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「さてと、一番大変な仕事が残ったな。」
 
 オシニスさんが言った。
 
「医師会に連れて行くにもロビーを通るわけには行きませんし、どうやって連れていきますかね。」
 
「フロリア様がいつも使われる医師会への通路を使わせてもらおう。ただあそこを通る時にはドゥルーガー会長に先触れを出さなければならないから、それは俺が行ってくるよ。もしかしたら今頃はもう、じいさんが使いを出してるかも知れんがな。」
 
「この部屋の空気の浄化もレイナック殿ですよね。」
 
「ああ、リーザがあの調子では中にいる者全員気分が悪くなるだろうと、この間昼休みにかけてくれたらしいよ。」
 
「助かりました。単なる『気』のゆがみでも、何日も受け続ければ本当に内臓を損傷したりすることもあるんです。ただ・・・その『気』を発していたリーザは、そう簡単に健康体に戻ることは難しそうですけどね・・・。」
 
 話しながらリーザを伺ってみるが、リーザを包む『気』は弱々しく、しかも本来持っているはずの記憶が見えてこない。あれだけはっきりと偽の記憶が見えていたのだから、それが消えてしまえば、本来の記憶が戻ってきてもおかしくないのだが・・・。
 
「簡単に目が覚めないかも知れないな・・・。」
 
「・・・どういうことだよ?」
 
 ハディが顔を強ばらせた。
 
「この間、リーザがお母さんと仲良くしている光景が見えたって言ったよね。」
 
 ハディがうなずいた。
 
「私はあの時、別にリーザの記憶を探っていたわけじゃない。なのにものすごくはっきりとその記憶が見えたんだ。さっきの騒ぎで、その偽の記憶は消えてしまったんだけど、本来の記憶、つまり王国剣士としてのリーザの記憶が全然見えないんだよ。本格的に探れば見えるのかも知れないけど、そこまではしたくないからね。」
 
「・・・つまり、リーザの記憶自体が戻ったわけではないって事か?」
 
 オシニスさんも難しい顔をしている。
 
「そういうことです。リーザはおそらく、自分でも気づかないうちに相当強く元の記憶を封印してしまっていたのでしょう。リーザの心の状態は未だ予断を許しません。例えばこのまま目を覚ましても、自分のことを何一つ憶えていないかも知れないんです。」
 
「・・・医師会で診察すれば、なんとかなるのかな・・・。」
 
 ハディが悔しげに呟いた。
 
「心の病の専門医がいるなら、私も教えを乞いたいよ。ただ、時間経過でなんとかなる可能性もあるのはあるんだけどね。」
 
 今リーザの心は空っぽなのだ。偽の記憶が居座っていた場所には今は何もない。だが強力な自己暗示で押さえ込んでいた本来の記憶も、リーザが意思を持って『気』を使っていなければいずれ戻ってくるだろう。時間がかかると問題だが、既にリーザは自分の『気』を操れる状態にない。
 
「どんなに強力な『気』でも、そのまま放置すれば弱まってくるよ。でもそれで本来の記憶が戻ったとしても、そう簡単に元通りってわけには行かないんだよな。」
 
「まあそうだね。」
 
 ハディがため息をついた。
 
「それは仕方ないか。気長に待つしかないのかもな。」
 
 
 とにかく医師会にリーザを運ぼうと言うことになり、フロリア様の専用通路を使わせてもらうためにオシニスさんはフロリア様の執務室に向かった。
 
−−≪・・・くそ!俺を頼ってくれたらこんなことには・・・。≫−−
 
 ハディの心の叫びが伝わってくる。やはり問題はそこなのだと思う。なぜリーザはハディを頼らなかったのか・・・。
 
 
「おい、話を通してもらったぞ。」
 
 オシニスさんが戻ってきた。リーザを簡易ベッドから担架に移し、執政館から誰にも見られず移動出来る通路へと案内された。
 
「こんな通路があるんですね。」
 
「フロリア様が万一体調を崩された時、秘密裏に医師会に連絡出来るようにな。」
 
 国王陛下が体調を崩されると言うことは、国家の一大事だ。そう簡単に公にしていいことではないので、こんな通路が必要になってくる。以前フロリア様が体調を崩された時も、執政館から乙夜の塔に戻るためにフロリア様の専用通路を使った。
 
