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 尋ねられたが今ひとつよく判らない。正直にそう言うと、女性は微笑みながらその正体を教えてくれた。
 
「あなたは暗示にかかっていて、いるはずもない人の声を聞いたの・・。もちろん幻聴だけど・・内容は幻ではないわ。それはあなた自身の内面の投影なの。声は・・・そうね、あなた自身の内なる声・・・とでも言えばいいかしら。そして分岐する道は・・・あなたの心の象徴ということね・・・。でもね、シェルノ先生にお会いした後なら、きっと簡単に帰れるわ。」
 
 私の内なる声・・・。ブロムおじさんが死んだかも知れないという声も、何もかも全て忘れて平凡に生きようと言う声も。全ては・・・私自身の内側にあったものなのか・・・。自分の意識していないところで、私はブロムおじさんの死を信じている?何もかも忘れて平凡に生きたいと願っているというのか・・・。
 
「大分参っておられるようじゃが・・・。彷徨の迷い路で聞いた言葉など、あまり深く考えることはないのだ。なぜって、今あんたはここにいる。それは、あの迷路の中を自分を信じて歩き通したからに他ならない。あんたは自分自身の心の迷いに見事うち勝ったのじゃ。暗闇で揺れる光を見て幽霊だと思い、風の音にも自分の名前を聞いてしまう・・。人の感覚は、自分で考えているより、ずっといい加減なものだ。ちょっとしたことで、すぐ暗示にかかり、幻を見たり聞いたりしてしまうんじゃ。『彷徨の迷い路』はそのような人の心理を考えて設計されておる。特に、悩みを持ち、また一人で暗い洞窟の中に入り込んだという不安定な精神状態の人間を暗示にかけるのは、非常に簡単なことなのだよ。」
 
 どうやら私は相当暗い顔をしていたらしい。老人が本を読んでいた顔をあげ、いたわるように話しかけてきた。
 
「それじゃあの・・・白い影は・・・。」
 
「白い影?」
 
 女性が不思議そうに問い返した。
 
「ええ・・・。歩いているとずっと先にいきなり白い影が横切って・・・追いかけていくといきなり壁が現れるんです。」
 
「白い影を見なさったのか。」
 
 老人が立ち上がった。
 
「あの影の正体をご存じなのですか?最も途中で見えなくなってしまったけど・・・。」
 
「その影は幻じゃ。」
 
 老人はさらりと言い切る。
 
「幻・・・。」
 
「あんたは多分『彷徨の迷い路』に入る時にとても不安だったじゃろう。そして中で何度もいやになったり帰りたくなったりしたのではないかな?」
 
「・・・はい・・・。」
 
 答えながら、恥ずかしさで赤くなった。
 
「恥じることはない。誰だってそうじゃ。得体の知れないものや恐怖から逃げようとするのは、人間の本能じゃからな。その白い影は、その本能を押しとどめてここに導こうと、もうひとりのあんたが作り出した幻・・・とでも言おうかの。途中で現れなくなったのは、あんたの迷いが消えたからじゃ。」
 
 老人はにっこりと笑って私の肩を叩いてくれた。少しだけ気が楽になった。
 
「シェルノ殿に会いに来られたのじゃろう?」
 
「はい。でもかなり階段を上がってきた気がするんですが、シェルノさんはどちらにいらっしゃるんですか?」
 
「シェルノ殿はこの上の階じゃ。そこが最上階のフロアで、その上は展望台になっておる。階段は・・・ほれ、この奥の書架の後ろじゃ。」
 
 老人はそう言いながら、部屋の一番奥にある書架を指さした。言われたとおりの場所に階段を見つけ昇ろうとしたが、そのそばに若者が立っている。本を持ってはいるが読んではいない。私が近づいていくのを待っていたように口を開いた。
 
「初めて見るはずの風景なのに、なぜだか過去に見たような気になることはありませんか?これはデジャ・ヴといわれ、実は、過去で夢に見ていたのが原因だといいます。夢のメカニズムは実はまだよく分かっていない部分が多いのです。」
 
