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 窓の外が薄明るくなるのを待ちかねて、私は身を起こした。どうせもうすぐ夜明けだ。いつまでも寝床に潜っていたところで、思い出したくない辛いことばかりが脳裏に浮かんでは消えていく。ふとその時、昨日カインがライザーさんのところに顔を出してほしいと言っていたのを思いだした。
 
(思い切って・・・このことを相談してみようか・・・。)
 
 これが20年前なら、私はどんなことでも迷わず彼に相談しただろう。だが、あの事件のさなかに剣士団から突然去ってしまった彼に対し、私は未だに小さなわだかまりをもっていた。余程の事情があったのだろうと理解することは出来たが、それでも何となく心の奥底に引っかかっていた。寝床から出て着替えをはじめたところで妻が起きあがった。
 
「おはよう、クロービス。」
 
「おはよう。」
 
「・・・眠れなかったみたいね。」
 
「・・・うん。君は?眼が赤いよ。」
 
「少しだけ眠ったかな・・・。昨夜ね、久しぶりにカインの夢見ちゃったの・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
「辛かったけど、懐かしかったな・・・。」
 
 妻が寂しそうにつぶやいた。
 
「そうだね・・・。」
 
 そのまま私達はしばらく立ちつくしていた。やがて朝日がカーテンの隙間から差し込んでくる。
 
「今日は・・・午前中にライザーさんのところに顔を出してくるよ。」
 
 ついさっきまで迷っていたのに、この時突然、私の口からはライザーさんの名前が出た。自分でも不思議なほどだった。
 
「・・・昨日の手紙のことで?」
 
「・・・いや・・・。ただ昨日言われていたからね。」
 
「そうね・・・。わかったわ。」
 
 朝食のとき、ブロムおじさんに午前中の診療を任せる事を伝え、私はライザーさんの家に出向くために家を出た。庭ではカインが勇ましいかけ声をかけながら剣の稽古に励んでいる。私は仕事柄、滅多に自分の家を離れると言うことがない。ライザーさんの家への道も久しぶりに通るものだった。
 
「おはようございます。」
 
 玄関に立って声をかけた。ライザーさん夫婦は二人暮らしだ。双子の子供達は、3年前に息子のライラが、1年前に娘のイルサがそれぞれの仕事のために家を出てしまっている。
 
「あらクロービス、おはよう。ライザーなら庭よ。声をかけてあげて。」
 
 出てきたのはイノージェンだった。私は庭のほうにまわった。ライザーさんはテラスの椅子に腰掛けて庭を眺めている。私に気づくと立ち上がり、
 
「やあ、クロービス。おはよう。近くに住んでいるというのになんだか久しぶりだね。」
 
いつも変わらない穏やかな微笑みで私を出迎えてくれた。
 
「おはようございます。ご無沙汰してしまってすみません。今日は朝早くから押し掛けてしまったけど・・・ご迷惑じゃなかったですか?」
 
「そんなことはないよ。なかなか君と話す機会がないからと思って、昨日カインに頼んでおいたんだ。こんなに早く来てくれるとは思わなかったよ。さあ、中へ入って。」
 
 そう言って私を、自分の向い側の椅子へと導いてくれた。新緑の季節を迎えて、この家の庭にも美しい花が咲き乱れている。
 
「・・・いい天気ですね。花がきれいだな・・・。」
 
「そうだね・・・。こんなにさわやかなのはこの季節だけだからね。でも君の家の庭のほうがいろんな花があってきれいじゃないか。」
 
「あれは全部父が植えたものだから・・・。私はただ枯らさないように世話をしているだけで・・・。」
 
「サミル先生は花が好きだったからね・・・。」
 
 そのまま私達はしばらく黙り込んで庭を眺めていた。やがてイノージェンがお茶を運んできてくれた。
 
「どうしたの?二人で妙にしんみりして。ねぇクロービス、お茶飲んでいくくらいの時間はあるわよね?」
 
「大丈夫だよ。しんみりしていたわけじゃないよ。花がきれいだなあって今話してたのさ。」
 
 イノージェンはお茶をテーブルに載せながら、
 
「ふぅん。ねぇ私がここにいたらおじゃまかしら?」
 
私の顔をのぞき込むように尋ねる。
 
「いや、そんなことはないよ。」
 
 オシニスさんの手紙のことや、あの奇妙な夢のことなどをライザーさんに話すべきなのか、私はここまで来てもまだ迷っていた。他愛のない話をして別れるだけになるのなら、わざわざイノージェンを遠ざける理由はない。
 
「クロービスがいいのなら僕はかまわないよ。」
 
「よかった。じゃここに座ろうっと。」
 
 そう言うとイノージェンは、ライザーさんと私の間にある椅子に座った。もうちゃんと3人分のお茶が用意されている。
 
「実はそう言ってもらえると思ってたから、ちゃーんと私の分も持ってきたのよねぇ。」
 
 イノージェンはにこにこ顔でお茶を口に運ぶと、いたずらっぽい微笑みを私に向けて身を乗り出した。
 
「ちょっと、クロービス!!カインが連れてきた女の子、すっごいかわいいじゃないのぉ。王国に出ていってまだ4ヶ月くらいよね?それでいきなりお嫁さん候補を連れてくるなんて、なかなかやるわねぇ。」
 