 
 通路の先には、ドゥルーガー会長が待っていた。
 
「会長、お手数をかけて申し訳ありません。」
 
 オシニスさんが頭を下げた。
 
「いやいや、護衛殿が体調を崩されたとのことでしたのでな、部屋も用意してある。そこまで運べるかね。」
 
 ドゥルーガー会長はそう言ってリーザの顔を覗き込んだのだが、驚いてしまった。
 
「どうしたのだ・・・。これは・・・。」
 
−−≪・・・魂が抜けてしまったようではないか・・・。≫−−
 
 かろうじて言葉を飲み込んだようだが、心の声はしっかりと私に聞こえていた。
 
 魂が抜けている、そう表現するしかないほどに、リーザから生気が感じられない。生きているのは確かだが、器としての体が生きていると言うだけだ。
 
 リーザは最上階の病室へと運ばれた。
 
「ここの階は今誰もおらぬ。秘密裏に療養するにはよかろう。医師会の者をつけたいところだが、下手な人材ではまずいのでどうしたものかと思ってな。」
 
 祭りで休暇を取っている職員や医師、看護婦が多く、あちらこちらで人手が足りない状況になっているのは、以前から聞いている。これ以上割ける人材がないと言うことか・・・。それは仕方ないことだ。
 
「ドゥルーガー会長、私の妻はリーザと友人なので、看護婦として身の回りの世話をしてもらうことは可能でしょうか。」
 
「おお、それは願ってもない。では明日からでも来てもらえるかね。」
 
 今日は一日調理場の手伝いだと聞いているので、明日から来れるかどうか、聞いてみますと言っておいた。いつの間にか昼時になっている。リーザをここに1人残していくのも気にかかるが、ハディがここに残ると言い出した。
 
「ドゥルーガー会長がご存じかどうかわかりませんが、俺とリーザはそろそろ婚約も考えていた間柄なんです。親父さんのことと家督相続の騒動で話が進んでいないんですけど、俺にも看病させてくれませんか。」
 
「それは問題ないが、訓練担当官としては忙しいのではないかね。こちらとしてはありがたいのだが。」
 
「ハディ、お前の気持ちはわかるから、時々来るのはいいが、いつまでも仕事を休んでいると何事かと思われるぞ。リーザは今のところフロリア様の護衛も外れているし、家督相続の件で休暇中と言うことになっている。今回の件でフロリア様に報告が行けば、リーザが置かれている立場は公になるだろうが、そのリーザのまわりをお前がうろうろしていたら、お前まで悪い噂のタネになるぞ。」
 
「俺のことはいいんです。俺は必ずリーザを守ります・・・。」
 
 ハディがリーザを見つめて言った。オシニスさんはドゥルーガー会長に向き直り、今回の騒動について一通りの説明をさせてくれと頼んだ。
 
「私が聞いても問題ないのかね。」
 
「むしろ相談してこいとじいさんに言われましたよ。クロービスの見解も含めて、精神的な病については会長が一番よくご存じだろうと。」
 
 ドゥルーガー会長が心の病の研究では第一人者だと、リーザをここまで運んでくる道すがらオシニスさんから聞いて、驚いたものだ。だが当てに出来る先達がいるとは心強い。
 
「まあ、昔から研究はしておる。我々は『心療医学』と呼んでおるのだが、脳医学にも通じるものがあると考えておる。だが医師というより学者として人の心を研究している者達に寄れば、それは脳医学と言うより、心理学という独立した学問だという。随分長いこと研究されているというのに、未だに漠然としたつかみどころのないのが心療医学というわけだ。」
 
