←前ページへ



 
(あ・・・あれ・・・?)
 
 これには私のほうが驚いてしまった。カインの気の流れをつかもうとする時、私は頭の中で自分の手をイメージする。その手を流れに向かって伸ばし、力を込めて引き寄せる。本来、他人の作り出す気の流れと自分の気の流れとは水と油のようなもので、そのままでは自分の中に取り込むことは出来ない。固い意志を持って自分のほうに引き寄せなければ、水の流れを素手でつかもうとするようなもので、するりと逃げられてしまう。
 私は自分の中に満ちあふれる気の流れを使って、今度こそしっかりと『防壁』を織り上げた。今までで一番堅固な壁が、自分の中に出来上がったように思えるほどだ。これなら、よほどのことがない限り、私の心が蹂躙されることはない。
 
(何でなんだろう・・・。)
 
 この時ふと、シェルノさんの言った言葉を思いだした。
 
『その方とは波長が合うということなのかも知れません・・・。』
 
 ウィローの心の声だけは、初めて聞こえた時から一度も恐怖を感じたことがない。つまりそれだけ自然に私の心の中に入り込んでくると言うことだ。それがつまり『波長が合う』ということなのだろうか。もしもまた夢見る人の塔へ行くことがあったら、シェルノさんに尋ねてみようか・・・。
 
「・・・終わったの?」
 
 ウィローの声で我に返った。
 
「うん・・・。ありがとう、もう大丈夫だよ。」
 
 ウィローはほっと一息つき、また先ほどと同じ優しい笑みをみせた。
 
「よかった・・・。さっきと全然顔つきが違うわ。」
 
「そんなに変わった?」
 
「ええ。さっきはとても不安そうで・・・。見ているのがつらいくらいだったわ・・・。」
 
「一人で作ろうと思ったんだ。君を不安がらせたくなかったから・・・。でも結局うまくいかなくて、いつまでも座っているわけにいかないとか、いろいろ考えていたらますますうまくいかなくなって・・・。」
 
「ふふ・・・そうね、正直に言うと、最初に聞いた時は・・・少しだけ怖かったわ・・・。今自分が考えていること全部、あなたにわかっちゃうのかなって思ったら・・・。」
 
「普通はみんなそう思うよね。」
 
「ねぇ、さっき私があなたに話しかけた時、不安で・・・怖かった?」
 
「・・・・そうだね・・・。」
 
「ほら、私は不思議な力なんて何にもないけど、あなたがさっきどんな気持ちでいたかわかったわ。人の心って、けっこうわかっちゃうものなのよ、きっと。だからあなたがそんなに特別だなんてことないと思うわ。他の人より少し勘がいいってだけのようなものよ。」
 
「ありがとう。うれしいよ、そう言ってもらえて。」
 
 私はウィローに微笑んだ。ウィローも笑顔を返してくれた。ウィローが私のこの力を笑顔で受け入れてくれたことが、本当に・・・本当にうれしかった。
 
「遅くなっちゃったけど、出発しよう。あとはテントをたためば終わりだね?」
 
「そうよ。でも大丈夫?もうお昼近いし、明日にしても・・・。」
 
「決めた時に腰をあげるのが一番だよ。そうだな・・・。今から出れば渓谷の出口までは歩けると思うから、明日中にあの小川のあたりまで行けるかもしれないよ。」
 
「そうね・・・。それじゃ出かけましょうか。ふふ・・・父さんに会ったらしようと思っていた話がまた増えたわ。」
 
 その言葉にふと心が暗くなった。そんな風に楽しい会話を交わせるような対面になればいいのだけれど・・・。
 
 荷物をまとめて、私達はハース渓谷の出口に向かった。予想どおり渓谷の出口で陽は沈み、そこでまたキャンプをはることにした。
 
「さ、食事の前に訓練しましょ。」
 
「今日もやるの?」
 
「そりゃそうよ。あなたに一週間鍛えてもらって、それでもやっと半人前程度なのよ。あなたの役に立つのは無理かも知れないけど、せめて足手まといになりたくないもの。よろしくお願いします。」
 
 ウィローがぺこりと頭を下げた。
 
「でも疲れてるんじゃない?今朝は呪文を唱える時みたいにずっと精神統一していたりしたからね。」
 
「大丈夫よ。疲れた時はちゃんと言うから。」
 
「そうか・・・。それじゃ始めようか。君の気が変わらないうちにね。」
 
「あら、変わったりしないわよ。」
 
 私達は笑い声をあげながら、向かい合った。
 
 
 その翌日、朝日が昇る少し前に私達はキャンプをたたんだ。ウィローの歩く速さが日を追うごとに速くなっていく。はやる気持ちを抑えきれないのか、ただ単に訓練の成果で足腰が鍛えられたのか・・・。本人に聞いたらどっちだと言うだろう・・・。
 
「何笑ってるの?」
 
 ウィローが怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。私はいつの間にかにやにやと笑っていたらしい。この時私は、少し気分が高揚していたと思う。ウィローが私の力を受け入れてくれた、それが何よりもうれしくて、これから向かおうとしている場所がどんなところなのかも忘れてしまいそうなほどだった。
 
「いや・・・君は足が速いなと思ってね。」
 
「あらそう?訓練の賜ね。あなたのおかげだわ。」
 
「そう言ってもらえるのは光栄だな。」
 
 やがてハース城の遥か手前、黒い水の流れる小川のところについた。橋を渡ったところから北に延びる道が続いている。その先にはハース鉱山があるはずだ。私達はハース城のほうを窺いながら、慎重に歩を進めた。相変わらず門番が一人で立っているが、あの門番は別にハース城近辺までの警護はしてないらしい。門まで来た者を追い返すのが仕事ということなのだろうか。ハース城の裏手にまわると、荒涼とした景色が広がる。砂漠というのではないが、かといって草原と言うほどの草も生えていない。そしてその先に連なる山々が北部山脈。そこにハース鉱山への入口がある。
 