 この言葉に、以前ローランで見たあの大きな建物のことを思い出した。初めて見るはずなのになぜか懐かしい・・・。そんな不思議な気持ちになったあの建物・・・。またローランに行くことがあったら、訪ねてみよう・・・。
 
 青年も下の階にいた女性と同じように、しゃべるだけしゃべると私の返事も待たずに本を開いて読み始めた。この人もまた『学者』なのだ。さて最上階にいるという『心理学者シェルノ先生』は、いったいどんな人なのだろう。いよいよ対面すると思うと緊張する。私は階段を上がった。
 
 そこはひときわ大きなフロアだった。真ん中に女性が座って本を読んでいる。壁際にはずらりと書架が並び、びっしりと本が詰まっている。ここまで来る途中で気づいたのだが、この塔にはほとんど窓らしいものがない。どの階にも特大のランプがいくつも灯されていた。多分窓はすべて書架によってふさがれてしまっているのだろう。そしてこの階もそうだ。
 
 私はランプを見あげた。剣士団の宿舎や訓練場にあるものと同じタイプのものらしい。この塔には無駄に高く飛び上がってランプにぶつかるような間抜けな新人剣士はいないから、ランプが壊れて修理代がかかるなんてことはないのだろう。あの頃が懐かしい。あれからまだ何ヶ月かだというのに、もう何年も前の出来事のような、そんな気がして少し寂しくなった。
 
(しっかりしなくちゃ・・・。みんな私達が帰るのを待っているんだから・・・。)
 
 気を取り直して、私は部屋の真ん中で本を読んでいる女性に目を向けた。さっきの老人はここにシェルノさんがいると言っていたのだから、この人がそうなのだろう。私よりははるかに年上のようだが、それにしてもきれいな人だ。艶やかなプラチナブロンドの髪をきれいに結い上げて、白いドレスを着ている。よく見ると化粧もきちんとしている。その姿は、私が持っている『学者』のイメージとはまったくかけ離れていた。ひとつのことに集中すると何もかも構わなくなって、食事するのも眠るのさえも忘れてしまう、新しい本を買った時など、父はよくそんな風になった。ほっておくと髪もぼさぼさのまま、風呂にも入らずに同じ服を何日も着続けている。そう言えば・・・そんな風になって本に集中したあと、父は決まって
 
『何を今さらこんなことを・・・』
 
そう言いながら悲しげに眉根を寄せていたっけ・・・。あれはいったいどういう意味だったのだろう・・・。
 
 そんなことをぼんやりと考えながら、私は目の前の女性を見つめていた。多分間の抜けた顔をしていたんだろう、女性が私に気づき顔をあげたが、私の顔を見てくすりと笑った。私は我に返り、慌てて挨拶をした。
 
「あの・・・初めまして・・・。あなたがシェルノさん・・・ですか・・・?」
 
 女性は立ち上がり、今度はにっこりと笑って頷いた。
 
「夢見る人の塔へようこそ・・・。私がシェルノです。この塔の中で、長年『夢』や『人の心』についての研究を続けております。あなたのお名前は・・・?」
 
「私は・・・・・・」
 
 ほんの少しためらったが、私は自分の身分を隠さずに言うことにした。シェルノさんの瞳はとても優しそうなのに、なぜか心を射抜かれそうなほどに鋭くて、へたな嘘などすぐに見抜かれてしまう、そんな気がした。
 
「私は、王国剣士クロービスと申します。」
 
「まあやっぱり・・・。あなたが着てらっしゃる制服は確かに王国剣士さんのものでしたが、剣士団が南大陸から撤収してから、もう4年近く過ぎるものですから・・・まさかと思いましたの。剣士団がまた南大陸に派遣されることになったのですか?」
 
