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 ハインツ先生の声が聞こえる。前回のことではかなり悔いているのだろう。だが、前回のことはハインツ先生のせいではないだろう。サビーネ看護婦が何かをしたことには間違いない。何としてもその謎を解明して、ハインツ先生に自信を取り戻してもらおう。
 
 
 ハインツ先生と私のそれぞれの立ち位置から、中を慎重に見渡した。さっきの部分以外の病巣は見当たらない。
 
(あとは・・・他の場所に転移していないことを祈るしかないか・・・。)
 
 万一転移があったとしても、今の時点で患者への影響がないなら、継続的な薬の投与でそちらも押さえ込めるはずだ。そう判断して、私は縫合に入った。
 
 
「・・・よし、これで終わりです。」
 
 手術室の中にいた全員が安堵のため息を漏らした。特に始まる前のサビーネ看護婦の乱心ぶりを見てしまった人達は、余計にほっとしたことだろう。
 
「薬の準備は出来ているかい?」
 
「はい。目を覚ましたら飲ませる予定の薬は調合済みです。」
 
 手術室で薬を調合するのは、万一の容態急変にも対応出来るようにだが、今回は無事に手術が終わった。オーリスもライロフもほっとした顔をしている。
 
「では着替えをさせて、移動用ベッドに移そう。」
 
 ここでオリア看護婦とセーラが患者の衣服を全て脱がせて、新しい下着とパジャマに着替えさせた。以前ルノーの治療の時は下着を脱がせるところで赤面してしまったセーラだが、今回は事務的にてきぱきと着替えをさせていた。成長したと言うことなのだろう。
 
 その後移動用ベッドにクリフを乗せて、病室まで運ぶことになった。手術室の片付けも看護婦の仕事だが、今回は他の棚に置かれた備品などに何か異変がないかを調べるため、妻とゴード先生が一緒に片付けとチェックをすることになった。
 
「ゴード先生、何か異変があるようなら、すぐに報告してください。どんな些細なことでもかまいません。あとさっきの話はあとでもう一度聞かせてください。ウィロー、ゴード先生のサポート、よろしくね。それとさっきの中身がおかしかった備品、あれは君とゴード先生で会長室に運んでくれるかな。」
 
「わかりました。」
 
「まかせて。」
 
 ゴード先生はまだ顔をこわばらせている。
 
(前回の手術の時の記憶が、今日になって蘇ったと言うことか・・・。)
 
 前回と同じ手術室に来たことで思い出したのだとしたら、もしかしたらそれが記憶を取り戻すきっかけになるように予め仕組まれていたと言うことなんだろうか・・・。
 
(催眠術が使われたとすれば、クイント書記官が関わっている可能性はかなり高い。だとすると・・・彼の目的は何だろう。サビーネ看護婦には彼女なりの目的があるだろうけど、クイント書記官が彼女と同じ目的を持っているとは思えない・・・。医師会の信用を失墜させるのが目的だとしても、それが彼にとって、そして『あのお方』にとって、どんな利益をもたらすのか・・・。)
 
 それにクリフの前回の手術では、催眠術を使うことでサビーネ看護婦に協力したのに、今回は逆に薬草の寄贈などで医師会に協力している。今回クリフの3度目の手術が行われることになったのも、その手術を私が執刀することになったのも、彼にとっては想定外のはずだ。
 
(もしかして・・・今回の手術に彼が関与しなかったのは、私が執刀することになったからか?)
 
 前回の結果がサビーネ看護婦の思ったとおりにならなかったのは確からしいから、今回だってサビーネ看護婦は彼に協力を依頼したんじゃないだろうか。
 
(ところが彼からの協力が得られなかった。だから備品に細工したりしてみたのだろうけど・・・。)
 
 あんな子供だましのような小細工では、たとえ私があの時備品の箱を確認しなかったとしても、彼女の企みはうまく行かなかっただろう。
 
(一体サビーネさんの悪意は・・・どこに向けられているんだろう・・・。)
 
 医師会なのか、ハインツ先生個人なのか、クリフなのか、クリフの両親であるレグスさんやサラさんなのか、それともレグスさんの工房なのか、それがはっきりとわからないのだ。
 
(エリクは対象から除外してもいいだろう。クリフだって王国剣士として仕事をしていたのはもう大分前だ。クイント書記官はともかく、サビーネ看護婦が審問官にどんなことを話したのか、聞かせてもらうくらいのことは出来そうだな・・・・。)
 
 病室に着いて、クリフは移動用のベッドからいつも使っているベッドに移された。もう少しすると目が覚め始めるだろう。この場はマレック先生とオーリス達に任せて、ハインツ先生と私は会長室に報告に行くことにした。
 
「・・・クロービス先生、さっきのゴードの話なんですがね、今思い返してみると、前回の手術はどうもおかしな事が多かった気がするんですよね。」
 
「さっきゴード先生もそんな話をされてましたよね。まずはドゥルーガー会長に手術の報告をして、そのあとサビーネさんの話と前回の手術の話をしましょう。オリアさんも協力してくれるようですし。」
 
「そうですね・・・。前回は何が起きていたのか・・・。」
 
 ハインツ先生は額をとんとんと叩き、ため息をついた。でも今回の手術はかなりうまく行ったのじゃないかと思う。クリフが少しでも元気になるのを心待ちにしているクリフの両親と弟、そして剣士団での親代わりとも言うべきオシニスさんにも、いい報告が出来るはずだ。
 
「そうですね・・・。かなりうまく行ったと私も思います。それもクロービス先生のおかげですよ。それに、前回何か異常な事態が起きていたらしいこともわかりました。これからはそれを解明しなければなりませんね。」
 
