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 次に目を開けたとき、視界の中に最初に飛び込んできたのはウィローの顔だった。泣いてはいなかったが心配そうに眉根を寄せている。
 
「・・・クロービス、私がわかる・・・?」
 
「わかるよ・・・。君は・・・もう大丈夫なの・・・?」
 
 ウィローはうなずいた。
 
「大丈夫よ。カインから聞いたわ。あなたがへとへとになりながら私に呪文をかけてくれたって・・・。ありがとう。おかげで今はもう大丈夫よ。」
 
「そうか・・・。」
 
「・・・クロービス、起きたのか?」
 
 隣のベッドからの声に顔を向けると、カインが起き上がったところだった。
 
「起きたけど・・・まだ頭がぼんやりしてる・・・。君は元気そうだね。」
 
 カインはベッドの上で首や腕を回したり、背筋を伸ばしたりしながら何度かあくびをした。でもすっかり元気を回復しているようだ。
 
「・・・俺はただ単に気功を目いっぱい使ったってだけだからな。眠れば回復するさ。お前のほうは多分そうはいかないだろうな・・・。」
 
「さっき何が起きたのかくらいは聞きたいな・・・。君がありったけの気をぶつけたあの妙な気の流れはいったいなんだったの・・・?」
 
「あれか・・・。う〜ん・・・なんて言えばいいのかな・・・。」
 
 カインは困ったように首をひねっている。
 
「あの気を感じた時、すごく気分が悪くなったんだ・・・。相手がエミーなら・・・推測がつかないこともないけど・・・。」
 
「その推測は当たってほしくないって顔だな。でも残念ながら大当たりだよ。あれはエミー自身が作り出したものさ。自分でも気づかないうちにな・・・。」
 
「・・・・・・・・・・・・・。」
 
 やっぱり・・・。私はどうすればよかったんだろう・・・。何か出来ることがあったんじゃないんだろうか・・。あんな・・・。
 
「あんなに・・・追いつめられていたのか・・・。」
 
 切なくて涙が流れる。
 
「お前のせいじゃないよ。あんなにひどくなるほうが少ないんだ。たいていのやつは、あそこまでいく前に自分の心と折り合いをつけて、けりをつけちまうのさ。」
 
 その時扉をノックする音がした。ウィローの返事に答えて入ってきたのは、ケイティとランドさんだ。後ろにパティもいる。
 
「エミーは?」
 
「家に連れて行ったわ。まだ目を覚まさないけど、呼吸も落ち着いているし、心配はないみたい。」
 
 カインの問いにパティが答えた。
 
「心配はないだろうけど、精神的にはまだ不安が残るからパティがついていてやったほうがいいんじゃないかな。」
 
「俺もそう思うよ。事情は俺が聞いておくから、お前は家に帰ったほうがいいよ。」
 
 カインとランドさんの言葉に、パティは不安げに首を振った。
 
「家にはロゼもいるわ。ロゼがついていてくれるから、私はあなた達の話を聞きたいの。だってわけがわからないのよ。ケイティが家に飛び込んできて、エミーが旅支度をして『潮騒亭』にいるって聞いたからあせって来てみたら、エミーは気絶してるし、カインは大いびきで寝てるし、クロービスは青い顔で死んでるのか寝てるのかわからないくらいだったし・・・。ランドに聞いたらウィローさんも倒れてたっていうし・・・。」
 
