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「どういうことだ!?」
 
 ハインツ先生の声。部屋の中から聞こえてくる。かなり怒っているようだがどうしたんだろう。誰に対しても声を荒げるなんてこと、ほとんどない人なのに。
 
「い、いや・・・その・・・。」
 
 この声には聞き覚えがないが、この部屋の中にいるなら助手の1人だろうか。かなり戸惑っているというか、不安げな『気』が扉の隙間から流れ出てくる。
 
「おい、本当なのか!?」
 
 別な声が聞こえた。
 
「あ、これは、その、だから・・・。」
 
 次の瞬間扉がバーンと開き、若い助手が飛び出してきたのだが、運が悪くと言うべきか、私にまともにぶつかってしまった。私は咄嗟に彼の腕を掴み、後ろにねじ上げた。
 
「いてててて!何すんだ!?」
 
「君が逃げないでくれれば、私もこんなことをしなくていいんだけどね。」
 
 開いた扉から、何人かの人が飛び出してきた。
 
「ああ!?クロービス先生、ありがとうございます!」
 
 ハインツ先生が駆け寄ってきた。その後ろで『王国剣士を呼んできます!』と言って駆け出していく別な助手がいる。
 
「何事ですか?」
 
 ふと・・・ハインツ先生は暗い表情になった。
 
「薬草を無断で持ち出したのがその男ですよ・・・。」
 
 
 その後駆けつけた王国剣士に、助手は連れて行かれた。行き先は牢獄の取調室だ。町中でつかまった犯罪者ならまずは詰所に連れて行かれるが、王宮の中には取調室や詰所なんてない。フロリア様がいらっしゃる、そして政治の中枢が置かれている王宮に犯罪者を連れてくるわけにはいかない。そもそも、王宮内で犯罪者が捕まるなんてことがあってはならないのだが、クリフの手術の時のサビーネ看護婦といい、ここから牢獄に犯罪者が連れて行かれるという事態が、最近立て続けに起きている。今はまだ祭りの喧噪が続いているが、それが落ち着けばオシニスさんの責任問題として、御前会議で追及されるのだろう。
 
「しかし今までわからなかったのに突然どうしたんでしょうね。」
 
 ハインツ先生に尋ねた。
 
「あの男はうちの助手の中でもリーダー的な存在なんです。真面目で手際もよく、私も随分助けられていました。彼も医師を目指しているのですが試験にはなかなか合格することが出来なかったんですよ。それでも頑張って勉強していたはずだったんですが・・・。」
 
 少し前から、他の助手達に対して彼が不遜な態度を取るようになってきた。ハインツ先生に対してはごく普通に接しているのだが、それでも以前とは違う、言葉の端々に相手を見下したような態度が現れることがあったらしい。
 
「それで・・・薬草庫の鍵を勝手に持ち出したんですか。」
 
「誰かに頼まれたらしいですね。しかもその相手は『君に鍵を預けることをハインツ先生は了承している』と言ったとか。全くばかげてますよ。それが何者か知らないのに、そんな言葉を簡単に信じるなんて・・・。」
 
 その言葉を信じて、以前から薬草庫に1人で入り、その何者かが指定した薬草を持ち出していた。今までは誰にも見られずうまく行っていたのだが、今回はたまたま別な助手がその姿を見咎めて尋ねたのだという。
 
『どうして1人なんですか?ハインツ先生は立ち会われていないんですか?』
 
 そしてその男は、自分はハインツ先生に鍵を任されていると言ったらしいのだが、見咎めた助手はそれを信じなかった。そしてハインツ先生に話が伝わり、先ほどの怒鳴り声となったと言うわけだ。
 
「先日の薬草紛失以来、何があっても私の立ち会いなしに薬草庫に入ってはいけないという話を私が直接しているんですから、もう少しおかしいと思ってもいいはずなんですがねぇ。」
 
「彼は元々真面目な方ですか?」
 
「ええ、今まではね・・・。」
 
「そんな人物が変わってしまうのは、その何者かの入れ知恵とみてもいいかもしれませんね。」
 
「そうですね・・・。いったい誰がそんなことを・・・。」
 
「うーん・・・。もしかして・・・医師の試験についても何か言われたのかもしれませんよ?」
 
 ハインツ先生がぎょっとして私を見た。
 
「まさか・・・次回は合格させてやるとか・・・。」
 
「元々真面目な人物なら、素性も知らない相手の言葉をそう簡単には信じないでしょう。でも、相手が大きな権力を持っている存在だと信じ込まされてしまったら、ハインツ先生が言ったという言葉も真実だと信じてしまうかも知れません。・・・まずは取り調べを待ちましょう。ドゥルーガー会長には報告した方が良さそうですよね。」
 
 ハインツ先生は大きなため息をついた。
 
「そうですね・・・。あれ、クロービス先生は何かご用だったんですか?」
 
「ラッセル卿の件で伺ったのですが、それは明日にしましょう。今日は仕事にならないかもしれませんね・・・。」
 
「まったくです。では私は失礼して、会長と話をしてきます。また明日にでもおいでください。」
 
 ハインツ先生は部屋に戻って他の助手達に指示を出してから会長室に向かった。私は彼の背中を見送って医師会からロビーへ向かう通路を歩き出した。
 
「そういえば・・・。」
 
 ここ最近忙しくて、研究棟の部屋に足を運んでいない。オーリスもライロフも丁寧に使ってくれているだろうけれど、責任者は私なのだから時々様子を見に行くべきだろう、それにあの部屋には薬草学の本がある。いろいろ調べてみれば、今回のラッセル卿の症状について、何かしらのヒントが得られるかも知れない、そう考え、私は来た道を戻り、研究棟に足を向けた。
 
