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「図書室にエミーがいたでしょ?」
何となく咎めるような口調だ。
「いたよ。エミーがどうかしたの?心配事があるみたいに見えたんだけど。」
私の言葉を聞いて、パティは大きくため息をついた。
「心配事ね・・・。ねえクロービス、あなた、エミーのことどう思っているの?」
「どうって言われても・・・。本のことを話している時は楽しいし・・・いい友達だと思ってるよ。いや、妹みたいな感じかな。君の前でこんなことを言ったら、君が気を悪くするかも知れないけど・・・。」
パティはますます顔をしかめ、私を見ている。いや、睨みつけていると言ったほうが、正しいかも知れない。それほどきつい視線だった。
「あのさ・・・パティ、もしかして、君がこの間言ったことを気にしてるの?エミーに手を出すなって言う・・・。それなら心配しなくていいよ。そんなこと考えてないから。」
パティは何か言いかけるように口を開いたが、途中でやめ、もう一度大きくため息をついた。
「なるほどね・・・。判ったわ。呼び止めてごめんなさい。」
「う・・・うん・・・。それじゃ・・・。」
パティのしかめっ面の意味が解らない。エミーの態度といい、どうも今日はおかしなことばかりが起きる。私は首を傾げながら、中庭へと足を向けた。この庭はいつ来ても心が安まる。今は冬だから花は咲いていない。それでもここは故郷の我が家の庭を思い起こさせる。この辺りは温暖で、雪もほとんど降らない。私はまた新しく借りた本を手に、庭の隅に腰を下ろして読み始めたが、さっきのエミーとパティの態度が引っかかって、何となく本の内容が頭に入らなかった。しばらくして隣に人の気配がした。振り向くとユノが私の隣に腰を下ろしていた。
「しばらく見なかったな。」
この言葉に私は驚いた。ここでユノと会うことは少なくはなかったが、それでもユノが、私が姿を現さないことを気にかけていたとは思えなかったからだ。
「南地方に行っていて・・・昨日帰ってきたんです。・・・休憩ですか?」
「ああ・・・少しな。そうか・・・。南か・・・。」
ユノは庭に視線を向けたまま小さく頷いた。今日は天気がいい。ユノの髪が陽の光をはじいてキラキラと光っている。誰もがユノを取っつきにくい人だと言っていたが、それと同時に美人だとも言っていた。確かに美しい女性だが、食堂で初めて見た時、この庭で最初に出会った時、ユノの瞳は凍るように冷たかった。だがカインと私の謹慎最終日に会った時は、その冷たさは消えていた。それは今も変わらない。特別優しいわけではないが、私に向けられる視線はとても穏やかだ。彼女の中で、一体何が変わったのだろう。
「私の顔に何かついているのか?」
ユノが怪訝そうにこちらを見ている。私はいつの間にか本から視線を離し、ユノの横顔を見つめ続けていたらしい。
「い、いえ・・・。」
どうして冷たい目で見なくなったのですか、などと聞くわけにもいかない。私は慌てて言葉を濁した。ユノは私を横目で見ていたが、クスリと笑った。
「不思議な男だな、君は・・・。」
「不思議・・・ですか・・・?」
「剣士団の連中は・・・男に限らず、女だって私のそばになど近づかない。それなのに君はここにしょっちゅう顔を出す。」
「鍜治場からの帰りにここを見つけたんです。故郷の庭に似ていたので懐かしくなって・・・。あの時も少しだけ故郷を思い出したくてここに来て、あなたに会ったんです。」
「シオンの花か・・・。」
「憶えていてくれたんですね・・・。」
「ここにある花は・・・どれもこれも地味な花ばかりだ・・・。王宮の表玄関の脇にある庭のように、一般に公開されているわけではないからな。」
この中庭に入れるのは王宮内部の人間だけだ。ここからは王族専用の庭へと続く道がある。そこには大きな門があり、常に見張りの剣士がいるが、だからといって一般人を近づけるわけにはいかない。一方王宮の入口の隣にある庭は一般に公開されているので、誰でも出入りできる。専任の庭師が何人かいて、常に手入れされ、四季の花々が咲き乱れている。最も今の季節は花らしい花もないので、訪れる人はいつもより少なかった。
