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「あの時ほど嬉しかったことはなかったな・・・。」
 
 ライザーさんが小さくつぶやく。
 
「私も・・・嬉しかったです・・・。でも、ただ待つのって・・・つらいですね・・・。」
 
「そうだね・・・。イノージェンと、産まれてくる子供が無事でありますようにって祈っているつもりなのに、もしも子供達がちゃんと産まれて来れなかったらとか、もしもイノージェンに何かあったらとか、そんな悪い想像ばかり先に立ってしまって・・・。あの時・・・君が来てくれてとても嬉しかったんだ・・・。それまでずっと一人で部屋の外で待っていて、不安で怖くて・・・どうしようもなかったんだ・・・。だから今日は僕がここにいるよ。ここにはブロムさんもいてくれるし、僕では助けにはならないかも知れないけどね・・・。」
 
「そんなことないです・・・。みんないてくれて・・・すごく嬉しいです・・・。」
 
 涙が滲みそうになり、私は慌ててライザーさんから目を逸らし、窓の外に視線を移した。外はもう暗い。ブロムおじさんにはもう帰ってもらわないと、夜道は危険だ。私は診療室の隅にじっと座っているブロムおじさんを見た。小さな丸椅子に腰掛けて腕を組み、眼を閉じている。その心の中に渦巻く不安が私にも伝わってきていた。
 
「おじさん、サンドラさん達も来てくれたし、ここは大丈夫だよ。だからあんまり遅くならない内に帰った方がいいよ。夜道は危ないんだから。」
 
 ブロムおじさんは顔をあげると、私を睨むように見た。最もこの人はいつもこんな風な表情しかしたことがないから、怒って睨んだのか、ただ単に視線を私に向けただけなのか、その心の中を感じ取ることが出来なければ、多分誰も判らないだろう。
 
「ばかを言うな。生まれるまでここにいるよ。私だって心配なんだ・・・。その・・・。」
 
 そこまで言うと、おじさんは心なしか赤くなり、
 
「お前の子供なら・・・私にとっても・・・孫同然だからな・・・。」
 
 ちいさな声でつぶやくように言葉を続け、あとはまた黙り込んで眼を閉じた。
 
「おじさん・・・ありがとう。それじゃ、今日は泊まっていってよ。」
 
 おじさんはちょっとだけ顔をあげると片目を開けて見せ、小さく頷いた。ライザーさんの隣では、子供達が無邪気に遊んでいた。優しい瞳の男の子ライラに、元気でおてんばな女の子イルサ。どうやら機嫌がいいらしく、それほど騒ぐこともせず、家から持ってきたおもちゃで思い思いに遊んでいる。
 
「ライラは・・・ライザーさんそっくりですね・・・。イルサはイノージェンそっくりだ・・・。」
 
「みんなそう言うよ・・・。分身みたいだって。」
 
 ライザーさんがクスリと笑った。
 
「分身ですか・・・。」
 
 私もつられて微笑んだ。なるほどそんな風に見えるかも知れない。
 
「ここまでそれぞれにそっくりな子供が生まれるとは思っていなかったから、僕達も正直驚いているよ。イノージェンは義母さんによく似ていたけど、僕は・・両親のどちらかにそっくりって言う顔立ちではなかったからね。僕は祖父に似ていたらしいから。」
 
「お祖父さん・・・ですか?」
 
「そう、僕が生まれるずっと前に亡くなったらしいけどね。そのあと両親がこの島に来て、僕はここで生まれたんだ。」
 
「あ、そうですよね・・・。ライザーさんはここで生まれたって・・・グレイに聞いたことがあります・・・。」
 
「ここは僕とイノージェンの故郷だ・・・。僕達にはもう両親はいないけど、これから自分達が家族を作っていける・・・。いや・・・イノージェンには・・・身内がいることはいるんだけど・・・。」
 
 イノージェンの生い立ちは私も聞いて知っていた。だが、エルバール城下町に住むお金持ちなど、たくさんいる。城下町の奥の一角に建ち並ぶ御屋敷群の中に、イノージェンの父親の住む家があるのだろうか・・・。
 
「どこの家なのか判るんですか・・・?」
 
「・・・・・。」
 
 「知らない」と言う答が返ってくるものとばかり思っていたが、ライザーさんは顔を曇らせて黙り込んでいる。考えてみれば、イノージェンの母さんから名前くらいは聞いていてもおかしくはないかも知れない。でも他人の私にそんなことを簡単に言えるわけがない。
 
「すみません・・・。立ち入ったことを聞いてしまって・・・。」
 
「いや、いいよ・・・。ただこのことは・・・僕ではなく、イノージェンの問題だからね・・・。僕が軽々しく口に出すことではないと思って・・・。」
 
 二人の間に一瞬の沈黙が流れ、それを待っていたかのように、赤ん坊の泣き声が診療室に響き渡った。
 
「産まれたか!!」
 
 ブロムおじさんが立ち上がって叫んだ。ライザーさんは、ほぅっと安堵のため息を漏らしている。程なくして、部屋の中から赤ん坊を抱いたイノージェンが出てきた。
 
「おめでとう、クロービス。ほら、元気な男の子よ。あなたに似てるわね。」
 
 イノージェンはそういうと、私に赤ん坊を抱かせてくれた。くるまれた布を通して、その体の温もりが私の腕に伝わってくる。その温かさが嬉しくて、いつの間にか涙が流れていた。
 
「お前に・・・似てるな・・・。」
 
 ブロムおじさんは涙を滲ませた瞳で赤ん坊の顔を覗き込んでいる。その表情が・・・微笑んでいるように見えた。ブロムおじさんは、私が物心ついた頃には既に父と一緒にいたが、この人が微笑んだところを見たのはこれが初めてだった。
 