「失礼するよ。」
 
 扉をノックして中に入ると、オーリスとライロフが机の上に本を広げているところだった。
 
「あ、先生、ご無沙汰してます。」
 
「今日はどうされました?」
 
 2人とも私を見ても驚いたりすることなく、迎え入れてくれた。
 
「少し調べたいことがあったんだけど、君達は?もしも手伝ってもらえるなら助かるんだけどどうだろう。」
 
 私はアキジオンについて調べていることを伝え、まだ正体がよくわからないその植物について、噂でも何でもいいから知っていることを教えてくれるよう頼んだ。こういうことは、噂として伝わっている話の中に真実が含まれている場合もある。
 
「アキジオンですか・・・。あれは厄介なんですよね・・・。薬草取りの人達が時々間違えて取ってくるので、見てあげることが多いんです。」
 
「うちのばあちゃんが薬草取ってきたって言うから見てあげたら、ハルジオンとアキジオンを間違ってたんです。最初は僕も気づかなかったんですけど、何か匂いがおかしいなあと思ってよく見たら、違う物でした。」
 
 薬草取りの人達は、たいていの場合ハルジオンもアキジオンも一緒くたに取ることが多い。花の咲く時期は違うが、薬草としては花が咲いていてもいなくても問題はない。だから『まだ花が咲いているハルジオン』だと思い込んで一緒に取ってしまうらしい。だからいつもよく見てあげて、アキジオンが混ざっていた場合はそれだけをより分けて預かり、その都度ハインツ先生に渡していたのだという。ということは、この2人はあの似たような植物をしっかりと見分けることが出来ると言うことだ。そこで私は、アキジオンについて、何か知っていることがあれば教えてくれるように頼んだ。何といっても正体が未だはっきりとしない植物だ。情報は多いほうがいい。
 
 しばらく2人にいろいろと教えてもらい、私は研究棟をあとにした。民間伝承もいろいろと教えてもらえた。北の島とはまた違う伝承があって、本当に勉強になった。それとハルジオンと間違えて食べてしまったり煮出して飲んでしまったりと言う人がそこそこいて、その人達の症状なども詳しく教えてもらえた。
 
「いやこれは大収穫だな。かなりいい情報が集まったよ。2人ともありがとう。」
 
「とんでもない。お役に立てたなら何よりです。もしもまた何か聞いたらメモしておきます。」
 
「頼むよ。まだまだ未知の植物だからね。情報は多い方がいいんだ。何かわかったことがあればまた教えてくれるとありがたいよ。」
 
 未知の植物はたくさん見つかっている。だがアキジオンほど広範囲に自制しているものはそんなにない。この植物の謎を解明するのは喫緊の課題なのだ。
 
「うわあ、もうそろそろ夕方か・・・。」
 
 窓から差し込む光がオレンジ色になってきた。イノージェン達は一度戻ってくると思う。ガーランド男爵家の財産目録の作成も、今日の分は終わるだろう。あの部屋はまた鍵をかけて、おそらく王国剣士が見張りに立つのだろうけど、リーザはまたあの部屋にやってくるのだろうか。
 
(・・・・・・・・・。)
 
 あの部屋に持って来たという資料の中には、男爵の部屋にあったものがかなり含まれているはずだ。その資料はラッセル卿も見たことがないと言っていた。当然、リーザも、そして男爵夫人も見たことはないと思う。自分の家の中にあった頃には自由に見ることが出来たものが、目の前にあるのにさわってはいけないと言われるのは納得行かない、それは理解できる。だとしても、今は勝手に見てはいけないものだ。
 
 ふと思い立って、ガーランド男爵の部屋に行ってみた。今回の騒動の元凶とも言うべき人物だ。病室の中にはベルウッド先生と若い助手らしき男性がいて、洗った薬の器を拭いているところだった。
 
「男爵の容態はどうですか?」
 
 ベルウッド先生は暗い顔で首を横に振った。
 
「生きてる方が不思議なくらいですよ。ここ数日はご息女の護衛殿もいらっしゃらないので、助手の中で気付けが使える者に頼んで薬だけは飲ませているんですが、飲ませても飲ませても、顔色が一向によくなりません。」
 
 話している間に助手は一礼して部屋を出て行ったのだが、その助手が気付けで男爵を起こしてくれているらしい。私は男爵の顔を覗き込んだ。男爵の顔は土気色になって、息をしているのが不思議なくらいだ。薬のせいで体力が落ちている場合、呪文も効かない。効く呪文があるとすれば、レイナック殿、フロリア様の使える古代サクリフィアの呪文だけかも知れない。
 
(あとは・・・アクアさんに教えてもらった呪文の中に、多分効きそうなのはあるけど・・・。)
 
 それを私が独断で使うことは出来ないし、今回の場合、私ではなく別の人物に出向いてもらうほうがいいような気がする。夕方オシニスさんの部屋に行った時にでも、聞いてみよう。何も全快復するほど強い呪文はいらない。せめて少しでも寿命が延ばせれば、あとは薬の効果で命をつなぎ止めることは出来るだろう。ただ・・・。
 
(ハインツ先生がどう考えるか、だな・・・。)
 
 患者の命がかかっている状態でそれはだめだと言うことはないだろうが・・・。
 
(でももしも、ここに私がいない状況で同じことが起きたなら、ガーランド男爵は亡くなる運命にあるのかも知れないし・・・。)
 
 思わずため息が出た。私が1人で考えても結論は出ない。ロビーに戻って妻達を待つことにした。ロビーの人混みも一段落だろうか。以前のように立錐の余地もないほどの混雑にはなっていない。もっとももう夕方だ。みんな夜の祭りを見に行ったり、食事に出掛ける頃合いだろう。
 
