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第109章 解ける謎と新たな謎

 
 翌朝になっても妻の『気』は不安定なままだった。だが宿に1人残るとは言わず、一緒に王宮へと向かった。
 
 王宮のロビーはまだ人混み前らしい。だがすぐに一杯になるだろう。私達はロビーを奥に進み、医師会への通路の入り口まで来た。
 
 
「私は剣士団長室に行くよ。君も一緒に行ってみる?君の不安を、オシニスさんにぶつけてみるというのも一つの手だと思うよ。」
 
 妻は少しの間黙っていたが・・・。
 
「話を聞けるなら聞きたいわ。」
 
 小さな声でそう言ったので、まずは採用カウンターに顔を出すことにした。勝手に妻を剣士団長室に入れるわけにはいかない。まずはランドさんに取り次ぎを頼もうと思ったのだ。
 
 
「あれ?今日はウィローも一緒なのか?」
 
 ランドさんは驚いた顔をしている。今朝の打ち合わせはオシニスさんとハディと私の3人で行うことになっていたからだ。私は妻がここに来た理由を簡単に伝え、オシニスさんに話を聞けるかどうか、取り次いでくれないかと頼んだ。
 
「わかった。聞いてくるよ。ハディはさっき来たんだ。ちょっと待ってくれ。」
 
 ランドさんが剣士団長室へと向かい、少しして戻ってきた。
 
「ウィローを連れてきてくれってさ。打ち合わせの前に話を聞くって。」
 
 私達は剣士団長室に向かった。
 
 
「・・・なるほどな。ウィローはリーザのことを心配してくれているんだな・・・。」
 
 剣士団長室に入り、私は昨夜の妻との会話を簡単に話した。それを聞いてハディがそうつぶやいたのだ。
 
「心配なのは私もわかるんだけどね、この話はそう簡単なことじゃないってことは説明したよ。でもウィローにとっては、今のリーザの様子もわからないし、どうしても不安で仕方ないってことだと思う。」
 
「その気持ちは俺もわかるぞ。何の情報もないんだから、不安になるのは当たり前だよな。君にとってもリーザにとっても、お互いの大事な友人だろうしな。」
 
 そう言ったのはオシニスさんだ。
 
「だがウィロー、クロービスの言った話はそれが正解だ。今この件を医師会に話すなどの行動をフロリア様が取れば、間違いなく大事になる。それとはっきり言おう。今回の件で、今現在君が出来ることは何もない。」
 
 はっきりとそう言われ、妻は悔しそうに俯いた。
 
「そう落ち込まないでくれよ。俺もハディも、君のことは当てにしているんだからな。」
 
「当てにって・・・でも・・・何も出来ることはないんですよね・・・。」
 
 妻の顔がまたこわばる。からかわれているような気になっているのかも知れない。
 
「今はな。」
 
 含みのある言い方に、妻が顔を上げた。オシニスさんの言いたいことが、私にもわかってきた。なるほどそういうことか。
 
「今はまだガーランド男爵家の相続手続きの最中だ。君にはそこに臨席できるだけの理由も権限もない。クロービスとハディの臨席だって、フロリア様がかなり無理をしてねじ込んだようなものだからな。しかもリーザとのことがある程度公になっているハディはともかく、クロービスも君も、異議申し立ての時にはイノージェンさんの付添人だった。ノイマン局長は、それを理由にクロービスの臨席には大分渋い顔をしていたんだよ。それでもフロリア様が無理を仰せられたのは、様子がおかしくなってしまったリーザに、医師という目線で診療してほしいという思いからだ。だから今は、君には引いてもらうしかない。」
 
「・・・・・・・・。」
 
(医師としてか・・・。ウィローが医師だったら、もしかしたら話が来たかも知れないけど・・・。)
 
 さすがに整体専門の医師では、無理だと思われてしまうだろう。それもまた、専門医制度の未熟な部分だと言える。まだまだ内容を精査しなければ制度として立ち上げることは難しそうだ。
 