「よかったな・・・クロービス・・・。」
 
 おじさんはそう言うと、私の肩をポンと叩き、目を擦りながら診療室の片づけを始めた。
 
「おめでとう、クロービス・・・。ブロムさんの言うとおり、この子は君に似ているよ・・・。よかった・・・。無事に生まれて・・・。」
 
 ライザーさんも、そう言いながら流れる涙を擦っている。1年前・・・妻が流産したあの日から、この二人はきっと、今日という日を待ちわびていたに違いない。
 
「名前を考えてあげなくちゃね。」
 
 イノージェンはにこにこしながら赤ん坊の顔を覗き込んだ。
 
「名前・・・。」
 
 名前なら・・・あれしかない・・・。
 
「名前ならもう決めてあるよ。」
 
「あら、用意がいいのね。男の子かどうかも判らなかったのに?」
 
 イノージェンが驚いたように顔をあげた。
 
「女の子だったら・・・これから考えなくちゃならなかったけど・・・男の子だからね・・・。カインて言うんだ・・・。」
 
「クロービス・・!?」
 
 ライザーさんがぎょっとして私の肩をつかんだ。
 
「よく・・・考えたのか・・・?この子は君とウィローの子供だ・・・。誰の代わりでもないんだよ・・・?」
 
「はい・・・。わかってます・・・。代わりなんかじゃない・・・。でも、あのカインのように・・・まっすぐで、純粋で、そして心の優しい人間に・・・なってほしい・・・。子供が出来たって判ってから、ずっと・・・考えていたんです・・・。もしも男の子だったら・・・カインてつけたいって・・・。」
 
 言いながらまた涙が流れた。あれからもう3年近くにもなるというのに、未だに私は、カインを失った喪失感を拭い去れないでいる。
 
「カインて・・・クロービスのお友達だった人よね?どこか遠いところで亡くなったって言う・・・。」
 
「そうだよ。」
 
「あなたがこの子にその名前をつけたいなんて、きっとその人はとてもいい人だったのね。」
 
「うん・・・。すごくいい奴だったんだよ・・・。」
 
「でも・・・。」
 
 ライザーさんはなおも心配そうに何か言いかけたが、イノージェンがそれを押しとどめた。
 
「ライザー、この子の名前は、クロービスとウィローの問題だわ。あなたがクロービスのことを心配する気持ちはよく判るけど、このことは二人に任せましょ。クロービス、ウィローには相談したの?」
 
「まだだよ。」
 
「それじゃ、まずは話してみてからよね。もう入れると思うわよ。」
 
 その時バタンと扉が開き、サンドラさんが荷物を抱えて出てきた。
 
「クロービス、おめでとう。ウィローはもう話が出来るよ。ただし、クロービス以外は遠慮しておくれ。まだお産を終えたばかりなんだからね。」
 
「サンドラさん、お世話になりました。」
 
「いいんだよ。これがあたしの仕事なんだ。また一人かわいい子供を取りあげることが出来て、こんな嬉しいことはないよ。」
 
 サンドラさんは微笑んでそう言うと、やれやれというように診療室の椅子に腰を下ろした。
 
「クロービス、台所を借りるわね。サンドラおばさん、今お茶を煎れるわ。」
 
「いいよ、好きに使ってよ。」
          
 イノージェンは台所に姿を消し、私は赤ん坊を抱いたまま、妻がいる部屋に入った。妻は横になっていたが眠ってはいなかった。体力を使い果たしたのだろう、疲れた顔をしていたが、私を見ると体を起こして微笑んだ。
 
「クロービス・・・。」
 
「寝てなくちゃだめだよ。・・・ウィロー・・お疲れさま・・・。それから・・・ありがとう・・・。元気な子供を産んでくれて・・・。」
 
 もっと言いたいことがあったのに、私はそれだけを言うのがやっとで、あとは涙がこみあげてきて言葉に詰まってしまった。
 
「うん・・・。あなたが喜んでくれるのが・・・すごく嬉しい・・・。」
 
 妻も微笑みながら涙を流している。1年前のあの日から、誰よりも今日という日を待ちわびていたのは・・・多分妻だったに違いない。
 
「ウィロー・・・この子の名前なんだけど・・・。」
 
「名前か・・・。考えてあげなきゃね・・・。」
 
「・・・実は・・・もう考えてあるんだけど・・・。」
 
「あら、どんな名前?」
 
 妻はちょっと驚いたような顔をした。
 
「カインて・・・・つけたいんだ・・・。だめかな・・・?」
 
 妻はその名前を聞くとびくっと体を震わせ、瞳からはまた涙が溢れた。そして小さく頷くと
 
「それじゃ・・・きっとこの子は元気に育つわね・・・。」
 
そう言って赤ん坊の顔を覗き込んだ。
 
「うん・・・。きっと元気で大きくなるよ。彼の命は受け継ぐことは出来ないけど・・・名前だけは・・・。思い出すたびにつらい名前じゃなくて、私達の大切な子供の名前として、受け継いでいってやりたいんだ・・・。」
 
「そうね・・・。でもきっと・・・命も受け継がれていくのよ・・・。」
 
「命も・・・?」
 
「そうよ・・・。あの時・・・私達にとって大事な人達が、たくさん亡くなったわ・・・。そしてこの島に戻ってきてから、ライラとイルサが生まれて、ラスティのところのアローラが生まれて、そして今日は私達のところにも子供が生まれた・・・。きっとこういう形で・・・命は受け継がれていくのよ・・・。でももちろん・・・この子はカインの代わりなんかじゃない。あなたと私の大切な子供よ・・・。だから、大事に育てましょう・・・。」
 
「そうだね・・・。そしてカインみたいに・・・まっすぐで純粋で・・・心の優しい子になるように・・・。」
 
「そうね・・・。」
 
 妻は私から赤ん坊を受け取ると、愛おしそうに顔を眺め、そっと囁いた。
 
「カイン・・・。あなたの名前はカインよ・・・。」
 
 赤ん坊は・・・いや、カインは、自分の名前など判っているのかいないのか、眩しそうに辺りを眺めてきょろきょろしている。暗いお腹の中から、いきなり外の世界に出てきて戸惑っているのかも知れない。やがてカインは、妻の胸のあたりに顔をこすりつけ始めた。
 
「あれ・・・?どうしたのかな・・・。」
 
 妻はどうしていいものか判らず、戸惑っている。私もカインが一体何をしたいのかなどわかるはずがない。カインはしばらくそうしていたが、突然火がついたように泣きだした。妻はますます戸惑って、揺すったり背中をぽんぽんと叩いたりしてみるが、一向に泣きやまない。
 
