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第104章 イノージェン、ガーランド男爵家と縁を切る

 
 異議申し立ての必要書類というのは、そんなにたくさんあるわけではないらしい。オシニスさんの机の上にはいつものように書類が山になっているが、それを端に押しやって、手術室から持って来た備品の箱が2つ置いてある。そしてその隣に数枚の書類が置かれていた。それが今回異議申し立てで提出する書類と、イノージェンが異議申し立ての当日持参しなければならない書類だと言うことだ。
 
「では・・・ここにこう書いて・・・あとはこっちは空欄でいいんですね?」
 
 熱心に聞いているのはイルサとライラだ。イノージェンはもちろん必死で聞いていると言った感じなのだが、子供達の気迫に押され気味である。
 
「そうだな。それと、こっちはイノージェンさんが書かなくちゃならないので、子供達の代筆はしないようにしてください。」
 
「わかりました。ではこっちの書類は・・・。」
 
「それは当日持参していただくものです。それが異議申し立ての原稿になるものですから、それはクロービス達と相談して書いてください。ただし、今日提出していただくこちらの書類の異議申し立て内容と、実際の申し立て内容の中身が一致しないのは困るので、ここは必ず同じ内容を書いてください。」
 
 イノージェンは一つ一つ説明を聞きながら、書けることはすぐに書いている。書類の作成はそんなにかからずに終わりそうだ。
 
「それじゃ母さん、この内容は僕がノートに書き写しておくよ。申し立ての原稿を作る時に違う話を書いてしまったりしないようにね。」
 
「いやねぇ、そんなことしないわよ。母さんはね、1日も早くこの騒動を終わらせたいんだから。」
 
 イノージェンもライラもイルサも、みんな笑顔だ。3人にとってガーランド家とのことはもう終わったことなのだろう。今回の異議申し立ては、確実に決着をつけるための最後の一押しと言ったところか。
 
 子供達にも教えてもらいながら、イノージェンは一枚ずつ書類を作っていく。私達は説明に口を出せるほど書類の書き方について詳しいわけじゃないので、オシニスさんとイノージェン、それにライラとイルサが話している会話をよく聞いておくことにした。私達が役に立てることがあるとすれば、このあと、異議申し立ての原稿を作る時だろう。
 
(それに・・・オシニスさんはこの話が終わったら、今朝の話を聞きたいだろうしなあ・・・。)
 
 もちろん私もその話をするつもりで来た。サビーネ看護婦の目的がなんだろうと、前回の手術の時にクイント書記官が関わっていたかもしれないとなればまた話は変わってくる。彼がサビーネ看護婦に協力したために、クリフの手術はうまく行かず余命宣告をしなければならないほどに弱ってしまった。そしてハインツ先生は自分の手際が悪かったせいだとすっかり自信をなくしてしまったのだとしたら・・・。
 
 もしかしたら、サビーネ看護婦はクリフが弱ってついに死ぬまで待っているつもりだったのか。ハインツ先生は自信をなくしたが、だからって医師をやめるという選択肢はないと思う。だとすると・・・。
 
(サビーネさんの狙いはクリフと言うより、レグスさんとサラさんのどちらか・・・。そして2人が経営する工房もか・・・。)
 
 王国剣士になって3年程度のクリフが、誰かに恨みをかうとは考えにくい。サビーネ看護婦は、クリフが亡くなってレグスさん達が嘆き悲しむのを見て、陰でほくそ笑んでいるつもりだったのだろうか・・・。
 
 では、仮にラエルがターゲットだとしたら・・・。
 
(いや、それはないだろうな・・・。)
 
