と思われたらしい妻のまわりには、目つきの鋭いスリ達がにじり寄っていく。が・・・、残念ながら彼らの指先が妻の懐に届くことはなかった。妻はさりげなく、見事によけながら歩いていく。
 
(大丈夫みたいだな・・・。)
 
 心の中でそうつぶやいたとき、突然路地から飛び出してきた若い娘が私にぶつかった。
 
「あら!ごめんなさいね!」
 
 さっと通り過ぎようとした娘の腕をとっさにつかんで引き寄せた。彼女の指先が私の上着の内ポケットにするりと入り込んだのを見逃すほど、私の動体視力は衰えていない。
 
「行くのはいいけど、その前に君が今、私の懐から抜き取ったものを返してくれるかな。」
 
 相手は若い娘だ。たぶんカインと同じくらいの年頃だろう。大声を出されたらかえってこちらが不利かとおもったが、案に相違して娘は素直に自分のポケットから私の財布を取り出し、差し出した。
 
「はい、これ。見つかっちゃったかぁ・・・。この間といい今日といい、あたしの腕も鈍ったかなぁ。」
 
 娘は困ったように首をかしげ、ため息をついている。まるでパズルの組み方を間違えて悔しがっている子供のようにしか見えない。すりを働いて失敗して、腕をつかまれていると言うのに・・・。
 
「てことは、今までにも同じようなことをしてたんだね。」
 
 受け取った財布をポケットにしまいながら、私はまだ娘の腕を離さなかった。場合によっては近くを歩いている王国剣士に引き渡したほうがいいかもしれない。
 
「仕事にしてたのはもうだいぶ前よ。今のあたしは別な仕事をしているから。」
 
「ずいぶん若そうだけど、その歳でそんなに仕事を変えたのかい?」
 
「そうねぇ・・・。小さい時は物乞いくらいしか出来なかったから、5歳くらいまではそれで何とか生きてたわ。そのあとスリの親方に拾われてから仕事を憶えさせられて、ずっとスリをしてたの。でも13の時にその親方に売り飛ばされてからは、世の男性達にを与えるお仕事よ。」
 
 娘はスカートの端をつまんで優雅にお辞儀をして見せ、
 
「ま、ありていに言えば娼婦なんだけどね。」
 
そう言って肩をすくめ、ぺろりと舌を出した。
 
「13歳・・・。」
 
 多分私は、つぶやきながら無意識のうちに眉をひそめていたのだと思う。娘は私の顔を覗きこみ、にっこりと笑った。
 
「売られたのは13歳のときだけど、それから2年は下働きだったわ。お店のだんなさんがね、『こんなやせっぽちの子供じゃ金を払うに値しない』なんて言って、まあいろいろと・・・修行を積んだわけ。」
 
 娘の顔はあくまで明るい。とても今までそんなひどい環境の中にいたとは思えないほどだ。どんなに時が過ぎても、貧富の差と言うものがなくなるわけじゃない。そしていつの時代も、その最初の犠牲者は子供達なのだ。でもここでこの娘にどんな言葉をかけても、何の役にも立たない。この娘は自分のおかれている状況をしっかりと把握して、たくましく生きているらしい。この娘を一目見て、こんな重い人生を背負っているとは到底思えないだろう。
 
「そうか・・・。でもあの街にいるなら、別にスリなんてしなくてもやっていけるじゃないか。」
 
「そうなんだけどねぇ・・・あ、ちょっと待って。」
 
 娘は私につかまれた腕を振りほどこうともせず、いま自分が飛び出してきた路地の向こう側をうかがい、小さくため息をついた。
 
「どうやらうまくまけたみたい・・・。おじさんに捕まったおかげだわ。ありがとう。」
 
(おじさんねぇ・・・。)
 
 そう呼ばれるのは仕方ないことなのだが、島ではずっと『先生』と呼ばれていたので、おじさんと言われるのは少し複雑な気分だった。
 
「まけたって、何かに追われてたのかい?」
 
「まあね。へへ・・・でもおじさんすごいのねぇ。なにやってる人?どこに住んでるの?歳はいくつ?お金持ってる?」
 
 娘は屈託ない笑顔を向けて、質問を浴びせてきた。スリを働こうとして捕まったというのに、悪びれた様子さえない。こういうのが今時の若者なのだろうか。それともこの娘が特別なのだろうか。
 