「お、大いびき・・・?」
 
 カインがあせったように尋ね返した。
 
「ああもう凄まじかったぞ。」
 
 ランドさんが大げさに肩をすくめてみせた。
 
「う・・・ま、まあ勘弁してもらうしかないか・・・。あんなに一度にでかい気功を使ったのなんて初めてだから、もう眠くて仕方なかったんですよ・・・。」
 
 カインはばつ悪そうに頭をかいた。
 
「そうだな。俺は気功はそこそこしか使えないが、それでも結構疲れるもんだからな・・・。」
 
「・・・気功?まさか、エミーが気絶していたのはそのせいなの?」
 
 パティの表情が厳しくなる。
 
「そうだよ。俺が気功を使って、エミーを縛っていた気の流れを壊したんだ。」
 
「気の流れ・・・・?何を言ってるのよ。エミーは気功なんて使えないわ。呪文の適性だってぜんぜんなのよ?なのにどうして・・!?」
 
 声を荒げるパティをランドさんが制する。
 
「おい待てよ。とにかく話を聞こうじゃないか。カイン、俺達をちゃんと納得させられるだけの説明が出来るんだろうな?」
 
「できますよ。俺だって何も好き好んであんなことしたわけじゃないんだから。だからパティ、とにかく冷静に聞いてくれ。」
 
「・・・わかったわ・・・。」
 
 パティはむすっとしたままうなずいた。
 
「・・・俺達が宿屋に戻ってきたとき、俺は中から奇妙な気の流れが発せられていることに気づいたんだ。クロービスもウィローもそれは気づいたんだけど、呪文使いよりも俺みたいな気功の使い手のほうが敏感だったんだと思う。もっとも、その気を発しているのが誰か、どんな流れなのかまではわからなかったんだけどな。」
 
「・・・クロービス、あなたはその気の流れに気づいたの?」
 
 パティが尋ねた。
 
「気づいたよ。気づくと同時にものすごく気分が悪くなったんだ。」
 
「私もよ・・・。のどを締めつけられるような、そんな流れだったことはわかったわ・・・。」
 
「ウィローさんまで・・・それじゃ、それがまさか・・・。」
 
 カインはうなずいて言葉を続けた。
 
「かなり濃い、よどんだ流れだったけど、その流れに敵意のないことはわかった。けど、思いつめたような、切羽詰った感じがしたよ・・・。ただ、俺にとってはそれだけのことで、特別なにも感じなかったんだ。でもクロービスもウィローも青い顔をしていたから、このままほっておいたら取り返しのつかないことになりそうな・・・そんな予感もした。そしてこの二人にこれほど影響を与えるような気を発するのは・・・。」
 
 カインは一度そこで言葉を切った。そしていたわるような目でパティを見つめた。
 
「・・・エミーしかいないだろうなと思ったんだよ。」
 
「・・・そう・・・。」
 
 パティは顔をしかめ、片手で顔を覆いながらため息をついた。
 
「中に入った時、俺の勘が当たっていたとすぐにわかった。エミーは顔が真っ青だった。なのに自分では全然気づかないみたいで、クロービスとずっと一緒にいることに決めたから、今日からここに泊まるって言い出してクロービスに近づいてきたんだ。」
 
「・・・・・・。」
 
 パティは涙ぐんで聞いている。
 
「エミーが一歩近づくごとにクロービスに向かって気の流れがどんどん近づいてきて、クロービスの顔色もどんどん青くなっていった・・・。クロービスの後ろにいたウィローも影響を受けてがたがた震えていたんだ。この調子じゃ、にこやかに話をしておとなしく帰るとは思えなかった。前みたいにもめているうちにもしもあの気が爆発したりしたら、クロービスもウィローも頭の中をかき回されるくらいじゃすまないだろうし、俺だって勢いに巻き込まれてどうなるかわからない。だから俺は、その気の流れの結び目に向かって自分の気をぶつけて、壊そうとしたんだよ。」
 
「・・・それでうまくいったのか・・・・?」
 
 すすり泣くパティの代わりにランドさんが口を開いた。
 
「半分はってところですね・・・。気をぶつけるぎりぎりまで、俺は迷ってたんです。ほんの少しでもぶつける場所がずれたら、エミーが死んでしまうかも知れない・・・。そのせいでウィローをクロービスから引き離すのが遅れて、ウィローまで巻き込まれて倒れちまって・・・。」
 
