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夢見る人の塔 番外編

 
「ありがとう。行ってくるよ。」
 
 心配そうに見つめるカインとウィローに笑顔を向けると、クロービスは一人、若者の隣に口を開いている洞穴の闇へと入っていった。彼の背中はたちまち闇に溶け込み、すぐに見えなくなった。黙ってその様子を見ていたドランが、忌々しそうに舌打ちをすると、
 
「ふん!もったいつけやがって!ああ、わかったよ、俺もここを通ればいいんだろう!」
 
吐き捨てるように言い、洞窟の中へ入ろうとした。
 
「それは出来ません。」
 
 若者が洞窟の入口に『通せんぼ』をするように両手を広げ、立ちはだかった。
 
「な、なんだよ!?あんたは今、ここを通ればシェルノのところに行けると言ったじゃねぇか!さっきのあんちゃんだって入っていったんだから、俺だって入っていいじゃねぇか!」
 
「あなたがここに入る決心がついたのは、さっきの方が先に入られたからでしょう。今追いかければ、彼のあとをついて行ってすんなり塔に行き着けるなどと、考えておられるのではありませんか?」
 
 ドランはぎくりとして後ずさった。どうやら図星だったらしい。
 
「この道を楽に通り抜けようなどとは考えないことです。それに今すぐにここに入っても、おそらくさっきの方を見つけることは出来ないと思いますよ。」
 
「どういうことだ!?」
 
「どうもこうもありません。この道はそう言う道なのです。さっきの方が無事に塔に辿り着くまで待っていられるというのであれば、それからお入りください。そうでなければ、今すぐにここを立ち去るのが一番です。」
 
「黙って聞いてりゃバカにしやがって!あんたを殴り倒して入ることだって出来るんだぜ?」
 
 ドランの眼に危険な光がよぎった。この言葉を聞いて黙って見ているわけにはいかない。カインはドランに近づいた。
 
「おいあんた、今の言葉は聞き捨てならないな。明確な脅しだぞ。王国剣士の前でそこまで言うからには、それなりの覚悟はあるんだろうな!?」
 
 ドランはぎょっとしてカインを見た。どうやら彼は、カイン達の存在を忘れていたらしい。
 
「あ、い、いや・・・そんなことはないが・・・ま、まあいいや、あとで出直すよ、どうせたいした夢じゃないんだ・・・だから・・・。」
 
 あとは口の中でぶつぶつ言いながら、ドランはそそくさと立ち去った。
 
「やれやれ・・・やっと諦めてくれたようですね・・・。」
 
 立ち去るドランの後ろ姿を見送って、若者は溜め息をついた。
 
「あんな連中はしょっちゅう来るのか?」
 
 カインの問いに若者は肩をすくめながら頷いた。
 
「まったく困ったものです。でもあの方はまだいいほうですよ。やれ魔法使いに会わせろの、私にまで何か魔法を使って見せろの、今までで一番ひどかったのは、魔法で人を惑わす不届きな輩め!なんて言われて、いきなり斬りかかられたときでしたねぇ。」
 
「そんなこともあったのか・・・。それでどうしたんだ?」
 
「その不届きな魔法使いはこの中だから、どうぞ成敗してくださいと言って『彷徨の迷い路』の中に入れてあげましたよ。」
 
「ええ!?でもシェルノって人が危なくなるじゃないか!?」
 
「ははは。心配はいりません。その方は中で迷って私が助け出しましたからね。私が見つけたときには最初の勢いはどこへやら、真っ青になってガタガタ震えていて、気の毒なくらいでしたよ。」
 
「ということは、そいつも悩みを持っていたってことなのかな・・・。」
 
「そうかもしれませんね。そして悪いことにその方は、自分の心と向き合おうとせずに逃げたのです。」
 
「逃げたなんてなんで判るんだ?」
 
「簡単ですよ。逃げずに立ち向かった方だけが塔に行き着けるからです。」
 
「・・・つまり逃げていたら、いつまでも塔には行けないってことだな?」
 
「そういうことになりますね。」
 
「でももしかしたら、そいつは無事に塔に行き着いて、シェルノって人を殺してしまうかも知れなかったじゃないか。そうなったらどうするつもりだったんだ?」
 
 少し意地悪な質問かなと思ったが、カインはあえて尋ねた。
 
「そうなればなったで、塔の者が何とかします。私が心配する必要はないのです。」
 
「なるほどな、ちゃんと対策は考えてあるってことか。」
 
「そういうことです。」
 
 もっとも、ただの門番ならこの若者一人で充分だろうが、そんなおかしな連中が大挙して押し寄せてくることだって、絶対にないとは言い切れない。そのくらいのことはお見通しというわけか。
 
「それじゃ中に入った人間が無事に塔に行き着いたかどうかなんて、どうやったらわかるんだ?」
 
「わかるように工夫しているのです。さてと、その工夫をしてこなくてはなりませんから、すみませんがあなた達二人で、この入り口をしばらく見張っていていただけませんか?」
 
「見張るって・・・君はどこに行くんだ?それに何のために見張るんだ?そういう変なやつがこないようにか?」
 
「ちょっとそこまでですよ。見張るのはそのためもありますが・・・先ほど中に入ったあなた達のお友達が、逃げ出してくると言うこともあるかも知れませんからね。たまにいらっしゃるのですよ。逃げ出したのにうまい具合にこの入口に戻ってこられる方がね。運がいいと言うべきか悪いと言うべきかよくわかりませんが。」
 
