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「帰っちゃったわね・・・。」
 
 妻がつぶやく。
 
「やっぱり寂しいね。」
 
「そうね・・・。でも寂しがってばかりもいられないわ。今度は私達が旅支度しなくちゃ。」
 
「そうだね・・・。もう少し稽古をしておいたほうがいいかな・・・。」
 
「そうねぇ・・・。私も久しぶりに体動かそうかな・・・。相手してくれる?」
 
「君が相手じゃ体ならしにならないじゃないか。出かける前にへばりそうだよ。」
 
「そんなことないわよ。昔よりも体は重くなってるし鈍くなってるし・・・。」
 
 妻がため息をついた。
 
「自分で言ってていやになっちゃうわ・・・。ねえ、帰る前にラスティのお店に寄ってみない?」
 
「そうだね・・・。ちゃんとキルシェと仲直りできたかな。」
 
「あの調子なら大丈夫だとは思うけど、様子を見に行きたいわ。」
 
 家に帰る道を途中で反対方向に曲がり、私達はラスティの店に行ってみた。中に入るとアローラが店番をしている。
 
「あ、先生、おばさま、いらっしゃい。さっきはどうもありがとう。」
 
 アローラはいつもの笑顔に戻っている。
 
「あれ?グレイの家に行ったんじゃなかったのかい?」
 
「ティートのおじいさまと伯父さま達の話し合いが長引きそうなんですって。ティートはそのままいるって言うから私だけ帰ってきたのよ。東の村の長老も来ていたけど、みんなして難しい顔していたわ。」
 
「険悪な雰囲気だったの?」
 
「そう言うんじゃないわよ。大きな声を出したりしている人は誰もいなかったし・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
 グレイがライラのことも含めてナイト輝石の採掘再開を、全島民に知らせようと言う考えであることは今朝聞いた。ではティートの祖父と東の村の長老のどちらかが、または二人とも難色を示しているということか・・・。ハース鉱山で家族を失った人達は、川向こうの村にも東の村にも何人かいる。その原因がただの事故であれ、あの廃液によるものであれ、今回の知らせは彼らにとってあまり好ましいものではないのだろう。そう言う人達と、当事者の両親であるライザーさんとイノージェンとの間に軋轢が生じる危険もある。
 
「ところで先生、お買い物?」
 
「いや、君の父さんと母さんがちゃんと仲直りできたのかなって気になってね。」
 
 私の言葉にアローラはおかしそうに吹き出した。
 
「大丈夫よ。私が帰ってきたときにはもう二人してべったりくっついて話をしてたわ。もう見ていられなくて私が店番に出てたってわけ。」
 
「それなら安心ね。よかったわ。気になってたのよ。」
 
 妻がほっと胸をなでおろした。
 
「ふふ・・・。父さんと母さんはとっても仲がいいのよ。今回は私のことで仲たがいさせちゃったから申し訳ないなって思ってるの。だから当分はお店のお手伝いをしようかなと思って。イノージェンおばさまからはサンドラさんのことを頼まれているけど、今すぐにお産が始まりそうな人もいないしね。」
 
「それはいい心がけね。ねぇアローラ、いい機会だから聞くけど、あなたイノージェンのお仕事を本格的に手伝う気はあるの?」
 
「本格的にって言うと・・・将来のことも含めてって言うこと?」
 
「そうね・・・。サンドラさんも最近はあちこち体が痛むって言ってるし、そろそろイノージェンが中心になって仕事を進めるべきじゃないかって、前に話してたのよ。でも今は島にも女の人が増えたし、イノージェン一人ではなかなか手が回らないと思うの。だから今までみたいに忙しい時だけじゃなく、いつでも動ける助手がいてくれるととっても助かるのよ。私が手伝えるときはいいんだけど、診療所が忙しかったりするとなかなか思うようにはいかないしね。もちろん助手のままじゃなくて、将来的にはイノージェンの跡を継いでほしいと思ってるけど。」
 
 アローラは少し考え込むような表情をした。
 
「そうよね・・・。私も将来のことを本格的に考えなくちゃならないのよね・・・。」
 
「そうね。ティートと結婚することを考えているならなおさらね。」
 
「実を言うとね、私もイノージェンおばさまのお仕事を手伝うのはとても楽しいの。命が生まれて来る瞬間に立ち会えるなんてとてもすばらしいことだわ。・・・死産だったりすると悲しいけど・・・。でもこれからも続けていきたいとは思ってるのよ。だけど・・・。」
 
 アローラは言葉を濁してうつむいた。
 
「何か心配ごとがあるの?」
 
「私・・・不安なの。助産婦として、私は本当にふさわしいんだろうかって、時々不安になって・・・。だからなかなか決められなくて・・・。」
 
「私から見れば、あなたは充分助産婦としてふさわしいと思うわ。イノージェンもそう言ってたわよ。でも不安なのはわかるわ。だから今決めてって言うのじゃないのよ。ただ、考えておいてほしいの。」
 
「うん・・・ありがとう。でも確かに・・・私ももう一生の仕事を決めてもいい時期なのよね・・・。ライラはもうずっと前に立った一人で島を出て、とうとう夢を実現させたわ。イルサもカインも、自分の夢に向かってがんばってる・・・。ねえ先生、カインはあの子と結婚するの?」
 
「カインは王国剣士としてはまだまだ半人前なんだよ。まずは仕事で一人前になって、それからだろうね。」
 
「そう・・・。かわいい子だけど・・・ちょっと抜けてるのよね。気が利かないし・・・。」
 
「手厳しいね。」
 
 確かに家事の手際もあまりいいとは言えないようだし、食事の支度はいつも忘れていて、慌てて妻に頭を下げるなどと言うことは家にいた間に何度もあった。きっとシャロンが人一倍妹の面倒を見ていたのだろう。働き者の母親を持つと子供は何も出来なくなるなどという話を聞いたことがあるが、うちのカインなどはまさにそれに当てはまる。それはきっとシャロンとフローラの関係についても当てはまるんじゃないかと思う。
 