「・・・エミーの気の流れっていうのは・・・つまり何だったの?」
 
 パティが顔を上げてカインに尋ねた。目はまだ赤くて、涙で濡れている。
 
「う〜ん・・・なんて言えばいいのかな・・・たとえば・・・。」
 
 カインはテーブルの上に置かれている小さな花器を自分の手のひらに載せた。
 
「これがエミーだとして、エミーはクロービスのことが好きだったわけだ。で、こう・・・」
 
 カインはその花器と私の間を、人差し指を何度も往復させた。
 
「こんなふうに無意識のうちに気を送っていたと・・・。これは誰にでも起こることだから別に珍しいことじゃないよ。誰かを好きになれば、多かれ少なかれこういった気の流れは発生するそうなんだ。」
 
「・・・それがエミーの場合は大きくなりすぎたってことか・・・?」
 
「そうですね・・・。単純に大きくなっただけならまだよかったんだけど、何度もクロービスに気持ちをぶつけてそのたびに拒絶されて・・・跳ね返った気の流れを全部自分のうちに取りこんじまったというか・・・。」
 
 カインは説明しながら首をかしげている。
 
「それも誰にでも起こることなの?」
 
 パティの問いにカインは首を横に振った。
 
「いや・・・このあたりからはそう誰にでも起こることじゃないんだ・・・。でも・・・言い換えれば誰にでも起こりうることなのかな・・・。自分に戻ってきた気の流れを無意識に取り込んで、どんどん増幅させてしまったわけだから・・・。それに、今回はクロービスって言う自分を振った相手だけじゃなくて、そのクロービスが惚れてる相手まで目の前にいるわけだから、悔しさ倍増でよけいにここまでひどくなっちまったのかもしれない。あ、ウィロー、だからって君が気に病むことじゃないからな。」
 
 ウィローは悲しげにうなずいた。でもきっと心の中では気になっているに違いない。あまり深く考えないでくれるといいんだけど・・・。
 
「そしてその気の流れはもう破壊されて、跡形もなくなったってわけか。」
 
「跡形もなくなるかどうかは、今後にかかってますよ。人の心の問題だから、そう簡単じゃないと思う。でも俺に出来るのはここまでです。」
 
「そうだな・・・。あとは俺達が何とかしなくちゃな・・・。」
 
 ランドさんは難しい顔で考え込んだ。重苦しい沈黙が流れる。
 
 
「・・・つまり、もう危険はないと考えていいのね・・・?」
 
 沈黙をやぶってパティが口を開いた。もう怒った顔はしていない。悲しげな表情でため息をついている。目がまだ赤い。
 
「肉体的にはもうないよ。あとはさっきも言ったように心の問題なんだ。クロービスに対するあのすさまじい執着心も消えてくれればいいんだけど、そううまくいくかどうかはわからない。あんまり期待はしないでくれるといいんだけどな。」
 
 カインは少し厳しい顔で答えた。
 
「それは仕方ないわ・・・。そもそもここまでエミーが思い込んでしまったのも、クロービスのことをずっと私がほっといたせいなんだし・・・。ほっとけば解決すると思ってた・・・。そのうち忘れてまた新しい恋でもしてくれると思ってた・・・。私の考えが甘かったんだわ。ずっと一緒に暮らしてきた姉妹なのに、私はエミーのこと何もわかってなかったのかもしれない・・・。」
 
「そんなに自分を責めないでくれよ。君まで落ち込んでいるわけにいかないじゃないか。」
 
「そうよね・・・でもこれからどうしたらいいのか・・・。」
 
 パティの瞳には涙がにじんでいた。
 
「明日あたりはエヴァンズ卿の馬車が来るんじゃないか?この村を出ればもう少し落ち着くだろう。」
 
「馬車?」
 
「実はそろそろ家に戻ろうと思ってるの。父が馬車で迎えに来てくれることになっているのよ。多分明日か明後日のうちに。家に戻ればあのおかしな連中も手出しできないだろうし・・。」
 