 その理由が見つからない。もちろんそれは私の勝手な推測だから調べる必要はあるのだろうけれど。
 
 いや、落ち着こう。推測に推測を重ねてもかえって混乱するだけだ。まずは事実としてわかっていることをきちんと伝える。『もしかしたら』『かもしれない』はそのあとだ。
 
 
「よし、これで俺の説明は終わりです。申請書類の方はこれで問題ありません。これからすぐに届けてきます。あとは明日の原稿の準備をお願いします。」
 
 申し立てについての説明は終わり、申請書は出来上がったようだ。
 
「それじゃイノージェン、子供達と一緒に原稿を作ろうか。」
 
「ええ、お願いするわ。内容が変わらないつもりでも言葉の選び方で変わってしまうこともあるかもしれないし、原稿は慎重に作りたいの。」
 
「それじゃ宿泊所に移動しよう。オシニスさんはこれから執政館ですね?」
 
「ああ。この書類を間違いなくじいさんに渡してこないとな。クロービス、あとでいいからここに戻ってきてくれないか。」
 
「かまいませんよ。それじゃもうしばらくしてから伺います。」
 
 全員で剣士団長室を出て、オシニスさんは執政館に、私達は東翼の宿泊所に戻ってきた。
 
「それじゃ私の部屋で原稿を作りましょう。クロービス、ウィロー、手伝ってね。もちろん、ライラとイルサもね。」
 
 イノージェンの部屋に全員で入るのは少し手狭かと思ったのだが、イルサはイノージェンと一緒にいるらしく、部屋はそこそこ広い。部屋の真ん中におかれているテーブルに書類を出し、ライラがメモしてきた申請書の内容と照らし合わせながら、慎重に言葉を選んで原稿を作っていった。
 
「・・・こんなところかしらね。」
 
「そうねえ・・・。ねえクロービス、私、ちょっとここが気になるんだけど、この言い回しだと違う内容に受け取られてしまう心配はない?」
 
 原稿の中でも、イノージェンが『ガーランド家とは縁を切りたい』とはっきり言う部分なのだが、そこに『出来る限り関わりたくない』と書かれている。妻はそこが気になったらしい。確かにこれではイノージェンの強い気持ちがきちんと表わされていない気がする。
 
「イノージェン、ここはもっとはっきり言ったほうがいいよ。二度と関わりたくないって強い口調で言った方が、申請書の内容にも則してると思うんだけどどうだろう。」
 
「・・・やっぱりそこまで言わないとダメかしらね。私としては別にガーランド家の皆さんを憎んでいるわけではないからそう書いたんだけど・・・。」
 
「君としてはガーランド家と交流出来るならしたいと思ってるの?」
 
 私の言葉にイノージェンは少し考えたが・・・。
 
「それは無理ね。少しでもそんなことを言ったら、男爵様を止めることが出来なくなってしまうし、何より、あの跡取りのラッセル卿だっけ?あの人とはわかり合える気がしないわ。そこは書き換える。もう二度と関わらなくてすむようにしたいもの。」
 
 イノージェンは原稿を受け取り、『出来る限り』の部分をインクで塗りつぶして別な文言に書き直した。
 
「申し立てが認められたあとも男爵様がうちに手紙を書いてきたりすれば、あとは王宮に送り返してくれってさっき言われたけど、もしそういうことになっても仕方ないわ。男爵様を止められる人がいないってことですものね。でも私が一番心配なのは子供達のことなのよ。仕事で城下町に来ることがある子供達にまでちょっかいを出されるのはごめんよ。そんなことになったら許さないわ。」
 
「僕らのことまで心配しなくていいよ。ちゃんと自分の身は守るからね。」
 
「そうよ。もう小さな子供じゃないんだし。」
 
「あなた達が小さな子供だなんて思ってるわけじゃないのよ。相手は一般的な常識が全然通じないんだもの。心配にもなるわよ。」
 
「そのあたりはどうなるのか相談してみようよ。とにかく、まずは明日の申し立てだね。申請書はオシニスさんが持って行ってくれたから、今頃はもう受理されているはずだよ。受理されればすぐにガーランド家と立ち会いの大臣達に連絡が行くらしいから、あとはその原稿を当日読み上げればいいんだ。明日の午後一番と行っていたから、食事を早めにとって、ここで待機していないとね。」
 
 申し立ての申請書が受理されれば、実際の申し立てが終わるまでイノージェンとガーランド家の人間は会うことはない。どちらもお互いに近づいてはならないのだ。むろんイノージェンの子供であるライラとイルサにも、ガーランド家の人間は近づくことが出来ない。だから彼らと顔を合わせるのは明日の午後執務室でと言うことになるのだが、心配なのはラッセル卿だ。
 
「イノージェンとライラ達は夕食はどうするんだい?」
 
「今日は東翼の喫茶室で食べるよ。あそこの料理もおいしいんだけど、なかなか食べる機会がないから、こんな時にはいいかなと思って。」
 
 ライラが答えた。
 
「なるほどね。それじゃ一緒に食事をしようか。私達はもう一度剣士団長室に行かなくちゃならないけど、それまでここで待っててくれるかな。」
 
「ええいいわよ。原稿を読み上げる練習もしておかなくちゃね。ライラ、イルサ、聞いていてね。」
 
 ここに襲撃をかけたりはしないだろうが、ラッセル卿だけは安心出来ない。それとガーランド男爵を無理矢理連れ出そうなどと考えられるのも困る。そんなことをしたら彼自身が罪に問われる可能性があるし、申し立て時の心証は最悪になるだろう。
 
