パアァァァン!!
凄まじい音が部屋中に響いた。
「何するのよ!?」
叫んだのはリーザ。そのリーザの前で右手を振り上げたまま、ぽろぽろと涙をこぼしながらリーザを睨んでいるのは、チルダ・ランサル子爵夫人、リーザの妹のチルダさんだ。そのチルダさんは、振り上げた腕をもう一度振り下ろし、姉の頬を思い切り殴った。
パアァァァン!!
「何をするのかって?お姉様の頬を叩いたのですわ。さっきのはお兄様の分、今のはわたくしの分です!」
チルダさんは迷いのない瞳でリーザを睨みつけている。その瞳からはまだぽろぽろと涙がこぼれていた。チルダさんの辛さが伝わってくる・・・。
「私はガーランド男爵家の嫡子よ!あんたなんかこの家の相続権利を全部取り上げてやるわ!」
「お姉様には家督相続の権利はありません!だいたいお父様との仲が決定的にこじれてしまったお母様から、最初に逃げ出したのはお姉様ではありませんか!」
怒りに燃えたリーザの表情が、一瞬だけ虚を突かれたようにぽかんとした。それと同時に、リーザの頭の中に映し出されている、母親と娘の仲むつまじい光景が、ぐらりと歪んだ・・・。
何故こんなことになっているのか。話はつい先ほどから始まった、ガーランド男爵家の家督相続に関わる財産目録の読み上げから始まっていた。
私達が剣士団長室を出て、執政館の奥にあるガーランド男爵家の家督相続が行われる部屋に入った時、相続人達は全員揃っていた。その中でノイマン行政局長が家督相続に使う資料らしき紙の束を整理して内容を確認していた。その横に座る相続人達、ラッセル卿夫妻、ランサル子爵夫妻、リーザ。その中でリーザだけが口元を歪ませて笑っている。ぞっとするほど薄気味悪い笑顔だ。
私はまずノイマン行政局長に、ラッセル卿の状態を見て、医師会に行きたいと申し出た。家督相続手続きの途中で抜け出すというわけにはいかないので、先のほうがいいのではないかと。
「そうですね。では先にお願い出来ますか。」
ノイマン局長から許可をもらい、ラッセル卿夫妻と共に私は医師会にやってきた。一緒に歩いている間、ラッセル卿からは不安、リンガー夫人からは怯えを感じた。
「姉上は・・・どうしてしまったんだ・・・。」
誰に言うともなく、ラッセル卿が呟くように言った。
「あれではまるで、お義母様のようですわ・・・。」
ラッセル卿とリンガー夫人の脳裏に浮かぶ光景は、今朝ハディから聞いたリーザの様子とそっくりだった。わめき散らしてその辺りのものを手当たり次第投げつけたり、使用人に暴力を振るったり、晩年は特に酷かったらしい。
「でも・・・お義姉様がどうして・・・。」
リンガー夫人が流れた涙を拭った。
「クロービスさん、姉は・・・いったいどうしてしまったんでしょう・・・。」
不安そうにラッセル卿が私を見る。
「正直驚いているよ。私は君の治療のために医師会から頼まれて来たんだけど、君はきちんと治療を受けてくれている。だからあの部屋まで私が行かなくても君がここまで来てくれれば、それでいいかなとも思ったんだ。ところがリーザの様子がおかしくて、そちらも気になって毎日様子を見に行ってるけど、日を追うごとにどんどんおかしくなっている。私にも何が起きているかわからないんだ。」
「・・・昨夜のことはハディさんからお聞きになりましたか?」
「聞いたよ。君達には、亡くなった男爵夫人のように見えるらしいね。男爵夫人はいつもあんな風だったのかい?」
「・・・はい・・・。」
「男爵夫人のそう言うところは、リーザは知っていた?」
私の質問に、ラッセル卿がうなずいた。
「知っています。何度か相談しましたから。一度話をしてみるからと来てくれたことがあったんですが・・・。」
男爵夫人はリーザの顔を見るなり激昂し、手近にあった花瓶をリーザに向かって投げつけた。
「お前が悪いんだ!お前がいなければよかったんだ!お前なんか産まなければよかったのに!」