「ではひとつずつ答えるよ。仕事は医者だ。住んでいるのは王国の北のほうだよ。歳はもう40過ぎてるから、君の親御さんのほうが歳が近いくらいだね。お金は、生活に必要な程度は持ってるよ。でもそれを君に奪われるわけにはいかないから、今こうして君を捕まえているんだよ。もしも王国剣士に捕まったりして牢獄に放り込まれでもしたら、君を雇っている店の主人が怒るんじゃないかい?」
 
「あら、王国剣士さんになんて捕まったことがないわよ。もっともあたしも、あの人達の懐は狙わないわ。リスクが大きすぎるもの。」
 
「でもさっきの君の言い方だと、私の他にも君の腕を見破った人がいるみたいじゃないか。その人は王国剣士じゃないのかい?」
 
「違うわ。2〜3日前の話だもの。普通の旅の人だったわよ。そうねぇ・・・おじさんよりは少し年上かなあ。すごく落ち着いた雰囲気の人でねぇ・・・。結構素敵な人だったわ。」
 
 娘は少し頬を染めてふふっと笑った。この娘の指さばきはかなりすばやい。確かになかなか見破れるものではないと思う。ちゃんと訓練を積んだ王国剣士でさえ見破れないものを見破れる、旅人・・・。考え込んだ私にかまわず、娘は話し続ける。
 
「実はあたしねぇ、その男の人じゃなくて、その人の隣にいた女の人の懐を狙ったのよね。きれいな人だったんだけどすごくはしゃいでたから、きっと城下町に出て来たばかりの田舎者かと思って。」
 
「ところがその男の人のほうに見破られたんだね。」
 
「そうよ。おじさんみたいにさっとあたしの腕をつかんで、『僕の妻の財布を返してくれるかな』って。とっても優しそうな感じの人だったのになんだかすごく怖かったから、さっさと返したわ。」
 
「その時は王国剣士に引き渡されなかったのかい?」
 
「ええ。あたしもそう言ったのよ。牢獄に入るのもいい経験かも知れないから、連れて行くならどうぞって。でも、『返してくれたんだからもういいよ。』って、今度は本当に優しい・・・っていうか、普通の笑顔でそう言ってあたしの腕を離してくれたの。だからあの時はついてたなあと思ったんだけど、今度こそ運も尽きたかしらねぇ。さてと、行きましょうか。」
 
「行くってどこへ?」
 
「牢獄よ。連れて行くんでしょう?」
 
「行きたいのかい?」
 
「行きたいとは思わないけど・・・連れて行かないの?」
 
「う〜ん・・・。」
 
 さてどうしよう。行きがかり上こうして腕をつかんだままでいるが、王国剣士に引き渡したことでこの娘が娼館の主に厳しく折檻されないとも限らない。
 
「見逃してくれるならうれしいけど・・・。実を言うと、今はあんまり王国剣士さんに会いたくはないのよねぇ。今逃げて来たばかりだし・・・。」
 
「今逃げて来た?それじゃ君がまいた相手は王国剣士だったのか・・・。まずいことしたかなぁ。」
 
 剣士団が追いかけていた相手を結果的にかくまってしまったとなると、あとあと面倒なことになりかねない。娘は私の顔を覗きこみ、意味ありげににやりと笑った。
 
「あのねぇ・・・別に悪いことをして逃げてきたわけじゃないのよ。あたしに言い寄ってる王国剣士さんがいて・・・それで逃げてきたの。」
 
「そういうことか・・・。そんなにしつこく言い寄られているなら、君の店のご主人に頼んで追い払ってもらえばいいじゃないか。君はその人に言い寄られるのはいやなんだろう?」
 
 娘はあわてたように首を左右に激しく振った。
 
「だ、だめよ! 別にその・・・いやじゃないわ・・・。だから会ってほしいって言われて時々会ってるんだもの。」
 
「話が合わないじゃないか。それならどうして逃げてきたりしたんだい?」
 
「そうじゃなくて、その・・・会うのはいやじゃないの。でも最近・・・向こうが結婚したいって言い出して・・・。」
 
「なるほど、ところが君にはその気がないので逃げてきたってわけか?それなら店以外で会わなければいいじゃないか。会ってくれと言われて会っていたら、相手は君も自分と同じ気持ちなんだと思い込むと思うよ。」
 