「いえ・・・その・・・。」
 
 言葉に詰まった私にシェルノさんはくすりと笑うと、
 
「ごめんなさい。疑問に思うことがあると、ついつい口に出してしまって・・・。お気を悪くなさらないでくださいね。」
 
「いえ・・・。」
 
 私だって似たようなものだ。妙なところで共通点があるものだと、私は少しおかしくなった。
 
「どうなされました?」
 
 いつの間にか顔がゆるんでいたらしい。
 
「す、すみません。私も好奇心が強くて・・・よく相手を質問攻めにしてしまったりすることがあるものですから・・・。」
 
「まあ、それじゃ私達似たもの同士ですのね。」
 
 シェルノさんはくすくすと笑いだした。つられて私も笑ってしまった。
 
「どうやら緊張もほぐれたようですし、お茶でも煎れましょうね。」
 
 シェルノさんは優雅な足取りで部屋の隅に歩いていくと、やがてさわやかな香りの立ち上るカップを二つ、運んできてくれた。
 
「さあ、まずはハーブティーを一口どうぞ。」
 
 促されるままに私は部屋の中央にあるテーブルにつき、お茶を一口飲んだ。香りだけでなく味もいい。いつの間にかすっかり飲み干していた。そしてついさっきまでの不安が消えて、ゆったりとした気持ちになっている自分に気づいた。
 
「落ち着きましたか・・・?」
 
 シェルノさんが私の顔を覗き込む。
 
「はい・・・。ごちそうさまでした。」
 
 シェルノさんは満足そうに頷き、一緒に持ってきたポットからもう一杯のお茶を注いでくれた。
 
「あまりお待たせしてはいけませんね。西の森でお友達が待っているのでしょう?そろそろ本題に入りましょうか。」
 
 私が『彷徨の迷い路』を抜けてきたことは判っていてもおかしくないだろうが、なぜカインとウィローのことまで・・・。
 
「あの・・・あなたはずっとこちらにいらっしゃるんですよね。」
 
「ええ、ほとんどこの塔から出ることはありませんね。毎日本に埋もれて暮らしておりますわ。」
 
「それなのにどうして・・・私の友人が西の森にいるなんて判るんですか?」
 
 シェルノさんはくすくすと笑った。きょとんとしている私がおかしくてたまらないといった感じだ。
 
「下の階でお聞きになりませんでしたのね。この上には何があるのか・・・。」
 
「展望台があるとは聞きましたが・・・。」
 
「ええ、展望台です。とても広くて、出不精の私が体を動かすのに充分なくらい、いえ、それ以上広いのです。少し出てみませんか?」
 
 この塔に来てから、私はいったい何度階段を昇っただろう。かなり高い場所まで来ていることは確かだ。展望台とはどんなところだろう。好奇心が湧き上がってくる。私は立ち上がり、シェルノさんの後に続いて展望台へと続く階段を上がった。外に出た瞬間、耳元で風がごおっとうなった。
 
「うわぁ・・・・!」
 
 私の眼に飛び込んできたのは、どこまでも続く大海原・・・。視界の端から端まで、水平線が本当に一本の線のように見える。ここはいったい・・・。
 
「この海の先には何があると思いますか!」
 
 吹きすさぶ海風に負けまいと、シェルノさんが大きな声をあげる。
 
「ここは南大陸の最南端よりももっと南にある島の上です!でもあなたに見せたいのはこの景色じゃないわ!こっちよ!」
 
 シェルノさんは風にはためくドレスの裾を抑えながら、階段の反対側に向かって歩き出した。反対側には屋根があって、風もそれほど強く感じられない。そこにあったものは・・・なんと鳩小屋だった。
 
「この塔まで辿り着いたあなたにだからお話ししましょう。『彷徨の迷い路』の門番をしている若者は、あの中に誰かが入るとこの塔に向かって伝書鳩を飛ばします。そしてその誰かが無事にこの塔についたら、こちらからまた飛ばすの。中には『彷徨の迷い路』の中でいつまでも出られずにいる人もいますからね。ある程度の時間が経っても塔からの鳩が飛ばなければ、門番の彼は中に入ってその誰かを救出するというわけです。」
 