その頃には、男爵夫人の錯乱は酷くなり、相手が誰なのかなんて見分けがついていたかどうかも疑わしかったらしい。リーザは投げつけられた花瓶は避けたものの、投げつけられた言葉は避けようがない。そのあまりのひどさに、その場に立ち尽くしてしまった・・・。
「母はおそらく、私がそこにいるものと勘違いしていたんだと思います。姉は普段家にはいませんでしたから。でも呆然とした姉に、私達はかける言葉が見つかりませんでした・・・。」
リーザはその後お茶を飲んで落ち着いたが、かなりのショックを受けていたのは明らかだった。そしてラッセル卿が、あれは自分に向けられたもので、姉上がここにいらっしゃることを母上は気づいていないと思いますと言うと、『あなたはいつもあんな言われ方をしているの?』と、ラッセル卿に向かって悲しげに尋ねた・・・。
「母は、男の子である私を産んだことを呪うがごとくに後悔していたようでした。男とは、母にとってすべてを奪う忌まわしきものという認識だったのでしょう・・・。」
父親である男爵は、出来るだけラッセル卿が母親と関わらないように気をつけてくれていたらしいが、同じ家に住んでいれば全く顔を合わせないというのも難しい。それにその元々の原因は、ガーランド男爵本人に他ならない。男爵夫人がその状態になっていても、彼はイノージェン親子にお金を送り続けることをやめなかった・・・。
「おはようございます。お待ちしておりました。」
声に顔を上げると、ベルウッド先生が立っていた。医師会の3階に向かう階段の前だ。私達はいつもの部屋に入り、ラッセル卿にはハインツ先生の問診のあと薬湯を飲んでもらった。そして腕のマッサージをしてみたが、昨夜と今朝はそれほど痺れはなかったらしい。
「うーん・・・それでは一度マッサージのみか薬のみかにしてみましょうか。どちらが効いているのかわからないと、今後の治療にも影響が出ますからね。」
そこで、ガーランド男爵家の家督相続が今日で終わると言うことで、マッサージはいったん今日までとし、明日からはラッセル卿夫妻がこの時間帯に医師会まで来てもらって、少しずつ改良している薬を飲んでもらうことになった。
「それで収まれば問題ないですが、なかなか収束しないようであれば、またクロービス先生のお力をお貸しください。」
「わかりました。いつでも言ってください。」
医師会を出て、私達は執政館に戻った。するとまた、リーザの怒鳴り声が聞こえてきた。
「うるさいわね!だったらさっさと話を進めなさい!」
「なんだその言い方は!お前は自分の立場がわかってるのか!?」
ハディの怒鳴り声も聞こえる。私達は急いで部屋に向かい、扉をノックした。中から開けてくれたのはノイマン行政局長だ。
「遅くなりました。何かありましたか?」
「いや、たいしたことはありませんよ。」
ノイマン局長は平然と答える。
だが部屋の中ではリーザとハディがにらみ合っていた。
「ハディ、何かあったの?」
「お前達が戻ってくるのが遅いって、こいつがその机をバシバシ叩きだしたんだ。だからやめろって言ったら怒鳴られたから、怒鳴り返したのさ。」
「姉上、申し訳・・・。」
謝ろうとするラッセル卿を手で制した。
「リーザ、ラッセル卿の治療はそんなに簡単じゃないんだ。君の弟なんだから、もう少し思いやってもいいんじゃないか?」
リーザは私をギロリと睨んだが、何も言わなかった。
(男爵夫人にとって、私は全く見知らぬ存在だ・・・。ハディに対してはおそらく忌み嫌っていただろうから、その態度をそのまま同じように取っているんだろうけど、私に対する『記憶』はないから、何も言いようがないって事かな・・・。)
リーザが男爵夫人の行動を後追いしているのはこれで確実になったが、どうしてこんなことになったのかの答えは見えてこない。
「では皆さん、おかけください。これから、ガーランド男爵家の家督相続手続きを始めます。」
ノイマン行政局長の言葉に、さっきまでむすっとしていたリーザがまた不気味に笑い出した。声こそ出ていないが、にやにやと薄気味悪い笑い方だ。