「だから違うんだってば!どうしてわかってくれないの!?」
 
 娘はもどかしげに首を振り、ふくれっ面で私を睨んだ。
 
「困ったなぁ・・・。どうしてって言われても・・・。」
 
 娘がなにを言いたいのか今ひとつ理解できない。考え込んでしまった私を見て、娘ははっとしたように口を押さえた。
 
「ご、ごめんなさい・・・。そうよね・・・。会ったばかりなのに、わかるはずないわよね・・・。」
 
「恋愛問題に関しては、あんまり力になれそうにはないんだけどね。でも話を聞いてあげるくらいのことは出来ると思うよ。よかったら、私にもわかるように話してみてくれないか?」
 
「うん、あのね、あたしだって彼のことは好きなの。でもね、考えてもみてよ。あたしはこの街に売られてきたのよ?すごい金額の借金がまだまだ残っているの。それなのに熱にうかされたみたいに結婚しようなんて言われたって、あたしにはどうしようもないじゃないの。」
 
「・・・そういうことか・・・。その借金のことは彼には話してないのかい?」
 
 娘は黙って首を左右に振った。
 
「この街にいるんだから借金があることは知ってると思うけど、いくらかなんて言えないわ・・・。大体言ってみたところでどうなるの?彼がびっくりして逃げ出したりしたら・・・それはそれでいやじゃない・・・。」
 
「・・・なるほどね・・・。君は彼とこのまま会っていたいけど、結婚には踏み切れない、でもそれじゃ彼が納得しないから、話をはぐらかして逃げて来たというわけか・・・。」
 
「そういうことよ。あ〜あ・・・考えても仕方ないんだけどねえ。でもおじさんと話していたらなんとなくすっきりしてきたわ。ありがとう。」
 
「礼を言われるようなことはなにもしてないよ。」
 
「あらそんなことないわよ。ねえ、今日の夜うちの店に来ない?おじさんが指名してくれたら、飛びっきりのサービスをするわよ。」
 
 娘は私に向かって投げキッスをし、ウィンクしてみせた。若い男ならこれですっかり参ってしまうだろうと思わせるようなしぐさだ。もしかしたらその王国剣士もこの手で彼女に参ってしまったのかもしれないが、残念ながら私には通用しない。
 
「遠慮しておくよ。妻と一緒だからね。」
 
「あらそう?奥さんがいる人もいっぱい来るけどなあ。一晩の遊びなんだから気にしなくていいのに。」
 
「気にする人もいるんだよ。それより、おせっかいかもしれないけど、その彼のことははっきりさせたほうがいいかもしれないよ。思いつめられると厄介だからね。」
 
「そうよねえ・・・。はぁ・・・あの時誘わなければよかったかしらねぇ。」
 
「・・・何か気を持たせるようなことをしたのかい?」
 
「まあねえ・・・。実はちょうど指の訓練をして来たばかりの時に、ばったり出会ったのがその人なのよ。その人はぜんぜんあたしの指さばきなんて見えてなかったらしいんだけどあたしが勘違いしちゃって、つい飛びっきりの笑顔でお茶に誘っちゃったりして・・・。」
 
「なるほどね・・・。」
 
 要するに彼女はちょうどスリを働いた直後にその王国剣士とばったり出会い、自分のしたことをごまかすためにいかにも気があるようなそぶりでその剣士をお茶に誘って、うまく言いくるめようとしたらしい。一目で王国剣士とわかったということは、その剣士は制服を着ていたのだろう。ということは勤務中か・・・。その状況で初めて会った女の子の誘いに乗るのもどうかと思うが、その剣士にとって、誘いを断るにはこの娘はあまりに魅力的過ぎたのかもしれない。それにその誘い方も巧妙だ。いきなり店に来てくれなどと言ったら誰だって敬遠するだろうが、お茶の一杯程度なら、一休みくらいの軽い気持ちで受けてしまうこともあるだろう。若さに似合わず、この娘は客商売の駆け引きをしっかりと身につけているらしい。本人は自覚していないのかも知れないが。
 
