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 私達は医師会の部屋を出て、執政館に向かって歩き出した。
 
「でもよかったですわ・・・。義父のことは気になっていましたけど、わたくしが1人でこちらへ出向くわけにも行かず・・・。」
 
 リンガー夫人がすまなそうに言った。
 
「仕方ありませんよ。家督相続のほうがどうしても優先されますからね。」
 
「でも先生、ありがとうございました。先生が剣士団長様にお話をしてくださったおかげで、義父は持ち直したようですね。」
 
「まあ結果としてそうなりましたが、まさかレイナック殿がそんなに怒っておられたとは・・・。以前怒っているという話は聞いてましたけど、昨夜話をした時にはそのことをすっかり失念していました。いろんなところに迷惑をかけたみたいです。」
 
 私の話を聞いて、ラッセル卿が足を止めた。
 
「どうしたんだい?」
 
「クロービスさん、実を言うと、私は父がこのまま目を覚まさなければ何事もなくうまく行くのに、なんてことを考えていたんです。イノージェンさんのことも、異議申し立てで決着はつきましたが、父が目を覚ましていたら何を言い出すかわかりません。でも・・・先ほどのタネス先生の話で気づきました。このまま目を覚まさず薬しか飲めない状況では、いずれ死んでしまうのだと・・・。気づかなかったとは言え、親の死を願うようなことを考えていたとは、自分の浅はかさに身が縮む思いです。父を助けてくださって、ありがとうございました。」
 
 ラッセル卿が私に向かって頭を下げた。
 
「助けたのは私じゃないよ。レイナック殿に会う機会があれば、君からお礼を言っておくといいよ。」
 
 泣き出しそうな顔のラッセル卿にそう言って、彼の肩を叩いた。
 
 
 執政館に戻り、資料作成が行われている部屋に戻ってきた。入ると中の空気が違う。リーザから発せられるどす黒い『気』の影響で、この部屋の空気はかなり重く歪んでいた。だがそれが大分軽減されている。リーザは相変わらずなのできれいさっぱりとは行かないが、誰かがこの部屋の空気が軽くなるよう、呪文を使ったとしか思えない。
 
(レイナック殿かな・・・。)
 
 こんな呪文を使えるのはレイナック殿しかいない。この部屋にいる人達は、ずっと具合が悪かった原因も、今よくなった原因も、よくわかっていないだろう。まあこれも、謎は謎のままでいいことの1つかも知れない。誰のおかげであれ、昨日よりは多少いい空気の中で仕事が出来るというのはありがたいだろう。私はラッセル卿の件についてノイマン行政局長とオシニスさんに報告し、午前中はこれで失礼したいと言った。午後からはもう一度マッサージをしたいので、また来るとも。私の仕事はあくまでも『ラッセル卿の見守り』なので、彼が素直に診療に応じてくれる今では、それほどの仕事はないと言うことになる。リーザのほうは気になるが、相変わらずというか、妙な『記憶』に閉じこもっている以外は、騒いだりしていない。
 
「俺は少し残るよ。」
 
 ハディが言った。この状況では、このままここを出たくはないだろう。ハディがリーザとラッセル卿を見守ってくれていれば、私としても安心できる。
 
「うん、それじゃ、私は一度医師会に顔を出すから。何かあったらよろしくね。」
 
「ああ、任せろ。」
 
 そしてラッセル卿に向き直り、もしも少しでも体に異変を感じたら、ハディに話してくれるよう言った。どちらかというとラッセル卿本人よりもリンガー夫人に向かって。これからお昼までは取り調べらしい。もしかしたら午後までかかるかも知れないと言うことだったので、午後ここに来る時間を少し遅めにしますと言い置いて、私は部屋を出た。
 
(しかし参ったな・・・。)
 
 一番気になるのはリーザのほうだ。ラッセル卿はリンガー夫人や子供達のために、もう一度前向きに人生を生きる気になったらしい。心の持ちようというのは、その人の健康にも影響を及ぼす。もしも何か異変を感じたら、すぐにハディに話してくれるだろう。そしてハディなら、すぐに医師会まで私を呼びに来てくれるはずだ。
 
(ハディは・・・リーザだけでなく、男爵家の全員について心を砕いているよな・・・。)
 