(これは・・・確かにおかしいとしか表現のしようがないな・・・。)
−−≪・・・ふふふ・・・ふふふふふ・・・やっとよ母様・・・。≫−−
また脳内で母親と会話しているつもりでいるらしい。とにかく今はノイマン行政局長が書類を読み上げるのを聞いているしかない。
「それでは、まずガーランド男爵家の財産目録についてですが・・・。」
ノイマン行政局長は目録を読み上げた。
「・・・以上です。・・・」
そのあと何か言いかけた時
「あの、ノイマン局長、口を挟んで申し訳ないのですが・・・。」
片手を上げて話し出したのはラッセル卿だ。
「はい、なんでしょうか。」
「今の目録ですが・・・我が家の領地の規模からして少し少ないような気がするのですが・・・。」
ノイマン局長はにっこりと笑った。
「はい、これからその部分についての説明をさせていただきます。そのままお聞きください。」
「あ、す、すみません・・・。」
「いえいえ、ラッセル卿が謝る必要はありませんよ。この目録ですが、ここまでで終わりではないのです。ただ、この先のお話は相続人の皆さんにとってあまりいいお話ではありません。心してお聞きください。」
ノイマン行政局長の言葉に、ラッセル卿夫妻とチルダさん、そして後ろに控えているロゼル卿も顔を強ばらせた。リーザだけが、片方の口角を上げて、異様な笑みを浮かべている。その様子を複雑な顔で見守るのはハディだ。オシニスさんはさすがに無表情だが、心中穏やかでないのは彼から発せられる『気』の流れでもわかる。
そしてノイマン行政局長は、ガーランド男爵の横領疑惑について語り出した。まず領地からの上がりを不正に抜き取っていたこと、そして男爵夫人が受け取るはずのオーソン伯爵家からの支援金も手中にしていたこと、そのことでオーソン伯爵家からの送金記録はすべて把握できており、男爵夫人の手に渡らなかったお金については伯爵家へ返金しなければならないが、オーソン伯爵家ではそのお金を受け取らず、ガーランド男爵家の再興に充ててくれという文書を正式に預かっていることを話した。
「男爵夫人が受け取るはずだったお金とは言え、では相続の額に含められるかというと、そうはならないのです。こう言う場合、このお金はオーソン伯爵家からガーランド男爵家への出資という形になります。」
「と言うことは、もしも利益が出るようでしたら、オーソン伯爵家に配当を支払うと言うことになるのですね。」
ラッセル卿が尋ねた。
「はい、そういうことになります。」
「わかりました。では話の続きをお願いします。」
ノイマン行政局長がうなずいて続きを話し出した。
配当を支払うと言うことを、ラッセル卿は前向きに捉えているようだ。
(これから先は領地の上がりも適正に受け取れるし、ドーンズ先生が捕らえられたことでかかりつけ医の手数料も支払わなくていいし、ガーランド男爵家の財政状況は好転するだろうな・・・。)
「それでは次に、ガーランド男爵がそのお金をどうしていたかという話になりますが・・・。」
そのお金がどこに流れたか。
それが、婚外子であるイノージェンを男爵家の相続人として迎え入れるため、ドーンズ医師に協力を依頼、病を装い子供達を騙そうとしたことが語られると、ラッセル卿もチルダさんも、そしてリンガー夫人もこらえきれずに泣き出してしまった。
「どうして・・・そんな・・・。」
ラッセル卿が悲しげに呟いた。
「イノージェン殿については、本人からの異議申し立てでガーランド男爵家との縁が法的に切れていることは皆さんもご存じですね。しかし、それで男爵の罪が消えるわけではありません。それとドーンズ医師ですが、かかりつけ医としての契約でかなり法外な契約料を取っていたこともわかっています。今回差し押さえられたドーンズ医師の財産から、ガーランド男爵家で支払ったかかりつけ医としての報酬の一部は返還されました。医師会に協力を仰ぎ、かかりつけ医として妥当と認められた額については返還されていませんので、全額ではありませんが、かなりのお金は戻ってきています。その分がですね・・・。」