 オシニスさんの話は続く。
 
「一番の問題であるリーザだが、今リーザは誰の話も聞こうとしない。今まで仲良くやってきたラッセル卿夫妻とも、ランサル子爵夫妻とも距離を置いている。見た感じだけだと、まるで以前から憎んでいるようにしか見えないほどだ。でもいつまでもそんなわけには行かない。今行われている財産目録の作成が終われば、ガーランド男爵家の相続人達は、必ずお互いと向き合って話し合いをしなければならなくなる。どんな結果になるのかは俺にもわからない。だが必ず決着はつく。その時までにリーザが落ち着いて家族と向き合うことが出来るようになるかは、ハディとクロービスになんとかしてもらうしかないが、たとえどんな形になったとしても、リーザは自分のしたことによって傷つくだろう。そうなったら、ハディだけでは手に負えないだろうし、リーザが本格的に病人と認定されてしまえば別だが、そうならずにすんだ場合は、病気の診療という名目がなくなったクロービスも手出しできない。でもウィロー、君だったらリーザの友人として、寄り添ってやれるんじゃないか?」
 
「あ・・・。」
 
 妻の顔が少しほころんだ。
 
「そう言っていただけて嬉しいですよ。私が勝手にリーザのその後にまで口を出すことは出来ませんからね。」
 
 リーザに寄り添い、リーザの心を癒やせるのは、親しい友人だと思う。姉妹としてチルダさんやリンガー夫人にそう言う役目を期待したいところだが、今回の件が何事もなく済んだとしても、誰の心にもわだかまりが残らないと言うことにはならないと思う。
 
「君が異議申し立ての時にイノージェンさんの側についていたとしても、別にガーランド男爵家と君が敵対したわけじゃない。リーザだって正気に戻れば自分のしたことを恥じるかも知れない。そんな時に君がいてくれれば、ハディとはまた違う側面からリーザの支えになってくれるんじゃないかと期待しているんだ。だから今、君は動かずにいてほしい。この件が終わったら、ある程度詳しい話をしてもらえるようフロリア様とじいさんに掛け合うよ。ノイマン局長は多分反対すると思うが、何とか説得するさ。」
 
「・・・わかりました・・・。」
 
 納得したかどうかはともかく、理解はしてくれたと思う。
 
「オシニスさん、お時間を取ってくださってありがとうございました。ハディ、ごめんなさいね、あなたのほうがずっとリーザのことを心配しているのにね。」
 
 妻は立ち上がり、オシニスさんとハディに礼をした。
 
「飛んでもない。君がリーザのことを気にかけてくれて嬉しいよ。あいつが自分を取り戻せるように、俺達は全力を尽くす。だから、そのあとはあいつのことをよろしく頼むよ。多分俺だけじゃ手に負えないだろうからな。」
 
 ハディはそう言って微笑んだ。
 
「わかったわ。それじゃ失礼します。」
 
「今日はこれからどうするの?」
 
 妻に尋ねた。
 
「マレック先生のところに行ってみるわ。クリフの食事のことで教えてもらおうかなって。」
 
「家庭の味再現は出来ても、採算が取れるかどうかはまだわからないんだよね。」
 
「そうなの。あまりにも手間とお金がかかるなら、一度見直しと言うことになるかも知れないわ。」
 
「お昼になったら医師会の調理室に顔を出すよ。」
 
「ええ、そこで待ってるわ。それじゃ失礼します。」
 
 朝起きた時よりは大分穏やかな笑顔になって、妻は剣士団長室を出て行った。
 
「納得してくれたかな・・・。」
 
 オシニスさんが独り言のようにつぶやいた。
 
「ある程度状況がわかったので、かなり不安はなくなったと思います。ありがとうございました。ハディもありがとう。」
 
「ははは、俺は現状を説明しただけだよ。俺がウィローを当てにしているのは本当だからな。フロリア様とリーザとはいくら友人とは言ってもやはり君主と臣下だからな。リーザのほうにも遠慮はあるだろうし。」
 
「それは仕方ないですよね。俺もウィローがあんなに心配してくれるのがありがたいですよ。クロービス、俺はリーザが自分を取り戻せるように全力を尽くす、だから協力してくれよ。お前のことも当てにしてるぞ。」
 