「ちょっといい?」
 
 部屋の扉がノックされて、イノージェンが入ってきた。
 
「ねぇ、この子どうしたのかしら・・・?」
 
 妻は不安そうにイノージェンに尋ねた。
 
「そうねぇ・・・。」
 
 イノージェンは、カインのお尻の辺りを触っていたが、
 
「おむつじゃないみたいだから・・・おっぱいかな・・・。」
 
「あ・・・そうか・・・。」
 
「ほらウィロー、服の前を少し緩めてね、赤ちゃんはこう抱いて・・・。」
 
 イノージェンは慣れた手つきでおっぱいの飲ませ方を妻に教えている。私は何も出来ず、ただ黙ってその光景を眺めていた。
 
「うわぁ・・・。よく飲むわ、この子・・・。まだ生まれてからそんなに経ってないのにね・・・。」
 
 イノージェンは感心したようにカインの飲みっぷりを見ている。
 
「何だか・・・体中の水分とられそうねぇ・・・。」
 
 妻も半ばあきれ顔で、猛然とおっぱいを飲み続けるカインを見つめていた。
 
「そうよ。多分喉が渇くと思うから、枕元にお水を置いておくといいわ。」
 
 そのまましばらく、私達はカインの顔を眺めていたが、
 
「きっと・・・元気に育つわよね・・・。」
 
不意にイノージェンが震える声でつぶやいた。その瞳からは涙が幾筋も流れ落ちている。
 
「あ、あら・・・ごめんなさい・・。今日はおめでたい日だって言うのにね・・・。」
 
 それでも涙は止まらず、少しの間イノージェンは私達に背中を向け、肩を震わせていた。彼女もまた・・・今日という日を待ちわびていた一人だったのだ・・・。自分さえ子供達をちゃんと気に掛けていてやれば、あの時妻は流産などしなかっただろう。そうしたらあの時の子供は、もう今頃はとっくに産まれていたかも知れない。言葉が聞き取れたわけではなかったが、イノージェンの心からはそんなやりきれない思いが痛いほど伝わってきていた。
 
「イノージェン・・・もういいんだよ、あの時のことは・・・。だって・・・ライラは今元気じゃないか・・・。そんなに気に病まないでよ。それに君はウィローの先輩なんだからさ、これから色々教えてよ。」
 
 私の言葉にイノージェンは振り返り、涙をゴシゴシと拭うと、まだ赤く腫れた瞳のままにっこりと微笑んだ。
 
「ありがとう、クロービス・・・。ふふ・・・先輩か・・・。いいわ、私で判ることなら何でも教えてあげる。そうね・・・。まずはおっぱいを飲んだあとのゲップのさせ方かな・・・。」
 
「ゲップ?」
 
「そうよ。赤ちゃんはね、おっぱいを飲む時に空気も一緒に飲み込んじゃうのよ。だから、飲んだあとに空気だけ出してあげなくちゃならないの。でないと、せっかく飲んだおっぱいまで吐いてしまうのよ。」
 
 そしてイノージェンは、飲み終えて満足そうなカインを抱き上げると、首を支えたままひょいと縦抱きにして、小さな背中を指先でトントンと叩きながら、ゲップのさせ方を見せてくれた。やがてカインの口からは大人顔負けの大きなゲップが出て、私達は思わず笑い出してしまった。
 
「随分大きいゲップが出るなぁ。こんなに小さいのにね。」
 
「ふふふ・・・そうね。それだけたくさん空気を飲み込んでたってことね。最もあれだけ飲んだんだから当たり前かもね。」
 
 イノージェンはくすくすと笑いながら、今度はおむつの替え方などを私達に教えてくれた。
 
「クロービス、憶えた?ウィロー任せにしないで、あなただってちゃんとおむつ替えたりしなくちゃだめよ。」
 
「わ、わかってるよ。ちゃんとやるよ。二人の子供なんだから・・・。」
 
「あら、いい心がけね。その調子で頑張ってね。あ、それからね、お風呂に入れるのは、手の大きい男の人の方がいいのよ。あとでライザーから教えてもらうといいわよ。」
 
 イノージェンは笑顔でそう言うと、部屋の外に出ていった。扉の隙間から声が聞こえる。
 
「ねぇ、ライザー、あとでクロービスに赤ちゃんのお風呂の入れ方教えてあげてね。」
 
「僕が・・・?い・・・いいけど・・・でも君だって教えてあげられるじゃないか・・。」
 
「あら、だってライラもイルサもあなたがいつも入れてくれてたじゃないの。お願いね。」
 
 心なしか照れたようなライザーさんの声に、イノージェンの甘えたような声。
 
「相変わらず仲がいいわね、あの二人は・・・。」
 
 妻が外の声を聞きながらくすっと笑った。その声に呼応するかのようにカインが何か声をあげた。また泣き出すのかと慌てて顔を見ると、何とにこにこと笑っている。
 
「あら、カインたら笑ってる・・・。」
 
「今の話、判ったのかな・・・こいつ・・・。」
 
「まさか・・・。」
 
 あまりのタイミングの良さに、二人とも笑い出してしまった・・・。










 
 あれから・・・『カイン』と口に出しても、もう涙が滲むことはなかった。私達二人の中で、その名前はもう『かわいいわが子の名前』になっていたからだ。あれから18年・・・。あの時の赤ん坊は立派に成長し、王国剣士となった。私の願いどおりに、純粋でまっすぐで心の優しい子に育ってくれた・・・。
 
「あれから・・・私達は・・・カインの死から立ち直れたって思ってた・・・。やっと・・・つらい記憶を振り切ることが出来たって・・・。でも・・・そうじゃなかったのかしら・・・。」
 
 妻は私の前に座り込み、涙を流している。私もずっと床に座ったままだったが、もう何も見えていなかった。まぶたの裏には『カイン』の姿が焼きついている。血の海の中で、私を責め続けるかのように・・・死の微笑みを浮かべている・・・。
 