 
「ラッセル卿が静かにしていてくれるといいんだけどね。」
 
 妻がため息交じりに言った。妻も私もリーザとは友人だが、イノージェンの付添人として明日の申し立てに出席することが決まっているので、それが終わるまでリーザと会うことは出来ない。ガーランド男爵は今のところ意識不明なので、私が病室に入っても問題ないだろうが、ラッセル卿と鉢合わせというのは問題がある。
 
「仕方ない。ドゥルーガー会長に頼んでこよう。明日の申し立てが終わるまでは私もガーランド男爵の部屋には入れないからね。病室の前には腕っ節の強い王国剣士が配置されているようだから、あとは彼らに期待しよう。」
 
 とにかく今はラッセル卿が自制してくれるよう祈るしかない。私達はまず会長室に向かい、ドゥルーガー会長に、ガーランド男爵の部屋のことを頼んだ。私達は申し立てが終わるまで男爵の身内に会うことが出来ないので、治療の方はよろしくお願いしますとしか言いようがないが、ドゥルーガー会長は私達の立場について理解してくれたらしい。
 
「そういうことなら明日の申し立てが終わるまで、こちらで面倒を見よう。何にせよドーンズの取り調べの中で薬に関する話が出てくるまでは、こちらとしてもたいしたことは出来ぬ。だがこれ以上悪くならないようにすることならば何とかなろう。」
 
「よろしくお願いします。」
 
 
 私達は会長室を出て、剣士団の採用カウンターの前を通った。
 
「お、クロービス、これから団長室か?」
 
「はい。あ、そうだ、ランドさん、ちょっとお願いがあります。」
 
「俺にか?」
 
「ええ、実はですね・・・。」
 
 私は今朝クリフが目を覚ました時、今後のことについて少しだけ助言をしたことを話した。クリフはもう王国剣士としてやっていけるとは思っていなかったようだが、前にランドさんに聞いた話のように『今後の頑張り次第では、彼にも出来ることがあるかもしれない』という話をしたことも。そこで、この先しばらくは薬を飲んで少しずつ食事をしていくことになるが、ある程度元気になったら、今後についての話も出来るように考えてくれないかと頼み込んだ。
 
「ああ、それは俺もオシニスも考えているよ。元気になるまでどのくらいかかるかはなんとも言えないんだよな。」
 
「それは確かにそうですね。」
 
「まあ、まだ本格的な計画は出来ていないが、このまま順調に回復していくなら、もっと希望が持てそうな話が出来るように計画を作っておくよ。」
 
「よろしくお願いします。」
 
 
 
 
「失礼します。」
 
 剣士団長室の扉をノックすると、すぐに中から扉が開いた。
 
「俺も今戻ってきたところなんだ。入れよ。」
 
 オシニスさんはまだ、出仕の時のあの豪華なマントを身につけたままだ。
 
「申請はうまく行ったんですか?」
 
「ああ、それは大丈夫だ。行政局の長もいてくれたからな。すぐにじいさんが受理してくれて、明日の午後申し立てが出来ることになった。だからこれから・・・。」
 
「失礼します。」
 
 オシニスさんが言いかけた言葉が遮られる形で扉がノックされた。
 
「おう、入れ!」
 
 オシニスさんの声に応じて扉が開いた。
 
「あ、これはクロービス先生ご夫妻がおいででしたか。」
 
 以前何度か顔を合わせたことがある王国剣士の組だ。彼らは大きな紙袋を抱えている。
 
「ガーランド家からお預かりしてきました。」
 
 2人はオシニスさんの机の上にそれを置こうとしたが、書類で一杯の上に今朝の騒ぎの時にサビーネ看護婦が仕掛けた汚れた備品の箱が二つ置いてある。2人はそこに置くのを諦めて、部屋の真ん中にあるテーブルの上にその紙袋を置いた。
 