「もちろんだよ。それじゃ今日の予定について打ち合わせをしましょうか。」
 
「そうだな。」
 
 オシニスさんの話によれば、今日一日で財産目録の作成は終わるそうだ。そして領地運営に関わる全ては予定通りラッセル卿夫妻が相続し、その他の家としての財産については、相続人3人で平等に分配することになるらしい。ガーランド男爵の個人資産については、今は横領疑惑で差し押さえられているが、調査が終わって内訳がはっきりすれば本人に返すことになる。あとは先代当主として領地運営の収入の中から規定通り、決まった額を取り分としてもらうくらいのものなのだが、今のまま男爵家で先代として暮らして行く分には、特に困ることはないはずだと言うことだ。ただし、その話は明日になるらしい。中途半端に情報を出すわけには行かないので、すべての書類整理も終わらせて、明日は相続人全員で話を聞くことになると言うことだ。
 
「男爵のことはどうなりました?」
 
 この話も妻にはしていなかったので、妻がいるうちは話せなかったことだ。
 
「昨日のうちにじいさんが手を打ったはずだ。後で医師会に行った時にでも聞いてみてくれ。とりあえず命の危機は脱したはずだと、今朝言っていたぞ。」
 
「そうですか。それは何よりです。」
 
「ハインツ先生が複雑な顔をしていたらしいが、じいさんが悪態をついて『ものすごく怒っている』ことにしていたから、まあ何も言う余地はなかったんだろうな。」
 
 レイナック殿が『かんかんに怒っている』と言うことになれば、異議を唱えることなど出来はしないだろう。もう少し早く手を打てていればまた違った結果になっていたのかも知れないが、治療にたらればはない。最適なタイミングで手を打てなければ、取り返しがつかないことになる。これで男爵の命は何とか繋がったと見ていいだろう。だが問題は『そのあと』だ。私はラッセル卿と一緒に毎日医師会に行くことになっている。行けば必ずその話は出るだろうから、その時にうまく話が出来るよう、打ち合わせをすることにした。
 
「・・・とまあ、こんな感じでどうだ?」
 
 オシニスさんの提案に、私はうなずいた。ハディも『それしかないよな・・・。』と呟いている。
 
「わかりました。演技はへたくそだと言われますが、とにかく私はひたすら頭を下げておきますよ。『うっかり軽い気持ちで話してしまって申し訳ない』と言うことで。」
 
「おまえにばかり苦労かけるがよろしく頼むよ。それとラッセル卿の取り調べは続くが、特に拘束はされないことになった。ラッセル卿は潔く罪を認めている。逃亡や証拠隠滅の恐れもないので、じいさんとノイマン局長の計らいで、ガーランド男爵家の領地運営についても今まで通りだ。」
 
「それはよかったですね。」
 
「拘束とか言うことになるとリンガーさんが1人で領地運営をしなくちゃならなくなるからな。よかったよ。」
 
 ハディもほっとしている。
 
「相続自体は明日財産目録が公開されて、金の流れやら何やらの説明が終われば、あとは手続きするだけだ。明日になればラッセル卿はガーランド男爵となり、夫人も男爵夫人となる。問題になるのは、その金の流れに関してガーランド男爵の横領についての話が出た時のことだな。リーザがどう出るか、それによってはハディとクロービスには忙しい思いをしてもらうことになるかもな。」
 
「リーザの家督相続の話はその時にするんですか?」
 
「いや、その予定はない。そもそも出来ない相談だ。どうしてもリーザが家督相続をしたいのなら、ラッセル卿の相続が終わったあと、それに対して異議申し立てを行うしかないんだ。明日騒ぎ立てたところでどうなるものでもない。それに、文句を言う程度ならともかく、この間みたいに暴れて書類を勝手に触ったり最悪破いたりしちまうと、これは立派な罪になるんだ。そうなったら職場復帰も叶わなくなっちまうから、俺としてはおとなしくしていてほしいもんなんだがな。」
 
 リーザが王国剣士としてやっていけなくなってしまう、ハディにとっては考えたくもないことだろう。本来のリーザならそんな事態になるようなことは絶対にしないはずなのに・・・。
 
「だから、そんな話をしそうになったらハディ、お前が止めてくれよ。」
 
「わかりました。何が何でも止めます。」
 
 ハディの言葉からは並々ならぬ決意が伝わってくる。
 
「それじゃ、俺はこれから向かうが、お前達はどうする?一緒でもいいし、遅れてきてもいいんだが。」
 
「私はご一緒しますよ。昨日はラッセル卿が素直に医師会に行ってくれましたが、だからって治療が格段に進んだというわけじゃないですからね。見守りは必要ですし、リーザのほうも気になります。ラッセル卿も今のリーザが家族に危害を加えるかも知れないと心配しているようですから、早めに行った方がいいと思います。」
 