「でも門番の彼が危険なんじゃないですか?」
 
「悩みを持つ人にとっては、あの道は危険にもなります。でもそうでない人にとっては、何と言うこともないただの洞窟なのよ。」
 
「ただの・・・洞窟・・・?」
 
 あの複雑な迷路のような洞窟が・・・そんなことがあるのだろうか・・・。いくら『暗示』にかかっていたとは言っても、私は確かに壁に触れ、何度も分かれ道を曲がり、階段を昇った。
 
「あなたも帰りに通ってみれば判るでしょう。さあ、降りましょうか。」
 
 階段を降りて、シェルノさんと私は再びテーブルについた。驚いたことにお茶がまだ湯気を立てている。
 
「リータだわ。煎れなおしてくれたのね。」
 
 シェルノさんはうれしそうに微笑んだ。
 
「リータ・・・?」
 
「ええ、この下の階にいた女の子です。女の子と言っても私から見れば、だけど。・・・多分あなたよりはだいぶ年上でしょうね。私の一番古くからの助手の一人です。」
 
「それで『彷徨の迷い路』について詳しかったんですね。」
 
「そうですね。さあ、ずいぶん時間が過ぎてしまったわ。クロービス、もう種明かしをしたから言いますけれど、『彷徨の迷い路』の門番から、あなたが奇妙な夢に悩まされていると言うことは聞いています。その夢について解明したいと言うことですね?」
 
「はい。」
 
「わかりました。ではあなたの夢の内容をまず聞かせてください。そして、その夢について、関係があるとあなたが思われる事柄を、全て話してください。」
 
 私は夢についてのことをまず話した。思い出すだけでも背筋が寒くなるような夢だったが、ここに来てから長いことシェルノさんと話をして、すっかり緊張がほぐれていた私は、自分でも驚くほどしっかりと話すことが出来た。そして小さな頃から奇妙な夢を見続けていたこと、その中でも特に頻繁に見ていた夢がどうやらフロリア様の夢だったらしいことまで話し、少し迷ったが、最近になって立て続けに身近な人の心の声らしきものが聞こえたことまで話した。あの夢と私が聞いた声に関係があるとも思えなかったが、ここが『心理学』という学問の研究施設であり、シェルノさんがその専門家であるなら、人の心についてもいろいろとわかることがあるかも知れないと思ったからだ。シェルノさんは一言も口を挟まず、時折小さく頷きながら黙って私の話を聞いていた。
 
「・・・では少し整理してみましょう。まずはあなたが最近見るという夢ですが・・・その夢はまったく何も見えないくらい真っ暗だったのですね?」
 
「はい・・・。夜の闇だってあんなに暗くないんじゃないかって言うくらいでした・・・。」
 
「そして声もはっきりとは聞き取れなくて、やっと聞こえたのが『私を殺して』だったと・・・そういうことですね?」
 
「はい・・・。あと・・・もしかしたら・・・『お願い』と言っていたようにも聞こえたんですが・・・でも聞き違いかも知れないです。自信はありません。」
 
「そうですか・・・。そしてその夢を見るようになったのは南大陸に来てからで、北大陸にいた時はまったく見なかった、向こうにいた時に見ていたのは、その小さな女の子の夢だったのですね?」
 
「そうです・・・。」
 
「その夢は満月の時以外には全然見ないのですか?」
 
「以前はちょくちょく見ていましたけど・・・最近はほとんど満月か、それに近い時しか見ないんです。」
 
「そうですか。では北大陸にいた頃に見ていた夢はその女の子の夢だけですか?」
 
「いえ・・・。仕事で出かけた時に、テントで一緒に眠った仲間や先輩の夢を見たり・・・。」
 
「たとえばどんな?」
 
 私は言葉に詰まった。カインの夢・・・小さい頃にいじめられていた・・・。ライザーさんの夢・・・イノージェンとのつらい別れの夢だった・・・。そしてリーザの夢・・・父親に他に好きな女性がいるのではないかと問いつめている夢・・・。どれをとっても、今さら見も知らぬ他人になど知られたいことではないだろう。そんな私の迷いをシェルノさんは察したらしい。
 
