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>第103章 悪意の矛先

 
 医師会の中はまだ人の気配が多く、ざわざわとしている。だが奥にある手術室に近づくにつれて、辺りは静かになっていった。
 
 ハインツ先生が手術室の扉の鍵を開けて、中に入った。手術室には窓がない。ランプを付けて中が明るくなると、思わず「おお」と声が漏れた。
 
「さすがに医師会の手術室ですね・・・。」
 
 うちの診療所の手術室とは比べものにならない広さだ。一目見ただけで設備が充実しているとわかる。手術台は3つほどあり、その時の状況でどこでも使えるようになっているということだ。無論緊急手術とでも言うことがあれば、全ての手術台が同時に使用される事もあるらしい。
 
 
「それじゃ中の説明をしましょうか。」
 
「お願いします。」
 
 ハインツ先生が中の設備について1つずつ説明してくれた。
 
 手術室の中は手術台の数だけ部屋を仕切ることが出来るようになっている。天井に設置されたレールから吊り下げられた仕切り用の壁と、さらに手術台の周囲を仕切ることも出来るカーテンだ。通常はカーテンは使用しないそうだが、細かい場所の手術の際に、手元をランプで照らしながら手術を行うことがあり、その時に明かりを出来るだけ手元に集められるように、カーテンを使うことがあるという話だ。うちの診療所ではそう言った設備はない。せっかく医師会の手術室に入れたのだから、いろいろと見ておこう。そんなにお金をかけなくても、うちの診療所でも導入出来る設備があるかもしれない。それにしてもこれだけ充実した設備があれば、明日の手術は大丈夫だと思うが、ハインツ先生は浮かない顔だ。
 
 広い手術室の中を一巡りして、最後にハインツ先生が案内してくれたのは、部屋の中央に設えられた手術台だ。
 
「ここが、前回と前々回、クリフの手術を行った手術台です。」
 
 ハインツ先生は、前回の手術の時の状況を私に説明してくれるつもりらしい。これはありがたい。正直どうやって話を切り出すか悩んでいたところだ。
 
「私はここに立って、クリフはこちら側を頭にして寝かされていました。麻酔薬はとてもよく効いていたし、あんなことになるとは思わなかったのです・・・。」
 
 ハインツ先生がぽつりぽつりと話してくれたところに寄ると、一度目も二度目も手術室で使用された手術台は同じ、助手も同じゴード先生、薬の管理については今ガーランド男爵を見てくれているタネス先生とその他にもう1人、若い医師が担当したという。他に看護婦が2人ほどいたそうだ。その顔ぶれで最初の手術は問題なく終わった。だがそれからしばらくして病巣の転移が認められ、二度目の手術となった、ここまでは以前も聞いた話だ。
 
「二度目の手術の時、メスを入れた場所は以前お伝えしたとおりです。手術自体はそれほど大変なことはなかったのです。転移した病巣を切除したあと、場所が場所なので時間をかけて取りこぼしがないようにしっかりと見極めようと考えていたのですが・・・・。」
 
 その転移した場所というのがいささか厄介な場所だった、その話を以前聞いた時、確かに病巣がそううまい具合に切り取りやすい場所に出てきてくれるなんてことはほとんどないからあり得ないことではないとは思ったが、その周辺への転移は実に厄介で、切除しきるのは相当難しい。とは言っても、だから取れませんでしたというわけにはいかない。うちの診療所では外科手術となれば必ずブロムおじさんと私が2人で手術するので、今までそう言った厄介な場所に巣くった病巣も何とかきれいに取り去ることが出来ている。1人の力では限界があるが、2人ならばなんとかなるものだ。だが私がハインツ先生と2人で執刀したいと言った時、ドゥルーガー会長は難色を示した。責任の所在が曖昧になるのではないかという理由で。うまく行かなかった場合に責任を取る誰かが必要だという話になってしまうのなら、そういったことを心配するのもうなずける。医師会に限らず、医師が2人で手術を行えるほうが珍しいのかもしれない。だがそれでいいのだろうか・・・。
 
「場所が悪かったからなんて言い訳にもなりませんからね。それに難しい場所とは言え、その周辺の手術経験がないわけではありませんでしたから、多少時間をかけてもきれいに取り去ろうと病巣の周囲ぎりぎりの部分にメスを入れて、もう少しで取り切れると思った時・・・。」
 
 突然病巣周辺から大量の出血が起こった。手術の時の出血自体は珍しいことではないのだが、まるで内側から湧き出るように血が出て、患者の腹から床まで血だらけになった。これ以上血が出てしまうと失血死の危険がある。そこで切り取れるだけの病巣を切り取り、急ぎ血止めのために呪文を使った。
 
「治療術師がいたんですか?」
 
「いや、看護婦の1人が唱えました。彼女の呪文の腕は確かですから、止血の方は心配しなくても良かったんです。ただいきなり強い呪文は使えませんから、血が止まるまでの間にそこそこ時間が過ぎてしまいましてね、麻酔が切れる時間の方を心配しなくてはならなくなりました。あともう少し早く病巣の奥までメスを入れることが出来ていたら、出血する前に病巣を取り切れたと思うんです。しかし最新鋭のメスを使用していても、そう簡単に病巣までたどり着くことが出来ませんでした。それがメスのせいではない事は私が一番よくわかってます。結局は私の力が足りなかったと言うことなんですよ。」
 
