小説TOPへ

おまけTOPへ


 
 ここは北の島。この島の南側にある集落には島で唯一の診療所があり、若い医師の夫婦ともう1人、年老いた医師が共同で運営している。若い医師の夫婦がエルバール王国の祭りに出かけて留守にしているので、今は年老いた医師が一人で留守を守っていた。診療所には若い医師夫婦の住居もあり、二人はそこで生活している。息子が一人いるが診療所のあとは継がず、エルバール王国が誇る精鋭ぞろいの王国剣士団に入団し、家を離れていた。
 
「今日も天気がいいな。この分なら気温も上がりそうだ。腰をさすりながらやってくる患者も、そんなにいないかな。」
 
 この診療所の年老いた医師ブロムは、ベッドを降りてあくびをしながらカーテンを開けた。窓の外には、今の季節しか見られない青い空と海が広がっている。彼は本当はここに住んではいない。ここからそう遠くない場所に家があるのだが、若い医師クロービスとその妻のウィローがいない間だけ、ここに寝泊りしている。
 
「クロービス達は祭りを楽しんでいるかな。かなりの盛況らしいから、びっくりしているかもな。」
 
 この島からエルバール王国の城下町に向かうためには、船に乗ってエルバール北大陸の西側にあるローランの港まで行かなければならない。そこから馬車で一日、もしも歩いていくなら二日ほどかけて、やっと城下町にたどり着く。本当ならばとっくに着いていてもおかしくないはずだったのだが、ローランの町で旧友と再会し、さらに散策の途中でトラブルに巻き込まれると言う、なかなかのんびりと旅を楽しめない状況が続いていると言う手紙が届いたのが一週間ほど前のことだ。そのときにクロービスの手紙で聞いた話が、『医師志望の若い娘がいて、こちらで面倒を見てほしいとローランの診療所の医師デンゼルから依頼された』と言う話だ。もっとも本人の気持ちがしっかりと固まっていると言うわけでもないらしく、クロービス達が島へと帰るためにもう一度ローランに立ち寄ったとき、返事を聞かせてもらうことになっているのだそうだが。
 
「デンゼル先生か・・・。あの人はいい人だ。だが・・・私やサミルさんのことはどう思っているのだろうな。」
 
 サミルとはクロービスの父親だ。サミルと、サミルの助手をしていたブロムは、遠い昔、ローランに住んでいたことがある。サミルとブロムはもともと王立医師会に所属していた。ブロムは医師、サミルは新薬開発などに携わる研究員だった。だが、ブロムは以前重大な過ちを犯した。そのことですべての責任を負わされて医師会を追放されたのだ。同じころ、画期的な新薬である『麻酔薬』の開発を提唱していたサミルも、この新薬が自分達の存在を脅かすのではないかと考えた治療術師達の圧力により、こちらは完全な濡れ衣を着せられて医師会から追放されていた。
 
 二人はお互いの存在を認識してはいたが、特に会話を交わすことはなかった。そんな二人が出会ったのが、王宮本館の屋上、医師会の建物から外に出られるバルコニーだった。その日ブロムは自分の人生に絶望していた。確かに自分ひとりが責任を負わなければならないことではないかもしれない。だが、自説を強硬に主張したこともまた事実だ。そのために何人もの患者が亡くなった・・・。あのときもう少し引いていたら、他の医師達の意見もきちんと聞いていたら、事態はまた変わっていたのか・・・。
 
 いまさら考えてもどうしようもないことではあるが、脳裏に焼きついたつらい記憶が、ブロムをずっと苦しめていた。亡くなった患者達に取りすがる妻や夫や子供、親、兄弟姉妹・・・。皆泣き腫らした顔に悔しさをにじませ、あるいははっきりと敵意のこもった目でブロムを見上げた。
 
 
『このまま死んでしまおうか・・・。』
 
 バルコニーから遥か下の地面を見つめて、ブロムはぼんやりと考えていた。簡単なことだ。ちょっと体を前に倒せばいい。恐ろしいのも痛いのも一瞬だろう。それだけでこの苦しみから解放される・・・。
 
『こんな日は空を飛びたくなるもんだね。』
 
 突然背後から聞こえた声に、ぎょっとして振り向いた。そこに立っている、自分よりは10以上も年上らしい男性の顔に見覚えがある。
 
『君はブロム先生だね。新進気鋭の若手医師として評判だというのに、どうやら君も私同様、会長に切り捨てられたようだな。』
 
『あなたは・・・確かサミルさんでしたね。優秀な研究員だと聞きましたが・・・』
 
『ふふふ・・・そう言われると恐れ入るが、私もじきに医師会を追放される身だ。だが、これでいいのかもしれない。あの会長がいるうちは、医師会は新しいことに何一つ手出しが出来ないだろう。』
 