「あの子よりイルサのほうがきれいだわ。よく気がつくし、お料理だって上手よ。なのにどうしてあんな子と・・・。」
 
「アローラ、人それぞれよ。」
 
「・・・・・・?」
 
 なぜここでイルサの話が出てくるのか、理解するまで少しかかった。即座に返事を返したところを見ると、妻は知っていたらしい。
 
「それはそうだけど・・・でも私、イルサがずっとカインのことを好きだったことも、告白してふられたって言いながら泣いてたのも知ってるのよ。カインには悪いけど、今はまだ笑顔でおめでとうなんて言えないわ。」
 
「あなた達仲がよかったものね・・・。」
 
 妻が困ったようにため息をついた。カインはフローラが一緒に家に来てくれたことでかなり有頂天になっていた。きっとアローラにもその調子でフローラのことを紹介したのだろう。
 
「でも別にあの女の子が嫌いとか、そう言うのじゃないの。抜けてるなぁって思うんだけどわりと憎めない感じがするのよね・・・。」
 
「とてもいい子よ。もしもまた連れてくることがあったら仲良くしてあげてね。」
 
「・・・おばさまはあの子のこと気に入ったの?」
 
「実はね、私達、あの子を赤ちゃんの頃から知っているのよ。」
 
「そうなの!?それじゃそれが縁でカインが・・・。」
 
「それは関係ないよ。本当に偶然だったんだ。まさかカインが連れてきた女の子が昔世話になった人の娘だとは思わなかったよ。」
 
「ふぅん・・・。それじゃ悪いこと言っちゃったわね・・・。」
 
 アローラがばつ悪そうに肩をすくめた。
 
「気にしなくていいよ。ウィロー、そろそろ戻ろう。ラスティとキルシェのことは全然心配いらないようだし、私達も支度しなくちゃね。」
 
「支度?先生達もどこかに行くの?」
 
「祭り見物でもしてこようかと思ってるんだよ。今のところ手が離せない患者さんもいないし、カインの職場見学もかねてね。」
 
「へぇ・・・・!お祭りに行くのね。いいなぁ・・・。私も行きたいわ。小さい頃父さんと母さんに連れて行ってもらったことはあるけど、あんまりよく覚えていないのよね。ねぇ先生、それじゃ何か必要なものとかあるんじゃない?リストを作ってくれたらそろえておくわよ。」
 
 アローラは突然『雑貨屋の看板娘』の顔になった。実は彼女はなかなかの商売上手である。
 
「何かあったら早いうちに頼みに来るよ。それじゃ、父さんと母さんによろしくね。」
 
「はい。またどうぞ。」
 
 
 
 家に戻ると、なんだか妙に静かな気がした。家の中が広くなったような気さえする。
 
「静かだな・・・。」
 
 思わずつぶやいた。
 
「そうね・・・。でも、今は感傷に浸ってる場合じゃないわね。早く食事作らなきゃ。」
 
 そう言う妻のほうが私よりずっと寂しそうだ。でもそれを見せまいとして精一杯明るく振る舞っている。
 
「すぐに出来るから、ブロムさんを呼んできてくれる?」
 
「うん。」
 
 診療室ではブロムおじさんが医学書を読んでいた。先週届いたばかりの新刊で、時間がある時には私も読んでいるが、読破するのはかなり先のことになりそうなほどに分厚い本だ。
 
「おおクロービス、帰ってたのか。」
 
 おじさんは本から顔を上げて少し驚いたように私を見た。本に夢中になって扉が開いた音にも気づかなかったらしい。
 
「今帰ってきたんだよ。食事がすぐに出来るから食堂に来てって。」
 
「ああ、すぐ行くよ。」
 
 
 食堂には妻が大急ぎで作った食事が並んでいた。
 
「ふぅ・・・急いで作ったからあり合わせのものばかりになっちゃったわ。ブロムさん、ごめんなさいね。」
 
 妻が額の汗を拭いながら、お茶のセットをもって台所からら出てきた。
 
「そんなことはないよ。さあ、いただこうか。」
 
 3人での昼食はいつものことのはずなのに、やっぱり妙に静かな気がする。ほんの何日かだったのに、今朝までの賑やかな食事風景がもう当たり前のようになっていた。カインとフローラの乗った船は今頃どのあたりなのだろうか・・・。
 
 
 食事が終わって後かたづけをしている時、妻がぽつりとつぶやいた。
 
「・・・フローラには悪いけど・・・一人のほうが早くすむのよね・・・。」
 
「あんまり家事が得意そうには見えなかったからな・・・。」
 
「あなたもそう思ったの?」
 
「うん。家事に慣れていたら、あんなに何度も食事の支度を忘れたりしないと思うよ。きっといつもはシャロンが全部やってたんだろうな。だからきっと、出来てから呼ばれて食べるのが当たり前になってるんだよ。」
 
「そうねぇ・・・。でも一生懸命なのよね・・・。かえって手間が増えるなんてとても言えなかったわよ。」
 
「多分シャロンにきつく言われてきたんだろうね。カインの母親に気に入ってもらえるように、しっかり手伝ってこいとかね。」
 
「それはありそうねぇ・・・。でも習慣づいてないから体が思うように動かないんでしょうね。若い時なんてみんなそんなものだから私は気にしないけど、アローラはイルサと仲がよかったから、きっと許せなかったのね・・・。」
 
「そうだね・・・。でもイルサのことは全然気づかなかったな・・・。」
 
「あの子はね、見た目ほどには積極的じゃないのよ。カインに告白したのも、王国に行く前に気持ちだけでも知ってほしいって、かなりの勇気を振り絞ったみたいだったわ。」
 
「ふぅん・・・。」
 
 教えてくれたらよかったのにと言おうとしたが、教えられたところで私に何かできたとも思えないのでやめておいた。
 
 
 本当は午後からグレイの家に行く予定でいたのだが、さっきのアローラの話ではどうやら話し合いが長引くらしい。ブロムおじさんが今朝言っていた話というのがなんなのかも気にかかる。今日はどこへも行かずに診療室で待機していることにした。中に入ると、一足先に戻っていたおじさんは相変わらず本に夢中になっていた。
 