 涼しい顔で言ってのける若者のその言葉に、カインは激怒した。
 
「ふざけるな!クロービスがそんな情けないやつだと思うのか!?あいつがあれだけの決心をして入っていったんだ!逃げ出してきたりするはずがないじゃないか!」
 
「まあまあ落ち着いてください。あなたと言い合いしている時間はないのです。それじゃ、お願いしますよ。」
 
 若者はさっさと森の奥に歩いていった。その後姿を見送って、カインは奇妙な感覚にとらわれた。あの若者はどう見ても自分より三つは若そうに見える。それなのにあの老成したような口の聞き方はなんだろう。それとも先輩剣士オシニスのように、見た目が若く見えるだけで実は自分よりもはるかに年上なのだろうか。
 
「若いんだか年取っているんだかよくわからない人ね。」
 
 振り向くとウィローも首をかしげている。
 
「確かになぁ・・・。剣士団の先輩で見た目だけやたらと若い人がいるんだけど、そういう人なのかなぁなんて今考えていたんだ。」
 
「もしかしたら・・・あの人もシェルノさんて言う人に出会うまでは、何かしら悩みを抱えていたのかもしれないわね。そういうことに歳は関係ないもの。」
 
「そうか・・・そうかもしれないな・・・。」
 
 やがて若者は戻ってきた。
 
「お世話になりました。あなた達はここで、先ほどの方をお待ちになるのですね?」
 
「そうさせてもらうよ。それに、君に聞きたいこともあるしな。」
 
「私に答えられることでしたら、なんでも訊いてください。」
 
 つまり答えられないことは何を訊いても無駄だと言うことか・・・。この若者からシェルノという人物のことを聞き出すのは大変なことかも知れない。
 
 カインは今になってもまだ不安だった。クロービスを一人で行かせてよかったのだろうか。この道は間違いなく『夢見る人の塔』に続いているのだろうか。シェルノという人物は、クロービスを助けてくれるだろうか。そしてクロービスは・・・夢の謎を解明して、晴れやかな顔で戻ってくるだろうか・・・。
 
 南大陸に来て最初の夜にあの夢を見てから、日を追うごとにクロービスの顔色は悪くなっていった。それでも『大丈夫か』と訊けば、『大丈夫だ』と言う答が笑顔とともに返ってくる。でもクロービスが夢を見るのは大抵夜中になろうとする頃だ。毎晩夢にうなされて飛び起き、そのあとはずっと不寝番をしているのだから、かなり体の負担は大きいはずだ。カインは少しでもクロービスの負担を軽くしてやりたかった。でもだからって、毎日一晩中不寝番を替わってやることはできない。そんなことをすればカインのほうが参ってしまう。それでは意味がない。だからせめて、いつもモンスターが現れにくいと言われる夜中から朝までの番を彼に譲り、昼間モンスターが現れた時には、自分が先陣を切って斬り込んでいくようにしていた。
 
(そもそも俺が・・・ハース鉱山に行くなんて言い出さなければよかったんだ・・・。)
 
 そんな風に思うことも未だにあった。カインは元々一人でハース鉱山に行くつもりだった。『大きな仕事』のチャンスなんて、まだまだめぐってくるはずがないと思っていた。それがあの時、いきなり目の前に現れたのだ。カインは迷わず手を伸ばした。でも自分がそう言い出せば、クロービスが黙っているはずがないことくらい判っていたはずじゃなかったのか・・・。もし本当に一人で来ていたら・・・あのハース渓谷の怪物は、多分自分一人では倒せない。クロービスがいなかったら、カインは今でもハース渓谷の入口で、どうしようどうしようと考え込んでいたかも知れない。
 
(結局・・・二人でなければここまでは来れなかったっていうことなんだよな・・・。)
 
 カインはため息をついた。とにかく今は、クロービスが無事に戻ってくることを祈るしかない。目の前にいるこの若者から、聞き出せる限りのことを訊いてみよう。今自分に出来ることはそれしかないのだ。カインは若者に向き直った。
 
「『夢見る人の塔』に行くには、ここを通る以外にないって言ったよな?」
 
「はい。」
 
 若者はにこやかに答える。そのくらいは誰にでも答えてくれると言うことらしい。
 
「でもここは、どう見ても地下に続く洞窟って感じじゃないか。その塔は一体どこにあるんだ?ここに来るまでにそんな『塔』らしき高い建物は見あたらなかったけどな。」
 
「塔の場所は、行き着けた方だけが知ることが出来ます。あなた達のお友達が戻られたら、その方にお聞きなさい。」
 
「あいつが俺達に教えてくれると思うなら、今君が教えてくれても同じだと思うけどな。」
 
「そうかも知れませんが、私がここで教えてしまうわけにはいかないのです。」
 
「なるほど、君の立場があると言うことか。」
 
「そう受け取っていただいて構いませんよ。」
 
「君は若そうだけど、いくつなんだ?答えたくなければ答えなくていいけど、話し方が大人びている割には、何となく若そうに見えたもんでな。」
 
「もうすぐ20歳になります。」
 
「てことは・・・クロービスよりも若いのか・・・。」
 
 自分より3つは若いと思ったカインの勘は当たっていたらしい。
 
「名前は?」
 
「アッシュです。」
 
「アッシュ・・・?」
 
 確か『灰』と言う意味だ。変わった名前もあるものだ・・・。
 
「自分の子供に『灰』という意味の名前を付けるなんておかしいと思われるでしょうね。」
 
 カインはドキリとした。今考えたことが顔に出てしまったのだろうか。
 
「いや・・・変わった名前だと思っただけだよ。それより、何でこんな仕事をするようになったんだ?」
 
「ははは。私に興味を持たれたんですか?」
 
「君を含めて、夢見る人の塔に関わるすべてに興味を持ったのさ。少しでも情報収集しておかないとな。クロービスが戻ってくるまでの間、ここでぼけっとしていたらあいつに笑われちまうからな。」
 