 その娘のことでひと騒動あったが、それは言わずにおいた。
 
「ははは。本人はかなり盛り上がっているみたいなんだけどね。カインはあの通りのおっちょこちょいだし、一人で突っ走るし、どうなるかわからないよ。」
 
「あらそんなことないわよ。でもまあ、確かにまだ、えーと・・・カインて18歳だったわよね。またもっともっといい出会いがあるかも知れないしね。」
 
「それはどうかなぁ。そんな物好きな女の子がそんなにたくさんいるとは思えないけどね。」
 
「ははは、クロービスもなかなか手厳しいね。」
 
 隣でライザーさんが笑っている。
 
「あ〜ぁ、ライラもかわいいお嫁さんでも連れて帰ってこないかしら。」
 
 イノージェンがため息をついた。
 
「そうだ。ライラがナイト輝石の廃液を浄化できるようにしたんだってね。すごいじゃないか。若いのに。」
 
 オシニスさんの手紙のことをふと思い出し、私は何も考えずにそのまま口に出してしまった。
 
「あら、ありがとうクロービス。でも誰に聞いたの?私達誰にも言ってないのよ。」
 
「どうして?」
 
「だってライザーが、外でそんなこと得意げに話しちゃいけないって言うんだもの。少しくらいいいと思うんだけどねぇ。」
 
 イノージェンは恨めしそうにとなりのライザーさんを睨んでみせる。誰に聞いたかと言われて一瞬焦ったが、うまく話はそれたらしい。不用意にライラのことを喋ってしまったことを後悔したが、とりあえず二人ともそのことは気にしていないようだ。
 
「まだ決まったばかりだよ。これから試験的にナイト輝石の採掘が再開されて、安全性がちゃんと確認されてからでないと本格的な採掘再開にはならないし、それから今度は生産を軌道に乗せなくちゃならないんだ。そのあとでないと評価は出来ないと思うよ。そしてあれはライラ一人の力ではないんだ。たくさんの人達が研究を助けてくれたおかげだからね。あいつ一人がもてはやされるのはおかしいよ。」
 
「ねぇ、クロービス。この人ったらいつもこの調子なのよ。そりゃたくさんの人達がライラを助けてくれたことは事実だけど、せっかく息子が誉められてるんだから、もう少し喜んでほしいと思うわ。」
 
 イノージェンは不服そうだ。
 
「ライラはなんて言ってるんだい?」
 
「この人が今言ったことと、そっくり同じ台詞が手紙に書いてあったわよ。ほんと、似たもの親子よねぇ。」
 
「でも私もそう思うよ。ライラのことはすごいと思うし誉めてあげたいけど、その研究のためにはいろんな人達の手助けが絶対に必要だっただろうからね。」
 
「ふぅん、あなたとライザーもそう言うところは似てるのよねぇ。なんだか兄弟みたいね。」
 
 イノージェンがからかうように私の顔をのぞき込む。
 
「私も・・・似たような経験をしたことがあるからね。」
 
「・・・幻死の秘薬のことか・・・いや、麻酔薬と言うべきだね。君はとうとう医学博士の称号は受けずにすませてしまったんだったね。」
 
 ライザーさんがお茶を口に運びながらぽつりという。
 
 幻死の秘薬・・・それは、私の父サミルが、私が生まれる前から長い間研究を重ねてきた『麻酔』という技術に用いるための薬だった。人の体を一時的に麻痺させることで、外科手術などを行うことも容易になる。今の医学の根幹をなしているのは、治療術という呪文による治療だが、その術を使える人はそんなにたくさんいるわけではなく、当然高額な治療費がかかる。一般庶民にはとても手の届く代物ではなかったのだ。だから父のその技術が確立すれば、大勢の人達の命が救われるはずだった。
 だが未完成のその薬は、服用すれば一切の痕跡を残さずに飲んだ人間を死に至らしめる。それを父は、幼い私の病気を治すためのお金と引き換えに、ある人物に売った。そしてそれは、恐ろしい計画に使われ、やがてそのことが元になって、エルバール王国は滅亡寸前まで追いこまれていくことになる・・・。
 その後父は罪悪感にさいなまれ、研究のすべてを捨て、当時『世捨て人の島』と言われていたこの島に移り住み、失意のうちにこの世を去った。だが、私はその薬を改めて完成させるために、父の研究を継ぐことにした。この島に戻り、ブロムおじさんと妻の助けを借りて、その薬の完成のために勉強をはじめた。ブロムおじさんが研究データを持っていたこともあり、それから7年後に薬は完成し、世の医学に革命をもたらした。
 