(カインが歩いていた場所とそっくりだな・・・。)
 
 夢の中の荒れた大地は、北部山脈の向こう側の景色だろう。南大陸と言うところは、本当に奇妙なところだ。大陸の西端には緑が広がっているが、東側はそのほとんどが砂漠だ。でも砂漠の中にはオアシスがある。それもまるで旅人のために作られたように、歩いて一日くらいの距離を置いて点在している。ところがハース渓谷に入ると、ついそこまでが砂漠だったとは思えないほどに空気は湿り、濃密な緑の世界になる。そして渓谷を抜ければこの荒れた大地・・・。
 
「南大陸の気候が場所によってこんなに違うなんて、旅に出てみるまで全然知らなかったわ。」
 
 ウィローが辺りを見回しながらつぶやく。
 
「大陸の端から端まで歩く人は大変だろうね。昔は王国剣士も巡回してたって言う話だから。」
 
「そうよねぇ・・・。ねえ、あの西端の山の麓が入口かしらね。」
 
 ウィローが指さしながら私を見た。鉱石を運ぶらしいトロッコやツルハシらしきものが、遠目にもそれとわかるほど大量に積まれている。じっと見ていると、時折そのあたりに動くものがある。鉱夫が出入りしているのだろうか。
 
「みたいだね・・・。門番はいるかな・・・。」
 
「一応用心して行ったほうがよさそうよね。遠回りになるけど、出来るだけあそこから死角になる場所を通って進みましょ。」
 
 予想に反して、鉱山の入口には誰もいなかった。中に入ると、闇の中まで坑道が続いている。そしてモンスターの気配もする。
 
「ここって・・・本当に鉱山として生産活動が行われているのかしら・・・。」
 
「このモンスターの気配は尋常じゃないな・・・。この中でもしも鉱石を掘り続けているとしたら、当然ハース城の門番みたいな衛兵が警備しているはずだね。」
 
「それじゃさっきここにいた誰かは・・・・衛兵だった?黒い鎧を着ているようには見えなかったけど・・・。」
 
 遠目に動くものがあったから、それを鉱夫が出入りしているのだろうとさっきは思った。でも入口付近には人の気配がない。ではもしかしたらあれは・・・モンスターだったのかも知れない・・・。
 
「やっぱりそう簡単にはいかないみたいね。訓練の成果をさっそく披露することになりそうだわ。」
 
「確かにそうなりそうだね。ま、簡単にいくくらいなら、今頃私達はこんなところにいないよ。」
 
「それもそうね。」
 
 私は荷物の中からランプをとりだして火をつけた。それでも坑道の先はまったく見えない。
 
「ウィロー、矢はすぐに取り出せるね?」
 
「ええ。あなたに教わったとおりに、ほら、ここに下げて・・・。」
 
 ウィローは矢筒から素早く矢を取り出すと、前方の闇に向かって構えてみせた。戦用舞踏だけでなく、弓矢の扱いも今回はしっかりと教えた。ウィローの矢の狙いは正確だ。だが構えが遅かった。飛び道具というものは、発射されさえすればあっという間に敵に届く。だから矢や弾を取りだしてからつがえるまでが勝負なのだ。そのためにウィローの弓のしなり具合を調整したり、弓弦の張り方なども教えた。
 
「これなら大丈夫だね。今までみたいにあらかじめ矢をつがえた状態で歩いていると、敵にいきなりそばに寄られたりした時に危険だったからね。」
 
「そうね。でももう大丈夫よ。私はとにかくしっかりと自分の身を守るわ。あなたが自分の戦闘に専念出来るようにね。」
 
「期待してるよ。」
 
「任せといて。」
 
 私達は坑道の中へと足を踏み入れた。不気味な静けさが漂っている・・・。
 
「少なくとも入口近辺では採掘は行われていないようね。」
 
「鉱石がある場所って言うのは、かなり深いところらしいよ。山の上よりは多分地下に向かって坑道がのびていると思うから、まだまだ先に行かないと鉱夫達には会えないんじゃないかな。」
 
「そうね・・・。あら・・・?何か聞こえない?」
 
 しばらく歩いた頃、前方の暗闇から、地面を響かせるような不気味な音が聞こえてきた。私達は立ち止まり、それぞれ武器を構えて音の正体が現れるのを待った。
 
 シャーッ!
 
 息とも声ともつかない奇妙な音と共に、闇の中から金色の瞳が二つ浮かび上がった。
 
「・・・なによ、これ・・・。」
 
「雰囲気的に・・・蛇のような気がするけど・・・。」
 
「どすどす音をたてる蛇なんて聞いたことがないわ。」
 
「通路をふさがれたみたいだな・・・。向かってこないなら、なんとかすり抜けていきたいんだけどな。」
 
 金色の瞳はゆっくりと近づいてくる。やがて巨大な蛇の頭が闇の中から姿を現した。
 
「敵意の固まりだな・・・。通してくれそうにないよ。」
 
「わかるの?」
 
「少しだけね。頭の中をかき回されるほどじゃないから、大丈夫だよ。」
 
「でもどいてもらうしかないのよね・・・。」
 
「そうだね・・・。」
 
 蛇はまっすぐに私に向かって突進してきた。私はひょいと右側によけた。と、よけたところにまた蛇の顔が、大きな口を開けて私に噛みつこうと待ちかまえていた。
 
「うわ!もう一匹いたのか!?」
 
「クロービス!」
 
 ウィローが叫び声と共に放った矢は、私に噛みつこうとした蛇の目に命中した。凄まじい悲鳴を上げて、蛇が暴走を始め、私達の目の前を外に向かってのたうっていく。その尾は・・・ひとつしかなかった・・・。
 