『麻酔薬の件で治療術師達が騒ぎ立てているのは聞いていましたが・・・本当に開発は中止なんですか?』
 
『ああ、中止だ。さっきまで私は焼却炉の前にいたよ。今まで麻酔薬開発のために作り上げた膨大な調査資料をすべて燃やすためにね。』
 
『も、燃やす?!なぜそんな!』
 
『もう二度とこのような薬を開発しないと、会長が誓約書を書いた。治療術師達の親玉に対してな。』
 
『そ、そんな・・・。』
 
 麻酔薬の構想はすばらしいものだ。今まで高いお金を払って治療術師を雇わねばならなかった外科手術が容易になれば、治る病気なのにお金がないから死ぬなんてばかげたことはぐっと減るだろうと、ブロムは期待していたのだ。
 
『確かに、彼らがいなければ医師会の診療はままならない。もちろんすべてではないがね。だがいつまでも彼らの言いなりでは、何一つ医学の進歩など見込めない。だから私はもうここに見切りをつけたんだ。会長の首がすげ替わるのを待っていたのでは、私のほうが年をとってしまう。わからずやの年寄りに義理立てをして心中する必要はないからな。』
 
 追放されると言うのに、サミルは清々しく微笑んだ。そうだ、この人は自分とは違う。何一つ悪いことをしていない、いや、それどころか人々のためになることをしようとしているのに、目先の利益に目が眩んだ愚かな人々に、陥れられたのだ。
 
『これからどうなさるんです?』
 
『もちろん研究は続けるさ。まあ実験などはお金の問題もあるし、なかなか難しくなるだろうけどね。』
 
『でも記録も資料もみんな燃えてしまったのでは・・・。』
 
『確かにもう何一つ記録はない。メモ一枚まですべて焼いてしまえと言う話だったので、もう洗いざらい持ってきて燃やしてやったよ。だが、私の頭の中にはその記録の大部分が記憶として残っている。私の頭の中までは燃やすことは出来ないだろう。』
 
 サミルはにやりと笑って、自分の頭を指さして見せた。ブロムはこの言葉に衝撃を受けた。濡れ衣を着せられ追放されると言うのに、しかも自分が今までやってきた研究は記録も何もかも燃やされて何一つ残らないというのに、サミルはまったくめげてはいない。それどころかこの先、何ものにもとらわれず自由に研究が出来ることが楽しみでたまらないらしい。
 
『ま、蓄えが底をつくまでがんばるさ。それでもだめなら働きながらでも何とかなるだろう。あきらめなければきっと道は拓ける!・・・とは言っても、内心どきどきだよ。』
 
 サミルの笑顔が、ブロムの心の中にわだかまっていた澱のような苦しみに染み渡った。この先この痛みが消えることはないとしても、自分にも何かしら出来ることが残されているのかもしれない。医師として診療に関わることは、もう二度とするつもりはなかった。だが、自分の知識が誰かの役に立つならもう一度生き直す気になれるかもしれない・・・。
 
『サミルさん、助手は必要ありませんか?研究は専門外ですが、いろいろな薬の臨床例についてはある程度わかるつもりです。』
 
『君が?いや、私としてはありがたいが、給料を出す余裕はないぞ?』
 
『私にも蓄えはあります。そんなことを要求する気はありません。ただ、何かをしていたいんです・・・。』
 
 サミルはブロムをじっと見つめ、『そうだな・・・。もしも本当にその気になったら、ここを訪ねてくれ』そう言って、住所を書いたメモを渡してくれた。
 
 その後ブロムはサミルを訪ね、彼の助手として働くようになった。そして一週間ほど過ぎた頃に、サミルの元に1人の女性が訪ねてきた。ブロムはその顔に見覚えがあった。女性はサミルを見ると
 
『ひどいわ!黙っていなくなるなんて!』
 
 そう言ってサミルに抱きつき泣き出した。医師会の研究所で助手をしていたその女性とサミルは恋愛関係にあったのだが、たとえ自分はめげていなくても、追放と言う形で医師会を去る以上彼女を巻き込むことは出来ないと、サミルは医師会を去るときに密かにそれまで住んでいた家を引き払い、引っ越しをしていた。ところがその女性がサミルの居所を調べて、サミルを追いかけてきたのだ。
 
『しかし・・・私についてきたら君の経歴に傷がつくぞ?なんといっても、私は追放された身なんだからな。』
 
『あなたが追放された身だってそんなことはどうでもいいの!私はもう医師会を退職してきたんだから!そんなことより、あなたは私のことをどう思ってるの?あなたがもう私のことを何とも思ってないと言うなら、このまま出ていくわ。さあ答えて!』
 
 さすがにここにいては邪魔だろうと、ブロムはそっと家の外に出た。そうだ、見覚えがあったのは、研究室での成果報告書を何度か持ってきてくれたことがあったからだ。さてサミルはなんと答えたのだろう。気にはなったが自分がサミルの人生に口を出す筋合いはない。サミルが彼女と別れたならそのように、結婚するならそのように、ブロムはサミルの助手としてこれからも働いていくつもりだった。
 
