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108章 家族の絆

 
「2人とも、言うまでもないが、家督相続についての話には一切口を挟まないでくれ。ハディ、お前はラッセル卿が心配でクロービスについてきただけと言うことになっているんだから、迂闊なことを言わないでくれよ。」
 
「気をつけます・・・。でも自信ないなあ・・・。」
 
 オシニスさんが歩きながらいろいろと注意事項を話してくれるが、ハディは自信なさげだ。
 
「でも資料作成については行政局長と職員の人達がやってるんですよね。」
 
 少なくともそばでただ見ているだけの私達が、何か口を出したくなるようなことなんてあるんだろうか。
 
「ああそうだ。まあ資料の中身はお前達に見えないようにやるだろうし、ガーランド男爵家の面々は何か聞かれたことに答えるくらいで、資料整理は手を出せないんだ。だからハディが思わず口を出してしまう、なんてことにはならないだろうけどな。」
 
「何だか扱いが酷いですね。」
 
「男爵の横領疑惑がなければ、ここまで酷いことにはならなかったんだがな。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 ハディが悔しげに黙り込んだ。
 
 
 
「ここだ。」
 
 それから少し歩いて、着いたところは執政館の奥にある行政局のさらに隅のほうだ。
 
「この辺りって以前は御前会議場だったところですよね。」
 
「そうだ。あの時の会議が行われた場所の、端っこのほうだな。ここはいくつかの区画に分けられて、資料室やこんな形で臨時に使える部屋がいくつか用意されている。行くぞ。」
 
「はい。」
 
 ハディと私がうなずいたのを確認して、オシニスさんが扉をノックした。
 
「剣士団長オシニス、訓練担当官ハディと共に、医師のクロービス殿をお連れした。」
 
 ややあって中から扉が開けられ、顔を出したのはノイマン行政局長だ。何だか顔色がよくない。
 
「どうぞ。団長殿、中に入って、お2人を紹介してください。」
 
 ノイマン局長の顔色がよくないわけはすぐわかった。
 
(うわ・・・・。)
 
 隣でハディが小さく声を上げたほどだ。真っ黒に澱んだ『気』が部屋の奥にいるリーザから発せられている。『気』を見ることが出来ない人でも、これは気分が悪くなるだろう。
 
 ゆっくりと私達を見たリーザの顔は・・・目は、確かに狂気を宿している。でも何だろう、この違和感は・・・。そこにいるのは確かにリーザなのに、リーザの顔には見えない・・・。
 
(これは・・・。)
 
 リーザの『気』はどす黒く澱み、そして奇妙な形にゆがんでいる。しかし、その『気』の中に、誰か他人のものは入っていない。全てリーザ自身の『気』だ。ということは、リーザは誰かに操られているわけではない。言い方を変えれば、リーザを操っているのはリーザ自身に他ならないと言うことだ。
 
(そういうことか・・・。)
 
 ハディが言った『取り憑かれている』という言葉は、あながち間違ってはいないかもしれない。リーザはおそらく、ずっと母親のことを気にしていたのだろう。その気持ちが強すぎて、自分で自分に暗示をかけてしまったのではないだろうか。リーザは素晴らしい気功の使い手だが、今は自分の『気』を制御出来ず、暴走しているのだと思う。
 
「おお、よく来てくれたな。」
 
 何と部屋の奥からレイナック殿が顔を出した。ラッセル卿夫妻とチルダさん夫妻は、私達の同席についてそれほど抵抗はないように見える。だが一番の懸念であるリーザの反応について、あまり露骨に嫌がるような反応を見せた場合に、それとなく窘めてくれるつもりなのだろうか。
 
(フロリア様が顔を出すわけには行かないからな・・・。)
 
 フロリア様は心からリーザを心配されている。でもその気持ちが、今のリーザにどれほど伝わっているものか・・・。
 
−−≪大丈夫よ、母様。私が家を守ってみせるわ。≫−−
 
−−≪・・・・・・・・。≫−−
 
−−≪誰にも私の邪魔はさせない・・・。≫−−
 
 
(・・・なんだこの会話は・・・?)
 
 リーザが頭の中で誰かと話している。母様と呼びかけていると言うことは、亡くなった男爵夫人か・・・。リーザの言葉に対して誰かが答えているようだが、それは言葉になって聞こえてこない。自己暗示だとしても、これはかなり厄介な部類に入りそうだ。フロリア様のように別な誰かが心に入り込んでいると言うことではなく、リーザ自身が心の中に男爵夫人の幻影を作り出しているのじゃないだろうか。
 
 こういった症例はいくつもあるが、リーザが自分をリーザ・ガーランドとして認識出来ているのは間違いなさそうだ。ということは、リーザの心はまだ現実世界に留まっている。とは言え、心の病、一歩手前と言うくらいには危うい状態だ。
 
 
「・・・というわけで、医師会からの依頼でクロービス先生に来ていただいています。剣士団の訓練担当官はガーランド男爵家の皆さんと浅からぬ縁があるとのことですので、フロリア様から特別に許可をいただいて、同席することになりました。」
 
 オシニスさんの紹介が終わり、私達は勧められた席に着席した。ずっと黙っているリーザからは、怒りと戸惑いの混じった感情が感じ取れる。でも何というか、その感情も不安定でとらえどころがない。リーザ自身が自分の『気』を制御出来ていないのは間違いなさそうだ。
 
 今日は初日なので、打ち合わせ通り、様子を見ておくに留めておこう。あとでハディにも意見を聞いてみたい。今のリーザが何を考えているのか、それを知ることが先決だ。とは言え、自分の力を積極的に使うつもりはない。だがさっきのように聞こえてくるリーザの心の声を、分析するくらいのことはさせてもらおう。
 
(リーザのことはそれでいいとしても・・・問題はラッセル卿か・・・。)
 
 今の私がまずしなければならないのは、ラッセル卿の状態を観察することだ。こちらは待ったなしの緊急事態と言ってもいい。
 
 ラッセル卿をしばらく伺っていたが、なるほど生きることに対して消極的になっているのではないかというハインツ先生の見立ては、正しいと思う。彼を包む『気』は弱く、乏しい気がする。これではいけない。薬の影響が何もなかったとしても、この状態ではかからなくてもいいような病気にかかってしまいそうだ。
 
(病は気からという言い伝えがあるように、気をしっかり持つことである程度防げることもあるんだよな・・・。)
 
 私は椅子に座ったまま、リーザとラッセル卿に注意を向けていた。
 
(・・・ん・・・?)
 