「おじさん、今日は私もここにいるよ。」
 
「・・・え・・・?あ、ああそうか。すまんすまん、つい夢中になって・・・。」
 
 おじさんは言いながら本を閉じて棚に戻した。
 
「グレイのところにはもう行ってきたのか?」
 
「行っては来たんだけどね。さっきの騒ぎでまだちゃんと話してないんだ。出かけることだけは伝えてあるから、あとで詳しい話をしに行くよ。それより、今朝言ってた話ってなに?」
 
「うむ・・・。」
 
 ブロムおじさんは難しい顔で考え込んだ。
 
「実はな・・・この診療所のことなんだが・・・・。」
 
「ここの?どうかしたの?」
 
「私ももう歳だ。」
 
「歳だって・・・まだ60代じゃなかったっけ?今朝は年寄り扱いするななんて言ったくせに、急にどうしたのさ。」
 
 明るく言ってはみたが、内心は不安だった。こんなことを言い出すなんて、どこか具合でも悪いのだろうか。
 
「ふん・・・そりゃそうだ。年寄りと言われるほどじゃないさ。だが、この歳になればいつ具合が悪くなってもおかしくないし、今まで普通に出来ていたことが少しずつ出来なくなってくると言うこともありうる。」
 
「そりゃそうかもしれないけど・・・。」
 
「私がもしも動けなくなっても、お前はもう医者として一人前以上だ。何の心配もしていない。問題は、お前のあとだ。」
 
「私のあと・・・?」
 
「そうだ。お前の跡を継ぐ誰かが必要になるんじゃないかと言ってるんだ。」
 
「・・・そのことか・・・。」
 
「正直に言うと、私はカインがお前の跡を継いでくれるものと思っていたんだ。あの子は呪文の才能もあるし、早くからいろいろと教え込めば、きっといい医者になれると考えていた。だが・・・あの子は王国剣士になることを選んだ。実のところ私はあまり賛成したくなかったんだが・・・カインを悲しませるようなことなどとても言えなかったよ・・・。そしてカインは見事に採用試験に合格し、向こうで恋人も出来た。となれば、もうここに戻ってくることはないだろう。別の誰かを後継者として迎え入れるしかないと思うんだ。」
 
「・・・そうだね・・・。おじさんには心当たりはあるの?」
 
「心当たりと言うことではないが、今朝ミレルがラヴィの弟をここで手伝わせてくれないかと言っていたよ。」
 
「エディを?」
 
 エディは、確か学校を終えたばかりの15歳だったと思う。兄のラヴィとは対照的で、いつも穏やかに微笑んでいるような男の子だ。
 
「ああ・・・。昔はよくライラと二人でお前の書斎に本を読みに来ていたじゃないか。力仕事には向いてないから、こういう仕事で人の役に立てればと、ミレルは考えているらしい。」
 
「・・・エディか・・・。」
 
「私はよく知らないから、とりあえず手伝いだけでもさせてみるのはいいかもしれん。それに、呪文に適性があるかどうかもわかるだろう。」
 
「そうか・・・。適性があるかどうかなんて普通の人は考えもしないものね・・・。」
 
「うむ・・・。まあ試してみる価値はあると言う程度だがな。呪文が使えなくても気功ならそこそこ覚えられるし、そもそも医者だから呪文や気功が使えなくちゃならないってわけでもない。結局は本人にその気があるかどうかだ。親にしてみれば息子が医者になるってのは鼻が高いらしいが、人の命に関わる仕事なんだから、いいかげんな気持ちで来られてはこっちが迷惑だからな。」
 
「そうだね・・・。それで、返事はしたの?」
 
「いや、まだだ。ここのあるじはお前だ。お前とウィローがよく話し合って決めるのが筋だろう。お前に聞いておくからとだけは言っておいたよ。」
 
「それじゃ、もしエディにその気があるなら、私達が戻ってきてからアルバイトとして来てもらうって言っておいて。出かける前にミレルと会えば私が言うけど。ただしエディにはその気が全然ないのに無理矢理連れてくる、なんてのは無しだよ。」
 
「よし、決まりだな。まずはやらせてみないことには始まらないからな。」
 
「そうだね。でも医者ってのも案外力仕事が多いから、実態を知ってエディがどう思うかはわからないけどね。」
 
「そのときはそのときさ。別にどうしてもエディでなければならないってわけじゃない。人にはそれぞれ向き不向きがあるんだから、気長に探せばきっと誰かしら見つかるさ。」
 
「そうだね・・・。ウィローにも話してみるよ。」
 
「今回の旅はいい機会だ。ゆっくりして、二人でこのことを話しあってくれないか。」
 
「うん・・・。」
 
 
 後継者の問題か・・・。確かに考えなければならないことだ。カインの王国行きにブロムおじさんがあまりいい顔をしなかったのは、単にさびしくなるからだとばかり思っていた私は、なんと考えの浅かったことか・・・。父が、私に自分の跡を継がせたくなかったのは知っているが、結局私はここに戻ってきた。今ではそれが最良の選択だと信じている。でももしも・・・もしも20年前カインが死ななかったら、あの時・・・一人フロリア様の元へ向かおうとするカインを引き止めることが出来ていたら・・・私は今も王国にいたかも知れない。そして今でも王国剣士として生きていたかもしれない。
 
「・・・・・・・。」
 
 かも知れないなんて、いくら言ってみたところで始まらない。人生にもしもなんて存在しない。私は思いきり頭を振って感傷を頭の中から追い出した。とにかく今の私は、この島で唯一の診療所を運営する立場にある。いつまでもブロムおじさんに頼ってばかりいるわけにはいかないのだ。そして一人息子が別の道を歩み始めている以上、何かしらの策を講じなければならない。この診療所の灯を消すことは出来ない。
 
 
 夕方・・・薬をもらいに来る患者が何人かいただけで、この日は誰も診察には来なかった。そろそろ診療所を閉めようかと立ち上がったところで廊下に足音が聞こえ、扉がノックされた。
 