 なのに、リーザはどうして彼を頼ろうとはせずに、もういない母親の幻影に頼ってしまったのだろう。どちらかといえば嫌っていた母親に。もっともイノージェンを交えた先日の話し合いでは、母親のことをかばうような発言をしていた。それを考えれば、リーザは本気で母親を憎んでいるわけではなさそうだと言うことはわかる。そして今のリーザは自分で作り上げた偽の記憶に支配されている。自分が王国剣士であることも、ハディと一時は婚約していたことも、意地を張らないようにしようと話し合ったことも、みんな忘れてしまったのだろうか。
 
(このままでは心の病だと診断せざるを得ない・・・。)
 
 その影響の大きさ故に、そうと判断はしたくない。したくないが今のリーザはまさしく心の病に取り憑かれているのだ。何があっても、どんなに親しい人物だとしても、それが患者なら、目を曇らせてはならない。
 
(明日・・・財産目録が完成して、男爵の罪が暴かれたら・・・。また何か変わるのだろうか・・・。)
 
 今のリーザの状態がどれほど悪いかわかっているのに、打つ手がない。例えば私がリーザの治療をしようとしていると周囲が知っていたとしても、リーザ自身が自分は病気だと認めないだろう。それではどんな治療も意味をなさない・・・。心の病とはそれほど複雑で厄介なものなのだ。
 
(今日は午後からもう一度行って、様子を見てくるか・・・。あとは夕方オシニスさんにも相談してみるか・・・。)
 
 いずれにせよ、リーザについてある程度どんな状態かはわかったので、フロリア様への報告はしなければならないはずだ。いい報告が出来ればと思っていたが、やはりそれは無理だったらしい・・・。
 
 
 ため息をつきつつ、私は医師会に向かった。マレック先生はいつも調理場にいるはずだ。時間的には昼食の準備が終わっていないだろうから、入り口で声をかけてみよう。
 
 
 調理場の入り口でノックをし、出てきた女性にマレック先生がいるかどうか尋ねた。私は初めて見る顔の女性だが、何度かここで私を見かけたことがあるらしく、すぐに話を通してもらえた。ただ、私は中に入らず、妻が出てきてくれた。
 
「まだ早いんじゃない?午前中はもう終わりなの?」
 
 妻は髪を帽子の中にきっちりと入れて、マスクに手袋もしている。
 
「患者の食事作りを手伝っていたの?」
 
「ええ、忙しそうだったから。でも下ごしらえだけよ。あとはマレック先生の食事作りを手伝ったわ。クリフの他に、家庭の味を再現した食事を提供する患者が何人かいるという話だったから、全部味付けを変えたりして、手間はかなりかかるわね。」
 
「費用対効果の検証はこれからってことだね。」
 
「そういうことね。あと少しだから、東翼の喫茶室で待っててくれる?終わったら行くわ。」
 
「わかった。待ってるよ。」
 
 
 東翼の喫茶室に来てみたが、お昼の時間が迫っているので少しずつ混んできている。私は中に入らず、医師会から来た時にわかりやすいように通路沿いに立って待っていた。ただの待ち合わせなのに、席を占領するのも申し訳ない。
 
 
 しばらく待っていると、妻がやってきた。その頃には喫茶室の中はほとんど満席となっていたので、やっぱり席に座らなくてよかったらしい。
 
「お待たせ。食事はどうするの?」
 
「今日はイノージェン達と約束はしていないの?」
 
「今朝は剣士団長室からまっすぐ医師会に来たんだけど、イノージェンは来ていなかったの。だから会ってないのよ。」
 
「そうか。それじゃどこかで食べる?もしかしたらセーラズカフェに行けばいるかも知れないけどね。」
 
「それもそうね。この時間だとどこも混んでいるから、まずはセーラズカフェに行ってみて、入れないようならバザールの屋台で食べてもいいかもしれないわね。」
 
「そうしようか。」
 
 2人で外に出た。ロビーがそれほど混んでいなかったところを見ると、もうみんな外で食事をしているのだろう。おかげですんなりと外に出ることが出来た。そのまま商業地区へと向かい、セーラズカフェに顔を出してみた。
 