「あなたは王国剣士だと先ほど言われましたが、中に入られた・・・クロービスさんとおっしゃいましたか、あの方もそうですよね?」
 
「そうだよ。あいつと俺は、仕事で南大陸にきたのさ。」
 
「そちらの方は・・・?」
 
 アッシュはカインの後ろで黙って話を聞いているウィローに目を向けた。
 
「私はカインとクロービスの案内人よ。この二人は南大陸の地理を地図でしか知らないから、私が案内することになったの。」
 
「そうなんですか。身内の方というわけではなかったのですね。」
 
「身内?」
 
「ええ、クロービスさんのことをだいぶ心配されていたようですから、もしかしたら奥様とか、でなければ恋人とか、そういう方なのかなあと思っただけです。」
 
「ま・・・まさか!違うわよ!」
 
 ウィローは真っ赤になって首を横に振っている。奥様か・・・。クロービスの奴が聞いたら、あいつも赤くなるだろうな。でもきっと内心ではうれしいだろう。
 
(奥様か・・・。)
 
 カインには多分生涯縁のない言葉だ。それなのになぜかその言葉が引っかかる。どうしてなんだろう・・・。クロービスがいないことで、心細いのかも知れない。だからおかしなことに気を取られるんだな、きっと。あの日俺の部屋にあいつが入ってきてから、いつも一緒だったんだから・・・。
 カインはちらりとウィローを見た。耳まで真っ赤だ。何となくカインはおかしくなった。
 
「そんなにムキにならなくたっていいじゃないか。ほんとに違うんだからさ。」
 
「そ・・・そうよね・・・。」
 
「あの・・・お気を悪くされたら許してください。よけいなことを言ってしまったようですね・・・。」
 
 アッシュがすまなそうに頭を下げた。
 
「あ、あのね、違うのはほんとだから・・・。でもいいのよ。そんなに気にしないで。」
 
 ウィローは赤くなった顔を、手でぱたぱたと仰ぐ仕草をしながら、向こうを向いた。
 
「疑問に思うことがあると、つい口に出してしまうんですよね。」
 
 アッシュは頭をかいている。
 
「へぇ・・・。そういうところはクロービスに似てるな。あいつも好奇心が強くてな、大分前に、剣士団長を質問攻めにしちゃったよって頭をかいてたことがあったっけ。」
 
「剣士団長というと、パーシバル様とおっしゃる方ですよね?」
 
「知ってるのか!?」
 
 これにはカインが驚いた。まさか団長の名前がこんなところまで知れ渡っているなんて。
 
「王国剣士団長パーシバル様と言えば、『エルバールの武神』と謳われるほどの使い手と聞いております。それほどの方を質問攻めにするとは・・・。大丈夫、クロービスさんはきっと無事に塔に行き着けますよ。ちょっと見てきましょうか。」
 
「見てくるって・・・どこに・・・?」
 
「あの方が無事に塔に着いたかどうかですよ。」
 
 アッシュはさっきと同じように、さっさと森の奥に入っていった。
 
「この奥に秘密がありそうだな。」
 
「でもきっと教えてはもらえそうにないわね。」
 
 ウィローは落ち着きを取り戻している。でもまだ少しだけ耳が赤い。
 
「そうだな。クロービスが戻ってきたら訊いてみよう。」
 
「そうね・・・。早く戻ってこないかしら・・・。」
 
 クロービスがあの洞窟に入ってからどれほどの時が経っているのだろう。カインは空を見上げた。太陽はもう真上を少し過ぎたところだ。
 
(もう昼か・・・。)
 
 この場所を見つけたのは太陽が真上に来る少し前だったと思う。あれからほとんど動かずにここにいるので、たいして腹は減っていない。
 
「そうだな・・・。大丈夫だよ。あいつはすぐに戻ってくるよ。それより、君は腹は減らないのか?」
 
「大丈夫よ。あなたは?いつもたくさん食べるんだもの、食事の用意したほうがいいかしら?」
 
「俺もそれほど減っていないけど、少しは食っておいたほうがいいかもな。ここを出てからちゃんと歩ける程度の力はつけておかないとな。」
 
「それじゃ簡単にすませましょう。干し肉とパンと・・・あ、りんごがあるからそれをむくわ。それで足りる?」
 
「充分だよ。さっきからほとんど動いていないしな。」
 
 ちょうどそこにアッシュが戻ってきた。
 
「どうだったんだ?」
 
 カインの問いにアッシュは笑顔で答えた。
 
「無事に塔に着いたようです。きっともうじき戻ってこられますよ。」
 
 カインは心からホッとした。アッシュがそれをどうして知ったのか気にはなったが、今はとにかくクロービスの無事を確認できてうれしかった。彼の手許を見ると、何かの包みを抱えている。
 