 その後サミルは結婚した。年はだいぶ離れていたが、とても仲のいい夫婦だった。医師会からの干渉を避けるために、サミル夫婦とブロムは海沿いののどかな村『ローラン』に移り住んだ。落ち着き先の家の隣には診療所があり、そこを運営していたのがデンゼル医師だ。サミルもブロムもデンゼル医師との交流には消極的だったが、サミルの妻は、ここで生きて行くつもりならこそこそしていてはよけいに怪しまれる、出来るだけ村の人達と交流すべきだと主張した。確かに村人と会ってもろくな挨拶もしないようでは、愛想のないよそ者としてかえって人目を引いてしまうかも知れない。サミルの妻の助言を受け入れ、サミルとブロムは自分達の素性を隠したまま、デンゼル医師と交流を深めていった。デンゼル医師はとても穏やかな人で、サミルとはいい話し相手になっていたようだった。その間にもサミルの研究は続けられ、試薬も完成した。だが、それを投与された実験用のマウスは二度と目覚めなかった。死んでしまったのだ。それでもサミルはあきらめず、辛抱強く調査を重ねて試薬を作り続けた。そんな生活の中、ブロムは少しずつ穏やかな日々を取り戻していった。やがてサミルの妻が妊娠した。サミルは大喜びで、生まれてくる子のためにも試薬を完成させると意気込んだ。幸せの絶頂だったはずなのに・・・サミルの妻は出産で命を落とし、生まれた子供は重い病気を患っていた。思えば、サミルの人生が狂い始めたのはあのときからかもしれない。彼は辛抱強く続けていた研究の成果を、まだ未完のまま売り渡した。子供の命を助けるための、手術代と引き換えに・・・。
 
 実際には手術費用よりも遥かに多くのお金が残った。それを買った相手が、まだ薬とすら言えない代物になぜ途方もない大金を出したのか、サミルの心は不安で一杯だったが、それでもかわいい我が子の命が助かったことに胸をなでおろしていた。だが・・・売り渡した薬がどんなことに使われたか、それを知ったとき、サミルは絶望し、研究を捨てる決意をした。そして人目を避けるように、当時『世捨て人の島』と言われていた、北の果てにあるこの辺境の島にやってきた・・・。
 
 
 
 サミルと自分の正体を、デンゼル医師が知らなかったとは思えない。だが彼は何も言わなかった。生まれながらにして重い病気を患っていた幼いクロービスの手術を、その費用の出所も聞かず黙って手術をしてくれた。デンゼルは良心的な医師だ。手術が彼だけの手によるものだったなら、サミルは金のために自分の研究を売り渡す必要などなかっただろう。手術代としてかかったお金のほとんどは治療術師に支払われたのだ。幼い子の体にメスを入れるのに、治療術で痛みを抑えなければとても出来なかった。皮肉にも未完の麻酔薬のおかげでクロービスは助かったのだ。
 
「それもこれも、すべては運命か・・・。ふん、おかしなものだ。今になってあのころのことを思い出すなんてな・・・。」
 
 ブロムは独り言を言いながら服を着替え始めた。日当たりのいいこの部屋は、もともとクロービス夫婦が自分のために用意してくれた部屋だ。一緒に暮らそうと何度も言ってくれているのに、なかなかうんと言えないでいる。
 
『せっかくだからあの部屋を使ってよ。お試しってことでいいじゃないか。』
 
 王国へと旅立つ前、クロービスはそう言って笑っていた。彼が自分を父親代わりのように思ってくれていることはわかっている。妻のウィローもとても気立てのいい女性だ。このままここに住んで、穏やかに生きていけるなら、そう思う反面、二度と戻らないはずの医療の道に舞い戻った自分を、これ以上甘やかしてしまっていいのかと言う思いも捨て切れずにいる。本当ならここに寝泊りする気はなかったのだが、調べ物をしていてつい遅くなってしまい、仮眠のつもりで部屋を借りてから、そのままずっとここに寝泊りすることになってしまった。
 
「素直にありがとうとでも言えればよかったんだろうな・・・。」
 
 クロービス夫婦がブロムに示す素直な好意に、自分も素直に応えればいいだけのことなのに、どうしてもそれが出来ない。今でも思い出すのは、亡くなった患者の顔、彼らの家族の顔、憎しみのこもった目で自分を見つめる幼い瞳・・・・
 
「過去に決着か・・・。一番過去を引きずっているのは私のほうかもしれないな・・・。」
 
 クロービスは最初からこの島で父の跡を継いだわけではない。サミルの死後、ブロムは彼の遺言に従ってクロービスを城下町に連れて行った。クロービスはそこで王国剣士団に入団することになり、一度は王国剣士を生涯の仕事と見定めていたのだ。だが・・・そのころに起きた政変で、彼は深く傷ついて島に戻ってきた。クロービスがなぜそんなに傷つくことになったのか、ブロムは彼から聞いた断片的な話でしか知らない。聞こうとも思わなかった。クロービスが話せるようになったらきっと話してくれるはずだ。それまでは余計な口を出すことはない。あれから20年・・・。クロービスは妻のウィローと共に王国へと出かけていった。祭りの見物とは言っていたが、過去にも決着をつけてくるつもりだとも言っていた。2人が晴れやかな顔で帰ってくることだけが、今のブロムの願いだ。
 