「俺も今行きますよ。クロービスと同じ理由ですが、俺としてはリーザのほうが心配です。それにラッセルの心配もわかるから、万一の時は俺がまず動かないと。」
 
 ハディも同じ意見のようだ。
 
「そうだな。一緒に行くか。そろそろ昨日の続きが始まっている頃合いだし。」
 
 3人で剣士団長室を出て、執政館へと向かった。ガーランド男爵家の資料が置かれている部屋は執政館の一番奥、元御前会議場だった場所のさらに隅っこだ。
 
 
−−≪母様・・・大丈夫よ。私がそばにいるわ・・・。≫−−
 
−−≪ああリーザ、あなたを頼りにしていますよ。あなたには身持ちの堅い真面目で立派な殿方を婿として迎えてもらわなければね。≫−−
 
−−≪もちろんですわ、母様。私、母様が勧めてくださる方と結婚したいと思います。そしてこの家を守って見せますわ。≫−−
 
−−≪わたくしのリーザ・・・頼りになるのはあなただけよ・・・。≫−−
 
 
 部屋に近づいた時に聞こえたのは、リーザの『声』だ。そして、妙な光景が頭の中に入ってきた。それは、ドレスを着て涙を拭いている貴族の夫人と、そのそばに寄り添う若い娘。これはリーザと男爵夫人か・・・。でもおかしい。リーザは男爵夫人のそばでこんな風に話をしたことなんてなかったはずだ。チルダさんが言っていた。男爵夫妻の間に決定的な亀裂が入ってしまった後、男爵夫人は3人の子供達を自室に呼び出し、毎日のように『あの男は信じてはいけない』とか『男なんて碌でもない』とか、自分の夫についてあらん限りの悪口雑言を並べ立てていたと。だがその中にリーザがいたのは最初だけだ。その後リーザは槍術を学びたいと男爵に頼み、その稽古があるからと言うことで二度と母親の部屋に足を踏み入れることはなかったらしい。父親への憎しみでおかしくなってしまった母親に、リーザは近づこうとしなかったと言うことも聞いている。それに、家を出たがってたリーザが、母親の勧める相手と結婚するなんて、絶対に言わなかったんじゃないかと思う。
 
「ん?おいクロービス、どうした?」
 
 ハディの声で我に返った。いつの間にか立ち止まっていたらしい。
 
「ハディ、ちょっと聞きたいんだけど・・・。」
 
 私は今頭の中に見えた光景と、リーザと母親の会話を話した。オシニスさんもハディも、ものすごく変な顔をしている。
 
「そんな話は聞いたことがないぞ。リーザの奴はいつも槍の稽古を口実にお袋さんの部屋に近づこうとしなかったって言ってたからな。」
 
「私もそう聞いていたんだけどね・・・。」
 
「なあクロービス、それはもしかしたら、リーザの妄想ってことか?」
 
 オシニスさんの問いにうなずいた。
 
「こういう会話が実際に男爵夫人とリーザの間で交わされたことがないならば、そういうことになります。」
 
「その状況はまずくないか?」
 
「ものすごくまずいですよ。今のリーザは、自分がずっとお母さんのそばに寄り添ってきたと思い込んでいるんです。」
 
「なんでまたそんなことに・・・。」
 
 ハディがいいながら顔をしかめた。
 
「昨日まではお母さんとの会話が聞こえただけだったんだけどね・・・。」
 
 妄想が酷くなったとしたら、その原因はなかなか進まない財産目録作りだろうか。裏でオーソン伯爵家への聞き取りや、領地から上がってくるお金の流れを調べながら、そしてそれをガーランド男爵家の相続人達に知られないように進めているから、多分リーザだけではなくラッセル卿やリンガー夫人にとっても、なんでこんなに時間がかかっているんだろうという疑問はわいているだろう。
 