「あらいらっしゃい。あれ?待ち合わせしてたの?」
 
 セーラさんが首を傾げている。イノージェン達が来ているらしい。
 
「してないけど、食事をしようと思ったら真っ先にここが浮かんだんですよ。座れる席がありますか?」
 
「あら嬉しいこと言ってくれるじゃない?今ならまだ大丈夫よ。」
 
 セーラさんは上機嫌で私達を案内してくれた。奥のテーブルにイノージェンと子供達が座っている。料理はまだ来ていないようだから、来たばかりなのかも知れない。
 
「あれ?先生達もここで食事?」
 
 3人とも驚いている。私はさっきセーラさんにしたように『食事と言えばここが真っ先に思い浮かんだ』と言い、同席してもいいかどうか聞いた。
 
「なーに言ってるの。ダメなわけないじゃない。今朝は医師会に顔を出さずにお祭りに出掛けちゃったから、お昼くらい誘えばよかったかなあ、なんて思ってたのよね。」
 
「そうそう、先生達なら大歓迎よ。ね、ライラ。」
 
「もちろんだよ。」
 
 セーラさんがイノージェン達のテーブルに、隣の空いているテーブルを寄せて席を作ってくれた。そして今日も『今日のお勧め』を頼み、食事が出てくるまでのんびりと話をすることになった。妻がマレック先生の手伝いのことで午前中のことを話したところ、イノージェンは手伝いたそうだった。だが今日はたまたまかなり人手が足りなかったらしい。祭もさすがに終わりが近づいてきたので、駆け込み的に休みを取る職員が増えたのが原因らしかった。
 
「なるほどねぇ。あの『家庭の味再現』の食事は、範囲を広げてやっているわけね。」
 
「範囲を広げたのはいいけど、味付けが細かすぎて大変みたいよ。材料はまあ、そんなこだわりの食材とか特定の地方でしか取れない食材とかは使わないんだけどね。」
 
「味付けはこだわったら切りがないわよね。それに、家庭の味の記憶って言うのは家族団らんの記憶と繋がっているんじゃない?それを味だけで再現するのは無理なような気がするけどなあ。」
 
 イノージェンは首を傾げている。クリフの食事では、その団らんの記憶も込みでの再現はさすがに無理だと言うことになったようだが、マレック先生はもしかして諦めてないのだろうか。
 
「そうねぇ。今のところは試験的な実施だから、どこまで手をかけられるか、どこまでお金をかけられるかを見極めているところみたいね。」
 
 妻はマレック先生から、ある程度このプロジェクトの事情も聞いたらしい。
 
「ここみたいにお店として成り立つかどうかって言うなら採算が取れるラインを見極めるってことになるんだろうけど、診療所の入院施設となるとかかるお金は患者の負担になるわけだから、難しいわよね。」
 
 マレック先生のこだわりが、逆に研究の邪魔をしているような気がするが・・・。
 
(ま、それは余計なお世話だな・・・。)
 
 ここ何年かの研究では、食事の改善で病気の進行を遅らせたりすることが出来るということがわかっている。それをもう一歩進めて薬と同じように患者1人1人に合った食事をと言う理念自体は素晴らしいものだ。何かしらの助言を求められるのならこちらでも考えるべきだと思うが、頼まれもしないのに余計なことを言うわけには行かない。
 
 
 いつも通りの楽しい食事が終わり、外に出た。イノージェン達は午後からまた祭を回るらしい。
 
「今日は小さい小屋を回っているんだけど、楽しい演し物が多いのよ。」
 
 ちょっと覗いてみよう、程度の軽い気持ちで小さい小屋を回ってみたそうだが、案外小さい小屋のほうが多かったらしい。もっとも小屋の大小と演目の長さは特に比例するわけではないので、きちんと見て回ればそんなに数は回れないのだと思う。
 
「こんなに楽しいなんて思っても見なかったわ。来年はもう少し日程を考えて来るようにしないとね。」
 
 イルサはもう次の予定を立てる気でいるらしい。『気が早いなあ』とライラに笑われている。妻は午後からもマレック先生の、と言うより、調理場の手伝いをすることになっているらしい。人手が足りないので夕食の仕込みを手伝ってくれないかと言われたそうだ。イノージェンも手伝うと言ったのだが、せっかくの祭りなので今日はそのまま回ってきてはどうかと妻が勧めている。今日はかなり極端に人がいなかったそうだが、人手不足自体は数日続くそうなので、明日はよければ朝のうちに医師会に顔を出してくれないかということで話がまとまったらしい。私は一度宿に戻ることにした。ブロムおじさんからの荷物が届いているかも知れない。午前中に一度運送屋が来ると言う話だったので、うまく行けば午後から医師会でアキジオンについての打ち合わせが出来るかも知れない。
 