「クロービス、もう終わりか?」
 
 グレイの声だ。
 
「どうぞ。まだ大丈夫だから。」
 
 入ってきたグレイは別にどこも悪そうには見えなかったが、私はいつも患者に接するように尋ねた。
 
「座ってよ。どこか調子悪いの?」
 
「いや、体のほうはいたって健康さ。お前にちょっと相談ごとがあったんだが・・・。」
 
「クロービス、私が閉めておくから、お前はグレイの話を聞いてやれ。」
 
「ブロムさん、ごめんな。ちょっと今日じゃなければならない話だから・・・。」
 
 グレイがすまなそうにおじさんに頭を下げた。
 
「気にするな。お前も村長としていろいろと大変だろう。私になど気を使う必要はないぞ。」
 
「ありがとう。おじさん、帰る前に必ず食堂に顔を出してね。」
 
「ああ、わかったよ。」
 
 後片付けをおじさんに任せて、私はグレイとともに自宅に戻った。妻に、おじさんはきっとすぐに帰ると言い出すから食事を持たせてやってくれとたのみ、グレイを応接室に待たせてまずは着替えをしようと寝室へと向かった。グレイの話は想像がつく。昼間の話し合いがまとまらなかったのだろう。ライザーさん夫婦が留守なので、私のところに意見を聞きに来たのじゃないだろうか。
 
 
 着替えを終えて応接室へと戻ったときには、妻はグレイにお茶を入れながら、食事を一緒にどうかと勧めているところだった。
 
「いや、でも・・・いきなり押しかけてメシまでご馳走になるってのは・・・。」
 
 さすがにグレイは恐縮している。
 
「ウィローがいいって言うんだから大丈夫だよ。食べながらでも話は出来るよね。」
 
 グレイは少し考えていたが、
 
「・・・そうだな・・・。ウィローのうまい飯を食いながらなら、あんまり深刻にならずに済むかもな・・・。」
 
「昼間の話だね?」
 
「ああ・・・。どうまとめるべきか困っちまってな・・・。」
 
「さあさあ、まずは食事にしましょう。カイン達が帰ってしまってから、うちの中が灯が消えたように静かなの。お客様がいればにぎやかでいいわ。」
 
 妻が大きな声で明るく言ってくれたことで、グレイの顔の暗さが少しは和らいだようだ。
 
「おじさんには食事を持たせたの?」
 
「ええ。案の定すぐに帰るからいらないって言ったから、ブロムさんの分をお弁当箱につめて持っていってもらったわ。」
 
「そうか・・・。」
 
「なんだか悪いときに来ちまったみたいだな。」
 
 グレイが頭をかく。
 
「大丈夫だよ。おじさんはそんなこと気にしないから。それより食べよう。食べながらちょっとずつ話してくれればいいよ。」
 
 食事の間、グレイがぽつりぽつりと話してくれたことをまとめるとこういうことらしい。川向こうの長老も東の村の長老も、ライラの成し遂げた功績についてはとても喜んでくれて、惜しみない拍手を送りたいと言ってくれた。だが、ナイト輝石の採掘再開について、ありのままを島民に伝えるべきかどうかと言う話に移ると、二人ともいささか歯切れが悪くなった。長老達はどちらも、昔のことにはもうこだわらなくてもいいだろうという考えだが、誰もがそう思うわけではない。ナイト輝石に聖戦の影を見る者も未だにいる。無用な不安感を人々に植えつけることにならないかというのが二人の一致した意見だった。
 
「で、君としてはちゃんとみんなに伝えたいんだろう?」
 
「ああ、そうだよ。本当なら、島の出身者が成し遂げた偉業を讃えて大々的に発表したいくらいなんだが、それはおそらくライザー達が承知しないだろう。だからせめて、それぞれの集落ごとに事実をきちんと伝える程度のことはしたいと思うんだよな。」
 
「そこまで答えが出ているなら、あとは君が長老達を説得すればいいだけの事じゃないか。」
 
「まあ待てよ。話はまだ続くんだ。」
 
「それじゃ場所を移したら?ここは私が後かたづけをするから、クロービス、応接室のほうが落ち着いて話が出来るわよ。」
 
「そうだね。グレイ、向こうに行こうか。」
 
「ああ。ウィロー、君も来てくれないか。」
 
「私も?」
 
 妻は首をかしげたが、不意に顔をこわばらせた。
 
「・・・実を言うと、今日ここに相談に来たのは君にも意見を聞きたかったからなんだよ。」
 
「・・・・・・・。」
 
 妻は表情を変えないまま少しうつむいた。ほんの何日か前、フローラから思いがけずハース鉱山の話を聞いて、妻は取り乱した。忘れたつもりの出来事だったのに、妻の心には未だに暗い影を落としている。
 
「思い出したくないことだと思うから、無理強いする気はないんだけど・・・。」
 
「とにかく続きを聞かせてよ。どうしてウィローの話まで出たのかもね。」
 
 私達は食堂から応接室へと場所を移した。
 
 
「・・・結局不安なのは長老達も同じなのさ。」
 
 妻の入れてくれたお茶を一口飲んで、グレイがため息と共に話しだした。
 
「20年前の聖戦騒ぎが、ナイト輝石の廃液が原因だったってことは誰でも知ってる。聖戦竜がおとぎ話の中の架空の存在なんかじゃなくて本当にいるんだってことも、あの当時のことを知っている人達はほとんどが信じているよ。あの騒ぎのあと、ナイト輝石の採掘はもう二度と行わないと王宮が発表したことが何よりの証拠だろう。みんなほっとしたよ。そんな物騒なものは地中深く眠らせておくに限る。ところが今回の知らせだ。当時を知る人達にとって、ナイト輝石は今でも『災厄のタネ』でしかないんだ。そんなものをまた掘り出して、もしもライラの作った浄化装置に欠陥があったら?もしも今度廃液が、たとえ一滴でも垂れ流しになるようなことがあればすぐにでもこの世界は滅びると信じている人だっている・・・。」
 
「ライラだって、ナイト輝石をまた掘り出そうなんて言う話がどれほど反発を招くことかくらい、充分理解していたと思うよ。ライザーさんがライラを思いとどまらせるためにかなりいろいろと説明したようだからね。」
 