「表の庭はきれいだと思うけど、私はこの庭の方が好きです。小さくて地味な花ばかりだけど、心が安まるような気がするんです。」
「そうだな・・・。私もこの庭は好きだ・・・。」
そう言ったユノの横顔が微笑んだように見えた。私や剣士団の仲間達に見せる、皮肉めいた微笑みではなく、花を見つめる時の優しい微笑みだった。
「よかったら・・・本を読みますか?私の趣味で借りた本だから、興味があるかどうか判らないけど。」
私は抱えていた本をユノに見せた。ユノはその中から一冊の本を取りあげた。『エルバールの歴史』と書いてある。
「歴史に興味があるのか?」
「あ、それは・・・。」
さっきエミーに会った時、王国のことがいろいろ判るからと、半ば押しつけられたような形で借りてきた本だった。
「パティの妹さんが、この国の歴史を知るならこの本がいいって教えてくれたんです。」
「パティの妹?」
「はい。エミーって言って、よく図書室に来ています。」
ユノは私を横目で見てにやりと笑った。いつもの皮肉めいた笑みとはまた違う、からかうような笑顔だ。
「なるほどな・・・。君がここに来る時はいつも本を抱えていたが、彼女の影響か・・・。」
言いながらユノはくすくすと笑いだした。
「い、いえ・・・。私は元から本が好きですから。ただ、図書室に行くといつもエミーがいるので、いろいろ話したりするだけです。」
「別に言い訳をする必要はない。パティの妹なら、きっと明るくて元気のいい娘なんだろうな。君には似合いじゃないのか?」
思いがけない言葉に私は驚き、慌てて否定した。
「い、いえ、そんな・・・。エミーとはそういうんじゃないです。妹みたいなものですから・・・。たださっきは何だか元気がなくて、ちょっと心配なんです。」
ユノは私の言葉を聞いて、また笑っている。何がそんなにおかしいのだろう。
「あの・・・何かおかしなこと言いましたか?」
ユノは少し驚いたように私を見たが、また笑い出した。
「いや、別に・・・。元気がないのが心配だと言うなら、本人に聞いてみればいいだろう。休憩時間は終わりだ。私は失礼する。」
ユノは立ち上がり、ゆっくりと乙夜の塔に向かって歩き出した。
「あ、あの・・・ユノ・・・。」
「何だ?」
「また・・・訓練場に来ることがあれば、相手をしてください。」
「そうだな・・・。またいつかな・・・。だが、それまでにもう少し使えるようになっていてくれないと、張り合いがない。次は手抜きなしだ。」
ユノはまたにやりと笑いながら歩いていった。今の笑顔も、からかうような感じだったが、皮肉めいてもいなかったし、冷たくもなかった。何となく私はほっとした。なぜほっとしたのかは判らない。以前よりもユノが身近に感じられて、以前のような居心地の悪さがなくなっていたのが嬉しかったのかも知れない。私はそのまま、しばらくのあいだ中庭で本を読んでいた。冬の日は短い。西日に気づき腰を上げて部屋に戻ると、カインが待っていた。何となくにやにやしているように見える。
「お帰り。」
「ただいま。もう訓練は終わったの?」
「ああ。今日は早めに切り上げたんだ。少しは体を休めないとな。」
「そうか。それじゃ、私も明日から一緒に行くよ。」
「そうだな。明日は二人でやるか。」
私と話しているあいだ中、ずっとカインはにやついている。何かいいことでもあったのかとも思ったが、何となくそういう笑みとは違うような気がした。
「何で笑ってるの?」
「・・・お前さ・・・今日図書室に行ったよな?」
「行ったよ。」
「エミーがいただろ?何か話したか?」
「話したよ。私が借りていた本の話とか、エルバール王国の歴史について知りたいならお薦めの本があるとか。いつもそんな話ばかりだけどね。」
「へぇ・・・。それでそのあと中庭にも行っただろ?」
「行ったよ。・・・カイン・・・何が言いたいの?」
「カーナ達が噂してたんだよ。お前がエミーとくっつくかユノ殿とくっつくかってな。」
「くっつくって・・・人を接着剤みたいに言わないでよ。あの二人とはそんなんじゃないよ。」
「じゃ、どんなんだ?パティが心配してたぞ。」
