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「まあ落ち着けハディ。俺もそう思うよ。横領で手に入れた金が昔の恋人の娘を相続人に引き入れるために使われたことは、どうやらはっきりしてきたんだ。だからラッセル卿についてはいずれ疑いが晴れるだろう。だがそうなると、男爵が1人であれだけのことをしでかしたのかってことになる。」
 
「それは確かに協力者がいないと難しいかもしれませんね。」
 
 こう言っては失礼だが、ガーランド男爵がそれほどの切れ者だとは思えない。
 
「そういうことだが、それはこれから調べることになるだろう。俺としては、ドーンズ辺りが怪しいと睨んでいるがな。」
 
「え、でも貴族の領地運営にまさか一介の医師が口を出したりは・・・。」
 
「しないと言い切れるか?ハディ、お前はガーランド男爵家とドーンズの結びつきについて、俺やクロービスよりも遙かによく知っていると思うが、どうだ?」
 
 そう言われて、ハディは言葉に詰まった。
 
「そして、その金の流れの話はまだガーランド男爵家の相続人には話していないってことですね・・・。」
 
 ハディが半分独り言のようにつぶやいた。
 
「そうだな。きちんと調べてからでないと、半端な情報は出せない。今回の家督相続の話が出てからは、リーザが家に帰っても男爵の部屋には入れなかったようだから、それでよかったと思うよ。リーザがあの状態じゃ、それこそ男爵の病室を襲撃しかねない。今のリーザは俺達の知っているリーザじゃない。注意しておかないと、何をしでかすかわからないんだ。」
 
「ラッセル卿は何かあるんじゃないかって気づいているようですけどね。」
 
 そんな話を聞いたような気がする。
 
「そのようだな。ラッセル卿も父親の部屋には入れなかったようだし、まさかここまで目を覚まさないとは思っていなかったから、男爵が入院中の時も部屋には入らなかったらしいんだ。そのうち横領疑惑と強制隠居の話が出て、すぐに行政局の職員と王国剣士によって、男爵家の相続人は、男爵夫妻のそれぞれの部屋、領地運営に関わる書類のある部屋には立ち入ることが出来なくなったようだ。」
 
「なるほど・・・。しかしそういうことなら、多少の猶予はありそうですね。その間に少し考えますか。私がそこにいてもいい理由を。」
 
「それしかないか・・・。」
 
 オシニスさんがため息とともに言った。今日は何だか、常に誰かしらのため息を聞いている気がする。
 
「俺も考えてみるが、いい案は出そうにないなあ。」
 
「ハディも考えてよ。」
 
「俺には無理な気がするなあ。さっぱり思い浮かばん。」
 
 まあそれも仕方ないかも知れない。その時剣士団長室の扉がノックされた。やってきたのはフロリア様付きの侍女で、昼食の時間になったのでオシニスさんを呼びに来たらしい。みんなで一緒に食事をするという決めごとは、今でも続けているとのことだった。
 
 
 ハディと私は剣士団長室を出た。ハディはそのまま食堂に行くそうだが、私の方は妻を迎えに行かなければならない。妻はイノージェンと一緒に、マレック先生の仕事をまだ手伝っているはずだ。今の話を、知られないようにした方が良さそうだ。イノージェンは知れば心配するだろうし、妻に自分も行くと言い出されると困る。だが、この問題の解決策は、思わぬところからもたらされた。
 
 
「失礼します。」
 
 私は医師会の調理場に来ていた。中ではもう看護婦達が食事をワゴンに乗せて出たあとらしく、調理人達もそんなにいない。マレック先生は相変わらず調理場の隅で何か調べている。妻とイノージェンもそこにいて、何かメモを書いていた。
 
「あらクロービス、オシニスさんと話は出来たの?」
 
「終わったよ。お昼だからどうしてるかなと思って呼びに来たんだけど。」
 
「イノージェンがライラ達と一緒にセーラズカフェに行くって言うんだけど、あなたも行く?」
 
「それはいいね。」
 
「あ、クロービス先生、さっきハインツ先生が探してましたよ。」
 
 マレック先生が言った。
 
「あ、そうだ。忘れてたわ。何だか急いでるみたいだったから、顔を見たら伝えますって言っていたんだった。」
 
 妻が『まずい!』と言いたげな顔で言った。
 
「ハインツ先生が・・・。それじゃすぐに行ってくるよ。お昼は食べてきてよ。私は東翼の喫茶室で食べるから。」
 
「そう?いいの?」
 
 妻が申し訳なさそうに私を見た。
 
「いいよ。また機会はあるからね。」
 
 私は妻をなだめて、すぐにハインツ先生のところに行くことにした。クリフの部屋に行ってみよう。もしかしたらクリフの食事も見せてもらえるかも知れない。
 
(今になって容態急変てのは考えにくいな・・・。)
 
 ハインツ先生が急いでいるとすれば、ラッセル卿の件だろうか。ラッセル卿はオシニスさんの計らいで今朝のうちに夫人と一緒に医師会に来たようだが、それほどかからずに戻ったという。ハインツ先生が問診をしたようだから、その件についても教えてもらえるだろう。
 
 クリフの病室に着いて、扉をノックした。中からいい臭いが漂ってくる。返事を待たずに扉を開けると、ちょうど食事の最中だった。
 
「おやクロービス先生、伝言を聞いてくれましたか。」
 
 ハインツ先生は笑顔で振り向いた。クリフは起き上がって自分でスプーンを持っている。ベッドの上に設えられたテーブルには器がいくつか乗っている。
 
「ええ、急いでいらっしゃるようでしたので伺ったんですが、クリフの食事は大分品数が増えたようですね。」
 
「そうなんですよ、そんなに量が増えたわけではないですが、固形物も入れるようになってきたので、そろそろ家庭の味を取り入れてみようと言うことになりました。まあ再現性がどの程度かというのは難しいところですけどね。マレック先生としては自信作のようですよ。」
 
 ベッドのわきにはいつもいる看護婦がノートとペンを持ってクリフに質問している。
 
「え、いやでも・・・そこまでわがままを言うわけには・・・。」
 
「何言ってるの。マレック先生も仰っていたでしょう?あなたのお母様の味付けをどこまでここの調理場で再現出来るかって言うのは、あなたの食事だけの問題ではないのよ。」
 
 今回のクリフの食事では、母親であるサラさんの味付けを細かく聞いて、それを再現した食事を出すことになっている。ちょっと前までは流動食ばかりだったのでそれはチェリルに頼んでいたようだが、固形物を入れた食事になってからはここの調理場で作っているようだ。家庭の味を再現と言っても、あまりにも時間がかかるようでは調理人の負担が増えるだけだ。手間と時間をかければそれにかかるお金も増える。でもマレック先生の考える、患者1人1人に合わせた独自の食事とは、つまり食事を薬と同じように扱うと言うことだから、手間と時間、そしてお金がかかるのはある程度仕方ないということらしい。だが医師会の中でも、全ての医師達がこの件に賛同しているわけではないらしい。お金がかかると言うことは、患者の負担も増えると言うことだからだ。マレック先生としては、ここで小さくてもいいから確実な実績がほしいところだろう。クリフはすまなそうに、何か看護婦に話している。
 