 パティが答える。
 
「それがいいよ。俺達ももうエミーとは顔をあわせないほうがいいと思う。」
 
 と、カイン。
 
「そうね・・・ありがとう。私はカインにお礼を言うべきなのよね・・・。さっきは悪かったわ。怒ったりしてごめんなさいね、カイン。それにクロービス、ウィローさんも・・・妹のことでご迷惑をかけたわ・・・。ねぇウィローさん、私が言うのはおかしいかもしれないけど、妹はクロービスとお付き合いしていたことなんて一度もないのよ。クロービスはいつだってきっぱりと断ってくれていたのに、妹があきらめ切れなかっただけなの。だからウィローさん、こんなことでクロービスと仲たがいしないでね。」
 
「・・・・そんなこと・・・気にしないでください。」
 
 ウィローはパティに向かって微笑んで見せたが、私の視線に気づくと少しだけ罰の悪そうな顔をした。これで誤解は解けたのだろうか・・・。そうあってくれるなら言うことはないのだが・・・。
 
「パティ。」
 
「なに?」
 
 今回のこの騒動の原因は私なのに、結局何も出来ないまま、カインやランドさんにばかり迷惑をかけている。せめてきちんとパティに謝っておきたい。
 
「ごめん・・・・。元はと言えば私のせいなんだ・・・。最初にエミーの気持ちを知ったとき、逃げるような態度をとったりしなければ、もしかしたらこんなことには・・・。」
 
「あなたが気にすることないわ。いい?あなたは何も悪くないの。だからそんな風に自分を責めるのはやめてね。約束よ?」
 
「・・・わかったよ・・・。」
 
 私の返事を確認して、パティはほっとしたように笑みを見せた。そしてランドさんと一緒に部屋を出て行った。
 
「これでひと段落かな。」
 
 カインが安堵のため息をつく。
 
「そうだね・・・。きっともう会うこともないだろうから・・・。」
 
「そうだな・・・。明日は一日ここにいようかと思ったけど、朝早いうちにここを出たほうがよさそうだな。」
 
「うん・・・。でもウィローが・・・。」
 
「あ、そうか・・・。ウィロー、君はどうだ?調子はよくなったか?」
 
「そうね・・・。眠ったから大丈夫よ。風邪の症状らしいものももうほとんどないし。明日の朝はここを発てると思うわ。」
 
「そうか。それじゃあとはクロービスだけだな。お前はどうなんだ?まだ顔色がよくないけど・・・。」
 
「一晩眠れば大丈夫だよ。明日には元気になれるよ。」
 
「よし、それじゃ今日は早く寝よう。食事はまたここに運んでもらおうぜ。」
 
「そうだね。でもまだ食事の時間には早いよ。」
 
「それじゃその時間まで風呂にでも行くか。海鳴りの祠に風呂があるとは思えないからな。」
 
「管理人さんのところにはあると思うよ。あそこの管理人さんは確か住み込みだって聞いたことがあるから。でもひとつの風呂に毎日何十人も入れるわけはないから、たまに交代でってところかな。たぶん女の人優先だよ。」
 
「そうか・・・そうだよなあ。すると男は海で水浴びか・・・。でも女だって結構いると思うから、そんなに頻繁には入れないよな。ウィロー、今日のうちに一週間分くらい洗っといたほうがいいぞ。」
 