「ではクロービス、質問を変えましょう。夢というものは、たいていの場合自分を中心にして展開されるものがほとんどです。それも普段なら絶対にあり得ないような場所で、あり得ないような組み合わせの知り合い達と一緒に歩いていたり話していたり・・・だいたいそんなものです。あなたの見たその夢は、そう言う夢ではなかったのではありませんか・・・?」
 
 ドキリとした。私が見た夢は皆、私が知るはずのない、彼らの過去についての夢だ。そして多分・・・彼らの心に今も傷として残っている・・・。
 
 私の沈黙を肯定と受け取ったのか、シェルノさんは言葉を続けた。
 
「ではその夢はたとえば・・・その方達が以前に経験した過去の出来事・・・多分その方達にとって良くも悪くも強烈な想い出・・・。違いますか・・・?」
 
 ズバリと言い当てられてぎょっとして顔をあげた。その私の眼を、シェルノさんの透き通ったエメラルドグリーンの瞳が鋭く射抜く。優雅で美しい貴婦人の顔には、今は『学者』の表情が宿っていた。
 
「・・・・・あなたは・・・人の心が読めるのですか・・・・?」
 
 シェルノさんはくすりと笑った。
 
「いいえ。私にはそんな力はありません。もしその夢の内容が、先ほど申し上げたようなごく普通の夢ならば、話すことをためらう必要はないはずですからね。でも今あなたは黙り込んだ。それはつまり、普通の人ならば見るはずのない夢・・・その方達の心の奥に潜む傷のようなものを『覗いてしまった』と言う意識があなたの中にあるのではないかと、私はそう考えたのです。普通ならそんなことは起こりえませんけれど、あなたのような方なら、そう言うこともあるかも知れないと思って。」
 
「・・・・・おっしゃるとおりです・・・。自分で意識して見たわけではなくとも、彼らの心に土足で入り込んだような気がして・・・。それをまた誰かに話すなんて、とてもそんなことは・・・。」
 
「そうでしょうね。では夢の内容までお聞きするのはやめましょう。私の仕事はあなたの夢の解明であって、他人様のプライバシーを暴き立てることではありませんからね。」
 
 シェルノさんはそう言うと立ち上がり、部屋の中を行ったり来たりし始めた。口の中でなにやらぶつぶつ言いながら、時々一人で頷いたりしている。そしていきなり部屋の真ん中で立ち止まり、くるりと私に振り向いた。
 
「少しだけお待ちいただけますか?あなたのケースに当てはまるかも知れない文献を思い出したのです。」
 
 言うだけ言うと私の返事も待たずに、フロアの一番奥にある書架の前にずんずん歩いていく。
 
(やっぱり学者なんだな・・・。)
 
 階下にいた研究者達と同じように・・・父と同じように・・・彼女もまた『学者』なのだ・・・。髪を結って、化粧をして、ドレスまで着ているけれど・・・。
 
 あんなきれいなドレスをウィローが着たらどうだろう。出会ってから今まで、長袖のシャツにズボンという格好しか見たことがないが、きっとドレスも似合うに違いない。あの長い栗色の髪をシェルノさんみたいに結い上げたらきっときれいだろうな・・・。ドレス姿のウィローを想像して、思わず微笑んでいた。でもそのドレスを着た彼女が、自分の隣に並んでほしいと思っているのが私ではないと思うと、胸が痛んで涙が出そうになった。
 
(カインとウィローがうまくいくなら応援しようって決めたはずなのに・・・情けないなぁ・・・。)
 