「・・・もう寝よう。・・・疲れてるのかもしれない・・・。」
 
 やっとの事でそれだけ言うと、心細そうに私を見上げる妻に何一つ言葉をかけてやることもできず、重い足を引きずって寝室へと引き上げた。あの時・・・つらかったのは私だけじゃないのに・・・。妻がどれほど傷つき打ちひしがれていたのか判っているのに・・・。ベッドに潜り込み、布団を頭からかぶった。やがて足音が聞こえて、妻が寝室に入ってきたのが判った。ちいさな声で「お休みなさい。」と聞こえたが、返事をすることもできなかった。あまりにも自分自身が情けなくて、涙が出た。眼をつぶってもなかなか眠りはやってこない。それどころか、まぶたの裏に浮かんだカインの顔が鮮明さを増していく。結局私は朝までほとんど眠ることが出来ず、おかげであの夢は見ないで済んだ。
 
 やがて夜が明け、朝日がカーテンの隙間から差し込んできた。周囲が明るくなっても、私の心には重い闇が渦巻いていた。昨夜・・・脳裏に響いてきたあの不気味な声・・・。思いがけず昔話をした後に、私を嘘つきと罵った・・・あの声・・・。あの声と話すうちに思いだしたカインの顔・・・。血の海の中の・・・微笑み・・・。
 
(どうすれば・・・よかったと言うんだ・・・・。)
 
 ベッドの上に起きあがっては見たもののそのまま動く気にもなれず、私はただぼんやりと空を見つめていた。その私の肩に何か暖かいものが触れたような気がして、私は思わず顔をあげた。そこには妻がいて、私の肩に手をかけ、心配そうに見つめていた。いつだって妻は私のそばにいてくれる・・。それなのに昨夜の私は自分のことで精一杯で、妻に何一つ言葉をかけてやることが出来なかった。
 
「昨日は・・・ごめん・・・。」
 
「・・・いいのよ・・・。あの時一番つらかったのは・・・あなただものね・・・。」
 
「それは君だって・・・同じじゃないか・・・。なのに私は・・・自分のことしか考えられなかったんだ・・・。」
 
「・・ねぇ、クロービス、あなた昨日の夜、カインの声が聞こえたっていったわ・・・。本当に聞こえたの・・・?」
 
 私の頭の奥に語りかけてきた声・・・。昨夜私は、それがカインの声ではないかと、確かに妻に言った記憶がある。だが、本当にそうなのだろうか・・・。自分の死を忘れるなと、お前が殺したことを忘れるなと、そのために血まみれの姿を見せているのだろうか・・・。
 
「判らない・・・。」
 
「・・・なんて言っていたの・・・?」
 
 あれほど半狂乱になっていたというのに、私は昨夜自分の頭の中に聞こえてきた声を、驚くほどはっきりと憶えていた。話すに連れて脳裏に浮かぶカインの姿は鮮明になり、動悸が激しくなって背中を冷たいものが流れていったが、それでも何とか私は、妻に昨夜自分が聞いた声のことを全て話すことが出来た。やっと話し終えて、まるで激しい運動でもしたかのように胸を押さえて息を切らせる私を、妻は心配そうに見つめている。
 
「私は・・・どうすればよかったんだろう・・・。忘れなければよかったのかな・・。でも・・・忘れずに生きていくことなんて・・・あの時の私には出来なかったんだ・・・。」
 
「私だってそうよ・・・。忘れずになんていたら・・・ここまで生きては来れなかったかも知れない・・・。本当に・・・どうすれば・・・よかったのかしらね・・・。」
 
 そのまましばらくの間、二人とも黙り込んでしまった。きっとこの問いには、答などない・・・。
 
「ねぇ、クロービス。」
 
 やっと妻が口を開いた。
 
「こんなこと言うのは・・・ひどいことだと思うけど・・・今はそのことよりも、カインの・・・私達の息子のカインのことを何とかしてあげたいの。今日はフローラも落ち着いているでしょうから、話を聞いてあげたいの・・・。」
 
 私はここで初めて、昨日カインが連れてきた娘のことを思いだした。カインが意気込んで結婚したいと言っていたのに対し、とうとう返事をせずに涙ぐんでいた娘。遠い昔・・・世話になった知人の娘・・。そうだ、そのことを何とかしてやらなければ・・・。
 
「そうだね・・・。今日は・・・ちゃんと話を聞いてあげよう・・・。」
 
「・・・大丈夫・・・?」
 
「大丈夫だよ。ごめん・・・。そのこと・・・今の今まで忘れてた・・・。これじゃ父親失格だね・・・。」
 
「そんなことないわよ・・・。それじゃ、先に行ってるわ。」
 
 妻は寝室を出ていき、私もやっとの事で着替えを終えて食堂へと向かった。
 
 
 やがて食事の支度が出来上がったころ、カインが起き出してきた。眼のあたりが腫れている。
 
「おはようございます。」
 
 フローラが食堂に現れた。
 
「おはよう。昨日は眠れた?」
 
 妻が微笑んで声をかける。カインは黙ってフローラから眼をそらしたまま、一言も言葉をかけようとしない。このあたりが、やはりまだまだ子供だ・・・。一人で舞い上がって、強引に話を進めようとして、うまくいかないとなったらへそを曲げる。今日のフローラとの話の内容によっては、フローラを一足先に家に帰したほうがいいのかも知れない。
 
「はい・・・。昨日は申し訳ありませんでした・・・。」
 
 フローラは私達に向かって頭を下げた。眼が赤い。この娘も昨夜は眠れなかったのかも知れない。
 
「いいのよ。食事の用意も出来たことだし、いただきましょう。」
 
 妻はフローラに席に着くよう促した。その時、食堂の扉がバタンと開き、ブロムおじさんが顔を出した。
 
「おはよう、おじさん。」
 
「おはようございます。ブロムさん。」
 
「・・・おはよう・・・おじさん・・・。」
 
 カインだけが元気なく挨拶をする。
 
「おはよう。お、今日はお客様も一緒だな。」
 
 ブロムおじさんはフローラに気づき、笑いかけた。私は簡単に、フローラをブロムおじさんに紹介した。
 
「・・・おはようございます。あの・・・フローラと申します・・・。」
 
「あ、いやいや、そんなにかしこまらないでくれ。私はブロムだ。よろしくな。こんな年寄りだが仲良くしてくれよ。」
 
 丁寧に頭を下げるフローラに、ブロムおじさんは少し照れたように挨拶を返した。みんなテーブルについて食事を始めたが、カインがしょんぼりしているとやはり食卓は静かだ。食事が終わって私は一度診療室に行ったが、おじさんに午前中の仕事を任せてまた戻ってきた。フローラの真意を確かめなければならない。食堂に戻ると、カインは黙ったまま椅子に座っている。フローラは身の置き所がないように、部屋の隅に立っている。妻は後かたづけをしようとしたが、ふと思い立ったようにフローラに声をかけた。
 