ノイマン行政局長はその金額を読み上げた。その額を最初に読み上げられた目録に足せば、ラッセル卿が考えた程度の金額にはなるらしい。ラッセル卿がほっとした顔になっている。
「今回の件について、現ガーランド男爵にはこの後取り調べが待っています。未だ昏睡状態で目覚めていませんが、目覚め次第健康状態を考慮して、取り調べを始めることになっています。剣士団長殿、それで間違いありませんか?」
ノイマン行政局長がオシニスさんを見た。
「間違いありません。」
オシニスさんがうなずいた。それを確認して、ノイマン行政局長が言葉を続ける。
「ガーランド男爵は罪状が明らかですので、ここで強制的に隠居していただくことが決まっています。そして、家督を継ぐのは、ラッセル・ガーランド卿、リンガー・ガーランド卿夫人です。」
その言葉を聞いた瞬間、リーザがすごい勢いで立ち上がって机を叩いた。
「ノイマン行政局長!ガーランド男爵家の嫡子は私です!家督を継ぐのは私のはずなのに、どうしてこんな役立たずの弟が継ぐのです!?訂正してください!」
真っ黒に歪んだ『気』をまき散らし、リーザがノイマン行政局長を睨んだ。その表情はゆがみ、まるで老婆のように見える。
「あなたには嫡子としての相続権はありませんよ。」
ノイマン行政局長としても、まさかリーザが自分の立場を忘れているとは思っていないだろう。何を言ってるんだこの人は、と言う顔をしている。
「なんでよ!冗談じゃないわよ!1人になった母様からさっさと逃げ出したこんな奴が何で家督を継げるのよ!バカにしないでよ!」
「おいリーザ!落ち着け!」
ハディが怒鳴った。リーザはハディを睨みつけた。
「うるさい!お前のような馬の骨、口を出すな!」
ハディが一瞬怯んだような気がした。その言葉は、もしかしたら男爵夫人が以前ハディに投げつけた言葉かも知れない。その時誰かが立ち上がった。その人影はつかつかとリーザの前に歩み寄り、右手を振り上げて思い切りリーザの頬を殴った・・・。
そして今、チルダさんに2回頬を叩かれ、嫡子としての相続権を放棄していると言われたリーザは呆然としている。
「お兄様とわたくしが、お母様を先に見捨てた?確かにわたくしは結婚して家を出てしまいました。お兄様もお父様と領地運営の名簿に名を連ねてからは、お母様からの呼び出しがあってもお部屋に行くことはなくなりました。でも、お父様とお母様の間が決定的にこじれたあと、わたくし達が全員お母様の部屋に呼ばれた時、ぐちぐちとお父様の悪口を言い、お兄様を悪し様に罵り、そしてお姉様とわたくしには『身持ちの堅い真面目な殿方』に嫁ぐようにとネチネチと言い続けるお母様から、お姉様は最初に逃げ出したではありませんか!何度かお母様の部屋に呼び出されたあと、もういやだ、もううんざりだとお姉様は仰ったわ。そしてお父様に頼んで槍術の先生を呼んで、そのあとはもう、槍の稽古を口実にお母様の呼び出しに応じなかったではないですか!しかもそのあと、お姉様は剣士団に入ってしまわれた・・・。お姉様が家を出てしまったことで、お兄様もわたくしもどれほど悲しかったかわかりますか!?」
チルダさんの話を聞きながら、リーザは口の中で小さく
「・・・槍の稽古・・・剣士団・・・。」
何度もそう繰り返している。そしてリーザの頭の中にある『孝行娘』の光景がぼやけていく。
「それでも仕方ないと思っていたんです!わたくしはその前にもう結婚して家を出てしまいましたけど、お姉様が家を出て元気に暮らしていらっしゃる様子を見ていれば、これでよかったんだと思っていました。」
「私も思っていましたよ。姉上の元気そうな姿を町中で見つけるのは、嬉しかったものです。
ラッセル卿が言った。
それでラッセル卿とチルダさんは町の中でリーザを探していたのか・・・。