「その場をごまかすだけのつもりだったのに、その後彼のほうからお茶に誘われたりして、あたしもつい気軽にOKしてたんだけど・・・やっぱりまずかったかしらねぇ・・・。」
 
「でも今では君もその人のことが好きなんだろう?」
 
「うん・・・。あたしが歓楽街にいるってことを聞いても、態度が変わらなかったし、いつ会っても優しくて、だから・・・結婚を申し込まれたときはうれしかったわ。でもおじさんの言うとおり、そろそろはっきりさせたほうがいいのかもしれないわ。結婚の話が出るたびに逃げ回っていてもきりがないものね・・・。」
 
「でもちゃんと借金を返し終われば自由の身になれるじゃないか。君はまだ若いんだし、それからあらためて二人の将来を考えても遅くはないと思うけどな。」
 
 この娘の境遇を知っていてもなお、その剣士の態度が変わらないと言うことなら、きちんと事情を話せばわかってくれるのではないかと思うのだが・・・。一番の問題は、むしろその相手の男ではなく、この娘がいる店の店主だ。中には借金の金額よりも働かせて平気な店もあるし、勝手に高価な衣装を何着も作らせ、それを全部娼婦達の借金に上乗せしていつまでも働かせる店もある。
 
「だといいんだけど・・・やっぱり借金のことを正直に言うのは怖いわ。どんなに好き同士でも、お金のこととなると態度が変わる人はたくさんいるって、お店のお姉さん達も言ってたし・・・。」
 
 娘は大きなため息をひとつつき、次に私に向かって微笑んでみせた。
 
「ねえおじさん、あたしを牢獄に連れて行く?」
 
 すっかり忘れていた。でも財布も無事に戻ってきたことだし、その必要はないような気がして、私はずっとつかんだままの娘の手を離した。
 
「やめておくよ。そんなことをして、君が店の主人に折檻されたりしたら気の毒だしね。」
 
「あら、うちのだんなさんはそんなことしないわ。いつも言ってるのよ。『お前達は大事な商品だから少しでも長持ちさせないとな』って。」
 
「・・・・・・・。」
 
 ずっと昔、同じ言葉を聞いて胃の中がむかつくような怒りを覚えたことがある。
 
「・・・君の店はどこなんだい?」
 
「へえ、今夜来てくれる気になったの?」
 
「それはないけど、念のために聞いておくよ。」
 
「ふふ・・・。それじゃ、ヘブンズゲイトのシエナって憶えておいて。シエナって言うのはね、湖や沼に棲む妖精なんですって。とっても気まぐれで、近くを通る旅人をからかって遊ぶのが好きらしいわ。」
 
 なるほどその名前は、この娘にぴったりだ。シエナは最初に会ったときと同じように優雅にお辞儀をしてみせた。
 
「それから、最後にもうひとつだけ教えてくれないか。」
 
「なあに?」
 
「私の前に君の腕を見破った人なんだけどね、その人の髪は栗色じゃなかったかい?女の人はきれいな金髪で・・・。」
 
「あらそうよ。もしかしておじさんの知り合い?」
 
「かもしれない。わからないけどね。」
 
「ふぅん・・・。その人もおじさんみたいに腕が立つ?」
 
「私みたいにっていうのは・・・どういう意味だい?」
 
 少し驚いた。彼女の指さばきを見破ったのは確かだが、それで『腕が立つ』かどうか判断するなどという考えは、少なくとも、一般人の考え方ではない。
 
「昔ね、あたしがまだスリをやってた頃、スリの親方が言っていたの。お前の腕を見破れるほど腕の立つ奴はそうそういないって。だからあたしの指さばきを見破ったおじさんは、きっととっても腕が立つ人なのよ。」
 