 それで合点がいった。今回の手術の話が出た時に、ハインツ先生がメスの話と自分の医師としての腕の話をしてくれたのは、そういうことだったのか・・・。
 
「しかしその時出血がなければ、病巣までたどり着けていたのではありませんか?」
 
「かもしれません。しかし時間をかけすぎてしまったのは私の時間配分のミスですし、あの時の出血についても私が病巣の摘出に気を取られているうちに、どこかの血管を傷つけてしまったのだと思います。しかしそれをきちんと調べることも出来ませんでした。もたもたしていたらクリフの命が危険にさらされてしまいます。私はそこまでで手術を終わらせるしかなかったんです・・・。」
 
 そこで完全に血が止まったことを確認して、縫合に入らざるを得なかった。それは何とも心残りだっただろう。だがこの話でわかったことは、前回の手術がうまく行かなかったのはハインツ先生の腕のせいと言うわけではなさそうだということだ。もちろんメスのせいでもない。麻酔が切れる心配をしなければならなくなったと言うことは、相当長い時間の手術だったはずだ。その間執刀医は極度の緊張の中にいる。その中でほんの一瞬でも緊張が途切れた瞬間があったとしたら・・・。
 
 
−−≪先生、出血が!≫−−
 
−−≪え!?うわ!この辺りにはそんなに太い血管なんてないはずなのに!≫−−
 
−−≪私が呪文を使います!先生は縫合を!≫−−
 
−−≪しかし病巣の摘出が!≫−−
 
−−≪そんなことより血を止めないと!早く!早くしてください!≫−−
 
 
(・・・・・・・。)
 
 突然聞こえた声と光景・・・。手元しか見えなかったのはハインツ先生の視点なのだろう。メスを入れていた場所から突然わき上がった血。呪文を使うと言ったのは看護婦の1人か。まるで病巣の摘出を阻むかのように急かす声・・・。
 
 しかし妙だ。あの場所であんなに血が噴き出すような太い血管はない。
 
(引っかかるが・・・今そのことについて言及するのはやめておこう。)
 
 普段なら気にするようなことでなくても、ほんのわずかの心の隙が、メスを握る手を鈍らせる、そんなことが絶対にないわけではない。もちろんあってはならないことだが、医者だって人間だ。どんなに万全の体制で手術に臨んだとしても、ごくたまにそういう時もあるかもしれない。だがうちの診療所のように2人で確認しながら進めれば、片方が集中を途切れさせても、もう1人がそれを補ってくれる。ゴード先生はハインツ先生が手術の執刀をする時は、いつも助手として手術に参加すると言っていたが、手術中に2人で相談しながら、なんてことは出来ないのだろう・・・。
 
(でも今は、何も言わない方が良さそうだな・・・。)
 
 今は医師会の手術の体制について問題提起をする時ではない。
 
「そういうことでしたか・・・。今回の麻酔薬はある程度長い時間効くようになっています。2人で協力して、何が何でも病巣を出来る限り取り除きましょう。ハインツ先生、よろしくお願いします。」
 
「私の方こそよろしくお願いします。当てにしていますよ。」
 
 ハインツ先生が笑顔になって言った。心なしか肩の荷が下りたような笑顔だった。その笑顔を手術が終わったあとも見ることが出来るように、私も最善を尽くさなければならない。
 
 
                          
 
 
 その後翌日の準備を全て終え、手術室に鍵をかけて私達は会長室に向かった。準備が終わったことを報告するためだ。
 
「・・・あいわかった。ではあとは明日の手術だな。早朝からになるが、よろしく頼むぞ。それとガーランド男爵の件だが、レイナック殿にお願いして薬に関する情報だけこちらに回してもらえるようになった。ハインツ、明日の昼間はタネスに説明をしておけば良いのだな?」
 
「ええ、それでお願いします。」
 
「うむ、ではそれで手配しよう。とは言っても・・・さて明日すぐに薬についての取り調べ報告が来るかどうかは、なんとも言えぬからなあ。」
 
 ドゥルーガー会長がため息をついた。ドーンズ先生がぺらぺらと自分の罪を話してくれればいいのだろうが、そう簡単にいかないことは確かだ。
 
 会長室を出て、ハインツ先生とは別れた。もっとも明日の早朝また顔を合わせることになる。あとは今日のうちに妻と話をしておこう。イノージェンと子供達にうまく説明してくれただろうが、確認だけはしておきたい。私は東翼の宿泊所に向かった。
 
 
「あらお帰りなさい。準備はうまく行った?」
 
 東翼の宿泊所では既に妻が私達の泊まる部屋に戻っていた。広すぎず狭すぎず、ゆったりと過ごせるいい部屋だ。ここならば今夜はきちんと眠って、明日の朝は万全の体制で手術に臨めるだろう。
 
「大丈夫。ここの手術室はさすが医師会だね。設備は整っているし何より広いなんてもんじゃないよ。」
 
 私は手術室について妻に説明した。
 
「へぇ・・・それじゃうちでも取り入れられる設備があるかもしれないって事ね。明日はよく見てこなきゃ。」
 
「手術が第一だからね。終わってからにしてくれるとありがたいよ。」
 
「いやねぇ、もちろんよ。まずはクリフの手術を成功に導かないとね。」
 
 私はハインツ先生から前回の手術について詳しい話を教えてもらったことも妻に話した。そして、話を聞きながら見えたこと、聞こえたことも。
 
「そう・・・。それは確かに、ハインツ先生にとって悔いの残る手術だったでしょうね・・・。」
 
「うん・・・。手術の全責任を負うのが執刀医だとは言っても、話を聞いた限りではハインツ先生の責任と言い切れるかどうか・・・。」
 
 もちろん執刀医としての責任がないとは思わないが、彼1人があそこまで責任を感じるというのもおかしい気がする。手術では執刀医の他に助手もいれば看護婦もいる。手術の結果に対する責任は、全員で負うべきものではないかと思うのだが・・・。
 