 その功績により、私はフロリア様から医学博士の称号を与えたいので王宮に出向くようにとの知らせを受け取ったが、度重なる申し出を固辞し続けてとうとう辞退してしまった。偏屈者と思われただろうが、そんなことはどうでもよかった。そんな称号を受けるに相応しいのは父か、それでなければブロムおじさんだ。だが父はもうこの世にはなく、ブロムおじさんは自分の名前が表に出ることをひどく嫌った。私だって肩書きなど要らない。この薬で助かる人が大勢いるはずだ。それこそが亡き父の願いだった。そしてその父の願いを叶えることが出来たことこそ私の喜びだったからだ。
 その代わり、私は未だに裕福とは言えないこの島に住む人達が、いつでも気軽に医者にかかれるようにと、医療にかかる費用の一切を王宮に負担してもらえるように要求した。それは聞き届けられ、そのおかげで必要な薬草や物資などは手に入れることが容易になった。この制度はいずれエルバール王国全体で実施してほしい。私は王宮へのお礼の手紙の中にそう書き添えた。果たしてその願いが実現したのか、私にはそこまではわからない。
 
「はい・・・あの薬は私の父が開発したものだったし、それに・・・。」
 
 私は一瞬言い淀んだ。薬の完成のために一番協力してくれたのは、いう間でもなくブロムおじさんと妻だったが、資金面では王宮がずっと援助してくれていた。私は出来れば辞退したかったが、この薬が完成した時にどれほど人々の助けになるかと言うことと、研究のためにかかるお金は途方もないものだというブロムおじさんの言葉で、私は援助を受けることに決めた。私一人の感情で左右していいことではないと思ったからだった。それ自体は別に隠すことではない。この島に古くからいる人達はみんな知っていることだ。イノージェンだってライザーさんだって例外ではない。だが、どうしてフロリア様がそんな申し出をしたのか、それを考えると、何となく口に出す気になれなかった。
 イノージェンは言葉を呑み込んだ私を怪訝そうに見つめている。私は慌てて言葉を続けた。
 
「ブロムさんやウィローをはじめとしたこの島の人達が、いろいろな面で協力してくれたおかげで出来上がったものだから・・・。それにあの薬は麻酔技術の到達点ではない、出発点なんです。もっともっと進歩させていかなければならない。私一人がそんな大層なものを受けるいわれは全くないんです。」
 
「・・・君らしいね・・・。」
 
 ライザーさんは微笑みながらお茶を口に運んだ。
 
「・・・エルバール王国にとって、ナイト輝石は禁断の鉱石だ。一つ扱いを間違えば大変なことになる。あえてその禁忌に手を触れようとするからには相当の覚悟がいるよ。いわば極めて危険な賭けのようなものだ・・・。正直なところ、僕は自分の息子にそんな危険なことはさせたくはない。でもこれはライラの選んだ道だ。僕達には止めることは出来ないから・・・。ははは・・・辛いところだね。」
 
 そう言うと、ため息をついて遠い目をする。オシニスさんの手紙に書いてあったこととそっくり同じ言葉。彼らは今も心の奥の深いところで結びついているのだろうか。それとも・・・。
 
「あの子ったら、あなたの剣を見てあんなこと考えたのよね。」
 
 イノージェンがライザーさんを横目で見ながらぽつりと言った。
 
「剣?」
 
 きょとんとする私に、
 
「そうよ。ライザーの・・・えーと、ナイトブレードだっけ?それを見てね、こんなに素晴らしい鉱石が眠っているのはもったいないって。ライザーが廃液のこととかずいぶんいろいろ言って聞かせたんだけど、逆効果だったみたいね。かえって燃えちゃって、『絶対何とかしたい!』って。クロービスのところのカインみたいに、剣を見て剣士を志すならともかく、剣を見て鉱石の採掘を考えるなんて、我が息子ながら変わってるわよねぇ・・・。」
 