「弁当かい?」
 
 カインが問うとアッシュは笑顔で頷いた。
 
「たくさんありますからお二人もいかがですか?」
 
「いや、俺達は食料を持っているからいいよ。」
 
「いいんですよ。毎日塔の配膳係の方が弁当を作ってくれるんですが、いつももっと大きくならなくちゃって言ってたくさん詰めてくれるんです。」
 
 なるほどアッシュの体格は細身だった。クロービスも出会ったばかりの頃こんな感じだったかも知れない。今は背も伸びて肩幅も広くなったし、筋肉もかなりついてきた。でも全体から受ける印象はやっぱり『細身の体格』なのだった。アッシュもきっとそうだろう。いくら食べても背が伸びても、見た目は多分変わらない。でもその配膳係は、彼がいくつになっても体格がいくらよくなっても、たくさんの弁当を詰めてくれるに違いない。
 
「へぇ、母親みたいな人なのかな。それならなおのこと、たくさん食べなくちゃならないじゃないか。」
 
「そうなんですけどね・・・。誰にだって『相応の量』があると思いませんか?私は一日ここで動かずにいるんですから、そんなにお腹が減るってことはないんですよ。」
 
 アッシュは照れくさそうに頭をかいている。出会ってからいままで、ずっと無表情か、人を食ったような笑みしか見せなかったアッシュが、初めて20歳前の若者らしいあどけない顔をのぞかせた。彼が持った弁当を覗き込むと、サンドイッチやら肉の焼いたのやら、それにたっぷりの野菜や果物がぎっしりと詰め込まれていた。
 
「うわぁ・・・本当にたくさんだな・・・。」
 
「でしょう?お願いします。私を助けると思って、一緒に食べてください。」
 
「でも・・・。」
 
 その配膳係に何だか申し訳なくて、カインはまだためらっていた。
 
「ねぇカイン、お言葉に甘えましょう。でも私達もいただきっぱなしってわけにはいかないから、パンと干し肉とリンゴの他に、少しスープを作るわ。これならみんなで好きなのを食べられるでしょ?」
 
 ウィローの出した案でやっとカインは頷いた。
 
「そうだな。いつまでも迷っていたらアッシュが食べられないもんな。それじゃ、ありがたくいただくよ。でもこっちが出したものも食べてくれよ。ウィローのスープは絶品だぞ。」
 
「それは楽しみですね。」
 
 やがてウィローのスープが出来上がり、王国剣士とカナの村娘、そして彷徨の迷い路の門番という奇妙な組み合わせで食事が始まった。アッシュの弁当はどれもおいしかった。そしてアッシュも、ウィローのスープをとてもおいしそうに飲んだ。
 
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです。ウィローさんは料理がお上手ですね。」
 
 若いアッシュの率直な賛辞に、ウィローは照れくさそうな笑みを浮かべた。
 
「ふふ・・・ありがとう。それじゃ、後かたづけしなくちゃね。」
 
「手伝います。」
 
「あらいいのよ。ここでカインの話し相手でもしていて。」
 
 ウィローは笑顔でアッシュにそう言うと、ナベや食器を洗うためにすぐ近くにあった泉へと歩いていった。
 
「君はどのくらい前からこの塔にいるんだ?」
 
 満足そうな笑顔で焚き火を見つめるアッシュに、カインが話しかけた。
 
「そうですね・・・もうすぐ10年になります。」
 
「そんなに・・・?でもその頃君は、まだ子供だったはずじゃないのか?それともこういうところは、歳なんて気にしないで人を雇うのかな?剣士団みたいに採用試験があるってわけでもなさそうだしな。」
 
「ははは・・・そうですね・・・。私は・・・別にここに雇ってもらおうと思ってきたわけではないのですよ。」
 
「それじゃなんで?」
 
「私はここに・・・死にに来たのです・・・。」
 
「・・・え・・・・?」
 
 カインは耳を疑った。
 
「さっき私の名前を聞いて、おかしいと思われませんでしたか?我が子に「灰」という意味の名前を付けるなんてね。」
 
 そう言えば、彼はさっきそんなことを言っていた。
 
「私は両親にとって『いらない子供』だったのです。そんな子供でも、生まれてしまえば何かしら名前をつけなくてはなりませんから、長生きしないようにと燃え尽きた灰を意味するアッシュとつけたそうですよ。」
 
 何と言えばいいのか、言葉が見つからずにいるカインにちらりと視線を向けると、アッシュはまた言葉を続けた。
 
「ところがいかにもひ弱そうに見えるこの子供がなかなか死なずに、とうとう10歳になってしまった。それで両親は、腹いせに私を殴ったり蹴ったりし始めました。それから私は毎日毎日、食事もろくに与えられず殴られ続けました。『お前が生まれてきたのが悪いんだ』『生まれてすぐに死なないから悪いんだ』そう言われながらね。それから一年ほど過ぎる頃には、私の心の中に生きようとする気力は失せていました。死んでこの苦しみから逃れることが出来る日を、ひたすら待ち続けていました。でもあの村で死ねば、もしかしたら死んでからまでどんな扱いを受けるか判らない。そこで私はこっそり村を出て、噂に聞いていたこの塔の入口に辿り着いたのです。この中で死ねば、きっと誰も私に気づかない。死体が両親の元に戻されることはないだろうとね。」
 
 10歳の子供をそこまで追いつめるなんて、親のすることとは思えない。カインの母親は彼を産んですぐに亡くなったが、父親は一生懸命彼を育ててくれた。
 
『お前の母さんに約束したんだ、ちゃんとお前を育てるってな。』
 
 それが父親の口癖だった。そのために盗みまでした父親を恨んだこともあったが、それでも自分が両親に望まれて生まれてきたのだと信じられる分だけ、アッシュよりもはるかに幸せかも知れない。そう思った次の瞬間カインは恥ずかしくなった。他人の不幸を自分と引き比べるなんて・・・。
 