「クロービス!」
 
 妻の声だ。手を振りながら歩いてくる。イノージェン達も後ろにいる。
 
「楽しかったあ。ずっと待ってたの?」
 
「いや、今来たところだよ。まずはイノージェン達に話があるから、君達の泊まっている部屋に行かないか。」
 
「そうね。そこで話した方がいいわよね。」
 
 5人で東翼の宿泊所に戻ってきた。部屋に入って扉を閉めた。
 
「聞かれることはないと思うけど、僕がここで外に注意しておくよ。」
 
 ライラはそう言って、扉の近くに椅子を持っていって座った。全員が椅子に座ったところで、私はラッセル卿に頼まれた話をした。
 
「・・・・・・・・・。」
 
 イノージェンはしばらく黙っていた。イルサとライラも黙っている。ここで口を挟むべきではないと、2人ともわかっているのだ。
 
「ラッセル卿という方は、本当は真面目で物静かだってあなたに聞いたけど、私は信じられなかったのよね。でも、そんな話をあなたにするって言うことは、本当にそう言う方なのかも知れないわね。」
 
「本当にそう言う人なんだけど、君が信じられない気持ちはわかるよ。」
 
 いきなり殺されるところだったのだ。そう考えるのが普通だろう。
 
「それで、私の返事は必要なの?」
 
「いや、ただ謝っておいてくれとだけ。彼は今回自分がしでかしたことを、全て認めて罪を償うと言っていたから、君が許してくれるとは思っていないだろうし、許してもらう気もないと思うよ。」
 
「そう・・・。正直なところ、まだ謝罪を受け入れる気にはならないわ。でもね、この間のランサル子爵家のお茶会はとても楽しかったの。チルダさんとは今後いい関係を築いて行けそうだし、いずれ時が来たら、それがいつかはわからなくても、私がその謝罪を受け入れてもいいと思える日が来たら、親族としてではなく、友人として交流が出来るかも知れない。」
 
「ランサル子爵家のお茶会の話はまだリーザもラッセル卿も知らないことだから、いずれ時が来たら、のところからなら、ラッセル卿に話してもいいかな。」
 
「ええ、いいわよ。」
 
「もっともタイミングとしては、財産目録の作成が終わって、相続についての話し合いに決着がついてからになると思うけどね。今のところ私はラッセル卿の容態を診るために医師会から派遣されている医師という立場だから、なかなかそう言う話をする機会はないかもしれないんだよね。明日からはリンガー夫人も医師会に一緒に行くって言うし、2人で話す機会はないと思う。」
 
「私はあんなことがあったとは言え、人の不幸を願うほど心が荒んでいるわけではないわ。謝罪を受け入れる気にはなれないけど、ラッセル卿の罪が軽くてすむように祈ってるわよ。もしもそのことで減刑嘆願とか出来るなら、それについては協力するわ。」
 
「そうか・・・。その話は多分王宮内での取り調べが終わって、牢獄の審問官に権限が移ってからの話になるから、もう少し先かも知れないね。まずはオシニスさんに話しておくよ。」
 
「ええ、よろしくね。」
 
「それじゃ私はオシニスさんとハディと打ち合わせがあるから、これから剣士団長室に行ってくるよ。」
 
「夕食はどうする?」
 
 妻が尋ねた。
 
「宿で食べようと思ってるけど、もしもイノージェン達と一緒にどこかに出掛けるなら、行ってきてもいいよ。それぞれで宿に戻ることにしてもいいし。」
 
「ねえ、その『我が故郷亭』のフロアって食事も出来るのよね。」
 
「出来るけど今の時期はまだまだ酔っ払いが多いよ。」
 
「私食べたことあったっけ?」
 
 イノージェンに尋ねられて考えてみたが・・・。
 
「どうだったかなあ。なかったかもしれない。」
 
「そうよね。私も覚えがないもの。城下町に来てからいろんなところで食事したけど、あなた達の泊まっている宿の食事って言うのは盲点だったわ。一度は食べてみたいわね。」
 
「ねえ、それならみんなで宿に戻って食事しない?」
 
 妻が言った。
 
「いいの?」
 
 イノージェンが尋ねた。
 
「いいに決まってるでしょ。あの宿の食事はおいしいのよ。ぜひあなたにも食べてほしいわ。ねえクロービス、私達は先に宿に戻って待ってましょうか?あなたが戻ってきたら食事を頼むようにすれば、みんなで食事が出来るわ。」
 
「それはいいけど、ライラとイルサは?お腹空いてるんじゃない?」
 
「あら、私は大丈夫よ。さっきお祭りを見ながらいろいろ食べたから、まだそんなにお腹空いてないのよね。」
 
 イルサはけろりとして言う。その後ろでライラが肩をすくめていた。
 
「・・・セーラズカフェであれだけ食べて、また食べたのか・・・。」
 
 思わずつぶやいた。
 
「ふふふ、そういうこと。それじゃ宿に戻ってるわ。フロアが空いてなかったら部屋に通しちゃっていい?」
 
 妻の言葉から察するに、みんなでそれなりに祭りの食べ物を楽しんだらしい。
 
「いいよ。多分下着は放り出して来なかったと思うけど。」
 
 みんなが笑い出した。
 
「それじゃ私が一番に入って、あなたの下着が落ちてないか確認してからみんなを部屋に入れるわ。」
 
 妻が笑いながら言った。東翼の宿泊所からロビーに出て、そこで私は剣士団長室へ、妻とイノージェン達は外に向かった。
 
 
 剣士団長室のカウンターを見るとランドさんが帰り支度をしている。
 
「お疲れさまです。」
 
 声をかけた私にランドさんはにやりと笑った。
 
「今日は夜の祭りを少し見物に行く予定なんだ。子供達はもう親と一緒になんて歩いてくれないから、久しぶりにパティとデートさ。」
 
「へえ、それは楽しんできてくださいね。」
 
「ああ、もちろんだ。オシニスなら部屋にいるぜ。さっき帰ってきたばかりだ。ハディも一緒だったけど、なんだか2人とも複雑な顔してたなあ。」
 
「笑顔になれそうな要素はないと思いますよ。」
 
 ランドさんはため息をついた。
 
「お前が来たら打ち合わせをするから部屋に通してくれって言われたけど、なんだか面倒なことになってるっていうのはわかる。うまくいい方向に行くといいんだが、なかなか難しそうだなあ。」
 