「そうですね。何としても解明してすっきり出来るよう、私も協力させていただきますよ。」
 
「ええ、ぜひよろしくお願いします。」
 
 
 会長室で、ハインツ先生と私は今回の手術に起きた事を話し、急遽デンゼル先生が連れてきたアスランの妹セーラに看護婦の仕事を頼んだことも報告した。しかし手術は無事成功したと言えるくらい病巣の切除がうまく行ったこと、前回の手術で妙なことが起きていたらしいので、それを解明したいと申し出た。
 
「なんと・・・そのようなことが起きていたとは・・・。」
 
「セーラのことは事後承諾になってしまいました。申し訳ありません。」
 
「なんの、あの娘はデンゼル老が認めた看護婦だ。優秀なのだろうな。それに手術は何が起こるかわからないこともある。咄嗟の判断で手術に支障のないよう配慮してくれたこと、感謝する。」
 
「ハインツ先生のご機転ですよ。」
 
「ハインツ、ご苦労だったな。そなたの頭が柔らかかったことを感謝する日が来ようとはな。」
 
「会長にそんなことを仰られると薄気味悪いですねぇ。」
 
「ふん、そのくらいの減らず口が出るなら心配は要らなそうだな。前回の手術についても、どうやらそなたの責任ではないらしい。サビーネが何か仕掛けた可能性がある。」
 
「その辺りはもう少し調べないとなんとも言えませんね。」
 
 ハインツ先生は慎重だ。
 
「うむ、そうだな。調査には調査のプロに頼むべきだろう。今回サビーネを連れていった王国剣士が調査にあたることになるだろうが、医師会の手術の現場で起きた事件だ。報告はきちんとしてもらわないとな。」
 
 ドゥルーガー会長はそこまで言うと小さく咳払いをした。
 
「突然のことで後回しになってしまったが、クロービス殿、ハインツ、此度の手術、誠にご苦労であった。手術は成功と考えてよいだろう。無論術後の経過観察は必要だが、話を聞いた限りでは、あとは薬で抑えて行けるだろうと思うぞ。」
 
「ありがとうございます。ハインツ先生のおかげですよ。」
 
「何を仰いますやら。今回の功績は執刀医たるクロービス先生のものですよ。」
 
「今回の手術は2人で執刀したことで成功したと考えています。私1人の功績ではありません。」
 
「2人の執刀医か・・・。人手がいることではあるが、医師会のシステムももう少し柔軟に考えるべき時に来ているのかもしれぬな。」
 
 少し難しい顔でドゥルーガー会長が言った。
 
「前回のマッサージの時のように、興味があれば誰でもと言うわけにはいかないことですしね。」
 
 ハインツ先生もどうしたものかと思案気な顔をしている。
 
「でも助手を務めるのも医師なわけですから、今回のゴード先生のようによく見て、見えたことを伝えることが出来るだけでも違うと思いますよ。今日明日にいきなりシステムを変えるってわけには行かないことですしね。」
 
「それもそうだな・・・。あまり拙速に動きすぎないようにしなければならぬな。」
 
 やる気のある人間が集まればなんとかなるというのなら簡単な話だが、患者の命に関わることだし、第一今までずっとやってきてそれなりにうまく行っていたシステムなのだから、安易に改革を進めるべきではないと私も思う。
 
「しかし妙な話ですね・・・。サビーネは何でこんなことをしたのか・・・。」
 
 ハインツ先生が首をかしげた。ハインツ先生に限らず、ドゥルーガー会長だってゴード先生だって、まずはそこが気になるはずだ。
 
「サビーネさんという人はいつ頃から医師会で働いているのですか?」
 
「確か一年ほど前からですよ。以前はどこかの貴族の所領にある診療所にいたとかで、看護婦としての腕はなかなかのものでした。そこである程度のベテランでないと難しい手術室勤務になってもらったんです。」
 
 サビーネ看護婦が医師会に雇ってほしいと申込んできた時、その元いた診療所がある場所の領主である貴族の紹介状も持っていた。その辺りの経歴には特に嘘はないらしい。手術室勤務の看護婦は何人かいるので、クリフの最初の手術の時には別な看護婦が2人参加していた。2回目の手術の時はサビーネ看護婦とオリア看護婦が参加したのだが、それが偶然だったのかどうか、こうなると全てを疑ってかからなくてはならないかもしれない。
 
(少なくとも前回の手術には、クイント書記官の関与が疑われる・・・。でもそのことはここで言わない方が良さそうだ・・・。)
 
「それでは私は病室に戻ります。クリフも目を覚ましているでしょうし、術後の経過が順調なら、夕方剣士団長室に顔を出さなければなりませんので。サビーネさんの件は報告が来たら後で教えてください。」
 
 自分が執刀した手術の現場で起きた事件ではあるが、まず今日のうちにやらなければならないのはイノージェンの申し立てについてのことだ。
 
「あいわかった。ハインツよ、少し私と話をしようではないか。改革が必要かそうでないかはともかく、今の医師会のシステムについてはいろいろと問題点が見えてきていることも確かだ。今出来ることがあるならすぐに動きたいからな。」
 
「わかりました。でも手短にお願いしますよ。私だってクリフの主治医なんですから、あとは全部クロービス先生にお任せというわけにはいきませんからね。」
 
「う、うむ、そうだな。」
 
 
 2人の会話を背中に聞いて、私は会長室を出た。そのままクリフの病室に向かう。
 
「あら先生、お疲れさまでした。クリフ、クロービス先生がいらっしゃったわよ。」
 
 いつもの看護婦が笑顔で出迎えてくれた。
 
「あ、先生。」
 
 クリフは寝たまま私に顔を向けた。まだ起き上がることは出来ないだろう。私は看護婦達に、麻酔から覚めた時間と、その後の状況を簡単に説明してもらった。
 
「クリフ、どこか痛いところはないかい?どんな些細なことでも何かあったら言ってくれ。君の体から病巣は出来る限り取り除いた。でも手術前に説明したように、全てをきれいに取り除くことは出来なかったんだ。でも残っている病巣はかなり小さい。だからあとは薬で抑え込んで行けば、以前と変わらない生活が出来るようになるはずだよ。ただし、王国剣士として復帰出来るかどうかはまだなんとも言えないね。」
 