「でも本当においしい食事です。家で食べた記憶のある味に、かなり近いと思います。でも全く同じではないって言うのは、それは・・・。」
 
 クリフが言葉を濁した。母親の作る料理の味、それは家族と共に楽しい食卓を囲んだ記憶の中で思い出される味だろう。完璧に再現というのは無理な話だとも思える。
 
「そうねぇ、家庭の味って言うのは、幸せな団らんの記憶とも繋がっているものよね。今クリフが教えてくれた感想は、そのままマレック先生に伝えておくわ。」
 
 看護婦は理解してくれたらしい。『家庭の味と全く同じ』ことにこだわるのは意味がないような気がするが、あとはマレック先生がどう考えるかということか・・・。
 
「クロービス先生、ちょっと会長室にご一緒していただけませんか?」
 
 ハインツ先生がベッドのそばを離れ、私の隣に来て言った。
 
「会長室に?」
 
「ええ、少しお付き合いいただきたいんですが。」
 
 ここにはクリフもいるし看護婦達もいる。詳しい話が出来ないということだろう。私はハインツ先生と一緒にドゥルーガー会長の部屋にやってきた。
 
 
「おお、クロービス殿、ご足労いただいて申し訳ない。」
 
 ドゥルーガー会長は私の来訪を待っていたようだった。
 
「まあ座ってくれ。ハインツ、説明はしたのか?」
 
「いえ、クリフの病室でしたからね。とりあえずここに来ていただこうと思ってお連れしただけです。説明はこれからですよ。」
 
「ラッセル卿の件ですか?」
 
 私の問いを、ドゥルーガー会長もハインツ先生も予想はしていただろう。クリフの容態がいきなり悪くなることはもう考えにくい。そんなに早くよくなっていくというのは楽観的すぎる見方だが、それでも着実にクリフは快復している。
 
「そうなんですよ。もしかしたら厄介なことになるかも知れません。」
 
 ハインツ先生はそう言って、ラッセル卿との問診について話してくれた。彼が退院する前の聞き取りで、あの「ハーブティ」の影響については、それほど大きくないことがわかったという。もっともあの薬はかなり長い間研究されていて、その効能も副作用もわからないことはほとんどないと言ってもいいくらいだ。だがアキジオンの場合は事情が違う。アキジオン単体でもよくわからないことが多いというのに、それを他の薬と組み合わせた場合にどうなるか、全くと言っていいほどわかっていないのだ。そこでハインツ先生は、その薬のことはもちろん伏せて、今朝の問診では普段の生活の中で体の不調はないか、気分が悪くなったりすることはないか、ごく一般的な問診をしたのだという。
 
「ああ、それですぐに戻ったんですね。オシニスさんがすぐに戻ってきたと言っていたので何かあったのかと思っていましたよ。」
 
「迂闊なことは聞けませんからね。鎮静剤については本人にも話してありますが、アキジオンについてはわからないことが多すぎて、今後毎日一度はここに来て経過観察をしたいところなんですが、本人が難色を示しましてね・・・。」
 
「え、ここに毎日来るのはいやだと言うことですか?」
 
 ラッセル卿は分からず屋ではない。どういうことだろう。
 
「いや、いやだという話ではないんです。本人の言葉を借りれば『自分はとんでもない罪を犯してこれから取り調べを受けなければならないので、まずはそちらを優先したい、ここに来るのはその取り調べが終わってからにしたい』ということなんですよ。何と言いますか・・・これはまあ私の主観ですが、生きることに対して消極的になっているような、そんな印象を受けましたねぇ・・・。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 ラッセル卿は真面目な人物だ。だがその真面目さが、あまりよくない方向に出てしまったらしい。
 
「その時伺ったんですが、ラッセル卿が犯した罪というものの1つに、クロービス先生を巻き込んでしまったと仰っていたんですよね。」
 
「詳しい話は何か言ってましたか?」
 
「・・・その・・・まかり間違えばあなたを死なせるところだったと・・・。」
 
 ハインツ先生は言いにくそうだった。
 
「そうですか・・・。そこまで話をしたんですね・・・。」
 
「しかし我々の仕事は患者の罪を追及することではありません。それは剣士団や審問官の皆さんにおまかせして、私は私の仕事を全うするつもりでいます。そこで、クロービス先生にお願いがあるんです。それでここまで来ていただいたわけなんですよ。」
 
「私に出来ることがあれば何でもします。だいたいラッセル卿の罪も、元を辿ればあの「ハーブティ」の過剰摂取で妄想が酷くなった結果の大きな誤解が元になっているんです。」
 
「うむ、そう言ってもらえるならありがたい。ハインツよ、ここからは私が話そう。」
 
 ドゥルーガー会長が言った。ハインツ先生はうなずいて『お願いします』とドゥルーガー会長に頭を下げた。
 
「貴公に頼みたいのは、ガーランド男爵家の家督相続の場で、ラッセル・ガーランド卿の状態を見守ってほしいということだ。本来ならばここに毎日来てもらって、解毒の薬湯を飲んでもらってその都度問診をするという方法をとりたいのだが、ハインツから聞いた様子では、どうもラッセル卿は自分の治療についてかなり消極的で、全ての片がついたらと、後回しにするつもりでいるらしい。それで間に合うのならば問題ないのだが、正直なところ、アキジオンの毒性も薬効もまだ掴み切れておらぬ。ドーンズの供述書にしても、前回のように薬に関する部分の供述だけをうまい具合にまとめてもらえるとは限らないのだ。」
 
「ああ、それで前回はフロリア様とオシニスさんと、それに医師会に同時に届けてもらうことが出来たのですね。」
 
 私としては助かったが、後になって何で医師会に供述書が直接届けられたのか疑問に思ったものだ。もっとも下手にそんな話をして、実はまずかったなどと知ってしまうのも困るので黙っていたが。
 
「そういうことだ。だがあれは本当にたまたま薬についての供述が多かったので、報告書としてまとめられるくらいの量になったのだそうだ。この先も偶然を頼みに待つというわけには行かぬ。そこでクロービス殿には、家督相続の資料作成の場に立ち会っていただきたい。そしてラッセル卿の状態を観察して、出来るならば一日一度はここに連れてきてほしいのだが、本人が難色を示されれば無理矢理連れてくるわけには行かぬ。その場合はその場で問診をして、記録を作ってほしいのだ。」
 