 出てもいない涙をこすって気持ちを切り替えようとした時、ちょうどシェルノさんが戻ってきた。
 
「申し訳ありません。お待たせいたしました。」
 
 シェルノさんは、むやみに顔をこすっている私に気づかないのか、気づかないふりをしているのか、椅子に座ると本を開いた。
 
「・・・ああ・・・ここだわ・・・。」
 
 小さく何度か頷いて、シェルノさんは顔をあげた。
 
「あなたは幼いときに重い病気にかかられたとのことでしたね。」
 
「はい・・・。なんの病気かまでは判りませんけど・・・。」
 
「そうですか・・・。おそらくその病気の際に、あなたの脳が覚醒したと思われます。」
 
「覚醒・・・?」
 
「ええ、簡単に言えば、あなたの脳が目覚めたと言うことです。」
 
 言葉は簡単でも意味はさっぱり解らない。
 
「あの・・・それは・・・。」
 
「そうですね・・・。とにかく順を追ってお話ししましょう。意味は解らなくとも、あなたの脳がその病気によって目覚めた、と言うそのことだけは憶えておいてください。それによって、あなたは様々な夢を見るようになったと思うのです。」
 
「病気のせいだというのですか?今まで見てきた夢が全部・・・。」
 
「病気の『せい』ということではありません。病気によって目覚めた脳が見せている・・・このほうが近いかも知れませんね・・・。うーん・・・なんと説明すればいいでしょうか・・・。」
 
 シェルノさんも困っているようだった。私はこれ以上質問するのをやめた。とにかく順を追って話してもらうしかない。そうすれば多分理解できるのだろう。
 
「・・・では続けます。あなたが今までに見てきた様々な夢、その中には・・・・他人の強い記憶、あるいは願望が含まれているはずなのです。」
 
「・・・私の父も、昔そんなことを言っていました。でもそれ以上は解らなかったみたいです。」
 
「そうですか。ではあなたのお父様はやはり、心理学の書物を調べられたのでしょう。でも・・・そうですね、それ以上のことを知るには、心理学という学問を究めないと・・・なかなか難しいかも知れません・・・。『追体験』という言葉はお父様からお聞きになりましたか?」
 
「聞きました。私の夢がどうやらそれに当てはまるらしいと。」
 
「あなたのお父様はお医者様だったのですよね?」
 
「はい。」
 
「息子さん思いのいいお父様でしたのね。専門外のことをそこまで詳しく調べられるなんて。」
 
「ええ・・・とても・・・いい父でした・・・。」
 
「ではそのお父様のためにも、何としてもこの夢の謎を解き明かさなければなりませんね。あなたが今までに見ていた夢は、みんな他人の記憶の『追体験』だと思われます。身近な人の心の中の一番強い記憶を感じ取り、夢の中で再現させてしまうのです。ところが・・・クロービス、ここからがこのお話の一番大事なところです。あなたが一番知りたがっているその悪夢のお話です。その夢は、単なる他人の記憶を追体験しているのとは、異なる点が二つほどあります。一つは夢の中で明確な像を結ばないこと。これは受け取る思念の波長が合わないことを意味します。あなたが夢のたびに吐き気に襲われるというのも、波長が合わないゆえの拒絶反応のようなものなのではないかと思われるのです。」
 
「波長が合わない・・・?それは・・・どういう・・・。」
 
「おそらくその思念は、人とは異なる生物のものであると思われます。」
 
「人とは・・・異なる・・・?つまりモンスターとか・・・。」
 
「それは判りませんが・・・人間以外の生き物をすべてモンスターと呼ぶのであればそう言うことになるでしょうね。でもその中でも、かなり知能の高い生物だと思います。」
 
「知能が・・・高い生物・・・ですか・・・。」
 
「そうです。ただ、南大陸のモンスターは、北大陸に住むモンスターよりも総じて知能が高いと言われています。ですから、そのモンスターがどんなものかまでは私には判りません。」
 
「そうですね・・・。ではいつもの夢と違うもう一つはなんなんでしょう。」
 
「もう一つは、夢の内容が、あなたに対して語りかけているということです。これは相手が意図的にその思念を送り出していると言えます。これがどういうことか・・・解りますか・・・?」
 
 人でない者からの思念・・・。セントハース・・・ハース渓谷の怪物・・・。確かに彼らは人ではないし、セントハースは聖戦竜なのだから人間よりも知能が高いくらいだろう。彼らが私に向かって『意図的に』思念を送り出している・・・。なぜ・・・私に・・・。
 
