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「オーリスは未だに自信が持てずにいるようですね。でも医師としての仕事はしてるんですよね?」
 
 ハインツ先生に聞いてみた。
 
「もちろんです。しかしまだ、外来の当番に入るくらいですよ。風邪などの薬を処方したりすることもあるんですが、本人にとってそう言う仕事はあまり『医師らしい仕事』と思えないんじゃないですかねぇ。」
 
「でもそれは医師にしか出来ない仕事ですよね。」
 
「そうなんですが、やはり若さゆえか、ある程度手柄になりそうな仕事がほしいんじゃないでしょうか。医師の仕事なんて本来は地味なものですから、小さなことの積み重ねがいずれ大きな仕事に繋がっていくもんなんですがねぇ。」
 
 なるほど、彼らが考える『大きな仕事』の中には、風邪の患者の薬というのは入らないのか・・・。
 
(『大きな仕事』か・・・。)
 
 
『いずれ大きな仕事を成し遂げたとき、フロリア様にあの時のお礼を言おうと思っている。』
 
 王国剣士の仕事だって、本来地味なものだ。でもあの頃、カインの言う『大きな仕事』に、私も何となくあこがれを持っていた。若さとはそう言うものなんだろう。
 
(彼らが北の島で勉強したいという考えを今でも持ち続けているとしたら、一度話をしてみたほうがいいのかもしれない。)
 
 島の老人達を相手に、からかわれたりしながら日々を過ごすのが私の日常だ。あんな静かな生活、野心のある若者には向いてないんじゃないだろうか。
 
「失礼します。会長、いらっしゃいますか?」
 
 会長室について、ハインツ先生が扉をノックした。入ってくれと会長の声がしたので中に入ると、何とそこにはオシニスさんがいた。
 
「おや、団長殿ではありませんか。どうなさいました?」
 
「あれ、オシニスさん、どうしたんですか?」
 
 ハインツ先生と私がほぼ同時に声を上げた。
 
「2人とも座ってくれ。今団長殿がサビーネの調書を持って来てくださったのだ。」
 
「何かわかったんですか?」
 
 私達はソファに座ってオシニスさんに尋ねた。
 
「サビーネは相変わらず何もしゃべらん。牢獄の審問官も尋問担当の王国剣士も手を焼いているらしい。仕方ないから、ティールさんの調査会社で調べてもらったんだ。そしたら、飛んでもないことがわかったのさ。」
 
「飛んでもないこと?」
 
「ああ、今会長にその調書を読んでもらっていたところさ。」
 
 会長がハインツ先生と私の前に調書を置いてくれた。
 
「我々が読んでいいんですか?」
 
 ハインツ先生がオシニスさんに尋ねた。
 
「読んでいただいてかまいませんよ。ハインツ先生もクロービスも、直接彼女の暴挙で被害を被ったわけですからね。でもまあ、調書なんてあんまり読みたいものでもないでしょうから、説明しましょう。」
 
 オシニスさんが調書を取り、内容を説明してくれた。
 
「まず、サビーネという名前は偽名だそうです。本人は当然そのことを肯定も否定もしていませんがね。では何故そんなことがわかったのかというと、その鍵を握っていたのはサビーネ看護婦が以前いたという、診療所のある土地の領主でした。すっかり騙されましたよ。」
 
「つまりその領主もサビーネ看護婦の悪だくみに荷担していたと言うことですか?」
 
 オシニスさんがうなずいた。
 
「そういうことだな。ま、すべて知っていたわけではなさそうだが、片棒を担いでいたことは間違いない。サビーネ看護婦の本当の名前は、ザリア・ウィルキンスンだ。大分前だが没落して消えていった貴族の家の一つだな。」
 
「ウィルキンスン・・・?」
 
 ハインツ先生が驚いている。
 
「知ってるんですか?」
 
 オシニスさんがハインツ先生に尋ねた。
 
「ウィルキンスン伯爵家ですよね。最後のご当主は知っていますよ。確か父の診療所に来ていた方だと思います。気さくな方で、父とは話が合うらしく、どこも悪くない時でもちょくちょくいらっしゃってたようですよ。」
 
「それじゃ、あの家が没落する原因になったことはご存じですか?」
 
「確かそのご当主のお孫さんが亡くなったんですよね。伯爵家の馬車で出掛けられた時の事故だとしか伺っていませんが・・・。」
 
 当時の当主のご子息は病気で亡くなったらしいが、孫が元気に育っていたので、ウィルキンスン伯爵家の未来は安泰だと思われていた。だが、その孫が伯爵家の馬車で出掛けた時、事故に遭ったのだという。
 