「とにかく行きましょう。リーザの状態が心配です。」
 
 私達は足を速め、ガーランド男爵家の財務資料が置かれている部屋についた。
 
 中からは何か話し声が聞こえてくる。オシニスさんが扉の取っ手に手をかけた時
 
「ふざけないでください!」
 
 聞こえた声はリーザのものだ。
 
「いったいいつまでかかってるんですか!?」
 
 扉を開けた時に続けて聞こえてきた声もリーザの声だ。中では立ち上がって行政局の職員とノイマン行政局長を睨みつけるリーザ、それを宥めようとしたらしく立ち上がったラッセル卿、そして不安げに状況を見守る、リンガー夫人、チルダさんとロゼル卿の姿があった。
 
「おはようございます。何事ですか。」
 
 素知らぬふりでオシニスさんがノイマン行政局長に尋ねた。ハディも私もこの程度の怒鳴り声なら相手が誰でも気になることはない。だがラッセル卿やチルダさん達にとっては、行政局長に喧嘩を売るかのような姉の態度に不安を募らせているのだと思う。
 
「リーザ嬢が、財産目録の作成はいつまでに終わるのかと聞かれましたので、今日いっぱいはかかるだろうと職員が答えたのですよ。そうしたら怒り出されて怒鳴られたと、こういうことです。」
 
 ノイマン行政局長も冷静だ。対するリーザは昨日よりも遙かに『気』を歪ませて、そして瞳はまるで狂人のようにぎらつき、焦点がぼやけている。昨日よりかなりおかしくなっているようだ。やはり目録作りの進捗の遅さに苛ついているらしい。
 
「姉上、落ち着いてください。家から持ち出した資料は膨大なものです。これを数人の職員の方達でまとめようとしているのですから、時間がかかるのは仕方ないのではありませんか。」
 
 リーザがラッセル卿をギロリと睨んだ。
 
「リーザ嬢、今回の財産目録作成を始める前に、私は相続人の皆さんに説明したはずですが、お聞きになっていなかったのですか?当代の男爵閣下の仮病騒ぎ、それに医師ドーンズとの関わり、不明瞭な事柄が多すぎるから、目録作りは王宮で行いますと。その時にある程度の時間がかかることも申し上げたはずですよ。その時あなたはこう仰いましたね。時間がかかっても、きちんと不明瞭な事柄について究明したいと。こちらとしても、そのつもりで目録作成をしています。今になって遅いと仰られても、困りますね。」
 
 ノイマン行政局長は穏やかな、しかし「文句は言わせんぞ」と言わんばかりの強い口調で言った。リーザはむすっとしたまま、ふん、と鼻を鳴らして椅子に座った。
 
−−≪冗談じゃないわ。わざと引き延ばして。私達をバカにしてるのかしら。≫−−
 
−−≪・・・・・・・・・・・。≫−−
 
−−≪ええ、わかっているわ、母様。こんな手には惑わされない。我が家を守るのは私よ。≫−−
 
(・・・・・・・・・。)
 
 「母様」の声は聞こえてこない。リーザは自分の中で母親と会話しているつもりのようだが、既に亡くなっているはずの母親と本当に会話出来ていると思い込んでいるのだろうか。リーザの纏う『気』は昨日よりもずっとどす黒さを増し、部屋の中にいる人達は漏れなく具合が悪そうだ。
 
「これは剣士団長殿、訓練担当官殿、クロービス先生、挨拶が遅れました。どうぞお掛けください。」
 
 ノイマン行政局長は何事もなかったように私達に振り向いたが、やはり気分がよくなさそうだった。
 
(リーザは本当に自分が家督を継ぐ気でいるみたいだな・・・。)
 
 相続人としての権利はあるが、家督を相続することは出来ない。嫡子であっても既にその権利を放棄していると言うことを、今のリーザはどこまで理解しているのだろう。だが今聞こえてきた声で、リーザがかなり時間を気にしていることがわかった。やはり男爵が目を覚ますことを警戒しているのだろう。その前に自分が家督を継いで男爵家の実権を握るつもりのようだ。
 
(でも・・・例えば男爵家を継げたとして、その後どうするのかっていうのは、やっぱりリーザの頭の中にはないような気がするな・・・。)
 
 ラッセル卿が罪に問われることによって、ガーランド男爵家が断絶するかも知れないという危機感に突き動かされているのだろうことはおおよそ察しがつく。だがラッセル卿の取り調べはまだ始まったばかりだ。今焦って無理矢理自分があとを継ぐなどと言い張ったところで、実際に認められるはずがない。今のリーザがやろうとしていることは、何の根拠もないいい加減なやり方だ。そんなことで騒ぎ立ててしまったら、それこそ本当にフロリア様の護衛に戻ることが出来なくなってしまう・・・。
 