「ところが・・・中に入ったら道の先がどうなっているのか気になりだして、どんどん進んでいってしまったんですよ。そして気がついたら、生きて塔に辿り着いてしまったんです。この好奇心旺盛な性格が災いしてね・・・。」
 
「いや、幸いしたのかも知れないな。今の君は生きることを楽しんでいるじゃないか。」
 
「そうですね。それもこれもすべて、シェルノ様をはじめとする塔の皆さん方のおかげなんです。だから私はずっと塔にいて、皆さんのお役に立とうと思っています。」
 
 そこにちょうどウィローが戻ってきた。
 
「ねぇアッシュ、これ食べられるかしら?」
 
 見るとウィローが手に持った鍋の中には、いちごがたくさん入っていた。
 
「食べられますよ。このいちごはおいしいんです。」
 
「それじゃみんなで食べない?食事したばかりだけど、こういうものは別腹よね?」
 
 ウィローは笑ってみせたが、その笑顔がどこかぎこちない。もしかしたらさっきの話を聞いていたのかもしれない。それで一度泉に戻って、改めてここに戻ってきたのだろう。だがカインは気づかないふりをした。
 
「このいちごは、このあたりではたいしてめずらしくもないものです。あなたは案内人だそうですが、ご存じではなかったのですか?」
 
 アッシュの問いにウィローがくすりと笑った。
 
「私はカナに住んでいるの。だから東のほうはよく知っているけれど、この辺りには来たことがなかったのよ。それにね、私はプロの案内人ではないの。たまたまこの人達の行く場所に私も用事があったから、連れて行ってもらうことになったのよ。」
 
「そうですか。では元々東の方に行かれるご予定だったのですね。」
 
 言ってからアッシュは顔を赤らめた。
 
「す・・・すみません・・・。また聞かなくてもいいことを・・・。」
 
「ははは。いいよ。どことは言えないけど、確かに俺達はこっち方面に来る予定はなかったんだ。クロービスが南大陸に来てからずっとへんな夢に悩まされていて、ここに以前来たことがあるっていう人に聞いて、それでやって来たのさ。」
 
「この塔にですか?」
 
「そう言ってたよ。でもその人は今はもう結構な年寄りだったんだ。その人が若いころにって言ってたから、君が生まれて間もないくらいの頃だろうな。」
 
「それじゃずいぶん昔ですね。」
 
「そうだな。つまりここはそれほど昔からあるって言うことか。『夢見る人の塔』なんていう名前をつけているところからすると、そのシェルノって人は夢の専門家なのか?」
 
「夢に限ったことではありません。それに、ここは本当はそんな名前じゃないんです。」
 
「それじゃなんて名前なんだ?」
 
「『シェルノ心理学研究所』と言います。シェルノ様は別に魔法使いでもなんでもなくて、『心理学者』なのです。」
 
「心理学者・・・?初めて聞くな・・・。ウィロー、君は聞いたことがあるか?」
 
「いえ・・・ないわ。だってこの塔のことだって私は知らなかったもの。」
 
「そうか・・・。なあアッシュ、どういう仕事なんだ、その・・・心理学者っていうのは・・・。」
 
「そうですねぇ・・・人の心の専門家とでも言いましょうか。人の心のメカニズムを解明するには、その人の見る夢が重要な役割を持つことがあります。それでシェルノ様は人の心と夢の関係についていろいろと考察しておられます。それがいつの間にか噂となり、『夢見る人の塔』などという名前がついたのです。」
 
「人の心の専門家か・・・。」
 
 アッシュはそのシェルノという人に心から信頼を寄せているように見える。どん底にいた彼をここまで立ち直らせた人なら、きっとクロービスのことも助けてくれるに違いない。
 
 真ん中に置かれたナベにカインが手を伸ばすと、いつの間にか中はカラになっていた。
 
「あれ・・・?けっこう食べちゃったんだな。確かに別腹だな。」
 
「でしょ?」
 
 ウィローがニッと笑い、鍋を持って立ち上がった。
 
「洗ってくるね。」
 
 ウィローが泉のほうに姿を消したのを見届けて、カインはアッシュに尋ねた。
 
「なあアッシュ・・・。」
 
「はい?」
 
「答えたくなければ答えなくていいけど・・・君の両親はどうして自分の子供にそんなひどいことをしたのかな・・・?」
 
「どうしてでしょうねぇ・・・。貧しかったことだけは確かですから・・・一人でも食い扶持が増えるのがいやだったのかも知れません・・・。でも一度生まれてしまった子供を殺せば人殺しですからね。」
 
 それなら子供なんて作らなければよかったじゃないかと、喉元まで出かかった言葉をカインはやっとの事で呑み込んだ。その言葉がどれほどアッシュを傷つけることになるかくらいの判断は出来た。貧しかったという点ではカインだって同じだ。でも、どんなに切羽詰まった理由があるとしても、自分の子供をそんな風に傷つけ、追いつめた彼の両親を、カインは許せなかった。おもしろ半分に自分をいじめていた、あのいじめっ子達と同じじゃないか・・・。
 
(アッシュにとってそのシェルノさんて人は、俺にとってのフロリア様と同じなんだな・・・。)
 
「そうか・・・。おかしなこと聞いちゃってすまなかったな。」
 
「そんなことはありませんよ。私もこんな話を他の方にしたのは久しぶりです。さてと・・・私は門番の仕事に戻ります。クロービスさんが戻られるまで、私はあの入口にいなければなりません。他の誰も通さないようにね。」
 