「私も父からそう聞いただけで、子細はわかりません。ただお孫さんを亡くしてから、ご当主が目に見えて弱ってきて、使用人が何度も父の診療所に連れてきていたのは憶えています。おそらく、弟に頼めば当時の記録を出してきてくれると思います。診療所の記録ですからサビーネに関係するかどうかはわかりませんが、聞いておきますか?」
 
「うーん・・・そうですね。そういうことでしたら、こちらが手詰まりになったような時に、改めてお願いします。まだ弟さんには何も話さないでください。」
 
「わかりました。いつでも言ってください。」
 
「その最後の当主の娘さんと言うことですか?」
 
 オシニスさんに尋ねた。
 
「いや、そこまではわかっていない。もっとも直系ではないだろう。娘がいたなら、孫が死んでも家がなくなるってことはないはずだからな。今文書館から当時の記録を借りる手配をしているよ。貴族については必ず記録が残っているはずだ。」
 
「私の父が診療所を開いていたのは20年前・・・うーん、もう少し前ですかねぇ。サビーネの年齢だと、子供や孫にしては年齢が合わないと思いますよ。でも直系でもないのにウィルキンスンを名乗っているのはおかしいですね。」
 
「そうなんです。名字はともかくザリアというのが本当の名前なら、必ず記録の中に出てくるはずです。」
 
 ハインツ先生の疑問はもっともだ。代々の当主の直系以外の子供達は、それぞれ結婚したり伯爵なら子爵家を創設することも出来るが、みんな名字は変わるはずなのだ。その名前を名乗っていることが、彼女の犯罪の理由の一つだとしたら・・・。
 
「しかし偽名はわかったとして、その領主はいったい何をしたんです?」
 
 ハインツ先生が尋ねた。
 
「サビーネ・・・まあここではサビーネで通します。彼女がその土地に行って看護婦の仕事を探し始める時、その土地の領主に挨拶に行ったらしいんです。その時付き添ったという職業斡旋所の担当者が見つかったので話を聞けたんですが、サビーネとしては領主に顔つなぎをすることで、少しでも有利な職場に入れれば、と言う考えだったらしいと言ってましたよ。ところが、その少し前に奥方を亡くしたばかりの領主がサビーネを気に入り、半ば強引に自分専属の看護婦にしてしまったようですね。」
 
 そこで、サビーネ看護婦はその領主の館に入り、領主の面倒を見るようになった。だがそんな経緯があってそれですむはずがなく、しばらくした頃に領主がサビーネ看護婦に手を出したらしい。さてどちらが先に誘ったか、それによっても話は変わってくるのだが、その辺りはまだ調査中らしい。ともあれ2人は男女の仲となり、領主はサビーネ看護婦の言いなりになったのだそうだ。
 
「それは・・・その領主の子供達が黙っていないんじゃ・・・。」
 
「まあかなり揉めたらしいよ。だが結局サビーネはそれなりの手切れ金をもらい、領主の館を出て、地元の診療所に勤めるようになった。腕はよかったらしいから、診療所ではかなり頼られていたらしいんだが、そのサビーネが、城下町で仕事を探したいから紹介状を書いてくれと、自分を追い出した領主の息子に願い出たそうなんだ。ま、その息子としてもそこでその願いを聞かなければ、どこで何を言いふらされるかわかったもんじゃないし、紹介状を書くことでサビーネが領地から出ていってくれるならありがたい。ということで紹介状を書いてくれたんだが、何とサビーネは、その名前で紹介状を書いてくれと頼んだそうだ。」
 
 偽名とわかる名前で紹介状を書いてくれなんて、何かしらの悪だくみの匂いがしたことだろう。だがそれを突っぱねれば何を言いふらされるかわからない。実際そう言った脅しまがいのことをサビーネ看護婦は言ったらしい。
 
「ということは、彼女の本名をその領地の人達は知っていたんですね。」
 
「そういうことだな。もっとも知っていたのはおそらく、職業斡旋所の担当者、領主の家の家族と使用人の一部、あとは診療所の医師や看護婦だろう。その土地の誰もが知っていたわけではないから、知ってる人物を探し出すのにかなり苦労はしたらしい。だが、これで名前についてはわかったものの、ではその領地に来る前はどこにいたかというのは、まだこれから調査することになっている。」
 
 確かに今話を聞いた限りでは、その貴族の領地に行ったのもそんなに前ではないらしい。ではその前は・・・。そして何故今回のような犯行に至ったのか・・・。
 
「・・・そう言えば、昔オシニスさんとライザーさんに教えてもらったことがありますよね。容疑者が黙秘している時は、自分の悪事の目的をまだ諦めてない時だって。」
 
 オシニスさんがにやりと笑った。
 
「憶えていたか。そうだな。おそらくサビーネはまだ自分の目的を諦めていない。牢獄から逃げることは出来ないだろうが、逃げられないから大丈夫だと高を括っていると、手痛い一撃を食らう可能性もあるってことだ。だがそれはお前が考える必要のないことだぞ。もちろん医師会の皆さんもそんな心配はしないでほしいですね。」
 