「いやぁねぇ。洗い溜めなんて出来るわけないじゃないの。それに体はともかく、そんなにたくさん髪を洗ったら全部抜けちゃうわ。」
 
 カインの冗談にウィローが笑った。
 
「ははは、それもそうか。それじゃ風呂に行くか。ケイティに、食事はここに運んでくれるように頼んでからにしよう。」
 
 私達は風呂へ行く準備を始めた。
 
「ウィロー、君の荷物は全部部屋にあるの?」
 
「ええ、さっき運んでもらったみたいだから。」
 
「それじゃ送っていくよ。そろそろ酒場も開くし、昨日みたいなおかしなのがいないとも限らないからね。」
 
「おかしなの?」
 
 カインが不思議そうに顔を上げた。
 
「うん。ウィローにわざとぶつかろうとした変な酔っ払いがいたんだよ。」
 
 私は昨日の酔っぱらいのことを簡単に話して聞かせた。
 
「なるほどな、やっぱりいたか。どこにでもいるんだよな。泊めるまではおかしなやつがどうかなんてわからないから、こっちが用心するしかないよな。」
 
「それじゃ行こうか。」
 
 二人で部屋の外に出た。ウィローは相変わらず口数が少ない。何かずっと考え込んでいるようにも見える。
 
「ねえクロービス・・・。」
 
「ん?」
 
 部屋について扉を開けたとき、ウィローが振り向いた。
 
「ちょっとお話があるんだけど・・・。」
 
「なに?」
 
「立ち話もなんだから・・・中に入らない?」
 
「いいけど・・・。」
 
 ウィローの表情からして、あんまりいい話とは思えない。
 
 ウィローは先に立って部屋に入り、私が入るのを確認して扉をぴたりと閉めた。その時小さくため息をつくのが聞こえた。
 
(これ以上悪い話なんて聞きたくないんだけどな・・・。)
 
 エミーの事だって何一つ問題は解決したわけじゃない。私から遠ざけて時が過ぎれば何とかなるだろうというだけだ。もうこれ以上悪い話なんて願い下げなのだが、ウィローのこの思いつめた顔を見たら聞きたくないとはいえない。
 
「話って何?」
 
 ウィローは私の目を見ようとしないまま、部屋の真ん中にある椅子に腰掛けた。そしてうつむいたまましばらく黙っていたが、やがてなにか決心したように顔を上げて宙を睨みながら小さくうなずくと、私に向かって椅子に座り直した。
 
「ねぇ、クロービス、あなたにお願いがあるの。」
 
 その声には固い決意が感じられた。さっきカインの話を聞きながらずっと考えていたことの答えが出たと言うことなのだろうか。
 
「なに?」
 
 仕方なく尋ねた。出来るなら聞かずにこのまま部屋を出たいくらいの気分なのだが・・・。
 
「あのね、私、しばらくあなたと距離をおきたいの。」
 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
 
 一瞬、ウィローの言葉の意味が飲み込めず、私はウィローを見つめた。ウィローは目をそらさず、まっすぐに私を見つめ続けている。
 
「・・・・・・・・・・え・・・・・・・・・・・・・・?」
 
 そして必死で頭を使って考えた挙句に出てきた言葉がこの一声だった。
 
「きょ・・・距離をおきたいって・・・。」
 
 どういう意味なのかと聞きたいのに言葉にならない。
 
「いろいろと一人で考えたいこともあるし・・・何よりも訓練に専念したいの。せっかくオシニスさん達が引き受けてくれたんだもの。なのにタルシスさんのところで、私なかなか思い切れなくてずいぶん迷惑をかけたわ。あ、あの、もちろんカインとクロービスにもなんだけど・・・。だからちゃんと・・・」
 
「わかった。もういいよ。」
 
 私はウィローの言葉をさえぎった。つまりウィローは私と一緒にいたくないと言いたいのだ。それだけわかれば充分だ。これ以上聞きたくない。
 
「わがまま言ってごめんなさい。それで、今朝のエリオンさんの話なんだけど、私の身元引受人のこと・・・」
 
 言いかけてウィローはまた大きなため息をついた。
 
「やっぱりいいわ。海鳴りの祠に行ってからグラディスさんにお願いするから。」
 
「もしも引受人が必要なら私がなるよ。副団長は忙しいし、私も君をつれてきた責任があるんだから。」
 
「そう?いいの?」
 
「君がいやなら無理にとは言わないよ。カインでもいいだろうし、他にもなってくれそうな人はたくさんいると思うから。」
 
「いやだなんてそんなことはないわ。ただ、あなたも忙しくなるんじゃないかって思ったの。あなたがいいって言ってくれるなら、よろしくお願いします。」
 
 ウィローが頭を下げた。妙に丁寧な、よそよそしいその仕草に胸がずきんと痛む。
 
(ほんとうに私から離れるつもりなのか・・・。)
 