「そうですね。いい方向に行けるように、私も出来る限りの事はしますよ。」
 
「ああ、よろしく頼む。俺のほうでは動けそうにないからな。」
 
 
 ランドさんを見送って、私は剣士団長室の扉をノックした。ハディが開けてくれて、中に入ると扉をぴたりと閉めた。誰かがそこにいないか、私が気をつけておくのが一番いいだろう。
 
「お疲れさまでした。リーザはあのあとどうでした?」
 
 椅子に座りながら尋ねた。オシニスさんはお茶を淹れに立ち上がっている。
 
「薄気味悪いくらい静かだったよ。」
 
 いささか忌々しげにハディが言った。
 
「ああ、昼に無理矢理あの部屋に突撃しようとしたことなんて、憶えてないみたいにな。」
 
 オシニスさんは言いながら、私の前にお茶を置いてくれた。
 
「全く、あいつは何考えてるんだよ。そんなバカなことをして、ただで済むわけがないことなんて、少し考えればわかることなのに。」
 
 ハディが思案気に腕を組んで、ため息をつきながら言った。
 
「これはあくまでも推測なんだけどね・・・。」
 
 私はさっき考えていたことを話した。リーザが知らないこと、男爵夫人も知らないままだったであろう、父親の部屋にあった財務資料について、リーザ自身が知りたかったのではないかと・・・。
 
「もっとも、オーソン伯爵家から男爵夫人にお金が送られていたことを、リーザが知っていたかどうかはわからないけどね。」
 
「・・・知っている可能性はあるかもな。」
 
 ハディが独り言のようにつぶやいた。
 
「心当たりがあるってこと?」
 
「ああ、もちろん俺も実際にそう言う話を聞いたわけじゃない。ただお袋さんが亡くなった時、リーザは葬式の準備をラッセルと一緒にやるからって何日か休みを取ったんだ。その時は親父さんは元気だったから、親父さんの部屋には入れなかっただろうけど、お袋さんの部屋で遺品整理をするって言ってた。だからもしかしたら、リーザはその時お袋さんの部屋にあっただろう手紙とかを見たのかも知れない。ずっと嫌っていたとしても、母娘だからな。お袋さんのことが、その時になって初めて気の毒だと思ったのかも知れないな。」
 
「となると、そこから少しずつお袋さんに同情するようになって、おかしくなっちまったという可能性はあるのかなあ。」
 
 オシニスさんはそう言いながら首を傾げている。
 
「かもしれませんが、本格的におかしくなったのは、やっぱり異議申し立ての時からでしょうね。お母さんが亡くなったとしても、その当時男爵本人は元気だったし、ラッセル卿もいるし、ガーランド男爵家の存続は問題なかったはずですから。」
 
「つまり、あの出来事が直接のきっかけになったと言うことか・・・。」
 
「リーザがおかしくなった背景はその辺りではないかと思います。それより、もっと喫緊の事態があるんですが・・・。」
 
 私はガーランド男爵の命が危なくなりそうだという話をした。
 
「倒れたあと、薬はリーザの気功か医師会の助手の気付けで起こして、何とか飲ませているそうです。牢獄からドーンズ先生の供述書が届いてから、本格的な治療を行えるようになりましたが、いささか遅かったかも知れません。今は生きているのが不思議なくらいです。顔は土気色だし、かろうじて呼吸をしているという状態です。」
 
「・・・なんとかなる可能性は全くないのか?」
 
 オシニスさんが難しい顔で言った。
 
「なくはないですが、私が独断で出来ることではないので、その話を相談したいんですが。」
 
「・・・つまり、あまり人には言えない方法でってことだな?」
 
「・・・そういうことになりますね。」
 
 オシニスさんは気づいたらしい。
 
「クロービス、お前の呪文か?精霊の長から教わったって言う。」
 
 ハディも気がついたようだ。
 
「それを使うべきかと思ったんだけど、今回はレイナック殿に出向いてもらうのが一番いいのかなって思うんだ。今回のガーランド男爵家の件は既に醜聞として貴族達の間に広まり始めている。レイナック殿は男爵に再三隠居して息子に家督を譲れと言っているのに、家督相続が行われる気配がなかった。そのうちに婚外子であるイノージェンの存在がわかって、イノージェンを無理矢理にでも相続人として加えるために男爵がドーンズ先生と結託してとんでもないことを企んでいたことも明らかになった。レイナック殿が怒っていることも、もう噂として広まっているよね。今ここで男爵を死なせるわけにはいかないと、おそらくレイナック殿も考えていると思う。オシニスさん、いかがです?」
 
「ああ、全くその通りだ。そう簡単に死なせん!て青筋立てて怒っていたからな。明日の朝、俺から頼んでみる。完全回復させたほうがいいのか?」
 
「それはやめたほうがいいでしょう。今起き出されるといろいろと都合が悪い。もっとも体力がゼロに近いくらい衰弱していますから、そう簡単に動き出すことは出来ないでしょうけど。ですから目を覚ますほどではなく、もう少し薬の効果が出る程度まで快復させていただきたいんですよ。今のままではいつ心臓が止まってもおかしくないくらいですから。」
 
「明日の朝まで持つのか?」
 
「薬を飲ませていますから、今日明日までは緊迫していないと思いますが、早いほうがいいとは思います。」
 
「そうか・・・。それじゃこれから行くか。その前に、リーザのことで少し打ち合わせをしよう。あいつはあいつで厄介な状態だからな。」
 
「とにかく今のままでは、本格的に心を病んでしまう可能性があります。リーザは母親と会話しているつもりのようですが、あれは全て強力な自己暗示です。その暗示を解かなければなりません。と言っても、今のところ効果がありそうな手立てはないんですけどね・・・。」
 
 迂闊に自己暗示をぶち破るようなことをすれば、リーザの精神が崩壊する危険性もある。こういうタイプの患者には、根気よく接して暗示の根源を探し当て、少しずつほどいていくのが大事なのだが、そこまでの時間があるかどうかだ。
 