「なるほど。確かに説得してここまで来てくれるならそれが一番ですが、説得に応じてくれるかどうかはなんとも言えませんからね。」
 
「うむ。あまりしつこく言って押し問答になってしまったのでは、家督相続の手続きにも影響が出よう。そこまでは望まぬ。これは医師会からの正式な依頼となる。私の名前でフロリア様とレイナック殿、それにノイマン行政局長にも依頼書を届けさせよう。正直なところ、貴公に頼むことは出来れば避けたかった。貴公はただの旅行者だというのに、こちらの都合で頼み事をしてばかりだからな。だが、ハインツを行かせるかラッセル卿の担当医となっているベルウッドに行かせるべきか、いろいろと考えたのだが、何と言っても家督相続の場でろくに面識もない医師が常駐していたのではガーランド男爵家の人々も警戒するであろう。その点において貴公ならば相続人全員と面識もあることだし、適任と考えてもいいのではないかという結論に至ったのだ。どうだろう、頼まれてはくれぬか?」
 
「もちろん、引き受けさせていただきます。ラッセル卿のことは私も気になっていました。彼は元々真面目で冷静な人間です。今回のようなことが起きて、本人が一番苦しんでいると思います。しかし彼には家族がいます。その家族のためにも早く元気になってもらわなければなりませんからね。」
 
 医師会からの正式依頼だろうが、今の私に迷いはない。出来ることは何でもするつもりでいる。その後、ハインツ先生からラッセル卿の問診の結果についての資料と、アキジオンの薬効、或いは毒性について、医師会でわかっている限りの資料をもらった。フロリア様達への依頼書は今日のうちに届けさせると言うことだったので、ひとまず私は東翼の喫茶室に向かい、食事をすることにした。食べながらもらった資料に目を通す。アキジオンの分析については私の知らないこともあり、そして私の知っていることが記述されていなかったりした。この辺りはあとでハインツ先生と相談しよう。それと、またブロムおじさんに手紙を出して、アキジオンについてわかっていることと分析の過程や結果についても送ってもらったほうがいいだろう。研究過程の資料は全てきちんと整理してある。それに、単に『こんなことを知ってます』だけでは医師会での研究資料に書き加えてもらうことは出来ない。裏付けとなる資料は必要不可欠だ。
 
(リーザのことは・・・フロリア様への依頼が届いた時点で、医師会と情報を共有したほうがいいかどうか、フロリア様か・・・レイナック殿かが判断するだろう。)
 
 少なくとも、さっきの場でその話を私がすべきではない、そう考えて黙っていた。この判断は間違っていないはずだ。
 
「午後からいったん『我が故郷亭』に荷物を持っていったほうがいいかなあ。」
 
 ラドからは、戻ってくる時は事前連絡は要らないと言われているので、荷物を持って夕方に戻るつもりでいたのだが、早めに荷物だけ持っていった方がいいような気がしてきた。
 
「とりあえず、手紙を書くか・・・。」
 
 東翼の宿泊所の部屋はまだ荷物が置いてあるので、使うことが出来る。私は部屋に戻って手紙を書き始めた。
 
 
「よし、これも宿に戻って荷物に入れてもらったほうが早いかな。」
 
 書いた手紙の内容を確認して、封筒に入れたところで扉がノックされ、開いた。妻が戻ってきたのだ。
 
「お帰り。セーラズカフェは混んでた?」
 
「そこそこってところかしらねぇ。そろそろ祭りも終盤だから、観光客達が帰り始めているみたいよ。バザールの店も少し規模が縮小したみたいだし。セーラさんはもっといてくれてもいいのにね、なんて言ってたけど。」
 
「終盤と言うより、本当なら終わっていてもいいくらいの時期だよね。」
 
「フロリア様が終了宣言するまではお祭りが続くから、フロリア様としても悩んでいらっしゃるのかもね。」
 
「ははは、そうだね。イノージェン達は?」
 
「午後からお祭りを見に行くみたいよ。そろそろ終わりって聞いて、行ける時は出来るだけ行きたいって、多分ライラとイルサも一緒に行くと思うわ。ランドさんには報告しておくって言ってたわよ。」
 
「へえ、3人ともあの取り決めをきちんと守ってくれているんだね。」
 
「そうね、私達としても安心出来るじゃない?ねえ、その手紙は誰宛?」
 
 妻は私の持っている手紙に気づいていた。
 
「ブロムおじさんに手紙を書いたんだ。君にも読んでもらって誤字脱字がないかどうか確かめてほしいんだけど、その前に、これを書く必要が出てきた理由について少し話を聞いてくれないか。」
 
 私は今朝剣士団長室で出た話と、さっき医師会で聞いた話をした。でもリーザが家督を継ぎたいと言った話はしていない。オシニスさんは事もなげに話していたが、これは極秘事項と言ってもいい。
 
「そんなことがあったの・・・。でも医師会からの申し出は渡りに船だわね。リーザのことは話したの?」
 
「話してないよ。それを話すのは私の役目じゃないからね。」
 
 リーザの件はオシニスさんから頼まれたことだ。医師会からの依頼に対してその件について話すことが出来るのは、オシニスさんか、でなければフロリア様だ。私が話すべきことじゃない。
 
「役目って・・・でも少しでも情報を出しておけば治療が早く進むじゃないの。」
 
 妻がじれったそうに言った。何をぐずぐずしているんだと言いたげだ。
 
「だから、その情報を出すのは私の役目じゃないんだよ。ウィロー落ち着いてよ。リーザのことが心配なのは私も同じだけど、相手がドゥルーガー会長だとしても、迂闊に口に出していいことじゃないんだよ。」
 
 妻はリーザのことが心配だから、医師会からラッセル卿の健康状態を見守るという役目を頼まれたのなら、リーザのことも情報を共有して医師会で気にかけてもらえばと考えたのだろうけど、その情報を勝手に誰かに話すべきじゃない。そもそもフロリア様からオシニスさんとノイマン行政局長に話が行ったのも極秘だろう。
 
「その話を私が独断でドゥルーガー会長に話をするってことは、患者の秘密を漏らすことと同じだよ。」
 
 納得行かないのがはっきりとわかるほどにしかめ面をしていた妻は、今の私の言葉にびくっと震えた。リーザが『心の病』かどうかはまだわからない。だとしても医師としてリーザを見てくれと頼まれたのだから、リーザは私の患者だと言うことになる。患者の病気の内容、発症に至った経緯、医師は誰でも患者の秘密を知ることになる。でもそれを誰かに独断で話すなんてことがあってはならない。
 
(冷静になってくれればわかってくれるはずだけどなあ・・・。)
 
 ドゥルーガー会長から依頼が届いた時点で、フロリア様なりレイナック殿なりが話をするのではないかと思っている。そこまで含めて診てくれと言うことであれば、私は断るつもりはないが、今のところはまだそれぞれ別の話だし、フロリア様がその話をドゥルーガー会長にするかどうかもわからない。私は立ち上がり、椅子に座ったままの妻の隣に立って、妻をぎゅっと抱きしめた。
 
「君が怒っても納得してくれなくても、私は患者の秘密を漏らすようなことはするつもりはないよ。あとね、今日の夜は宿に戻るつもりだけど、今のうちに荷物を持って一度戻ろうかと思ってるんだ。その時に手紙を頼めるかどうかも聞いてくるつもりだよ。君はどうする?」
 