「それじゃ話は終わりだね。カインが待ちくたびれてるから、もう行こう。お風呂なんて当分入れそうにないから、今日はゆっくり入っておいたほうがいいよ。」
 
 出来るだけさり気なく、冷静に、いつもと同じ声で話す。心の中で必死にそう言い聞かせながら、私はウィローと一緒に部屋を出た。黙っている間もずっと心の中で(さりげなく・・・冷静に・・・いつもと同じ・・・)と繰り返しつづけた。でなければ自分でも何を言い出すかわからない。頭の中が真っ白で、自分が今どこを歩いているのかもわからなくなってしまいそうなほど、このときの私は動転していた。
 
 部屋に戻ると案の定、カインが待ちくたびれて大あくびをしているところだった。ぶつぶつ言うカインをなだめながら、私達は多分もう当分入れないであろう風呂へと向かった。
 
 女性用の風呂場の入り口で、ウィローはなんとなくうれしそうだった。久しぶりにゆっくりと風呂に入れるからかもしれない。北大陸の風呂は熱いから気をつけろとカインに言われ、声を上げて笑っていた。
 
(私と距離を置いたことであんなに生き生きしてるのかな・・・。)
 
 そう思うとなんとも言いようのない寂しさが募る。
 
 
「おい!なにやってんだ!?」
 
 カインの怒鳴り声が聞こえる。なぜか頭の上から。しかも一緒に風呂に入ったはずなのに妙に声が遠い。突然腕をつかまれ思い切り引っ張られた。ザブンと派手な音がして私は風呂場の床に転がされ、おまけにカインの平手打ちを食らった。
 
「このばっかやろう!風呂でおぼれる気か!」
 
 カインは顔を真っ赤にして怒っている。
 
「・・・え・・・?」
 
 その途端苦しくなり、私は思い切り咳き込んだ。それと同時に風呂のお湯らしい液体が口の中からゴボッと出てきた。
 
「あ・・・もし・・・か・・・・・ゲ・・ゲェッ・・・!!」
 
 肺の中の空気が空っぽになるんじゃないかと思うほど咳き込んで、飲み込んでいたらしい風呂の湯を全部吐き出したところで、やっと私の頭の中ははっきりしてきた。
 
「もしかしてもくそもあるか!お前今、風呂の中に沈んでいたんだぞ!」
 
「そうか・・・。それで君の声が変に遠くから聞こえたんだ・・・。」
 
 まるで他人事のようにぼんやりと話す私に、カインは心配そうな視線を向けて、私の前の床に胡坐をかいた。
 
「まったく・・・他に入ってる客がいなかったからいいようなものの・・・。さっきウィローと一緒に部屋に戻ってきてからおかしいとは思ってたけど・・・何があったのかくらいは聞かせてもらえるんだろうな!?」
 
「話すよ。おぼれる心配のない場所に行ってからね。」
 
 どうせカインにはあとから話そうと思っていたことだ。
 
 カインはあきれたようにもう一度大きなため息をついた。
 
 
 風呂をあがって私達はウィローと合流した。久しぶりの風呂でウィローの機嫌はすっかりよくなっていた。さっき私にあんな話をしたことなんて、きれいさっぱり忘れているようにさえ見える。でもきっとカインも気づいている。ウィローはもうずっと私に一言も話しかけてこない。
 