「心配はしていませんが、薄気味悪い話ですね・・・。」
 
 ハインツ先生が言った。
 
「全くだ。だが我らが出来ることは今のところなさそうだ。剣士団長殿、何かあればいつでも協力いたしますぞ。王宮の中でこのような犯罪を犯すなど言語道断、何が何でも決着をつけねばならぬ。」
 
 ドゥルーガー会長が忌々しげに言った。
 
 その後私はオシニスさんと一緒に会長室を出た。
 
「今日の打ち合わせはどうします?」
 
「今日はやめておこう。ハディも今日はガーランド男爵家に行ってるんだ。リーザの様子がおかしすぎるから、様子を見ておくと言ってたよ。」
 
「そんなにおかしいんですか?私があの部屋にいたさっきよりも?」
 
「ああ、かなりおかしい。お前があの部屋にいた時よりももっとな。」
 
「・・・どういうことです?」
 
 リーザは、明日は朝から家督相続と相続人の皆さんの取り分について話があるというノイマン行政局長の言葉を受けて、笑い出したのだそうだ。そして
 
「やっと・・・やっとよ。ふふふ・・・あはははは・・・。」
 
 そう言って不気味に微笑みながら部屋を出たという・・・。
 
「ハディが心配になって声をかけたんだけどな・・・。」
 
 ハディが『おいリーザ、お前・・・。』と声をかけたのだそうだが、まるで知らない人間を見るかのように冷たい目で見られ、ハディは次の言葉を失ってしまった・・・。
 
「今のリーザにとって、ハディは知らない人間なのかも知れませんよ。」
 
 そうとしか考えようがない。
 
「てことは、本当に剣士団にいた時のことを忘れちまってるってことか?」
 
「忘れていると言うより・・・自分でも気づかないうちに記憶を封印してる、と言った方が近いと思います。今のリーザはずっとお母さんに寄り添ってきたと思い込んでいるわけですから、その記憶を作るのに都合の悪い本当の記憶を、見ない振りしてるというか・・・。」
 
「そんなことが起こりうるのか?」
 
 オシニスさんも驚いている。
 
「普通はなかなかないと思いますよ。問題は、リーザがすぐれた気功の使い手だと言うことです。それが今回の話をややこしくしているんです。リーザは自分が、お母さんに寄り添ってきた孝行娘であると思い込んでいる、無意識のうちに強力な『気』を操って、自分が作り上げた偽の記憶に縋り付き、その記憶にとって都合の悪いことすべてから目を背けているような気がするんですよね。」
 
 もちろんそんなことがいつまでも続くわけがない。
 
「それに気になるのは、今のリーザがお母さんは2年も前に亡くなってると言うことをちゃんと理解しているかどうかも疑わしいということなんですよね。頭の中でお母さんと会話しているつもりのようですが、亡くなっている人と話が出来るわけがないんです。リーザの偽の記憶ってのは、そう言う細かい部分がかなりいい加減なんですよ。だから誰かにそこを指摘されれば、偽の記憶は崩れてしまうでしょうね。」
 
「その言い方は、崩れて元に戻りました、とは行かないってことだな?」
 
 オシニスさんの眉間にしわが寄った。
 
「そういうことになりますね。オシニスさん、明日、財産分与と家督相続の話が出れば、おそらくリーザは自分がガーランド男爵家を継ぐと言い出すと思いますよ。自分が剣士団に入って、その時に嫡子としての相続権を放棄してるなんて、今のリーザは忘れてると思います。」
 
 オシニスさんにその話をした時点で、リーザの記憶はかなり曖昧になっていたんじゃないだろうか。だから家督相続をした場合結婚しなければならないという話を聞いても、反応しなかったんだと思う。偽の記憶が鮮明になるにつれ、本当の記憶がぼやけて曖昧になっていく・・・。というより、本人も気づいていない深層心理の奥底で、本当の記憶に目を瞑り、顔を背け、なかったことにしようとしている・・・。
 
『もしも、自分が母親の言うことを聞いていれば・・・。』
 
 今回のようなことがあったとしても、自分がいれば、と言う考えから始まっているのじゃないかという気はするのだが、母親である男爵夫人がそんな話をしていたのはもう遠い過去のことだ。しかも2年も前に亡くなっている。今起きた事に対してそんな後悔をしたところで何の意味もない。それならばこの先どうするかを考えるべきだ。最初はリーザも、そのつもりだったんじゃないかと思うのだが・・・。
 