「ふう・・・なんだか今朝は妙なことばかり考えるな・・・。外はいい天気だと言うのに・・・・さて、診療所を開けて、今日の予定を確認するか。」
 
 ブロムは1階に降りて、台所で簡単な食事をつくった。その後庭の花に水をやって茶の間で新聞を読む。クロービス達が出かけてからのブロムの一日は、いつもこうして始まっていた。
 
「ブロムさん、いるかい?」
 
 診療所の扉が開き、村長のグレイが顔を出した。今日は朝から患者は来ていない。薬草学の本を読みながら、最近研究されたという新しい薬草や、その効能についてメモをとっていたときのことだ。
 
「おお、どうした?どこか悪いのか?」
 
「いや、いたって元気だよ。どうしてるのかと思ってさ。」
 
「またか・・・。まあ心配して訪ねてくれるのはありがたいが、そんなに頻繁に来なくたっていいんだぞ?」
 
 クロービスは一体、どれだけの人達に自分のことを頼んでいったのだろう。クロービスとウィローが旅に出てから、毎日のように誰かしらがやってくる。
 
「クロービスから手紙は来ないかい?」
 
「この間来たばかりだからな。ローランでだいぶ忙しい思いをしたらしいから、手紙なんてそうそう書いてる暇もないだろう。」
 
「そうか・・・。今頃はもう城下町に着いたのかな。」
 
「そうだなあ・・・。ローランで関わった患者の状況にもよるだろうが、あの町には今でも優秀な医師がいるし、どうやら後継者も育っているようだから、そんなに心配は要らないだろう。そう考えると、今頃は祭りの人ごみの中を泳いでいるころかもな。」
 
 グレイが笑い出した。
 
「あの人ごみは半端じゃないからなあ。俺が向こうにいたころだってかなり盛況だったけど、この間カインに聞いたら、なんだかとんでもないことになってるみたいだったな。まあその人ごみに遊びで行くか仕事で行くかでもまた感覚は違うんだろうけどな。」
 
 カインと言うのはクロービス夫婦の息子だ。診療所を継ぐ道ではなく、エルバール王国が誇る王国剣士団へ入団して今は島を離れているのだが、クロービス達が旅立つ前に、初めての長期休暇をとって家に帰ってきた。しかも恋人を連れて。
 
「それほど盛況なら、当分のんびりと祭りを楽しんで、それからカナでまたのんびりしてとなると、当分こっちには戻ってこれないだろうな。」
 
「そうか・・・。」
 
 グレイが少しがっかりした顔をした。
 
「それよりシンスはどうしてるんだ?役者になるってずいぶんと意気込んでいるらしいが、いまでもまだ変わらないのか?」
 
 グレイの息子シンスは、役者になりたいと言う希望を持っている。もっともそれが本当に心からの言葉なのかは、甚だ疑わしいところだ。その直前には教師になりたいと言っていたのだから。だが、今息子が役者を目指しているのなら、まずはやれるところまでやらせてみるのがいいとグレイも妻のアメリアも考えた。それで、クロービス夫婦が旅立つときに、城下町にある演劇学校の案内書をもらってくれるように頼んだと言うわけだ。
 
「そのシンスにせっつかれたのさ。演劇学校の案内書はまだ先生から届かないのかってさ。」
 
「なるほどな。それで様子を見にと言う口実でここにため息をつきに来たというわけか。」
 
「そういうこと。ブロムさんにとっちゃうっとうしいかもしれないが、俺はここに来るといえば誰も反対しないから、ずいぶんと助かってるんだぜ?」
 
「それならお茶でも入れるか?少しのんびりしてから帰ればいいさ。」
 
「そうさせてもらうかな。」
 
 グレイは疲れているように見えた。村長の仕事は最近とみに忙しくなっている。診療所のクロービスはいないし、薬草園の仕事をしているライザーもいない。当てに出来る友人が誰もいない状況では仕方のないことなのだが、今グレイが倒れたりしたらこの島が大変なことになる。ブロムはグレイのほうをこそ心配していた。お茶を入れてグレイの前におき、また薬草学の本に目を戻す。でもなんとなく今朝は頭に入らない。朝からあんなことを思い出したせいだろうか・・・。
 
「その医者になりたい女の子ってのは、本当にここに来るのかな。」
 
 お茶をすすりながら、独り言のようにグレイが言った。
 
「さて、どうだろうな。まだ若いらしいから、クロービス達が帰るためにローランに戻ったころには考えが変わっているかも知れん。」
 
「来てくれたらいいな。もしもここでずっと医者としてやっていくなら、クロービスもウィローも後継者が出来るわけだから安心じゃないか。」
 
「後継者か・・・。」
 
「俺だってクロービス達がすぐ引退するとか考えているわけじゃないよ。でも、そろそろ後継者を育てておかないと、いつまでものんびり出来ないぜ。」
 
「それはお前だって同じじゃないか。あたりはつけてあるのか?」
 
「ははは、それを言われるとな・・・。まあ、いずれはこいつって言うのは考えているけど、まだ誰にも言ってないんだ。」
 
「・・・なんとなく想像はつくが、今のうちからさりげなく言っておくと言うのもひとつの手じゃないか。この島全体をまとめると言う役どころ以外に、木材や薬草の値段の交渉などもしなければならない。人がいいとか誠実だというだけでは勤まらない仕事だからな。お前は本当によくやってくれているよ。私達がここで診療に専念できるのも、お前のおかげだと思ってるよ。」
 