「あ・・・あれ・・・なんだったの・・・。」
 
 私達は、二人とも壁際に身を寄せて、かろうじて蛇に踏みつぶされずに済んだ。その蛇の後ろ姿を、ウィローは呆然と見つめている。
 
「頭は二つあったのよ・・・。なんで・・・体がひとつしか・・・。」
 
 蛇はあちこちに体をぶつけながらよたよたと坑道を進み、細い横道に体を半分突っ込むとおとなしくなった。シャーッシャーッと音をたてながら、うずくまったまま震えている。
 
「あんな体じゃ、バランスが悪くてちゃんと動けないはずだわ・・・。やだ・・・私・・・目を潰しちゃったわ・・・。」
 
 ウィローが涙声になる。
 
「仕方ないよ、さっきはすごい敵意だったもの。」
 
「このまま置いていくの・・・?」
 
「だって連れていくわけにはいかないよ。」
 
「それはそうだけど・・・。」
 
 ウィローは半泣きの顔で蛇を見つめている。一つ目の首は通路の奥に入っていてここからは見えない。矢の当たった首はこちら側にむいてぐったりとしている。
 
「向かってこないうちに行こう。まだ先は長いんだ。」
 
 ウィローがどうしたいのかはわかっている。でもそれは出来ない相談だ。この先どれほどの数のモンスターが出てくるかわからないと言うのに、その一匹一匹に同情していたら、ここで二人とも命を落としかねない。
 
「・・・うん・・・。」
 
 歩き出したものの、ウィローの足取りは重い。この調子で歩いていたら、何日経ってもハース城まで辿り着けない。
 
「・・・少し休もうか・・・。」
 
 ウィローは黙って立ち止まった。
 
「・・・怒ってる・・・?」
 
「怒ってなんかいないわよ。ちがうの・・・。ごめんなさい・・・私・・・バカなことしようとしたのかな・・・。自分で傷つけたモンスターを治してあげたいなんて・・・。」
 
「バカなことだとは思わないけど・・・。でもハース城に生きて辿り着きたければ、ある程度は割り切らないとこれ以上進んでいけないんだよ。動物って言うのは、傷つけられるとかえって怒りだして向かってくるものがほとんどなんだ。前に進むためには、追いかけてこられない程度の傷を負わせる以外に方法はないよ。」
 
「・・・・・・・・。」
 
「あの蛇がかわいそうになった?」
 
「だって・・・あんなの見たことがないわ・・・。頭が二つもある蛇なんて・・・なんであんな姿に・・・。南大陸には、元々あんな生き物はいないはずよ。」
 
「北大陸にだっていないよ。この間見たカドプレパスもそうだけど、おかしな姿の生き物が多いよね。」
 
「・・・あの黒い水と何か関係があるのかしら・・・。」
 
「どうかな・・・。見るからに体に悪そうな水だったけどね・・・。」
 
「この先にも・・・あんなモンスターはいるのかしら・・・。いたら・・・どうしたらいいの・・・。」
 
「今までと同じだよ。向かってきたら戦う、それ以外にないじゃないか。」
 
「だけど・・・あんな・・・姿のモンスター達と・・・私戦えない・・・。」
 
 昔、セスタンさんが陥ったジレンマに、今ウィローは陥りかけている。ロコの橋に辿り着く前の晩、セスタンさんが見せたあのやり場のない憤り・・・。あのやるせなさをウィローはどうしていいか判らずに戸惑っている。ここで私が踏ん張らなければならない。ウィローの悲しみに流されてしまったら、もうこれ以上進めなくなってしまう。
 
「それじゃここで死んでしまうよ。私は君をハース城に入れていくって約束したんだから、こんなところで死なせたりしないからね。」
 
「どうしてそんなに冷静なの・・・?あのモンスター達がかわいそうだと思わないの・・・?」
 
 ウィローの瞳には非難の色が映っている。
 
「相手がなんであろうと、私達に出来ることはただ進んでいくことだけだ。君の言い方だと、普通の姿のモンスターは平気で攻撃出来るけど、おかしな姿をしているのはかわいそうだから攻撃したくないってことになるじゃないか。こっちがどう思っていても、彼らにとって私達は敵なんだよ。向かってくるモンスターがいれば追い払う、それでなければ殺すしかないんだ。」
 
「そ・・んな・・・。」
 
「でも殺したくはない。だから出来るだけ急所をはずして、力を加減して深手を負わせないように気をつけているんだ。私が冷静なのは・・・これしか方法がないってわかってるからだよ。」
 