「心理学というと、シェルノさんはご存じですか?」
 
 私の言葉に、ドゥルーガー会長が驚いたように振り向いた。
 
「シェルノ殿を知っておるのかね。」
 
「ええ、昔、偶然ですが助けていただいたことがありまして・・・。」
 
 まさか催眠術でモンスターの心を感じ取れるようにしてもらったというわけにも行かず、うっかりシェルノさんの名前を出してしまったことを後悔した。
 
「なるほど。彼女は今も息災だ。相変わらず塔に籠もって研究三昧だよ。」
 
 私が一瞬戸惑ったのを見抜いたのか、ドゥルーガー会長はシェルノさんと私が知り合ったきっかけについて踏み込んだ質問をしなかった。
 
「私は医師であり、患者の病を治さなければならない。学者として研究しているだけというわけには行かぬ。だが彼女の知識の深さ、一を聞いて十を知るがごとくの洞察力は並外れたものがあるのでな、心の病で訪れる患者について、たまに助言を請うことが今でもあるほどだ。」
 
 あの本の山はますます増えたんだろうなと、そんなことを考えた。
 
「さて、リーザ嬢の診察をしてもよいかな。」
 
「お願いします。」
 
 ドゥルーガー会長は、まず顔をじっと見て、目を開けたり口を開けたり、一通り体の状態を調べている。
 
「うぅむ・・・。」
 
 ドゥルーガー会長が唸った。
 
「何かわかりましたか?」
 
「今の診察だけではわからぬが、少し『気』を使う診察をしてもいいかね。リーザ嬢の脳の状態が少しわかるかも知れないという程度だが。」
 
「そんなことがわかるんですか?」
 
 ハディが驚いて尋ねた。
 
「難しいことではない。額に手を当てて、患者の頭の奥に向かって意識を飛ばすように念じると、多少なりともその患者の心が感じ取れる、つまり『気』の流れを掴むことが出来るわけだが、わかるのはその患者が悲しんでいる、苦しんでいる、その程度だ。この治療には、大きな『気』は必要ない。だから私のように、それほど強い呪文が使えないほうがいいわけだ。」
 
「お願いします。今のリーザは生きてるんだか何だかもはっきりしないくらいなんです。それでリーザの『気』を探れるなら、お願いします!」
 
 ハディが頭を下げた。空っぽになってしまったリーザの心を取り戻せるなら、ハディは何だってするだろう。でも今は彼に出来ることがない。その悔しさが伝わってくる・・・。
 
「あいわかった。やってみよう。」
 
 ドゥルーガー会長はリーザの額に手を当て、『気』を送るように何か念じていたが・・・。
 
「うぅむ・・・。何というか、リーザ嬢の心が何一つ感じられぬな。」
 
 そう言った。
 
「そんな・・・。」
 
 ハディが絶望したように言った。
 
「この方法でわかることは多くないが、患者の心の揺らぎくらいは感じ取れるものなのだ。一言もしゃべらぬ患者でも、心の中では悲しんでいたり、苦しんでいたりするものだ。だがそれが全く感じられぬ。これはいささか厄介な状況だな。ではこんなことになってしまった経緯を教えてくれるかね。」
 
 私がやればもっと詳しいことがわかるのかも知れないが・・・。
 
(リーザの心を覗くようなことになるのもなあ・・・。)
 
 強い呪文が使えない方がいいというのは、下手をすると患者の心の奥まで覗いてしまう危険性があるからなのだろう。かえって私は手を出さないほうがいいかも知れない。
 
「では説明します。」
 
 リーザを1人に出来ないので、その場でオシニスさんが今回の騒動について話した。リロイ卿の暴挙については以前彼がここに運び込まれた時に事情は話してあるので、特に驚く様子も見せなかった。
 
「ふぅむ・・・なるほど、そういうことか・・・。」
 
「何か気づかれましたか。」
 
 私の質問に、ドゥルーガー会長は『うむ』とうなずいた。
 
「もちろん患者と話が出来ない状態では推測の域を出ないが、ここまででわかった『仮説』として聞いてくれるかね。」
 
 
 そしてドゥルーガー会長はあくまでも『仮説』『推測』として、今までに考えたことを話してくれた。
 
「リーザ嬢は、訓練担当官殿・・・ハディ殿を巻き込みたくなかったのではないかね。」
 
「え・・・?」
 
 ハディが一瞬きょとんとした顔をした。
 
「リーザ嬢にとっては、ハディ殿はとても大事な存在であったのだろう。その相手に頼れば、ハディ殿は否応なしにガーランド男爵家の相続問題に巻き込まれてしまう。それを避けるために、頼らなかったのではないかと思うが。」
 