「ライラらしいね・・・。」
 
 ライラはライザーさんにそっくりだ。見た目は穏やかそうだが芯が強い。
 
「ねぇ、クロービス、あなたはエルバール王国のお祭りって行ったことあるの?」
 
 イノージェンが不意に話題を変える。
 
「いや、ないよ。私の仕事はそう簡単にここを離れるわけには行かないから。」
 
「へぇ。それじゃ一度も?」
 
「ないよ。私が王国を出たあとにフロリア様が始めたものだからね。」
 
「ふーん・・・。」
 
 頷きながらイノージェンはにやにやしている。
 
「でも何でそんなこと?」
 
「へへへ、実はねぇ、何とライザーが私をお祭りに連れて行ってくれるっていうの。」
 
「へぇ、いつ?」
 
「明日からよ。早く行かないと混みそうでしょ。毎年すごい盛況みたいだから、楽しみにしているの。」
 
「前からせがまれていたんだけどね。僕もなかなか出掛けるのが面倒で。今回はライラとイルサの職場見学をしたいって言われてね。仕方なくだよ。」
 
 ライザーさんが苦笑いをする。
 
「今の聞いたぁ?面倒だなんて年寄りくさいこと、言ってほしくないわよねぇ。せっかく子供達の手が離れて夫婦水入らずで暮らせるって言うのに。」
 
「でもイルサが出ていって一番寂しがっているのは君じゃないか。」
 
 ライザーさんがくすくすと笑いながらイノージェンを覗き込む。
 
「そりゃ・・・今までいた人がいなくなったら誰だって寂しいわ。」
 
 その言葉がチクリと私の胸を刺す。
 
「でもいいの。私にはライザーがいて、クロービスもウィローもいて、ここでみんなで楽しく暮らせるのが一番だわ。」
 
 みんなで楽しく・・・。このまま何も考えずに、思い出さずに・・・。
 
「祭りか・・・。」
 
 何とはなしに私はつぶやいた。
 
「やっぱり一度くらいは見に行きたいわよねぇ。フロリア様が始めたって言うんだからどんなお祭りなのかな。やっぱり格調高かったりするのかしら。」
 
「カインの話だとやたらと人出が多いらしいけどね。怪しげな店も出てるらしいし。格調高いお祭りってあんまり聞いたことないけどなあ・・・。」
 
 頭をかいてみせる私にライザーさんがクスリと笑った。
 
「イノージェン、お祭りなんだから、きっと賑やかで色々と出し物とかがあるんじゃないのかい?」
 
「ふぅん・・・。でもいいわ。もうすぐ見られるんですものね。」
 
「今から楽しそうだね。」
 
 うきうきと話すイノージェンはいつまでも少女のように無邪気だ。
 
「だって、私この島をでるの初めてなんだもの。そりゃ楽しみよ。」
 
「そうか。そういえばそうだね・・・。」
 
 言われてみれば確かにそうかも知れない。少なくとも私達がこの島に戻ってきてから、ライザーさんもイノージェンも一度として島を留守にしたことなどなかった。もっとも私も人のことは言えない。ここに戻って来て以来、20年以上もの間、一歩も島の外に出ずに暮らしてきたのだから。
 
「ねぇ、クロービス達も行かない?」
 
 イノージェンが私の顔を覗き込む。
 
「私達が?」
 
 思いがけないイノージェンの言葉が、私の心臓をぎゅっと掴んだような気がした。この島を出て・・・エルバールへと向かう・・・。そうすればすべての謎は解けるのだろうか・・・。
 
「そうよ。あなたここに戻ってきてから一度も島から出てないわよね?たまにはいいんじゃないの?ブロムさんだっているんだし。それにこの島の人達はみんな結構頑丈に出来てるもの。ちょっとくらいお医者様がいなくたってどうにかなるわよ。」
 
「乱暴だなあ。そりゃ君はいつも元気だから心配ないだろうけど。クロービスには責任があるんだよ。そんな簡単にはいかないさ。」
 
 ライザーさんが笑い出した。
 
「あら、だって大勢のほうが楽しいじゃないの。それに、ウィローも一緒ならお喋りも楽しめるわ。」
 
 この島に戻ってきて、ウィローと一番最初に仲良くなったのはイノージェンだった。何のかんのと用事を作っては私の家にやって来て、しょっちゅうお喋りしていたりしたものだ。
 
「君のお喋りのためにかり出されるウィローが気の毒だね。」
 
 ライザーさんはまだくすくすと笑っている。
 
「女には話し相手が必要なの!口数が少ないという点では、あなたもクロービスも変わらないもの。私、ウィローがこの島に来てくれてすごく嬉しかったのよ。ウィローだって話し相手がいたほうがよかったでしょ?」
 
 イノージェンはそう言うと不意に私に振り向いた。ここで『そんなことはない』とは言えない雰囲気だ。それに、確かにウィローも明るく屈託のないイノージェンと接することで、少しずつ元気を取り戻していったことは間違いないだろう。
 
「そうだね。君には感謝しているよ・・・。」
 
「クロービス、無理しなくていいよ。」
 
 ライザーさんが笑いながら私を見る。
 昔・・・こんな風な会話をいつもしていた。ライザーさんと、オシニスさんと、そして・・・カインと私と・・・。
 そんなことを考えた私の脳裏に不意にまた顔が浮かぶ。血の海の中の懐かしい・・・カインの顔・・・。そして背中を冷たいものが流れ落ちていく・・・。
 
「クロービス・・・?どうしたの?」
 
 イノージェンが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
 
「あ・・・いや、何でもないよ。」
 
「なんだか具合が悪そうね。お医者様なんだから、自分のこともちゃんと気をつけなくちゃ駄目よ。あなたが倒れたりしたら島のみんなが困ってしまうわ。サミル先生の時みたいに突然いなくなったりしないでね。」
 
「そんな縁起でもないこと言うものじゃないよ。クロービスはきっと疲れてるんだろう。」
 
 ライザーさんがあきれたようにイノージェンをたしなめた。
 
「そうねぇ。薬を作ったり呪文使ったり忙しいものね。ねぇライザー、あなた治療術使えるんだからしばらくの間代ってあげたら?」
 
 あまりに突飛なイノージェンの言葉にライザーさんはぽかんとしていたが、やがて笑い出した。
 
「君は本気で言ってるのか?そんなことが出来るわけないじゃないか。ちょっとくらい治療術が使えるからって、お医者様の代わりなんて務まるものじゃないんだよ。それに、そもそも治療術は対処療法なんだから、それだけで何でもうまくいくわけじゃないんだからね。」
 