 部屋に戻ると食事が運ばれてきたところだった。階下からはもう酒場の喧噪が聞こえてきている。私は食事の前に薬を作るために厨房に降りていった。
 
「クロービス、もう大丈夫なの?」
 
 ケイティが心配そうに声をかけてくれた。
 
「大丈夫だよ。騒がせてごめん。」
 
「そんなことはいいのよ。なにが起きたのか全然わからなかったけど、あの時あなた達のまわりにもやがかかったように見えたのよね。だから何かよくないことが起きるのかなと思ったけど、なんでもないのならよかったわ。」
 
 あの状況でそんなものが見えるとは、もしかしたらケイティは気功の適性があるのかも知れない。もっともこの宿屋の切り盛りで忙しく、近々結婚も控えているらしい彼女が気功を憶えようなんて考えもしないと思うが。
 
 部屋に戻って、出来上がった薬をウィローに渡す。いつもと同じように。ウィローは笑顔でありがとうと言ってくれるけれど、それだけだ。食事が終わってウィローを部屋に送っていった時も、『ありがとう。お休みなさい』と丁寧に頭を下げられておわり。私はウィローにとって、ただの友人になってしまったらしい。
 
 部屋に戻るとカインがベッドの上にあぐらをかいて待っていた。
 
「さて、話してもらおうか。」
 
「そんなに構えて聞くほどのことじゃないよ。長い話でもないし。」
 
 私は自分のベッドに仰向けに寝転がり、夕方のウィローとの会話をカインに話した。カインは聞き終えて、ぽかんと口をあけたまましばらくの間固まっていた。
 
「・・・・へ・・・ぇえ・・・・っ!?」
 
 やっと出たカインの声はひっくり返っている。
 
「そんな妙な声出さないでよ。」
 
「ほんっっっっっとにウィローがそんなことを言ったのか!?お前が勝手に解釈して脚色しているんじゃなしに!?」
 
「こんな脚色誰がするもんか。」
 
「そうだよなぁ・・・。距離をおきたいなんて、『別れたい』ってのを体裁よく言ってるだけのことだもんなぁ・・・・。でもまさか・・・あのウィローがそう簡単に心変わりするとは思えないんだけど・・・。」
 
「私だって思いたくないよ。でも確かにこの耳で聞いたんだ。『あなたと距離をおきたい』って・・・。」
 
「ふぅ〜〜〜〜ん・・・。」
 
 カインは腕を組んで考え込んだ。
 
「・・・で、お前はどう思うんだ?ほんとうにウィローが心変わりしたって思ってるのか?」
 
「だからそんなこと思いたくない・・・」
 
「思いたいか思いたくないかじゃないよ。思っているのかって聞いてるんだよ、俺は。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「どうなんだ?」
 
 願望ではなく・・・本当のところは・・・どうなんだろう・・・。ウィローはほんとうに心変わりして、私から離れたくていた・・・?勢いでカナを出たものの、あっという間に気持ちが冷めてしまったから、もう私は必要ない・・・?そんなこと・・・。
 
「おもっ・・・てない・・・。」
 
 自分の声が今にも泣き出しそうな声になっているのがわかった。やっぱりそんなことは信じられない。生まれ育った故郷を出て、もう二度と帰れないかも知れない旅に出てくるにはどれほどの決心がいったことか。それが勢いや思い違いだったなんてことがあるはずがない。
 
 そうだ・・・・。ウィローは『距離をおきたい』と言ったんだ。別れたいと言ったんじゃない。ウィローにどの程度の恋愛経験があるのかなんてわからないけど、もしかしたらウィローは、『距離をおく』という言葉が別れの言葉だなんて思ってないんじゃないだろうか・・・。
 