「今朝パティにも言ったよ。前にエミーに手を出すなって言われてたけど、今だってそんな気はないから安心してって。」
カインは今朝のパティと同じような表情でため息をついた。
「お前・・・もしかしてまだ、えーと・・・イノージェンのこと諦めきれていないのか・・・?」
思いがけない言葉に私は驚き、大声を出した。
「まさか・・・!もうとっくに吹っ切れてるよ。ただ、今は特別好きな女の子がいないって言うだけだよ!いいじゃないかそんなの!」
「怒るなよ。別にお前をからかいたいわけじゃないんだ。パティが心配していたのは、お前が考えたこととまったく逆のことだ。」
「逆・・・?」
「そうだよ。エミーがお前のことを好きなんだとさ。」
「まさか・・・。」
「俺はパティに聞いただけだから、確かに本当のところは判らないけど・・・。パティは、かわいい妹がお前に惚れているから、何とかうまくいってくれないものかと思っているらしいよ。ところがお前は図書室から出ると大抵中庭に行って、よくユノ殿と肩を並べて花壇に水を撒いたり、仲良く話をしたりしているから、もしかしてお前はユノ殿のことが好きなのかなって、さっき聞かれたんだ。」
「どうしてそういう話になるのかなぁ・・・。エミーは妹みたいにしか思ったことがないし、ユノは・・・中庭で会うのもそんなに頻繁じゃないよ。待ち合わせているわけでもないし。顔を合わせた時に水撒きしていれば手伝うことはあるけど・・・。会話らしい会話を交わしたのだって、最初にあそこで会った時と、今日くらいのものだよ。しかもユノにまでエミーのことでからかわれてきたんだ。」
「へぇ・・・。あのユノ殿がねぇ・・・人をからかったりもするんだな・・・。」
カインは意外そうにつぶやいた。
「謹慎最終日にユノの相手をした時のこと憶えてる?」
「憶えてるよ。手を抜いてもらってやっとこさ防戦が出来た。あれは情けなかったな・・・。もう一度相手してほしいくらいだよ。今度はもう少しちゃんとした試合になると思うんだがな。」
「そうだね・・・。あの時・・・私がぼんやりしていたのは多分・・・ユノの瞳を見たからなんだ・・・。」
「瞳・・・?」
「そう・・・。私の歓迎会の日に食堂で初めて会った時、ユノの瞳があまりにも冷たすぎて怖いくらいだったんだ。中庭で初めて会った時もそうだよ。でも・・・体慣らしをしたいからって私達と向かい合った時のユノの瞳からは・・・あの冷たさが消えていた・・・・。どうしてなのかまでは判らないけど・・・。」
「そうだなぁ・・・。確かに冷たい印象はあるな・・・。俺は瞳の中までは気づかなかったな。顔立ちのせいかと思っていたよ。あの人はどっちかって言うと、冷たい感じの美人だからな。フロリア様とは好対照だよな。」
「笑うと全然印象が変わるよ。」
「お前には笑うのか?」
カインはまたにやりとしている。
「違うよ。中庭に咲いている花を見る時はすごく優しい顔してるよ。きっとあの場所でしかあんな顔しないんだろうな。だからみんな判らないんだよ。」
「お前がいるからそんな顔するんじゃないのか?」
「・・・本当に怒るよ・・・。」
私はカインを思いきり睨んでみせた。
「判ったよ。そんなに怖い顔するなよ。・・・なるほどな。俺はユノ殿が笑った顔も、優しい顔も知らないからな。そんな一面をもっとみんなの前で見せてくれれば、みんなにもう少し好かれるんだろうにな。」
「そうだね。それから、さっき頼んできたよ。また訓練の相手してくださいって。」
「へぇ・・・。実現するといいな。俺も楽しみだな。」
「でもそれまでに、もう少し使えるようになっておけってさ。次は手抜きなしだって。」
「はははは。なるほどな。それじゃ、明日から頑張って訓練するか。」
「そうだね。」
「なあクロービス、ユノ殿のことは判ったけど、エミーのことは・・・もしも何か言われたら、ちゃんと返事してやれよ。」
「うん。判ったよ。心配かけてごめんね。」
「いいよ、そんなこと。さぁて!話が決まったところで飯でも食いに行くか。」