「それなら私も行くわ。荷物が来てたら1人で運ぶのは大変でしょ?」
 
 妻が言った。
 
「時間があるなら頼もうかな。正直助かるよ。紙の束だから重いんだよね。」
 
 
 
 
 
                          
 
 
 
 
 
 
「お、ちょうどよかった。荷物が届いてるぜ。」
 
 2人で宿屋に入ると、私が言う前にラドが声をかけてくれ、フロアの奥に積まれた荷物を指さした。
 
「ありがとう。どれだろう。」
 
「ちょっと待ってくれよ。」
 
 ラドは荷物の中から両手で抱えられるくらいの荷物を持ってきてくれた。送り主はグレイになっている。
 
「大きさはたいしたことないが、けっこう重いぜ。」
 
 中身はおじさんからのものだろう。アキジオンの研究成果なら、すべて紙なので重いのは納得だ。私はラドに礼を言い、荷物を持って2階に上がった。
 
 
 部屋に戻って箱を開けると、手紙が入っている。グレイからとおじさんからだ。どちらも簡単に、荷物を送ることと、こちらは心配しなくていいという内容だった。だがおじさんからの手紙には、実験結果の資料も一部送ると書かれている。それは何度か実験や分析をしたのに同じ結果が得られず、何度もやり直したものだ。
 
(なるほどな・・・。と言うか忘れてた。うまく実験が出来なくて苦労したことがあったっけ・・・。)
 
 ハインツ先生も言っていた。同じ実験や分析をしても、同じ結果を得られなかったことがあると。ハインツ先生が行った実験と、私が行った実験が同じものかどうかは話を聞いてみないとわからないが、確かにうまく行かなかった時の資料は役に立つかも知れない。だが気になることが一つあった。おじさんの手紙の最後にこんなことが書かれていたからだ。
 
『資料はばらばらにしないこと。取り扱いには細心の注意を払うこと。必ず守ってくれ。』
 
「どういうことかしら。」
 
 妻も首を傾げている。
 
「ばらばらにしないことって言うのはわかるけどね。」
 
「それはそうなんだけど、取り扱いには細心の注意を払うって言うのは・・・。」
 
「そこはわからないな。とりあえず全部持って医師会に戻ろう。」
 
 おじさんの手紙の意図はわからないが、雑に扱っていいものではないことはわかるので、気をつけておくことにしよう。
 
「やっぱり一緒に来てよかったわ。量は以前の症例の資料より少ないけど、紙の束は重いわよね。」
 
 妻が笑った。
 
「そうだね。一緒に来てもらってよかったよ。それじゃ手分けして持とう。研究棟の部屋に運んでくれる?」
 
「食後のいい運動になりそうね。」
 
「そうだなあ。毎日うまいものばかり食べてるから、気をつけないとね。」
 
「そうよねぇ、スカートがきつくなったら大変だわ。」
 
「私もズボンがはけなくなったりしたら大変だよ。大量に服を買い込んで島に帰ることになりそうだ。」
 
 2人で手分けして荷物を布に包んで、背負い袋の中に入れた。紙の束なのでそこそこ重いが、背負ってみればそれほどでもない。
 
 
「ねえ、オーリスとライロフは毎日あの部屋にいるの?」
 
 妻が尋ねた。
 
「毎日かどうかはわからないけど、だいたいはいるみたいだよ。真面目に勉強しているようだね。」
 
「島で勉強させてくれって言う話、2人とも気持ちは変わらないのかしらね。」
 
「どうなんだろうなあ。得るものが何もないとは思わないけど、それが必ずしもあの2人が望んでいるものと同じとは限らないからね。」
 
「そうね。来てみたら思っていたのと違ってた、なんてことはあるかも知れないわね。」
 
 島に来るのは問題ないし、帰ると言えばそれはそれだ。だが医師会から正式な手続きを経て島の診療所に勤務するという話になったりすると、そう簡単には行ったり来たり出来ないかもしれない。ライロフは見習いだが、所属は医師会だし、オーリスは既に医師だ。いろいろと面倒な手続きが必要になるのかも知れない。彼らの意思は、ここを出る時にもう一度確認しようと思っている。セーラはどうなんだろう。ローランで話した時は私達が島に戻る時にもう一度話をしようと言っていたが、今はアスランの病室にいる。リハビリには付き添っているという話を聞いたが、最後に会ったのはクリフの手術の時だ。
 