「い、いやしかし、俺のことはいいんですよ。リーザの助けになれればどんなことだって・・・。」
 
「ふむ、どんなことでもしてくれる、それはリーザ嬢にはわかっていたのではないかと思う。」
 
「だったらなぜ!?」
 
「だからこそ、ではないのかね。ガーランド男爵家の騒動は醜聞として貴族の間で広まり始めている。その噂はお節介な人々によって医師会にまでもたらされているほどだ。こういった状況で、ハディ殿がガーランド男爵家の家督相続でリーザ嬢についていれば、噂好きの人々はこう言う可能性がある。『ハディ殿がガーランド男爵家の財産に興味を示している』と。」
 
「お、俺はそんなものには興味がありません!」
 
 ハディは心外だと言わんばかりに叫んだ。
 
「だとしてもだ、噂を流す人々にとって、それはどうでもいいことなのだ。リーザ嬢はこのままハディ殿を頼れば、きっと自分のために、ガーランド男爵家のために頑張ってくれることがわかっていた。だがそうなれば遠くない将来、ハディ殿が噂の的になる危険性もよくわかっていただろう。そこで『代わりに頼れるもの』を探したのではないかと思う。それこそ極限状態で、必死に探しただろう。ただ、それがなぜ既に亡くなっている前男爵夫人だったのかまではわからぬな。そこまでの情報が不足している。」
 
 驚いた・・・。リーザの状態と、今までの経緯を聞いただけでここまでわかるなんて・・・。そして、同じ情報を手にしていながらそこまで思い至らなかった己の未熟さを思い知った。私はまだまだだ。もっともっと勉強しないと・・・。
 
「そんな・・・俺の事なんて・・・気にしなくていいのに・・・。」
 
 ハディは頭を抱えた。
 
「しかしまずはリーザ嬢の心を何とかせねばならぬな。リーザ嬢はかなりの気功の使い手だというのは聞いておるが・・・もしかしたら、その強い力で心を封印しているのかも知れぬな。」
 
「私もそこまでは考えましたが、その先をどうすればいいのかが全く見えてきません。それにドゥルーガー会長の『仮説』も私には全く思い至りませんでした。」
 
「私がここまで考えられたのも、貴族社会の権謀術数を知っていたからに他ならない。医師会にいれば、いつでもどこからでもおかしな噂は流れてくるからな。」
 
「つまりまだまだ勉強不足だと言うことですね。」
 
 思わずため息が出た。
 
「そのような勉強をするのであれば、しばらくここで仕事をするしかないのではないか。それは無理な話だろう。」
 
「それは確かに無理な話ですね・・・。」
 
「まあ、今後は交流もしてもらえるのだろうから、たまには噂話なども聞きに来てくれるとありがたいな。」
 
 ドゥルーガー会長が笑った。
 
「ええ、ぜひそうさせていただきます。」
 
「ではクロービス殿、心の病の先達として、一つ助言をしよう。私はリーザ嬢のことをよく知っているわけではないが、貴族社会について貴公よりよく知っていた、そして先ほどの仮説にたどり着いた。本人にも家族にも話を聞けない状況でも、ある程度の推測が出来たと言うことだ。だが貴公はリーザ嬢とも、ハディ殿とも親しい。そしてリーザ嬢を取り巻く剣士団の人々や、リーザ嬢の家族とも親しいようだ。つまり、貴公は私が知らないことをたくさん知っているはずなのだ。その知識を駆使すれば、私にはわからないことについても、ある程度の仮説は立てられるのではないかね。無論仮説は仮説だ。だがこの状況では、ある程度の仮説を立てないことには治療が進まないだろう。だからそう言った知識や人脈も、重要になって来るのではないかと思う。」
 
 私の知っていること・・・。私はドゥルーガー会長に礼を言い、落ち着いてもう一度考えてみることにした。
 
 
 その後、昼時が終わるのを待って信頼出来る看護婦か助手に来てもらおうと言うことになったのだが、祭りの時期では人がいない。そこで、研究棟の私が管理している部屋にいるはずのオーリスとライロフに来てもらうことになった。私が直接行って2人を呼んできた。2人は病室に入り、リーザの状態を見て揃ってこう言った。
 