「万一リーザがそのことで暴走したら、あの部屋にいる人達全員を巻き込むことになりかねません。それをなんとかするための作戦だけは立てておきたいです。」
 
「・・・そうだな。それじゃ明日の朝、早めに来てくれるか?」
 
「ええ、伺います。」
 
 
 とは言ったものの・・・さてどうすればいいのか、さっぱり思いつかないのだった。リーザの『気』はかなり強力だ。もちろんオシニスさんとハディがいれば、押さえ込むなり霧散させるなりは出来るだろうけど・・・。それで解決するならばいいのだが・・・。
 
「ウィローにも相談してみるか・・・。」
 
 明日で決着がつくなら、その後はウィローの出番だ。ある程度のことは話しても大丈夫だろう。いまさらそのことで文句を言われることはないと思いたい。もっとも、フロリア様は私に医師としてリーザを診てくれと言うことだったのだから、医師として診療のためにうちの看護婦に相談しましたということにしておこう。とにかくドゥルーガー会長やハインツ先生には知られないようにしなければならない。
 
 
 私は直接調理場へと向かった。時間的に夕食の仕込みが終わる頃合いだろうか。もしもまだ手伝いが残っているなら、また東翼の喫茶室で待っていればいい。
 
 
「それじゃ失礼します。」
 
 医師会の廊下で聞こえた声は妻のものだ。程なくして通路の角を曲がって妻が現れた。
 
「あらクロービスじゃない。今日は早いのね。」
 
「君も早いんじゃない?もう夕食の仕込みは終わったの?」
 
「ええ。いつもだと仕込みが始まるまでにある程度休憩するんだけど、今日は休憩時間を削って仕込みを終わらせたの。明日の朝の分まで終わってるわ。もっとも生ものだけはあんまり早く氷室から出せないから、それだけはいつもと同じ時間に始めるみたいよ。」
 
「ここの氷室は大きそうだね。」
 
「すごいわよ。中に入って歩き回れるくらい広いんだけど、寒いなんてもんじゃないわ。」
 
 妻が肩をすくめた。
 
「ははは、飲食店の氷室は大きいって言うし、ここの調理場ならそうだろうね。」
 
「うちの島みたいに穴を掘ればすぐに氷室が出来るほど寒いわけじゃないから、維持が大変だ、みたいな話は以前聞いたわ。」
 
 島ではどの家にも氷室と呼ばれる穴がある。家の外だったり中だったり家ごとにいろいろだが、生ものや野菜の保存用に使っているのだ。島の氷室はほとんど手入れや維持管理の必要がない。どんなに暖かい季節でも、地面の下には分厚い氷がある。だが城下町ではそうはいかないようだ。さすがに極北の地まで穴を掘るわけにはいかないし、一般人が気軽に行けるような場所ではないので、氷や雪の運搬は一定期間ごとに剣士団に依頼が来る。
 
「夕食はどうするの?外に出る?」
 
「いや、宿で食べよう。君に相談したいことがあるんだ。」
 
「わかった。今朝の話?」
 
「その話をもう少し詳しく出来ると思うよ。」
 
「それじゃ宿に戻りましょうか。ゆっくり話が出来るわね。」
 
「そのほうがいいよね。」
 
 2人で王宮の外に出た。人の波は確かに減っているが、派手な格好をした人々が大勢で歩いているのは変わらない。人の波を泳ぐようにして宿に着いた。宿では今でも祭りに出掛けるグループが景気づけのビールをあおっている。ラドが声をかけてきたので、夕食を部屋で食べるからと頼んで、部屋に戻ってきた。ここでの滞在も長い。部屋に入るとホッとする。
 
「ふぅ・・・あー、疲れた。」
 
 妻がベッドに腰掛けてため息をついた。今日はずっと調理場の仕込みを手伝っていたので、立ちっぱなしだったらしい。そこに足音が聞こえ、扉がノックされた。入ってきたのは老マスターだ。
 
「わりぃな、メシはまだ出来ないんだが、風呂は沸いてるんだ。よかったらそっちを先にしてくれるとありがたいよ。」
 
「わかりました。急がなくていいよ。」
 
 老マスターは何度も謝りながら部屋を出て行った。今日はノルティが舞台の出番なので、人手が足りないらしい。
 
「それじゃ先にお風呂に行こうか。」
 
「そうね。食べたあとだと寝てしまいそうだし。」
 
 
 
 
                          
 
 
 
 
 さすがに時間が早いのか、風呂には誰もいない。
 
「ははは、貸し切りだな。」
 
 ゆっくりと風呂に浸かると、体の疲れがとけていくようだ。そしてとけて行くにつれて、リーザのことが頭に浮かぶ。ハディが心配して家までついていったくらいだから、よほどおかしかったのだろう。私があの部屋にいた時は、時折忌々しげな意識をこちらに向けているだけで、何も言わなかった。
 