 顔をこわばらせた私を、シェルノさんは心配そうに覗き込んだ。
 
「『知能の高い生物』について心当たりがあるようですね。」
 
 私は黙って頷いた。
 
「そうですか・・・。とにかく先を続けましょう。相手が誰であれ、いくら意図的に思念を送り出していても、それを誰でも受け取れるというわけではありません。」
 
「・・・どういう・・・意味ですか・・・・?」
 
「受け取る側がそれなりの力を持っていなければ、何も感じることは出来ないのです。ここまで言えばもうあなたにもおわかりでしょう。あなたには、誰かが意図的に送り出した思念を、受け取って理解することが出来る力があるのです。私達は『思念感知の能力』と呼んでいますが、あなたには『テレパシー』と言ったほうが判りやすいかもしれませんね。」
 
「私が・・・テレパシーを受け取る力を持っていると・・・言うのですか・・・。」
 
 私は「彷徨の迷い路」の中で聞こえてきた声を思い出した。
 
 −−自分には何か他人には無い力がある・・?
 
 あれもまた私自身の内なる声だったのだ。でも信じられなかった。いや・・・信じたくなかったのかもしれない。でもこれは現実だ。私にはテレパシーを感じる力が・・・ある・・・。
 
「そういうことです。ただ、テレパシーと言ってもいろいろあります。人の心の中の声を、まるで普通に耳で聞くように聞いてしまう方もいらっしゃいますし、身近な人の感情をそのまま感じる能力に長けた方もいらっしゃいます。あなたは多分後者のほうですね。」
 
「でも声を聞きましたけど・・・。」
 
「あなたに『声』が聞こえるのは、その誰かがよほど強く心に念じた時だけ、その点についてあなたのお友達がおっしゃったことは正しいと思います。あなたのお話を聞く限り、あなたの力は、『聞く』のではなく『感じる』力だと私は思います。」
 
「でも・・・私に本当にそんな能力があるんでしょうか。いつも鈍感だとか抜けてるとか言われているんですけど・・・。」
 
「それはおそらく・・・あなたの自己防衛本能でしょうね・・・。その能力をいつも全開にしていたら、あなたの精神が参ってしまうでしょうから。」
 
「どういうことですか・・・?」
 
「そうですね・・・。あなたが聞いたというその身近な人達の声・・・その声を聞いた時、どうしようもないくらい恐ろしくなったとおっしゃいましたよね・・・?」
 
「はい・・・。」
 
「その現象が日常的に起こるということです。知っている人ばかりでなく、道ですれ違った見知らぬ他人の感情が、いきなり入り込んでくる・・・そんなことになったりしたら、どうなると思いますか?」
 
 背中に氷をあてられたみたいに、ざわっと鳥肌が立った。あんなことが毎日起きるなんて、考えたくもない。シェルノさんは私の顔を見ていたが、小さく頷いた。声に出さずとも、私の感じた恐怖は充分に彼女に伝わったらしい。
 
「・・・つまりそういうことです。」
 
「では私はどうすればいいんでしょうか・・・。どうすれば・・・あの夢の中で聞こえてくる声をはっきりと聞き取ることが出来るんでしょうか。時間がないんです。できるだけ早くあの夢の正体を突き止めないと・・・。」
 
 ハース城に行けない。行けなければウィローが父さんに会えない。そして私達は任務を遂行出来ない。でも・・・それまではウィローと一緒にいられる・・・。
 
(ばか!何を考えているんだ!こんなときに!)
 