「・・・え?無理・・・ではないんですか?」
 
 クリフはとても意外そうに私を見た。おそらくはもう、諦めていたのだろう。
 
「仕事の内容によるんじゃないかな。今の王国剣士の仕事がどうなのかは私もわからないけど、短期間の遠征ならともかく、南大陸の砂漠の旅は難しいかもしれないね。もっともこの先君が頑張って体力をつけていけば、また状況も変わるかもしれない。ただし薬を手放せるようになるかどうかはなんとも言えない。だから私もはっきりしたことは言えないけどね。」
 
「・・・つまり、ある程度は僕次第なんですね。」
 
「そういうことだよ。君は今でも王国剣士なんだ。だから君の今後についてはいずれ剣士団から話が来ると思う。でもそれはまだ先の話だからね。君がまずしなければならないのは、きちんと薬を飲んで、たくさん食べて体力をつけて、普通の暮らしが出来るようになることだね。王国剣士としての仕事は、どんな仕事でもいわば重労働だ。普通の暮らしをするのがやっとの状態ではとても考えられないからね。」
 
「はい。まずは普通の暮らしが出来るようになるところまで、頑張ります。」
 
 クリフの目には涙が滲んでいた。この先クリフはどんどんよくなるはずだ。発病前の健康体までは行かなくても、『普通の生活』を手に入れることは出来るだろう。だがそのためには薬を飲み続けなければならない。そして長くつらいリハビリにも耐えなければならない。クリフの前にそびえ立つ壁は果てしなく高い。でもクリフならば乗り越えていってくれるのではないだろうか。
 
(オシニスさんのところに行ったら、少しこの話をしておこう・・・。)
 
 以前はランドさんから来た話だが、無論それはオシニスさんも承知している話のはずだ。
 
「さて、それじゃ目が覚めた時のことを教えてもらえるかい?痛いところはどこだった?それから・・・。」
 
 いくつか簡単な質問をしてみたが、クリフが麻酔から覚めた時、痛がったのは手術で切った場所の痛みだけだった。体の中に巣くっていた病巣はほとんど取り除かれ、もうほんのわずかしか残っていない。今のところ術後の経過は順調なようだが、突然の急変と言うことも充分に考えられる。しばらくは気の抜けない日々が続きそうだ。
 
(まず一週間だな・・・。それから一ヶ月・・・。その辺りまで病気が原因と思われる痛みが出なければ、順調と言えるだろう・・・。)
 
 今日は午後まで病室にいるつもりだ。そのあとは一度剣士団長室に顔を出したい。イノージェンと子供達が異議申し立てに関する話を聞いているはずだ。
 
 そこに扉が開き、ハインツ先生が顔を出した。
 
「クリフのご家族がお見えですよ。入っていただいて大丈夫ですか?」
 
「大丈夫ですよ。」
 
「どうぞ、お入りください。」
 
 顔を出したのはクリフの両親と弟のエリクだった。3人とも病室に入ったはいいが、入り口でもじもじしている。
 
「さあクリフのそばにどうぞ。まだ目が覚めてそんなに過ぎていませんから長い時間の話は出来ませんが、経過は順調ですよ。」
 
 ハインツ先生に促され、3人はやっとクリフのベッドのそばまで来た。
 
 手術前にクリフに合わせることは出来るかと言う話をオシニスさんに聞かれた時に、早朝に麻酔薬を飲んでもらうので、手術前は難しいという話はしていた。前日の早い時間に一度は会いに来たらしいのだが、その時私は病室にいなかったし、クリフもほとんど絶食状態で話は出来なかったらしい。
 
「クリフ・・・。」
 
「父さん、母さん、エリク。来てくれたんだね。昨日は話が出来なくてごめん。」
 
 クリフの声は大分はっきりしている。絶食状態なのは変わらないし、少なくとも今日一日は薬以外のものを口にすることは出来ないのだが、先ほど職場復帰への希望が見えたおかげか、クリフの表情は明るく、笑顔だ。レグスさん、サラさん、そしてエリクも、別人のように明るくなったクリフを見て泣き出した。
 
「よかった・・・。よかったよ・・・。」
 
 3人ともベッドのそばにしゃがみ込み、しばらくの間泣いていた。
 
「みんな泣かないでよ。僕はこれから元気になるんだから。」
 
 その後少しだけ家族の会話があったが、患者が疲れてしまうことを考えて、早めに切り上げてもらった。
 
「もっと長く話せるようになるには、もう少しかかります。申し訳ありませんが・・・。」
 
「とんでもないです。手術していただいて、本当によかったです。これからはよくなるんですよね?」
 
 涙を拭きながら、サラさんが尋ねた。
 
「はい、もう少し様子を見なければなりませんが、だいたい4〜5日ほどで状態はよくなると思います。その頃にでも改めておいでください。事前に連絡をいただければ、ここで今回の手術についての説明をさせていただきます。」
 