「これで全部だと言っていたか?」
 
「それが、ラッセル卿がいらっしゃらないとかで妹さんのランサル子爵夫人が渡してくださったんです。」
 
「・・・いない?」
 
「はい。どこに行かれたのかまでは教えていただけませんでしたが・・・。」
 
「うーん・・・気になるがラッセル卿は別に罪人てわけではないからな。どこに行こうがこちらが関知するところではない。ま、仕方ないか。」
 
 オシニスさんは難しい顔をしている。確かにラッセル卿がどこに行こうと止めることは出来ないのだが、明日申し立てが行われることになった今は、彼がいないのが何とも不安だ。
 
「ランサル子爵夫人が仰るには、これで全部、手紙もお金も全て入っているはずだから、早く持って行ってくれと言うことでした。『兄がこれを処分してしまう前に』と。」
 
「なるほどな・・・。」
 
 紙袋の中身はどうやら、以前の話し合いでイノージェンが返した、男爵の手紙とお金のようだ。おそらくラッセル卿はこの手紙とお金を処分して、イノージェンが男爵の子供であるという事実自体をなかったことにしてしまおうと考えたのだろう。だがこの手紙もお金も、以前の話し合いでオシニスさん、ハディ、リーザ、そして私達もその存在をこの目で確かめている。あの時の話し合いについてはガーランド男爵家の家督相続に関する正式な立会人であるオシニスさんからの報告書がフロリア様の元へと届けられており、この手紙とお金の存在もきちんと記されているのだ。今更それをなかったことにして知らぬ存ぜぬで通そうなんて、言い方は悪いが子供の浅知恵のごとくだ。ラッセル卿は、そんなことが本当にまかり通ると思っているのだろうか。
 
(この間病室でそんなことを考えていたのは聞こえてしまっていたから、釘を刺しておいたけど・・・。)
 
 もしかしたらそれでラッセル卿はこの手紙とお金の処分に躊躇したのかもしれない。
 
「ご苦労だったな。これは俺が預かって、じいさんのところに持っていくよ。」
 
「はい。では我々はこれで失礼します。」
 
 2人は剣士団長室を出ていった。
 
「・・・実を言うとな、この間ガーランド男爵が医師会の病室に入院した日、リーザと話していてこの手紙と金の話が出たんだ・・・。」
 
 オシニスさんはテーブルの上に置かれた紙袋を見ながら言った。
 
 
 
『弟があの手紙とお金を処分してしまう前に、ここに持って来てもらったほうがいいと思います。弟はイノージェンさんを認めようとしていないけど、それだけじゃなく、イノージェンさんの存在すらなかったことにしたいみたいです。だからほっといたら全部処分して、うちには婚外子の相続人などいないって言い張るような気がします。』
 
『しかしこの間の話し合いで俺達も全員その手紙と金を見てるんだぞ。』
 
『はい。そんなことが出来るはずがないのに、最近弟はおかしいんです。誰がどう考えても出来るはずのないことを、簡単にうまく行くようなことを口走ったり・・・。弟の家族も怯えています。子供達も父親には近づきたがらないらしくて・・・。』
 
『ドーンズがラッセル卿に何か吹き込んでいたのは間違いなさそうだが、奴はもう捕まったし、男爵本人は意識不明だってのに、まさか別な誰かがラッセル卿に何か吹き込んでいるんじゃないだろうな。』
 
『一緒にいるわけではないのでそこまではわかりませんが・・・。』
 
 
 
「リーザは男爵が何をしたのか気づいていたようですしね。」
 
「ああ・・・ここで話をしたあとしばらく泣いてたよ。俺も黙っているしかなかったな・・・。」
 
「申し立てが終わるまでは私達も会えませんしね・・・。」
 
 妻が心配そうに言った。リーザは私達の大事な友人だ。本当ならすぐにでもそばに行ってあげたいのに・・・。
 
「明日の申し立てではリーザはどうするんですか?」
 
「ガーランド家の一員として付添人になりたいと希望していたんだ。だから申し立ての間だけはハディがフロリア様の護衛につく。リーザは妹のランサル子爵夫人と一緒にラッセル卿の付添人として入場が許されることになったよ。だから今日は家に戻ってるんだ。フロリア様の護衛は、昨日から別な女性剣士が担っている。後継者のことも考えてくれと言われていたから、どうせならその候補者を護衛にしてみてはどうかと、フロリア様が仰せになられたんだ。」
 