(でもさっき見えた『記憶』から考えるに、リーザはずっと母親に寄り添ってきたと思い込んでいる。)
 
 ハディと私は昨日と同じ椅子に座った。オシニスさんは立会人としての仕事があるので、ノイマン行政局長と一緒に資料を重ねたり、行政局の職員と話をしている。私はラッセル卿に声をかけ、腕の痺れについて聞いてみた。昨日はマッサージの効果か夜まで何でもなかったらしいが、今朝は少し痺れていると言うことだった。ノイマン行政局長に許可をもらってラッセル卿の腕をマッサージし、そのまま医師会に行くことにした。少し時間は早いが、昨日と同じ部屋に行けば大丈夫だろう。
 
(あの助手のことは、どうなったんだろう・・・。)
 
 ハインツ先生も信頼していた助手だ。彼を唆したのは、やはり『あの男』なのだろうか・・・。
 
(持ち出させた薬草を何食わぬ顔で寄贈したのかな・・・。)
 
 レイナック殿もそれを疑い、相当怒っていたと聞く。
 
「お義姉様は・・・どうしてしまわれたのでしょう・・・。」
 
 リンガー夫人の声で、私は現実に引き戻された。今はラッセル卿夫妻と医師会に向かう途中だ。考えてもどうにもならないことに頭を悩ませるより、ラッセル卿の体のこと、そしてリーザの心配をするべきだ。
 
「ここ数日の間にいろいろと起こりすぎて、疲れておられるのじゃないかな・・・。私がもう少し考えて行動していれば・・・。」
 
 ラッセル卿がため息とともに言った。
 
「そんなに思い詰めないほうがいいよ。リーザのことは、ハディがよく見ていてくれるからね。」
 
「・・・ハディさんはそれで立ち会いを・・・?」
 
「そうだよ。医師会から私が君のことを頼まれた時、君のこともリーザのことも心配なのに何も出来ないのは辛いからって、フロリア様とレイナック殿に頼んでほしいとオシニスさんに言ったみたいだね。」
 
 これは予めオシニスさんとハディと私の間で取り決めしておいた話だ。ハディがガーランド男爵家の財産目録作成の席に臨席する理由としては、こう言うのが一番自然だろうと。だがあながち間違いでも嘘でもない。ハディはリーザのことを本当に心配している。
 
「そうでしたか・・・。クロービス先生、わたくしは・・・夫のことももちろん心配ですが、こうして医師会で治療を受けさせていただけることになりましたし、そこは安心しておりますの。でも義姉は・・・。あんなに優しくて、いつもわたくしのことも気にかけてくださってましたのに、どうしてあんなに冷たい目でわたくし達を睨むようなことになってしまわれたのか、それが悲しくて・・・。」
 
 リンガー夫人の言葉に嘘はなさそうだ。この話を聞く限り、リーザとラッセル卿夫妻の関係は今までずっと良好だったらしい。
 
「リンガー夫人、あまりお気に病まれないようになさってください。先ほどのノイマン局長のお話では、今日いっぱいで目録作成が終わると言うことでしたね。明日には目録が皆さんに公開されて、家督相続の話が進むと言うことだと思いますから、リーザも落ち着くと思いますよ。」
 
「だといいのですけれど・・・。」
 
 リンガー夫人がため息を吐いた時、ちょうど医師会の中に入り、階段前に着いた。上がろうとすると、上の階から足音が聞こえ、姿を現したのはタネス先生だった。
 
「ああ!クロービス先生、おはようございます!お待ちになりましたか!?」
 
「おはようございます。いいえ、ちょうど今着いたところですよ。」
 
 タネス先生は慌てて走ってきたらしい。もしかして、昨日のベルウッド先生もこの時間から私達が来るのを待っていてくれたのだろうか。
 
「そちらがラッセル卿ご夫妻ですね。タネスと申します。今日は私がご案内します。昨日と同じ部屋になりますので、さあどうぞ。」
 
 ラッセル卿夫妻はタネス先生と簡単に挨拶を交わし、私達はタネス先生について階段を上がった。そう言えばガーランド男爵の担当医はタネス先生だったはずだが、昨日部屋にいたのはベルウッド先生だった。そして今回タネス先生がラッセル卿の治療でおそらくはハインツ先生の助手を務めると言うことは、もしかして男爵についての話が出るのだろうか。
 