 ウィローは涙を滲ませた目でしばらくの間私を見ていた。そして小さく頷いた。
 
「そうね・・・。ごめんなさい。」
 
「そろそろ行こう。さっきの蛇が戻ってくる前にね。」
 
 ウィローは無言のまま私のあとについて歩き出した。少し言いすぎたかも知れない・・・。私はウィローに振り向き、ポンと肩を叩いた。
 
「私達が出来るだけ敵意を持たずに歩くことも、重要だと思うよ。まわりを警戒しながら歩くのは大事だけど、あんまり神経をとがらせないように気をつけてみよう。」
 
「・・・うん・・・わかった・・・。」
 
 私達はまた坑道の闇の中を進み始めた。壁には松明をかけられるようになっているのだが、いつのものかわからないほどに古い燃えさしが引っかかっているだけだ。もうずっと長い間、使われた形跡がない。鉱山で働く人達は、この闇の中をどうやって移動しているのだろう。
 しばらく歩くとまたおかしなモンスターに出くわした。足が一本なかったり、余分についていたり、坑道で最初に出会ったのと同じ双頭の蛇など・・・。この坑道の中にいるモンスターは、みな異形のものばかりだった。なぜ彼らはこんな姿をしているのだろう・・・。しばらく行くと、歩きながらウィローがぽつりぽつりと話し出した。
 
「ねぇ、クロービス・・・。話をしていい?」
 
「いいよ。なに?」
 
 ウィローの声は少し震えていた。異様な姿のモンスター達に対峙する恐怖を、話をすることで紛らわそうとしているのかも知れない。
 
「あなた達がカナに初めて来た時に・・・父さんの悪口聞かなかった?」
 
「・・・・・。」
 
「ふふふ・・・。もし聞いたとしても、あなたはそんなこと言わないわよね。私ね・・・村の人達が時々父さんの悪口を言っているのは知っていたわ・・・。デールはひどい男だ、デールは気が狂っているのじゃないか、血も涙もない冷酷な男だ・・・。そんなうわさ話をみんながいつもしていることも、私に気を使って、私の耳に入らないようにしていることもね・・・。でもね、私は・・・父さんのことを、ずっと誇りに思って今まで生きてきたの。母さんがいつも言っていたわ。『父さんのお仕事はとっても重要なお仕事なのよ』『家に帰ってくる時間も惜しんで、人々のために一生懸命働いているのよ』って。だから・・父さんと全然会えなくても少しも寂しくなかった・・・。ううん・・・本当はね、寂しくても我慢出来るって思ってたの。父さんが頑張っているのに、私がめそめそしていられないって・・・思ってたの・・・。」
 
 そう言うとウィローは、心細そうに私に体を寄せてきた。私はウィローに合わせて歩調を緩め、なお辺りに注意を払いながら暗く細長い坑道を進んでいった。どのくらい歩いたのか、何匹のモンスターと戦ったのかもよくわからなくなるほどの時間が過ぎた頃、前方に明かりが漏れている扉を見つけた。坑道はここで終わるのだろうか。モンスターはもう出てこない。人の気配がしてきたが、敵意や殺意は感じられなかった。この鉱山の鉱夫達なのだろうか。用心のため、私が先に立って人のいるらしい部屋に入ってみた。
 
「おわ!!な、何だよ!?あんたどこから入ってきたんだ!!?」
 
 扉を開けた途端、入口の近くにいた鉱夫が私の顔を見て心底驚いた声を上げた。
 
「あ・・・すみません。北部山脈にある鉱山の入口から来たんですけど・・・ここからハース城へ抜ける道があると聞いたので・・・。」
 
 鉱夫は変な顔をしていたが、
 
「あ、ああ・・・。まあ入れよ。」
 
 私は後ろにいたウィローを促し中に入った。
 
「おいおい!あんちゃん、女連れかよ!?こんなところまでデートに来たって訳でもなさそうだが・・・一体何でハース城になんて行きたがるんだよ!?」
 
「あの・・・ちょっと用事がありまして・・・。」
 
 まさか統括者に会いにとも言えず、我ながら妙な返事をしてしまったと思った。
 
「用事って・・・。あれ・・・?あんたの着ているそのマント・・・王国剣士団のマントじゃないのか?」
 
「・・・知っているんですか?」
 
「ああ・・・俺はここには長くてね。・・・剣士団がまた南に来ることになったのか?」
 
「いえ・・・。それはまだ決まっていませんが・・・。それより、ここに長くいらっしゃるんでしたら、少し教えていただけませんか?最近鉱山の中で変わったことはないですか?」
 
「変わったこと?たとえばどんな?」
 
 鉱夫の顔には疑惑の色が浮かんでいる。
 
「あの・・・うまく言えないんですけど・・・鉱夫の方達の休暇が取り消されたとか、その・・・。」
 
 鉱夫はしばらく私達を見つめていたが、ふいに彼の顔から疑惑の色は消えた。
 
「・・・あんた達はどうやら信用出来そうだな。俺の知っていることなら話してやるよ。確かにここにはハース城に直接行ける通路がある。昔はレールが敷いてあってトロッコが日に何十回も往復していたよ。特にナイト輝石が発見されてからは目の回るような忙しさだった。このハース城の統括者はデールさんと言ってな、とにかく厳しい人だった。鉱夫達の中にはあの人を嫌っている奴らもたくさんいるよ。だが本当はいい人なんだよ。厳しいのだってちゃんと理由があったんだ。」
 
 私の背中にしがみつくようにして話を聞いていたウィローの体がぴくりと震えた。
 
「そうですか・・・。それではデールさんという方は今もハース城にいらっしゃるんですね?」
 
 鉱夫の表情が不意に翳る。
 
「いや・・・。それはわからない。」
 
「わからない・・・?どうしてですか?」
 
「ここからハース城内の精錬工場までナイト輝石を運んでいた通路は、今は使われなくなってしまったんだ。理由は・・・行ってみればわかるさ。」
 
「そんな・・・。それはいつからなんですか?」
 
「そうだな・・・。ナイト輝石が発見されてまもなくだから・・・3年・・・いや、もう4年近く前からだな。」
 
 4年近く前・・・。それは多分、フロリア様があの無慈悲な決定をされた時から・・・。
 
「では・・・ここで採掘された鉱石などはどうやってハース城へ!?」
 
「あんた、ここに来る前にハース城には寄ったのか?」
 
「はい。」
 
「それじゃ、門番の奴を見たよな?」
 
「ええ・・・。」
 
「地下通路が使われなくなってから、あの門番と同じような黒い鎧をきた奴らが何人か来るようになった。そいつらが山脈側の入口からハース城まで、採掘された鉄鉱石を運んでいるんだ。・・・来たみたいだな。おい、あんたら隠れてろ!」
 