 妻はしばらく黙っていたが・・・。
 
「その手紙を読ませて。」
 
 小さな声で言った。私は手紙を妻に渡し、読み終わるまで待っていた。
 
「アキジオンの・・・研究結果についてなのね。」
 
「そうだよ。ほら、これはさっきハインツ先生からもらってきた資料だよ。私がまだ掴めていない情報もあるし、私が検証した情報がなかったりするから、この植物についてはもっと情報交換をしなくちゃならないと思ってね。」
 
「わかった・・・。とにかく荷物をまとめて宿に一度戻りましょう。」
 
 妻が納得したかどうかはわからないが、とりあえず東翼の宿泊所を引き払うことには同意してくれた。腹を立ててここに残ると言われたらどうするかなと思ったが、ここで別行動を取ろうとするほどには、怒っていないようだ。
 
 2人で荷物をまとめ、管理人に挨拶して東翼の宿泊所を出た。今度は荷物を持って宿に戻るわけだが、まず王宮のロビーを抜けるだけで一苦労だった。
 
「祭りが終わりそうだというのに、ここはすごいね。活気があること自体はいいことなんだろうけど。」
 
 私達には見慣れた光景だが、遠い地方から出てきた人達にとって王宮なんて滅多に見られない場所だ。話のタネに一度は見学、くらいのつもりで来るのだろうが、いつも執政館の前や医師会、礼拝堂などへの通路の入り口に立っている王国剣士達はピリピリしていそうだ。この人混みが、全て祭り見物の善人ばかりとは限らない。
 
 
「ふぅ、やっと着いたな。」
 
 久しぶりに『我が故郷亭』の扉を開けた。まだ昼間だというのに、乾杯をしている一団がいる。
 
「いらっしゃいませ!あれ、今日からこちらですか?」
 
 出迎えてくれたのはノルティだった。
 
「一仕事終わったからね。部屋はすぐに入れるかい?」
 
「はい、いつ戻られてもいいように掃除はしてあります。では、お荷物をお持ちしますね。」
 
 ノルティはさっと私達の荷物を持って、以前泊まっていた部屋に案内してくれた。
 
「今日の夜から食事はなさいますか?」
 
「頼むよ。これからまた出掛けるから、戻るのは少し遅くなるかも知れないけどね。」
 
「はい、それは大丈夫です。では予定しておきますね。」
 
 妻は黙ったまま部屋の椅子に腰掛けた。
 
「落ち着いた?」
 
「そうね・・・また同じ失敗をするところだったわ・・・。」
 
「また?」
 
「そう。もう大分前、私達がブロムさんについて勉強していた頃の話よ・・・。」
 
 そう言って妻が話してくれたことを、私も思い出していた。当時私達はまだまだ駆け出しとも言えないほど勉強を始めたばかりで、ブロムおじさんが診療所の医師として診療をしていた。おじさんはどんなに患者がたくさん待合室で待っていても、診療室には1人ずつしか患者を入れなかった。ある時酷い風邪が流行り、待合室も患者で溢れそうになっていた時、1人の患者が診療室を出たあと、私が聞いたのだ。
 
『おじさん、みんな同じ病気なんだからまとめて入れて症状を聞けば薬もまとめて作れるんじゃないの?』
 
 効率を考えてそのほうがいいと私は考えたのだが、おじさんは首を横に振った。
 
『何故それがだめなのかという話はあとにしよう。ほら、お前はこっちの薬を作ってくれ。』
 
 渡された処方箋は何人分もあり、やはり同じ薬をまとめて作れればもっと早く患者を診ることが出来るのにとその時は思ったものだが・・・。
 
 その日の夜、私達は食事のあとおじさんから話があると言われ、後片付けの前に聞くことにした。
 
『今日みたいに同じような症状の患者がたくさんいるとしても、その病気になった原因は人それぞれだ。それに、同じような風邪だと思っていたら別な病気だったと言うこともある。そういう時、誰だって自分の病気を人に知られたくないものだが、私達医師だけは患者の様々な秘密を知ることになるんだ。風邪ではなく質の悪い病気だったりした時に、周りの人達から敬遠されてしまうこともある。風邪だと思って何人も患者を診療室に入れて、中に違う病気の人がいたらどうする?ここの住人はいくらほとんど顔見知りとは言え、他人は他人だ。その前で、あんたは風邪ではなくこれこれこういう病気だと言うつもりか?それに、もしもその場で黙っていたとしても、伝染性の強い病気だったりするとすぐにでも隔離しなくちゃならん。何も知らない患者達の前で1人だけ別室に連れていったりしたら変に思われるだろう?』
 
 それを聞いて私は何も言えなかった。自分の考えがいかに浅かったかを思い知らされた。それ以来、私はどんなに忙しい時があっても、安易に患者をまとめて扱おうなどとは考えなくなった。今思えば、『同じような風邪だと思っていたら別な病気だったと言うこともある。』と言う言葉は、おじさんの苦い経験から出た言葉だったのだろう。辛い思いを押し隠して私達を諭してくれたのだ。
 
 
「確かに・・・あの時は私も自分の考えが浅かったと思ったよ。でもあのあと、その話が出たことなんてあったっけ?」
 
「ええ。多分あなたは薬を届けにどこかに出掛けていた時だったと思う。川向こうの村の患者さんが来ていた時があったんだけど、数日前にその家のお嫁さんが診療所に来ていたのよ。その時の患者さんの病気は、そのお嫁さんの症状とすごく似ていたわ。だから私は思わず『あら、お嫁さんと同じ症状だから同じ薬で大丈夫ね』と言ってしまったのよ。そしたらその患者さんが『え!?うちの嫁が来てたの!?』ってすごくびっくりしたの。だから『知らなかったの?』って言おうとした時ブロムさんが私の言葉を遮って『薬を処方するから待っていてくれ。ウィロー、クロービスがいないから、君がやってくれ。処方箋はこれだ。』って私に言ったのよ。あの時私は、同じ家の中で同じ病気になった家族がいるなら、一緒に来ればいいのにと簡単に思ったんだけど、私が薬を取りに行っている間、その患者さんがお嫁さんのことをいろいろと聞いていたの。あのあと怒られたわよ。ブロムさんの怒り方って大きな声を出すわけではないんだけど、すごく怖かったわ。その家ではお嫁さんと旦那さんのご両親との折り合いがあまりよくなかったらしいの。しかも、お嫁さんとその患者さんの病気は、全然違うものだった。単に症状が似ていただけ。」
 
『同じ症状があろうと、たとえ同じ家の患者であろうと、何があっても患者の病状などを他の患者や知り合いに話してはいけない。』
 
 その時妻は身に染みてその言葉を胸に刻んだのだという。だがリーザの件でずっと心配していた時にその弟のラッセル卿の診療を私が頼まれたから、当然リーザのことも情報を交換するべきだと思い込んでしまった。親しい友人のこととなると、妻はどうしても感情的になってしまう。
 