 グレイは照れくさそうに頭をかいた。
 
「持ち上げたって何もでないぜ。俺はただ、長老のやってたことを手伝っていたから、それでいろいろと勉強することが出来た、それだけだよ。」
 
「それならなおさら、お前の仕事を手伝わせていろいろと覚え込ませておかないとな。いきなり、さあ村長をやれって言われても相手が困るだろう。」
 
「それもそうか・・・。それじゃ、クロービスとライザーが戻ってきたら、相談してみようかな・・・。」
 
 この島には重要な産業がいくつかあるが、その中で2本の柱とも言うべきなのが、豊富な森林資源を利用した木材の売買と、島全体に栽培地を展開している薬草栽培だ。この島でなければ育たないものから、比較的栽培のしやすいありふれた薬草まで、さまざまな種類の薬草を栽培している。もともとは医師であるクロービスの発案だが、実際にその薬草園の管理をしているのがライザーだ。クロービス同様グレイの幼馴染で、グレイが何かと当てに出来る友人の一人でもある。クロービスとも幼馴染の間柄なのだが、クロービス自身にはそのころの記憶がほとんどない。ライザーは両親がこの島で亡くなってから、王国の城下町に住む叔父夫婦に引き取られていったからだ。そのときクロービスはまだ5歳だった。ところが、クロービスが父親をなくして王国の城下町に出て行ったとき、ライザーとは王国剣士団で再会した。それ以来二人は親交を深め、相次いでこの島に戻ってきて今に至る。クロービスだけでなく、ライザーも王国で深く傷ついて戻ってきた。そのライザーも今は城下町の祭り見物へと行っている。
 
(二人とも・・・きっと晴れやかな顔で戻ってきてくれるよな・・・。)
 
 大事な友人達がいつまでも傷ついたままでいることを、グレイはずっと気にしていた。実を言うと、息子の用事は半分だけ口実だ。ブロムのところにクロービスからなにか連絡が入っていないか、それとなく確かめに来たのだ。
 
「そうだな。あの二人もいろいろ考えていると思うから、一度話し合ってみたらいいんじゃないか。」
 
「そうするよ。さて、そろそろ帰るかな。クロービス達から何か連絡が入ったら教えてくれよ。」
 
「ああ、間違いなく教えるから、安心していいぞ。」
 
 少しだけ楽になった顔で、グレイは帰っていった。
 
「後継者か・・・。クロービスとウィローはどう考えているのかな・・・。この旅でそこまである程度考えてきてくれるといいんだが・・・。」
 
 
『ブロム、これから行く島は辺境の地で、診療所も何もないそうだ。そこで開業してみようかと思うのだが、どうだろう?』
 
『開業ですか・・・。しかし私は・・・。』
 
『もちろん、君に医師として仕事をしてくれと言うつもりはない。私がやってみようと思ってるのさ。医師会にいたころは研究一辺倒だったが、この薬の研究過程でずいぶんと医師としての知識も身についたつもりだ。ただ、経験不足なのはなんともならないからな。わからないことがあったら教えてくれるだけでいいよ。』
 
『そうですか・・・。わかりました。サミルさんなら、私などより遥かに医師としてふさわしいですよ。』
 
 自説にこだわり、人の意見を聞こうとしなかった、あの時のわが身の傲慢さがあまりにも情けなかった・・・。こんな人間が医師でいていいはずはなかったのだ。
 
『ははは、ふさわしいかどうかはともかく、寒い場所で満足な治療も受けられないのでは、島の人々が気の毒だ。世捨て人の島と言うだけあって、何かしら後ろ暗いところのある人々が多いらしいが、こちらが誠意をもって接すればきっと分かり合えるさ。』
 
 
 この島でサミルが開業した診療所は、サミルの死後一時閉鎖していたが、クロービスが島に戻って父親のあとを継ぎたいといったとき、彼を一人前の医師に育てるために、ブロムは医師としてもう一度仕事をしようと決意した。そしてクロービスは一人前以上の医師として成長した。この診療所の灯を消してはいけない。そのためには必ずここに若い医師を迎え入れなければならない。
 
「こんにちはぁ!ブロームさぁん!!」
 
 大きな声に思考がさえぎられた。やってきたのはエディだ。診療所でアルバイトをしたいと言う少年だ。クロービス達が出かけてから、ほとんど毎日来ている。だが別に診療の邪魔になるわけではない。薬草学などの医学書を、おとなしく読んでいることがほとんどだ。元気で体を動かすのが好きな若者のようだが、辛抱強くしているところを見ると、本気で研究や医師としての仕事をしたいと考えているらしい。兄のラヴィは島の材木産業を担うダンの愛弟子だ。いささか突っ走りすぎなところはあるが、ダンはラヴィを自分の後継者にと考えているらしい。そのラヴィは先日怪我をして、まだよくなっていない。しっかりとリハビリをするようにクロービスが言い渡したのだが、果たしてちゃんとやっているのだろうか。
 