(かと言って看護婦や助手に責任の一端を担えというのもなあ・・・。)
 
 うちの場合なら、私もブロムおじさんも妻も、全員が診療所の運営者だが、ここの看護婦や助手、そしてハインツ先生だって雇用されているだけだ。それぞれの立場も役割も全く違う。
 
「そうよねえ。でもうちの診療所とは組織もシステムも違うし、医師会のような組織なら、執刀医が全面的に責任を負うって言うのは一番合理的な考え方なのかもしれないわよ。」
 
 今までそうしたシステムでうまく回ってきていたのだから、それが一番合理的だというのは確かなのだろう。それを今更私が気にしてみたところで仕方ない。それに手術がうまく行かなかった場合に、執刀医が自分のせいではないと逃げるわけにいかないのは確かなのだ。
 
「それに時間配分と言っても、なかなか想定通りには行かないわよねぇ・・・。」
 
 麻酔薬がある程度使えそうなところまで出来上がってきていた頃は、効いている時間は今よりずっと短くて、その長さをどうやったら延ばせるか、そこの部分はかなり苦労した。今だって『この薬は何時間効いてる』と確実に言うことは出来ない。それに患者の体質などによってもかなり変わる。たとえば大酒飲みには長い時間は効かないし、逆に酒類を全く飲まない人には、長く効きすぎてしまう、なんてこともある。
 
(そう言えばファーガス船長の手術の時には苦労したっけなあ・・・。)
 
 ファーガス船長とは、ローランと北の島とを結ぶ定期船の船長だ。ある時船長が船員達に担がれて診療所にやってきた。あと一歩遅かったら死んでいたかもしれないほど、盲腸炎の痛みを我慢していたらしいので緊急手術となったのだが、元は海賊で凄まじい酒豪だったので、麻酔の調合にはかなり苦労した。強すぎては患者の命に関わるし、弱すぎて手術半ばで目を覚まされたりしたら大変なことになる。
 
「そうなんだ。しかしその出血の原因がはっきりしないのが気になるよ。そんないきなり大出血を起こすような太い血管はないはずなんだけど・・・。」
 
「うーん、ハインツ先生の話を聞いただけなら、たとえば原因を突き止められなかっただけで実際にはどこかの血管を傷つけていたのかもしれないと考えるわね。可能性としては、そんなに太い血管ではなくても、じわじわ出血していたのが何かの拍子にたまった血が流れ出たのかもしれない、そう考えると思うけど、あなたが見たことを考えると、その看護婦が何かおかしいかもしれないわね。」
 
 確かに、原因があるから結果としての大量出血と言うことになるのが普通だ。何もないところから突然血が沸き出すなんてことはない。だからハインツ先生はとても責任を感じているのだと思う。自分が何かしたのは間違いない、なのにその原因を突き止められない。それでは自信をなくすのも理解出来る。
 
「そうなんだよね。ハインツ先生が自信をなくすのもわかる気がするけど、手元しか見えなかったと言うことは、かなり病巣の除去に集中していたと思うんだ。視界の外で何が起きていても、あの調子だと気がつかないかもしれない。」
 
 その時、妻が『あら?』と言った。何か思い出したような声だ。
 
「何?」
 
「昼間クリフの病室で聞いたのよ。ほら、いつもクリフについている看護婦さん2人、あの人達は手術に参加しないのかなと思ってたんだけど、あの2人は病室勤務と言って、病室での患者の世話が仕事なんですって。でも慣れてる看護婦さんがいてくれたら、クリフも心強いんじゃないかって言ったのよ。そしたら手術の時の看護婦の仕事は、患者が乗っている手術台のシーツの管理や、タオルなどの備品の管理だから、執刀医のそばにも、もちろん患者のそばにも近寄ることはないそうよ。」
 
「・・・それなのにあの時聞こえた看護婦の声は、明らかにハインツ先生の隣くらいの距離だったよ。ハインツ先生も突然の出血で驚いていたと思うけど・・・。」
 
 さっきハインツ先生に話を聞ければ良かったのだが、『こんな光景が見えましたが』と尋ねるわけにはいかない。だが奇妙だ。執刀医のそばに寄らないはずの看護婦が、すぐ隣にいた・・・。その直前に何かあったのかもしれないが、あの時見た光景からはそれ以前のことは感じ取れなかった。そして何より、執刀医のすぐ近くに看護婦がいてあんなに大声で怒鳴っていたというのに、ハインツ先生がそれを不審に思っていたように感じられなかったのだ。
 