「私・・・やっぱり医者には向いてないわねぇ・・・。」
 
 妻がぼそりと言った。
 
「そんなことはないと思うけどな。でも、この間の整体専門の医師の話は受けるって決めたんだよね?」
 
「それは受けるつもりよ。でも技術的なことはともかく、自信がなくなっちゃったわ。島の診療所では私は看護婦だから、とにかくあなたやブロムさんの隣で黙っていることを心がけているけど、自分が診療するとなると、余計なことを言っちゃいそう。」
 
「まあ、あんまり深く考えるのはやめておこう。その話は島に一度帰ってから、おじさんと相談してもいいと思うよ。それよりやっと観光客に戻れるんだから、またお祭りに行きたいね。さすがに最近ではバザールの店を畳んで帰る商人も出てきたみたいだし、行けるところにはいろいろと行っておかないとね。」
 
 妻はふふっと笑った。
 
「そうね。またお祭りを楽しみましょう。ねえ、あなたの立ち会いはいつからなの?」
 
「早くても明後日辺りかな。正式な話として医師会からフロリア様に依頼が行くってことは、ガーランド男爵家の人達にも説明があるはずだからね。それからになるはずだよ。」
 
 ラッセル卿はともかく、リーザは多分断ろうとするだろう。今のリーザは私達が知っているリーザとは違うと思っていた方が良さそうだ。だがこちらも引くつもりはない。ハディが言うように、リーザが母親に「取り憑かれている」というのなら、何が何でも母親の影からリーザを引きはがしてやる。
 
 
私達は1階に降りて、手紙を頼めないかとノルティに尋ねた。
 
「大丈夫ですよ。これから運送屋さんが来るので、ローランに運ぶ荷物に入れてもらえれば、定期船に乗せてもらえます。」
 
 外から来る荷物の他に、宿泊客がお土産を自宅や知り合いに送ることもあるので、運送屋は定期的にやってくるらしい。
 
 私はノルティに手紙を預け、妻と2人で人混みの中を王宮へと戻った。もうパレードはやらないのかも知れないが、やってないとしても人混みは変わらずだ。だが確かに以前よりは人が減っている気がする。
 
 
「何かいつもより・・・人混みを抜けるのが楽だったような・・・。」
 
 妻が首を傾げている。
 
「うん、人は減っていると思う。でもその分王宮のロビーがすごかったよね。」
 
 人混みの中に巻き込まれないように、壁伝いに移動しようとしたのだが、壁際まで人がびっしりだった。王宮の中のほうは、以前より遙かに人が多い。
 
「ロビーの人が減ってくると本格的に祭りは終わるってことらしいけど、警備をする王国剣士は大変だね。」
 
 人数制限をすれば文句を言われ、それでも不届き者がいないか目を光らせなければならない。
 
「そうよねぇ・・・。」
 
「ウィロー、これからオシニスさんのところに行ってみる?さっきの話が聞けると思うよ。まあ・・・オシニスさんがいればの話だけど。」
 
 剣士団長の仕事はガーランド家の家督相続だけではない。いない可能性のほうが高いとは思う。
 
「そうね・・・。どうなったのかは気になるから、行ってみたいわ。」
 
 いなければランドさんに伝言を頼んでこようという話になり、私達は剣士団の採用カウンターに行ってみた。案の定オシニスさんは不在で、今日はいつ戻るかわからないので、ランドさんもしばらく待って戻らないようなら帰るという話だった。私は、聞きたいことがあったので明日にでもまた来てみますと伝言を頼んだ。ランドさんもリーザの件は聞いていたようで、明日の朝顔を合わせたら一声かけておくよと言ってくれた。
 
 
「さてと・・・それじゃどうする?オシニスさんに話が聞けるのは明日だし、今日は思いがけず時間が空いちゃったね。」
 
 夕方と言うにはまだ少し早い時間帯だ。外はまだ明るい。妻は少し考えていたが・・・。
 
「ねえ、いないかも知れないのは同じだけど、これから医師会のドゥルーガー会長のところに行ってみたいわ。あの専門医の話を、きちんと話さなきゃ。」
 
「そうか、そうだね。まずは受けるという話だけでもしておこうか。」
 
 私達は医師会に足を向けた。まずはクリフの病室に行って、ハインツ先生に会長の予定を聞くことにした。ちょうどハインツ先生もいたしクリフも起きていて、話をすることが出来た。
 
「会長ですか・・・。午後からは出掛けているはずですが、そろそろ戻る頃合いですよ。差し支えなければ会長室までご一緒しますがどうしますか?」
 
「あの、ハインツ先生のほうでご予定がなければぜひお願いします。ご相談したいことがありまして・・・。」
 
 妻が言った。
 
「おや、そういうことでしたら行きましょうか。」
 
 ハインツ先生は看護婦達に後を頼み、クリフにはくれぐれも無理をしないで体を休めるように言い置いて一緒に病室を出た。
 
 
 会長室の前に着き、ハインツ先生がノックすると中から返事があった。
 
「お、ちょうど戻られたようですね。失礼します。入ってもよろしいでしょうか。クロービス先生ご夫妻も一緒なんですが。」
 
「入ってくれ。ちょっと手が離せないのでな。」
 
 声があり、私達が中に入ると、ドゥルーガー会長は何冊もの本を本棚に入れていたところだった。
 
「これはまたすごいですね。今日の会議で使われたものですか?」
 
「使うところまでは行っておらぬ。話が出て、それぞれ調べてみようと言うことになったまでだ。」
 
「相変わらず悠長なことですな。」
 
「ふん、既に現場を退いたというのに、しょうもない会議を開いているだけだ。呼び出されるこっちの身にもなってほしいものだというのに。」
 
 どうやら今回の会長の外出は、実のあるものではなかったらしい。察するに、引退した医師会の先輩達のわがままに付き合わされていると言ったところか。
 
「おお、クロービス殿、ウィロー殿、愚痴を聞かせてしまって失礼した。何か話があるのかね。」
 
「はい、今お時間は大丈夫ですか?出来ればハインツ先生にも聞いていただきたいんですけど・・・。」
 
 妻が少し遠慮がちに言った。
 
「うむ、今日は年寄り連のわがままに付き合うために時間を取っておるからの。思ったより早く終わったことだし、時間はある。何か気になることがあるなら何でも言うてくれるかね。」
 
 先ほど私に依頼した件については、会長は何も言わなかった。これが当たり前なのだ。私が妻にその話をするとしても、それはそれ。会長が私に依頼した患者の話を妻にしたりはしない。
 
「私も時間はありますよ。クリフの経過は順調ですし、今のところは目を離せない患者は受け持っていませんからね。」
 
 2人とも笑顔でそう言ってくれた。
 
「ありがとうございます。まずは先日お話をいただいた整体専門の医師の話なんですけど・・・。」
 
「おお、あの話か。では是非とも聞かせていただかねばならぬな。」
 
 妻はまず、整体専門の医師の試験が本決まりになったら、ぜひ試験を受けてみたいという話をした。ドゥルーガー会長もハインツ先生も、とても喜んだ。ただし話をもらった時に見せてくれた資料については、もう一度ちゃんと見せてもらって、改善に協力させてほしいと言うことも付け加えた。
 