「ねぇ、フローラ、後かたづけを手伝ってくれる?」
 
「は、はい・・・。すみません。気づかなくて・・・。」
 
 フローラは消え入りそうな声で答え、慌てて妻のあとを追って部屋を出た。私は食堂でぽつりと座るカインを促し、となりの部屋のソファに座らせた。
 
「何をそんなにふくれているんだ?」
 
 私の問いにカインは意外そうに顔をあげた。
 
「何って・・・。そんなの決まってるじゃないか。」
 
「自分の思い通りに行かないとなったらその態度か?」
 
「だって・・・。」
 
「お前がそんなだから、フローラだって何も話す気になれないんじゃないのか?もう彼女には帰ってもらったほうがいいかも知れないな。ここにいる間中、お前にそんな眼で見られるんじゃかわいそうだよ。」
 
「だって・・・。フローラがあんなこと言わなけりゃ・・・。」
 
「フローラのせいか?一人で舞い上がって、勝手に話を進めようとしたのはお前だと思うけどな。」
 
「それは・・・。」
 
 ここで口ごもるところをみると、やはり強引に話を進めようとしていたのかも知れない。
 
「とにかく、フローラに謝りなさい。お前のような未熟者が結婚なんて考えるのは10年早いよ。」
 
「そんな言い方ないよ。僕だってもう子供じゃない。」
 
「父さんはお前が18だから未熟だと言っているんじゃない。お前の精神がまだまだ未熟だと言っているんだ。お前は充分子供だよ。他人の心も思いやれないくらいにね。」
 
 その時、食事の後かたづけを終わったらしい妻とフローラが、お茶の用意を持って部屋に戻ってきた。
 
「あの・・・カインを責めないでください。悪いのは私なんです・・・。」
 
 つらそうな緑の瞳が私を見つめる。私はフローラを促し、カインの隣に座らせた。そのカインとフローラを心配そうに見つめながら、妻もわたしのとなりに腰を下ろした。
 
「・・・君の気持ちを聞かせてくれないかな・・・。実のところ私達にはさっぱりわけがわからないんだ。カインがいきなりかわいいお嬢さんを連れてきて、結婚したいと言いだしたはいいが、君のほうにはその気はないみたいだし、ではどうしてここまでついてきたのかという疑問も残る。それに・・・立ち入った聞き方をして申し訳ないが、どうも君はお父さんの病気以外に何か心配事があるように見えるんだ。ただ、それについては君が話したくないなら話さなくていいけど・・・。カインはこんな早とちりでおっちょこちょいだけど、それでも私達の息子だからね。親としてはやっぱり心配なんだよ。」
 
 フローラはしばらく視線を下に落とし、何事か考え込むように眼を閉じた。が、やがて決心したように眼を開いて、私を見た。
 
「おっしゃること、解ります。私が悪いんです。・・・ちゃんと決心がつかないままついて来てしまったから・・・。」
 
そういうと、フローラはカインのほうに向き直った。
 
「カイン・・・ごめんなさい・・・。私、あなたの言葉嬉しかったの・・・。ご両親に紹介してくれるって聞いて、とても嬉しかった・・・。父さんも姉さんも喜んでくれて・・・。だから断れなくて・・・。」
 
「フローラ・・・。それじゃどうして昨日、ちゃんと言ってくれなかったのさ?それに・・・断れなくてって・・・どういうこと?」
 
 カインは切なそうな瞳でフローラを見つめている。
 
「それは・・・。駄目なの・・・。とうとうここまで来てしまったけど・・・。でも私がばかなの。ごめんなさい・・・。」
 
「どうして謝るんだ!?それともやっぱり・・・遊びだったとか・・・。」
 
「違うの!それは違う!それだけは・・・信じて・・・。遊びだったら、ここまでついて来たりしないわ・・・。」
 
 フローラの瞳から涙が落ちる。
 
「・・・ごめん・・・。君の気持ちを疑いたいわけじゃないんだ・・・でも、僕だってわけがわからないんだよ。そりゃ・・・まだ知り合って3ヶ月で、いきなり結婚したいなんて言いだしたのは僕だから・・・君が戸惑うのはわかるよ・・・。でも、君は一番大事なことを話してくれてないじゃないか。どうして駄目なのか、その理由を聞かせてくれずに、ただ駄目だからって言われたって僕は納得しないよ!」
 
「・・・それは・・・。」
 
 フローラの肩が小刻みに震える。
 
「それとも・・・誰か反対する人でもいるの?君の父さんもシャロンも、僕がここに君を連れてきたいって言ったら、すごく喜んでくれたけど・・・。もしも他に反対する人でもいるなら、僕がちゃんと会って説明するよ。」
 
「ちがうの。そんなことじゃないの。私達のことを反対する人なんていないわ。誰も・・・。」
 
 何だろう・・・。この娘は何かを隠している。何とかそれを言わずにすませたいと思っている。でもきっとそれではカインが納得しないことを、わかってもいる。どうすればいいのか何と説明すればいいのか、わからないまま話しているから、これほどまでに要領を得ない言葉になってしまうのかも知れない。
 
「それじゃどうして!?はっきり言ってくれなくちゃ、わからないじゃないか!」
 
 フローラは落ち着かなげに視線を泳がせながら、無意識に手に持ったハンカチをねじったり広げたりしている。そんなフローラの肩に、カインがそっと手をかけた。
 
「フローラ・・・先走って君のこと振り回しちゃって、ごめん・・・。でも僕は君のこと好きだから、だから何か理由があるならちゃんと知りたいんだ。聞かせてよ。どうして僕じゃ駄目なんだ!?」
 
「違う!あなたが駄目なんてことない!!そんなことじゃないのよ。お願い・・・もう聞かないで・・・。」
 
「どうしても駄目なの・・・?聞かせてはくれないの・・・?」
 
 カインが今にも涙が落ちそうな瞳で、フローラの顔を覗き込む。フローラは苦しそうに眉根を寄せ、カインから視線を逸らすと、何かを振り切ろうとするかのように頭を横に振り、立ち上がった。
 