「そうなんだよな・・・。あ、そう言えば、さっきノイマン局長から聞いたんだが、オーソン伯爵家からの聞き取り調査が終わったらしい。もちろんまだ俺は内容を知らないがな。あと男爵家の領地運営に関しても、金の流れがだいたい掴めたそうだ。だから明日一日かけてガーランド男爵家の財務資料を完成させて、明後日に相続人達に公開するって話だ。」
 
「つまりオーソン伯爵家からの送金のことも、男爵が領地からの上がりを横領していたことも、全て話されるというわけですね・・・。」
 
 そう言った私の隣で、ハディが頭を抱えてため息をついた。
 
「ラッセルの奴・・・辛いだろうなあ・・・。一生懸命領地運営を頑張っているのに・・・。」
 
「そこは怒っていいと思うんだけど、ラッセル卿のことだから、これも全て自分の罪だとか言いかねないね・・・。」
 
「そうなんだよ。どうも最近は自分は悪いことをしたんだから仕方ないと、何もかも諦めたようなことを言うんだよな・・・。」
 
 ハディにとってラッセル卿はもう弟なんだろう。少なくともリーザと恋人関係にあった頃は、ラッセル卿ともチルダさんともいい関係を築けていたようだ。そしてそれは今も続いている。その流れを断ち切ろうとしているのは他ならぬリーザだ。
 
「そうだ、ガーランド男爵家の相続とは特に関係がありませんが、ラッセル卿からちょっとした頼まれごとをしたので、報告だけしておきます。」
 
 私はラッセル卿がイノージェンに謝罪を申し入れたことを話した。そしてイノージェンが答えた話も。
 
「殺されそうになったのに『はいそうですか』とは言えないイノージェンの気持ちはわかるので、いずれラッセル卿と話す機会があれば、その答えをそのまま伝えるつもりです。」
 
「そうか・・・。心に留めておくことにするよ。被害に遭ったのはイノージェンさんだからな。こちらとしては、イノージェンさんの気の済むようにしてもらっていいと思ってる。」
 
「いい人だなあ。相続人にならなかったのは残念だけど、今後も交流は出来るといいな。」
 
 ハディが感心している。
 
「チルダさんとは友人になれたようだし、ラッセル卿ともいずれはいい関係を築けるかもしれないよ。でも今はまだ、異議申し立ての時の騒動からいくらも過ぎていないからね。イノージェンの気持ちが落ち着くのを待つのがいいと思うんだ。」
 
「そうだよな・・・。それに、そう言う話になる前に、リーザをなんとかしないとな・・・。」
 
 リーザのことは、今日一日でわかったことを3人で共有出来たと言うだけで、特に何か有効な手を打てるわけではない。でもこの日はこれで解散となった。オシニスさんはレイナック殿にガーランド男爵のことを頼みに、ハディはラッセル卿とチルダさんについていることになった。リーザが何をやらかすかわからないからだ。
 
「それじゃオシニスさん、私からガーランド男爵の容態が思わしくないという話を聞いて、レイナック殿がそう簡単に死なせないと怒って出向いたと言うことにしておいてください。私が何か頼んだと思われるのは困りますからね。」
 
「ああ、それは心配するな。あのタヌキじじいに任せておけば、完璧に演技してくれるさ。」
 
 確かに私がそんな心配をする必要はなさそうにも思える。レイナック殿なら絶対にうまくやるだろう。明日の午前中の再会を約束して、私は剣士団長室を出た。ロビーまで来たが大分人混みは解消されている。
 
(相続人から外れたせいなのかどうか、ラッセル卿はイノージェンを受け入れつつあるような気がするな・・・。)
 
 イノージェンはもうガーランド男爵家とは縁が切れた。血の繋がりは消せなくても、もうそんなことに拘泥する必要はない。これからは単なる知人として、交流とまでは行かなくても会えば軽く挨拶するくらいの間柄にはなれるんじゃないだろうか。もっとも、イノージェンのほうはそこまで割り切ることはなかなか出来ないだろうけど。
 
 
 私は王宮を出て宿に向かった。以前のように人混みに流されないよう必死で前に向かって歩いていたような、そんな大変さはもうない。もちろん混んでいるし酔っ払いは相変わらず騒いでいるが。
 
(そろそろ祭りも終わるか・・・。ライラと約束したし、ハース鉱山でナイト輝石の試験採掘を見学したいな・・・。)
 
 今回の旅で全て決着をつけようと、妻と話して島を出た。だが思った以上に城下町に長逗留することになってしまった。しかもあの脅迫状の件といい、解決していないことはたくさんある。
 
(どこかで線を引いて、手を引くしかないか・・・。)
 
 だがどうしても解決したいこともある。それはセディンさんとシャロンが巻き込まれているであろう、麻薬の件だ。そのことも、やっと処方箋を書いたのがドーンズ先生であることを突き止めることが出来た。それにサビーネ看護婦の件もある。黙秘を続けていると言う話を聞いたのはあの事件のすぐ後だが、いまでも同じようにだんまりを決め込んでいるとしたら、やはり彼女の経歴から当たっていくしかない。医師会で起きた事件だし、私達も関わっている。薬草の無断持ち出しだってやっと最近になって、犯人がわかったばかりだ。
 
「参ったなあ・・・。全部解決するまではさすがにここにいられないし。」
 
 ブロムおじさんのことが心配になる。腕を疑う必要はないが、年齢については気になる。元気ならいいのだが・・・。
 
(もっとも・・・そんな心配をしてるなんて知られたら、叱られるのが落ちだろうけどね。)
 
 おじさんが私達のほうを心配しているのは間違いない。アキジオンの研究資料もそろそろ届くだろう。おじさんのことだ、医師会との交流についても、どうしているか心配してくれているかも知れない。
 
 
 宿に戻ると、やはり賑やかだった。ラドに妻達のことを尋ねると、部屋に行っているという話だ。
 
「ここは相変わらずうるさいからな。ゆっくり話をするなら部屋のほうがいいって言ったんだ。あんたが戻ってきたら食事を出すことになっているから、もう少し待ってくれと伝えてくれないか。」
 