「そうですねぇ。あれは何かしらの叩き台がないことには話が進まないと言うことで、急遽作ったものなんですよ。あのまま御前会議に出せるような代物ではありませんから、改善にご協力いただけるなら歓迎しますよ。」
 
「ありがとうございます。あともう一つお話があるんですけど・・・。」
 
 妻はさっきの私とのやりとりを、『以前島で経験した苦い思い出』として説明した。医師として試験を受けるという覚悟は決まったが、果たしてこんなことで頭を悩ませている自分に医師としての仕事が務まるものか、自信がないのだと。この話では私も医師としての勉強を始めた頃、同じような失敗をして師に叱られたと言う話をした。私はそれ以来、仕事中は常に気をつけて、似たような病状でも先入観を持たないようにしているが、看護婦としてずっと仕事をしてきた妻は、医師としての仕事についてはこれから考えることなので、もしも差し支えなければ、ぜひお二人の意見を伺いたいと頼んだ。
 
 
「ふぅむ・・・ウィロー殿、それはおそらく医師を志すものが一度は陥るジレンマというものだな。」
 
 ドゥルーガー会長が言った。
 
「ジレンマ・・・ですか・・・。」
 
「うむ、同じ家に住むそれぞれの患者の情報を、患者同士で共有出来るなら、本当はそれが一番いいのだ。風邪を引いたり、実は質の悪い流行病などだったりすると、知らぬ間に家族同士で感染してしまう場合もある。だが、そうではない病気の場合、誰にも知られたくないと思う患者は多い。そんな時は、それぞれの患者1人1人を根気よく説得し、家族での話し合いをしてはどうかと持ちかける場合もある。無論全てではない。知られたくないなら、知られずにすむうちに治癒してしまえば何事もなくすむ。早い段階で病気が見つかり、適切な治療を行えばすぐによくなると言う場合もあるからな。まあ伝染性がないという前提はあるが。」
 
「そうですねぇ。病気の内容、患者の性格、その時の精神的状態によっても対応は変わります。ウィローさんがその件をきっかけに、家族同士といえども迂闊に別な患者の情報を漏らしたりしないように心がけているのであれば、それでいいんじゃないかと思いますよ。大事なのは考えすぎないことですよ。考えすぎて対応が遅れたりすることの方が大変ですからね。」
 
「そう・・・ですね・・・。あんまりそのことばかり考えるのもよくないですよね・・・。」
 
 妻が半分ひとりごとのようにつぶやいた。
 
「そういうことですよ。医師として診察をすることになったとしても、患者さんには看護婦として今までしてきたように接すればいいんです。」
 
「はい。わかりました。お2人とも相談に乗っていただいてありがとうございます。」
 
 少しずつ妻に笑顔が戻ってきた。ついさっき同じ失敗をするところだったと言うことで意気消沈していた妻だが、2人の言葉で大分元気づけられたようだ。
 
「ドゥルーガー会長、ハインツ先生、ありがとうございました。あともう一つ、私からもお願いがあるのですが・・・。」
 
 私はさっき預かったアキジオンの分析結果について、こちらでもわかっていることがあるので情報を交換したいという話をした。もちろん口頭での説明だけでは裏付けが取れないので、先ほど島に手紙を出し、島に保管されている研究結果を送ってもらえるように頼んだことも。
 
「ほぉ、それはありがたいですね。しかしいいんですか?あとでまとめて論文発表をされるおつもりだったのでは?」
 
「そう言う話も出ましたけどね、この植物についてはそこいら中に生えているというのにわからないことが多すぎるんです。まずはハルジオンと間違えてうっかり食べてしまったりしないよう、広く知識を普及させることが大事だという話になったんです。島にも自生していますが、見つけ次第引っこ抜いてますよ。あとは薬草栽培をお願いしている家の庭に植え替えてもらって、分析を行う時に役立てています。ただ島の研究設備ではそれほど大規模な分析は行えません。人手も必要ですし。それで少しずつ診療の空いた時間に進めていたんですが、ハインツ先生から見せていただいた資料が素晴らしかったものですから、これはもう協力させていただいて、研究結果を共有させていただけないかという、まあ虫のいい目論見もあるんですよ。ただし、ハインツ先生が論文をまとめられると言うことであれば、もちろんこの話はなしです。かなり大規模な分析をされて詳細な結果が得られているようですし、十分論文として発表される価値のあるものだと思いますから。」
 
 ハインツ先生は少し考えていたが・・・。
 
「いや、協力させていただけるならそちらを優先したいです。実を言いますと、人手を集めて何度か大規模な分析や実験を行っているのですが、なかなかうまく行かずにどうしようかと考えていたんですよ。同じ実験を行っても同じ結果が得られなかったりして、どうにも正体が掴めずにいるところなんです。誰かが間違えて食べてしまったりと言うことが実際にありましてね。今のところは何とか死人は出ていませんが、このままではいずれ出る可能性もあります。いくら食べるなと言っても、貧しい人達は野草を摘んで食事の足しにしたりすることがありますからね。一刻も早く分析を進めて毒草として登録し、見つけ次第駆除という形を取りたいところなんですがねぇ、うまく行かなくて。」
 
 それに、新種の植物は植物学者によってかなりの数見つかっており、それらの植物に薬効があるのか毒があるのか、そちらも調べなければならない、アキジオン一つにいつまでもかかっているわけにも行かず、今のところは手詰まりと言うことらしい。
 
「それでは島から私の師が送ってくれる研究結果が届いたら、改めて打ち合わせをさせてください。それからまた考えましょう。」
 
「ええ、ぜひお願いしますよ。」
 
 これで話はまとまったが、医師会の中には私がハインツ先生の研究成果を横取りしようとしているなどと言う人達もいるかも知れない。そこは気をつけて話をしなければならない。こちらにそんな意図が一切なくても、一度誤解されてしまうとそれを解くのは大変なことだ。
 
「ではクロービス殿、明日からラッセル・ガーランド卿の診察のこと、よろしくお願いする。」
 
「わかりました。」
 
 ドゥルーガー会長からリーザの話が出なかったところを見ると、フロリア様は何も言ってないのかもしれない。言ったとすれば私に話さないのは意味がない。
 
(まあ・・・フロリア様から医師会に正式に依頼などと言うことになったら、かなりの大事だからなあ・・・。)
 
 そうなると患者の秘密も何もあったものじゃないし、下手をすれば王国剣士としてのリーザの将来にも影響が出る。少なくとも護衛剣士を続けることは難しくなるだろう。そうなったら、フロリア様は大事な友人を失うことになる・・・。
 