 私達は部屋の中にあった簡易ベッドの隣にある、タンスの後ろに押し込まれた。扉を乱暴に開ける音が聞こえ、だみ声が響き渡る。
 
「おい!!今日の分を取りに来たぞ!」
 
「そんな大声出さなくても聞こえてるよ。ほら持っていけ!」
 
「ふん!!少ないではないか!貴様ら真面目に働いておるのだろうな!?ナイト輝石が少ないとデール様がお怒りになられるのだ!明日はもっと掘り出しておけ!!解ったか!?」
 
「解ったよ!さっさと行けよ!!時間に遅れてもデール様とやらはお怒りになるんだろう!?」
 
「お・・・そうだ・・・。とにかく、明日はもっと多く出すようにな!!」
 
 扉の閉まる音がして、だみ声は消えた。
 
「おい、あんたら、もういいぞ。」
 
 先ほどの鉱夫の声で、私達はタンスの陰からやっと出ることが出来た。
 
「今のがその衛兵達ですか・・・?それに・・・デール様って言うのは・・・。」
 
「そう、ここの統括者のデールさんさ。」
 
「まったくまるで王様気取りだよ!デール様って奴は。」
 
 部屋の奥にいた鉱夫が吐き捨てるように叫んだ。
 
「おい、口を慎めよ!」
 
「ああ、あんたはそりゃデールの信奉者だからな。だがな、俺はデールという男には何か怨念めいたものを感じていたんだ。滅多に口を聞かなかったから、何を考えているのかもわからなかったしな。最近じゃあんな得体の知れない奴らに様付けさせて喜んでいるし。顔を合わせなくなってせいせいしてるよ!」
 
 その鉱夫はあきれたように肩をすくめてみせると部屋を出ていった。
 
「では皆さんは、デールさんを最近は見かけてないんですか?」
 
「3年前地下通路が封鎖されてから誰も見てないよ。少なくともこの坑道で鉱石を掘っている連中はな。」
 
「そうですか・・・。」
 
「もしどうしても地下通路に行くってんなら止めはしないよ。あんた細っこいが腕は立ちそうだしな。そっちのお姉ちゃんも弓の腕はなかなかと見た。とりあえずここで少し休んでいったらどうだ?ベッドもあることだし、俺達のことなら気にしなくていいぜ。ちゃんと部屋を出ていてやるよ。覗きの趣味はないしな。存分に休んでくれていいぞ。」
 
 鉱夫は『休んで』のところに力を込めて言うと、私の顔を見てにやりと笑った。
 
「あ、いえ・・・少しだけ腰を下ろして休ませてもらえればいいですから・・・。」
 
 鉱夫の言葉の意味が何となく解って、二人とも赤くなってしまった。そんな私達の顔を見て、鉱夫は大声で笑いだした。
 
「ぶわっはっはっは!!わりぃわりぃ、若いもんをからかっちゃいかんよなぁ。それじゃ好きなところに座って休んでくれよ。」
 
 私達は壁際に並んで腰を下ろした。鉱夫は私達の近くに自分も腰を下ろすと、優しい瞳で私達を見つめている。長年鉄鉱石の採掘に携わっている人らしく、肩幅は広く、腕はかなり太く逞しい。だが、それほどに立派な体格をしているにもかかわらず、この鉱夫と言い、先ほど部屋を出ていった別な鉱夫と言い、妙に肌の色が白いのが気になった。南大陸に暮らす人達はほとんど肌が浅黒い。強い陽射しに負けないようにうまく出来ているのさと、北大陸を発つ前、ティールさんが話してくれた。彼らが元々どこの出身なのかはわからないが、それにしてもなぜこんなに白いのだろう。まるで何年も陽射しにあたっていないようだ・・・。
 
「なあ、あんちゃん・・・あんた王国剣士なんだろう?王国剣士ってのは普通二人一組のはずだよな?そっちのねぇちゃんは違うみたいだし・・・何であんた、こんなところに一人でいるんだよ?」
 
「私の相方は・・・今王宮に戻っています。報告することがありまして・・・。」
 
「へぇ、それじゃあんた一人でこんなところにいていいのか?しかも女連れとは・・・。」
 
「あの・・・あなたはデールさんのことはよくご存じみたいですね。」
 
「よくってほどでもないがな。俺はここにいるのが他の奴らよりも少しばかり長くてね。だから知っているという程度だ。さっきそこにいた奴が言っていたとおり、デールさんは滅多に口を聞かなかったし、確かに怨念めいていると言われるほど、鉱山の管理には厳しかったよ。だがいくら厳しいと言っても、鉱夫達をぞんざいに扱ったりしたことは一度もないぞ。あの人にクビにされた連中もいるが、それはそいつらの仕事がいい加減だったからだ。俺はそう思っているよ。もっとも・・・もうずっと会ってないから、今はどうしているのか皆目わからんのだがね・・・。」
 