「私は・・・ここに来るべきではなかったの。だから・・・もう帰ります。お世話になりました。」
 
 フローラはそう言い残し、一礼すると部屋の扉に向かって歩き出そうとした。カインはさっと立ち上がり、ソファをひらりと飛び越えると、フローラの前に立ちはだかった。
 
「帰さないよ・・・。理由を説明してくれるまでは・・・。」
 
「カイン、お願いよ・・・!このまま帰らせて・・・。ここまでついて来てしまったことであなたに迷惑をかけたことは・・・謝るわ。でも私はここにはいられないのよ!」
 
「だからその理由を聞かせてくれって言ってるじゃないか!」
 
「だからそれは・・・!!」
 
「それは?僕はその続きを聞きたいんだ!」
 
 フローラはカインの脇をすり抜けて扉に向かおうと飛び出した。その瞬間カインの腕がフローラを捉え、そのまましっかりと抱きしめる。
 
「カイン・・・!!ご両親が見てるじゃないの!!」
 
「見てたって構わないよ!!君の口からちゃんと理由を聞くまでは帰さないからね!!」
 
「カイン・・・お願い。離して!・・・」
 
 フローラはなおもカインの腕から逃れようとするが、カインはしっかりと腕に力を込めてフローラを抱きしめている。また昨日のようなことになるのなら、止めなければならない。私はカインをたしなめようと立ち上がりかけた。その時、絞り出すような苦しげな声でフローラが叫んだ。
 
「・・・私・・・私は姉さんを裏切れないの!!」
 
「姉さん!?」
 
「シャロンか!?」
 
 カインと私が同時に聞き返した。悲鳴にも似た叫びの後、フローラは両手で顔を覆い、そのままカインの腕の中でぐったりしてしまった。
 
「君の姉さんがどうかしたの!?・・・フローラ!?」
 
 カインが驚いてフローラを揺さぶるが、フローラは動かない。多分・・・極度の緊張状態が続いて、一時的に気を失ったのかも知れない。
 
「カイン、とりあえずここに寝かせて!!診療室から毛布を持ってきてくれ!!」
 
 私はカインを促し、一番大きなソファにフローラを寝かせた。冷たいタオルをあてがい、意識を取り戻すまでしばらく安静にしておくことにした。気付の呪文でも唱えれば、すぐに眼を覚まさせることは可能だが、この娘には少し休息が必要だ。カインは部屋を飛び出すと、すぐに毛布を抱えて戻ってきた。それをフローラに掛けてやりながらソファの脇の床に座り込み、半べそ顔で心配そうにフローラを見つめている。
 
「大丈夫だよ。意識を失っているだけだ・・・。かわいそうに・・・ここに来てからずっと緊張していたんだろうな・・・。」
 
「僕が・・・追いつめちゃったのかな・・・。」
 
「全然責任がないとは言い切れないと思うけど・・・いまさら気に病んでも仕方ないよ。」
 
「だって・・・僕にだってわけがわからないんだよ。ここに来てからいきなりフローラの態度が変わっちゃったんだもの・・・。」
 
「気持ちは解るけど・・・でも姉さんのことって、一体どういうことなんだろうな・・・。」
 
「でも、シャロンは僕達のこと反対しているわけじゃないはずだよ。僕がフローラを家に連れて行きたいって言ったら、すごく喜んでくれたよ。あの笑顔が嘘だったなんて思えない・・・。」
 
「とにかく・・・フローラが目を覚ますまで待とう。」
 
「気付の呪文使ったら、すぐに目を覚ますかな・・・。」
 
「やめておきなさい。少し休ませてあげた方がいいよ。」
 
「そっか・・・。」
 
「それじゃ、私は今のうちにお湯を沸かしてくるわ。みんなに少し落ち着いてもらわないとね。これでは昨日と同じよ。フローラがかわいそうだわ・・・。」
 
 妻はため息をつきながら立ち上がると、台所に姿を消した。そしてしばらくして、お湯のたっぷり入ったポットを抱えて戻ってきた。やがてフローラが目を覚ました頃には、気持ちを落ち着かせると言われるハーブで作ったお茶が人数分出来上がっていた。
 
「フローラ、まずはこれを飲んで、一息ついて、それからどうするか決めましょう。」
 
 妻の笑顔に緊張がほぐれたのか、フローラが少しだけ微笑んだ。
 
「ありがとうございます・・・。すみませんでした。ご迷惑お掛けして・・・。」
 
「いいのよ。さあ、みんなも飲んでちょうだい。話はそれからよ。」
 
 みんなでお茶を飲み一息ついた時、お茶の効果かすっかり落ち着いた声で、カインがフローラに話しかけた。
 
「フローラ・・・落ち着いた?」
 
「うん・・・。カイン・・・ごめんなさい。あなたにしてみれば・・・わけがわからないわよね・・・。私ったら一方的に自分のことばかりで・・・。あなたの気持ちを思いやる余裕すらなかったわ・・・。」
 
「僕のことなんていいんだ。でも・・・さっき君は、シャロンのことを裏切れないって言ったよね・・・?そのことを聞かせてくれないか・・・。君が何か心配事を抱えているらしいのは、前から気づいていたんだ。でも君が何も言わないのに、僕が根ほり葉ほり聞いてはいけないような気がして・・・。それに、そんなにしょっちゅう会えるわけじゃないんだから、せめて一緒の時くらい、楽しいことを話したかったんだ。でもやっぱり・・・ちゃんと聞いてあげればよかったんだね・・・。ごめんね、フローラ・・・。」
 