「この方、生きてますよね?」
 
 端から見れば単に眠っているだけに見える。だが心がどこかに行ってしまった状態かどうか、この2人は何となくわかるらしい。
 
(はっきりと自覚しているわけではないにしても、この2人はいろいろな知識を持っているんじゃないかな・・・。)
 
 彼らがいるべき場所はこの医師会であって、うちの島のようなのんびりした場所ではないような気がする。
 
「今のところ、何か治療が出来ると言うところまで行っておらぬのだが、ここを無人にするわけにも行かぬ。明日は人の当てがつくので、今日だけ少し見ていてもらえぬか。」
 
 ドゥルーガー会長に頼まれ、2人は緊張した面持ちでうなずいた。薬を飲ませると言うこともないので、決まった時間に脈を測ったり、呼吸の回数を見たりするくらいしか出来ることがない。2人から、ここで勉強をしたいので薬草学の本を何冊か持って来ていいかと尋ねられた。ドゥルーガー会長は笑顔になり、部屋の鍵の管理、本の管理をきちんとするなら問題ないと答えていた。
 
「クロービス殿、それで問題ないかね?」
 
 薬草学の本というのは私が借りている部屋の備品だ。
 
「問題ありませんよ。勉強熱心なのは嬉しいですね。」
 
 彼らが戻ってくるのを待って私達は腰を上げた。
 
「メシを食ったら俺も戻ってくるから、よろしくお願いします。」
 
 2人はハディに頭を下げられ、少し驚いて慌てて自己紹介をした。そう言えばこの2人とハディとの接点はないんだった。すっかり忘れていた。
 
(昔よりは大分柔らかくなったけど、ハディって見た目はけっこう厳ついしなあ。)
 
 まあハディはちょいちょいこの部屋に来るだろうし、ウィローが来てもやはりあの2人にいてもらう事はあるかも知れないから、話をする機会があればハディがどういう人物かはわかるだろう。
 
 私は妻が待っているのではないかと思ったので、医師会の調理場に向かうことにした。午後から、オシニスさんとドゥルーガー会長と一緒に、会長室で話し合いをすることになっている。
 
 
 調理場の前では、妻が1人で待っていた。イノージェンは子供達と一緒に、今日は外の屋台で食べるらしい。
 
「あなたが来たら一緒に行こうかって言ってたんだけど、来ないから3人で行っちゃったわよ。こんなに遅くなるなんて、何かあった?」
 
「あったよ。でも王宮の中にいるうちは話せないんだよ。」
 
 妻はため息をついた。
 
「なるほどね。とりあえず食事をしましょ。お腹減っちゃったわ。」
 
 外に食べに行こうかと話しているところに、オシニスさんがやってきた。
 
「おーい、その様子だとメシはまだみたいだな。」
 
「これから食べに行くところですよ。どうしたんですか?さっき分かれたばかりですよ。」
 
「それじゃ、久しぶりに食堂で食わないか?奢るぞ。」
 
「それはいいですね。では行きますか。」
 
 隣で聞いていた妻が吹き出した。
 
「形だけでも遠慮するとかって言うのもないのね。」
 
「ちょっと疲れちゃってね。頭が回らないよ。」
 
「俺もだ。メシを食いながら、ウィローの明日からの予定も聞きたいしな。」
 
 その言葉にどういう意味があるか、妻は気づいたらしい。
 
「それじゃごちそうになりながらお話しします。」
 
 
 私達は剣士団宿舎の食堂にやってきた。昼の混雑は一段落して、大分席は空いている。この時間になると食堂の女性達は休憩に入るので、ある程度の食事がカウンターに並べられている。その中から自分の分の食事をトレイに載せ、空いている席に座った。
 