 少し寂しそうに目を伏せる鉱夫の言葉を、ずっと黙って聞いていたウィローが口を開いた。
 
「あの・・・私は・・・デールの娘なんです。父に会いたくて、だからこの人に無理を言ってここまで連れてきてもらったの。」
 
「デールさんの娘だと!?それじゃ、あんたがウィローってのか!?」
 
「知っているんですか!?」
 
 今度はウィローが驚く番だった。
 
「ああ・・・俺がここに来たのはもう大分前だが、その時にはデールさんはもうここの責任者として赴任してから随分過ぎていたらしい。いつだったかな、俺の隣にいた奴が体を壊してな。デールさんがそいつを医務室に運んでくれて、そいつの仕事の代わりを引き受けてくれたんだ。明日には別な鉱夫をよこすから、今日はとりあえず私が手伝おうってな。その時少しだけ話をしたのさ。カナの村に女房と娘を置いてきたって言ってたよ。自分は夫としても父親としても失格だって・・・。その時名前を聞いたんだ。そのあと忙しくなってきたから、俺が話を聞いたのはそれだけだったが・・・家族の話をした時だけ、デールさんの厳しい横顔が優しくなったように見えたんだよ。・・・俺の気のせいだったのかも知れないがな。」
 
「父さんが・・・。」
 
 ウィローの瞳に涙が滲んだ。
 
「・・・長話しちまったな。そろそろここを出たほうがいいぜ。あんたらここに来るまでに坑道のモンスターを倒してきたんだろ?さっきの奴ら、それに気づいたらまたここに来るかも知れないぞ。」
 
「解りました。お世話になりました。ウィロー、行こう。」
 
「うん。」
 
 立ち上がった私達に鉱夫が声をかける。
 
「あんちゃん、まだ名前を聞いてなかったな?俺はランディってんだ。」
 
「クロービスです。」
 
「そうか、それじゃクロービス、この先の地下通路に何があるのか、ハース城でどんなことが起こっているのか、俺は解らない。だが、何があっても生き延びろよ。死んじまったらそれまでだからな。」
 
「はい。ありがとうございました。」
 
「・・・また会えるといいな。」
 
「そうですね・・・。きっとまた・・・。」
 
「ランディさん、父をいい人だって言ってくれてありがとう。嬉しかったわ。」
 
 ウィローの笑顔にランディさんは照れくさそうに頭をかくと、
 
「礼を言われるようなことはないよ。さあ、早く行け!!」
 
 私達は部屋の奥にある扉の鍵を開けてもらうと、その先の暗い通路へと踏みだした。そこは、思ったよりも広い場所だった。水の流れる音がする。元はレールが敷かれていたのだろうが、今は全て取り去られ、あちこちに枕木らしきものがうち捨てられていた。
 
「ここが地下通路・・・?でも何で水の流れる音が・・・。」
 
「水路と通路が一緒に造ってあるのかもしれないよ。排水溝だって必要なはずだから。」
 
「そっか。とにかく行きましょう。」
 
 通路を進むに連れて、私は自分達が今いる場所が、実はかなり広い空間であったことに気づいた。ランプで辺りを照らしながら慎重に歩を進める。水の流れる音が次第に大きくなり、やがてすぐ近くに聞こえてきた。そこは水路ではなく、貯水槽のような場所だった。ハース城内から出た排水が一度ここに集められ、ここから川や海などに流されていくらしい。その中を覗き込んだ私達が見たものは・・・ハース城へと向かう途中に流れていた小川の水よりも、さらに真っ黒な水だった。
 
「ここの水も・・・真っ黒だわ・・・。」
 
「さっき通った小川よりももっと黒いね・・・。これはどこから流れてくる水なんだろう・・・。」
 
「ここは・・・ハース城の排水施設じゃないのかしら・・・。見て!クロービス!!」
 
 ウィローが指さすほうを見ると、水の中に何かが浮かんでいるのが見える。
 
「何か・・浮かんでいるわ・・。あれは・・・何かしら・・・。ランプの光があそこまでは届かないのね・・・。よく見えないわ・・・!」
 
 ウィローはじれったそうに水面を見つめている。
 
「少し近づいて見よう。落ちないようにね。」
 
 私達は足元を見ながら、貯水槽のふちに近づいた。そこに浮いていたのは・・・。
 
「あ、あれは・・・ナイト輝石・・・!?」
 
 ウィローの声は震えている。
 
「やっぱりこの水はナイト輝石の廃液か・・・。精錬する時に出ると言われている・・・。」
 
 あの小川の水を見た時から、もしかしたらと思っていた。でも認めたくなかった・・・。
 
「でもどうして・・・こんなことに・・・。この真っ黒な廃液を、そのまま地下水として、流しているなんて・・・。・・・あ・・・。」
 
 ウィローが突然口を押さえてその場にしゃがみ込んだ。廃液の匂いをうっかり吸い込んだらしい。私は慌ててウィローを抱えると、息を止めて急いでその場を離れた。貯水槽から遠ざかり、すぐさま毒の中和の呪文を唱える。ウィローの呼吸が楽になった。だが今度は私の頭がくらくらとした。さっき私もあの匂いを少し吸い込んだらしい。私はすぐに自分に対して同じ呪文を唱えた。その途端ものすごい疲労を感じて、私は思わず後ろの岩壁に寄りかかった。まるで一番難しい呪文を唱えた時のように、視界がぐらつくほどの疲労が私を襲う。あの廃液の匂いは・・・体だけでなく、心の中まで蝕むほどの強い毒性があると言うことなのか・・・。足許がふらつき、私は思わず壁に手をついた。
 