(知らない人・・・か・・・。)
 
 リーザは私とハディが同じ部屋にいることについてどう思っていたのだろう。リーザから聞こえてきていたのは、母親との会話だけだ・・・。それも、母親の声ははっきりと聞こえてこない。まあ、当たり前だろう。男爵夫人はもうこの世にいない。話しかけているのも答えているのもリーザだ。リーザは亡くなったはずの母親と頭の中で会話していることについて、おかしいと思っていなかったのだろうか。
 
「ま、そんなことを思えるくらいなら、おかしくなったりしないんだよな・・・。」
 
 異議申し立ての時の、ラッセル卿の暴挙を目の当たりにし、リーザが危機感を持ったのは理解できる。あの時点で父親である男爵の横領疑惑もリーザは聞いていた。
 
『今度こそ本当に取りつぶされてしまうかも・・・。』
 
 そのことでハディはリーザの力になろうとしたはずなのに、リーザはハディを遠ざけた・・・。
 
 部屋に戻ると、程なくして食事が運ばれてきた。まずはおいしい食事をして、食後のお茶を飲んで一息ついたところで、私はガーランド男爵家の人々について、家督相続の場で見聞きした話を妻にして聞かせた。
 
「・・・それは・・・もうどうしても・・・病気じゃなかったって言える状態ではないってことね・・・。」
 
 妻のカップを持つ手が震えている。リーザは病気なんかじゃないと、ちょっと疲れていただけだと、そんな報告が出来たらどんなによかったことだろう。だが、それはもう叶わない。ガーランド男爵家の人達の他に、オシニスさん、ノイマン行政局長、そして行政局の職員達もリーザの様子を目撃している。
 
「そういうことだね・・・。あの状況では、フロリア様に報告しないと言うことも出来ないし、報告したことを内々にすませるってことも出来ないと思うよ。せめてリーザが自分の状態に気づいてくれれば、今の状態から抜け出すための手助けが出来るんだけど・・・今のリーザにとっては、ハディも私も見知らぬ人間なんじゃないかと思う。今のままでは何も出来ない。」
 
「仕方ないわ・・・。心の病の治療がどれほど難しいかは、私もわかるつもりよ。」
 
 辺鄙な北の島の診療所には、心の病を患った患者が数多く訪ねてくる。自分の周囲にそのことを知られたくないと考える家族が、わざわざ北の島まで患者である家族を連れてくるのだ。
 
『外聞が悪い、みっともない』
 
『頭のおかしい家族がいることを知られたくない』
 
 理由はそんなところだ。だが、心の病とは千差万別で、患者達は頭がおかしいわけじゃない。それでも、辺鄙な島の医師ならば話をしても外部に漏れることもないだろうと考えている人もいるらしく、心を病むに至った経緯をちゃんと話してくれる患者とその家族もいるので、そう言う場合はきちんとした治療が出来る。全快とまでは行かなくても、ある程度原因がわかれば、環境の改善と心を落ち着けるための投薬でよくなることも少なくない。
 
「せめてリーザと話が出来ればいいんだけどね・・・。たいていの場合は本人が自分を病気だなんて認めないもんだけど、話をしていくうちに原因は見えて来るものだよ。でもそもそも会話が出来ない。私は立会人と言ってもラッセル卿の治療補助の名目であそこにいるわけだからね。特に行動を制限されることはないから、本来ならば誰と会話をしても問題ないはずなんだけど、リーザが私達を寄せ付けず、頭の中で、母親である男爵夫人と会話しているつもりになっている。正直手詰まりだよ。」
 
「それで・・・明日なのね。」
 
「そういうこと。明日は事態が動くんじゃないかと正直期待しているよ。家督相続の手続きが行われれば、リーザはラッセル卿の家督相続を認めないと騒ぎ立てるだろう。その時に自分がもう嫡子として家督を継ぐ権利を放棄していることを、思い出してもらわなくちゃならない。もしかしたらノイマン局長が、その時リーザが署名した文書を持ってくる可能性がある。それを奪ったり破いたりしないでくれるといいんだけど、なんとも言えないんだよね・・・。」
 
 そう言う危険性も考えて、明日の朝はオシニスさんとハディと打ち合わせをしてから行く予定だと言うことも伝えておいた。妻は明日まで調理場の仕事を手伝うことになっているらしい。もしかしたら明日イノージェンも手伝いに行くかも知れないと言うことだったので、言うまでもないとは思ったが、今回の件はイノージェンには何も言わないで欲しいとも言っておいた。
 