「あいつだって廃液の危険性をいやってほどわかっているだろうからな。」
 
「うん・・・。でもね、ライザーさんがライラを必死で引き留めようとしたのは、廃液が危険だからと言うことももちろんだけど、それによって引き起こされるかも知れない騒ぎのほうを心配していたんじゃないかと思う。長老達が心配しているように、無用な不安を人々に植えつけることになれば、国の治安が悪化する。せっかくフロリア様や剣士団のがんばりで安心して表を歩ける国になってきたのに、また昔に逆戻りしてしまいかねないからね。」
 
「そうだな・・・。ライラは慎重な奴だ・・・。勝算のない賭けは絶対にしないと思う。でもあいつの性格を知っているのはこの集落の連中だけだ。他ではせいぜい、ライラと仲のよかった東の村のエディあたりがわかる程度だろう。それに、あいつがどんなに慎重な性格だろうと、出来上がった浄化装置に欠陥がないと信じられるかどうかは別問題だ。」
 
「・・・長老達の不安はわかったけど・・・それがウィローの話とどう結びつくの?」
 
「ウィローの話もだけど、まず最初に名前があがったのはお前のほうだよ。」
 
「・・・どうして・・・?」
 
「お前がハース鉱山での事件解決の功労者だからさ。」
 
「・・・私だけの力じゃないよ・・・。コンビを組んでいたカインと・・・剣士団長のおかげだよ・・・。それにあの時私達の呼びかけに応えて決起してくれた鉱夫達も・・・みんなの力が一つにならなければなしえなかった・・・。それに・・・剣士団長は・・・パーシバルさんは私達を守るために犠牲になってしまったんだ・・・。」
 
 あの時の胸の痛みが鮮明によみがえる。何十年経とうがきっとこの痛みは変わらない。
 
「・・・その話は聞いたよ・・・。お前があちこち話してくれたことの他に、俺は王国でもいろんなうわさ話を聞いたからな。まあ中には相当尾ひれがついたような話もあったんだが、『我が故郷亭』のマスターがいろいろ話してくれて、だいたいの事情はわかってるつもりだ。」
 
「・・・長老達も知ってるの?」
 
「まあな・・・。と言っても長老達が聞いていたのはかなり怪しげなうわさ話ばかりだったから・・・その・・・俺がわかる限りのことは話したんだけど・・・。」
 
「・・・なるほどね・・・。」
 
「でもよけいな尾ひれは一切つけてないぞ。『我が故郷亭』のマスターから聞いたとおりのことだけだ。」
 
 実はそのマスターの話自体に尾ひれがついている可能性もある。
 
「・・・念のために聞かせてくれない?」
 
「俺が聞いたのは、お前が王国剣士としてハース鉱山へ行き、鉱山を乗っ取っていた男の陰謀を暴いて、鉱夫達を助け出した。結果として鉱山はモンスター達に占領され、当時の剣士団長が犠牲になったが、廃液を止めて自然破壊を食い止めたことと、生き残っていた鉱夫達を助け出したことへの評価は大きい、そしてその時鉱山までの案内役を務めたのがウィローで、ウィローの親父さんは鉱山の統括者だったが、乗っ取りを企む男によって殺されていた。俺が聞いたのはこんなところだ。まあこのあとで、お前らがこの件が縁でいい仲になったとか何とか話が続くんだが、その話はいいだろう。何か間違ってることがあれば言ってくれよ。ちゃんと訂正しておかなくちゃならないからな。」
 
「間違ってはいないよ・・・。そのほかにあのマスターから何か聞いた?」
 
「あとはお前の相方だった剣士の話さ。貧民街の出身で、あの宿屋で使いっ走りをしたりしていた苦労人だったそうだな。これからって時に死んじまって、悔しくてしょうがないって言ってた。・・・確かそれだけだと思うぞ。もうだいぶ前のことだからそんなにはっきり覚えているわけじゃないんだけどな。」
 
「・・・それならいいよ。」
 
「・・・お前が英雄扱いされて祭り上げられるのが嫌いなことくらい知ってるよ。あくまでも昔の話だからここだけの話にとどめておいてくれるようにって言ってあるから、心配するな。」
 
「・・・わかったよ。それで、私達には何をしてほしいわけ?出来ることなら何でも手伝うよ。」
 
「明日、時間をつくってもらえるとありがたい。」
 
「明日?」
 
「明日長老達がもう一度話し合いに来るから、そこに加わってほしいんだ。直接話してもらったほうが、お前達の考えもわかってもらえるだろうし・・・。」
 
 グレイが大きなため息をついた。とても疲れているように見える。
 
「島の運営は俺達の仕事だ。お前を巻き込みたくはないんだが・・・。ライザー達もいないし、あいつらがいたとしてもライラの親では言いたいことも言えないだろうから、俺としてはお前達をあてにしたいんだ・・・。」
 
「時間は作れるよ。でも何について話し合うのかくらいは教えておいてくれると助かるよ。こちらとしても考えをまとめておけるからね。」
 
「そうだな・・・。明日の話し合いの席上で、お前にはナイト輝石の廃液が本当に浄化できるものなのかどうかを詳しく聞かせてもらえたらと思ってる。実際に廃液を間近で見て、その毒性について詳しく知っている人間なんてこの島にはお前しかいないからな。そしてウィロー・・・君の親父さんはナイト輝石が原因で殺されたようなものだ。あの当時犠牲になった人達の数を考えても、ナイト輝石の鉱脈には、数え切れない人達の血が染みこんでいると言っても過言じゃないとさえ思えるんだ・・・。それでも本当に採掘再開をするべきなのか、してもいいのかどうか、君の意見を聞きたい、それが今日の話の結論さ。」
 