 ガーランド男爵家の人々は、全員行政局の職員達の動きを目で追っている。だが、時折ラッセル卿の意識がそこから逸れることがある。その逸れた先にいるのは・・・。
 
(リーザのことを気にしてるみたいだな・・・。)
 
 そして焦り、それと不安のような感情も感じ取れる。何か・・・ラッセル卿はリーザに対して不安があると言うことか。だとすればそれは・・・。
 
(今のリーザが普通ではないことを、ラッセル卿だって感づいているだろう。これは、もしかしたらだが、リーザが何かするのではないかという不安か・・・。)
 
 自分に対して、或いはリンガー夫人やランサル子爵夫妻に対して、リーザが何か仕掛けてくるかも知れないと、不安に思っている・・・?
 
(考えすぎかな・・・。)
 
 ラッセル卿が呪文や気功を使えるという話は聞いたことがないが、特にそう言ったものが使えなくても、『気』を見る、或いは感じることが出来る人はたくさんいる。リーザを取り巻く異様な『気』を感じて、警戒していると言うことはあるかも知れない。
 
 私がラッセル卿を観察している間にも、時折行政局の職員がラッセル卿とリンガー夫人に何か書類を見せて話しかけ、2人がそれに答えるとその場から離れていく。今のところ資産の目録作りと資料整理は順調のようだ。そろそろラッセル卿を医師会に連れて行く時間だ。私は立ち上がり、ノイマン行政局長にラッセル卿を医師会に連れて行っていいかを尋ねた。ノイマン局長は笑顔でうなずいてくれた。
 
「まずは体を治していただかねばなりませんからね。」
 
「ありがとうございます。」
 
 私は礼を言い、ラッセル卿に医師会へと行くように話しかけた。だが・・・
 
「クロービスさん、私は今特にどこも悪いという感じはしないんです。それよりも今日の取り調べのほうを優先させてください。剣士団長殿、取り調べはいつからですか?」
 
 どこか他人事のような口調で、ラッセル卿が言った。
 
「ラッセル卿、まずは君の治療が最優先だ。君が医師会から戻ってきてから取り調べの続きをしよう。先にクロービスと一緒に医師会に行ってくれ。」
 
 オシニスさんがさらりと返す。こんな話になるのは想定していたのだろう。
 
「しかしそれは・・・。」
 
 言いかけたラッセル卿に、リンガー夫人が声をかけた。
 
「あなた、医師会に行って治療を受けてきてください。これからのためにも、あなたには元気でいていただかなければ困ります。子供達も心配しているのですから。」
 
 これからのためにも、とは、今後家督を継いだあとのことを言っているのだろう。少なくともリンガー夫人は、自分達夫婦がガーランド男爵家の家督を継ぐことに疑問を抱いていない。もっともそれが当たり前だ。リーザが自分で家督を継ぎたいと言った話は、今のところガーランド男爵家の相続人達には知らされていない。そもそもリーザがそう言っているだけで、今のリーザに家督を継ぐための資格はないのだ。チルダさんはロゼル卿と共にランサル子爵家を継いでいるし、現男爵が強制的に隠居するのは決定事項なのだから、次にガーランド男爵となるのはラッセル卿以外にいない。
 
「ラッセル、ちゃんと治療を受けてきてくれよ。俺も君のことは心配しているんだ。」
 
 ハディにも言われ、やっとラッセル卿はうなずいた。
 
「では医師会に行きましょう。ラッセル卿、君の体は君1人のものじゃない。夫人と子供達のためにも、今はきちんと治療を受けてくれないか。」
 
 渋々といった体でラッセル卿は立ち上がり、私は彼と一緒に部屋を出た。扉を閉める時・・・。
 
−−≪ふん、大丈夫よ、母様、こんな奴らの思い通りにさせないわ・・・。≫−−
 
(こんな奴らか・・・。)
 
 今まで仲良くやってきたはずの弟夫婦をこんな悪し様に言うとは、リーザはどうやら完全に母親の代弁者になったつもりでいるらしい。
 
−−≪・・・・・・。≫−−
 
−−≪ええそうね。ラッセルもチルダも、母様が認めてないのに勝手に結婚するなんて、あの男のせいなのよね。≫−−
 
 ラッセル卿の結婚についても、男爵夫人は反対だったと聞いた。結婚式にも体調不良を理由に出なかったという。あの男というのはガーランド男爵のことだろう。つまり男爵夫人は認めていないのに、男爵が勝手に結婚を許したと言いたいらしい。
 
 リーザのやっていることは、つまり事実の後追いだ。おそらくラッセル卿の結婚については、当時は賛成していたはずだ。チルダさんについても。だが母親が反対していたことを知っているから、今のリーザはラッセル卿のこともチルダさんのことも最初から認めていないと思い込んでいるのではないだろうか。
 
 今のリーザは、心の病一歩手前と言うところだ。このまま『気』を暴走させてしまうと、本当に病気と診断するしかなくなってしまう。心の中に作り上げた母親の幻影に縋り付き、自分の周りの人達を全て敵だと思い込んでしまう、そうなったらもう、入院してもらうしかない。
 
(こんなことになった原因が、異議申し立ての日のラッセル卿の暴挙だとしたら・・・。)
 
 今度はラッセル卿が責任を感じてしまうだろう。それこそ治療なんて受けないと言い出されるとこれもまた厄介だ。
 
 
 私はラッセル卿と並んで、執政館の入り口を抜けた。そして医師会へと通じる通路に入った時・・・。
 
「クロービスさん・・・姉は、大丈夫ですよね。」
 
 ラッセル卿がぽつりと言った。
 
「様子がおかしいことかい?」
 
「はい、それと、あの調子では妻や妹に何かしそうで恐ろしかったんです。」
 
「もしかして、それも治療を渋った原因の一つになっているのかい?」
 
「そう・・・ですね・・・。今の姉はまるで、被害妄想に取り憑かれていた以前の私とそっくりです。異議申し立ての日まで、私はイノージェンさんが男爵家を乗っ取ると思い込み、何が何でも排除しなければならないという考えに取り憑かれていました。それを諫めてくれた姉と、私がイノージェンさんから預かった父の手紙とお金を処分してしまう前にと、王国剣士さんに渡してくれた妹も、全てが敵だと思い込んでいました。異議申し立てが終わったあと、気を失った私をクロービスさんが医師会に運んでくださって・・・医師会の先生方が薬を吐かせてくれて、治療をしてくださったおかげで私はやっと正気を取り戻すことが出来ましたが・・・あの日の私の暴挙のせいで、姉がおかしくなってしまったんですよね・・・。」
 