「もちろん何も言うつもりはないわ。イノージェンはもうガーランド男爵家とは縁が切れているんですもの。チルダさんとの交流はまた別の話だものね。」
 
「そうだね。そうしてくれるとありがたいよ。」
 
「ねえクロービス、リーザが正気に戻ってくれさえしたら、私が出来ることは何でもするわ。だから必ずリーザを助けて。」
 
「うん、明日こそ、リーザに本来の自分を取り戻してもらうよ。」
 
 
 翌朝、少し早めに宿を出て、王宮に着いた。玄関前にはそこそこ人がいるが、まだ見学が出来る時間にはなっていないようだ。ロビーの奥で、妻は医師会、私は剣士団長室へと向かおうとしたところで、東翼からの廊下を歩いてくるイノージェンと会った。今日は医師会の調理場を手伝いたいと、早めに来たのだそうだ。妻がこれから行くところだからと言って一緒に行くことになったのだが、イノージェンとしてはやはり私の行く先、つまりガーランド男爵家の家督相続の件が気になるらしい。
 
「勘違いしないでね。お金のことを気にしてるんじゃないわ。あの家と完全に縁を切った私の判断は正しかったと思っているの。相続人の人達とも、家族とか身内とか、そんな感覚は最初から感じたことがないしね。でもね、チルダさんとのお茶会はとても楽しかったわ。だからあの家の家族が仲良くしてほしいなとは思うの。ちゃんと皆さんが納得のいく形で終わってほしいわ。」
 
「そうだね。それが一番なんだけど、まだそこまでは見通せないかな。」
 
「そう・・・。ラッセル卿の具合はどうなの?」
 
「大分よくなってきたよ。何より、本人が家族のために生きる気力を取り戻しつつあるからね。」
 
「ならよかったわ。それだけでも、いいことが一つあったってことよね。それならきっともう一つ、いいことがあるかも知れないわ。それじゃウィロー、行きましょうか。」
 
 妻とイノージェンは医師会に続く廊下へと歩いて行った。
 
「いいことがひとつ、か。ははは、確かにそうだ。一つでもいいことがあるんだったら、きっともう一ついいことがあるよ、って・・・イノージェンのかあさんがよく言ってたっけ・・・。」
 
 イノージェンのかあさんの顔が浮かぶ。いつも笑顔で私達にも自分の子供と分け隔てなく接してくれた、優しいが芯の通った人だ。
 
「さて、私は私の仕事をしなくちゃな。」
 
 手詰まりではあるが、どこかに突破口はあるはずだ。
 
 
 剣士団の採用カウンターにやってきた。ランドさんがちょうど来たところらしく、あくびをしながら書類の準備をしている。今日は採用試験を受けに来る若者はいるんだろうか。
 
「お前にも苦労かけるな。オシニスとハディはもう来てると思うぜ。」
 
「今日で何かしらの決着はつくと思いますよ。どんな結果になるかはなんとも言えないんですけどね。」
 
「早く終わってほしいとは思うが、当人達にとっては一大事だからなあ。」
 
 気にはなるが迂闊に首を突っ込めない、そんな歯がゆさがランドさんから感じられる。
 
 
 剣士団長室の扉をノックすると、『入れよ』と声がした。心なしか疲れた感じのオシニスさんの声だ。
 
 私は中に入り、挨拶をしたのだが、オシニスさんよりも疲れた顔をしていたのはハディだ。
 
「よお・・・おはよう。」
 
「おはよう。ずいぶん疲れてるね。昨日はそんなに大変だったの?」
 
「うーん・・・リーザは家に入った後俺とは顔も合わせようとしなかったよ。疲れたのは別な理由さ。」
 
「別な理由?」
 
「ハディはガーランド男爵家の使用人達に大いに期待されているらしいぜ。」
 
 オシニスさんが冗談めかして言ったが、ハディは『笑い事じゃないですよ』と大きなため息をついた。
 
 昨日の夕方、ハディはガーランド男爵家の馬車で、ラッセル卿夫妻と共にガーランド男爵家に向かったのだという。リーザはT人で別の馬車で、チルダさんはロゼル卿と一緒にランサル子爵家の馬車で、それぞれガーランド男爵家に着いた。リーザは馬車を降りるなり自室に籠もり、食事も部屋でT人で食べるのだという。メイド達がリーザの部屋に運ぶ食事の用意を始めるらしく、忙しなく動いている。
 