 結論と言うわりに、グレイはまだ何か言いたげだ。
 
「・・・それだけじゃないよね?」
 
「ははは・・・察しがいいな・・・。今回の話をみんなに知らせることになった場合、お前達の名前を使わせてほしいってことさ。お前達はこの島の島民みんなに信頼されてるからな。二人とも採掘再開に賛成しているって言えば、誰も反対はしないだろうと長老達は読んでるのさ。それはもちろんお前達が本当に賛成してくれた場合の話だ。勝手に名前を使うようなことは断じてしない。でも・・・俺は反対だ。お前らの名前を出すって事は、お前らに責任を押しつけるようなもんだ。そんなやり方はしたくない。」
 
 またグレイがため息をついた。彼が疲れているのは、私達を巻き込みたくなくていろいろとがんばった結果なのかも知れない。でも長老達の不安な気持ちはいたいほどにわかる。ナイト輝石の廃液について、正確な知識を持っているのは確かに私だけだろうと思う。ほとんどの人達は『廃液の臭いをかぐと即死する』とか、『肌に廃液がつくとそこから腐る』とか、根拠のないうわさ話しか知らない。そんな猛毒がふたたび大地を汚すなどと言うことになったら・・・・。そう考えただけでみんな恐怖に陥るだろう。
 
「明日のいつごろなの?」
 
 口を開いたのは妻だった。
 
「午前中には来ることになってるよ。ティートとアローラのこともラスティのやつが許したようだし。これからはあいつらも堂々と会えるしな。身内のごたごたに巻き込んで解決してもらって、またこんなことを頼んで申し訳ないと思ってるけど・・・。二人とも話し合いに出てくれるのか?」
 
「出るよ。君が困ってるのをほっとけないじゃないか。話がライラのこととなればなおさらだよ。」
 
「私も行くわよ。グレイにはこの島に来てからいろいろとお世話になってるもの。父のことは・・私にとっては未だに悲しい出来事だけど、いつまでも過去にとらわれていたくないものね。それに・・・ライザーさん達は私達にとって大事な友人だし、ライラは息子同然に思ってきたわ。みんなのために一番いい解決方法を探すお手伝いが出来るなら、私は喜んで話し合いに出席するわよ。」
 
「私も異存はないよ。明日の午前中、二人で君の家に行くよ。」
 
「ありがとう・・・。」
 
 グレイは本当にほっとしたように笑顔をみせ、私達に向かって頭を下げた。
 
「そんなに頭を下げられるとなんか緊張しちゃうよ。それに私達も君に頼み事があるんだから、お互い様って事でいいじゃないか。」
 
「祭りに出かけるって話か。その話が全然出来ないな。明日の午前中で話が決まれば、今度こそちゃんとお前と話が出来るよ。悪いけどそれまで待っていてくれないか。」
 
「わかってるよ。それより君は忙しいんだから、あんまり無理しないでね。」
 
「ああ、ありがとう。それじゃもう帰るよ。いきなり押しかけて悪かったな。ウィロー、メシうまかったよ。ごちそうさま。」
 
「どういたしまして。あんな食事でよければいつでも。」
 
「気をつけてね。」
 
 心からほっとした笑顔で、グレイは帰って行った。
 
 
 後片付けを手伝いながら妻の様子をうかがったが、いつもと変わりないようには見える。少なくとも見た目は。
 
「ねぇクロービス・・・。」
 
「ん?」
 
「あなたはどう思うの・・・・?」
 
「ナイト輝石のこと?」
 
「うん・・・。あんな話を聞くと迷ってしまうわ・・・。ライラのことを応援したいとは思うけど・・・。」
 
「・・・聖戦についてはともかく、確かにライラの作った浄化装置が正常に動くかどうか、確率は半分だからね・・・。」
 
「この話は・・・明日どうしても結論を出さなくちゃならないことなのかしら。」
 
「そう言えばそこまで聞かなかったけど、あんまり先延ばしにするのはよくないと思うよ。」
 
「そうよね・・・・。今すぐでなくていいのなら、私達が王国に行って戻ってきてからのほうがと思ったけど、変に隠していたと思われるのはよくないわよね・・・。グレイや長老達が島の人達の信頼を失うようなことになったらそれこそ大変だわ・・・。」
 
「そうだなぁ・・・。まずは事実関係だけをみんなに知らせて、多分みんなが持つであろう不安の種については王国で調査してくるからってことにするのがいいかと思ったんだけど・・・。」
 
「そうね・・・。オシニスさんならきっと詳しいことを知っているわよね。」
 
「手紙には浄化装置のことも書かれていたからね。オシニスさん本人はあんまりよくわかってないみたいだけど、王宮に行けば詳しい人はいると思うよ。ライラに会えるのが一番なんだけどな・・・。今月の定時報告にはまだ来ていなかったみたいだってカインが言っていたから、うまい具合に予定が合えばなあ・・・。」
 
「そうね・・・。ライラだって自分のしていることがこの国の人達にとってどういう意味を持つことか、よくわかっているだろうから、尋ねればちゃんと説明してくれるでしょうね。」
 
「とにかく、明日長老達に話をしてみよう。みんなライラの仕事を応援したいって気持ちは同じなんだし、きっと分かり合えるさ。」
 
「そうね・・・。ふふ・・・なんだか最近ずっとあわただしいわね。カインが騒動を運んで来たみたい。」
 
「でも運んでくるだけで持っていってはくれないんだよね。」
 
「そうよねぇ。・・・今ごろローランにいるのかしら・・・。」
 
「きっとフローラと仲よく食事でもしているよ。」
 
「お弁当食べたかな・・・。」
 
「君の作った弁当なら、きっと喜んで食べてるよ。もしかしたら明日の分なんてもうないかもしれないよ。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 食器を洗う手が止まったまま、妻が涙をぬぐっている。今朝から何やかやと騒動が持ち上がったことで寂しさがまぎれていたのだろうが、こうして二人きりになってみるとあらためてさびしさが募る。それは私も同じだ。私は食器を拭く手を止めて、妻に寄り添い髪をなでた。
 