 
「さてと、やっと着いた。医師会までもうひとがんばりだな。」
 
 重い資料を背負って、やっと王宮に着いた。ここから医師会に向かい、さらに研究棟の階段を上る。最上階まではけっこうな長さだ。まあいい運動になることは間違いない。
 
「ふふふ、いい運動になるわね。途中で息が切れたらどうしようと思ったけど、まだそんなに体がなまっているわけではなさそうだわ。」
 
「そのうちまた訓練場を使わせてもらおうか。」
 
「そうねぇ。訓練が一番いい運動になるのよね。」
 
 
 しゃべりながら研究棟の部屋に着いた。中からは話し声が聞こえてくるので、やはりオーリス達はいるらしい。ノックをして中に入り、荷物を置かせてくれるよう頼んだ。2人ともにこやかにうなずいてくれたのだが、荷物の中身がアキジオンに関する研究成果だというと、顔色を変えた。
 
「その成果って言うのは、今日ここに持ち込むことをドゥルーガー会長とハインツ先生はご存じなんですか?」
 
「いや、さっき宿に戻ったら荷物が届いていたからね。ここに置いといて、あとで知らせに行こうかと思ってたんだけど、何かまずかったのかな。」
 
 2人は顔を見合わせ、うなずき合った。
 
「先生、せっかくここまで持ってこられたのに申し訳ないですが、このまま会長のところまで行きましょう。」
 
 オーリスが言った。
 
「オーリス、僕はハインツ先生に知らせてくるよ。」
 
「ああ、頼む。」
 
 ライロフは駆け出していった。私達は事の次第がよく飲み込めないまま、オーリスと一緒に研究棟の部屋からまた会長室まで重い荷物を運ぶことになった。
 
 
「なんと・・・オーリス、ライロフも、咄嗟によく判断してくれた・・・。」
 
 ドゥルーガー会長はホッと胸をなで下ろしている。私達が会長室に着いた頃には、ライロフがハインツ先生を会長室まで連れてきてくれていた。
 
「あの・・・黙ってこの荷物を持ち込んだのはまずかったんでしょうか・・・。」
 
 島では成果の資料をそれほど丁寧に扱ったことがなかったので、私は首を傾げながら尋ねた。
 
「ん?いや、そんなことはない。だが貴公が知らないのも無理からぬことだ。まずは全員座ってくれ。」
 
 そしてドゥルーガー会長が成果の資料の扱い方を教えてくれたのだが、私も妻もすっかり驚いてしまった。
 
 
 医師会では、こういった研究成果、しかも学会での未発表のものは、細心の注意を払って『隠して』おかなければ、誰かに成果を盗まれてしまう危険性があるのだそうだ。薬草学を研究対象としているのは、ハインツ先生だけではない。医師会の中でも数人の医師と研究棟の研究員が何人かいて、同じ植物を研究している医師達も多い。そして医師がいるのは医師会だけというわけではないので、市井の診療所を運営する医師達の中にも研究を行っている者がいる。もちろん人によって研究対象は様々で、特定の植物を研究対象としている医師や研究者は多いのだが、ハインツ先生や私のように薬草学全般を研究している医師もそこそこいる。新しい研究成果は誰でもほしい。だからきちんとした取り決めがないと、成果の取り合いになってしまうのだそうだ。
 
「だがアキジオンのように、一刻も早く正体を掴まなければ人の命に関わってくる植物も多い。だから医師会の中では、数ヶ月に一度『内覧会』というものを開いて、それぞれの研究者が成果を持ち寄るのだ。そして同じ成果があった場合、誰の資料が一番早いかを決めるために、日付と時間を細かく資料に記載する。見たところクロービス殿の資料にはすべて細かい日付と時間が書き込まれている。そなたの師が気を回したのだろう。いずれこの資料が島を出て、誰かの資料と肩を並べることを考えてな。」
 