(昨夜のうちにレイナック殿がガーランド男爵に呪文をかけてくれたはずだから、そのことについての報告と言うことになるのかな・・・。)
 
 この件については、医師会でその話が出た場合、私は今朝オシニスさんから聞いてとても驚いたこと、元々私が"不用意に"男爵の容態をオシニスさんに漏らしたために大事になってしまったとを詫びる手はずになっている。もしも出なければ、こちらから話を出してみるつもりだ。
 
「おはようございます。どうぞお入りください。」
 
 タネス先生について3階まで上がり、昨日と同じ部屋に入った。中ではハインツ先生が既に薬の準備を終えていて、ほのかに湯気の立つ薬湯が用意されている。
 
「クロービス先生、今日もありがとうございます。さあ皆さんお掛けになってください。ラッセル卿にはまずこちらの薬を飲んでいただくことになりますが、内容については説明させていただきます。」
 
 ハインツ先生が説明してくれたところによると、基本的な薬草の組み合わせは昨日のものと同じらしいのだが、今日の薬湯にはその他に体の痺れに効く薬も入っているらしい。
 
「痺れの原因がはっきりしないのでそれほど強いものは使えませんが、クロービス先生のマッサージで外側から、こちらの薬湯で内側から治療していけば、痺れが取れるのも早くなると思いますよ。」
 
 ラッセル卿はうなずいて、薬の器を持ってゆっくりと飲み干した。
 
「苦くはないと思いますが、いかがです?もし味が苦手なら、多少は調整することも出来ます。」
 
 ハインツ先生がラッセル卿の顔を覗き込んだ。
 
「いえ、苦くないし、苦手でもないです。いろいろとお気遣いいただきありがとうございます。」
 
 ラッセル卿は頭を下げ、器を置いた。その後ハインツ先生がリンガー夫人に、ラッセル卿の普段の家での様子を聞いた。腕の痺れの原因が、薬とは関係なく生活習慣によるものであるという可能性もあるので、その辺りを聞きたくて夫人に同伴してほしかったらしい。夫人は夫人で思うところがあったらしく、ここぞとばかりにラッセル卿の家での様子をハインツ先生に訴え、もう少し何とかならないものかと、厳しく言ってくれないかと詰め寄る一幕もあった。でも2人とも笑顔で、異議申し立ての前の日に大げんかをしてラッセル卿が夫人に手を上げたなんてとても信じられないくらい、仲が良さそうだった。
 
(普段はいつもこんな感じなんだろうな・・・。)
 
 ラッセル卿は、夫人と共に温かい家庭を築いている。その家庭に邪な企みで水を差したのは他ならぬドーンズ先生だ。大事に至らなくて本当によかったと思う。
 
「それじゃ最後にマッサージをしましょう。」
 
 リンガー夫人がひとしきり思いの丈をぶちまけてすっかり気が済んだところで、私はラッセル卿のマッサージをした。昨日と同じようにゆっくりと、刺激しすぎないように揉んでいくと、ラッセル卿が少しほっとしたようにため息をついた。
 
「痺れはとれたかい?」
 
「はい、かなりよくなりました。」
 
「あとは午後だね。私は昨日と同じくらいの時間には部屋を出ると思うから、その前にもう一度マッサージしよう。」
 
 そしてハインツ先生に、ガーランド男爵家の部屋を出てからまたここに来るので、先ほどの薬についてもう少し打ち合わせをしましょうと申し入れた。本当は昨日の騒ぎの続きについても聞きたかったが、それを口に出すことは出来ない。話が終わり、あとはもう部屋を出るだけという時になって、ハインツ先生から『タネス先生からガーランド男爵についての話がある』と切り出された。
 