「また帰ってくるよ。それに、あと何日かしたらまた会えるじゃないか。きっと人ごみにもみくちゃにされてぶつぶつ言いながら仕事をしているよ。」
 
「うん・・・。なんだかちっとも子離れできないわね・・・。カインが結婚したりしたら一気に老け込みそう。」
 
「老け込まないでほしいなぁ。カインが結婚したらきっとすぐに『おじいちゃんおばあちゃん』なんて言われるようになるんだよ?気持ちまで老け込んでいたら本当に年寄りになっちゃうよ。それに・・・。」
 
「・・・・・・?」
 
 言いよどんだ私に妻が不思議そうに顔をあげた。
 
「その・・・せっかくこれから二人で人生を楽しめるんだから・・・まだまだ気を若く持っていたいじゃないか・・・。」
 
 言ってるそばから顔が赤くなる。妻は一瞬きょとんとして、すぐにくすくすと笑い出した。
 
「そうよねえ・・・。そう言えばイノージェンが去年言ってたわ。ライラもイルサも出ていってしまってすごくさびしいけど、その分二人で人生を楽しめるわよって。あの頃はまだカインが家にいたからああそうなのって思っただけだったけど、今思うとイノージェンの気持ちがよくわかるわ。イノージェンもライザーさんもきっとこんな思いをしていたのね・・・。」
 
「そうだね。私も聞いたよ。イノージェンはきっとさびしい気持ちを紛らわせたくて、会う人ごとに同じことを言っていたのかもしれないよ。」
 
「そうね・・・。三ヶ月くらいで泣いてちゃ、この先一生泣き暮らすようだわ。ふふっ・・・なんだか元気が出てきちゃった。ねえクロービス、お風呂沸かしてきてくれる?こっちはもう少しだから私がやっておくわ。」
 
「了解。」
 
 妻の笑顔にほっとして、私は風呂場に向かった。これで風呂に入ってさっぱりすればもっと元気になるだろう。出来ればブロムおじさんからの提案を、今日のうちに妻に話しておきたい。
 
 
 
 案の定、風呂から上がって部屋に戻ってきたときには、妻はすっかり元気になっていて、鼻歌まで歌っていた。
 
「ごきげんだね。」
 
「ふふふ・・・少しずつ気持ちを切り替えていこうと思ったの。カインは私にとってかけがえのない大事な息子だけど、私はあの子のために生きているわけじゃないものね。それに・・。」
 
 妻はふふっと笑って肩をすくめた。
 
「孫の面倒を見てくれなんて言われたとき、体力が落ちていたら子供の相手なんで出来ないもの。」
 
「孫ねぇ・・・。」
 
「あら、さっきあなたが言ったんじゃない。すぐにおじいちゃんおばあちゃんになるって。相手がフローラかどうかはわからないってだけのことじゃない?」
 
「まあそうだね・・・。ところでウィロー、君が元気になるか元気をなくすかわからないけど、どうしても今日のうちに君に話しておきたいことがあるんだよ。」
 
「いやねぇ。聞く前から元気をなくすかもしれないなんて。何の話?」
 
「昼間ブロムおじさんから言われたことなんだけどね・・・。」
 
 私は後継者の話と、エディのことを妻に話した。妻は思ったより暗くもならず、うんうんとうなずきながら聞いていた。
 
「・・・そうね・・・。カインはあてに出来ないし・・・。でもエディかぁ・・・・。」
 
「決めたわけじゃないよ。ミレルがここで働かせてくれって言ってるだけだからね。ただ、今後は本気でこの診療所を継いでくれる人材を育てていかなくちゃならないと思うんだ。」
 
「エディは確かに本好きでライラとは話が合うようだったけど・・・どっちかと言うと学者向きじゃない?医者と医学者は違うわ。」
 
「う〜ん・・・たとえばどういうふうに?」
 
「学者に一番大切なのは、どんなことにも興味を持つことだって聞いたことがあるわ。好奇心が強くて、どんな小さな事でも根気よく調べて突きつめていけるだけの精神力も必要だと思うのよ。でも医者としては、患者の病気を興味本位で診ているようでは困るわ。医者にとってはすぐに治せる軽い風邪程度でも、もしかしたら患者さんにとっては一生を左右することになる病気かも知れないじゃない?」
 
「まあ・・・確かにそれは言えるね・・・。」
 
 病気を抱えて不安な気持ちで診療所に来ているのに、医者がうれしそうにその病気を観察していたりしたら、治るものも悪くなりそうだ。そう言う意味では確かに、医者は学者であってはいけないのかも知れない。でも医学者であった父は、この島で医者としてみんなの信頼を得ることが出来た。もっともその時点で父が、今までの研究をすべて捨ててこの島で医者として生きて行くことを決めていたからなのかもしれないが・・・。
 
「エディは真面目だし、性格も穏やかでとてもいい子だと思うわ。だけど、ライラと二人で目をきらきらさせながら書斎の本を読みあさっていたあの子に、医者としての仕事が務まるかどうかは少し不安ね。」
 
「なるほどねぇ・・・。」
 
 私はエディをあまりよく知らないのだが、妻はしっかり見ていたらしい。
 
「だからもしかしたら・・・あなたの研究のほうのお手伝いには向いてるかもしれないわよ。あの分野についてあの子が興味を持てばだけどね。」
 
「そうか・・・・。」
 
 麻酔薬の完成からもう10年以上過ぎているが、私は未だに研究を続けて改良を重ねている。麻酔薬の発表当初、私としてはこの薬を世に出すだけのつもりでいた。王国には王立医師会と言う立派な機関があり、優秀な医師も医学者もたくさんいるのだから、あとは彼らに任せようと考えていたのだ。ところが王立医師会からは『とてもこれだけの研究が出来る人材がいないから、ぜひそちらで継続して研究を進めてくれ』と言ってきた。この国の医療の最先端を担う王立医師会にしては妙に弱気な発言だ。その言葉がプライドの高い彼らの本当の意思なのかどうかはいささか疑わしかったが、ともかく私はずっと麻酔薬についての研究を続けることになり、今までに何度か改良した薬を完成させた。もちろんブロムおじさんと妻の協力があってこそだが・・・。
 