「それじゃどうする?ウィローに直接聞くか?」
 
 直接聞いて・・・それが多分一番早い。でも・・・今のウィローに話がしたいと声をかけても、聞いてくれるかどうかわからない。
 
「・・・待つよ・・・。」
 
「待てるのか?」
 
「待てなくても待つよ・・・。ウィローが心変わりしたわけじゃないとしたら、なんであんなことを言い出したのか何となくわかる・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
「オシニスさん達のほうがウィローのホントの気持ちをわかってるってのは本当だな・・・。私が一番わからなかったよ・・・。」
 
 天井が少しずつぼやけてくる。
 
「ずっと一緒にいて、守ってあげたかったんだ・・・。誰にも傷つけられたりしないように、いつまでも明るくて元気なウィローでいてほしかったから・・・。でも・・・ウィローが望んでいたのはそんなことじゃなかったんだ。私だってわかってたんだよ・・・。でも認めたくなかったのかな・・・。」
 
「ウィローの訓練を阻止しようなんてもう思ってないってことか?」
 
「とっくに思ってないよ、そんなこと。ナイトメイルも買ったようだし、訓練中に怪我すればライザーさんが直してくれるよ。」
 
「エミーのことはどうだ?」
 
「それは・・・わからない・・・。」
 
 それについてはほんとうにわからない。エミーのあの姿を見て、ウィローがどう思っているのか。パティも一生懸命私を弁護してくれたけど、言えば言うほど信じてもらえないのではないか。
 
「あとはウィローが私を信じてくれるかどうかだよ。でもたとえウィローが信じてくれなくても、私はウィローの気持ちを信じる。心変わりなんてしてないって、信じて待つよ・・・。」
 
 涙がこめかみを伝って落ちていった。天井はもうすっかりぼやけて、鼻はつまるし涙が通ったあとは腫れてヒリヒリする。こんなことで泣くなんて情けないが、カインの前でかっこつけても仕方ない。今はただ泣きたかった。明日海鳴りの祠に行けば、私にも以前と同じ日常が戻ってくる。いる場所が王宮かそうでないかだけの違いで、みんな今までと同じように仕事をしているのだ。泣けるのは今日までだ。
 
「俺もウィローの気持ちを信じるよ。ウィローが常套句を使ってそつなく男と別れられるほど恋愛経験が豊富だとも思えないしな。まあお前もそれは同じなんだが・・・。でも今さら他で経験を積んで来いってわけにもいかないしなぁ。」
 
「ははは・・・。経験ならウィローと一緒にこれから積んでいくよ。いつからになるかはわからないけどね・・・。」
 
「そうだな・・・。とにかくもう寝よう。ぐっすり眠って、明日からの忙しい毎日に備えるか。」
 
「そうだね。お休み、カイン。」
 
「お休み。」
 
 カインがふとんをかぶる音が聞こえたと思ったら、もういびきをかいている。私は一度洗面台で顔を洗ってから寝ることにした。こんな顔では明日の朝はぶよぶよに腫れてしまう。何度か水洗いをして、鏡をのぞき込んだ。げっそりと疲れ果てた自分の顔が映っている。
 
(せめて元気な顔していないとな・・・。)
 
 ため息をつきながらベッドに潜り込んだ。ウィローのことを考えるとまた不安になってくる。やっぱりあれは体のいい別れの言葉だったのじゃないかと思えてくる。もしもそうだとしたら、私のしようとしていることはエミーと同じになってしまう。相手の気持ちが自分にないのに、ひたすら相手を追いかけ回すなんて情けないことこの上ない。
 
(でも・・・信じよう・・・。)
 
 カナを出る前の晩、どんな時にもお互いを信じることを誓い合って、私はウィローの左手に指輪をはめた。それをウィローが憶えていることを今は祈りたい。
 
 
 翌日の朝、陽が昇る前に私達は宿屋を出た。村の出口に来た時、グラニード先生の家のあるほうを一度振り返った。
 
(エミー・・・ごめん・・・。)
 
 私のことなどきれいさっぱり忘れてしまえるくらいの出会いがあるよう祈りながら、私はローランの村に背を向けた。

第37章へ続く

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