 声が震えている。
 
「君のせいってわけではないと思うよ。確かに、君のあの日の行動はリーザにとってとても辛いことだったと思うけどね・・・。」
 
 こんな曖昧な言い方しか出来ないのが情けないが、あまりいいことばかり言ってみたところで、かえって嘘くさいものだ・・・。
 
「でもね、今のリーザがおかしいとしても、今あの部屋にはハディがいるよ。万一リーザがなにかしようとしたら、必ずハディが止めてくれるよ。」
 
「はい。私も・・・ハディさんがいてくれるのがとても心強いです。」
 
 ラッセル卿はそう言った後、少し間を置いて口を開いた。
 
「クロービスさん。」
 
「なんだい?」
 
「まさかと思いますが、姉は、自分が男爵家を継ぐつもりでいるんじゃないでしょうか。」
 
 どきりとした。ラッセル卿は気づいていたのだろうか。リーザが自分で家督を継ぐつもりでいると言うことを。でもそれだってリーザの本心かどうかもわからない。リーザが無理矢理継いでみたところで、結婚して子供を産まなければそこまでだ。もっともそうなった時には、直系の実子としてラッセル卿の子供達にも相続権が発生するらしいが、手続きがかなり煩雑らしい。まあ、普通に考えてリーザが家督を継ぐのは不可能だと思っていていいだろう。
 
「うーん、そんな話は聞いたことないけど・・・でもそれは不可能だよね?私も貴族の家督相続についてはそんなに詳しくないんだけど、貴族の嫡子が剣士団に入る時は、相続権を放棄するか、いずれ戻って家督を継ぐのか、それによって手続きが違うそうだよ。初めて会った時、君の姉さんは勘当同然で家を出てきたって言ってたよ。だから相続権は放棄したんだと思っていたんだけど、違うかい?」
 
 この辺りの話はオシニスさんから聞いているが、迂闊にここでその話をすることは出来ない。とぼけ通すしかなさそうだ。
 
「ええ、仰るとおりです。でも父はもう強制的に隠居させられることが確定しています。チルダはロゼル卿と共に既にランサル子爵家の家督を継いで、家の運営を担っています。もしここで私が犯罪者として実刑を受けたりすれば、家を継ぐ子供が誰もいなくなってしまいます。」
 
「君が罪に問われるのかどうか、問われるとすれば実刑なのかどうか、それは君がどんな罪を犯したかによる。それが明らかになったあと、裁判を経て刑が確定するんだ。まだ先の話なんだから、そんなに先走って考えなくてもいいと思うよ。君の罪の問題と、男爵家の相続の問題については、フロリア様だって考えてくださっていると思う。異議申し立ての時にあれだけいろいろなことがあったんだからね。とにかく今はあまり悩まないで、治療に専念してくれないか。体が元気になれば、考え方ももっと前向きになれるよ、きっと。」
 
 医師会に着いた。入り口にはベルウッド先生が待っていてくれた。
 
「おお、クロービス先生、ラッセル卿を連れてきてくださいましたか。ありがとうございます。3階にある部屋でハインツ先生がお待ちですので、一緒に来ていただけますか。」
 
 私達はベルウッド先生に案内されて、医師会の3階にやってきた。小さな部屋がいくつか並んでいる。その中の一つの扉をノックすると、中からハインツ先生が顔を出した。
 
「おお、クロービス先生。お疲れさまです。ラッセル卿、お待ちしておりました。どうぞ。」
 
 部屋の中はそんなに広くないが、診療室としての体裁は整っている。初めて入った部屋だが、ここはどういう部屋なんだろう。あとで聞いてみよう。今私がそんな質問をしたら、ラッセル卿が不安になってしまう。
 
「ではお掛けください。」
 
 ハインツ先生が椅子に座り、ベルウッド先生がハインツ先生の後ろにある椅子に座った。助手の席と言うことか。手元の紙にペンを走らせているところを見ると、記録係らしい。私はラッセル卿と並んで座った。
 
「ではお伺いします。私がこれから質問をしますので、正直に答えてくださいね。症状が出ているのを隠したりされますと、正しい治療が出来ません。それではよくなるものもならなくなってしまいます。」
 
 ハインツ先生はそう言って、質問を始めた。まずは鎮静剤について、今不眠がないかなど、一般的な質問だ。少しずつ質問の内容が具体的になっていき、めまいや吐き気などがないか、睡眠は取れているか、何時頃寝て何時頃起きているかなど、かなり細かい質問までしている。ラッセル卿は少し驚いた顔で、それでもきちんと答えている。彼が嘘をついているという事はなさそうだ。
 
「質問はこれで終わりです。この後は解毒の薬湯を飲んでいただくことになりますが、ラッセル卿のほうからは何かありますか?気になることがあればどんな些細なことでもかまいませんから、話してください。」
 
「・・・いえ、大丈夫です。」
 
 返事の前に少し間があったのが気にかかる。後でそれとなく観察しておこうと考えていたのだが、その答えはすぐに判明することになった。
 
「ではこちらが今ラッセル卿に私がした質問と、答えていただいた内容です。確認をしていただきましたら、下の欄にサインをお願いします。」
 
 ハインツ先生が渡した紙を、ラッセル卿が受け取ろうとして取り落とした。
 
「あ、失礼。」
 
 そう言ってラッセル卿は屈んで書類を拾ったのだが、また落としてしまった。ラッセル卿は青ざめて左手で右手を掴んでいる。
 
「・・・ラッセル卿、もしかして手が痺れてるのかい?」
 
 ラッセル卿は唇を噛みしめて、小さくうなずいた。
 
「私が拾いますから、ラッセル卿は椅子にお掛けください。私としたことが、手足の動きについての質問が抜けていましたね。」
 
 ハインツ先生はそう言って落ちた紙を拾い上げた。本当はさっき気になることはないかと尋ねた時点で言って欲しかったが、ラッセル卿はこちらの治療を早く終わらせて、取り調べに向かうつもりだったのだろう。一刻も早く罪を償うために。
 
「あの「ハーブティ」は飲み物でしたからね。私も体の不調ばかり気にしていました。ラッセル卿、痺れはいつから?」
 
 この痺れが「ハーブティ」の大部分を占めていた鎮静剤を大量に服用したことによる副作用のせいなのか、それとも未知の植物であるアキジオンのせいなのか、はたまたそれらの薬とは全く関係のないものなのか、今はまだ判断がつかない。ハインツ先生が用意した薬湯はあの鎮静剤の影響を少しでも軽減するためのものだ。だが痺れとなると、毎日の生活に影響が出る。さてどうしたものか・・・。
 