 クリフの家族が帰ったあと、ハインツ先生から会長室に来てくれないかと言われ、私は再び会長室にやってきた。中にはゴード先生と妻がいた。
 
「手術室の片付けと点検をしてきてくれたので、報告に来てくれたんですよ。」
 
 会長室のテーブルには箱が2つ置かれている。
 
「クロービス先生が最初に棚から出した箱がこちら、その他に東側の手術台の近くにあった棚にも妙な箱がありましたのでお持ちしました。」
 
「東側の・・・?」
 
 ハインツ先生が首をかしげた。
 
「はい。あそこの備品は最近ほとんど動かしていませんから、サビーネさんが何であんなところの備品をいじったのか、おかしな話です。」
 
 その備品の箱を見せてもらったが、何と中のメスや鉗子、はさみなどに満遍なく油らしきものがぶちまけたようにかけられている。
 
「これは・・・機械用の油ですね。」
 
 この匂いは鉄製の車輪などの動きを潤滑にするための油の匂いだ。
 
「いったい何がしたかったのかさっぱりですよ。」
 
 ゴード先生も首をかしげている。
 
「もしかしたらですけど、手術室の備品全部に細工をしようとしたのかもしれませんよ。」
 
 ゴード先生の後ろにいた妻が言った。
 
「なるほど、昨日クロービス先生と手術室を出た時間はけっこう遅かったですからね。私が鍵を戻してその部屋が無人になるまで待ってから、鍵を持ち出して細工をしようとしたのが、時間がなくて2つで精一杯だったということでしょうか。」
 
 何となく場当たり的な感じがする。やはりサビーネ看護婦は今回もクイント書記官に手を借りるつもりだったのだろう。ところが彼の協力は得られなかった。そこで嫌がらせをしようと試みたが、時間的な問題でうまく行かなかった・・・。
 
(可能性は高そうだな・・・。問題は動機か・・・。)
 
 サビーネ看護婦が何故こんなことをしたのか、その標的が誰、或いはどこだったのか、それがわからないと今後の捜査のしようもない。
 
「失礼します。今朝の事件の件で伺いました王国剣士です。」
 
 ノックと共に声が聞こえて、私が扉を開けた。今朝サビーネ看護婦の件で来てくれた王国剣士ではない。リックとエルガートくらいの歳だろうか。ベテランの風情を漂わせる王国剣士だ。彼はスタンリーと名乗り、今朝サビーネ看護婦を牢獄に連れて行った組から引継をしたのだという。
 
「本来ならば彼らが来るべきなんですが、彼らは夜勤だったのと、今少し面倒な事件の調査にあたっているものですから、今回の件は私達が担当させていただきます。今朝手術室にいらっしゃった皆さんに事情聴取をしたいのですが、お願い出来ますか。」
 
「わかりました。事情聴取は今朝手術室にいた全員ですか?」
 
 ハインツ先生が尋ねた。
 
「出来れば現場検証をしたいので、お付き合いいただけると助かります。」
 
 スタンリーの相方は剣士団長の許可をもらってくると言うことなので、手術室の前で落ち合うことになっているそうだ。ハインツ先生が、今朝手術室にいた人達のうち、あとから来たデンゼル先生とセーラ、そして麻酔のために病室にいたマレック先生、オーリスとライロフは除外して、それ以外のメンバーで行きますと言った。
 
「わかりました。」
 
 サビーネ看護婦が騒動を起こした時にあの場にいたのは、ハインツ先生、ゴード先生、オリア看護婦、私と妻だ。今ここにいないのはオリア看護婦だけなので、ハインツ先生に呼びに行ってもらうことになり、ゴード先生と私と妻が先にスタンリーと共に手術室に向かった。ただし手術室の鍵はかかっているので、中に入るのはハインツ先生がオリア看護婦と一緒に鍵を持って来てもらってからとなる。それまで私達は手術室の廊下で待機することになった。
 
「スタンリー!すまん遅くなった。」
 
 スタンリーの相方の剣士のようだ。彼はクロフォードと名乗り、2人が入団して10年のコンビであることも教えてくれた。
 
「クロービス先生と奥様は、リックとエルガートをご存じだと伺いました。私達は同期なんですよ。」
 
「ベテランの剣士達はみんな祭りの休暇を取っていると聞いたけど、君達は仕事なんだね。」
 
「ああ、私達は祭りの最初の方に少し休暇を取って、後は祭りが終わってからのんびりする予定なんです。祭りのど真ん中に休暇を取っても、どこも人でごった返しているし、気になって休んだ気がしないんですよ。」
 
「なるほど、それもまた賢い休みの取り方だね。」
 
「他の連中にずるいって言われました。」
 
 スタンリー達が笑った。
 
「あ、忘れてた。すみません、クロービス先生、剣士団長から伝言です。出来れば今日のうちに一度団長室に顔を出してほしいと。」
 
 クロフォードが言った。
 
「団長室には誰かいたかい?」
 
「ええ、団長のご友人のご家族だそうですね。ライラ博士は知っていますが、クロンファンラの司書のイルサさんがまさかライラ博士の妹さんだったとは・・・。」
 
「イルサのことも知っているんだね。」
 
「以前図書館の本の入れ替えでお会いしたことがあります。」
 
 
「いやすみません、お待たせしました。」
 
 そこにハインツ先生がオリア看護婦と共に現れたので、クロフォードとの会話はそこまでになった。
 
「遅くなってしまいました。すぐに鍵を開けますから。」
 
 ハインツ先生が持って来た鍵で手術室を開けた。
 
「ゴード、君がさっき片付けをした時と変わってないか、まずは確認してくれ。ウィローさんもお願いします。」
 
「わかりました。」
 
「はい。」
 
 ゴード先生と妻が棚の中を見たり置かれているタオルや籠などを確認してまわり、さっきと変わりないことを確認した。
 
「では現場検証を始めます。」
 
 手術室を開けるところから、中に入ってからのそれぞれの行動を1つずつ検証していく。オリア看護婦はサビーネ看護婦の動きをかなり詳しく教えてくれた。彼女の言葉に嘘がないことは私にはわかっていたが、スタンリーとクロフォードにはやはり奇妙に映ったらしい。
 