「あ、兄貴はね、もうすごくまじめにリハビリやってるよ。こう・・・こんな感じに。」
 
 エディは自分の手の指を一本ずつ動かしてみせた。
 
「そうか。それならいい。あと2週間もしたら、一度見せにくるように伝えてくれるか。」
 
「はぁい。ねえブロムさん、今日は患者さん来ないの?」
 
「今日は予定がないな。本を読むならこっちのことは気にしなくていいから行ってもいいんだぞ。」
 
「いや、本はいつでも読めるけどさ、今日はブロムさんに、ここの診療所の中を教えてもらおうかなって。」
 
「中を?」
 
「うん。患者さんがいるときは、僕がうろうろしていたら邪魔かもしれないと思っていつも書斎にこもってたんだけど、今日は誰も来る予定がないなら、包帯の場所とかさ、薬の場所とか、そういうのも教えてほしいんだよ。そうすれば、怪我人が出たときとかすぐに役に立つじゃないか。」
 
 ここに来始めたばかりのころ、エディは『今はまだまだ勉強だから』と書斎に入って本を読んでいたのだが、それは彼なりの気遣いだったらしい。
 
「なるほど。ではここの診療室内にある設備は全部教えておこう。だが、薬だけは絶対にお前が勝手に使ってはいかん。それだけは覚えておいてくれ。」
 
「でも怪我した人が出た時はどうするの?」
 
「怪我人が出て、薬が必要な場合は必ず医師が指示を出す。私かクロービス以外にここの薬を自由に使うことが出来る人間は誰もいないんだ。もちろん、ウィローだって勝手に使ったりはしないぞ。ウィローはここの看護婦として、大体どんな場合にどの薬を使うかは知っている。だが、それを絶対に自分で判断はしない。必ず私かクロービスに確認を取る。薬とは、飲めば、あるいはつければなんでも効くというものではないんだ。似たような症状でも同じ薬で全部間に合うわけではない。だから、薬だけは絶対に自分で判断しちゃいかん。一度でもそんなことをすれば、もうここの敷居はまたげないと思えよ。」
 
「う、うん・・・わかりました。」
 
 エディが神妙な面持ちで頷いた。
 
「知ってるつもり、理解したつもりと言うのが実は一番怪しいんだ。だから、今後怪我人の治療を手伝ってもらうことがあったときは、まず私に聞いてくれ。クロービスが戻ってきたら、クロービスに聞いてくれ。この島で医師の看板を掲げられるのは二人だけだからな。」
 
「僕も医者になれれば指示を出せるんだよね。」
 
「もちろんだ。そのためには必死で勉強しなければならないがな。」
 
「医学院に行けば5年だっけ。」
 
「そうだな。ここで本格的に勉強しても、最低5年は試験を受けられん。もちろん受けたところで落ちれば無理だぞ。」
 
「そ、それもそうだね・・・。それじゃ研究のほうは?免許がなくても出来る?」
 
「劇薬を扱うことになる可能性があるから、それも無理だな。今は医者だろうが研究者だろうが、医師免許は必要だ。医師免許がなくてなれるのは薬屋くらいのものだろうな。」
 
「なるほどね。ということは、僕が一人前になれるのは最低でも5年はかかるってことを、父さんと母さんに納得させなきゃいけないわけか・・・。」
 
「今すぐにこの道と決めなくてもいいんじゃないのか?まだ若いんだから他にやりたいことが出てくるかもしれないぞ?」
 
「僕としてはそのつもりなんだけどね・・・ここでアルバイトしたいって言ったときの両親の喜びようったら・・・。」
 
「なるほど、確かに医師として身を立てると言われたら、たいていの親は喜ぶだろうな・・・。」
 
 
 サミルはこの地で診療所をはじめたが、それをクロービスに継がせる気はあまりなかったようだ。クロービスが薬草について興味を持ち、いろいろと教えてくれとせがんでいたときも、自分に聞くより本を読むことを勧め、わからないことがあったときに聞きなさいと言っただけだった。サミルはクロービスには王国に出て暮らしてほしいとずっと願っていた。自分のあとを継がせてしまったら、クロービスは一生この島で、華やかな都会を知らずに暮らしていくことになっただろう。これからの時代を担う若者には、もっと見聞を広めてほしい、そのためにはやはり王国に出て行かないとと、サミルはいつも言っていた。そしてそのときが来たときに自分の経歴が足かせにならないよう、医師会とは関わりを絶ち、自分の名前が噂に上ったりしないよう、この島で隠れるようにして暮らしてきたのだ。だが今は当時とは違う。この島で育った若者達にも、華やかな活躍の場はたくさんある。エディの両親の腹積もりとしては、この診療所で医師の仕事を学び、いずれは王国で医師としてやっていけたらと、そう考えているのだろう。
 