「・・・黙っていて済みません。昨日の夜からです・・・。」
 
 食事の時に食器を落としそうになって、自分の手の違和感に気づいたという。だが家族には知られないよう、黙っていたのだそうだ。
 
「ハインツ先生、薬湯はそんなに強いものではありませんよね?」
 
「ええ、放置は出来ませんが、強い薬を用意しなければならないほど差し迫っているわけではありません。ラッセル卿、痺れは右手だけですか?」
 
「ええ、他には特におかしいところはないんですが、右手だとものを掴む時にどうしても必要以上に力を入れなければならなくて・・・。」
 
「ハインツ先生、では今日は予定通りの薬湯を飲んでいただきませんか?痺れのほうは必ずしも薬のせいではないかもしれません。まずは少しマッサージをしてみましょう。内服薬は今すぐに処方するのは難しいでしょうけど、外側からのアプローチなら、多少はよくなると思いますよ。」
 
「おお、そうですね。ではクロービス先生、マッサージのほうはお願いします。私はもう少しいい薬がないか調べてみましょう。」
 
「わかりました。よろしくお願いします。」
 
 私はラッセル卿にどの当たりが痺れているのか聞きながら、右の肩から腕にかけてさわってみた。だが本人も『こことここが痺れている』とはっきりとわからないらしい。つまりそれほど酷い痺れではない。でも確実に影響が出ていると言うことか・・・。
 
(この場合、痺れている場所をゆっくりと揉んでみたほうがいいかな。)
 
 いささか手探りではあるが、肩から肘、肘から手の平に向けて、ゆっくりとマッサージしてみた。
 
「どうだい?」
 
「ああ、かなりよくなりました。ほら。」
 
 ラッセル卿は笑顔になって、机の上に置かれていた紙を持って見せた。
 
「これならサインも出来ます。」
 
 そう言ってサインを済ませ、自分でその紙を持ってハインツ先生に手渡し、薬湯も自分の手で器を持って飲むことが出来た。これで痛みが和らぐなら、ある程度継続してマッサージすることで症状は改善するだろう。
 
「おお、それはよかった。しかし原因は気になりますね。ただクロービス先生が仰るように、腕の痺れとなると、あの「ハーブティ」のせいかどうかはなんとも言えませんねぇ。こちらでも調べておきますが、ラッセル卿、いかがでしょう。明日は夫人と一緒にここに来ていただくことは出来ませんか?」
 
 ラッセル卿は一瞬戸惑った顔をしたが、『はい』とうなずいた。
 
 医師会を出て、また2人で歩き始めた。
 
「今はどう?また痺れてないかい?」
 
「今は大丈夫です。さっき肩の辺りから肘までをマッサージしていただいた時に、指の痺れがすっと取れた気がしたんです。そのあとは大分よくなりました。」
 
「それはよかった。明日またマッサージしてあげるよ。一度や二度ではすぐにまた痺れてしまう可能性があるからね。」
 
「よろしくお願いします。」
 
 ラッセル卿がほんの少し笑顔を見せた。
 
「あの・・・。」
 
 その笑顔がゆがみ、また眉間にしわを寄せながら、ラッセル卿が遠慮がちに口を開いた。
 
「ん?何か気になることがある?」
 
「え、ええ・・・その・・・イノージェンさんはどうされているかと思って・・・。」
 
 ずっと気にしていたのかも知れない。
 
「元気だよ。今日は祭り見物に出掛けているか、マレック先生のところで手伝いをしてるか、どっちかかな。」
 
「そう・・・ですか・・・。」
 
「ラッセル卿、君はもうイノージェンのことを気にしなくていいんだよ。異議申し立ての時のことも、結果として何事もなく終わったんだ。イノージェンはかすり傷一つ負ってない。君はこれから、家のことと家族のことを第一に考えていかないとね。」
 
「そうですね・・・。でもクロービスさん、私がしたことは、もうなかったことには出来ないんです。罪はこれから償います。でもそれとは別に、もしも機会があれば、イノージェンさんに私が謝っていたと伝えていただけませんか。本来ならば顔を合わせて直接謝罪するのが筋でしょうけど、イノージェンさんは私となんて会いたくないでしょう。それだけのことを私はしたんです。ですからせめて、私が心から謝っていたと、どうか・・・。」
 
「わかった、間違いなく伝えておくよ。」
 
「お願いします・・・。」
 
 
 財務資料が置かれた部屋に戻った。そしてリンガー夫人に、明日は医師会に一緒に来てほしいと頼んだ。リンガー夫人は二つ返事で引き受けてくれた。さっき私とラッセル卿がここを出てから戻ってくるまでの間、おそらくかなり心配していたのだろう。私はノイマン行政局長に許可をもらい、さっきの問診についての話もした。
 
「痺れてるって・・・大丈夫なの?」
 
 リンガー夫人は泣きそうになっている。
 
「大丈夫だよ。クロービスさんにマッサージをしてもらったからね。あとは明日、医師会に行ってからだよ。」
 
「よかったわ・・・。」
 
 ほっとするリンガー夫人、その隣で「よかったわ。心配していたのよ。」と、チルダさんが胸をなで下ろしている。そしてその様子を、忌々しそうに見ているのはリーザだ。私がいなかった間の様子はあとでハディに教えてもらおう。この後昼食の時間となり、ラッセル卿の取り調べは午後から行うことになった。昼食の時間帯は一度全員が部屋を出て、扉には鍵がかけられ、その時間帯に合わせて王国剣士がやってきて、扉の見張りについた。2人は部屋を出て行くリーザを見て、不安げに眉をひそめていた・・・。
 
(この剣士達も呪文なり気功なりが使えるんだろうから、今のリーザは恐ろしく見えるかもなあ・・・。)
 
 部屋を出たリーザはどこへ行くのか、ふらふらと歩いて行く。そのあとをハディが追いかけていくが、リーザは走り出してしまった。そちらはハディに任せよう。今私がここにいるのは、あくまでもラッセル卿の状態を見守るためと言うことになっている。とは言っても、さっきからずっとリーザの『声』が聞こえ続けているのはやはり気になる。
 
 
−−≪冗談じゃないわ、何なのあいつら・・・。≫−−
 
−−≪・・・・・・・・。≫−−
 
−−≪ええ、もちろんよ。誰だろうと邪魔はさせないわ・・・。≫−−
 
 
 リーザは母親と会話しているつもりのようだが、話しているのも答えているのもリーザ本人だろう。だからリーザの中の母親は、リーザの知らないことには答えられないはずだ。そこを突いてみるか・・・。
 
(それで自己暗示が解ければいいけど・・・。あとでハディとも打ち合わせして、オシニスさんとも話を合わせておかないとなあ・・・。)
 