「随分とお詳しいですが、そんなにしっかりとサビーネさんを見ていたと言うことですか。」
 
「ええ、そうです。あの人と私は前回のクリフの手術でも一緒に仕事をしたんですが、行動がどうにもおかしかったんですよ。」
 
 オリア看護婦が話してくれたところによると、前回の手術の時、サビーネ看護婦だけが手術台のまわりをうろうろしていたというのだ。持ち場を離れているのだからいつもならば怒るところだが、何と言っても手術のまっ最中だ。大きな声で怒鳴るわけにも行かない。しかもハインツ先生やゴード先生、薬の管理をしているタネス先生達までが、サビーネ看護婦の異様な行動に全く注意を払っていなかった。何が起きているのか不審に思っていたところ、突然患者が大出血を起こし、待ってましたとばかりにサビーネ看護婦は血止めの呪文を使うから、早く縫合に入れとハインツ先生を急きたて始めた。手術台の床にまで血がしたたり落ちてきて大騒ぎとなったのだが、サビーネ看護婦の異様な行動は、まるでそれが起きることを知っていたかのような動きだったと、オリア看護婦は言った。
 
「となると、前回の手術でもおかしな事があったので、今回はサビーネ看護婦が何をしようとしているのか、見極めようとしていたと言うことですね。」
 
「そういうことです。ところが今回はクロービス先生が確認しようとした備品の箱を力ずくで奪おうとして騒ぎになりましたからね。おかげで手術中にあの人がいませんでしたから、手術は無事に済みましたわ。」
 
「おお、ではクリフはこれからよくなるんですね。」
 
 スタンリー達も、クリフのことは気にかけていたようだ。私は手術は確かに成功したが、病巣が完全に彼の体からなくなったわけではないことを伝え、もう少し経過を見てから正式に発表されるだろうと言っておいた。
 
「そうですか。それじゃまだ誰にも言わないほうがいいですね。」
 
「そうだね。まあ今回の件を報告する時にオシニスさんには話すことになるだろうし、あとはランドさんかな。話すならその辺りまでにとどめておいてほしいんだよ。」
 
「わかりました。」
 
 2人は嬉しそうに返事をした。
 
 その後現場検証に戻り、私が棚から備品の箱を出したところから、サビーネ看護婦が執拗にその箱を渡してくれと迫ってきたところ、そしてサビーネ看護婦を仕事に戻そうと走ってきたオリア看護婦に、隠し持っていたメスで切りつけたところまで実際に起きた時と同じように動いて見せた。
 
「そして、オリアさんがメスで切りつけられた時に私が麻痺の気功でサビーネさんの動きを止めて、私の妻に王国剣士を呼んできてもらったと言うことだよ。」
 
「先生が麻痺の気功まで使われるとは、すごいですね。」
 
「ごく初歩の気功だよ。気功の心得がある相手にはまず通用しない。サビーネさんが普通の人だったからなんとかなったようなものだよ。」
 
 元々気功に対して耐性のある人もいる。サビーネ看護婦がそうでなくてほっとしているくらいだ。
 
「サビーネさんは今牢獄だね?」
 
「すっかり静かになったようです。まだ何もしゃべらないらしいですけどね。」
 
「そうか・・・。」
 
 その標的がなんであれ、よほどのことがあればこそあんなことをしたのだろう。だがこの件は、前回の手術の時から始まっていたとも言える。医師会に入った目的がもしもその何かだとしたら、元いた診療所のある場所の領主は関わっていたのだろうか。それともそこの領主をも騙していたのか・・・。
 
「いろいろありがとうございました。前回の手術の話ですが、あとで改めて聞きに伺います。その時はまたよろしくお願いします。」
 
 スタンリー達はこれから団長に報告すると言った。そこで今回サビーネ看護婦が細工したらしい備品の箱について、どうすればいいか聞いてみた。
 
「ではお預かりしてよろしいでしょうか。よろしければこのまま団長室まで運びます。」
 
 そこでこの場で一度箱を開け、中の様子の確認と、どこに置かれていた箱なのかの説明をした。その上で私達は2人に箱を預け、間違いなく剣士団長に届けてくれるよう念を押した。
 
(今回はクイント書記官は関与していないだろう。薬草の寄贈をしておいて、看護婦を操って手術の邪魔をするようなことはしないと思う・・・。)
 
 前回催眠術が使われたとしたら、それを操ったのはおそらくクイント書記官だ。目立たない場所にひっそりと身を隠し、手術室全体に催眠術をかけるくらいのことは出来るはずだ。サビーネ看護婦に催眠術を教えて彼女の単独犯行に見せかけようとしても、さすがにそれは無理な話だろう。だがオリア看護婦にかからなかったのは想定外だったのではないか。もっとも、おそらく彼はそれに気づいていないだろう。どうやらオリア看護婦は前回の手術のあと、あの時の手術室にいた人達の異様さを、表だって口に出していなかったらしい。
 
(下手に口に出していたら、オリアさんも無事では済まなかったかもしれない・・・。)
 
「クロービス先生、私はドゥルーガー会長に現場検証の件を報告しに会長室に行ってきます。先にクリフの病室に戻っていていただけませんか?」
 
「わかりました。」
 
 こんなことがなければ私はずっと朝からクリフの病室にいたはずだ。報告はハインツ先生とゴード先生が行ってくれると言うことなので、私は妻と一緒にクリフの病室に戻った。
 
「あ、クロービス先生、クリフは眠ったところです。」
 
「あのあとは特に痛いとか言う話はしなかったかい?」
 
「ええ、何も。あ、もうガスも出ましたよ。」
 
「え、もう?」
 
 内臓の手術のあとというのは、どうしても胃や腸の動きが鈍る。ガスが出たと言うことは、その内臓の動きが戻ってきたと言うことだが、ついさっき目が覚めたばかりなのに、もう内臓の動きが戻ってくるとは思わなかった。
 
「早いですよね。私達もびっくりしたんですよ。」
 
 ガスが出れば食事も出来るのだが、それは明日からということでマレック先生に頼んでおこう。いくら何でも早すぎる。今日一日は様子を見たほうがいいかもしれない。マレック先生はもう自分の部屋に戻っているので、相談してみよう。部屋の隅ではオーリスとライロフが、次に飲ませる薬を作っている。私は2人に、サビーネ看護婦について聞いてみた。
 