「だから僕としては、ここで働いているからってすぐにでも医者になれるような、そんな夢は持たないでほしいんだよ。父さんだってさ、漁師の仕事は一朝一夕でどうにかなるような甘いもんじゃない、なんて言うくせに、他の仕事の事になるとなんていうか、とんちんかんなこと言うんだよねぇ。」
 
 エディの父親ダグラスは漁師だが、二人の息子が自分のあとを継ぐ気がないと知って落胆しているそうだ。だがそれでも、自分なりに道を見つけて進んでいこうとする我が子の姿は、頼もしく映るのだろう。それでつい期待し過ぎてしまう、そんなところかもしれない。
 
「お前が出来る仕事はたくさんあるが、ここでのアルバイトが即医者の仕事に結びつくとは限らないな。そもそも診療所の仕事なんて言うものは、半分が雑用みたいなものだ。薬や包帯などの備品を切らさないようにチェックしたり、患者が休んでいたベッドのシーツを洗ったり、いくらでもあるがな。」
 
「僕は何でもやるよ。仕事してお金をもらうのに、あれはいやだこれはいやだなんて言ってられないよ。だから、約束するよ。薬は絶対に勝手にいじらない。だから、いろいろ教えてよ。」
 
「そうだな。それじゃまずは包帯や、塗り薬のある場所からにするか。病気と違って怪我人てのは突然出るから、場所の把握と、薬の種類程度は覚えてもらおうか。」
 
 昔から、ブロムは愛想が悪いと言われてきた。クロービス夫婦に息子が生まれてからはだいぶ物腰が柔らかくなったなどと言われることもあるが、この島に古くからいる人達以外は、おおむね自分と話すのを苦手としているだろう。だが、エディはまったく動じる様子もなく、どんどん質問を浴びせてくる。クロービスが医師としての修行を始めたばかりのころとよく似ている。この少年がこの先今と同じようにこの診療所で仕事をしていこうと考えているのなら、もしかしたら後継者としてかなり有望かもしれない。
 
 
「こんにちは。ブロムさん、いるかい。」
 
 この声はサンドラだ。
 
「あ、患者さん?サンドラおばさんかな。」
 
「おやエディ、ここで働くって聞いてたけど、本当に来てるんだねぇ。」
 
 診療室に入ってきたこの島の助産婦サンドラは、エディを見て少し驚いたような顔をした。
 
「そりゃそうだよ。くるって決めたんだからくるさ。それより、治療に来たなら僕は書斎に行ってるよ。今はまだ役に立ちそうにないしね。」
 
「なるほど、それはいい心がけだけど、あんた今日は母さんの手伝いをするんじゃなかったのかい?雑貨屋で会ったけど、荷物を運ぶのに一人でどうしようかって言ってたよ。」
 
「あ・・・そうだった、忘れてた・・・。」
 
「なんだ、母さんと約束があったのか。それじゃそっち優先だな。こっちの仕事はいつだってあるんだから、今日は母さんの手伝いをしに行きなさい。」
 
「はあい・・・。それじゃ、今日もう一度来れたら来るよ。もしも無理そうなら明日また来るからね。」
 
「ああ、わかった。ほら、早く行ってやりなさい。」
 
 エディは部屋を出ていった。
 
「へぇ、あの子は本気なのかねぇ。医者になりたいって。」
 
「さてな・・・。まあ気が変わらなくて適性がありそうならものになるだろう。で、今日はどうしたんだ?薬がなくなったのか、それともまた別なところでも痛み出したか?」
 
「いや、この間の塗り薬がよく効くから、また作ってもらえないかと思ってね。」
 
 クロービスが出かける前、診療所のことを頼むとサンドラの元に行ったとき、サンドラは腕や足の痛みを訴えていた。年齢からくるものだが、塗り薬を塗ればだいぶいいらしい。だが、サンドラはこの島の助産婦で、いまだに現役だ。とはいえ老齢であることは確かなので、後継者として薬草園の管理者ライザーの妻であるイノージェンを考えている。イノージェンはすでに一人前の助産婦として仕事をしているので、任せることには異論はないが、自分としてもまだまだ現役を退きたくはないらしい。そこで、体の痛みを何とかしたいとクロービスに言ったのだ。塗り薬自体は以前も何度か出しているのだが、仕事の性質上、サンドラの元にやってくる女性達はたいていの場合体調があまりよくない。そこで、「効き目は出来るだけ保ったままで、匂いの少ないものは出来ないか」と言う注文を受けてきたと、クロービスから言われていたのだ。そこでブロムはいろいろと試して、比較的匂いの少ないハーブを組み合わせて塗り薬を完成させ、届けていたと言うわけだ。
 