「あら。それじゃフロリア様もいろいろなことに前向きに取り組まれているみたいですね。」
 
 妻が言った。何となく嬉しそうだ。
 
「ああそうだな。以前よりかなりお元気になられたしな。」
 
 オシニスさんも笑顔だ。
 
「でもハディが護衛というのはいいですね。彼もことの顛末は気になるでしょうし。」
 
「そうだな。俺も立会人の1人である以上、フロリア様の護衛を兼任というわけにはいかないからな。」
 
「それでは申し立てについては、明日の午後ですね。」
 
「そうだな。準備は全て整った。あとは明日の午後、申し立てが始まってからの話だな。」
 
「イノージェンは今頃申し立ての原稿を読む練習をしていますよ。それじゃ、そちらの机の上に置かれた箱の話をしましょうか。」
 
「その前に言っておくよ。明日は朝からお前達と顔を合わせることは出来ない。俺はあくまで立会人として公平に事を運ばなきゃならん。執務室で顔を合わせても挨拶は要らないからな。大臣達が何人か来ているだろうが、そちらにも挨拶は無用だ。お前とウィローは申し立てをするイノージェンさんとその付添人、ガーランド男爵家からはラッセル卿、リーザと妹のチルダ・ランサル子爵夫人。お互い挨拶は要らない。フロリア様とじいさんに対しても、会釈程度で問題ないぞ。」
 
「厳格なんですね。」
 
「そういうことだ。それとな、これは今日お前達と顔を合わせている間に出来る、おそらく最後の助言だ。この手の申し立てって言うのはな、まず最後まで無事に済むなんてことはないんだ。申し立てを受理したフロリア様に掴み掛かろうとした貴族も過去にいたらしいし、申し立てをする本人をダガーで切りつけたり殴ろうとしたり、その逆もあった。そこがどこだろうと、金が絡むと人間て言うものは本性がむき出しになる。だから、何があってもイノージェンさんを守ってくれよ。」
 
「わかりました・・・。」
 
 申請書が無事受理されて、申し立ての原稿も出来て、明日の午後にはもう全てが終わると思っていたのだが、なかなかそう簡単にはいかないらしい。
 
「しかしそうなると・・・本当にラッセル卿は心配ですね。」
 
「そうなんだ。どうもおかしいとしか言いようがないんだが・・・。」
 
「まさかと思いますが、ドーンズ先生が何かの催眠術をかけたと言うことは・・・。」
 
「そう言えばガーランド男爵もあの男の声にだけは反応したしな。だが奴はもういない。牢獄の中で誰にも面会は許されていないはずだ。」
 
「催眠術というものはいろいろ種類があるらしくて、私が動物達の声を聞くことが出来るようにしてもらったように、眠っている力を解放しようとする催眠術もあれば、何かのきっかけを仕組んで誰かに思い通りの行動をとらせようとするものもあるらしいですよ。」
 
「・・・シェリンのようにだな・・・。」
 
 オシニスさんが苦しげにつぶやいた。
 
 オシニスさんの『恋人』の噂話を聞いたスサーナが起こした騒動の一件と、シェリンの奇妙な行動を思い出す。スサーナは言うなれば『唆した』ということらしいが、シェリンには催眠術をかけたと、『彼』は言っていた・・・。
 
「そうですね・・・。ドーンズ先生はかなり深くガーランド家に入り込んでいたようですから、いったい何をどう仕組んでいたのかはわかりませんからね。」
 
「となると、お前達の役割は、より重要になってくるな。申し立ての場でイノージェンさんが危害を加えられそうになった場合、守れるのはお前とウィローだけと言うことになる。」
 
「何が起きたとしても、私もウィローもイノージェンに危害を加えさせたりしませんよ。絶対にね。」
 
「もちろんよ。イノージェンのことは絶対に守ります。オシニスさんはご自分の仕事をなさってください。」
 
 妻がきっぱりと言った。
 
「申し立てが終わって、イノージェンさんの主張が認められたあとなら、俺だっていくらでも彼女を守ることが出来るんだが、申し立てが受理されるまでは俺の立場は中立だ。誰かが目の前で傷つけられそうになって、それで動いたのだとしても、俺がそっちの家の側と通じているんじゃないかなんて言うばかげたことを言い出しそうな奴らはいくらでもいる。そう言う連中は、今回の見届け人の役目を喜んで引き受けただろうからな。」
 