「あんまり僕らは関わりがないのでよく知らないんですよ。サビーネさんというと手術室勤務ですよね。僕らは普段まず手術に関わることはないですからね。まあ朝と帰りの挨拶くらいは、顔を合わせればする、くらいです。だからどんな人かもよくわからないですね。」
 
 そのあと病室にいる看護婦2人にも聞いてみたが、サビーネ看護婦はとても真面目で、知識も豊富だと言うことだ。それに気さくで人あたりもいいので、今回の事件がぴんとこないという話だった。
 
(一年ほど前に入ったと言うことは、少なくとも前回の手術でオリアさんに不審に思われるまでは、完璧にいい人を演じていたと言うことか・・・。)
 
 私はマレック先生の部屋に行くことを看護婦達に伝え、クリフの部屋を出た。妻も一緒に出てきた。
 
「私も行くわ。クリフに出す予定の献立を見せてもらおうと思って。」
 
「またチェリル特製なのかな。」
 
「だとしたらレシピも教えてもらわなきゃ。ほんと、チェリルの作る食事はおいしいの。どろどろでもとろとろでも、上澄みだけでもよ。」
 
「それはすごいね。教えてもらえそうなら、聞いておいて。」
 
「ええ、食事のことは私が頑張って情報を集めておくわ。」
 
 
     *             *             *
 
 
「ほぉ、もうガスが出ましたか。回復が早いですね。では今日は一日薬だけで様子を見て、明日の朝からパンがゆの上澄み程度の食事を出しましょう。明日一日それで様子を見て、問題ないようなら翌日から少しずつ固形物が入ったものを出しますよ。いくら回復が早いと言っても、内臓の働きがちゃんと戻ってるかどうかは慎重に見極めなければならないですからね。」
 
「よろしくお願いします。」
 
 私はマレック先生にもサビーネ看護婦について聞いてみた。
 
「うーん・・・仕事については申し分ない知識と腕があると思いますが・・・。何というか、得体の知れない面がありましたね。あと、自分のことについては誰にも立ち入らせないような、頑ななところもありましたよ。」
 
 これは今までの話とは違う。
 
「彼女は手術室勤務ですから、私とそれほど接点はないんですよ。私は滅多に手術は行いませんしね。人あたりはいいし、仕事もてきぱきやるし、まあ、私にとってはそれでいいといいますか・・・。」
 
 普段それほど関わることのない看護婦なら、そう言うものだろう。つまり彼女とそれほど親しくはないおかげで、彼女を客観的に見ることが出来ていると言うことかもしれない。
 
「マレック先生、クリフに出す予定の献立、見せていただいていいですか?確か昨日の打ち合わせではクリフの家庭の味を参考にすると言うことでしたよね。」
 
 妻が尋ねた。この話はクリフの手術が決まってから、彼の食事について献立を考えている時、患者の家庭の味を取り入れてはどうかという話になり、そのために母親のサラさんにいろいろと話を聞いていた。昨日の打ち合わせの時は、クリフの家庭の味を取り入れて「食べる楽しみ」を提供したい、今回のクリフの場合は初の試みで、今後少しずつこういう食事を提供する患者の範囲を広げていきたいと言うことだったと記憶している。
 
「ええ、ただ家庭の味を感じられるほどの食事を出せるのは、まだ先のことですからな。それまでしばらくはチェリルに頼むことになると思うので、詳細なレシピはこれから頼んで、出してもらうんですけどね。」
 
「ご一緒させていただいていいですか?」
 
「もちろんです。これから行こうと思いますが行けますか?」
 
「はい。」
 
 妻はクリフの献立についてマレック先生と一緒にチェリルに頼みに行き、その後詳細を詰めるということになった。剣士団長室に顔を出すのは夕方の予定だから、それまでにはクリフの病室に戻るわと言った。
 
「さてと、私は病室に戻るか。」
 
 今は安定しているが、まだまだ目を離せない状態であることは確かなのだ。夕方までしっかりとついていなければならない。
 
 
 
 病室に戻った時、クリフはベッドに起き上がっていて、ちょうど薬を飲んだところだった。すごい回復力だ。
 
「・・・あんまり苦くないですね。」
 
 飲み終えたクリフが少し驚いた顔で薬の入っていた器を見ている。
 
「ハインツ先生特製だよ。手術のあとに飲む薬はそもそも苦いなんてもんじゃないけど、あまりに苦いと薬嫌いになってしまうから、少しでも味を調えてあげるのがいいとアドバイスをいただいたんだ。」
 
 オーリスが言った。
 
「へえ、それは興味深いな。あの苦みは私も手を焼いていたんだ。レシピを教えてくれるかい?」
 
 私はオーリスとライロフにハインツ先生の作った薬のレシピを教えてもらった。それは薬の作成の最後にある種のハーブを加えると言うことなのだが「え!?」とびっくりするような意外なハーブだったのだ。
 
「なるほどねぇ・・・。これで苦みが和らぐとは、盲点だったなあ。やっぱりハインツ先生はすごいね。」
 
 やはりハインツ先生はすごい。私など及びもつかないくらいだ。とその時、オーリスとライロフ、そして部屋の中にいつもいる看護婦達の視線を感じて顔を上げた。
 
「みんなどうしたんだい?」
 
「いや、その・・・先生ほどの方がすごく感心していらっしゃるので・・・。」
 
「クロービス先生はこの国一の名医と賞賛されておりますのよ。そんな方が新しいレシピに何だか子供みたいに目を輝かせていらっしゃるから、みんな驚いているのですわ。」
 
 看護婦がくすくすと笑いながら言った。
 
「この国一の名医って・・・。私がそんなわけないじゃないか。今回のクリフの手術だって、たくさんの人達が協力してくれたからこそ成功したんだよ。麻酔薬の開発者として私が注目されているのも、協力してくれた人達がいるからこそなんだ。まああんまり自分を低く評価しすぎて怒られたりすることもあるから、ある程度は自信を持たなくちゃと思うんだけどねぇ。」
 