 今日は初日だ。まずはどんな状況かをよく観察して、対策は後で考えた方が良さそうだ。拙速に動いてもいいことはない。今は昼時だ。まずは妻を探しに行こう。
 
「クロービス。」
 
 後ろから肩をとんとんと叩かれた。振り向くとオシニスさんが立っている。
 
「オシニスさんはフロリア様とお食事ではないんですか。」
 
「ああ、これから行くんだが、ラッセル卿とリーザのことを少し聞かせてもらえないかと思ってな。」
 
 そう言って、私達は今までいた部屋の前の通路を奥に歩いて行った。ここは本当に以前の御前会議場の隅の隅といった感じで、人はほとんど通らない。だからこそ財産目録作りなどに使うのだろう。
 
「ラッセル卿についてはさっき話したことが全部ですよ。細かい症状や投薬については、医師会から報告が出るはずです。リーザのほうなんですが・・・。」
 
 私は声を落として、先ほど考えたことを話した。
 
「・・・強力な自己暗示か・・・。リーザも知らないこと、となるとやはり男爵夫人の実家から送られてきた金が鍵になるかな・・・。」
 
「その話はいずれ出ますよね。さっきの部屋で皆さんがいらっしゃるところで。」
 
「ああ、その話はいずれしなくちゃならない。ノイマン行政局長の話では、今は裏付けを取るためにオーソン伯爵家に話を聞きに行っているらしい。この件はじいさんが指揮を執ってる。下手すりゃガーランド男爵家の現当主を告発しなければならない話だからな。」
 
 何といっても現当主が夫人の実家から送られてくるお金を着服し、しかも自分の私的目的のために横領していたかも知れないと言うことなのだから、調査をする方も慎重になるというものだろう。きちんとした証拠もなしに告発することは出来ない。
 
「しっかりと裏を取って話をしても、今のリーザは認めない可能性がありますね。」
 
「そうなんだよな。もっともその話が出そうなのは明日か明後日辺りだそうだ。財務資料の金の流れがおかしいから、そちらの方も今調べているという話だ。これはもしかすると、リーザに限らず、ガーランド男爵家の相続人全員にとって辛い話になるかもしれないな・・・。」
 
「そうですね・・・。」
 
 横領、着服など、出てくる言葉は実に不穏な言葉ばかりだが、男爵本人はそれをイノージェンのためになるなら全ていいことだと思い込んでいる節がある。その思い込みの強さが、薄ら寒く感じられるほどだ。心の病に取り憑かれているのは、もしかしたら男爵本人の方かも知れない・・・。
 
「厄介な話だが、朝の打ち合わせ通り、今日は動かないでおくか。」
 
 オシニスさんがため息をついた。今のリーザを見るにつけ、一刻も早くなんとかしたいと考えるのが普通だが、今の状態だけ見て動くのは危険だ。
 
「今日の夕方、ハディと話してみます。私が見ていたリーザとハディが見ていたリーザでは、おそらく着眼点が違いますからね。」
 
「それじゃ俺もその時は自分の部屋に戻っていることにするよ。夕方俺の部屋まで来てくれないか。」
 
「わかりました。午後からも午前中と同じですか。」
 
「そうなるが、今日はラッセル卿が素直に医師会に行ってくれたし、リーザのほうは今日明日になんとかなるような状態ではないからな。午後からはまずラッセル卿の取り調べだ。お前とハディは早めに部屋を出てもいいと思うぞ。夕方仕事が終わるまで、ただあの部屋で椅子に座っているだけってのは辛いだろう。」
 
「そうですね・・・。特にすることがないですし。では午後から取り調べの前でもあとでもかまいませんが、ラッセル卿と話して、腕のマッサージをもう一度位してもいいかもしれません。マッサージはどこででも出来ますからね。」
 
「それはいいな。それじゃ午後はまずラッセル卿のマッサージを頼むよ。それから取り調べにしよう。そのあとはお前とハディは帰ってもいいよ。リーザのことは俺が見ておく。いくら俺が中立の立場と言っても、別に正式な場というわけではないからな、万一リーザが何かやらかそうとした場合は、止めることも出来る。」
 
「わかりました。」
 
 行政局を出て、医師会に向かった。妻はクリフの病室かも知れない。まずはそちらに向かってみよう。病室に着いて扉をノックすると、中から『どうぞ』と返事があった。これはいつもこの部屋に詰めている看護婦の声だ。
 
「あらクロービス先生、いらっしゃいませ。ウィローさんはこちらですのよ。」
 
 やはりここにいたようだ。
 
「あらクロービス、お昼?」
 
 妻が振り向いた。
 
「そうだよ。食事をどうしようかと思ってね。」
 
 ベッドの上ではクリフが起き上がっている。そろそろ食事が運ばれてくるらしい。
 
「クリフ、大分調子は良さそうだね。」
 
「あ、先生、こんにちは。ええ、調子はいいですよ。食事が楽しみになるくらいです。」
 
 クリフはニコニコしている。顔色もいい。
 
「最近はそんなに寝てばかりでもありませんのよ。」
 
 看護婦が説明してくれたところによると、最近クリフは朝起きて、食事のあとしばらく起きているらしい。体を動かすのは午後からと決めてあるそうなので、午前中は本を読んでいるのだそうだ。
 
「へぇ、どんな本を読んでいるんだい?」
 
「冒険物です。仕事をしていた時にはなかなかのんびり本を読むなんてことが出来なかったので、その点では今は読み放題なのが嬉しいですね。」
 
 クリフが笑った。笑い声も、話す言葉も、以前とは比べものにならないくらいしっかりしてきている。
 
 そこに扉がノックされ、看護婦が食事のトレイを持って入ってきた。今回の食事も『家庭の味』を取り入れた食事らしい。私達は病室を出た。廊下には他の患者の食事を載せたワゴン車が置かれていて、いい匂いが漂っている。
 
「ああ、私もお腹が空いてきたわ。ねえ、今日はイノージェン達とセーラズカフェで待ち合わせしてるのよ。あなたも行かない?」
 
「それはいいね。セーラズカフェも久しぶりだな。」
 
「ガーランド家のほうは大丈夫なの?」
 
「大丈夫だよ。イノージェンに少し頼まれごとをしたから、ちょうどいいかもしれないな。」
 
「頼まれごと?」
 
 妻の耳元で、ラッセル卿の『頼み』について話した。
 
「話があるってことだけ伝えられれば、あとは今日の夕方にでも話が出来ると思うんだ。」
 
「そうね。お店でってわけには行かないものね。」
 
「誰が聞いているかわからないからね。」
 
 昼時だからなのか、ロビーの人混みも一段落というところだろうか。そんなに苦労することもなく外に出ることが出来た。外に待っている行列も今はそれほどでもない。みんな食事に出掛けたのだろう。だが、その分町の中は混んでいる。それでも一時期ほどではない。やはり祭りの終わりを予測して、腰を上げる観光客は多いのだろう。祭りが終われば王宮も町の中も通常警備に戻り、休みを取っていた王国剣士達が復帰してくるのだが、代わりに祭りの間仕事をしていた剣士達が休みに入るので、どれほど頑張って警備をしても、人数の関係でしばらく町中の警備は手薄になる。
 