「明日の看護婦さん達も同じ人なのかしらね。」
 
「手術室勤務の看護婦達が来るって言うなら、同じ人の可能性もあるね。でも今は祭りの時期で休暇を取っている人も多いだろうから、なんとも言えないけど。』
 
「もしも同じ人達が来たら、私がよく見ておくわ。ハインツ先生から紹介はしてもらえるだろうし。それと、ゴード先生にもお願いしましょう。明日の執刀医はあなたなんだから、あなたのやり方でやっていいと思うのよ。もしもその看護婦さん達のどちらか、或いは両方かが怪しいとしたら、何があっても手術の邪魔をされるわけにはいかないわよ。そして、何とか手術を『成功した』と言えるところまで持っていかなくちゃ。明日の手術でどこまで病巣を取り去れるかによって、この後の治療予定も変わってくるし、ハインツ先生に自信を取り戻してほしいしね。」
 
「うん。この後の治療予定が狂ってしまうと、クリフが普通の生活が出来るところまで持って行くにも時間がかかってしまうからね。」
 
 クリフの病巣を、全て取り去れるなら言うことはないが、それは難しい。ならば出来る限り取り除いて病巣を小さく出来れば、後は薬で抑えて行ける。それが私の考えと、医師会の総合的な判断だ。ハインツ先生には今回の手術でぜひ自信を取り戻してほしいと思っているが、一番は手術の成功だ。それを第一に考えなければならない。
 
「最善を尽くすしかないって言うことね。それじゃ、イノージェンの話をしてもいい?」
 
「うん。まずはライラとイルサの様子から教えてほしいな。」
 
 妻はうなずいて話し始めた。
 
「2人とも落ち着いてちゃんと聞いてくれたわ。話はほとんどイノージェンがしたのよ。私は明日の書類の書き方を団長室に聞きに行く時の話と、申し立てにはあの子達が付き添うことが出来ないから、明日のうちにオシニスさんにいろいろ聞いておいてねって、そのくらいね。」
 
 妻とイノージェンが、今回の申し立てについてわかっているところを全て話して聞かせたらしい。申し立てに同席出来ないのは2人とも残念だったようだが、それは決まり事として仕方ないと納得してくれたらしい。あとはオシニスさんに聞けるだけのことを聞いて、明後日の申し立ての日は、宿泊所で待機していることにしたそうだ。
 
「申し立てが終われば、確実にイノージェンとガーランド家の縁を切ることが出来るけど、男爵様が目を覚ましたあとどういう行動に出るかはなんとも言えないから、そこだけは心配だって、ライラが言ってたわ。」
 
「そればかりはなあ・・・。それに、ラッセル卿も何となく危なっかしいからなあ・・・。」
 
「とにかく明日は何としても手術を成功に導いて、出来るなら夕方くらいには一度剣士団長室に顔を出せるようにしたいね。」
 
「そうね。頑張りましょう。」
 
「うん、よろしくね。」
 
 
 
 翌朝、まだ窓から見る外が薄暗い時間に私達は起き出した。東翼の喫茶室はまだ開いてないので、前日に用意しておいた携帯食を食べた。
 
「携帯食なんて久しぶりに食べたわねぇ。」
 
 妻が笑っている。
 
「でもこんなところで役に立つとは思わなかったよ。」
 
 携帯食も昔よりずっとおいしくなっている。こんなところでも時の流れを感じる。
 
 
「おはようございます。」
 
 2人で手術室の前に行くと、ちょうどハインツ先生が鍵を開けるところだった。
 
「おはようございます。私も今来たところですよ。」
 
 鍵を開けて3人で中に入った時、ゴード先生と看護婦が2人やってきた。彼女達は手術台など患者が使う場所の確認、シーツなどが汚れた時の交換など、医師や助手などの手が回らない雑用をやってくれることになる『手術室勤務』の看護婦だ。今回薬の管理で手術に参加するオーリスとライロフは、マレック先生と一緒にクリフの病室にいる。麻酔薬を飲ませて、効いた頃合いにクリフをここまで運んできてくれることになっている。前回まではタネス先生ともう1人若い医師が担当していたらしいが、タネス先生は今日もガーランド男爵の病室に詰めている。そしてもう1人の若い医師は、祭りの休暇を取っていると言うことなので、オーリス達に頼んだのはよかったらしい。
 
「紹介しますよ。こちらが・・・。」
 
 ハインツ先生が看護婦2人を紹介してくれた。この2人は前回からの参加だそうだ。そのうちの1人が、前回の手術で血止めの呪文を使った看護婦らしい。名前はサビーネと言い、歳は私と同じくらいだろうか。
 
(あの時聞こえた声は・・・この声だな・・・。)
 
 ハインツ先生に早く縫合しろと急きたてた声・・・。このサビーネ看護婦が何か企んでいるのは間違いなさそうだが・・・。
 
−−≪前回はうまく行かなかったけど、今度こそ!≫−−
 
「・・・・・・・。」
 
 これは・・・サビーネ看護婦の声・・・。前回の手術は確かにうまく行かないことがあったから?だから今度こそうまく行くように・・・。
 
(ってわけじゃなさそうだな・・・。)
 
 とりあえずこの件は後で考えよう、そう思って昨日準備しておいたメスなどの備品が置かれた棚を開けた時、妙な違和感があった。
 
(昨日は・・・夕方ハインツ先生と備品の箱を開けて・・・。)
 
 手術に必要なメスや鉗子、ガーゼなどの備品を2人で確認しながら用意して、箱に入れた。そしてその箱を棚に置いて・・・。
 
 昨日の手順を思い出しながら箱を確認した私は、置かれている箱の順番と向きが変わっていることに気づいた。そして同時に声が聞こえた。
 
−−≪まずい!今見られたら!≫−−
 
 サビーネ看護婦の声だ!無論私の頭の中に響いてくるだけなので、他の誰にも聞こえていない。
 
「先生!そんなことは私が致します!」
 
 どうやら私の勘が当たったらしい。中身の確認をするために備品の箱の蓋を開けようとした私の手から、サビーネ看護婦が強引に箱を奪おうとした。
 
「これは私がこれから使う備品ですから、執刀医の私が確認します。」
 
 手術室勤務の看護婦が、今備品の箱を開ける理由がない。やはりこの看護婦には何かある!
 