 でもそれを私が心配しても始まらない。私は私に出来ることをする、それだけだ。その後ガーランド男爵についても聞いてみたが、相変わらず目覚める気配がないこと、このままでは食事が取れず衰弱するだけなので何とか頑張っているが、先が見通せないと、ハインツ先生が悔しそうに言っていた。
 
 
 医師会を出たのはもう外が暗くなる頃だった。ふと思い立ち、剣士団長室の様子を聞いてこようかと思ったが、ちょうどロビーに降りてきたランドさんと出会った。
 
「何だまだいたのか。」
 
「ええ、医師会で少し打ち合わせがありまして。オシニスさんはまだ戻られませんか。」
 
「ああ、執政館勤務の組が伝言を持って来たんだ。しばらくかかるから帰ってくれていいってな。それで俺も帰るところさ。あ、お前の伝言はそいつらに頼んでおいたぞ。明日の朝にはメモなり伝言なりが届くだろう。」
 
「わかりました。ありがとうございます。」
 
 ロビーから王宮の外に出て、そこでランドさんとは別れた。
 
「頭の痛いことばかりね・・・。」
 
 妻がため息とともに言った。
 
「そうだね・・・。何とかいい方向に進んでいけるといいんだけどな・・・。まずは宿に帰ろう。久しぶりにあそこの特製ディナーが食べられるよ。」
 
「ふふ、そうね。久しぶりだから楽しみだわ。」
 
 妻はすっかり元気を取り戻したらしい。私も一安心だ。今回の妻の悩みは、実はそう簡単に解決する問題じゃない。私だって以前の失敗から気をつけるようにしているが、それでも「こうした方が効率はいいし、出来る限りたくさんの患者を診られる」と考えたことは何度もある。ドゥルーガー会長だってハインツ先生だって、同じような壁にぶつかって何度も悩んだのではないかと思う。妻が医師としての活動を始めたら、おそらく同じ悩みで何度も壁にぶつかる。でも患者にとって医師は医師なのだから、いちいち自信をなくしてなんていられないのだ。私が悩んだ時にはブロムおじさんがいたように、妻が悩んだら私は何度でも手を差し伸べる。そして一緒に問題解決が出来たらと思う・・・。
 
 
 我が故郷亭ではフロアが今まで通りの忙しさだったが、私達をめざとく見つけてくれたラドが『すぐにメシを持っていくよ!』と言ってくれたので、そのまま自分達の部屋に戻ってきた。ノルティがいなかったところを見ると、今日は芝居の出番なのだろう。
 
「もう一度くらいお芝居を見に行きたいわ。あの演劇学校のお芝居がかなり評判らしいわね。」
 
「そうらしいね。演出や台詞がたびたび変わるらしいけど、若手の役者がみんなそれについて行ってるって、すごいよね。」
 
 医師会の看護婦達の間でもあの芝居は好評らしく、私達が見に行ったと聞いて目を輝かせていたっけ。たかが芝居、されど芝居、あの胸を打つ演技は、きっとたくさんの観客達の心に響いているだろう。
 
 その後届いた食事は、以前と変わらぬ『特製ディナー』だ。おいしい料理に舌鼓を打ち、宿の風呂に入るともう眠くなってきた。
 
「あなたは明日からラッセル卿の見守りに行くのね。」
 
「うん、リーザのこともよく見ておくよ。朝のうちにオシニスさんと話せるといいんだけどな。」
 
「明日の朝はまず剣士団長室ね。」
 
「そうだね。君はどうする?」
 
「私はクリフの病室に行ってみるわ。イノージェンがどうする予定なのかも聞いてないから、そちらも聞いておくわね。」
 
「一緒に行かなくていいの?」
 
 妻はしばらく考え込んでいたが・・・。
 
「私が行くと余計なことを言いそうだからやめておくわ。あなたが患者の秘密を漏らせないのは変わらないものね。」
 
 不本意そうではあったが、妻はオシニスさんと直接話すことは諦めたらしい。
 
「わかった。イノージェンと、マッサージのことは頼むよ。」
 
 本来ならば私達はもう医師会の仕事とは縁が切れたはずなのだが、整体の専門医師の件もあるし、ゴード先生のマッサージはまだまだムラがあって、うまく行く時と行かない時があるらしい。時々でいいので来てくれないかと言われてもいるので、特に用事がない時は顔を出しておくことにしたと言う話だ。
 
「クリフのほうはどうなの?」
 
「私は診ているわけじゃないから。いつもゴード先生の後ろに控えて、ゴード先生のまっサージを見ているだけよ。」
 
 まあそれもそうか。妻は医師ではないのだから、診察するわけにはいかない。離れていてはなかなか状態を把握するのは難しい。
 
(リーザの家督相続の話は、しないほうがいいかも知れないな・・・。)
 
 そのことも精神的な病気の一つの症状なのかも知れない。迂闊に話せないのは同じだ。
 
(リーザが早く正気に戻ってくれればいいんだけどな・・・。)
 
 そんな話が笑い話になれるくらいになってしまえばいいのに・・・。
 
 
 翌朝、私達は宿で食事をして、王宮に出掛けた。早めに出たおかげかロビーの人混みはまだそれほどでもなかった。でも外には人が集まり始めていたので、すぐに一杯になるのだろう。妻とは医師会への通路の前で別れた。昨日話し合ったとおり、妻はクリフの病室へ向かい、私は1人で剣士団の採用カウンターにやってきた。ちょうどランドさんがカウンター奥の扉の中から現れたところだった。
 
「おお、随分早いな。」
 
「ええ、ロビーが一杯になってしまうと、ここまでそう簡単にたどり着けなくなってしまいますからね。オシニスさんはいらっしゃいますか?」
 
「ああ、今はいるはずだ。ほれ、お前宛の伝言を書いた紙が、今朝ここに置かれていたからな。」
 
 渡された紙を開くと『クロービスが来たら、朝のうちに団長室に来てくれと伝えてくれ。』と書かれている。
 
「ありがとうございます。行ってみます。」
 
 剣士団長室の扉をノックすると、すぐに開いた。
 
「おはよう。早いな。」
 
「おはようございます。お忙しいのに済みません。」
 
「そんなことはないさ。頼み事をしたのはこっちだからな。まあ入れよ。」
 
 中に入ると、お茶の用意がしてある。
 
「昨日は悪かったな。ガーランド家の件でいろいろと準備が立て込んでいたんだ。戻れそうもないからランドには適当なところで帰ってくれと伝言をしたんだが、頼んだ連中がランドからの伝言を持って来てくれたんだ。よかったよ。でないとすれ違いになっちまうかも知れなかったからな。ところでウィローは来なかったのか?」
 