 突然浮かんだあまりにも身勝手な考えを、私は慌てて頭から追い出した。こんなことを考えたなんてカインとウィローに知られたら、軽蔑されてしまう。
 
「ひとつだけ方法があります。それは、あなたの能力を完全に目覚めさせることです。」
 
 シェルノさんは、私の目を見つめてきっぱりと言い切った。
 
「完全に・・・それじゃ、私の今の状態は完全ではないと言うことですか・・・?」
 
「そうですね・・・。今のあなたの力は、人間にたとえれば子供のようなものです。」
 
「ではどうすれば力を完全に目覚めさせることが出来るんでしょう。」
 
「あなたが望まれるのなら、私がお手伝いします。でもそれは、あなたにとってとてもつらいことかも知れません。」
 
「それはつまり・・・力が完全に目覚めたら、私が変わってしまうと言うようなことですか?たとえば・・・今までの私という人間ではなくなってしまうというような・・・。」
 
 シェルノさんは微笑みながら首を振った。
 
「いいえ。まず見た目が変わることは何もないし、別にあなたの頭の中身をかき回すわけではないのですから、中身が変わるなどということもありません。私が言っているのはそんなことではないのです。力が完全に目覚めれば、その夢の正体は判るでしょう。以前あなたが見ていた夢のように、はっきりと見えるはずです。でもそれは、今までよりも人の心を感じ取る力が格段に強くなることをも意味しているのです。」
 
「それじゃさっき言っていたような、町ですれ違った人の心がいきなり入り込んでくるとか・・・。」
 
「何もしなければそうなるかも知れませんね。」
 
「では・・・何をすれば・・・?」
 
「先ほど私は、あなたの心には自己防衛本能があると言いましたね。それがあるから普段どおりの生活をしている分には、まわりの人達の心がそのまま流れ込んでくるなどと言うことはないのです。でもそれは、あなたの力が今のままなら、です。もしも力が完全に目覚めた場合、あなたは自分の意志でその力をコントロール出来るようにならなければなりません。それが出来なければ、さまざまな思念に蹂躙され、あなたの精神が崩壊してしまうかもしれないのです。」
 
 そこまで言ってシェルノさんは私をじっと見つめた。微笑んでいるのに、視線は心の奥まで射抜かれそうなほどに鋭い。
 
「・・・そしてもう一つ・・・いくら自在にコントロールできるようになっても、以前と同じというわけにはいかなくなるでしょう。誰かが心に強く念じたこと・・・心の奥底に持っている強い記憶・・・。眠って夢として見なくても、あなたにはそれらの心が判ってしまう・・・意識しなくても感じとってしまう・・・。そう言うことは増えるでしょうね・・・。それは・・・怖いですか?」
 
 怖いなんてものじゃない。人の心の声が聞こえたと言うだけで、私は充分なほどに恐ろしかった。あんなことが頻繁に起こるかも知れない。そう考えただけで、身が縮む思いだった。でも今のままではあの夢の正体は判らない。私はカインとウィローの元に、答を持って帰らなければならないのだ。もう後戻りは出来ない。
 
「怖いです・・・。とても怖いけど・・・でも・・・私はあの夢の謎を解明したい。もし出来るのなら、助けていただけませんか・・・?」
 
「判りました・・。それではこれから、あなたに術をかけます。世間では私は『魔法』を使うなどと言われているようですが・・・もちろんそんなものではありません。これは『催眠術』と言って、人間の常識によって無理に眠らされている力を引き出すものなのです。何一つ不思議なことではないのですよ。元からあなた自身が持っている能力を引き出し、完全に目覚めさせるだけなのですから。では・・・眼を閉じてください。」
 
 言われるままに眼を閉じた。私の肩に暖かいものが触れる。それがシェルノさんの手だとすぐにわかった。
 
「まずは深呼吸して・・・そう・・・自分を大地と一体だと思うの・・・。自然の中に個として存在する自分をイメージして・・・・誰かが・・・あなたに語りかけている・・・。あなたは・・・その声を聞くことができる・・・。心を感じ取ることが出来る・・・。」
 
 シェルノさんの声が遠くから響いてくるような気がした。そしてそのまま意識がすぅっと何かに吸い込まれるような感覚のあと、再びシェルノさんの声で我に返った。
 
「さあ・・・眼を開けてください。」
 
 私は眼を開けた。目の前にはさっきと変わらないシェルノさんが立っていて、部屋の様子も何も変わったところはない。でも何か・・・はっきりとは判らないが何か違和感があった。

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