「まずは食おう。話はそれからだ。」
 
「はい、いただきます。」
 
「いただきます。」
 
 
 食事を終えてお茶を飲みながら、オシニスさんが妻の予定を聞いてきた。
 
「クロービスから聞いてると思うが、こっちは今日で終わりだ。と言うか、もう終わったけどな。君はさすがに今日の今日では難しいだろうけど、明日から予定は空けられるか?」
 
「大丈夫です。話は聞いていたので、そのつもりでいましたから。」
 
「調理場のほうはどう?随分人手が足りないみたいだよね?」
 
 人手が足りないのは今日だけではないと言う話だし、妻が抜けるのは大変なんじゃないだろうか。
 
「明日もイノージェンは行くって言ってたわ。マレック先生と調理場の主任さんがね、もし予定が空いてるならよろしくお願いしますって。アルバイト料も払うって言ってたわよ。イノージェンは断ってたみたいだけど、ただ働きってわけにも行かないから、何かしらの謝礼は出るのかもね。」
 
「しかしイノージェンさん1人で大丈夫なのか?」
 
 オシニスさんが少し心配そうに尋ねた。
 
「大丈夫ですよ。食材の下ごしらえは私よりずっと手早くてきれいだし。それに、明日からは2人くらい休みが終わる人達がいるみたいです。その人達が入ってくれれば、明日からはなんとかなるって、マレック先生が仰ってました。」
 
 確かにイノージェンは手早い。島では妊婦さん達に食事やおやつを作ったりすることが多いから、慣れているんだと思う。
 
(妊婦さん達が休めるサロンの話も、帰ったら具体的に話をしてみないとな・・・。)
 
 いつ帰れるのかはさっぱりわからないのだが・・・。
 
「それじゃ調理場のほうは心配ないんだね。」
 
「明日からはね。今日は私も夕方までお手伝いするわよ。」
 
「それじゃウィロー、明日は朝から頼むよ。クロービスと一緒に来てくれれば、そこで説明するから。」
 
「わかりました。」
 
 出来る限りさりげなく、事務仕事を手伝うかのような軽い会話を交わして、妻はまた調理場へと戻った。私はここからそのまま、オシニスさんと共に医師会に向かうことになっている。ラッセル卿に飲ませる薬についてハインツ先生とも打ち合わせをしなければならないのだが、今はリーザのことが喫緊事項だ。
 
(今日明日は何とかリーザのことは隠しておけるだろうけど、ガーランド男爵家の家督相続が終わってラッセル卿が新男爵になったわけだし、御前会議での報告が上がれば、それ以上は隠し通せないよな・・・。)
 
 リーザが医師会に入院していることが公になれば、看護婦や医師の配置ももう少し柔軟に考えられるだろう。でもそれは、リーザが噂の種になり、好奇の目にさらされる可能性が上がることでもある。それは例えばフロリア様やレイナック殿にも押さえることは出来ないだろうし・・・。
 
(まずはリーザの記憶を戻さないと・・・。空っぽのまま体だけが目覚めてもどうにもならない・・・。)
 
 そのためにはどうすればいいのか。ドゥルーガー会長は貴族特有の腹の探り合いを知っていたからあの仮説に辿り着けたという。では、ドゥルーガー会長が知らないことで私が知っていることは何だろう。たくさんあるはずだ。その知識を使って、まずは私なりの仮説を組み立て、その上でリーザに呼びかけてみよう。あとはハディだ。リーザが守りたかったハディに呼びかけてもらえば・・・いや・・・。
 
(ハディが呼びかけたとして、リーザは素直に返事をするかどうかってことだな・・・。)
 
 今まで自分がまわりに対して取ってきた態度を、記憶を取り戻したリーザが忘れているならいいが、おそらくはすべて憶えているだろう。そうしたら・・・ハディに合わせる顔がないとか言いそうな気がする。やはりここは、妻に頼むほうがいいか・・・。
 
「ウィローが頼りだなあ・・・。」
 
 隣を歩くオシニスさんがぽつりと言った。
 
「やっぱりそう思いますか?」
 
「さっきのドゥルーガー会長の仮説は、かなり信憑性が高いと俺も思う。記憶が、というかリーザが自分を取り戻したら、ハディにどういう態度を取っていたかも思い出すだろうしなあ・・・。」
 