「それが俺達でもって言うことだな。」
 
「おっしゃるとおりです。」
 
 アッシュは立ち上がり、カイン達がここに来た時と同じように『彷徨の迷い路』の入口にある椅子に腰掛けた。カインも立ち上がり、彼に近づいた。
 
「なあアッシュ、君がさっき言っていた仕掛けだけどな。」
 
「仕掛け?」
 
「ここから入った人が塔に着いたかどうか、どうしてわかるかっていう話だよ。」
 
「ああ、そのことですか。」
 
「そうだよ。それもクロービスに聞けば判るのか?」
 
「クロービスさんは多分シェルノ様からお聞きになると思いますから、わかると思いますよ。」
 
「そうか・・・。それじゃ、俺達はその辺をぶらぶらしているよ。クロービスが戻ってきたようだったら教えてくれ。」
 
「お任せください。」
 
 アッシュは笑顔で請け合った。カインは『彷徨の迷い路』を離れ、ウィローがいるはずの泉まで歩いていった。ウィローはちょうどナベを洗い終え、戻ってこようとしているところだった。
 
「あら、どうしたの?」
 
「アッシュは門番の仕事に戻ったよ。クロービスが戻ってくるまで、誰もあそこを通さないようにってな。」
 
「それが私達でもってことね?」
 
「そういうことだ。」
 
「早く戻ってこないかしら・・・。クロービスがあの洞窟に入ってから、もう随分すぎているわよね・・・。」
 
「信じて待つさ・・・。俺達にはそれしか出来ないからな。」
 
「そうよね・・・。」
 
「元気出せよ。あいつは戻ってくるよ。必ずな。」
 
 カインはなだめるようにポンポンとウィローの肩を叩いた。
 
「それじゃ、俺はあの入口の近くにいるよ。この辺りまでは危険はないと思うけど、遠くには行かないでくれよ。」
 
「わかった。私はもう少しここにいるわ。」
 
 カインが戻っていったあと、ウィローは大きなため息をついた。さっき自分がカインとアッシュの会話を聞いていたことに、彼は気づいただろうか。
 
「気づいていたでしょうね・・・多分・・・。」
 
 一人つぶやき、ウィローは泉のほとりに腰を下ろした。涼しい風がさらさらと吹いてくる。カナの村の辺りとはまったく違う、さわやかなところだ。ウィローはこの辺りまで来たのは初めてだった。同じ『エルバール南大陸』だというのに、どうして東と西ではこんなに気候が違うのだろう。そしてなぜ、気候が厳しい東側のほうに、たくさんの人が住んでいるのだろう。その答は明らかだった。理由はハース鉱山だ。鉱山に行けばお金になる。長い時には何ヶ月もの間地中深く潜って鉱石を掘り、しかもいつ落盤事故などで命を落とすかわからないという過酷な仕事だ。当然、他のどんな仕事でも得られないほど破格の報酬が得られる。鉱山よりも儲かる仕事など、盗賊ぐらいしかないのではないだろうか。それもこの辺りの村などではなく、エルバール城下町の貴族の屋敷を専門に狙う盗賊・・・それならば鉱山で働くより儲かるかも知れない。最もいつ手が後ろに回るかわからないけれど・・・。
 
 ウィローの父親は鉱山の統括者だ。ツルハシを持って地下に潜るわけではないだろうが、その責任は鉱山で働く労働者達の誰よりも重い。だから当然稼ぐお金も鉱山労働者達の誰よりも高い。父が家に帰ってこなくても、お金だけはちゃんと家に届いているおかげで、ウィローの家はカナの村の中では裕福な方なんだろうと思う。でも母親はそのお金のほとんどを使わずにとって置いた。『今の私達にこんなにたくさんのお金は必要ないわ』お金が届くたびに、母はそう言っていた。その言葉の裏に、『お金よりも父さんが帰ってきてくれたらいいのに』そんな思いが隠れているような気がして、母が気の毒になることもたびたびあった。
 
 父は今頃どうしているのだろうか。村人達が陰で父親のことを何と言っているか、ウィローはよく知っていた。自分の耳に入らないようにと、みんなが気を使ってくれていることも。でも道具屋のドーラや武器屋のイアンのように、はっきりと言う人もいる。もちろん、彼らは別にウィローの父親を悪く言うのが目的なわけではない。いつまでも帰ってこない父親など忘れてしまえということだ。彼らの言いたいことはわかる。ウィローの母親はまだ若いのだから、帰ってこない夫などこちらから切り捨てて、新しい人生を歩むことを考えたっておかしくはない。父親が鉱山に行って5年ほど過ぎた頃だろうか。村長がそんな話をしに家に来たことがあった。
 
『デールはもう帰っては来ぬだろう。この村の誰かと再婚することを考えてもいいんじゃないか・・・。』
 
 村長の言葉に母は優しく、しかしきっぱりと首を振った。
 
『私は夫を信じています。何があっても待ち続けます。』
 
 そう言いきった母親の凛とした横顔を、ウィローは今も忘れたことはない。
 
(でも・・・父さんのほうはどう思っているのかしら・・・。)
 
 カナにはハース鉱山の労働者はたくさんいる。彼らは少なくとも半年に一度は必ず村に帰ってくる。その日は朝から村の中は落ち着きがない。夫や父親が帰ってくる家では、朝から家族が総出で村の入口に出かけていく。ウィローが小さな頃は、母もよく彼女を連れて村の入口に行ったものだ。でもいつまで待っていても、父親は現れないのだった。そんなことが何度も続き、とうとう母は出かけなくなった。
 