「だめです!執刀医の先生がそんなことをなさってはいけません。これは医師会の決まりなんです!」
 
 サビーネ看護婦から発せられる『気』の中に焦りが滲む。
 
「私は医師会の人間ではありませんからね。今回の手術は私のやり方でやらせてもらいますよ。」
 
 その時
 
「サビーネさん、何をやっているんですか!?ベッドの準備をするからこっちに来てください!」
 
 苛立たしげな声は、もう1人のオリア看護婦だ。
 
「今忙しいのよ!」
 
 サビーネ看護婦はオリア看護婦に向かって怒鳴り、なおも私から備品の箱を奪おうと叫んだ。
 
「その箱を渡してください!」
 
 サビーネ看護婦はどうしても備品の箱を開けてほしくないらしい。もう誰の目から見ても、サビーネ看護婦の行動は異常に見えた。
 
「何が忙しいよ!あんたこの間の手術でも備品の棚をかき回していたじゃないの!備品の管理は看護婦の仕事じゃないでしょ!」
 
 オリア看護婦が走ってきてサビーネ看護婦の腕を掴もうとした時、サビーネ看護婦は隠し持っていたメスでオリア看護婦を切りつけた。
 
「きゃあ!」
 
 オリア看護婦が悲鳴を上げる。私は咄嗟に麻痺の気功でサビーネ看護婦を拘束した。
 
「な、何よ!?動けない・・・!?」
 
 サビーネ看護婦の顔に恐怖が走る。まさかこんな場所で気功に囚われるとは思ってもいなかったろう。
 
「ウィロー、王国剣士を呼んできて!」
 
「わかった!」
 
 ウィローが駆けだしていく。私は動けなくなったサビーネ看護婦の手から血のついたメスをもぎ取った。
 
「何でこんなものを隠し持っていたのか、ちゃんと話してもらいますよ。」
 
 駆けつけた王国剣士に簡単に事情を説明して、自害だけはしないように見張っていてくれるよう頼んだ。私の麻痺の気功はそれほど強いものではないが、念のためそのまま牢獄の審問官のところに連れて行ってくれるよう頼み、牢獄にいる気功の使い手に解いてもらってくれと頼んでおいた。そして持っていたメスも、ガーゼにくるんで証拠品として渡した。
 
−−≪ちくしょう!やっとここまで漕ぎ着けたのに・・・!ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!≫−−
 
 さっきまでは看護婦として真面目な体を装っていたようだが・・・。
 
(目的としては、医師会が狙いか、ハインツ先生が狙いか、あとは・・・。)
 
 クリフ、そしてレグスさん夫婦、レグスさんの工房・・・。
 
 今すぐにでも何故こんなことをしたのか聞きたい衝動に駆られたが、それは私の役目ではない。それにしても、こんな時には過去の出来事が見えてこないのだから、私の力というものもけっこう曖昧なものだ。
 
(ま、そんなことを考えても仕方ないな。)
 
 
「・・・はい、これで大丈夫。でもいいのかい、オリア。こんなことになるとは思わなかったけど、休んだ方が・・・。」
 
 ハインツ先生はオリア看護婦が切りつけられた傷の手当てをしてくれたらしい。オリア看護婦の腕には包帯が巻かれている。
 
「いいえ、大丈夫です。全くあの人は・・・。前回もおかしな行動を取っていたけど何をしているのかわからなかったんです。だから今度こそしっぽを掴んでやろうとずっと見ていたんですよ!」
 
「前の時も・・・?」
 
 ハインツ先生は青ざめた顔で考えている。オリア看護婦の話では、前回の手術の時にもサビーネ看護婦は何かやったらしいのだが、そのことについてハインツ先生は何も知らないらしい。だが確かに何かやったのだろう。執刀医のすぐそばであんなに大騒ぎをしていたのだから。だが昨日ハインツ先生から話を聞いた限りでは、サビーネ看護婦がすぐ近くにいたことについて特に不思議に思っているわけではなさそうだった。まずはオリア看護婦から事情を聞きたいものだが・・・。
 
「オリアさん、その話をあとで教えてもらえますか?」
 
 前回のことは私も知らないことだ。まさかと思うが備品に、いや、備品に限らずいろいろと小細工をしていた可能性もある。
 
「ええ、何でもお話しします。でもそろそろ患者さんが運ばれてくる頃ですよね。」
 
「麻酔が効いた頃合いですからね。しかし参ったな。看護婦が1人では手が回らないだろうし・・・。」
 
 ハインツ先生が考え込んだ。何事もなければ看護婦の仕事はそんなにないのだが、それを見越して1人でやってもらうというわけにはいかない。何かあれば大変なことになるのだ。
 