 やはりそこまでは、誰もが思い至るか・・・。当然ハディもそう考えているだろう。
 
「でも、出来るだけ話しかけてもらおうと思います。今はとにかく、リーザに『自分が誰であるか』を思い出してもらわなくてはなりませんからね。」
 
「そうだな。母親に寄り添ってきた孝行娘ではなく、王国剣士としてずっと研鑽を積んできて、フロリア様に寄り添ってきた護衛剣士だと言うことを思いだしてもらわないとな・・・。」
 
 オシニスさんの声は不安げだった。今回のことが御前会議で報告されれば、リーザは護衛剣士としてはやっていけなくなるかも知れない・・・。
 
(いや、それを考えるのは私ではない。私の仕事は患者の病気を治すことだ。それ以外のことを考えないようにしよう。)
 
 弱気になっているのは私の方だ。リーザの処遇がどうなろうとも、それはまだ後の話だし、私にはどうすることも出来ない。まずはリーザの心と体を健康な状態に持っていくこと。出る結果がどうだろうと、リーザが自分を取り戻していれば、きちんと受け止められるはずだ。それに、思わずオシニスさんの不安に同調してしまったが、医師として患者の関係者に弱気を見せてはいけない。
 
 医師会の会長室に着いた。中ではドゥルーガー会長が1人で待っていてくれた。私達はソファに座り、ウィローが明日からリーザについていてくれることを話した。ただ、体を拭いたり着替えさせたりするには、もう1人人手が必要だ。リーザは貴族の独身女性なので、医師といえども診察以外で肌に触れたりすることは出来ない。もちろんハディだってダメだ。
 
「うむ、それで考えたのだが、アスランの妹御に手伝ってもらうのはどうかと思ってな。あの娘ならば仕事も丁寧だし、先日の手術の時はとても助かったと、オリアが言っておった。」
 
「アスランのほうはもう大丈夫なんですか?」
 
「何でも筋力を上げる訓練をしているという話だったな。日常生活にはもう何ら支障はないが、王国剣士としてこれからもやっていくなら、激務に耐えられる程度の体にしておかないと困るだろうと、ゴードが話しておったそうだ。」
 
「あの、会長、話の途中ですみませんが・・・。」
 
 珍しくオシニスさんが遠慮がちに口を開いた。アスランが訓練に参加出来るようになるのはいつ頃か聞いてないかというものだ。以前聞いた時には『まだ剣を振るのは厳禁』と言われたそうで、そのあと騒動ばかり起きてオシニスさんも確認することが出来ずにいたらしい。
 
「ふむ、以前聞いた時というのは、退院は出来るが宿舎に戻れば周りの動向が気になるだろうと、入院の継続を決めた時の話だな。あれから随分と力をつけておるようだ。本人も剣を振りたくてうずうずしているようだが、今の状態がどうなのか、私もそこまで細かい報告を受けておらぬ。リハビリの訓練場には毎日行っておるようだし、直接聞いてくれてかまわぬぞ。」
 
「いやぁ、俺が行くと緊張させちまうかなと思って遠慮していたんですが・・・。」
 
「訓練が始まったばかりの頃ならばそうであったろうが、そろそろその緊張にも慣れてもらわねば困るのではないかな。リハビリは順調だと聞いておる。妹御は他の看護婦達とも仲良くなったようでな、兄は食事も自分で出来るようになったし、最近はやることがないと冗談交じりに言っておるらしい。」
 
「そうですか・・・。」
 
 オシニスさんが安心したようにほっと息をついた。
 
「それじゃセーラに頼むことにしましょう。それは医師会からの依頼として会長のほうから本人に依頼をしていただけると言うことでしょうか。」
 
 アスランの話が聞けたのはありがたい。だがまずはリーザのことだ。
 
「無論だ。こちらで手配しておこう。それで剣士団長殿、御前会議のほうはどうだね?」
 
「明日、報告が出るそうです。」
 
「では明後日辺りからは、うちの医師達にも話をして問題なさそうだな。」
 
 御前会議で報告が出れば、リーザがここにいることを隠しておく必要はなくなる。医師や看護婦の手配も出来ると言うことだ。
 
「お願いします。ただそれでもウィローとハディにはついていてほしいのですが。」
 
「ウィロー殿にはセラフィと一緒に看護婦としてついていてもらうつもりだ。だが夜間などは交代要員が必要だし、貴公が医師として診るとしても、やはり交代要員は必要だろう。ハディ殿は、リーザ嬢の婚約者としてついていてもらおう。だが、清拭や着替えの時にはいてもらうわけには行かぬがな。」
 