 以前は内覧会などなかったので、同じ植物を研究していた場合、先に発表した者が一番と言うことになってしまい、発表された資料の中に既にその成果を掴んでいた別の研究者が訴えたりということがあったらしい。
 
「まあ訴えるくらいならまだマシな方でしょうね。先に発表した研究者を恨んで盗みに入ったり殺そうとしたり、いやはや大騒動になったことも一度や二度じゃないんですよ。」
 
 ハインツ先生が言った。
 
 ブロムおじさんが資料の日付や時間にこだわっていた理由がやっとわかった。今こうして聞いてみれば納得だが、最初から医師会の中で資料を公開するかもしれないなどと聞いていたら、そんなものには興味がない、誰がそんなところに資料を出すものかと腹を立てていたのではないかと自分でも思う。だからおじさんはそこまで言わなかったのだ。
 
『いつどういう状況でこの成果が得られたかをきちんと記録に残しておけば、別な研究の成果が思いもかけず似たような状況になった時に、すぐに探し出せるだろう。手間はかかるがこれは必要な作業なんだ。』
 
 そう言っていた。私が『王宮』や『医師会』と聞いただけで嫌な顔をすることに、おじさんは気づいていたんだろう。我ながら何とも了見が狭かったと思うが、そう気づけたのもここでの医師達との交流があってこそのことだ。
 
(そう言えば麻酔薬の資料でも揉めたっけな・・・。)
 
 あの資料は最初から医師会に送って実用化してもらうことが目的だった。麻酔薬は広く普及させなければ意味がない。ではどうやって医師会に送るか。私自身は二度と城下町には足を踏み入れたくなかった。おじさんはそんな私の気持ちを知っていたので、『私に伝手があるから送るよ』と言ってくれた。
 
(あの時・・・どうしておじさんが医師会に伝手があるのか不思議だったけど・・・。)
 
 そのことを深く考えることはなく、私は全部の資料を2部作り、医師会に送る方にはブロムおじさんと父の名前を入れた。これで父の名前が少しでも知られてくれれば、そして助手としてずっと父を支えてくれたブロムおじさんのことも、もっと知られてほしかった。だが、その資料を見たおじさんは、
 
『私とサミルさんの名前を全部消してお前の名前で作り直せ、そして成果の日にちと時間をもっと正確に書き込め。これでは送れない。』
 
 そう言って受け取らなかった。私は怒っておじさんに文句を言ったのだが、どうしてもおじさんと父の名前を入れることは叶わず、仕方なく私は自分の名前だけを入れて、日にちと時間を細かく入れ直した。おじさんはそれをきちんと梱包して、ドゥルーガー会長宛に送ったのだ。
 
 いろんなことがわかってみれば、おじさんの言っていたことにも納得がいく。でも当時の私は納得行かないことばかりで、ずっとおじさんに対して腹を立てていた。
 
「クロービス先生にとっては、成果の取り合いなどみっともない、浅ましいと思われるでしょうが、私達のように医師会で医師として働きながら研究が出来るというのは、実はとても幸運なことなんですよ。駆け出しの研究者は少しでも名が知られるようにならないと研究費用もままなりませんし、ある程度名が知られるようになった研究者は欲が出ます。もっと名をあげたい、有名になりたいとね。」
 
 こんな話も、島にいる間に聞いたとしたら、確かに『みっともない、浅ましい』とバカにしていたことだろう。費用の心配がないと言うことを、私はそれほど考えたことはなかった。研究にしても臨床例の資料にしても、すべておじさんが用意してくれて、お金はすべて王宮が出してくれていたという現実を、顧みることもしなかった・・・。
 
「・・・お金の問題で研究が続けられないというのは、大変なことだと私も理解しています。他人の研究成果を横取りすることに賛同する気はないですが、人間追い詰められてくると飛んでもないことを考えてしまうと言うことはありますよね。」
 
「そうなんですよ。そこで今回も、先生の資料が届いたら医師会の中で内覧会をしようと考えていたんですがどうでしょうね。今回はアキジオンのみの内覧なので、そんなに規模が大きくなることはないと思います。この植物も発見された頃には研究者がたくさんいたものですが、あまりにも正体がわからず、手を引いた研究者も多いんですよ。余裕のない研究者達は、目に見える成果が上がらないものにいつまでも関わっていられないですからね。」
 