 その隙を狙って『彼』が何か仕掛けてくる可能性はある。何も起きなければいいのだが・・・。
 
 
「いらっしゃあい!お友達はもういらっしゃるわよ!」
 
 セーラズカフェはなかなかの賑わいを見せている。イノージェンと子供達はもう来ているらしい。
 
「随分と久しぶりねぇ。忙しかったって聞いてるけど、あなただって観光客のはずよね。」
 
 セーラさんがいたずらっぽい笑顔で私を見ながら言った。
 
「そのはずなんですけどね。何故か仕事が向こうからやってくるんですよ。」
 
「それは大変ねぇ。それなら、たっぷりと報酬をもらうといいわ。ただ働きはダメよ。」
 
 隣で聞いていた妻が笑い出した。
 
「セーラさん、この人の仕事はね、ほとんど無料奉仕みたいな物よ。」
 
「それはよくないわねぇ。」
 
「おいセーラ、客をからかうな。こっち出来たぞ。ほら、あんたらのお仲間は奥の席だ。お勧めでいいならここで注文してくれていいぞ。」
 
 呆れたようなマスターの声で、セーラさんは肩をすくめた。
 
「それじゃ私達もお勧めでお願いします。」
 
 ここのお勧めはいつだってうまい。昼時にメニューとにらめっこしていつまでも時間をかけることが出来ないので、だいたいはこれで済ませてしまうが、外れだったことはない。
 
 
「クロービス、ウィロー、こっちこっち。」
 
 イノージェンが大きく手を振っている。
 
「先生も一緒なのね!よかったぁ、先生とおばさんと一緒にのんびり食事出来るなんていつぶりかしら。」
 
 イルサもはしゃいでいる。
 
「この間のお昼は一緒に来られなかったもんね。先生と一緒に食事が出来るのはうれしいな。」
 
 ライラも笑顔だ。
 
 
 運ばれてきた食事は相変わらずおいしく、とても楽しい昼食になった。食後のコーヒーが運ばれてきた時・・・
 
「新作なんだが試してみてくれないか。」
 
 ザハムさんがそう言って私達のテーブルにコーヒーを置いてくれた。
 
「新作?この間のデカフェみたいなのじゃなくて?」
 
 ライラは興味津々だ。
 
「ああ、新しい豆が入ったんで、せっかくだから新しいオリジナルブレンドを作ってみたんだ。今は昼間だから、デカフェじゃないぞ。」
 
「へぇ。いただきます。」
 
 一口飲んだライラが、「ん?んんんん?」と、複雑な顔で首を傾げた。私も飲んでみたが・・・。
 
「随分と大胆な味ですね。」
 
「大胆ねぇ・・・。あんたは相変わらずうまい言い方をするな。だがつまり、コーヒーとしてはどうだ?」
 
「私には苦みが強すぎて、コーヒーの他の味や香りが飛んでしまっている気がします。」
 
 新作を試してみてくれと言うのだから、無理して持ち上げても意味がない。私は率直に感想を言った。だがそれはあくまでも私が飲んだ感想であり、全ての人が同じように感じるわけじゃないと思う。
 
「僕もこの苦みは苦手だなあ。苦いのは平気なはずなんだけど、何か変わった豆を混ぜてるの?」
 
 ライラも首を傾げたままだ。
 
「やっぱりセーラと同じ反応だな。」
 
 ザハムさんは心なしか諦めたような顔をした。
 
「前にデカフェを仕入れたところから、新しい豆だって言うんで少し入れてみたのよ。この人は凝っていろいろブレンドを試しているんだけど、その豆の個性が強すぎるから、どうせなら単独で出したらって言ったんだけどねぇ。」
 
 セーラさんが"やれやれ"と言いたげな口調で言った。コーヒーに対するマスターの"凝り性"にいささか呆れているような感じだ。マスターとしては自分のブレンドの腕には自信があるので、何とかオリジナルを作りたいと考えているらしい。
 
「あれ、マスター、苦みが強い奴なら俺にも飲ませてよ。」
 
 隣のテーブルにいた若い男性のグループの中の1人が言った。それを聞いた近くのテーブルの客達が、ぜひ飲んでみたいと言い出したので、マスターはすっかり笑顔になった。
 
「よし、飲んでみてもらうか。出来るだけたくさんのお客に飲んでもらわないとな。」
 
 マスターはいそいそとコーヒーを淹れ始めた。
 
「次回はまた違うのを飲ませてよね。期待してるよ。」
 
 ライラが帰りがけにそんな話をしていた。次に食事に来た時には、新ブレンドが飲めるかもしれない。
 
 
「午後からはどうするの?」
 
 店を出て、イノージェンに聞いてみたが、どうやら午後も祭り見物をするらしい。小さな小屋を中心に回っているらしいが、なかなか楽しい見せ物がたくさんあるのだそうだ。
 
「私も一緒に回ろうかな。」
 
 妻が言った。せっかくだから一緒に回ってきたらと言って、私はイノージェンに今日の夕方時間を取ってくれるように頼んだ。
 
「あなたはガーランド家のことで用事があるってウィローに聞いたけど、その話はそのことに関係しているのよね。」
 
「そうだよ。君にとって特に不快な話ではないと思うけど、聞きたくないというならそれは仕方ないよ。どうする?」
 
 イノージェンはくすりと笑って、
 
「私はそこまで分からず屋じゃないわよ。チルダさんとも楽しい時間を過ごせたしね。ねえ、それじゃ今日の夕方聞かせて。子供達も一緒でいいわよね。」
 
 そう言ってくれた。
 
「もちろんだよ。ぜひ一緒に聞いてほしい。」
 
 
 これで話は決まった。妻はイノージェン達と一緒に祭り見物に出掛けることになったので、そのまま南門から城壁の外に出ると言った。私は1人で王宮に戻り、そろそろ混み始めてきたロビーを抜けて、執政館に入った。ガーランド男爵家の財産目録作りが行われている部屋の前にはまだ王国剣士がいる。午後の部の再開はまだ先らしい。私は一度医師会に向かい、クリフの病室に顔を出した。
 