「つまりオシニスさんは、もしも何かが起きた場合、動いても動かなくても何かしら言われる可能性があると言うことですね。」
 
「そういうことだ。ばかばかしいとしか言いようがないが、それでどちらかの家に不利益が出たりするかもしれないとなれば、俺としても慎重にならざるを得ないのさ。」
 
 私達の仕事はもちろんイノージェンの付き添いだが、万一何か起きた時にオシニスさんより早く動くことというわけか・・・。心してかからねばならない。
 
「よろしく頼むよ。それじゃこの箱の話をしよう。」
 
 オシニスさんはそう言って、机の上に置かれていたあの備品の箱を二つともテーブルの上に持って来て置いた。そうだ、この話にも催眠術は関わっている・・・。
 
「現場検証をしたスタンリーとクロフォードから報告は受けたんだが、実際に現場にいたお前とウィローから何か新しい情報が聞けないかと思ってな。」
 
「新しい・・・のは確かなんですが、厄介な情報ならありますよ。」
 
「厄介?」
 
「ええ、今朝の騒ぎはサビーネさんが逮捕されて、あとは取り調べの結果を待つしかないですが、何もしゃべらないという話はスタンリー達から聞きました。でも今回の事件は、どうやら前回の手術の時から始まっていたようなんですよね。まあこれはもちろん、私の見解ですが。」
 
「そう言えばオリアという看護婦が、前回の手術について不審な点があったという話をしていたそうだな。」
 
「ええ、オリアさんだけでなく、手術後にハインツ先生とゴード先生からも妙な話を聞きました。」
 
 私は詳細についてはまだ私にもわからないという前置きをした上で、前回の手術の時、オリア看護婦がサビーネ看護婦の不審な動きを目にしていたこと、それを聞いたハインツ先生とゴード先生がその時のことを思い出したのだが、何故そんな奇妙なことが起きていたのに自分達がそれについて何一つ疑問に思わなかったのか、それがわからないらしいと言う話をした。
 
「・・・どういうことだ・・・?」
 
 オシニスさんが眉根を寄せてつぶやくように言った。
 
「これは私の推測ですが、その手術室の中で、まあ外側からかもしれませんが、何者かが集団催眠をかけたという可能性があります。」
 
「また催眠術か・・・。そのサビーネ看護婦がかけたってことか?・・・いや、お前は今『外側からかもしれない』と言ったな。まさかそれは・・・。」
 
「ええ、おそらくは、ですが、クイント書記官が関わっていた可能性があります。」
 
「奴が裏で動いていたと言うことか・・・。」
 
「私はそう考えましたが、少しおかしな点があります。彼の動機がわからないんです。」
 
「動機か・・・。」
 
 サビーネ看護婦の動機、つまり誰を害するつもりだったのかだが、私はそれをクリフと言うよりクリフの両親、或いは工房ではないかと推測した。だとするとどうしてもそこにクイント書記官が首を突っ込む動機が見えてこない。サビーネ看護婦がなぜレグスさん達を狙うのかはわからないが、彼女を助けてレグスさん達を害したところで、少なくとも『あのお方』にとっては何の意味もないような気がする。ただし、それは私の頭の中で知っていることだけを繋ぎ合わせた結果そう思っているだけなので、サビーネ看護婦の前の勤め先、そこの領主や彼女の出自などについてオシニスさんの方で詳しく調べられるなら、また違った見解が見えてくるのではないか。
 
「そうか・・・。これは、腰を据えて調査しなければならないな・・・。」
 
 親友夫婦が狙われている可能性は充分にある。オシニスさんとしては一刻も早く調査を進めたいだろう。
 
「それからもう一つの可能性として、催眠術をかけたことが確実だとしても、それをかけたのがクイント書記官とは限らないと言うことです。昔私達が訪ねたシェルノさんのところにもそう言った術者はいましたし、催眠術というものは特に呪文の適性とは関係がないので、覚えればある程度はかけられるようです。もちろんきちんと覚えなければ何が起こるかわからないのは呪文と変わらないんですけどね。」
 
「なるほどな・・・。」
 
「半年前のクリフの手術の時、どうやらオリアさんにはその催眠術がかからなかったようです。これはあくまでも私の推測ですが、看護婦は通常患者の近くにはいません。でもサビーネさんが何かを仕掛けるためには、患者のそばに行く必要があります。だから執刀医のハインツ先生、助手のゴード先生、そしてその時薬の準備をしていたタネス先生ともう1人の先生方には、催眠術にかかってもらわなければならなかった。でもオリアさんは離れた場所にいたので、かかっていないことに気づかなかったんじゃないでしょうか。というより、サビーネさんも催眠術をかけ始めた時には看護婦の定位置にいたはずです。そこにいれば催眠術にはかからない。でもそこにもう1人の看護婦がいたことまで、術者が気づかなかったのかどうかまではわかりませんけど。」
 