「わかった。よろしく頼むよ。」
 
 
 部屋に戻ると、賑やかな話し声が聞こえてくる。
 
「あらお帰りなさい。」
 
「下でマスターに会った?」
 
 妻とイノージェンが話しかけてきた。
 
「ラドに会ったから、食事を出してくれるように頼んできたよ。少し待ってくれって。」
 
「わあ、楽しみ。」
 
 子供達とは一度ここで食事をしたような気がするが、イノージェンとは初めてだ。一番楽しみにしているらしい。
 
「ねえクロービス、話し合いの内容は聞かせてもらえないの?」
 
 妻が尋ねた。
 
「話し合いってさっきのオシニスさん達との?」
 
「そう。話せることだけでいいから、教えてもらえないのかなと思って。」
 
 妻がこんなことを言い出すと言うことは、イノージェンも子供達も気にしていたのだろう。相続云々の問題ではなく、ラッセル卿の体の心配をしていたのだと思う。いくら自分に危害を加えようとしたとは言え、どんな酷い目に遭っても何とも思わないと思うほど、イノージェンも子供達も冷酷な人間ではない。
 
「そうだなあ・・・。ラッセル卿の体調は、今のところ心配するほどのことはないんだよ。ただし、あの「ハーブティ」の影響がこれで終わりなのか、まだ何か起きる可能性があるのか、あのお茶の中に含まれていたいろいろな成分を分析してみた結果、まだ結論を出すことは出来ないってことになったんだ。でもね、今日はラッセル卿がちゃんと医師会に行って診察を受けてくれたんだよ。それにハインツ先生の依頼で、明日はリンガー夫人と一緒に行くことになっているんだ。だから明日は普段の家の中でのことも教えてもらって、また有効な手が打てるだろうと思ってるよ。」
 
 話せることと言えばこのくらいだ。腕の痺れまで言う必要はないだろう。それにリーザのことは何も言うわけにはいかない。イノージェンが気にしていたのはラッセル卿のほうだろうから、これで納得してもらえるだろう。リーザのことはあとで妻に少しだけ話しておこう。
 
「それならよかったわ。あんなに思い詰めてしまうほど家のことが大事だったんでしょうに、体を壊してしまったら家の存続も危うくなってしまうでしょう?それは気の毒だなと思っていたから。」
 
 イノージェンがほっとしたように言った。
 
「母さんも人がいいのね。そりゃいくら何でも相手に死んでほしいなんて思うわけじゃないけど、多少痛い目に遭えばいいのにって、私は思っちゃったわよ。」
 
 イルサが口をへの字に曲げている。
 
「僕もそれについては同意見だな。先生達が一緒だったからよかったものの、母さんを殺そうとしたのは間違いなくそのラッセル卿の意思なんだから、少しくらい痛い目に遭えばいいのにって思っても、罰は当たらないと思うよ。」
 
 ライラもイノージェンの意見についてはあまり面白くなさそうだ。
 
「母さんを襲って失敗したあと、リーザさんがラッセル卿を麻痺させてくれたんだけど、そのあと意識を失って一時はかなり危ない状況だったって聞いたわよ。それでもう充分『痛い目』には遭ったでしょうよ。母さんはね、どんな人のことも不幸になってほしいなんて考えたくないのよ。でもまあ、あなた達がそう言ってくれるのはちょっとだけ嬉しいけどね。」
 
『どんな人のことも不幸になってほしいなんて考えたくない』
 
 昔イノージェンの母さんが、サンドラさんに言っていたのを聞いたことがある。
 
 
『あんただってあのじじいと軟弱息子のことなんて、酷い目に遭えばいいと思うだろう?』
 
 サンドラさんがそんな話をしているところに偶然行き合わせたのだ。あの時は確か、父に頼まれて何かの薬を届けに行ったときのことだ。2人は私に気づかず話し続ける。
 
『そんなこと思わないわよ。そりゃ悔しかったけど・・・かわいい娘を授かったのはあの方のおかげだし、先代の男爵様が雇ってくれたのがあなただったおかげで、私は娘共々ここで元気に暮らせているんだから。私はね、どんな人でも不幸になんてなってほしくはないの。』
 
『全くお人好しだねぇ・・・。』
 
 すっかり盗み聞きになってしまったので、私はワザと大きな声で『サンドラさん、いますか?』と声をかけた。慌てたように足音が聞こえ、サンドラさんが顔を出した・・・。
 
 
 あの時のイノージェンの母さんの言葉は、先代の男爵が自分を殺そうとしていたことを知っていたと言うことだろう。だが刺客として雇ったのがサンドラさんだったことで、島に渡って子供を産むことが出来た。そして助産婦としての仕事を得て、島で穏やかに暮らしていくことが出来た。今考えれば、その時も男爵からのお金と手紙は送られ続けていたんだろうけども。
 
 
「失礼します。お食事をお持ちしました。」
 
 扉がノックされて、ロージーとノルティが顔を出した。2人でテーブルに料理を並べてくれる。どれも湯気が立っておいしそうだ。
 
「うわあ、本当に出来立てだわ。」
 
 イノージェンが声を上げた。
 
「さっきクロービスさんが帰ってこられてからすぐに調理したんです。下ごしらえは終わってましたから。」
 
 ノルティが笑顔で話してくれた。
 
「今日は君の出番はないの?」
 
「ええ、僕は明日です。」
 
 私の問いに答えたノルティに、イルサが『え?』という顔をした。
 
「先生、出番て何の?」
 
 私は南門を出たところの一等地に建てられている、演劇学校の芝居小屋に彼が出演しているという話をした。
 
「えー!?あのお芝居の、しかもあの有名なシーンに出てるんですか?」
 
「はい。何人かで交代しながらなので、毎日出ているわけではないですけど。見に来てくださった方なんですね。ありがとうございます。」
 
 ノルティが笑顔で礼をした。
 
「ここの宿屋の方だったのね。また見に行こうって話してたのよ。興行はいつまでなの?」
 
 イノージェンが尋ねた。
 
「実はきちんと決まってないんです。お祭りが始まった頃にはきっちり一ヶ月で終わってたので、それに合わせて興行していたそうなんですけど、お祭りの期間が少しずつ延びていってからは、かなりぎりぎりまで小屋をかけておくそうです。だから、フロリア様がお祭りの終わりを宣言なさるまで、芝居はやってますから、ぜひまたお越しください。」
 