朝からエミーとパティの態度がおかしかったのがなぜなのか、判ったもののスッキリしなかった。確かにエミーはかわいい。元気で明るくて好感が持てるし、話していると楽しい。だが・・・だからといってエミーを女性として見たことは一度もない。でもそんなことを面と向かって言ったりしたら、エミーがどれほど傷つくか・・・。
以前、セルーネさんと話している時に、うっかり『セルーネさんは女性じゃない』と言ってしまってゲンコツをくらったことがある。私としては『男として女性を見る眼で見たことはない』と言いたかったのだが、過程を省いていきなり結論を言って失敗してしまった。こういうことで言葉を省略すると、とんでもない誤解を招きかねないと言うことを、あの時学んだ。最もセルーネさんはあの時笑っていたから、私の言うことなんて真に受けたりはしないのだろうけど・・・。
でもエミーのことは多分そう言うわけにはいかない。もしもエミーに気持ちを打ち明けられたりしたら、何と言って断ればいいんだろう。傷つけたくはないが、曖昧にしてはおけない・・・。
翌日、カインと私は訓練場にいた。昨日一日休んだことで疲れはすっかり取れている。隅の方で素振りを始めた私のところに、カーナが近づいて来た。
「へぇ・・・今日はデートじゃないのね。」
別に悪意は感じられない。だが昨日カインに言われたことが引っ掛かって、私は思わずカーナを睨んだ。
「そんな予定はないよ。今日は訓練に来たんだ。つまらない冗談を言う暇があるなら、相手をしてよ。」
「あら怖い。そんなにムキにならなくてもいいでしょ。からかったのは悪かったわよ。でも噂になってるわよ。」
「噂って・・・君が流してるんじゃないの?」
言ってしまってから後悔した。自分の苛立ちをカーナにぶつけても仕方ないのに・・・。カーナは確かにお喋りなところもあるが、だからといって今の言葉は言ってはいけないことだった。
「・・・ごめん・・・。言いすぎた・・・。」
カーナは明らかにむっとしたように私を睨んだが、それでも平静を装って言葉を続けた。
「別に私が言いだした訳じゃないわよ。あなたがユノ殿とよく中庭で一緒にいるところを見かけたのは、私だけじゃないもの。フロリア様付きの侍女達が噂してたのよ。仕事一筋のユノ殿に年下の恋人出現かってね。でもあなたが図書室でエミーと話してるのもみんな見てるから、あなたがどっちとつきあうのか、興味津々みたいよ。中には、あなたがフタマタかけているんじゃないかなんて言う人までいたわ。それは私が否定しておいたけどね。あなたがそんなに器用な男だなんて思えないものね。」
カーナは何となく楽しそうに笑っているが、私は呆れて、少しのあいだ言葉が出てこなかった。せっかく訓練場に来たのに、何だかやる気までそがれてしまって、私は壁際のベンチに腰を下ろした。
「どっちともそんなこと考えてないんだけどな・・・。どうしてほっといてくれないのかなぁ。」
口調もぶっきらぼうになる。カーナは私の口調に、一瞬驚いたように目を見張ったが、私の前に歩み寄ると腰に手を当てて見下ろした。
「あなた判ってないのねぇ・・・。」
「何が?」
「自分の立場よ。あなた、王宮にいる若い女の子達にかなり人気があるのよ?」
「私が・・・?まさか・・・。」
「まさかじゃないわよ。今までに何人の女の子達から、あなたに彼女がいるかどうか聞かれたと思ってるの?一人や二人じゃないのよ。」
「そ、そんなこと言われても・・・。」
「あなたがそう言うことに興味がないのは判ってるわよ。でもね・・・、」
カーナの言葉が途切れ、誰かが私の前に立つ気配がして顔をあげた。そこにはユノが立っていて、カーナの肩を掴みながら、軽蔑するような瞳でカーナを見つめていた。
「ユノ・・・。」
「フロリア様付きの侍女達の態度がどうもおかしいので問いつめたんだ。まったく・・・よけいなことに気を回す暇があるなら、もう少し腕を上げることを考えたらどうだ?カーナ。」
カーナは慌てて後ずさり、ユノの腕を振り払おうとしたが、ユノの手はしっかりとカーナの肩を掴んで離さない。
「す・・・すみません。私・・・訓練始めますから・・・。」
カーナは真っ赤になりながら、なおもユノの手を振り払おうとしている。ユノはしばらくカーナを見つめ続けていたが、やがてゆっくりと手を離した。そしてカーナから私に視線を移し、小さくため息をついた。