『行かないの?』
 
 不思議に思って尋ねるウィローに母は
 
『父さんはね、とても忙しいのですって。だから帰って来れないそうよ。』
 
寂しそうに微笑んだ。
 
 お金がちゃんと届くと言うことは、父親は妻と娘の存在を忘れたわけではないのだろう。だが、これほどの長い年月の間に、本当にただの一度も家に帰ってくることが出来ないほど、鉱山の統括者というのは忙しいのだろうか。母が父を信じるように、ウィローも父を信じて生きてきた。忙しくて家に帰る時間もないから、父親は自分に会いに来れないのだと。でも大人になるにつれて、時折それが揺らぐ時がある。『忙しい』本当にそれだけなのだろうか。父は母や自分を愛していないから、だから帰ってこないのじゃないだろうか。結婚して子供が生まれれば、父親としての責任があるから、だからお金だけ送ってよこしてあとは知らぬふりしているのじゃないだろうか。
 そんなことを考えるたびにウィローは自分を恥じた。でも疑念というものは、一度湧き上がるとなかなか消し去ることは出来ないものだ。
 
『父さんに会いたい・・・。会って確かめたい。母さんや私のことをどう思っているのか・・・。』
 
 父に会うことが出来さえすれば、その答は得られる。ウィローはハース鉱山に行こうと考えた。村人達と近くの山に薬草摘みに出かけた時、突然現れたモンスターを追い払ったことだってある。自分の身ぐらいは守れるのだから、鉱山に向かう人達と一緒に行けば、きっと何とかなるはずだ。ウィローは次に鉱山で働く人達が帰ってくる時を待った。だが・・・その日はいつまで待っても、誰一人として帰ってこなかった。
 
 村の中は騒然となった。村に向かう途中で何かあったのだろうか。モンスターに襲われたか、盗賊に殺されたか・・・。様々な憶測が飛び交い、取り乱して泣き叫ぶ者もいた。そんな中で、村の守り手である元王国剣士ガウディが、調査のために鉱山へ行くと言いだした。そして村の守りを自警団の若者達に任せ、彼は一人ハース鉱山に向かった。武器屋のイアンをはじめとする自警団の若者達は、ガウディが一人で行くことには反対だった。最近このあたりのモンスターは狂暴になりつつある。いくら腕が立つとは言え、ガウディ一人で行くのは無謀な賭けだ。だが、ガウディはいくら説得しようとも、一人で行くことを譲ろうとはしなかった。彼が出かけたあと、自警団は二手に分かれた。一方は村の守りを固め、もう一方は密かにガウディのあとを追った。そして数日後、彼らは、砂漠の中をよろよろと歩くガウディを見つけた。彼の鎧は歪み、上着の脇腹は血に染まっていた。
 
『ハース渓谷に怪物がいる。』
 
 この噂はすぐに広まった。4年近く前からカナの村の守りを一手に引き受け、自警団を作り若者達に訓練を施していたあのガウディでさえも一撃でやられた・・・。
 もう誰も、ハース鉱山に出向こうとはしなかった。ウィローは苛立ちを隠せなかった。いくらなんでも一人ではハース鉱山に行けない。でも今の状態では誰も一緒に行ってくれそうにない。どうすればいいのだろう。
 
 その日も、ウィローはそんなことをぼんやりと考えながら、いつの間にか村の展望台に来ていた。その場所は村の墓地の向こう側にあったが、一番見晴らしのいい場所だ。ハース鉱山がすぐそこに見える。
 
「こんなにすぐ近くに見えるのに行けないなんて・・・。」
 
 ため息をつきながら景色を眺めていた時、背後で『うわっ!』という叫び声が聞こえた。聞き覚えのない声だった。そのあと何か話し声が聞こえてきたが、声の主がいるのはどうやら墓地の入口らしい。反対側の展望台の端っこにいるウィローには、姿も見えなかったし、話の内容までは聞くことが出来なかった。声が少しずつ近づいてくる。とっさにウィローはそばにあった大きな木の陰に隠れた。声は間違いなく男の声だ。二人でいるようだがどんな人達かわからない。
 
 やがて現れたのは、背の高い二人の若い男だった。マントを着ているところを見ると旅人だろうか。でもそのマントに、なぜかウィローは見覚えがあった。どこで見たのだろう。その二人は展望台の手すりギリギリまで歩み寄り、遥か遠くの山々を見つめながら話をしている。赤毛と黒髪・・・。赤毛の男のほうは肩幅も広くがっしりとしている。黒髪の男は細身でおとなしそうな印象だ。彼らのマントの下から、空色の上着がちらりと覗いた。よく見ると二人とも同じ服を着ていた。あの服はまさか・・・。
 
「ここからハース鉱山は見えるのかな。」
 
 ハース鉱山!?彼らはハース鉱山に行くのかしら。それじゃもしかしたらこの二人は・・・。
 
 ウィローは木の陰からでた。でも男達は気づく風もない。自分の勘が当たっていれば、彼らはハース鉱山へと向かう王国剣士だ。深呼吸して、落ち着いて話さなければならない。彼らに自分を『役に立つ』と思わせることさえ出来れば・・・。ウィローは平静を装って男達に声をかけた。
 