「何とか諦めてくれました。」
 
「そりゃよかった。あんまり話したい内容じゃないからな。お前とハディで留めておいてほしいよ。ウィローにはどこまで話したんだ?」
 
「リーザが自己暗示でおかしなことになっている、と言う程度ですよ。」
 
「まあ何も言わないと、あれこれ考え過ぎて心配しちまうだろうからな。」
 
「それだけですんでくれればいいんですけどね。」
 
「話せることがあれば話してやりたいが、どこまで話すかって考えると、どうしたもんかなと思っちまうよなあ。」
 
「そうなんですよね・・・。」
 
「まあウィローのことは置いておこう。クロービス、昨日医師会で頼まれたって言う話をしてくれないか。」
 
 出されたお茶をごちそうになりながら、私は昨日の医師会で頼まれた話をした。フロリア様のところに話が行っていればオシニスさんは知っているとしても、きちんと最初から話した。
 
「・・・とまあ、こういうことです。フロリア様のところへはもう連絡は行ってますよね。」
 
「ああ、来ているぞ。何でもラッセル卿がそうと知らずに服用していた薬の中に含まれている成分が、どうもまだはっきりと解明されていない部分の多い植物だから、しっかりと見守る必要があるって話だったな。」
 
「ええ・・・。まさかあんなものをあの「ハーブティ」に混ぜていたとは・・・。とんでもない話なんです。もちろんそれほど大量ではないので、このまま何事も起きない可能性の方が高いです。でも私達が把握出来ていないその植物の毒性が、ラッセル卿の体に牙を向かないとは言えないんです。」
 
「・・・フロリア様としては、リーザの件でお前を家督相続の書類作成の席に列席させる理由付けが出来たのはありがたいことだが、リーザだけでなくラッセル卿も観察の必要があるとはな・・・。」
 
「フロリア様は、リーザの件についてはドゥルーガー会長に話をしていらっしゃらないんでしょうか。」
 
「ああ、まだしていないようだ。」
 
 やはり先走ってドゥルーガー会長に話さなくてよかった。
 
「フロリア様としては悩まれたようだが、リーザの場合はっきりとした病気かどうかまでわからないからな。お前が言う、心の病のような兆候があるのは確かだが、フロリア様としては出来るだけ大事にせずに済ませたいとお考えらしい。耳聡い大臣達に知られると、厄介なことこの上ないからな・・・。」
 
 オシニスさんが忌々しそうに言った。
 
「わかりました。それならばフロリア様のご意向に沿う形で最善を尽くします。ハディが一緒なら、リーザのことはある程度ハディを当てにすることも出来ますしね。少なくともラッセル卿は、治療をすると言えばそれほど強硬に断ろうとはしないでしょう。リンガー夫人やランサル子爵夫妻が同席しているならなおさらです。」
 
「やっぱり一番の心配はリーザだよな・・・。」
 
「そうですね。リーザは私とハディのことは聞いてるんでしょうか。」
 
「ああ、昨日医師会から要望が出たあと、すぐに伝えたらしいぞ。かなり難色を示したようだが、あくまでもラッセル卿のためだと言われて承諾したらしい。ま、フロリア様からのご命令という形だし、ここでゴネれば家督相続の書類作成が進まないからな。不承不承承諾したようだが、やはりリーザとしては、男爵が目を覚ます前にケリをつけたいんだろうな。」
 
「男爵は目覚める気配がないそうですよ。このままでは衰弱して死んでしまう危険性もあると。」
 
「そうか・・・。身から出た錆としか言いようがないが、全くバカなことをしたもんだな・・・。」
 
「そうですね・・・。」
 
 自分が死んでしまったら、イノージェンがガーランド家の一員になるところなんて見ることも出来ないのに。もっとも助かったところで、それは叶わぬこととなってしまったが。
 
 
「失礼します。」
 
 扉がノックされた。この声はハディだ。
 
「開いてるぞ。入れよ。」
 
「おはようございます・・・。あれ?クロービスもう来てたのか。」
 
「おはよう。ちょっとした打ち合わせがあってね。」
 
「ハディ、昨日の夕方この件について動きがあったんだ。クロービス、医師会の件はまだハディに話してないんだ。ここで少し話を合わせておこう。」
 
「医師会?何かあったんですか?」
 
 椅子を持って来ながらきょとんとして尋ねるハディに、オシニスさんはいそいそとお茶を淹れた。
 
「いや、実はな・・・。」
 
 オシニスさんの説明を聞いたハディは、自分達がガーランド男爵家の家督相続の場に居合わせる理由が出来たことに喜んだ。
 
「でまあ、今回医師会から要請があったのはクロービスだけだが、ラッセル卿を心配しているハディがその話に乗ったと言うことにした。お前だってラッセル卿のことは心配だろう?」
 
「もちろんですよ。なあクロービス、今の話では、ラッセルに何事もないかどうかはまだわからないってことなんだよな?」
 
 ハディは複雑な顔をしている。リーザのそばに堂々といられるのは嬉しいが、ラッセル卿のことを考えると喜んでばかりもいられない、そんな顔だ。
 
「そうだね。私としても心配なんだよ。しかもどうやら本人は治療について消極的だと言うし。だから近くで見守れるというのは私にとってもありがたいよ。もちろん、リーザのこともね。」
 
「ハディ、そういうわけだから、お前も、あくまでもラッセル卿のことが心配だからクロービスについてきた、と言うことにしておいてくれ。」
 
「わかりました。俺にとってはリーザもラッセルも大事です。クロービス、もしもラッセルが治療について渋るようなことを言ったら、俺もそれとなく声をかけるよ。」
 
「そうしてくれるとありがたいよ。同じ治療を受けるにしても、積極的に受けてくれた方が治癒率は上がるんだからね。」
 
 早速今日から行くことになったのだが、朝一番で顔を出して一日中ガーランド家の人達と一緒にいるというのも何なので、財務資料の計算や確認が始まってしばらくしてから行くことになった。今日は初日なので、オシニスさんが一緒に行って私達を紹介してくれることになっている。ノイマン行政局長は財務資料の整理にも携わるため、朝から行っているらしい。
 
「それじゃ私は、今までの治療記録と今日の分の問診票を持っていくよ。医師会まで行ってくれればそれが一番だから、出来るだけそうしてくれるように、君も助言してくれる?」
 
「ああ、もちろんだ。」
 
「オシニスさん、今日のところは様子を見ませんか。ハディ、私達はリーザとラッセル卿の両方をよく観察しよう。その上で私が医師会に一緒に行ってくれるようラッセル卿に話すから、ラッセル卿が渋るようなら、助言を頼むよ。」
 
「わかった。俺もそのつもりでいるよ。まあリンガーさんが一緒にいるなら、彼女だって助言はしてくれると思うけどな。」
 
 ハディが言った。リンガー夫人とラッセル卿は仲直りしたようだから、多分それも期待出来るだろう。
 
「頼むよ。俺は中立の立場として、余計なことは言えないからな。それじゃそろそろ行くか。」
 
 3人で剣士団長室を出た。場所は執政館の中にある部屋の一つだ。元々は御前会議場だった場所を、壁で区切って部屋を作ったと言う話だから、かなりの数の部屋が出来たんじゃないだろうか。
 
(何が起きるかわからないけど・・・出来るだけのことはしよう。どんなことでも・・・。)
 

第108章へ続く

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