「謝らないで・・・。あなたはいつも私を気遣ってくれるわ・・・。なのに私は・・・。ここまでついてきて、あなたを振り回してしまったのは私のほうよ・・・。」
 
「そんなことないって・・・。僕は・・・ずっと君と一緒にいられるのが、何より嬉しかったんだ・・・。」
 
 カインはこらえきれないようにフローラの肩に腕を回した。
 
「ねぇ・・・さっきのこと・・・話してくれるよね?」
 
 フローラは青ざめた顔で唇を噛みしめたまま、涙をためた瞳でしばらく考え込んでいた。
 
「僕は君より若くて頼りにはならないかも知れないけど・・・君の力になりたいんだ・・・。」
 
 カインの瞳からも涙が流れ落ちた。二人の心の中に渦巻く切なさと悲しみが、そのまま私の心の中にまで流れ込んでくるような気がした。
 が・・・その姿にいつの間にか妻と自分の影がだぶる。そして脳裏に甦る血の海・・・。胸を締めつける恐怖・・・。めまいがしそうなのをこらえて、私はまわりに気づかれないように小さく深呼吸した。フローラは少し落ち着いたらしく、カインから体を離すと私達に向き直った。
 
「お話しします・・・。」
 
 私達は黙って頷いた。
 
「昨日お話ししたように、私の母は10年前に亡くなりました。そして私の姉シャロンと私は半分しか血がつながってないんです。・・・ご存じでしたか?」
 
 フローラは私を見た。そんな話は初めて聞く。セディンさんもおかみさんも、シャロンにもフローラにも分け隔てなく接していた。とてもそんな風には見えなかった。私は記憶の糸をたぐり寄せながら慎重に言葉を選んだ。
 
「いや・・・私はセディンさんの家の中の事情までは知らない・・・。でも君の姉さんのことはよく憶えているよ。私達が店に行くとカウンターの向こうからちょこんと顔を出してね、にこにこしながら『いらっしゃいませ』と迎えてくれたっけ・・・。あのときはまだ8歳か9歳くらいだったと思うけど。」
 
 シャロンの成長した姿は想像がつかないが、小さな頃の顔立ちを思い出してみても、確かにフローラとはあまり似ていないような気がする。そしてセディンさんとも・・・。父親が違うということなのだろうか。
 
 私の言葉に頷いて、フローラはまた話を続けた。
 
「私の母は、小さかった姉を連れて父と結婚しました。そしてその後私が生まれましたが、そのころ父は独立して雑貨屋を開店させたばかりだったので、赤ん坊を抱えた生活はかなり苦しかったみたいです。それでも少しずつお客さんが増えていって、やっと軌道に乗り始めた頃に母は風邪をこじらせてあっけなく亡くなりました。それまでの無理がたたったんだと思います。それが10年前です。」
 
 私達が雑貨屋に出入りしていた頃は、おかみさんは元気そのものだった。いや、それとも実はそう見せていただけだったのだろうか。少なくとも、二人が働きづめに働いていたのは確かだっただろう・・・。
 
「それからは姉が私の母親代わりになってくれました。一緒に遊んでくれて、勉強も教えてくれて、いじめっ子からも守ってくれて・・・。いつも私のそばにいてくれました。私は学校を卒業した15歳くらいから家の仕事を手伝えるようになりましたが、そのころから今度は父の体の具合が悪くなってしまいました・・・。結局姉は、今度は家の仕事を切り盛りしなければならなくなってしまい、もう29歳になるというのに未だに独身なんです。姉は、私がカインとおつきあいすることをとても喜んでくれて、温かく見守ってくれています。だから私は早く結婚して姉を安心させてあげたかった・・・。そうすれば姉も自分の幸せを考えてくれると思って・・・。でも・・・。」
 
 言葉がとぎれ、フローラの眼から涙がぽとりと落ちた。
 
「君の親父さんとシャロンは血がつながっていなかったのか・・・。」
 
 カインは呆然としている。
 
「お前も知らなかったのか・・・。」
 
「う・・・うん・・・全然・・・。」
 
 カインが青ざめてうなだれた。
 
「・・・そうか・・・君とあんまり似てないから、僕はてっきりシャロンは亡くなったお母さん似なんだと思ってた・・・ごめん、フローラ、そんなこと全然知らなくて・・・。」
 
「いいの。私も話す決心がつかなかったの。それに・・・。」
 
「それに?」
 
 カインがオウム返しに聞き返す。
 
「それに・・・。」
 
 フローラはなかなかその続きを話そうとしない。何かまだよほどの事情があるのかもしれない。とにかくフローラが話し出すまで辛抱強く待ってみようと私達は黙っていた。やがてフローラは決心したように一気に話し始めた。
 
「母が亡くなるとき、最期の頃はもう意識もはっきりしなくて、うわごとで何かを言い続けていました。私は母の声をしっかりと憶えておきたくて、少しでもたくさん聞いておこうと母の口元に耳をつけるようにして聞いていたんです。」
 
「何か言ってたのか?」
 
 カインが口を挟む。フローラは顔をあげ、頷いた。
 
「・・・母は姉を呼んでいたわ・・・。そして、『もう忘れて』って、『父さんのことはもう良いから』って・・・。」
 
「どういう意味なんだ・・・?君は知っているのか・・・?」
 
 カインが意気込んで尋ねる。
 
「わからないの・・・。どういうことなのか・・・。私はなんだかすごく怖くなって、慌てて姉を呼んできたわ。そして母の口元でその言葉を聞いた姉は・・・・泣きながら『どうして!』って、『そんなこと言わないで』って、そして・・・『あきらめないで』って泣きながら母の体を揺さぶっていて・・・。」
 
 その時の光景を思い出したのか、フローラは声を詰まらせた。そしてハンカチで涙をぬぐうと、もう一度大きく深呼吸して言葉を続けた。
 
「その日の夜遅く母は亡くなりました。母の言葉の意味を姉は知っていたようだけど、なんだか怖くて、その話をすることが出来ませんでした。そのあと何度も聞いてみようと思ったけど・・・勇気が出なくて・・・。」
 
「君の親父さんに何か秘密があるってことなのかな?」
 
 カインが首を傾げる。
 
「いいえ・・・。母が言ってた『父さん』ていうのは、姉の本当の父さんのことよ。その時は気づかなかったけど・・・。」
 
「あ、そうか!・・・君の姉さんの本当の父さんていうのはどういう人だったんだろう。君は知らないのか?」
 
「知らなかったわ。母も姉も、父と私の前でその人のことについて話したりは出来なかっただろうと思うし・・・。」
 
「そうか・・・。そうだよね。」
 
「だから・・・姉の父さんにはもしかしたら何か秘密があるのかもしれない。それがなんなのか・・・もしも何かよくないことだったりしたら・・・そう考えると怖くて仕方なかったの・・・。でもその恐怖が現実になる日が来るなんて思いもしなかった・・・。」
 