 そしてアキジオンに関する研究を今でも続けているのは、医師会ではハインツ先生、研究棟にいる研究員が2人、その他だと、なんとベルスタイン公爵家のお抱え医師が今でも研究を続けていると言うことだった。
 
「公爵家の医師も、言うなれば費用の心配がいらない部類に入りますからね。」
 
「前に伺ったことはありますが、私がまだここにいた頃のことですから、もう代替わりはしたのでしょうか。確かグレイグ先生という方でしたよね。」
 
 あの当時、公爵家の中に診療所があり、医師と看護婦が常駐していると聞いて驚いたものだ。
 
「代替わりはしていますよ。グレイグ先生もまだご健在ですが、先生の息子さんでベリナル先生という方が今診療所に常駐しています。代替わりの時は大変だったようですよ。グレイグ先生は『息子などよりもっと優秀な医師を迎え入れるべきだ』と言って譲らず、公爵家では『息子さんは十分優秀だから問題ない』と説得するのにかなり骨が折れたとか。グレイグ先生は公爵家の医師として費用の心配なしに研究できて、医師としての仕事も余裕を持って行えることに大変感謝されていたそうですから、世襲制でもないのにご子息にあとを継がせることに気が引けたんでしょうねぇ。」
 
「うちの医者は頑固だと、昔セルーネさんが言ってましたよ。でも腕は素晴らしいと。」
 
「ふむ・・・グレイグ殿は私より少し先輩でな。医師会にいれば間違いなく主席医師になるだろうという話もあったのだが、公爵家に引き抜かれてしまったのだ。腕は間違いない。子息も優秀だという話は聞いておる。」
 
 ドゥルーガー会長とグレイグ先生は旧知の仲らしい。
 
「会長、時間はあまりかけられません。ラッセル卿の体のほうが心配ですからね。来週早々にアキジオンのみの内覧会を開くと言うことでよろしいですか。」
 
「うむ、そうだな。では文書を送る手配はこちらでしておこう。それと、内覧とは別に、ハインツの手持ちの資料と、クロービス殿の資料のみであれば2人で閲覧することは問題ないだろう。新しく共同での実験を行うこともな。それで新しい成果が得られれば、また一つアキジオンの研究が進むというものだ。」
 
「わかりました。それではクロービス先生の資料は会長室の金庫に保管すると言うことで、オーリス、ライロフ、2人とも研究についてはまだ特に対象を決めてないんだったな?」
 
 ハインツ先生が2人に尋ねた。
 
「僕はまだまだ、研究どころか医師としての仕事もまともに出来ないくらいですから。」
 
 オーリスはまだ自分に自信を持てずにいるらしい。
 
「僕もです。まずは試験に受からないことには。」
 
 ライロフが情けなさそうに頭をかいた。
 
「試験に受かる前も、医師に成り立ての頃も、みんなそんなものだ。それじゃ君達は今回のアキジオンについての研究に限って、私達の助手になってもらおう。クロービス先生の研究成果が内覧会で公開されるまでは、ここにこの資料があることは極秘にしておかなければならないんだ。協力してくれるか?」
 
「はい、もちろんです。」
 
「ぜひお手伝いさせてください。」
 
 ハインツ先生の言葉に、2人が笑顔で返事をした。
 
「クロービス先生、勝手に話を進めてしまいましたがいかがでしょうね。」
 
 ハインツ先生は心なしかすまなそうに私を見ている。
 
「いやありがとうございます。研究成果の資料の扱いについても何も知らずに、皆さんにご迷惑をお掛けしてしまいました。ぜひよろしくお願いします。オーリス、ライロフ、よろしく頼むよ。」
 
 これで話は決まり、今日のところは私の資料を会長室の金庫にしまい、研究棟の部屋でラッセル卿が飲んでいた「ハーブティ」についてその他の成分の資料を見せてもらうことになった。妻がここで、マレック先生のお手伝いに行くわと言い、会長室を出て調理場に向かった。
 