「嘘よ・・・嘘!お前の言っているのは大嘘だ!私は・・・母様に寄り添って、母様の進める相手と結婚して・・・。」
「その結婚相手ってのはどこにいるんだよ?」
ハディが立ち上がった。
「お前の言う、お袋さんが勧めた結婚相手ってのはどこのどいつだ!?そんなのがいるなら何でお前は1人でここにいるんだ!?」
「それは・・・。」
リーザの唇が何か言い掛けたが、わなわなと震えるだけで言葉にならない。そしてリーザの発するどす黒い『気』が一気に膨れあがっていく。
「嘘・・・嘘・・・違う!嘘だ!嘘だぁぁぁぁぁ!・・・私は、私は、あああああああああ!」
リーザが頭を押さえて叫びだした。
「まずい!ハディ!リーザを押さえてろ!絶対に離すなよ!クロービス、頼む!」
今朝話し合って決めていたとおり、私達は瞬時に自分のすべきことのために移動した。ハディはリーザをしっかりと抱きしめた。オシニスさんはリーザに向かってそのどす黒い『気』を中和すべく自分の『気』を集めている。私の仕事はこの部屋にいる人達の安全確保だ。
「皆さん!そちらの部屋の隅に移動してください!急いで!」
「クロービスさん、姉は・・・!?」
「リーザはハディとオシニスさんに任せて!君は自分の身とリンガー夫人を守れ!ロゼル卿!チルダさんを!」
「了解した!」
ロゼル卿の動きも素早い。チルダさんを抱き上げるとさっと部屋の隅に移動した。
ノイマン行政局長、ラッセル卿夫妻、チルダさんとロゼル卿が部屋の隅に移動したのを確認して、私は防御魔法を使ってリーザ達との間に透明な壁を作った。これはテラさんから教わった土の壁を出す魔法と、アクアさんから教わった水の障壁の魔法を組み合わせたものだ。自分達の身を守りながら、周りを見渡すことが出来る。透明と言っても分厚いガラスのようにデコボコで、そこに障壁があることは一目瞭然だ。
「クロービス!どうだ!?」
オシニスさんが叫んだ。オシニスさんの操る『気』は相当大きくなっている。
「大丈夫です!」
この障壁なら、オシニスさんとハディ、リーザの3人が思い切り『気』を爆発させてもこちらにはほとんど影響がない。
「よし!行くぞハディ!耐えろよ!」
「もちろんです!」
ハディが叫びながらリーザを抱きしめる腕に力を込めた。そのリーザはハディの腕の中でまだ叫び続けている。
「離せぇぇぇぇ!私は、私は、あああああああああ・・・あああああああああ!!」
リーザの偽の記憶はゆがみ、ぐるぐると回りながら霧散していく。だが・・・本来の記憶が戻ってこない。おそらく無意識のうちに相当強い自己暗示をかけていたのだろう。でもこれではリーザの精神までも崩壊してしまう。下手をすれば廃人になりかねない。
−−ドーーーン!−−
部屋全体が揺れるほどの『気』の流れが、あのどす黒いリーザの『気』を木っ端みじんに打ち砕いた。
「ぎゃあああああぁぁぁぁーー!!」
叫び続けていたリーザは絶叫し、そのままハディの腕の中で動かなくなった。しかしさすがオシニスさんだ。あの大きな『気』のかたまりを、正確にリーザのどす黒い『気』にのみぶち当てた。リーザの精神は傷一つついていない。
「クロービス、もう大丈夫だ。」
オシニスさんの言葉で、私は障壁を消した。部屋の中は既に平穏に戻っている。その中で、ハディが顔を強ばらせていた。
「クロービス、リーザはどうしちまったんだ・・・?全然動かないんだ・・・。」
リーザを抱きしめる腕が震えている。
「ちょっと待って。そのままでいてよ。」
私はリーザの腕を取り、脈を診た。動いている。口と鼻に手を当ててみると、呼吸もしている。だがこれは、眠っているとは言いがたい。どちらかというと、昏睡状態のほうが近い表現だろう。
「生きてはいるよ。でもここでは詳しく診察できないから、医師会に運ばなくちゃならないよ。」
「・・・・・・・・・。」
ハディは涙を滲ませた目で、腕の中でぐったりしているリーザを見つめている。