「クロービス!?大丈夫!?」
 
 ウィローが慌てて立ち上がり、両手で私を支えようとしてくれたが、彼女の力で私の体を支えきれるはずがない。私達はもつれるようにその場に倒れ込み、ウィローが私の上に覆い被さるような格好になってしまった。
 
「あ、あの・・・ごめんなさい・・・。」
 
 ウィローは慌てて私から離れた。私はすぐには動けず、それでもなんとか体を起こすと壁にもたれかかった。
 
「大丈夫だよ。」
 
 声を出すのもやっとだった。
 
「・・・クロービス・・・ありがとう・・・。あの廃液・・・ものすごく強い毒性があるわ・・・。あんな・・・あんな汚れた水が、そのまま地下水に・・・そして、あの小川に流れていっているなんて・・・」
 
「あの小川の水はやがてハース城近くにある湖に注ぎ込む。そしてその湖から今度は海に向かって流れていくんだ・・・。少しだけ休もう。毒は中和したけど・・・私も・・・すぐには動・・け・・な・・・。」
 
 目の前が真っ暗になり、意識が闇の中に引きずり込まれそうになる。
 
「クロービス!?」
 
 ウィローが私を呼んでいる。『大丈夫だよ』と言うはずが口は動かず声も出ず、私の意識はそのまま暗闇の彼方に沈み込んでいった・・・。と、突然ふわりと持ち上げられるような感覚のあと、閉じたはずのまぶたの裏に光が満ちあふれた。驚いて眼を開けると、そこには心配そうなウィローがランプをかざして私の顔を覗き込んでいる。
 
「よかった・・・。気付の呪文が効いたのね・・・。」
 
「気付の呪文か・・・。かけられたのは初めてだ・・・。ありがとう、ウィロー。」
 
 今まで気を失うほどの怪我をしたのは西の森を出てすぐのあの時だけだ。でもあの時は私が目覚めるまで、カインとウィローは辛抱強く待っていてくれた。気付を唱えられるとこんな感じがするものなのだと、頭の片隅で妙に冷静な自分が頷いている。そのあとウィローが『大地の恩恵』を唱えてくれて、とりあえず体力だけは回復することができたが、それでもまだ動けなかった。それほどあの廃液の匂いは強烈で、強い毒を含んでいた。
 
「クロービス・・・。」
 
 ウィローが心配そうに私の顔を覗き込む。
 
「大丈夫だよ。でも先は長いんだ。今ここで休養を取っておかないと・・・この通路を抜けたら多分・・・もう休んでいる時間はないよ。」
 
「そうね・・・。」
 
 ウィローは私に寄り添って、しばらくそのまま二人で座り込んでいた。ぼんやりとした頭の中で、私はカインのことを考えた。カインと別れてから一週間後、私達はハース鉱山に向かった。そしてそのあとどのくらい経ったのだろう。カインは無事に王宮に戻れただろうか。フロリア様はカインの報告を聞いてどんな決断を下されたのだろう。剣士団は・・・南大陸へやってくるのだろうか・・・。
 心のどこかで、『それはないだろう』という声がする。フロリア様は、最初から剣士団をハースに向かわせる気はない・・・。何となくそんな考えが頭をもたげる。南大陸へ発つ時の、あの暖かい瞳のフロリア様なら、カインの報告を聞けばすぐにでも剣士団投入を決意されるだろう。だが・・・あの御前会議の時の、冷たい瞳のフロリア様だとしたら・・・きっと、剣士団はここには来ない・・・。精神の疲労のせいなのか、思考がどんどん悪いほうに流れていく・・・。でも、カインは必ず戻ってくる。私のところに戻ってきてくれる。これだけは信じられる。
 
 深呼吸をして、私は体を動かしてみた。もうだるくはない。この時、私はふと思いついて首に下げていたペンダントを取り出してみた。南大陸へ発つ前にセディンさんが持たせてくれたものだった。ずっと首にかけたままではいたが、今までこれを使わなければならないほどの切羽詰まった状況に陥ったことはなかった。ふたをあけ、少しだけ香りをかいでみる。その途端すぅっと頭の中のもやが吹き飛び、スッキリとしたような気がした。
 
「これ・・・何?」
 
 ウィローが不思議そうに私の胸元を覗き込む。
 
「君も少しだけこの香りをかいでみてよ。」
 
 私はウィローの鼻にペンダントを近づけた。
 
「わぁ・・・・。頭の中がスッキリする。体の疲れは取れてたけど、頭の中がぼんやりしてたの。でも、もう大丈夫だわ。これはどこで手に入れたの?」
 
「城下町の雑貨屋さんが、こっちに来る前に持たせてくれたんだ。前に話したことあったよね?セディンさんて言う雑貨屋さん。」
 
「そう・・・。きっととてもいい人なのね・・・。どう?動けるようになった?」
 
「うん。いい人だよ。もう大丈夫。ごめん、心配かけて。」
 
「よかった・・・。それじゃ行きましょうか。」
 
 私達は立ち上がり、貯水槽から出来るだけ遠い場所を選んでまた歩き出した。ウィローは貯水槽のほうを見つめながら怯えたように小さくつぶやいている。
 
「こんな・・・こんな水をそのまま外に流しているなんて・・・。じゃあ・・・じゃあそこに住む生き物達はいったいどうなるのよ・・・。この水の中で・・・この水を飲んで・・・暮らすの・・・?父さん・・・どうしてなの・・・?いったいどうして・・・こんなことになっているの!」
 