「君も災難だったな。」
「いえ・・・私は別に・・・。あなたは・・・エミーと私の噂を知っていたんですね・・・。」
「フロリア様のお側近くにいれば、侍女達のうわさ話はいやでも耳にはいるからな。」
昼間中庭で会った時、私がエミーのことを話すのを聞いてユノがどうして笑っていたのかやっとわかった。でもまさか、自分までがその噂の中に出てくるとは思わなかったのだろう。
「そうですね・・・。あ、あの・・・あなたのほうこそ変な噂になって、ご迷惑じゃなかったですか?」
「いや、別に。」
素っ気ない答だった。本当にユノは気にしていないらしい。
「私のことで誰がどんなことを言おうと、私には関係のないことだ。私は私だ。それ以外の何者でもない。」
ユノはそれだけ言うと、くるりときびすを返して訓練場を出ていった。ユノの毅然とした態度に、カーナと私の会話を興味ありげに聞いていた他の剣士達も、恥じ入るように顔を赤らめながらそれぞれの訓練に戻った。
「たいしたもんだな。ユノ殿って言うのは・・・。」
カインが感心したようにユノの後ろ姿を追っている。
「そうだね・・・。私は私・・・それ以外の何者でもない・・・か・・・。」
「頭ではわかっているつもりでも、結局周りの目を気にしたりするもんだけど・・・あそこまではっきりと言いきれる人ってのは、なかなかいないよな。興味本位で騒いだりしてるのが、みっともなく見えるよ。」
「とにかく、変な噂がなくなってくれるといいけど・・・。」
「それはどうかなぁ。おそらく侍女達の前でも、今みたいに言ったんだろうけど、それでも噂したい奴っていうのはいるからな。あとはお前さえ気にしなくちゃいいのかも知れないぞ。ユノ殿を見習って、『誰が何と言おうと自分は自分だ』ってな。」
「そうかもね・・・。」
「でも・・・わざわざここまで来てカーナに文句言うなんて、ユノ殿はお前のために来てくれたのかな?」
「まさか。」
「だってさ、『自分は自分だ』って思っているなら、ほっとけばいいだろ?」
「それはそうだけど・・・。」
「今の態度を見る限り、ユノ殿がお前に恋愛感情を持ってるってのは確かに考えにくいけど・・・でも今回の彼女の行動は、やっぱりお前のためだとしか思えないよ。一応あとで礼を言っといたほうがいいかもな。」
「そうなのかな・・・。」
「ま、俺の推測だから、絶対にそうだなんて言えないけどさ。とにかく、訓練始めようぜ。随分時間が過ぎちゃったよ。」
「そうだね。始めようか。」
あのあと、あの時訓練場に来たのが本当に私のためだったのか、尋ねることが出来る機会はついにめぐっては来なかった。未だに本当のところはわからない。
私がユノを女性として好きだったのかどうか、改めて考えてみたが、やっぱりそれは違うような気がした。冷徹な仮面の裏に隠された彼女の本当の顔を知って、親しみを覚えたと言ったほうが正しいと思う。だがあの時、ユノはもう既に引き返せない道を歩き始めていたことになる。その心の中にどれほどの葛藤があったのだろうと思うと、今でも胸が痛む・・・。
私は診療室を出た。部屋に戻ろうとしたが、ふと思い立ち外へ出てみた。もう夜も遅い時間だったが、満月が空の中ほどにかかり、辺りは白い柔らかな光に照らされて浮き上がっている。冷気は肌を刺すほどではあったが、それがかえって月の美しさを際だたせていた。
私は、小さな頃からいつも見ていた夢を思いだしていた。美しい満月を見つめる少女の夢・・・。あの頃は、それがまさかエルバール王国の国王陛下たる姫の夢だったなどとは、思いも寄らなかった。何も知らずに王国に出て、様々な人々に出会い、多くのものを得て、多くのものを失い・・・それでも、私のもとには妻がいてくれた。そしてここに戻ってきて、島の人達に暖かく迎えられて、私達は今まで生きてきた・・・。
「どうしたの?風邪を惹くわ。」
妻が外に出てきた。寒そうに肩をすくめている。
「月がきれいだなと思ってね。」
「今夜は満月ね・・・。」
妻がそっと私に寄り添い、少しの間、二人で黙ったまま月を見つめていた。