「クロービス、リーザはすぐに運ばないとまずいか?」
オシニスさんが尋ねた。
「そうですね・・・。ちょっと簡単な呪文を使います。ただし目を覚ますほどではありません。あくまでも今よりは少しマシな状態になるだろうという程度です。」
記憶が戻っていない今、目覚めさせるのはまずい。私は治療術ではなく、アクアさんに昔教わった、簡単な治癒魔法を唱えた。
「さっきの不思議な障壁と言い、クロービス先生は変わった呪文を使われますね。」
ノイマン行政局長が言った。
(まあそう言う反応になるよな・・・。)
口には出さずとも、ラッセル卿夫妻も、チルダさんとロゼル卿も同じような疑問を持っているのが伝わってくる。
(こんな時のための、今朝の話か・・・。)
「随分昔にレイナック殿から教わった呪文なんですよ。まさか今になって役に立つとは思いませんでしたが。」
「ほぉ、レイナック様の?」
「ええ、私と妻がまだ城下町にいた頃、レイナック殿に呪文を教わっていた時期があったんです。ノイマン局長がどこまで私のことをご存じかわかりませんが、私は昔、旅先で親友でもあった相方を亡くしました。私達の呪文は力及ばず、彼を助けることが出来なかったんです。それ以来、私も妻も、必ず誰かの命を助けられるように、いろいろと呪文を教わりました。命を助けると一口に言っても、治療術ばかりとは限りませんからね。先ほどの障壁の呪文もその一つです。もっともレイナック殿も『まあこんな呪文は必要ないだろうがなあ』と笑ってましたよ。」
「そうでしたか・・・。そのおかげで私達は傷一つなく無事に済んだと言うことですね。」
「皆さんが無事でよかったです。とても変わった呪文でしたので、私もこの呪文がどういうものかはよくわかっていないんですけどね。」
我ながらすらすらと嘘が出てくることに感心していた。
「レイナック様の法力は私にもよくわかりません。でも適性のある方は、頭で考えるより詠唱さえ出来ればすぐに呪文は発動できるそうですからね。クロービス先生、辛いことを思い出させてしまって申し訳ありませんでした。本当にありがとうございました。」
ノイマン行政局長が頭を下げた。
「飛んでもない。お気になさらず。お礼なら、この呪文を教えてくれたレイナック殿に仰ってください。」
「なるほど、機会があれば、ですね。では訓練担当官殿、リーザ嬢はこのまま医師会に運ばれますか?クロービス先生のおかげでどうやら危機は脱したようですが。」
「ノイマン局長、家督相続手続きはこのまま続けられますか?」
それによってもリーザをどうするかは変わってくる。
「ふむ・・・相続人の皆さんはどうなさいます?」
ラッセル卿とチルダさんは、このまま家督相続手続きを終わらせることを選んだ。
「姉が無事なのであれば、このまま手続きを早く終わらせてしまいたいです。それに領地の方も気になりますし。」
ラッセル卿が言った。前男爵の横領発覚からイノージェンの異議申し立て、その前後のラッセル卿の奇行、そしてリーザの豹変で、しばらく領地運営に手が回らなかったという話は、医師会へと向かう時に少し聞いた。領地の人達を不安がらせているので、出来るだけ早く決着させたいと。
「わたくしも・・・早く終わらせたいです。クロービスさん、姉は・・・大丈夫なんですよね?」
チルダさんは泣き顔だ。
「大丈夫ですよ。心臓も動いていますし息もしています。」
「わたくしが・・・姉を叩いたりしたのが悪かったんですね・・・。」
「それは違いますよ。正直言いまして、チルダさんには感謝しています。リーザのあの状態から、どうやって正気を取り戻させるか、私も手詰まり状態だったんです。」
「・・・そう・・・なんですか?」
チルダさんは不安そうに私を見上げた。
「ええ、ですからそのことで思い悩まれることがないようにしてください。チルダさんの功績は多大ですよ。ハディ、非常用の簡易ベッドと毛布はない?ここに寝かせて、手続きを終わらせた方がいいんじゃないかな。」