「現実に?」
 
 私は思わず聞き返した。
 
「・・・はい・・。2ヶ月ほど前、見慣れないお客様が見えて、重要な商談をしたいからと言われて、姉はその人の要請で店の中から人払いをしたんです。そしてしばらくしたあと、大量の注文が入ったからって、姉は張り切って倉庫の中をかき回していたけど・・・。なんだかとても表情は暗くて・・・。でも私聞いてしまったんです・・・。そのお客様の雰囲気が冷たくて、それがどうしても気になって・・・。店への扉のすぐ後ろで・・・つい盗み聞きをしてしまったんです・・・。」
 
 フローラはその時のことを思い出したかのように、身震いして言葉を続ける。
 
「全部聞き取れたわけじゃないけど・・・。『探したぞ』って・・・とても冷たい声で・・・。そして『雑貨屋とはいい隠れ蓑だな』って・・・。そしたら姉さんが『私は隠れたりしていない!』って怒ったように叫んでた・・・。でもそのお客様は、嘲るようにちいさな声で笑って・・・とても気味が悪い声で・・・。そのあとはもう声が小さくて聞き取れなくて・・・。でも最後に・・・『手を貸してくれれば、父の仇を討たせてやる』と。私はもう何が何だかわからなくて。いったいどういうことなのか・・・。」
 
 『仇』とはまた物騒な話だが、一体どういうことなのだろう。シャロンの本当の父親が誰かに殺されたという事なのだろうか・・・。それにしてもあまりにも突飛な話だ。もうすこし何か手掛かりはないものだろうか・・・。
 
「他には何にも聞き取れなかったのかい?」
 
 私の問いにフローラはしばらく考えていたが、
 
「いえ・・もう一つ・・・。確か『ハース鉱山』と。でもはっきり聞き取れた訳じゃなくて、だから聞き違いかとも思ったんですけど・・・。でも・・・そうじゃないかも知れない・・・。」
 
「ハース鉱山?」
 
 その言葉に妻が顔をあげる。その表情が少しだけこわばっていた。
 
「はい・・・。」
 
「聞き違いじゃないかも知れないと言うのは・・・つまりその言葉に何かしらの心当たりがあるって言うことなのかな・・・?」
 
 フローラは、また少し顔をこわばらせ、頷いた。
 
「その時は・・・私・・・わけがわからなくて・・・。でも、何だか怖くなって・・・。だから・・・本当はカインに相談しようかと思っていたんです。」
 
「フローラ、言ってくれたらよかったじゃないか。その時に言ってくれたら、もっと何か判ったかも知れないのに・・・。」
 
 カインは悔しそうに唇を噛みしめた。
 
「そうよね・・・。でも・・・姉はそのお客様が帰ってしばらくしてから、たまにどこかに出掛けるようになったの・・・。どこに行っているのかわからないの。一度後をつけたことがあるけど途中で撒かれてしまって・・・。それで・・・私は姉のことが心配になって、悪いとは思ったけれど、姉の留守中に・・・姉の・・・部屋に入って、母の遺品を調べさせてもらったの・・・。」
 
「君の母さんの遺品て・・・。どうしてシャロンが持ってるの?」
 
「母の遺品はみんな姉が整理したの。父はお店があったし、私はまだ学校に通ってたから、ずっと母の看病をしていたのも家の中のことをやっていたのも全部姉だったの・・・。だから姉が全部・・・母の遺品をまとめて自分の部屋に保管して置いたのよ・・・。それを見れば、母が言っていた言葉の意味が解るかも知れない、そう思って・・・。」
 
「・・・君は・・・何かを見つけたんだね・・・?」
 
 フローラの声の様子に何かを感じ取ったらしく、カインの声も少しこわばってきた。
 
「・・・母の遺品の中に・・・手紙が入っていたわ・・・。姉の・・・本当の父さんからの・・・。」
 
「君は・・・それを読んだのか・・・。」
 
「読んだわ・・・。短い手紙だった・・・。『愛する妻と娘へ 多分もう生きては会えないかもしれない。俺を忘れて幸せになってくれ』それだけ・・・。」
 
「何かすごく切羽詰まった感じのする文面だけど・・・でもどうしてそんな・・・。もっと他にはなかったの?たとえば、その人の名前とか・・・。それだけでもわかれば・・・。」
 
 カインの問いにフローラの肩が震えだした。
 
「あったんだね・・・?」
 
 黙ったまま頷くフローラの肩にカインが手をかける。
 
「君が・・・すごくためらっているの解るよ。でも・・・全部話してよ・・・。君が一人で悩んでいるの見るの・・・つらいんだ・・・。」
 
「ありがとう・・・。でもいいのよ・・・。私は・・・やっぱりあなたとはおつきあい出来ないわ・・・。あなたは王国剣士よ。このまま私と一緒にいたら・・・きっとあなたの未来に悪い影響が出るわ・・・。」
 
「そんな・・・。」
 
 何か言いかけたカインを手で制すると、フローラは私達に向き直った。
 
「母の遺品の中には・・・日記が入っていました・・・。」
 
「日記か・・・。おかみさんは几帳面な人だったからね・・・。日常のちょっとしたことでもよく小さなノートに書きとめていたこと・・・憶えているよ・・・。」
 
「はい・・・。日記と言うより覚え書きのようなもので、それも毎日あるわけではありませんでした・・・。そのほとんどは家計簿のようなものだったみたいで・・・。」
 
「そこには・・・何が書いてあったの?」
 
 カインの声は震えている。フローラの緊張が伝わっているのかも知れない。おかみさんの日記・・・。。一体それには何が書いてあったのだろう・・・。
 フローラは、喉の奥から絞り出すような、苦しげな声で話を続ける。
 
「その日記の中に・・・母と姉が南大陸にいた頃のことが書かれていたものがありました。」
 
「おかみさんとシャロンが南大陸に・・・!?どうして・・・。」
 
「はい・・・。姉の本当の父さんは・・・昔ハース鉱山で鉱夫をしていたんです・・・。」
 
 思いがけない話だった。

第5章へ続く

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