 2人は丁寧に礼をして、食事を載せてきたワゴンを押して戻っていった。デザートはもうしばらく過ぎてからお届けしますと言うことだった。
 
 
「へぇ・・・あの時舞台に立っていたかも知れない役者さんがこんな身近にいたなんてねぇ。」
 
 イルサはかなり興味を持ったらしい。パンフレットに役者の名前は出ているのだが、誰がどの役をやるかくらいで、いつ誰が出るかまでは書かれていないし、役者がどこの誰かなんて情報はもちろん出ていない。
 
「意外なところで意外な人に出会えたってわけね。さあ、食べましょうよ。母さんとても楽しみにしていたのよ。」
 
 イノージェンが言って、みんなで食べ始めた。
 
「おいしい〜〜。」
 
 イノージェンが声を上げた。
 
「クロービスとウィローは毎日こんなおいしいものを食べているのね。羨ましいわ。」
 
 その後もイノージェンはおいしいを連発しながら食べ終えた。食べ終える少し前くらいにデザートが運ばれてきたのだが、今回は冷たいゼリーにアイスクリームを添えてある。以前と同じように氷の上に器をのせて、そこに入れておくことで冷たさを保っているらしい。
 
「ねえ、これ夏になるとよく作るシャーベットと同じやり方よね。」
 
 島では夏になるとよくシャーベットを作る。食べる時にこうして氷の上に載せておくこともあるので、それほど目新しいというわけではないが、うちの島のように寒い場所ならともかく、城下町で同じものを見るとはイノージェンは思わなかったらしい。
 
「そうそう、でも驚いたわ。氷なんてこの季節にこんなにふんだんに使えるなんて。」
 
 妻もうなずいている。
 
「城下町だって、少し深めに掘れば氷を保存することくらい出来るんだよ。」
 
「そうなの?」
 
 妻が『初めて聞いた』と言いたげに私を見た。以前、妻はそこそこ長く城下町にいたけれど、この町の地下のことまではよく知らないらしい。
 
「すぐそこが極北の地なんだから、ここの土地だけ暖かい方が不自然だしね。まあ北の島みたいに、氷まで取れちゃうほどではないけどね。」
 
 地面を掘れば、氷も取り放題というくらい、北の島の地面の下は氷で覆われている。
 
「氷は極北の地で切り出してくるんだよ。でも寒いからね。剣士団に氷取りの依頼が来ることもあるよ。今でもあるんじゃないかな。」
 
 あんなところに一般人はなかなか行けない。人助けの一環として、剣士団が依頼を受けるんだという話を昔聞いたことがある。そのうち私達も行くことになるのかな、なんてカインと話していたものだ。結局その機会はなかったが・・・。
 
「でもゼリーはいいわよね。ぷるぷるしていて凄くおいしい。アイスクリームも濃厚なのにさっぱりしていて。」
 
 おしゃべりに花を咲かせながら、全員が満足して食べ終えた。
 
「そろそろ帰ろう。夜が遅くなると今よりずっと人混みが酷くなりそうだし。」
 
 ライラが言い出して、イノージェン達は帰って行った。そして・・・。
 
 
「ねえクロービス、リーザはどうだったの?」
 
 妻が心配そうに聞いてきた。イノージェン達がいるところでは聞くに聞けなかったのだろう、私の話をもどかしそうに聞いていたのは気づいていた。
 
「その話の前に、君に聞きたいことがあるんだけど。」
 
「リーザのことで?」
 
「いや、クリフのことだよ。」
 
 私はお昼が終わってからクリフの病室に行った時のことを話した。そしてその後、看護婦から聞いた話も。
 
「なるほどねぇ・・・。それでゴード先生は私をクリフに近づけなかったのかも知れないわね。マッサージについてだけ助言を当てにするなんて、あなたの言うとおり、目の前の成果に気を取られて、治療の本質を忘れているとしか思えないわ。」
 
 妻がため息をついた。
 
「今回は私がマッサージをやめてみてはと言ったことと、ハインツ先生がそれに同意してくれたことで、多分容態が今のまま順調によくなっていくなら、もうマッサージは必要なくなると思うよ。それよりもその後のリハビリについて考えてもらわないとね。」
 
「そうよね。それじゃ私も、クリフの病室に行く回数を減らそうかな。私がいるとどうしても当てにされてしまいそうよね。」
 
「そうだね・・・。ゴード先生のマッサージはもう充分に効くと思うんだけどな。」
 
「私もそう思うわ。ねえ、それじゃリーザのことを教えてよ。」
 
「そうだなあ、リーザのほうは、あまりいい状態とは言えないね・・・。」
 
 私はリーザが、強力な自己暗示によって亡くなった男爵夫人と頭の中で会話しているらしいという話をした。
 
「異議申し立ての時のラッセル卿の暴挙で、リーザ自身が相当追い詰められた状態になっていると思う。おそらくはその時に無意識に自分の中にお母さんの幻影を作ってしまったんだと思うよ。」
 