「すぐ前に見える山の向こうにあるのがハース鉱山よ。」
 
 
 あの時、クロービスが自分を連れて行ってくれると言ってくれなかったら、多分ウィローは今ここにはいない。きっと今でもあの展望台でハースの山々を眺めながら、イライラしていたに違いない。一緒に旅をするようになってからも、クロービスには随分と助けてもらった。呪文も教えてもらったし、ウィローが倒れそうになった時には『父さんに元気な顔で会うことを一番に考えなくちゃ』と叱られたっけ。彼の顔色が少しずつ悪くなってきているのには気づいていたが、それがいつもおかしな夢を見てうなされているせいだなど、この間泉のオアシスに泊まるまでウィローは何も知らなかった。いつも夜中にかけて夢を見てうなされ、飛び起きたまま不寝番をしているのだと、あのあとカインが話してくれた。そんな思いをしてまでも、クロービスは王国剣士としての使命を全うしようとしている。そのためにあの洞窟の中に入っていったのだ。たった一人で・・・。
 
 初めて会った時には、何となく頼りなさそうに見えた彼の、一体どこにそれほどの強さがあったのだろう。これが自分なら、そんな恐ろしい夢の正体を知るために、わざわざあんな不気味な闇の中へと入っていくことなど出来るだろうか。一目見ただけでぞくりとした、あの洞窟・・・。クロービスがあの中に消えた時、まるでどす黒い闇が彼を呑み込んだかのように見えた。もう少しでクロービスのあとを追って「行かないで!」と叫びそうだった。
 
 どきんと心臓が波打った。恐怖が足許からせり上がってくる。このままクロービスが戻ってこなかったら・・・。あの闇の中に呑み込まれてしまったら・・・。いいえ、そんな不吉なことを考えてはいけない。カインも言っていたじゃないの、『必ずあいつは戻ってくる』と・・・。
 でも戻ってきても・・・『夢の正体がわかったよ』と言いながら笑顔で戻ってきてくれるのならいいのだけれど・・・。もしももっと顔色が悪くなって戻ってきたら・・・。
 
 明るい考えよりも不吉な考えのほうが浮かびやすいのだろうか。ウィローの心の中には、悪い想像ばかりがどんどん膨らんでいった。そして気がつくと頬を涙が伝って落ちていた。
 
「何で・・・こんなに怖いのかしら・・・。」
 
 クロービスが戻ってこないかも知れない。そう思うとウィローの心は恐怖でいっぱいになる。どうしてこれほど動揺するのか、自分でもよくわからない。元々、こんな西の果てまでウィローが彼らについてきたのは、クロービスが心配だったことはもちろんだが、カインと一緒にいたかったからでもあった。
 
 カナを出て最初に出会ったモンスターの前から自分を救い出してくれた・・・。いつも先陣を切ってあっという間にモンスターを蹴散らしていく・・・。最初に会った時には父親を反逆者扱いされて腹が立ったけれど、あれもカインの正義感から出た言葉だ。あのあとでそんなことがあるはずないよと言ってくれた・・・。
 
 いつの間にか、ウィローはいつもカインを目で追うようになっていた。彼が笑っていればうれしくなったし、怒っていれば不安になる。でも彼が自分を見ていないことはわかる。クロービスとウィローが食事の支度をしている時、カインの役目は大抵テント張りと火熾しだ。でも彼の手際の良さとその力があれば、そんなことはすぐに終わる。一人で焚き火を見つめながら、カインがいつも遠い目をしていることに、ウィローは気づいていた。その瞳の先にいるのは誰なのだろう・・・。
 
(まさか・・・クロービスじゃないわよね・・・。)
 
 自分の思いつきにウィローは笑い出した。ウィローには不思議な力などなにもないが、勘はいいとよく言われる。だからあの二人の間に固い友情の絆が結ばれていることはわかるが、それ以上の特別な感情があるなど、とても考えられない。
 
(そう言う趣味の人がいるということは聞いたことはあるけど・・・私ったらバカみたいだわ、こんなこと考えるなんて・・・。)
 
 いつの頃からだったろう・・・。ウィローがカインを見ているその視界の中に、クロービスが時々入ってくるようになったのは・・・。別に彼がウィローの目の前をわざわざ横切っているなどということではもちろんない。カインを見ているつもりのウィローの眼が、いつの間にかクロービスを追っていることがある。盗賊に襲われた時、迷わず自分をかばってくれた時からだろうか。あの時は恐ろしくて思わず彼の背中にしがみついていた。
 
(クロービスの背中があんなに広いなんて・・・思わなかったわ・・・。)
 
 どちらかというと、細身だと思っていた。カインといつも並んでいるからそう見えたのだろうか。考えてみれば彼は男性なのだから、ウィローよりも肩幅が広くて当たり前だ・・・。そんなことを考えているとまた顔が赤くなってくる。
 
「やだもう・・・何考えてるのかしら・・・私ったら・・。」
 
 さっきアッシュに妙なことを言われてまだ動転しているのだろうか。ウィローは空を見上げた。いつの間にか陽は西に傾き始めている。クロービスがあの中に入ったのが昼よりも少し前だったから、もしかしたらそろそろ戻ってくるかも知れない。
 泉の水で顔をじゃぶじゃぶと洗うと、ウィローは立ち上がった。『ここで待ってるから』って言ったんだもの、クロービスが戻って来た時にあの洞窟の前にいなかったら、彼ががっかりするかも知れない・・・。
 
 どうしてそんなことを考えたのかも気づかないまま、慌てて足許の鍋を拾い上げ、ウィローは『彷徨の迷い路』の入口へと駆け出した。

続くかもしれない

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