「先生方、とにかく患者さんを乗せるベッドの準備だけはやってしまいたいので、どなたか手伝っていただけませんか?」
 
 オリア看護婦が言った。こんなことになっても職務を全うしようとする、真面目な看護婦だ。
 
「私が手伝います。」
 
 妻が言って、2人でベッドの準備を終わらせた。あとはクリフが運ばれてくれば、ここに載せるだけだ。
 
 その時、手術室の扉を開ける音がして、デンゼル先生が顔を出した。
 
「よぉ、おはよう!・・・ん?なんだみんなして暗い顔をして?」
 
「おはようございます。あれ?」
 
 デンゼル先生の後ろにセーラが立っている。
 
「いや、せっかくお前さんの手術が見られると言うことで、セーラを連れてきたんだ。急ですまんが見学させてもらえるかね?」
 
「かまいませんよ。」
 
 セーラはもう看護婦のエプロンを着けている。アスランの看病の時もずっとエプロンを着けていたから、そのまま見学に来たのだろう。どうせならセーラに看護婦の仕事を頼みたいが、医師会としてはどうなんだろう。セーラとて部外者は部外者だ。
 
「あ、クロービス先生、それならセラフィさんにお願いしませんか?もうクリフが運ばれてくる時間ですし、医師会の看護婦も祭りの休みを取っている者が多くてぎりぎりで回している状況なんですよ。」
 
 ハインツ先生の提案は願ってもないものだった。
 
「ん?何で看護婦が足りんのじゃ?」
 
「ちょっとトラブルがありまして、看護婦が1人抜けてしまったのですよ。セーラ、急ですまないが、手術の手伝いを頼めるかい?」
 
「私はかまいませんが・・・。」
 
 突然の話でセーラが戸惑っている。
 
「あら、それならお願いします。私1人ではどうしようかと思ってたんです。セラフィさんて王国剣士のアスランの妹さんでしょ?前にシーツを持っていったりしたことがあったけど、とても感じが良かったので覚えていますよ。」
 
 オリア看護婦のこの言葉で話は決まり、セーラについては私が全責任を持ちますと言った。ドゥルーガー会長への連絡が事後承諾になってしまうが、今から会長室に行って事情を説明して、などという時間はない。
 
「勝手なことを言ってすみませんね。」
 
 ハインツ先生が頭を下げたが、とんでもない、願ってもないことですよと言っておいた。このことについてハインツ先生が引け目を感じる必要など何もない。
 
「それじゃセラフィさん、こちらへ。仕事の内容を教えますから。」
 
 セーラはオリア看護婦と一緒に、これから使用するシーツなどが置かれた棚の前に行き、説明を聞くことになった。
 
「何だかよくわからんが、話はうまく収まったようじゃの。それじゃわしも見学させてもらうぞ。」
 
「ええ、よろしくお願いします。」
 
 ここでやっと私は、ずっと手に持っていた備品の箱を開けることが出来た。
 
「・・・なんだこれ?」
 
 前日ハインツ先生と2人で準備した備品とは違う。間違いなくきれいに研がれて消毒されたメスや鉗子などが入っていたはずなのに、今箱の中にあるのはどれもさびたり曇ったりして、とても手術では使えないものばかりだ。
 
「これは・・・いったいどういうことでしょう・・・。」
 
 ハインツ先生も呆然としている。
 
「おそらくサビーネさんが何かやったのでしょう。手術室の鍵はハインツ先生が持っているわけではないんですよね。」
 
「ええ・・・昨日ここの準備を終えてから、いつも鍵が置かれている場所に戻しました。個人が持っていたのでは、緊急手術などがあった時にすぐに使えませんからね。しかし・・・まさかこんなことになっているとは・・・。」
 
「これはいったん棚にしまって使わないようにしましょう。手術が終わったら牢獄に届けたほうがいいかもしれません。」」
 
「そうですね。備品については代替品がありますから大丈夫です。すぐに持って来ましょう。もうすぐクリフが運ばれてきます。手術の開始時間だけは遅らせるわけにはいきません。」
 
 ハインツ先生は隣の手術台の脇にある棚を開けて、備品の箱を取りだした。
 
「うん、これは大丈夫だ。」
 
 そう言って私のところに持って来て見せてくれた。
 
「お、これはきれいですね。ではこれを使いましょう。」
 
 その箱の中に入っていたのは、きれいに磨かれたメスや鉗子などの備品だ。前日ハインツ先生と私で用意したものと同じものだ。幸いなことに、昨日用意した他の備品の箱は置かれた順番や向きが変わっていただけで、中身は無事だった。それにしても何が目的なのだろう。手術が始まる前には箱を開けて、メスや鉗子などは全て備品を置くためのテーブルの上に並べられる。そしてそれを執刀医に渡すのは、助手の役目だ。もしも並べる時点で箱の中身がおかしなことになっていたとしても、手術室の中には予備の備品がたくさんある。その中の1つと交換すればすむ話だというのに・・・。
 
 そこにクリフの病室に詰めている看護婦がやってきた。麻酔が効いたのでクリフを運んでくると言う。
 
「何とか間に合いましたね。」
 
 何かを企んでいたサビーネ看護婦はいない。その穴埋めはアスランの妹セーラが担うことになった。備品もきれいなものに交換した。これであとは手術が無事に終われば言うことがないのだが、サビーネ看護婦が他にどんな罠を仕掛けているかわからない。
 
 私は念のため、助手をしてくれるゴード先生と妻を呼んで、備品に限らず、何か仕掛けられていないとは言い切れないので、交換したメスや鉗子、ピンセットなど、良く確認してから渡してくれるように頼んだ。
 