 もしも手術室の中にもう1人の看護婦がいたことにその術者が気づかなかったのだとしたら、クイント書記官ではない可能性が高まる。彼がそのくらいのことを把握していないはずがないからだ。となると、オリア看護婦に催眠術がかからなかったのは偶然なのか、それとも何か狙いがあるのか・・・。
 
「だがそれだとオリア看護婦がかからなかったことの説明がつくな。となると、催眠術をかけた奴がどこの誰かってことになるが・・・。」
 
 そこまで言ってオシニスさんは小さくため息をついた。
 
「まずはサビーネの出自を洗うのが先だな。催眠術をかけたのが誰であれ、前回といい今回といい、騒動を起こしたのはサビーネだ。まずは奴の目的をはっきりさせよう。それでクロービス、この箱はさっきスタンリー達が持って来た時に中を見たんだがこれもサビーネの仕業なのか?」
 
 私はこの箱を開けようとした時に『声』が聞こえたことを話した。そしてサビーネ看護婦本人が執拗に私から箱を奪おうとしたことも。
 
「そうなるとやはりその箱の中身に油をぶちまけたり曇ったメスや鉗子を入れたりしたのは、サビーネとしか考えられないな。しかし・・・そんなことをして何の意味があるんだ?」
 
「それはゴード先生も手術室の中を調べながら首をかしげていました。」
 
 妻は手術室の備品を調べた時のことを詳しく話してくれた。
 
「手術室はとにかく広いんです。3台の手術台のまわりには、すぐに備品を出せる棚がたくさんあります。その全ての棚を端から調べていきましたが、その箱があったのは、真ん中の手術台の近くの棚と、あともう一つは東側の手術台の近くに置かれた棚でした。」
 
 おそらくは、クリフの手術が行われる手術台を中心に、備品の箱に細工をしようとしたのではないかと言うのがゴード先生の見解だったそうだ。
 
「なるほどね。確かにクリフの手術に使用する備品の箱が置かれている場所を中心にして、ぐるっと円状に備品に細工をしていけば、開けた箱の備品が使えなくとわかって次を探しても、なかなかきれいな備品が見つからず、手術がうまく行かなくなる可能性は高くなるわけだ。」
 
「そうなのよね。でも実際には、二つの箱しか細工出来なかったということね。」
 
「昨日ハインツ先生と私が手術の準備を終えたのは遅い時間だったからね。そのあと鍵が置かれている部屋が無人になるのを待って鍵を持ち出したから、時間がなくてたいした細工が出来なかったんだと思うよ。」
 
「バカなことをしたわね・・・。ただねぇ、今回のことはこの程度で済んだけど、問題はやっぱり前回の手術みたい。ゴード先生がね、端から端まで棚を調べながら、どうやら半年前の手術の時の記憶が少しずつ蘇ってきたみたいなのよ。そのことについては、あとで調査が入った時に話しますって。オシニスさんに伝えてくれるように言付かってきました。」
 
「そうか。ハインツ先生もそのことでは大分不安みたいだし、それはスタンリー達の調査を待つよ。まずはサビーネの動機だな。本当にレグス達が狙いだったのか、だとしたらそれがなんなのかだな。しかしうっかりレグス達に話を聞くわけには行かないし、やっぱり以前いた診療所がある貴族の所領に問い合わせるしかないか・・・。」
 
「オシニスさんはサビーネさんを知っているわけではないんですよね。」
 
「レグスと知り合いかもしれないって意味でか?」
 
「ええ、若い頃に会ったことがあるのかもしれませんよ。」
 
「うーん・・・。」
 
 オシニスさんは考え込んでいる。もっともたとえば10代の頃に会ったことがあるとしても、この年になって再会したってわからないのが普通だろう。お互い歳をとっているし、生活環境も変わっている。
 
「今考えてもわからんな。まずはサビーネの身辺調査をしてみるよ。今回の事件は王立医師会の診療所で起きた事件だ。だからじいさんが関わってくるだろう。フロリア様の健康を守るのが元々の役目である医師会を、愚弄するような事件だからな。お前達から話が聞けたら、報告をまとめてこいと言われてるんだ。」
 