「おやクロービス先生、いらっしゃい。」
 
 ハインツ先生が戻っていた。手に持った紙の束を確認しているところだったようだ。
 
「あ、クロービス先生、ウィローさんは・・・。」
 
 クリフのベッドの隣にいたゴード先生が、振り向いた。なんだか困ったような顔をしている。
 
「あ、午後からは祭り見物するからと、出掛けましたよ。何か用事があったんですか?」
 
「祭り見物ですか・・・。それじゃすぐには戻られませんね・・・。」
 
 見てはっきりとわかるほど、ゴード先生は意気消沈している。
 
「もしかしてマッサージがうまく行かないんですか?」
 
「はい・・・。なんだか最近効きが悪いみたいで・・・。」
 
 それで午前中は妻に教えてもらいながらやっていたらしい。午後も当てにしていたので困ってしまったようだ。
 
「ゴード先生の腕はもう充分だと妻が言ってましたよ。効くかどうかを気にするより、集中してマッサージをされた方がいい結果になると思いますけどね。」
 
「それは・・・。」
 
 多少の脚色だが、妻もゴード先生の腕は認めている。あとは本人が自信を持ってマッサージを行えばいいと思うが、なかなかそこまで自信を持てずにいるらしい。
 
 もしもクリフが痛がっているようなら本当にマッサージが効いていないと言うことだから、ゴード先生の腕が上がるまでその痛みを我慢してくれと言うわけにも行かない。そういうことなら私がマッサージをしてもいいのだが、クリフは特に痛そうにもしていない。私はクリフに痛いところがあるのかどうか聞いてみたが、以前のように痛いという感覚ではなく、どちらかというと、違和感がある、と言うことらしい。それならしばらくマッサージはやめて、様子を見るのが一番だ。だがゴード先生はその違和感全てを自分のマッサージでなんとかしたいと考えているのかも知れない。
 
「違和感があるという程度なら、しばらくマッサージをやめてみて、様子を見ると言うことではいかがですか?薬の効果で病巣はかなり小さくなっているはずですし、あまり気にしすぎてもよくないと思いますよ。痛みもないのに患部を刺激するのはよくないんですよね。」
 
「え、いやしかし・・・。」
 
 ゴード先生は慌てたように私を見た。
 
「クロービス先生もそう思われますか。私も実は同じ意見なんですよ。ゴード、しばらくマッサージはやめて、経過観察をしよう。」
 
 ハインツ先生ははっきりと言い切った。ゴード先生は納得出来ていないようだったが、ここまではっきりと言われては、もう何も言えないような顔をしていた。
 
(クリフの痛みが全て取れて、それがマッサージの成果だと言うことになれば、間違いなく整体の大きな成果と言うことになるんだろうけど・・・。)
 
 彼が患者のことを一番に考えてくれるよい医師だと言うことは、アスランの治療の件でもよくわかる。だが今彼は、すぐにでも手が届きそうな『目に見える成果』に惑わされているようだ。痛みもないのに患部をマッサージしたところで、いい結果は得られない。
 
 私は病室を出て執政館に向かった。そろそろ午後の財務資料作成が始まるだろう。ここで頭を切り替えなければならない。作成と言っても、午前中のあの調子では、確かになかなか進まないのだろうなと思う。資料の数がそれほど多いわけでもないのに全然進まないのは、おそらくレイナック殿が裏で動いている調査のせいだろう。お金の流れがおかしいというのはラッセル卿も気づいているようだし、それが現当主であるガーランド男爵のせいではないかとも考えているようだが、その真実が全て明るみに出たら、あの家の相続人達はどうするのだろう・・・。
 
(でも・・・それを私が気にしても仕方ないんだよなあ・・・。)
 
 なるようにしかならない。当代の男爵がお金を流用したことも、そのお金を使ってイノージェンが相続人になるように画策したことも、すでに起きてしまったことなのだ。相続人達が知らないだけで・・・。
 
 
 
「いやダメですよ。もうすぐノイマン局長がいらっしゃいますから!」
 
 執政館に入り、先ほどの部屋の前に近づいた時、突然声が聞こえた。
 
「いいからどきなさい!」
 
 これはリーザの声じゃないか。
 
 今私が歩いている通路からは、もう少し先の角を曲がらないと部屋の入り口は見えない。私は早歩きで角を曲がった。
 
「部屋の鍵はノイマン局長がお持ちです。そろそろいらっしゃるんですからそれまでお待ちください!」
 
 リーザは扉を守る2人の王国剣士を押しのけて、部屋の扉を無理矢理開けようとした。が、当然ながら鍵がかかっているので開くはずがない。リーザは異様なまでに膨れあがった怒りのオーラに取り巻かれている。
 
「リーザ!何をしてるんだ!」
 
 声をかけたが、リーザは私をちらりと見ると
 
「あなたには関係ない!どこか行って!」
 
 そう怒鳴りながら扉を開けようと引っ張っている。そしてそれを2人の王国剣士が止めようとしているが、やはり先輩への遠慮があるのか、なかなか思い切り扉から引きはがすことが出来ないらしい。
 
「関係なくないよ。私は立会人だ。」
 
「あなたのことなんて認めてないわ!」
 
「今の君に認めてもらう必要はない!」
 
 そう言って2人に加勢しようとした時
 
「おい!何をやっているんだ!?」
 
 背後から聞こえた声はオシニスさんの声だ。オシニスさんはまっすぐにリーザに駆け寄ると、遠慮なしに扉から引きはがし、羽交い締めにした。
 
「離してください!この部屋にあるのはうちの財務資料なんです!うちの物を家族がどうしようと勝手じゃないですか!」
 
 そこにノイマン局長が走ってきた。今のリーザの叫びは聞こえていただろう。
 
「何をしているのです、リーザ殿!あなたがここでおかしな行いをすれば、ガーランド男爵家の罪がまた増えるのですよ!?あなたはお家を取りつぶしたいのですか!?」
 
 リーザの体がびくっと震え、オシニスさんから逃れようともがいていた動きが止まった。
 
(家の取りつぶしという言葉には反応したな・・・。)
 
 男爵夫人も家を取りつぶしたいとは思っていなかったと言うことか・・・。男爵がオーソン伯爵家からの送金を男爵夫人に渡そうとしないことも、明るみに出れば大変なことになる。それを暴き立てれば伯爵家は怒っただろうし、男爵を追求しただろう。だがそれは間違いなくガーランド男爵家の醜聞として広まり、最悪家が取りつぶされる事態にならないとも限らない。男爵夫人とリーザはほとんど交流がなかったはずだから、夫人が家の取りつぶしを望んでいなかったという話は、もしかしたら男爵夫人が亡くなったあと、部屋の中で手紙か日記などを読んだのかも知れない。
 
「とにかく中に入りましょう。お前達、ご苦労だったな。悪いがここで見聞きしたことは他言無用にしてくれるか。」
 
 オシニスさんはリーザを羽交い締めにしていた腕の力を抜いたが、リーザはもう抵抗しようとしなかった。門番の王国剣士は複雑な顔で一礼すると、引き上げていった。そう言えばハディはどうしたのだろう。
 