「カインには・・・どこまで話すつもりなの?」
「聞いてたの?」
「少しだけね。」
「そうか・・・。正直なところ、迷ってるんだ・・・。あのあとのことを話すべきなのかどうか・・・。でも途中を省いたりしたらすぐにわかるだろうな。さっきも言われたよ。君と出会った時の話が矛盾してるって。あちこち省いて話しているんじゃないかって。」
「そう言うところだけは鋭いのよねぇ・・・あの子は・・・。」
妻は笑いながらため息をついて見せた。
「そうだね。でも話しておかなくてはならないのかも知れない・・・。何となくそんな気がするんだ。カインも以前よりは、少しだけど落ち着きが出てきたように見えるから。せめて君と出会った時のことまでは話してもいいかも知れないな・・・。」
「そうね・・・。確かに以前よりは落ち着いてきたかも知れないわね・・・。フローラの影響かしら・・・。」
「かもしれないね・・・。寂しい?」
「・・・少しね・・・。」
妻は上目遣いに私を見上げ、微笑んだ。
「でもいいの。子供はいずれ巣立つものだわ・・・。でも私には、あなたがいてくれるものね・・・。」
「うん・・・。私達はずっと一緒だよ。」
寒さゆえなのか、寂しさゆえなのか、震える妻の肩を私はしっかりと抱き寄せた。
「そうね・・・。ありがとう・・・。ねぇ、さっき・・・何考えてたの?」
「さっき?」
「診療室の前を通った時、カインが出てくるところだったから、あなたに声をかけようと思ったんだけど、何となくかけそびれちゃったの。何か考え込んでいたみたいだったから。」
「カインに話して聞かせたことの続きをね・・・思い出していたんだ・・・。」
「続き・・・?」
「そう。」
「・・・もしかして・・・ユノさんのこと?」
「よく判ったね。」
いきなり言い当てられてぎくりとした。妻は私を見上げ、ふふっと笑ってみせた。
「実を言うとね、さっきカインがユノさんのことで何か言っていたのが聞こえたの。何て言ってたのかまでは判らなかったけど・・・。」
「そうか・・・。ユノのことをね、好きだったんじゃないかって聞かれたよ。」
「そんなこと聞いたの?それであなたは・・・なんて答えたの?」
妻は驚いてみせたが、カインの質問よりも、私の答が気になるようだった。
「好きだったけど、それは恋愛感情じゃなかったって、正直に言ったよ。先輩として、尊敬していたってね。そんなことを話したせいなのかな、ユノのことを、ちょっと思いだしたんだ・・・。」
「そう・・・。どんなこと?ユノさんの話は、私ほとんど聞いたことがないわ。あなたもあんまり話したがらなかったし・・・。」
私は先ほど思いだした話を、簡単に話して聞かせた。
「へぇ・・・そんなことがあったのね。でもあなたがフタマタかけてるかもなんて・・・。」
妻はくすくすと笑いだした。
「今だから笑えるけど・・・あの時は怒りを通り越して呆れちゃったんだよ。」
「そうよね。カーナの言うとおり、あなたそんなに器用な人じゃないものね。」
「まあね・・・。そんなことに器用だからっていいことだとは思えないし・・・。何にせよ、君と知り合う前の話だよ。だから今まで話したことはなかったんだ。・・・怒らない?」
妻は私を見上げ、また笑った。
「怒らないわよ。怒れるはずがないわ・・・。あなたがユノさんのことを、どれほど悔やんでいるか・・・判ってるつもりだから・・・。それに・・・。」
言ううちに妻の顔から笑みが消え、目を伏せた。
「ユノさんがいなかったら、私達、どうなっていたのかしら・・・。」
どうなっていただろう・・・。今こうして二人で月を眺めることが出来ただろうか・・・。
「・・・そろそろ寒くなってきたかな・・・。戻ろうか・・・。」
煌々と照る満月を背に、私達は家に戻った。毎日少しずつ、様々なことを思い出す。そして想い出が鮮明になるにつれ、この20年間、ずっと抱えてこんだまま目を背け続けてきた心の傷が、どれほど大きなものだったかを改めて思い知らされる。今夜はまた、あの夢を見るかもしれない・・・。
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