「ということは、レイナック殿の密偵が動くんですね?」
 
「おそらくはな。明日の午後はもう申し立ての予定が入ってるから、動くとすれば今日の夜から明日の午前中にかけてだろう。お前達も協力してくれたことだし、話していい情報があれば話せるように許可をもらっとくよ。気になるだろうからな。」
 
「ドゥルーガー会長も同じことを仰ってましたよ。医師会の内部で起きた事件だから、報告をもらえるだろうって。」
 
「ああ、会長にも協力を依頼しておくと言ってたから、当然報告は出さなくちゃならないだろう。報告書をいったい何枚作らなくちゃならないかと思うと考えただけで頭が痛い。」
 
「オシニスさんが1人で作るわけではないですよね。」
 
「そりゃそうだ。報告書に限らず書き写しをする部署は行政局にあるから、そっちに頼むんだが、記入ミスはチェックしなきゃならんからな。何枚も見直すってのは、そろそろ目が疲れるからやりたくないところさ。」
 
「まあそれはそうですね。」
 
 今のところ、私達が出来ることはもうなさそうだ。私達は東翼の宿泊所に戻り、あちらの喫茶室で食事をとることを伝えた。あとはもう一度クリフの病室に戻り、明日からはしばらく経過観察となる。
 
「クリフのことはよろしく頼むよ。レグス達もせっかく息子がよくなると言うことで楽しみにしてるんだ。それを邪魔するような奴は絶対に許さん。サビーネの目的が何だろうと、必ずしっぽを掴んでやる。」
 
 
 私達は剣士団長室を出て、東翼の宿泊所に戻った。イノージェンとライラとイルサは楽しそうにおしゃべりをしている。
 
「あらお帰りなさい。お食事に行ける?」
 
 イノージェンが振り向いた。
 
「先生、おばさん、お帰りなさい。お腹空いたわ。食事に行きましょうよ。」
 
 5人で東翼の喫茶室に来た。そこそこ混んでいるが、部屋の隅の席が空いていたのでそこに座った。ここなら万一ラッセル卿が何かしようとしても、ちゃんとイノージェン達を守れる。私がその席にしようと言った理由を、みんな口には出さずとも理解してくれたらしい。そして私は、まわりで食事をしている人達に注意しておくことにした。ライラも妻も同じようにあたりに気を配っている。
 
(今のラッセル卿がおかしいと言うことは、リーザも気づいている。でも普段一緒に暮らしているわけではないし、何故あんな風になったのかはわからないって言う話だったな・・・。)
 
 少なくとも、以前の話し合いの時に剣士団長室で会った時は、普通に見えた。イノージェンを認めていないというスタンスが変わらなくても、今はイノージェンを本当に亡き者にしてしまいそうな危うさを感じる。彼自身にそこまでの力はなさそうだが、誰かに頼むという手はある。まさか自分の家の私兵にそんなことをさせたりはしないだろうと思うが、今のラッセル卿ではそれも疑わしい。
 
(ガーランド家が密偵を雇えるほど裕福かどうかはなんとも言えないけど・・・。少し対策をして置いたほうがいいかな・・・。)
 
 食事のあと、私達は東翼の宿泊所に戻り、イノージェン達にある提案をした。イノージェンもライラとイルサも驚いていたが、明日を無事に迎えられることを優先して承諾してくれた。その後クリフの病室に顔を出したが、夜勤の医師と看護婦がいて、クリフはよく眠っていると教えてくれた。今日一日の記録を見せてもらったが、経過は順調らしい。
 
「奇跡のようだって、私達も話してるんですよ。」
 
 医師達もクリフの回復の早さに驚いているらしい。
 
「今夜一晩、よろしくお願いします。」
 
「はい、お任せください。」
 
 クリフは穏やかな顔で、寝息を立てている。こんなによく眠れたことなんて、もしかしたら病気になってから初めてかもしれない。
 
 
 そして・・・。
 
「ねえ、本当に来るかしらね。」
 
 妻が尋ねた。
 
「確率としては五分五分なんだけどね。来なければそれはそれでいいし。でも何となく、嫌な予感がしたからこんな提案をしてみたわけさ。」
 
「それじゃ早めに寝ましょうか。何事もなければ明日の朝までぐっすり寝られるわよね。」
 
「そうだね。おやすみ。」
 
「おやすみなさい。」
 
 私達は東翼の宿泊所に戻り、ベッドに潜り込んだ。
 

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