 今回の手術だって、『治ります』と胸を張って言うことが出来なかった。
 
「でも僕は先生に手術していただいてよかったです。」
 
 クリフが言った。今朝麻酔が覚めた時よりも大分動けるようになってきたようだが、そろそろ横になっているようにと指示した。クリフは素直に言うことを聞いて、ベッドに横になった。まだ体力を出来る限り使わないようにしていなければならない。どんなに回復が早いとしても、手術直後であることに変わりはない。
 
「そう言ってくれると嬉しいけど、結局君の病巣は全てきれいに取り去ることは出来なかったんだ。」
 
 わかっていたことだとは言え、やはり悔しい。
 
「それは最初からわかっていたことですし、ハインツ先生からは、以前ならもう助からないからと痛みを和らげる麻薬の投与の話が出るほど衰弱していたと言われました。新しい治療法としてマッサージを提案してくださった先生ご夫婦と、それを受け入れて3度目の手術の道を開いてくださった医師会の皆さんには、感謝してもしきれないんです。」
 
「・・・そう言ってくれると嬉しいよ。そろそろ眠ったほうがいい。ご家族もまた訪ねてこられるだろう。その時にはもっと元気になっていないとね。」
 
「はい。」
 
 クリフは素直に返事をして目を閉じた。看護婦が毛布をかけ直して、時計を見ながら記録を始めた。私は少し出てくることを看護婦とオーリス達に伝え、病室の外に出た。そして何となく、あの研究棟の屋上に来ていた。
 
『感謝してもしきれない』
 
 クリフの目はとても穏やかだった。そしてその言葉が心からのものであることもわかった。
 
 私は・・・病巣を取り切れなくて悔しいとばかり考えていた・・・。確かに今回の手術は成功したと考えていいと思う。思うが、あともう少しだったのに、私はまだまだ力が足りない、クリフに申し訳ない、そんなことばかり・・・。
 
「私の一番悪い癖というのは、こういうことか・・・。」
 
 やっとわかってきた気がする。どんなことにもよい面と悪い面がある。私はいつも悪いところにばかり目が行くのではないか。クリフにとって、今回の手術への道が開けたことで、もう少し自分の人生を長らえることが出来るかもしれないという希望が生まれたのだ。しかも今回の手術では以前よりもずっと広範囲にわたって病巣を取り去ることが出来た。これからは薬をきちんと飲んで、体力をつける事が出来る。リハビリで以前の状態に近い日常生活を送ることが出来る。クリフの心は希望で溢れているのだ。
 
 私は自分のことしか考えていなかった。全ての病巣を取り切れなかったことにばかりこだわっていた。最初からそれは無理だとわかっていたはずなのに、いつまでもうじうじとどうにもならないことにばかり気をとられていた。今私が考えるべきなのは、これからクリフをどこまで元気に出来るか、そのためにはどうすればいいか、だ。
 
「やっとそれがわかるなんてなあ・・・。本当に、私はバカだ・・・。」
 
 病室に戻ろう。もう少しクリフについていたい。状態がいいようなら、後はハインツ先生に任せてオシニスさんのところに顔を出そう。
 
 
「あ、お帰りなさい。」
 
 病室にはハインツ先生が戻ってきていた。笑顔でいるところを見ると、クリフの容態は安定しているらしい。
 
「今は眠ってますよ。とても穏やかな寝顔です。」
 
 ハインツ先生はクリフのベッドの傍らに立ち、嬉しそうに言った。
 
「これからは、薬での治療をしつつ、食事で体力を作っていくことになりますね。」
 
「ええ、私もほっとしています。クロービス先生、あなたのおかげですよ。」
 
「私はマッサージについての提案をしただけです。執刀を任されることにはなりましたが、今回の手術の成功は皆さんと協力して治療に当たれたからこそです。私の方こそ、人手と手間がかかる治療の提案を受け入れてくださった医師会の皆さんに感謝していますよ。」
 
「出来ることがあるのに、それを手間がかかるからという理由で目を逸らそうとしていたのは私達の方です。今回のことで、医師会も少しずつ変わっていけるといいんですがね。」
 
「今後も私に出来ることなら何でもお手伝いします。でも今までやってきたことを、根底からひっくり返すような改革はお勧めしませんよ。人はそんなに急に変われないものです。」
 
「全くですね。その点については慎重にならざるを得ません。ただ、今回のことをきっかけにみんなが今のままでいいのかと言うことを考え始めているので、それだけでも大きな収穫だと思ってますよ。医師会という組織のあり方を改革していくならフロリア様への相談は欠かせませんし、組織全体の話となると御前会議にも話を通さなければなりませんからね。」
 
 昔、御前会議の議場に入った時、大臣の数はかなり多かったように思う。今では場所も変わり、大分数が少なくなったということだから、御前会議も合理化を進めていると言うことなのだろう。
 
(ただ・・・医師会の場合、人手を減らして合理化というわけにはいかないしなあ・・・。)
 
 むしろ人手を増やして、患者へのきめ細かなケアをしてほしいところだ。
 
「ハインツ先生、今日はこちらにいらっしゃいますか?」
 
「ええ、私は夕方までここにいますよ。昨日のこともありますし、用事がおありなら大丈夫ですから行ってきてください。」
 
 私は一度ガーランド男爵の病室に顔を出し、その後剣士団長室にいるので何かあれば声をかけてください、妻が戻ってきたら剣士団長室に来てくれるように伝えてほしいと頼んで病室を出た。もっとも主治医はハインツ先生だ。私が出る幕など今後はないかもしれないが、執刀医として関わった以上クリフの術後経過には責任を持たなければならない。ガーランド男爵の治療については、ドゥルーガー会長がドーンズ先生の投薬に関する聞き取り結果を手に入れてから本格化すると伝えてくれと頼まれた。
 