「会話どころか顔も合わせてないよ。ま、今は仕方ないかなと思ってたんだけど、俺が屋敷に入るなり、使用人達が駆け寄ってきてなあ・・・。」
 
「ハディ様!お帰りなさいませ!お待ち申し上げておりました!」
 
 使用人達が頭を下げ、是非話を聞いてほしいというので、ラッセル卿夫妻、ランサル子爵夫妻と一緒に、応接室に移動した。
 
「この間の話だな?」
 
 ラッセル卿は使用人達の話の内容を知っていたようだった。
 
「はい、実は・・・。」
 
 先日の異議申し立てのあと、リーザが少しずつおかしくなっていったことについて、使用人達はみんな心配している、しかも最近ではリーザと言うより、まるで亡くなった男爵夫人がそこにいるような、言葉遣いや仕草をするので気味が悪いとみんなが言っているのだそうだ。以前ハディがガーランド男爵家に出入りしていた頃は、リーザも穏やかだったし、いずれ2人が結婚してくれればと使用人達も期待をしていたそうなのだが・・・。
 
「それでまあ、一刻も早く俺にリーザと結婚してほしいってことなんだが、そう言われてもなあ・・・。だいたいそんな話、俺1人で決められることじゃない。だが使用人達は何だか今のリーザに怯えているみたいなんだ。しかもその話をしている時に屋敷の奥で食器が割れる音と誰かの悲鳴が聞こえたんだよ。それで驚いて行ってみたら・・・。」
 
 床にはスープや肉料理が散乱し、割れた皿の破片が飛び散っている。そこには同じスープや肉料理を頭から被って座り込んでいるメイド。そして今まさにティーポットを振り上げてそのメイドに向かって投げつけようとしているリーザがいた。
 
「何やってんだ!?」
 
 ハディは腹を立ててリーザの腕を掴み、ティーポットを取り上げた。
 
「何が気に入らないか知らんが、何の権利があってお前はそんなことをするんだ!?」
 
 そう叫んでリーザの腕を掴んだまま、空いている手でリーザの頬を平手で殴った。
 
「何するの!?私にこんなことをしていいと思ってるの!?」
 
「いいと思ってるよ!何があろうとメイドに料理を皿ごと投げつけて、あげくににティーポットをぶつけるなんてのは言語道断だ!俺の言ってることがわからないなら、もう一発殴ってやろうか!?」
 
 正面から見たリーザの目は、誰が見ても狂った人のそれだった。
 
「離しなさい!」
 
 リーザは腕を振り解こうともがくが、この状況で気功を使おうともしていない。王国剣士として鍛えた体力、腕力も感じられない。この時ハディは、やはりリーザは今自分が置かれている立場を忘れているのだと確信したそうだ。
 
 ハディは掴んでいた手を離した。その頃には、ラッセル卿夫妻が使用人達を避難させてくれていたので、リーザの部屋の前には、ぶちまけられた料理の他には、ハディとリーザだけになっていた。その状態でもしもリーザがハディに対して反撃をしてくれば、もう一発くらい、今度は拳でぶん殴ってもいいかと考えたそうだが、リーザはハディを見たまま、よろよろと部屋に戻り、そのまま扉を閉めてしまった。
 
「でまあ、使用人達が床を片付ける間、心配だから俺が一緒にいたんだよ。また部屋から飛び出してきて、使用人達に危害を加える危険性もあったしな。その間に作り直したメシが運ばれてきたから、俺が持っていったんだ。メイドがすっかり怯えていたしな。」
 
「そんなことが・・・。」
 
 リーザは自分の記憶だけでなく、意識にも蓋をしているのかも知れない。それもこれもすべては『母親に寄り添う孝行娘』を演じるために。
 
 
 部屋には鍵がかかっていなかった。扉を開けて食事のワゴンを押していったのだが、リーザは扉に背を向けたまま、何かブツブツ言っている。
 
「メシだぞ。」
 
 後ろから声をかけるとリーザはびくっと肩をふるわせた。だが振り向かないまま、
 
「そこに置いていって。」
 
 そう言ったので、ハディは一言、釘を刺しておくことにしたそうだ。
 
「置いていくのはいいが、またぶちまけたりしないだろうな。今度そんなことをしたら本気でぶん殴るぞ!?」
 
「そんなことはしません!早く出て行って!」
 
 ハディはそのまま部屋を出て、ラッセル卿達が待っている応接室に戻ってきた。ラッセル卿にさっきの出来事について聞くと、亡くなった男爵夫人は、たびたび癇癪を起こして食事の乗ったワゴンをひっくり返したり、使用人に暴力を振るったりしたことがあったらしい。
 
『まるで生前の母を見ているようです。』
 
 ラッセル卿が涙を滲ませてそう言っていたそうだ。使用人達はというと、先ほどのハディの態度にいたく感激し、この際この家に来てくれませんかとまで言われ、すっかり困ってしまった、ということらしい。
 
(ハディを自分の恋人としては憶えていないとしても・・・。)
 
 全く未知の人間とは思ってないんじゃないだろうか。母親に寄り添ってきた孝行娘という記憶に縋り付いていても、母親との確執の記憶をすべて忘れているわけじゃない。だからこそ、その記憶に綻びが出ないように、ハディを遠ざけている・・・。
 