「・・・とすると、私は医者と医学者どちらなのかな・・・。」
 
「あなたって不思議よね・・・。研究しているときは学者の顔なのに、診療室に来るとすぐに医者の顔になるのよ。自然に切替が出来るの?」
 
「意識してるわけじゃないんだけどな・・・。でも、もしもエディがそこまで切替が出来れば、あるいは医者としてもやっていけるかもしれないよ。」
 
「まあ一番は本人のやる気だものね。その次に資質。・・・でもエディに限らず誰かがこの診療所を継ぐことになったら、私達どうするの?このままここに住むわけにはいかないでしょう?」
 
「そうだなあ・・・。カインがフローラと結婚すれば城下町に住むことになるだろうから・・・。そうなると私達にこんな広い家は要らないから、ブロムおじさんの家を増築してもらってそこに住もうか。そうすればおじさんと一緒に住めるよ。」
 
「なるほどねぇ。それもいいわね。」
 
「・・・まあそれも、ずっと先の話だね。せめて私達がおじさんの世話を出来る程度に体が動くうちに、おじさんと一緒に住みたいと思ってるけど・・・。」
 
「あとはブロムさんがどう言うかじゃない?なんだか長老達より説得が難しそうだわ。」
 
 妻が笑いながら肩をすくめた。
 
「う〜ん・・・そうかもね・・・。」
 
 おじさんのことだ。そう簡単に私達の申し出を受けはしないだろう。
 
「まあブロムさんのことはともかく、カインにも一度相談しないとね。なんと言ってもここはあの子の家でもあるわけだから、私達だけで勝手に決めたらかわいそうだわ。」
 
「うん・・・こう言う話が出ているってことくらいは伝えておかないとね。向こうに行った時にあいつが時間をとってくれるとありがたいんだけど・・・。仕事だろうから無理かなぁ・・・。」
 
「そうねぇ・・・。お祭りは・・・もうすぐ始まるわよね?」
 
「カインの休みが終わった日からだから・・・2日後くらいかな。最も、もう城下町あたりはすごい人出だろうけどね。」
 
「会って話ができればいいんじゃない?夜なら大丈夫でしょ。食事でも一緒にしながら一通りのことを話せばいいと思うわ。どうせ何日かはいることになるんだろうしね。」
 
「出来ればゆっくりしたいね。君と二人で出かけるなんて20年振りなんだから。」
 
「そうねぇ・・・。あれから20年も経って、王国に遊びに出かけることが出来るなんて夢にも思わなかったわ。それに・・・。」
 
 妻はふふっとうれしそうに笑った。
 
「母さんにも会えるのよね。」
 
「うん・・・。絶対行こうね。今までずっと家に引きこもっていてすみませんて謝らなくちゃならないな。」
 
「母さんはそんなことで怒ったりしないわよ。ねえ、それより私行きたいところがたくさんあるの。」
 
「どこにでも行くよ。どこに行きたいの?」
 
「ローランは港から出れば必ず通るからいいんだけど、城下町に行く前に海鳴りの祠に行きたいわ。夕べあなたの話聞いていたら、またあそこに行きたくなっちゃった。」
 
「それじゃローランから海鳴りの祠に行って、それから?」
 
「次は東の森のキャンプ場所。」
 
「・・・もしかしてローランから城下町まで歩いていくつもり?」
 
「あらだめ?せっかく久しぶりにいくんだもの。ゆっくり歩いて行きたいわ。」
 
「いいよ。急ぐ旅でもないし、ちょうどいい体ならしになるかもね。」
 
「ふふふ・・・そうよね・・・。あ、そうそう、その前にローランの南側に出来たって言う集落も見たいな。」
 
「でも普通に人が暮らしているところにいきなり行ってうろうろしていたら、不審者と間違われそうだけど・・・。」
 
「村って言うほど大きくはないのかしら。いくらローランが近いからっていっても、村だったらそれなりにお店とかあるかも知れないわ。そう言うところに行く分には変に思われなくてすむじゃない?」
 
「それじゃまずローランで情報を集めて、それからだね。」
 
「そうね。それからねぇ・・・。」
 
 妻はそのほかにもクロンファンラの王立図書館や、果てはシェルノさんの住む塔へも行きたいと言い出した。あの場所にたどり着くには船が必要だ。でなければあの『彷徨の迷い路』を通るしかない。でもそれもいいかもしれない。あの場所もまた、私たちのつらい記憶をたどる旅には欠かすことのできない場所だからだ。
 
 笑顔で話す妻を見ながら、王国行きを最初に言い出したとき妻が行きたがらなかったことを思い出していた。最初私は、デールさんのことでフロリア様に対するわだかまりがあるのだろうと考えていた。妻は否定したが、そのあと思いがけずハース鉱山の話を聞いて取り乱した様子を見る限り、多少なりともそう言った思いはあるのかも知れない。でもそれだけじゃない。実を言うと、妻がどうして王国行きに難色を示したのか、思い当たることがもう一つある。でも・・・まさかそれはないだろうと思っていた。それとも私がそう思いたかっただけなのか・・・。もしもそうなら、私は全力でそれを否定しなければならない。
 
「・・・クロービス・・・?」
 
 気づくと妻が私の顔をのぞき込んでいた。
 
「あ、ああ・・・ごめん・・・。ちょっとぼんやりして・・・。」
 
「疲れたのね。もう寝ましょうか。なんだか一人ではしゃいじゃってごめんなさい。」
 
「そんなことないよ。」
 
 言いながら妻をしっかりと抱きしめた。
 
「君が行きたいところに、全部行こうよ。せっかく王国に出て行くんだからたくさん歩いてこよう。」
 
「そうね・・・。せっかく行くんですものね・・・。」
 
 妻がひとりごとのようにつぶやき、私の胸に顔を埋めた。妻のぬくもり、長い髪、優しい声・・・。今の私にとって、そのすべてがかけがえのないものだ。失いたくない・・・。いや、何があっても失うものか。今度の王国行きで、必ず過去に決着をつけよう。そしてまたここに戻ってこよう。そうすれば今度こそ、私達は自分の人生を歩んでいくことが出来る。何者にも縛られない自由な人生を、二人でずっと・・・。
 

第43章へ続く

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