「父が何か・・・。あの、容態はどうなっているのでしょう。もっと早く伺うべきだったのですが、すっかり自分のことにかまけてしまって・・・。」
 
 ラッセル卿は申し訳なさそうにそう言った。
 
「いえ、入院患者について責任を持つのは我々医師ですから、ラッセル卿も大変だったようですし、その点はお気になさらず。実はですね・・・。」
 
 タネス先生は、男爵の容態が思わしくなく、今後の治療についてハインツ先生と相談してはいたが、なかなか解決策を見出せずにいたことをまず話した。
 
「ところが昨夜、レイナック様が突然おいでになりまして・・・。」
 
「レイナック様が・・・?何か不測の事態が起きたと言うことですか?」
 
 ラッセル卿が不安げに尋ねた。
 
「あ、いえいえ、そういうことではないのですが・・・。」
 
 レイナック殿が突然医師会を訪れたのは昨夜のことだった。しかも"かんかんに怒っていた"ということだ。その理由は、私が男爵の容態が思わしくないことをオシニスさんに話し、それを聞いたレイナック殿が『ドーンズと謀って男爵家の家督相続を散々かき回しておいて、そう簡単に死なせんぞ!死出の旅から引きずり戻してやるわ!』ということだった。私はここですかさず『うわ、まずい』と言いたげに顔をゆがめ、片手で顔を覆って見せた。
 
「申し訳ありません・・・。私が不用意に男爵の状態をオシニスさんに話してしまったばかりに・・・。」
 
 演技が下手だというのはよく言われるが、それでもここは頑張らなければならない。
 
「クロービス先生がお気になさる必要はありませんよ。先生のお立場からしたら当然のことでしょう。」
 
 ハインツ先生が労るように言ってくれた。
 
「昨日男爵のところに様子を見に伺ったのは全くの偶然だったんです。ドーンズ先生の供述書を待っていたために本格的な治療を開始するのが遅くなったと言う話は以前伺ってましたから、今どういう状態なのかと言うのが気になりまして。」
 
 この話自体は嘘ではない。私が男爵の病室を訪れたのは全くの偶然だ。そしてその時の話を、昨日の夕方オシニスさんと話している時に何気なく口に出してしまった。オシニスさんとしては聞いた話は報告しないわけには行かない、そこで私の話をレイナック殿に話したところ怒り出したと、その話を今朝聞いたのだと言った。
 
「いや驚きましたよ。レイナック殿は以前から男爵のことで怒っておられましたが、いきなり医師会に怒鳴り込むとは・・・。」
 
「でもそれがよかったのではないかと思います。おかげで、ガーランド男爵様は危機を脱しましたからね。」
 
 タネス先生が言った。
 
「とは言え私も驚きました。昨日は打ち合わせで午後から夕方まで留守にしていたのです。ベルウッド先生に後を任せていましたが、おかげでベルウッド先生がとばっちりでレイナック殿に怒られてしまったようで、申し訳なかったです。」
 
 タネス先生は困り果てたようにため息をついた。
 
「危機を脱したと言うことは、目を覚ましたのですか?」
 
 ラッセル卿が尋ねた。
 
「いや、残念ながらそこまでは・・・。体が相当衰弱していますから、呪文の力で無理に起こしたりすると、体が耐えきれずかえって弱ってしまう可能性もあるんです。レイナック様もそれはご存じのようでしたので、もう少し薬が効く程度の弱い呪文を使ってくださいました。ご存じかと思いますが、レイナック様の法力は通常の治療術とは違います。どういう系統の呪文なのかはわからないのですが男爵様を覆う『気』は、以前より大分強くなりましたよ。」
 
 医師会でも、レイナック殿の呪文の力についてはある程度知られているらしい。礼拝堂や神殿については、知られているようで実は案外謎の部分が多い。最高神官として会得できる呪文と言われれば、そう言うものなのかと誰もが思うのだろう。もっとも、医師会だって治療術が使える医師や看護師はたくさんいる。それを考えると、たとえ通常の治療術とは異なる系統の呪文だと知っていても、口外してはならないと言うことなのかもしれない。
 
(私が詮索する必要はないよな・・・。)
 
 その呪文の正体を知っているならなおさら、謎は謎のままにしておくのがいいのだろう。
 
「そうですか・・・。それではこれからはよくなっていくと考えていいのでしょうか。」
 
「ええ、それは大丈夫です。あとはご家族の方達にもお見舞いに来ていただけるといいんですが。ご家族の祈りも、病人の回復には無視できない効果を持つものですからね。今はお忙しいでしょうから、時間が取れるようになったらでかまいませんよ。」

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