「ありがとうございます。」
 
 これでリーザの治療の環境は調った。
 
「それともう一つ言っておくことがある。前ガーランド男爵だが、今日明日には目が覚めるかも知れぬと言うことだ。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 オシニスさんも私も思わず黙ってしまった。
 
「だが生きてるのが不思議なほどに弱っているからな。目が覚めたとしてもしばらくは薬湯と食事で体力を取り戻すことが先決だろう。」
 
「その件についてじいさんから伝言があります。」
 
 オシニスさんが言った。
 
「ガーランド男爵家の家督相続については決着しました。明日には御前会議でその報告がなされるということです。ですが、その前のイノージェンさんの異議申し立てのことや、彼女が相続放棄をしたことはまだ話さないでほしいとのことです。」
 
「うむ、あいわかった。口の硬い医師と看護婦を配置しよう。」
 
 それでもどこかから話が漏れる可能性はあるのだが、そうなればなったで仕方ないと言うことだった。
 
「そうだなあ・・・。こればかりは何ともしようがないだろうな。人の口に戸は立てられぬ。」
 
「出来れば目が覚めてある程度話が出来るようになった時点で、新男爵のほうから話したほうがいいだろうと言うことでした。リロイ卿の容態は出来るだけこちらにも教えていただけると助かります。」
 
「わかった。その辺の報告もするように伝えておこう。」
 
 この場にいる誰もが口に出さなかったが、一番厄介な人物の目が覚めると考えていただろう。
 
「会長、リーザのことですが・・・。」
 
 リーザが目覚めるのがいつか、それはなんとも言えないが、今日のうちにある程度診察して、明日にはリーザの状態をラッセル卿夫妻とチルダさんに伝えたいと言った。おそらくロゼル卿も一緒に来るだろう。その上で、彼らに聞き取りをして、リーザの状態をもう少し詳しく分析したいとも。
 
「それがいいだろう。どんな些細なことでも、ヒントになることはあるものだ。それとクロービス殿、ハインツがあとでいいので部屋に顔を出してほしいそうだ。」
 
「わかりました。」
 
 ハインツ先生と、多分他の主任医師にはリーザの話が伝わっているだろうと思う。まあそれが当たり前だろう。例えばレイナック殿辺りから何があっても他言無用、などと言われれば誰にも言えないだろうが、レイナック殿もオシニスさんも、そこまで秘密にする気はないらしい。無論明日の御前会議で報告されれば、ガーランド男爵家の家督相続の醜聞も、その場でリーザが何をしたかも知られることになる。だがリーザは法を犯したわけではない。それだけが救いだ。
 
(あとは・・・リーザが早く目覚めてくれればいいんだけど・・・。)
 
 リーザの自己暗示も、今の状態ではそれほど強くはないはずだ。本人が意識して記憶を封印しようとしていなければ、徐々に自己暗示は解け、記憶は取り戻されると思う。ただそれまで何日かかるのか、それが読めない。だが明日にはガーランド男爵家とランサル子爵家の人達に、リーザの状態を説明しなければならない。いつ目覚めるかはまだおいておこう。リーザは王国剣士として常に研鑽を積んでいる。体力もあるし筋力もある。いささか乱暴な話だが、2〜3日飲まず食わずでも死ぬ心配はない。
 
(まずは診察だな・・・。)
 
 ドゥルーガー会長からは大きなヒントをもらった。そしてそれ以上踏み込んだ診察をするならば、私が持っている情報が鍵になるだろうと言うこともわかった。ハディとの会話、ラッセル卿夫妻との会話、チルダさんとロゼル卿との会話・・・。
 
(ヒントはたくさんあるはずだ。落ち着いて考えないと・・・。)
 

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