 ライザーさんは父と同じことを言う。もっとも彼も私も、治療術の基本は私の父から教わったのだから当たり前と言えば言えるかも知れない。
 
「ははは。君には叶わないね。・・・それじゃ、そろそろ失礼しようかな・・・。」
 
 結局私は何も言い出せないまま、立ち上がりかけた。
 
「ねぇ、クロービス・・・。」
 
 頬杖をついて私を見上げながら、イノージェンが口を開いた。
 
「なに?」
 
 私は立ち上がるのをやめ、イノージェンの顔を覗き込んだ。イノージェンはしばらく私の顔をじっと見つめていたが、
 
「・・・私達はね・・・あなたとウィローにとても感謝しているのよ・・・。」
 
そう言って微笑んでいる。
 
「・・・感謝してもらえるようなことは・・・特別何もしてないよ・・・。」
 
「・・・そんなことないわ・・・。あの日・・・あなた達がライラの命を救ってくれなかったら、あの子はもうとっくにこの世にいなかった・・・。そうしたら、今回のナイト輝石のことはあり得なかったかもしれない・・・。みんなあなたとウィローのおかげよ・・・。ライラが、ナイト輝石のことを詳しく調べるために、島を出てハース鉱山に向かうと言った時、私達は反対したわ。あの時ライラはまだ17歳だったんだもの・・・。生半可な覚悟で出来ることじゃないって判ってたし、ナイト輝石の廃液がどれほど危険なものかは、私もライザーに聞いて知っていたから・・・。」
 
「そうだね・・・。」
 
「でもね・・・。あの子こう言ったのよ。『みんなに助けてもらった命を、粗末にしたりしないよ、約束するから』って・・・。『父さんと母さんがそのことでどれほどつらかったか、今の僕には判るから』って・・・。それ聞いたら、もう引き留められなくなっちゃったの・・・。」
 
 私達の子供と引き替えに助かったライラの命・・・。その時助かった赤ん坊は立派に成長して、信じる道を歩き始めている・・・。妻はあの時ライラの命を救うことを選んだ。それについて後悔はしていない。私も今となってはその選択が最良であったと信じている。あれからもう19年が過ぎる・・・。遥か昔のことだ。それなのに・・・目の前が涙で滲む。ウィローとこの話をした時には何ともなかったのに、なぜ今は涙が出るのか・・・。私は二人から目を逸らして、立ち上がった。
 
「・・・あの時のことは、それだけライラの生命力が強かったって言うことなんだ。生きる意欲のない者には、どんな呪文も効かないんだよ・・・。だから・・・何も気にしないでよ・・・。それじゃそろそろ失礼するよ。あまり長く診療所を空けておけないから・・・。」
 
「・・・ありがとう、クロービス・・・。」
 
 イノージェンの声が震えている。泣いているのかも知れない。
 
「それじゃ、お祭りに・・・気をつけて行ってきてください。」
 
「クロービス・・・。無理しないでね。」
 
 背中を向けたまま私は頷いた。ここで泣き出すわけには行かない。逃げるように門を出ようとした時、涙が落ちた。
 
 あの日のウィローの悲しみ・・・なにも知らずに眠るライラの寝顔・・・。ライザーさんの沈痛な面持ち・・・イノージェンの涙。この島に来てから一番の悲しい出来事だったと言ってもいいはずなのに・・・。
 それなのに、いつの間にかその光景は、20年前のあの日、カインの喉元を切り裂いた私の剣と、血の海の中に倒れたカインの姿、泣きながら、かすれた声で一心に呪文を唱え続けるウィローの姿にすり替わっていた。何を見ても、何を聞いても、すべてがあの時の光景に繋がっていく・・・。
 このままこの島で、何もなかったかのように過ごしていくことなど、もう出来ないと言うことを、私はきっととっくに知っていた。それなのに認めたくなかった。私は臆病者だ。あの声の言う通りに・・・。あの奇妙な夢を再び見た時から、もう私は夢に囚われてしまっている。思い出したくなどなかったつらい記憶が、どれほど悔やんでみても取り戻せない出来事が、闇の彼方から甦って私を苦しめ続ける。
 では・・・私はどうすればいい。このまま、このつらい記憶を毎日のように反芻しながら生きていくしかないのだろうか。心がゆっくりと蝕まれて果てしない闇の中に落ちていくようだ・・・。もうケリをつけたはずだったのに・・・。心の中で折り合いをつけたはずだったのに・・・。
 
「クロービス・・・。」
 
 振り返ると、不安げな顔のライザーさんが立っている。私は今、自分が彼の家の前に立ちつくしていることに気づいた。私は涙で濡れた顔を慌ててこすった。
 
「ははは・・・情けないですね・・・いい歳をして・・・。」
 
 笑うつもりなのに涙が止まらない。
 
「クロービス、久しぶりに岬の方まで散歩に行かないか。」
 
 ライザーさんはそう言うと、私の涙を見て見ぬ振りをするかのように先に立って歩き出した。
 
 やがて、エルバール王国を臨むことが出来る岬へと着いた。岬の突端でライザーさんは大きく伸びをすると、私の方を振り返った。
 
「たまにはこうして歩いてみるのもいいものだよ。いい気分転換になるからね。」
 
 私は彼の隣に並んでみた。海風が心地よい。この風が、私の心の中の辛い記憶をすべて後ろに吹き飛ばしてくれればいいのにと、半ば本気で思った。
 
「さっきは悪かったね・・・。うかつに昔のことなど持ち出して・・・。君にとっては思い出したくない出来事だとわかっていたはずなのに・・・。」
 
 海を見つめたままライザーさんが話し出す。
 
「いえ・・・そのことはもういいんです。昔のことですから。」
 
「・・・確かに昔のことだ・・・。今さらいくら言ってみたところでどうにもならないし・・・取り戻せるものではない・・・。でも君にそう言ってもらえると、少しは気が軽くなるよ。ありがとう。」
 