「わかりました。」
 
 ゴード先生は神妙な面持ちでうなずいた。さっきサビーネ看護婦の狂気とも言うべきものを見たからかもしれない。
 
「でも何が目的だったのかしらね。」
 
 妻も十分に注意するわと言ったが、サビーネ看護婦のことは気になるようだった。
 
「それは手術のあとに考えよう。今はクリフのことに集中しないとね。」
 
「そうね・・・。頭を切り替えなきゃね。」
 
 妻がそう言った時、廊下をがらがらと音を立ててクリフを乗せた移動用のベッドが運ばれてきた。オーリスとライロフがベッドを押し、マレック先生が薬を入れた箱を抱えてベッドのわきを歩いてきた。
 
「おはようございます。麻酔薬はよく効いてますよ。」
 
 私とハインツ先生も挨拶し、早速クリフを手術台の上にのせた。ゴード先生と妻が、それぞれ使用する備品をテーブルの上に並べ、これで準備が整った。
 
「ではこれからクリフの手術を始めます。」
 
 私は手術の手順をここにいる全員に説明し、『今回は私のやり方で』と前置きした上で、助手であるゴード先生にも、患部をよく見て何か気づいたら教えてくれるように頼んだ。
 
「い、いや、私は今回ただの助手ですから・・・。」
 
 案の定ゴード先生は戸惑っている。
 
「戸惑うお気持ちはわかります。しかし今回の手術はクリフにとっておそらく最後のチャンスです。そしてクリフがどこまで命を長らえることが出来るかは、私達にかかっているんです。どんな小さな事でも漏らさずに教えてください。」
 
 ゴード先生はまだ戸惑った顔をしてはいたが、はいと返事をした。
 
「では、開腹は私がやります。病巣の周辺が見えたら、ハインツ先生、前回の手術でどの辺りの病巣を切除したのかを教えてください。」
 
 開腹するまで中の様子はわからない。出来る限り素早く、そして必要最小限に切っていかなければならない。
 
−−≪すごい・・・。早くて正確だ・・・。やはりこの人は素晴らしい医師だ。医師会の頂点に立つべきなのに・・・。≫−−
 
 ハインツ先生の『声』が聞こえてくる。もちろん私の頭の中にだが。
 
(参ったな・・・。防壁を二重にしておけば良かったか・・・。)
 
 防壁を二重にしておけば、まわりの人の心の叫びなどがぼんやりとしか受け取れなくなると知ったのは、昔私達がこの町を離れる少し前だ。だがそれをやっていなかったおかげで、さっきサビーネ看護婦の悪だくみを阻止することが出来た。
 
(とにかく今は手術のことだ。あとは・・・ここをこう切って、上の臓器を鉗子で少し持ち上げれば・・・。)
 
 露わになった患部には真っ赤な病巣が内臓に張り付くようにして広がっている。だが薬の効果かそれほど酷いという印象は受けない。
 
「おお、これは薬の効果でしょうか。前回よりも大分状態はいいですね。」
 
 ハインツ先生の声にはほっとしたような響きがこもっている。つまり前回の手術では、もっと酷い状態だったのだろう。前回の手術ではあともう少しと言うところでの大量出血があったが、そんなことがなければきれいに病巣を取り去れたのではないだろうか。
 
(ハインツ先生こそ、素晴らしい医師だと思うんだけどなあ・・・。)
 
 私が1人でそんなことを考えても仕方ない。目の前の手術に集中しなければ。
 
「前回の手術ではここから・・・ここまでは切り取れました。でもあともう一歩というところで・・・。」
 
 その大量出血も、医師のミスではなく、サビーネ看護婦が何か細工した可能性も出てきた。
 
「では見える部分から切っていきましょう。」
 
(しかし・・・看護婦は執刀医の近くにはいないのが普通だ。)
 
 オリア看護婦もセーラも、手術台の近くにいない。シーツや患者の着ている服が汚れたりした時に、必要であれば取り替えてくれたりはするが、医師の汗を拭いたり、患者の様子を見て脈をとったり汗でぬれた枕などを交換するのは、助手の役目だ。うちの診療所では妻がその役割を担っている。その辺りのやり方は医師会でも似たようなものらしいが、事前に大量のタオルやシーツを自分で用意しなくていいのはありがたいんじゃないだろうか。
 
(前回、メスなどの備品に問題があったという話は聞いていない。ということは、サビーネ看護婦が何かしらの小細工をしたのは、もっと別のことだったということか・・・。)
 
 私が立っているのは、前回の手術でハインツ先生が立っていたと言っていた場所だ。そしてハインツ先生は私の向かい側に立っている。この立ち位置なら、どちら側に立っていても患部はよく見える。だが何かしらに気を取られていれば、見えていても頭に入ってこないと言うことは考えられる。
 
「ハインツ先生、前回出血したのはどの辺りですか?」
 
「ええと、クロービス先生の左側にある鉗子の下側でした。その辺りに太い血管はないと思うんですが・・・。」
 
 確認してみたが、確かに太い血管なんてその辺りには通っていない。では何故出血したのか。しかも一気に湧き出るほどに。
 
「一応注意しながら進めましょう。何があるかわからないのはどんな手術でも一緒ですしね。」
 
「そうですね。」
 
 私の立ち位置から見える部分、反対側から見える部分、2人で相談しながら病巣を切り取って行ければ、かなり広範囲にわたってきれいに取り除けるはずだ。サビーネ看護婦の企みを考えるのはあとだ。まずは目の前の患者を救うこと、それだけに集中しよう。
 