「奥方にも世話をかけるな。毎年今頃の時期には王宮中のどこも人手不足になるのだ。みんな祭り見物で休んでしまうからな。ありがたいことだ。」
 
「お役に立てるなら何よりです。」
 
「では研究棟に移動しましょう。今日は先日から私が調合しているラッセル卿の薬について詳細を説明します。」
 
 研究棟について薬についての話を始めたのだが、その説明のあと自然とアキジオンの話になった。オーリスとライロフがハルジオンとアキジオンを見分けられると聞いて、ハインツ先生が興味を示した。そこで、もしもアキジオンが町の中に生えているのを見つけたら即刻引っこ抜いてほしいと言うことと、場所を記録してもらって分布図の作成に協力してほしいと言うこと、そして抜いたアキジオンは研究の材料にしたいので、ハインツ先生のところに持って来てくれるよう頼むことになった。
 
「医師会の中でもあの2つの植物をちゃんと見分けられる人はなかなかいないんですよね。」
 
「微妙な違いですからねぇ。」
 
「僕らも正直なところ、確実に違うポイントがどこにあるかというのははっきりとわからないんですよ。ただ葉っぱや花びらの形がほんの少し違うだけなんで・・・。だから今回は自分も勉強出来るいい機会だと思って、探してみます。」
 
 そしてラッセル卿の次回の薬についてもいろいろと効きそうな薬草を出しては見たのだが・・・。
 
「うーん・・・やはり痺れの原因が特定出来ない以上、迂闊に痺れを取る薬は使えませんねぇ・・・。」
 
 ラッセル卿の体の中からあの「ハーブティ」の影響を取り去る薬の目処はついているので、今飲んでもらっているのはその薬だ。言うなれば毒出し用の薬と言うことになる。飲み続けることでいずれ痺れは取れるのかも知れないが、それまで我慢してマッサージで凌いでくれと言うわけにも行かない。そこで痺れを取る薬の中でも比較的他の薬と相性がいい、と言うより悪くない薬を少し混ぜてある。
 
「さすがですね。これなら他の薬とぶつかったりすることはないですね。」
 
 ハインツ先生は少しだけ上目遣いに私を見て、困ったように笑った。
 
「さすがなどと言われるようなことは何もないですよ。今までの自分の知識をいろいろと引っ張り出してやっとたどり着いた組み合わせです。しかし悔しいですねぇ・・・。目の前の患者の症状をきれいさっぱり取ってしまえる薬の組み合わせがなかなか思いつかないというのは・・・。」
 
「こちらが必死でいろいろと研究していても、新しい症例というのは次々出てきますからね。私も毎日が試行錯誤の連続ですよ。」
 
「少なくとも、あの「ハーブティ」の中に腕を痺れさせる原因となるようなものは入っていない、これははっきりとしているんです。」
 
 ハインツ先生はあの「ハーブティ」の分析結果を見せてくれた。かなりの数の紙の束だ。ざっと見ただけでも、そう言った成分が入ってないことはわかる。
 
「ですが、知っている成分の組み合わせだけだと確定的なことがわからない、それがアキジオンの未知の成分、或いは未知の組み合わせで痺れが起きている可能性があるかもしれないとなると・・・。」
 
 ハインツ先生がため息をついた。
 
「やはり痺れを取る薬を処方して、あとはクロービス先生のマッサージで様子を見るしかなさそうですね。」
 
「当面はそれしかなさそうですね。」
 
「来週早々に内覧会を開きますから、その時に研究者達にも聞いてみましょう。私達とは違うアプローチで、痺れの原因に迫れるかも知れません。」
 
「ええ、ここで頭を抱えてもいい考えは浮かばなそうですしね。」
 
 こんな時は他の研究者達の知恵を借りるのも良さそうだ。この日はハインツ先生が見せてくれたアキジオンの分析結果を基に、オーリスとライロフにもこの先ラッセル卿に飲ませたほうがいいと思われる薬の候補を出してもらい、また翌日打ち合わせをしましょうと言うことになった。私は翌日もガーランド男爵家の相続の場にいなければならないので、そちらが終わってから医師会に来てみますと言うことにした。明日は正念場だ。リーザがどう出るか、今の状態も気になるが手を打つためのきっかけが掴めない。明日にかけるしかない。
 
「それじゃ会長に報告だけして、今日は終わりにしましょうか。」
 
 ハインツ先生と私が会長室に行くことになり、研究棟の部屋はオーリス達が時間まで使用し、鍵を閉めてくれることになった。
 

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