 そう言って寂しそうに微笑むライザーさんの横顔を見ながら、私はふとこの時、この20年間胸に抱き続けながらずっと言えずにいた疑問を、彼にぶつけてみたくなった。
 
「ライザーさんは・・・どうしてあの時剣士団を去ったんですか・・・?」
 
「・・・・・。」
 
 やはり答は返ってこない。予想はしていたことだった。
 
「私達がここに戻ってきた時、あなたが何も聞かず暖かく迎えてくれて・・・嬉しかったんです・・・。だから聞けなかった・・・。でもずっと気にかかっていた・・・。それがもどかしくて、剣を交えてみれば何かわかるような気がして何度も手合せしてもらったりしたけど・・・でもとうとう今この時まで、ずっと口に出すことが出来ませんでした・・・。もしかしたら心のどこかで、訊いても答は返ってこないって・・・思ってたからなのかも知れない。」
 
「それも・・・昔のことだよ・・・。もう取り戻せない・・・。何を言っても・・・どうにもならないんだ・・・。」
 
「そうですね・・・。確かにその通りかも知れない・・・。もう取り戻せない。でも・・・諦めきれないことがある・・・。もっと別な選択肢があったんじゃないかとか、もっと何か出来ることがあったんじゃないかとか・・・もうみんな・・・終わったことなのに・・・けりをつけたはずだったのに・・・。」
 
 ライザーさんは黙ったまま海を見つめている。いや・・・その先にあるエルバールの島影を見つめていたのかも知れない。
 
「オシニスさんから手紙が来ました。」
 
 ライザーさんの肩がびくりと震え、ゆっくりと私に振り向いた。
 
「そうか・・・。さっきのライラの話はその手紙の中にあったんだね?」
 
「はい・・・。それと、私に・・・もう一度王国を・・・自分を訪ねてくれと・・・。」
 
「そうか・・・。行くのか?」
 
「決めてないんです・・・。まだ・・・。」
 
「出来れば・・・オシニスを・・・助けてやってくれないか。あいつを助けることが出来るのは・・・多分君しかいない・・・。」
 
「オシニスさんが私に何を頼んできたのか・・・知っているんですね・・・。」
 
 ライザーさんはぎくりとしている。おそらく、この人のところにもオシニスさんからの手紙は届いている。内容は私と同じではないにしても・・・。
 
「だからエルバールに行くんですか?オシニスさんのところへ。」
 
「違う・・・。さっき言った通りだよ・・・。ライラとイルサの仕事場を訪ねたり、祭りを見たり・・・。それだけだ・・・。」
 
「どうして会いに行かないんですか?」
 
 自分が王国へ行くべきかどうか迷っているというのに、思わず私はライザーさんに詰め寄っていた。
 
「僕は・・・会えない・・・。」
 
「どうして!?オシニスさんが待っているのは私じゃない、ライザーさん、あなたなんだ。昔、私が王国を発つ日に、以前と同じ宿舎の部屋で、またここにあなたが戻ってくるような気がするって、でも進む道が分かれてしまったから仕方ないって・・・涙を滲ませながら話してくれたんだ!あなた達は、会おうと思えば会えるじゃないですか!生きてるじゃないか!」
 
「クロービス・・・!僕は・・・僕は一度あいつを・・いや、剣士団の仲間を裏切ったも同然なんだ!今さらどうして顔を合わせられる・・・。」
 
 ライザーさんはつらそうに眉根を寄せて唇を噛んだ。その瞳から涙が流れては落ちる。
 
「そんな・・・オシニスさんがそんなこと思っているはずないじゃないですか!でなければあんなにつらそうにしていたはずがない・・・。他のみんなだって・・・ライザーさんのことを尋ねると、みんなとてもつらそうにしていた・・・。それに・・・どんな裏切りだって・・・自分の相方を・・・かけがえのない親友をこの手にかけることに比べたら・・・・!!」
 
 それ以上は声にならず、また涙が溢れた。
 迷っているのは私だ。踏み出せないのは私なのに・・・踏ん切りをつけられない自分への苛立ちをライザーさんにすべてぶつけて、私はその場に座り込んでしまった。ただ、我が身が情けなかった。今ここで彼を責めたところで、ただの八つ当たりでしかない。
 