「・・・・・・・?」
 
 視線を感じて手を止め、顔を上げた。私とハインツ先生の手元を、ゴード先生が食い入るように見つめている。
 
「・・・ゴード先生、どうしました?」
 
 私の声にゴード先生ははっとして、視線を逸らした。
 
「い・・・いえ・・・なんでも・・・。」
 
「ゴード先生、何でもいいですから、気になることがあるなら教えてください。」
 
「いや、その・・・些細なことですので・・・。」
 
 ゴード先生の返事は煮え切らない。
 
「ゴード、何か気になるなら教えてくれ。君は前回も私の助手を務めてくれた。今回の手術と何か違いにでも気がついたのか?」
 
 ハインツ先生に言われ、ゴード先生は小さくため息をついた。
 
「いやその、今気になってることがあるというのではないんです。前回の手術の時、私は今ウィローさんが立っている場所にいました。その時、向かい側にサビーネさんがいたことを思いだしたんですよ。看護婦がこの辺りに立つことは普通はないはずなのに・・・。」
 
「患者の着替えなどは?」
 
「手術の最後の方にいきなり大量出血が起きるまでは、看護婦が着替えをさせたりしなければならないようなことはなかったはずです。タオルもガーゼも充分に用意してありました。何故ここにサビーネさんがいたのか・・・。」
 
「わかりました。何か思い出したらまた教えてください。あと、患部の状態については引き続き見ていてください。」
 
「・・・わかりました・・・。」
 
 ゴード先生の顔色が良くない。何故今そんなことを思い出したのか、それが自分でもわからないらしい。
 
(記憶を撹乱するような事は風水術では出来ない。まさか催眠術のようなものを使ったのか・・・。)
 
 となるとこの問題は根が深いかもしれない。サビーネ看護婦の目的がなんであれ、彼女は催眠術を使って手術室の中を自由に歩き回ったのだろうか。ではそれは全て彼女の独断で単独犯行なのか?
 
 いや、もしかしたら・・・後ろにクイント書記官がいる可能性がある。さっきサビーネ看護婦が心の中で悪態をついていたことから考えても、彼女にも今回の騒動を起こすだけの動機はありそうだ。その動機をクイント書記官に利用されたのだとしたら、催眠術はクイント書記官が近くでかけていたと言うことも考えられる・・・。
 
(・・・よし、ここまではきれいに取れた。あとは・・・。)
 
 とにかく今は手術だ。今のところ順調に病巣の切除が出来ている。
 
「クロービス、左側の鉗子の下の奥、赤く見えるから確認して。」
 
「わかった。」
 
 私の後ろにいる妻からの声だ。私の位置から見えなくても、妻の立っている位置からよく見えることはある。メスを使いながらきょろきょろしているわけにはいかないので、妻の目は『第二の私の目』とも言うべきものだ。ハインツ先生とゴード先生からの視線を感じる。2人とも今の妻の声に驚いているようだ。手術台の足下の方にいるデンゼル先生が『ふむ、こりゃ効率がいいのぉ。』などとつぶやいている声が聞こえる。
 
「これか・・・。」
 
 鉗子で臓器を少し持ち上げてあったのだが、その奥にまだ病巣が隠れていた。慎重にメスを差し込み、刃先で削り取る。万一他の臓器を傷つければ、一気にとまでは行かなくてもかなりの出血が予想される場所だ。だが出血はない。前回の手術の時に大量出血が起きた場所に近いが、やはり前回の手術では、サビーネ看護婦が何かしたことに間違いなさそうだ。
 
(しかし・・・この奥にも病巣があるが・・・あそこまではメスが入らない。あの場所の病巣を切り取るには肺のすぐ下を開腹して胸の側からメスを入れないと届かない。くそっ!)
 
 今回の手術のあと、もう一度肺側から切り開いて改めて病巣を取れるだけの体力は、今のクリフにはない。やはりあとは薬で抑えていくのがいいのだろう。あの大きさなら投薬で充分押さえ込めるし、うまく行けば病巣がほとんど問題にならないくらい小さくなってくれる可能性は大いにある。とは言え、目の前にある病巣を取り去ることが出来ないというのは悔しくて仕方ない・・・。
 
「ゴード、君の位置から見て、病巣の取り残しはありそうか?」
 
 ハインツ先生がゴード先生に尋ねた。ゴード先生はしばらく見ていたが・・・
 
「ハインツ先生の右手側の鉗子の下が赤く見えます。確認をお願いします。」
 
 まだ戸惑っているようではあったが、はっきりと言った。
 
「ハインツ先生、こちら側でさっき切除した病巣の先だと思います。出来るところまで切除をお願いします。」
 
「わかりました。」
 
 ハインツ先生が慎重にメスを入れる。程なくして『・・・よし、取れた。』と小さく聞こえた。
 
「しかし最奥までは届きませんね。ここを切除するなら肺の側から切開しないと。」
 
「ええ、しかしそれは難しいですね。」
 
「そうですね・・・。あとは薬の効果に期待するしかなさそうですね。」
 
「悔しいですが、そういうことになりますね。あとは取りこぼしがないかどうかを確認して、縫合に入ります。」
 
「わかりました。」
 
−−≪あの時・・・病巣をきれいに取れていたら、こんなことにはならなかったのに・・・。≫−−
 

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