 そこまでは多分そんなに的外れではないと思うのだが、何故の部分がどうしてもわからない。ハディを頼らず、既にいない、しかも仲が悪かったはずの母親の記憶にすがった理由は、いったい何なのだろう。
 
「それがわかれば苦労しないよ。異議申し立てのあと、お前にリーザを頼むって言われた後は少しずつ話してくれていたんだがなあ・・・。」
 
 取りつぶしになってしまったらどうしようと泣くリーザに、フロリア様だってそう簡単に貴族の家を取りつぶししたり出来ないんだから、大丈夫だと言ってリーザを励ましたらしい。その時はハディに素直に『ありがとう』と言っていたそうなのだが・・・。
 
「翌日からだよ。様子がおかしくなったのは。」
 
 その日の夜に何があったのか、聞いてもリーザは何も言わなかったのでわからない。その時ラッセル卿は意識不明で入院していたし、リンガー夫人は実家に帰ってしまっていた。チルダさんはロゼル卿と一緒に自分の家に帰っていたので、ガーランド男爵家には使用人達しかいなかった。彼らに聞いてみても、リーザは1人で家に戻り、そのまま部屋に引きこもってしまったので話をしていないらしい。
 
「手がかりなしか・・・。」
 
「悪いな。何かしら聞き出せたらよかったんだけどな・・・。」
 
「仕方ないよ。本人と話も出来ない状態ではどうしようもないからね。」
 
 それに・・・殴られて『そのままよろよろと部屋へ』戻ったというのが解せない。解せないがそれがもしも・・・記憶の彼方に封印していたはずのハディの姿を目の前で見て、偽の記憶が揺らいだのだとしたら・・・。
 
(今のリーザは、『自分にとって知らない記憶』に怯えているかも知れない・・・。)
 
 今日の家督相続の手続きで、家を自分が継ぐとリーザが言い出せば、それはフロリア様と剣士団、そして剣士団を束ねるレイナック殿への裏切りだ。オシニスさんにこっそり話すくらいなら、リーザ本人が黙っていればオシニスさんだって黙っているだろうけど・・・。
 
(そうはならないだろうなあ・・・。)
 
 とにかく、まずはこれから向かう部屋でリーザが暴れたりしたらどうするか、それについて打ち合わせをしておくことにした。リーザはかなりの気功の使い手だ。彼女が無意識に『気』を暴走させれば、あの部屋が吹っ飛ぶ危険性だってあるのだ。
 
「・・・そうだな。それで行こう。」
 
「わかりました。」
 
「あいつには絶対、人に危害を加えたり書類を破かせたりしませんよ。」
 
「それとクロービス、じいさんからの伝言だ。万一どうしても使いたくない呪文を使わざるを得なくなって、それで誰かに何か聞かれたら、全部じいさんから教わったと言っておけばいいそうだ。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 使いたくない呪文・・・つまりそれは魔法だ。私が使える魔法は、精霊の長達に教わったものや、サクリフィアの近くに住んでいた研究者の家から借りてきた呪文書で学んだものもある。だが今のエルバール王国に存在しないはずの呪文・・・。
 
「わかりました。そんなものを使う事態になってほしくはないですが、必要であれば躊躇うつもりはありません。心に留めておきます。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 隣でハディが複雑な顔をしている。
 
「あの部屋には、ガーランド男爵家の相続人達もいる。今日は家督相続の手続きだから行政局の職員はいないが、ノイマン局長も来ている。何かあった時にその中の誰も傷つけさせないためには、こいつの呪文が必要になる可能性もあるって事だ。リーザのことは、お前が守れ。もちろん俺も手を貸すから、心配するな。」
 
 オシニスさんはそう言ってハディの肩を叩いた。
 
「レイナック殿が仰ったのは、攻撃呪文のことじゃないと思うよ。みんなを守るための呪文でも、説明の出来ないものはたくさんあるからね。」
 
 室内で攻撃呪文なんて、どんなに危機的状況に陥ったとしても使えるわけがない。おそらくは、レイナック殿はリーザの『気』が暴走した時、あの部屋にいる人すべてを守るための呪文を使うことを想定しているのじゃないだろうか。だとすれば、私もそのつもりで準備しておかなければならない。
 
「そうだな・・・。あいつは、俺が守る。そして誰も傷つけさせない。」
 
 ハディが決意を込めた声でそう言った。
 
 何かが起きた時、誰がどう動くか、それをしっかりと確認して、私達は剣士団長室を出た。だが、その後家督相続の手続きの場であんなことが起きるとは、私にも、いや、おそらくその場にいた誰でも、予測出来ないことだっただろう。
 

第110章へ続く

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