「・・・今・・・君は何と言った・・・?」
 
 私が叫んだ最後の言葉にライザーさんが青ざめて、座り込んだままの私の肩を痛いほどつかんだ。
 
「何と言った・・・?」
 
 ライザーさんがもう一度問いかける。その瞳を見つめているうちに、私の内側から、20年間口に出すことが出来なかったもう一つの言葉が湧き上がってきた。
 
「私は・・・私は・・・カインを・・・殺したんです!。自分の相方を、かけがえのない親友を・・・この手で・・・。」
 
 私には、もう流れ落ちる涙を拭うことすら出来なかった。座り込んだまま、ただライザーさんの顔を見つめ続けていた。
 
「そんな・・・!どうして・・・そんなことに・・・!?」
 
 ライザーさんの顔が一層青ざめ、私の肩をつかむ手に力がこもり、小刻みに震えている。
 私は、20年前ムーンシェイの森で起きた出来事を、すべて彼に話した。20年間・・・誰にも言えずにいた・・・妻と私の心の中に未だ残る『恐怖の記憶』・・・。
 そして、3ヶ月前から見続けている夢のことも話した。
 
「オシニスは・・・このことを知っているのか・・・?」
 
「いえ・・・。言えなかったんです。とても・・・口にすることが出来なかった・・・。つらすぎて・・・。」
 
「そんな・・・君とカインが・・・!君たちがこの島に戻ってきた時、何かひどく傷ついているらしいのはわかった・・・。でもあえて僕は聞かなかった。せっかく二人でこの島に戻ってきて新しい生活を始めようとしているのに、よけいな詮索をしてはいけないと思ったんだ・・・。でもどうして・・・。そんなひどいことが・・・なぜ・・・!どうして君たちが・・・殺し合わなければならなかったんだ・・・!!」
 
 ライザーさんはそう叫んで、握りしめた拳で思いきり地面を叩いた。その拳に涙が落ちる。
 
「・・・3ヶ月前あの夢を見てから・・・私の心はもうずっと夢に囚われているんです・・・。心だけ20年前に飛んでしまったみたいで、ここにいるのにここにいないようで・・・。不安で・・・。あなたを責めてもどうにもならないのに・・・。自分の苛立ちを人にぶつけてみたところで・・・何も変わらないのに・・・。もう、私は・・・私はどうすればいいのかわからない・・・。」
 
 私は頭を抱えた。涙が止まらない。脳裏にはカインの姿がしっかりと焼きついている。私はどうすればいいのか・・・。でも・・・誰も答えてはくれない。その答は私自身が出さなければならない・・・。私はゆっくりと立ち上がった。
 
「私が・・・自分で決めなくちゃならないことなんです・・・。なのに失礼なことばかり言って・・・。八つ当たりして・・・すみませんでした・・・。」
 
「決心はついたのか・・・?」
 
「・・・・・。」
 
「僕だって・・・偉そうに君に意見出来る立場にはない・・・。この島に、イノージェンの元に戻ってきたことに後悔はしていないはずなのに・・・未だに未練たらしくここから王国の島影を見つめている。どうすればいいのかわからないのは・・・僕も同じだ・・・。」
 
 そしてそのまま、ライザーさんは黙って海を見つめ続けていたが、
 
「でも・・・君はやはりオシニスに会いに行くべきだと思う・・・。もちろん、そのことで解決の糸口がつかめるかどうかまでは、僕にはわからないけど・・・。君の見た夢の中の声がフロリア様かも知れないというのなら・・・オシニスが必要としているのは・・・きっと君のほうだ・・・。」
 
ちいさな声で話しながら、悲しげな瞳を私に向けた。
 
「・・・やっぱり会いには行かないんですか?」
 
「・・・僕も・・・迷っているんだ・・・。」
 
 ライザーさんの言う『裏切り』というのがどういうことなのか・・・。そして私の見た夢の中の声がフロリア様かも知れないのなら、オシニスさんが必要としているのは私だと・・・それは一体どういう意味なのか、私は聞くことが出来ないまま、岬の彼方に視線を移した。その先には、エルバール王国の陸地がある。もうずっと変わらない景色・・・。
 
「不思議ですね・・・。ここから見る景色は変わらない。なのに自分達ばかり変わってしまったみたいだ・・・。」
 
「そうだね・・・。この島で毎日を過ごすうちに・・・少しずつ大事なものが増えてきて、それを守りたくて、いつの間にか立ち止まってしまっていたのかも知れないね・・・。」
 
「そうですね・・・。いつも前向きに生きて行けたら、こんなことで悩むこともなかったのかな・・・。」
 
「でも難しいよ。いつもいつも、前だけを向いて歩き続けるというのは・・・。」
 
 20年前私達は、岬の彼方に見えるあの陸地で、泣いたり笑ったりしながら毎日を過ごしていた・・・。みんな希望に燃えていた。王国を守りたい。そのために訓練を積んで、自分の腕が上がって行くのが楽しみだった・・・。あの頃のあの前向きな気持ちを、私はいつの間に忘れてしまったんだろう。
 
 そして突然解ったような気がした。最後に頭の中に響いたあの声・・・。
 
 −−思い出せ・・・−−
 
 あの声は・・・つらい記憶をこれ以上思い出せと言うことではなく、若かったころの自分を、ひたすらに前に進むことだけを考えて生きていたあの頃の気持ちを、取り戻せと言うことだったのだろうか・・・。
 