 
 病室の前にいる王国剣士に声をかけると、中に入れてくれた。ラッセル卿の姿は見えない。リーザもいなかった。昨日ここに呼びに来たあとは会ってない。リーザは大丈夫だろうか。相当精神的に疲弊しているようなのだが・・・。
 
「タネス先生、男爵閣下の様子はどうですか?」
 
「昨日と変わりありませんね。」
 
 私はハインツ先生からの伝言を伝えた。
 
「それしかなさそうですね。さっきまでフロリア様の護衛殿がいらっしゃいました。薬を飲ませるときだけ来てくださるんですよ。本当に助かってます。でも今日も昨日と変わりなしでした。鎮静剤をどの程度の量飲んだのかがはっきりとわからないので、解毒薬もそんなに強いものは飲ませることが出来ないんです。」
 
「まだドーンズ先生の取り調べの結果は届かないんですね。」
 
「何も聞いていませんから、おそらくはそうなんでしょう。審問官としては事件の始まりから順を追って聞き取りをしたいのでしょうから、薬をどのくらい飲ませたかだけ先に聞くわけにも行かないんでしょうね。」
 
 タネス先生も困っているようだった。その男爵はと言えば、ベッドに寝ている顔は死人のように青白く、よく命が助かったものだと驚くほどだ。
 
「すると当分目は覚めませんか?」
 
「今のままでは、うまく行っても一週間ほどでやっと薬を自力で飲ませることが出来るかどうかってところですね。あまり時間がかかりすぎると体のほうが衰弱してしまいます。本当に死んでしまう危険性もあるんです。」
 
 目の前に患者がいるのに助けることが出来るかどうかわからない。私がクリフの手術について感じていた歯がゆさを、タネス先生も感じているらしい。私はタネス先生に後を頼み、病室を出た。その時妻がやってきた。
 
「食事のレシピはどうなったの?」
 
「チェリルにいろいろ教えてもらったんだけど、すごいわね、あの子。知識がとにかく豊富なの。あの子と話していると勉強になることばかりよ。」
 
「へぇ、それじゃあとで聞いたことを教えてよ。まずはオシニスさんのところに行こうか。」
 
「ええ、うまく話が聞けるといいわね。」
 
「サビーネさんのことは聞かれるだろうなあ。」
 
 今回剣士団長室に行く目的はイノージェンの異議申し立ての件なのだが、あの騒ぎの現場に私とウィローがいたのはわかっているのだから、オシニスさんとしては話が聞きたいだろう。でもまずはイノージェンのことだ。異議申し立てについてきちんと準備を整えてあげたい。今朝のことで何か聞かれたら、まずはイノージェンの話を先にしてくれと頼もう。
 
「でもまずはイノージェンのことよ。そっちをちゃんと終わらせてくれたら話しますって言えばいいわ。」
 
 妻も同じ考えらしい。私達にとってオシニスさんは大事な先輩であり友人だが、イノージェンだって同じくらい大事な友人だ。
 
「ははは、そうだね。イノージェン優先で行こう。」
 
「もちろんよ。」
 
 
 採用カウンターではランドさんがカウンターの中で青年と話をしている。
 
「まずはあなたの出身地を聞かせてください。」
 
「私は城下町の・・・。」
 
(ねえ、あの男の子、剣技試験の合格者みたいね。)
 
 妻が小さな声で言った。
 
(たぶんね。なんだか嬉しいね、こういう光景を見るのは・・・。)
 
 希望に燃えて剣士団の門を叩いた若者なのだろう。私達はそのままカウンターを通り過ぎ、剣士団長室の前に着いた。
 
「失礼します。オシニスさん、入っていいですか?」
 
 剣士団長室の扉をノックしたところ、中から開けてくれたのはライラだった。
 
「あ、先生、おばさんも一緒なんだね。どうぞ。お二人が来たら中に入れるようにって団長さんから言われてるんだ。」
 
 中に入ると、イノージェンとイルサがオシニスさんの説明を聞いている。
 
「お、来たか。異議申し立ての書類の書き方の話は始まったばかりなんだ。今朝からいろいろと騒々しかったもんだからな。」
 
 オシニスさんは私達を見てニッと笑った。
 
「いろいろ聞きたいことはあるんだが、今回の目的はイノージェンさんの異議申し立てだ。まずはこちらの話を終わらせよう。」
 
「わかりました。」
 
 まずは今朝の事件について聞かせてくれなどと言ったら、私達がまずはイノージェンの話だと言うことは多分わかっていたのだろうと思う。
 
「でもその前に1つだけ聞かせてくれ。クリフはもう大丈夫だと考えていいのか?」
 
「ええ、それで大丈夫ですよ。ただし今朝手術が終わったばかりですから、油断は禁物です。」
 
 オシニスさんはほっとしたように笑った。
 
「わかった。それだけ聞ければ十分だ。2人ともそっちに椅子があるから座ってくれ。一緒に説明するよ。」
 
「クロービス、手術は成功したのね。よかったわ。」
 
 イノージェンも嬉しそうだ。
 
「まだ完全に安心とまでは行かないけど、大きな山は越えたと思うよ。ただしこの先がずっと順調なのかまでは私にもわからないから、油断は禁物ってわけさ。」
 
 そう、油断は禁物だがクリフの今後に希望が持てることは確かだ。いい方に考えよう。
 
「それじゃ私達は話を聞かせていただきますよ。」
 
 私達は椅子を持って来て座り、オシニスさんの説明を一緒に聞き始めた。
 

第104章へ続く

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