 オシニスさん、ノイマン局長、リーザ、そして私が部屋に入って少しした頃、ラッセル卿夫妻とチルダさん夫妻がハディと一緒に部屋に入ってきた。
 
「あれ?」
 
 部屋の中に漂う異様な雰囲気に、ハディが首を傾げた。ラッセル卿夫妻もランサル子爵夫妻も不安げに眉をひそめている。
 
「何かあったのか?」
 
 ハディが私に尋ねた。私は小声で、オシニスさんに聞いたほうがいいよと言っておいた。オシニスさんがハディを近くに呼び寄せ、耳元で何か囁いた。ハディがぎょっとした顔でリーザに振り向いたが、オシニスさんがハディの腕を掴み、黙ったまま首を横に振った。
 
「くそっ!」
 
 小さな声ではあったが、ハディがかなり腹立たしげにリーザを見たのがわかった。
 
「では資料作成を再開します。クロービス殿、何かラッセル卿の状況についてお話はありますか?」
 
 ノイマン局長の問いかけに、私はラッセル卿が医師会に行ってくれて今日の時点で必要な診療は終わったことを告げ、腕の痺れはこれからもう一度マッサージをして、私はそこまでで退出することを告げた。ラッセル卿は素直にマッサージを受けてくれて、それが終われば今日の取り調べがあるらしい。
 
「では失礼します。明日また伺います。」
 
「ご苦労様でした。ハディ殿は少し残っていていただけますか?」
 
 ノイマン局長がそう言ったのでハディは少し驚いた顔をしている。先ほどのリーザの件で話があるのだろう。私は一礼して部屋を出た。ラッセル卿の腕の痺れについては、医師会に戻ってハインツ先生と話をしてみよう。
 
「あの痺れが「ハーブティ」由来のものかどうかが鍵かな・・・。」
 
 大量に入っていた鎮静剤は、もうわからないことはないくらい調べ尽くされている。もちろん未知の成分が全くないとは言い切れないが、あの痺れが鎮静剤の由来と言うことは考えにくい。
 
(でも・・・あの鎮静剤単独ならともかく、アキジオンの成分と混じり合うことで新たな症状が出たと言うことも・・・。)
 
 その可能性は捨てられない。
 
「うーん・・・アキジオンの成分分析でわかっている範囲では思いつかないな。やっぱりブロムおじさんが送ってくれる資料を見てから考えよう。」
 
 全ての分析結果が頭の中に入っているわけではない。下手に記憶に頼るより、資料を見ながらの方が確実なことがわかるはずだ。
 
 
(・・・・・・・。)
 
 1人で歩いていると、やはりどうしても気になるのはさっきのことだ。リーザは何をしたかったのだろう。あのタイミングで強引に扉を開けることが出来たとして、リーザはあの部屋の中にあるどの資料を見たかったのか。それとも、ただ頭の中に響く母親の声に従って、確たる理由もないまま乱入しようとしたのか・・・。
 
 あの部屋には、男爵夫人の実家から送られてきたお金の明細や、領地からの上がりに関する書類などもあるらしい。だがその資料についてレイナック殿が調査していることを、リーザは何も知らないはずだ。それとも知っていてその証拠をもみ消したかったのだろうか。
 
(・・・それも考えにくいんだよな・・・。)
 
 仮にその資料を破いたりしたら、リーザが罪に問われることになる。自分の家のものだから、などという理屈は通用しない。しかしこのことも、今私が考えても何一つ答えは出そうにない。ため息をつきながら、私は医師会への通路を抜けて、まずはクリフの病室に顔を出した。中には看護婦しかいない。クリフは眠っているようだ。
 
「クリフの調子はどうだい?」
 
「順調ですわよ。睡眠時間も大分まとまった時間取れるようになってきました。あの・・・先生、先ほどのマッサージのことなんですけど・・・。」
 
 遠慮がちな看護婦の話を聞いて驚いた。クリフはもう普通の患者と同じように過ごしていて、夜眠って朝起きる、食事をしてそのまま起きて過ごし、昼食をとる、と言った具合に、生活サイクルも定まりつつあるということだ。それはさっき私も本人から聞いた。午前中は本を読んで過ごし、午後からは少しずつ体を動かしているのだと。だがゴード先生が未だにマッサージにこだわっているために、逆にその生活サイクルが乱れているのではないかと看護婦達は心配しているらしい。
 
「・・・つまり、もう痛みと言うほどではなく違和感程度になっているのに、未だにマッサージを続けて、それでかえって疲れているのではないかと言うことか・・・。」
 
「私達にはそう思えます。だからさっき先生がマッサージはもう必要ないと仰ってくださったことで、少しほっとしています。ハインツ先生も心配されていたんですけど、なかなかゴード先生が引いてくださらなかったようなんです。」
 
「なるほどねぇ・・・。」
 
 もしかしたら・・・ゴード先生がクリフのそばに妻を近づけなかったのは、妻からも『マッサージはもう必要ないのではないか』と言われることが怖かったのだろうか。
 
(ウィローがどう考えているか、帰ってきたら聞いてみるか・・・。)
 
 今のところクリフの容態は安定している。マッサージをやめたことで今後は普通の病人と変わらないサイクルで生活出来るようになるだろう。ゴード先生の力が必要なのはその先なのだ。クリフがリハビリを開始したら、そのプログラムもゴード先生に作ってもらわなければならない。
 
(マッサージに拘泥している場合じゃないんだけどなあ・・・。)
 
 整体の技術をもっと広めるために必要なのは、目の前の成果ではなく様々な場所で役立つことを知らしめることだ。そして何より、マッサージというのは整体の全てではなく、ほんの一部だ。それで成果が出たからと言って、そこにこだわってしまうのは違うと思う。
 
「ゴード先生は今どこに?」
 
「ご自分の部屋だと思います。クリフのほうも安定してきましたし、このまま順調に回復するようなら、そのあとのリハビリも考えなくちゃならないからその時は頼むってハインツ先生に言われて、かなり元気になったんです。そのプログラムを作らなくちゃって仰ってましたから。」
 
「そうか、それはよかったよ。それでハインツ先生はご自分の部屋かい?」
 
「はい、先ほど部屋に戻るからと仰ってました。」
 
 さっき私にマッサージをやめた方がいいと言われ、大分落ち込んでいたようだったが元気になったのならよかった。ハインツ先生はクリフのマッサージが必要なくなったあと、日常生活に戻るためのリハビリについても考えていたのだろう。
 
 階段を降りて1階のハインツ先生の部屋の前まで来た時・・・
 

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