「ははは、そう言う理屈か。まあ私はともかく、その人が私の思ってるとおりの人なら、すごく腕が立つよ。」
 
「そっかぁ・・・ということは・・・やっぱりあたしの目も鈍ったってことかなあ。似たような人をねらっちゃうなんてねぇ・・・。」
 
「そう思ったら、こんなことはやめることだね。」
 
「そうねぇ・・潮時かなぁ・・・。それじゃおじさん、ありがとう。お店に来てくれたらサービスするわよ!」
 
 娘は叫んで駆けだしたが、急に立ち止まり振り向いた。
 
「あのね、あたしの本名はね、トゥラって言うの。憶えておいてね!」
 
 そう叫ぶとシエナは、いや、トゥラはあっという間に駆け去ってしまった。
 
「本名なんて・・・そんなに簡単に教えるもんじゃないんだけどな。」
 
 思わずつぶやいた。歓楽街で働く女性達は、絶対に本名を使わない。
 
 
『この街での自分は仮の姿、ここから出られたら明るい未来が待ってる、そうでも思わないとやってけないからねぇ・・・。』
 
 だから名前も変えているのだと、昔出会ったことのある娼婦達が言っていた。客でないとは言え、もしかしたらそうなるかもしれない相手に本名を教えてくれるということは、あの娘は私を信用してくれたと言うことなのかもしれないが、それにしても、あの街で生きているにしては無防備なところがある。もっともあのくらいの年頃の娘ならそれが普通なのだが・・・。娘の駆け去った方角をぼんやりと見ていたとき、肩をとんとんと叩かれた。振り向くと妻が立っている。
 
「お待たせ。」
 
「買い物は終わったの?」
 
「ええ、一通り見てきたわ。ふふふ・・・だいぶ苦労していたみたいね。」
 
 妻はおかしそうにくすくすと笑った。
 
「もしかして聞いてたの?」
 
「ええ、途中からだけど。」
 
「なんだ・・・それなら出てきてくれればよかったのに。」
 
「ごめんなさい。あなたの恋愛相談もなかなかのものだなあと思って。」
 
 妻がまた笑う。
 
「話を聞いてあげただけさ。結局はあの子が自分で答えを出さなきゃいけないわけだし・・・。」
 
「そうね・・・。でもあのお店なら、少なくとも借金を勝手に上乗せされたり、とっくに返し終わっているのに嘘をついて長く働かせるなんてことはしないんじゃない?」
 
「多分ね・・・。」
 
 妻と私がヘブンズゲイトと言う娼館に足を踏み入れたのは、もう20年も前の話だ。あの店で働いていた女性達に助けられ、私達は何とか王国軍の追撃をかわすことが出来たのだ。あの時の娼婦達はもうとっくに誰もいなくなっているだろうけれど、どうやら主人は健在らしい。
 
『女達は金を産む大事な商品だ。丁寧に扱って長持ちさせたほうが、より多くの金を産んでくれるのさ。よその店の店主どもはそこをわかっておらん。目先の金に飛びついて結果的に損をしている。ふん!バカどもばかりだ。』
 
 得意げに言ったあの言葉を今でもはっきりと憶えている。
 
「でも明るい子ねぇ・・・。歓楽街にいるなんて話を聞かなければ、どこにいでもいるごく普通の女の子だわ。」
 
「あの明るさが救いだよ。何とか無事に借金を返し終われるといいんだけど・・・。」
 
「でも歳はカインと同じくらいみたいね。まだまだこれからが大変なんじゃない?」
 
「だろうね・・・。でも、私達に出来ることは何もないよ。出来ることがあるとすれば、あの子が自由を勝ち取れるまで無事でいてくれるよう神様に祈ることくらいだね・・・。」
 
 脳裏に残るあどけない笑顔が切ない。考えてもどうにもならないとわかってはいても、やっぱりこんなことは間違っていると思う。
 
「そうね・・・・。あとは、その王国剣士の彼がその時までちゃんと待っててくれるといいんだけど・・・。」
 
「そうしてくれるならいいんだけど、どうなのかなあ・・・。」
 
 王国剣士なら、ランドさんの試験を受けて入ったのだろうから、人柄に関しては心配することはないだろうが・・・。トゥラの言ったとおり、金がからむと男女の仲はこじれることが多いという話は聞いたことがある。愛情だけでは彼女達の助けにはなれない。何十年経とうと『高給取り』などと言う言葉には縁のない王国剣士が、彼女の借金の額を聞いてどう思うだろう。どうにも出来ないならいっそ、手のひらを返して逃げだしてくれたほうがよほどありがたいかも知れない。一番やっかいなのは、『どこか遠くへ二人で逃げよう』という奴だ。あの街の女性達は、本人の意志かどうかはともかく自分の体を担保にして金を借りているのだから、勝手に店をやめることは出来ない。逃げだして捕まれば、どんな目に遭わせられるかわからないのだ。
 

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