「まだ君の父さんがこんなことしてるって決まったわけじゃないんだよ。落ち着いてよ、ウィロー。」
 
「だって・・・廃液の管理は父さんの仕事のはずなのよ!なのに・・・。」
 
「だから!!だから・・・落ち着いて考えよう。何か事情があるのかも知れないじゃないか。」
 
「・・・ごめんなさい。私より・・・あなたのほうが父さんを信じてくれているみたいね・・・。」
 
 ウィローの声が涙声になる。
 
「とにかく、先に進もう。」
 
 途中から、通路は石畳になっていた。岩肌だった壁がちゃんとした石壁になり、少しずつ人間の手が加えられている箇所が多くなってきた。多分もうすぐ・・・ハース城内に入る。
 
「ねぇ、クロービス、もしかしたらモンスター達は、この廃液のことで・・・人間に対して狂暴になっていたのかしらね・・・。」
 
「・・・かも知れない。南大陸でモンスターが狂暴になって、人々を襲うことが多くなったのが3年前・・・。『ナイト輝石』が発見され生産され始めたのもね。そして・・・剣士団が南から撤収したのも、ロコの橋が封鎖されたのも、さっきランディさんが言っていたように、この通路が使われなくなったのも・・・ちょうど同じくらいの時なんだ・・・。ナイト輝石が発見されて、この通路の重要性が高まってきた時に使わなくなるなんておかしいと思っていたけど・・・このせいだったのかな・・・。」
 
「この廃液のせいで、いったい何匹の動物達が、死んだり奇形になったりしたのかしら・・・。この間出会った『カドプレパス』も、この坑道の中で出会ったモンスター達も、あの廃液のせいで奇形を起こしたものだったのね・・・。なのに私達は勝手に『魔界生物』だなんて・・・。」
 
「そうだね・・・。そして・・ハース渓谷にいたあの生き物・・・ロコもね・・・。」
 
 ロコの悲しげな瞳と、最後の言葉が脳裏に甦った。ロコの言っていたのはこの廃液のことだったのだろうか・・・。
 
「最も美しいと言われていた海竜ロコが・・・あんな姿になるほど、この廃液の毒性は強いんだわ・・・。でも・・・どうして・・・ロコはあそこにいたのかしら・・・。」
 
「もしかしたら・・・。」
 
 ふと思い当たることがあって、私は思わず口を開いた。
 
「もしかしたら・・・?」
 
ウィローが聞き返す。
 
「もしかしたら・・・ロコは、廃液の流出を・・・体を張って止めようとしていたのかもしれないよ・・・。でも結局は・・廃液の毒に侵されてしまった・・・。私の推測だけどね・・・。」
 
「そうか・・・。そうかも知れないわね・・・。おぞましい姿をしていたけど、あの眼は・・・とても優しい眼だったわ・・・。」
 
「うん・・・。」
 
 そして最期の時に私に語りかけてきた声も・・・とても優しく、慈愛に満ちていた・・・。
 
「父さんは・・・どうしてこの廃液を放っておくのかしら・・・。もしかしたら、こんなことになってるって気がついていないのかな・・・。鉱山の統括者として毎日忙しく働いているんだもの、どんなに細かいところまで注意を払っていたとしても・・・手が回らないことだってあるわよね。だとしたら・・・とにかく、一刻も早く父さんにこのことを伝えなきゃならないわ!そして廃液を止めなければ大変なことになる・・・いえ、もうなりつつあるのかも知れない。クロービス、急ぎましょう!」
 
 本当に手が回らなくているのか・・・それとも見て見ぬ振りをしているのか・・・でなければ、知っていてもどうにも出来ない状況の中にいるのか・・・。最後が一番真実味があるような気がして、不吉な予感を振り払おうと、私は少し足を速めた。石畳になってからずいぶんと歩いてきたつもりだったが、未だにハース城の建物内部に入れそうな入口は見あたらない。だが少し前からモンスターも現れなくなっていた。結界が張ってある。これも強力なものだが、カナの村やオアシスで感じた結界とは、また少し違う感じがした。そしてやっと、前方に大きな扉が現れた。その手前には吊り橋がある。それほど古くはなさそうだが、万一この橋が落ちれば、ナイト輝石の廃液の中に真っ逆さまだ。私は念入りに吊り橋の綱を調べた。使われていない割にはきれいに手入れされている。これなら大丈夫だろう。
 
「渡ろう。後についてきて。手すりにしっかりとつかまってね。」
 
 ウィローは頷いたが、なかなか一歩を踏み出せない。吊り橋の足元には幅広い板が敷いてあるものの、板の隙間は人間の足がはまりそうなくらい開いており、その下の暗闇が丸見えだ。踏み外せば間違いなく死んでしまう。ウィローは震えながらなんとか一歩を踏みだしたが、そこで凍りついたように動けなくなってしまった。
 
「・・・ご・・・ごめんなさい・・・。」
 
 私は橋の3分の1ほどを渡っていたが、一度ウィローのそばに戻った。
 
「ごめん・・・。一緒に渡ろう。ゆっくりと一歩ずつ歩けば大丈夫だよ。」
 
 私はウィローを片手でしっかりと抱きかかえると、呼吸を合わせて一歩ずつ慎重に橋を渡った。渡り終えた途端、ウィローの頬を涙が伝う。
 
「ありがとう・・・。ごめんなさい・・・すごく・・・怖かったの・・・。」
 
「大丈夫だよ。もう渡り終えたんだからね。さ、行こう。」
 
 吊り橋を渡りきったところからすぐのところに、先ほどの扉があった。取っ手を持つと、見かけよりもはるかに軽く扉が開いた。

第27章へ続く

小説TOPへ 第21章〜第30章のページへ