「そうだな・・・。ノイマン局長、それで問題はないですか?」
オシニスさんがノイマン行政局長に尋ねた。
「こちらは問題ありません。ではリーザ嬢をここに寝かせたら、このまま手続きをしましょう。」
その後オシニスさんの指示で簡易ベッドと毛布が運ばれてきた。運んできたのは昼休みなどにこの部屋の扉を守っている王国剣士だ。
「どちらに置きますか?」
2人ともそう尋ねて、ハディが抱きかかえているリーザに目を留めギョッとした。
「リーザさん、どうしたんですか?」
「ちょっと体調が悪くてな。少し休ませないとまずいってんで、お前らにベッドと毛布を持って来てもらったんだ。」
ハディが答える。
「そうでしたか・・・。ではここに設置していきますので、お使いください。」
「ああ、ありがとう。」
「ご苦労だったな。」
ハディとオシニスさんの労いの言葉に、2人の王国剣士は神妙な面持ちで礼をすると、部屋を出て行った。王国剣士は皆治療術か気功を使えるはずだから、リーザを取り巻く『気』の流れが尋常でないことには気づいただろう。
「それじゃここに寝かせて。毛布を掛けておけば風邪もひかないだろうし。」
ハディはリーザを簡易ベッドに寝かせ、毛布を掛けたあとベッドの隣に椅子を持って来て座った。
「俺はここにいるよ。ノイマン局長、続きを始めてくれていいですよ。」
「わかりました。では手続きを続けます。」
その後、ガーランド現男爵の容疑について改めて話があり、個人的に横領した分は男爵家に返さなければならない。男爵の個人資産は今のところすべてを行政局で差し押さえてあり、男爵家の財産へ返還する手続きが終われば、残りは本人に返されるらしい。それも行政局で手続きをすることになっているそうだ。
「あとは、リーザ嬢とランサル子爵夫人の法定相続分についてですね。この受け取り手続きを終わらせれば、相続手続きは終わりです。」
チルダさんは受け取り手続きの書類にサインした。リーザのほうは本人がサイン出来ないので、今は行政局預かりとなるそうだ。本人がサイン出来る状態になってから改めて、と言うことらしい。
「皆さんご苦労様でした。これで手続きは終わりです。ラッセル卿夫妻はこれからフロリア様に謁見となります。そこで正式にガーランド男爵夫妻として認められることになるのです。」
前男爵・・・名前はリロイ卿というのだそうだが、彼は何の肩書きもないリロイ・ガーランドとして、取り調べを受けることになるのだそうだ。
「そしてラッセル・ガーランド新男爵、あなたの取り調べもまだ続きますが、証拠隠滅や逃亡の恐れはないと言うことで、屋敷に戻って領地運営を続けることは出来ます。牢獄に入ることにはならないだろうと、レイナック様が仰ってましたよ。」
「・・・ありがとうございます・・・。」
ラッセル卿は涙を溜めた目でノイマン行政局長に礼を言った。リンガー夫人もチルダさんも泣いている。ロゼル卿がほっとしたような顔で、チルダさんの肩に手をかけてぽんぽんと叩いていた。
「ラッセル卿、チルダさん、リーザの状態については、明日説明させてくれませんか。今の時点では推測にしかならないので、もう少しきちんと診察してみます。」
「わかりました。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。姉についていたいのですけど・・・今日は家に戻って財産を受け取る手続きをしなければならないので・・・。」
子爵家のあとを継いでいるチルダさんには、自宅でしなければならない手続きもあるらしい。
「こっちは任せてくれよ。明日にでもまた連絡するよ。」
ハディが言った。
すべての決着がついて、ラッセル卿夫妻はそのままノイマン行政局長と共にフロリア様との謁見に、チルダさんはロゼル卿と共に自宅に戻っていった。
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