「・・・それはつまり・・・かなりまずい状態ってことよね・・・。」
 
 妻が青ざめた。
 
 それでも、フロリア様の時のように、本人が心の中に現れた別人格の存在を知らないと言うほど酷いものではない。リーザは母親の存在を認識し、頭の中で会話しているのだ。
 
「・・・完全におかしくなってはいないと思うんだけど、今のまま放置したら大変なことになるよ。」
 
「何か打てる手はないの?」
 
「今はまだそこまで行ってないってところかな。今日リーザを見て、初めてそう言う状態だってことがわかったばかりだからね。」
 
「そっか・・・。迂闊な対策は取れないわよね・・・。」
 
「そうなんだよね・・・。ただ明後日辺りまでにはガーランド男爵家の財務資料の整理が終わって、リーザ達が相続する財産目録が出来上がるらしいんだ。その内容は相続人が全員揃ったところで公開される。その時どうなるかなんだよね。」
 
 その財務資料が公開された時、リーザも知らないことがあかされる。
 
「つまりそれが、何かしらの打開策になるかも知れないってこと?」
 
「私としては期待している部分もあるんだけど、今のリーザにとってお母さんは生きてるようなものだから、認めたくない事実が明かされることで暴走が酷くなる危険性もあるし、情けない話だけどなんとも言えないんだ。」
 
 妻が小さくため息をついた。
 
「仕方ないわよ。まさかこんなことになるなんてね・・・。」
 
 妻も精神的な病気の治療が難しいことを知っている。今のリーザがいかに危うい状態にあるか、感じているのだろう。
 
「まあ、このまま手をこまねいていたくはないからね、明日もう少し様子を見てみようとは思ってるけど、対策を立てられるかどうかはなんとも言えないんだ。それに、私はあくまでもラッセル卿の状態を見守るために派遣されているから、ラッセル卿そっちのけでリーザを観察ってわけには行かないからね。」
 
「リーザのことは、医師会には伝わってないのね。」
 
「フロリア様が伝えなかったらしいよ。おそらく大事にしたくなかったんだろうな。フロリア様の護衛剣士が心の病で医師会が診察しているなんて話、いくら箝口令を敷いたところで噂はすぐに広まってしまうからね。」
 
「出来るだけ穏便に済ませたいと言うことなのかもしれないけど、果たしてその判断が正しいかどうかってのは別問題よね。」
 
 妻の言葉の端々に苛立ちが滲んでいる。妻はまだ、リーザのことを医師会できちんと診察するべきではないかと考えているらしい。私の立場では患者の秘密を勝手に医師会に話すことは出来ないとしても、フロリア様から話してくれれば何も問題ないのにと。何か聞こえてくると言うわけではないが、妻の言いたいことはその表情を見ればわかる。
 
「正しいかどうかを今の時点で判断することは出来ないよ。」
 
 妻が上目遣いに私を見た。言葉として言わなくても、そこをなんとかならないのかと言いたげだ。
 
「それにね、もしも今回のことを医師会に話すとなると、とんでもなく大事になる可能性があるんだよ。」
 
「とんでもない大事?」
 
「そう。リーザの王国剣士としての経歴に傷がつく、或いはフロリア様の護衛剣士をすぐにでもやめなければならなくなる、とかだね。」
 
 これは大げさな話ではない。医師会にリーザの件を話せば、医師会は確かにリーザの治療に真剣に向き合ってくれるだろう。でもその治療の過程は全て記録として残され、フロリア様に報告する時に御前会議にも報告しなければならない。
 
「え、それじゃ患者の秘密も何もないじゃない!?」
 
「そうだよ。その報告のやりとりの過程で、どんなことが起きると思う?リーザをフロリア様の護衛剣士として不適格だと言い出す連中は必ず出てくる。辞めさせろって言う声が大臣達から上がる可能性はあるよね。だけどね、フロリア様とリーザがどれほど深い信頼関係で結ばれているか、君だってわかるだろう?それをぶち壊すことになるかも知れないんだよ。私の言っていることが大げさだと思うなら、オシニスさんに聞いてみるかい?」
 
 妻は呆然として聞いている。
 
「で、でも・・・フロリア様が内密にって言えば・・・。」
 
「でもそうなると、医師会に話を通した意味がないよね。フロリア様からリーザの件を聞いたら、ドゥルーガー会長だって医師会の医師達に話を伝えなければならない。全ての医師達に箝口令をしいて治療に当たれると思う?その過程でどんなことが起きるかもわからないのに。フロリア様の依頼となればそれは「王命」なんだから、それなりの手続きを踏まなければならないという決まり事もあるんだ。そもそも、フロリア様の言葉一つでどんなこともまかり通るなんてのは昔の話だよ。」
 
「それじゃ・・・どうすればいいの?どうすればリーザを助けられるの?」
 
 いつの間にか妻は泣いていた。
 
「そのためにオシニスさんとハディと私が動いているんだよ。しかもその取り組みは今日始まったばかりだ。君だって精神的な病気は時間をかけなければならないことくらいわかるじゃないか。」
 
「それはそうだけど・・・でも・・・。」
 
「見ているしか出来ないってのがどれほど辛いことか、わかるつもりだよ。だけどここで迂闊な行動は取れないし、君にも取らないでほしい。リーザが大事なら、今は我慢するしかないんだ。」
 
 妻にとってはリーザの今の様子がわからないから、不安ばかりが先に立つのだろう。1人で悪い想像ばかりして思い詰めてしまったのだと思う。やっぱり一度オシニスさんのところに話を聞きに行ったほうがいいのかもしれない。でも今すぐにどうこうと言うことは出来ない。こんな時は気分を変えるのが一番だ。
 
「お風呂に行ってさっぱりしてこよう。」
 
 声をかけたが妻は動かない。
 
「私は行ってくるよ。」
 
 そう言って私は部屋を出た。妻の『気』は特に澱んだりゆがんだりしていないので、そんなに心配することはなさそうだ。気持ちのいい風呂でさっぱりとして疲れを取り、部屋に戻ると妻はもう布団を被って寝ている。本当に眠っているのかどうかはわからないが、私は何も言わずに自分のベッドに潜り込んだ。妻が落ち着くのを待つしかない。今日はもう寝てしまおう。明日になれば、またいろいろとやることがある。
 

第109章へ続く

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