「そうですね・・・。難しい・・・。でも、もう一度あの頃の気持ちを取り戻してみよう、そう思います。私は・・・オシニスさんに会いに行きます。」
 
「そうか・・・。」
 
「ライザーさん、一つだけ約束してください。」
 
「約束・・・?」
 
「はい。いつか・・・いつか必ず・・・オシニスさんに会いに行ってください・・・。」
 
「・・・・・。」
 
「海底洞窟を抜ければそこはもうエルバール王国です。今は船だって出てる。行くつもりならいつだって行けるじゃありませんか・・・。オシニスさんはそこにいるんです。カインのように・・・もうどこにもいないわけじゃないんです・・・。だから・・・いつか・・・必ず・・・。」
 
 また涙が流れる。私は友を永遠に失ってしまった・・・。自分の手で葬ってしまった・・・。彼はもうどこにもいない。どれほど会いたくても会うことは出来ない・・・
 その事実を受け止めて、折り合いをつけて、過去に置いてきたはずだった・・・。でもそれが、そうじゃないと、今はっきりとわかる。私は逃げていた。つらい記憶を心の片隅に追いやって、逃げつづけていた・・・。
 
「・・・いつか・・・。」
 
 ライザーさんが独り言のようにつぶやいた。
 
「そうだね・・・。いつか・・・。」
 
 そして私に振り向いた。まっすぐな瞳が私を見つめる。あの頃と同じように一点の曇りもない瞳が・・・。
 私の心の中で、この人に対するわだかまりが、少しずつ消えていくような気がした。この人の心は・・・きっとあの頃と何一つ変わっていない。だからこそこれほどまでに苦しんでいるのだろう。あれからもう20年が過ぎた今となっても・・・。
 
 ついさっきまで、あれほど混乱していた心の中が、驚くほど平安を取り戻していた。そしてふと、何日か前からずっと頭の中に響いていた声のことを考えた。あの声が何だったのか・・・。今の私にはわかるような気がした。
 聞き覚えのあるあの不気味な声は、私自身の内なる声・・・。つらい記憶を忘れては行けないと、その記憶から逃げては行けないと・・・もうひとりの私が叫んでいたのかも知れない。どれほど悔やもうと苦しもうと、過ぎてしまった過去を変えることなど出来はしない。でも・・・それを正面から見つめ直して受け入れることは・・・出来るのだから、と・・・。
 
 もう逃げるのはよそう・・・。今まで目を背け続けてきた自分自身の過去を、うまく折り合いを付けたつもりで、実は心の片隅に追いやって忘れようとしていた数々の出来事を、今度こそ・・・本当に見つめ直し、向かい合わなければならない。たとえそれがどれほど辛いことでも。そして過去に囚われてしまった自分の心を取り戻さなければ・・・。そのために・・・私はもう一度、エルバール王国に行こう・・・。
 
 突然、ごぉっとひときわ強い風が吹いて、私は思わず眼をつぶった。その時・・・まぶたの裏に浮かんだのは・・・カインの笑顔だった。ずっと脳裏に焼きついていた血まみれの姿ではない、赤毛を揺らせてサファイアの瞳を輝かせ、大口を開けて笑う・・・元気な時のカインの・・・。
 
「カイン・・・。」
 
「え・・・?」
 
 思わずカインの名を呼んだ私を、ライザーさんが不思議そうに見ている。カイン・・・君の笑顔を、思い出せた・・・。微笑んだ死顔ではなく、元気に笑う君の笑顔を思い出せた・・・。それが嬉しくて、私は思わず微笑んだ。そしてまた涙が流れた。
 
「・・・思い出したんです。カインの顔・・・。死顔じゃなくて笑顔を、大口を開けて笑うところ・・・。あんな風に・・・笑う顔・・・やっと思い出せた・・・。」
 
 私は袖で涙を拭った。
 
「どうして・・・忘れてたんだろう・・・。あの頃、楽しいことも嬉しいこともいっぱいあったはずなのに・・・。カインが死んでしまったことを、自分の手で葬ってしまったことを忘れたくて、他のことまで全部記憶の隅に追いやってしまっていた・・・。情けないですよね・・・。本当に・・・。」
 
 拭っても拭っても、涙はとめどなく流れ続ける。
 
「君は強いな・・・。」
 
 ライザーさんがぽつりとつぶやいた。
 
「君の言うとおりだ・・・。楽しいことも嬉しいこともたくさんあったのに・・・つらい記憶にばかり囚われて・・・全ての出来事を記憶の彼方に封印してしまっていたのかも知れないね・・・。」
 
「強くなんてないです・・・。強かったら、さっきみたいにライザーさんに八つ当たりしたりしなくても・・・自分の進むべき道を見つけられたはずだから・・・。」
 
「君は僕などより遙かに強いよ・・・。僕はいつも・・・君のその強さに救われてばかりだ・・・。」
 
 ライザーさんはそう言うと、私の肩をぽんと叩いた。
 
「すっかり時間を取らせてしまったね。でも君とゆっくり話せてよかったよ。」
 
 微笑むライザーさんの表情が、さっきよりも少し晴れているような気がした。それきり二人とも黙ったまま、岬をあとにして、それぞれの家に戻った。

第11章へ続く

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