「効いたなら何よりだな。で、この薬のにおいで吐き気をもよおす妊婦はいなかったのか?」
 
「このハーブの香りはどうやら吐き気にも効くらしくてね。おかげさんでみんな気持ちよく帰っていったよ。」
 
「ほお、それはまたひとつ新しい発見だな。この香りはそのまま嗅ぐとあんまりいい香りじゃないからな。」
 
「妊婦の鼻ってのはなかなかうるさいんだよ。好みがいろいろとあってね。」
 
「なるほど。よし、少し待ってくれ。すぐに作れるからな。まずは材料をそろえないとな。」
 
 ブロムが材料を用意して混ぜ合わせている間、サンドラは黙ってその手元を見ていた。
 
「でもあんたも変わったねぇ。ずいぶんと愛想がよくなったじゃないか。」
 
「よく言われるよ。自分では特に変わったつもりはないんだがな。」
 
「そんなもんだよ。でもあんただけじゃない、この島のみんなが少しずつ変わってきたよ。」
 
「それを言うならあんたもじゃないのか?私達がこの島に来たときは、ずいぶんと胡散臭そうに眺めてくれたじゃないか。」
 
「そりゃそうだよ。まああんた達二人の経歴を考えれば、この島に流れ着いたわけはわかったけどね。」
 
 ブロムは驚かなかった。助産婦と医師の間には密接な関係がある。ブロムとサミルが医師会を追われたころにはサンドラはすでにこの島にいたはずだが、城下町の情報を得ることくらいはサンドラならばいつでも出来ただろう。それに、当時の医師会の長が腰抜けだと言ううわさなら、当の会長が就任したころからささやかれていたことだ。その後の醜聞は、医師会を知るものならば誰でも予測できたことだったかもしれない。
 
「ま、それはお互い様だな。あんたがあの有名な『人買い助産婦』だってことくらいは、私もサミルさんも気づいていたよ。」
 
 サンドラはこの島に来る前、『人買い助産婦』と呼ばれた女だ。以前は真っ当に助産婦として仕事をしていたのだが、有力な貴族の妻の出産を手がけたときに、たまたま生まれた子供が重い障害を負っていた。別にそれはサンドラのせいではなかったのに、迷信深い当時の貴族達はサンドラを不幸の使者のように罵った。そのことが原因でサンドラは助産婦としての仕事を追われたのだが、負けず嫌いな性格ゆえ、そのまま城下町を逃げ出すようなことはしなかった。貴族などと言うものは、たいていの場合叩けば埃の一つや二つ出るものだ。特に男と女の揉め事にはことかかない。望まれず生まれてくる子供をひそかに買い取り、子供のいない裕福な夫婦に実子として斡旋する。書類を偽造して間違いなくその母親から生まれたことにしてしまう。城下町の暗部に蠢く者達と手を組み、かなり危ない橋も渡った。そんな彼女の『腕』を見込んで、ある貴族が接触してきた。その家の後取り息子が使用人といい仲になり、使用人が妊娠したのだが、息子は別な貴族の娘との結婚が決まっているので、生まれた子供をひそかに買い取ってほしいというものだったのだが、どうもその貴族は、その使用人の女をうまく始末できないかと言いたげだったのだ。サンドラは殺人に手を染めたことはない。そこで、それならば北の果てに犯罪者などが逃げていくらしい『世捨て人の島』と言う場所があるから、そこに連れて行けばいいとアドバイスした。ところが『それならばぜひあんたが連れて行ってくれ』と頼まれ、報酬をかなり上乗せさせて引き受けたのだ。サンドラの仕事は、その島まで使用人の女を連れていき、出産させた後はそこにとどまって絶対に城下町に戻らせないことだった。つまりサンドラもそこにすみつけと言うわけだ。厄介者の使用人を見張ると言う名目で、その貴族は自分の家の秘密を知るサンドラをもその島で朽ち果てさせる腹積もりだったらしい。
 
「ふん、今となっては懐かしい呼び名だね。あたしも、まさかあのままこの島にとどまることになるとは思っても見なかったよ。」
 
 サンドラは当初、その使用人の女をこの島で出産させたら、ひそかに城下町に戻るつもりでいた。ところが、その使用人の女はサンドラを全面的に信用していて、なかなか言い出せなくなってしまったのだ。
 
「エレシアってのはまったくお人よしでね、すっかり毒気を抜かれちまったのさ。」
 
 エレシアというのがその使用人の女の名だ。彼女はこの島で女の子を産んだ。その世話をしているとき、島の長老がサンドラを訪ねてきた。この島には他にも妊婦がいる。助産婦としてその女達の面倒を見てもらえないかと言うのだ。それほど多くとは行かないまでも、報酬は出す。この島ではそれで十分暮らしていけるだろうということだった。この島に来たとき、長老には二人がここにやって来たわけを話しておいた。もちろん人買いのなんのという話は隠して、想いが実らなくてもせっかく授かった命の芽を摘み取るわけにはいかないと、いささか脚色していたのだが・・・。よそ者はどこでだって歓迎されない。「世捨て人の島」などと呼ばれている場所ならなおさらだ。この島の長老に話を通しておけば、何かあったときに文句のひとつも言えるだろう、サンドラはそのくらいの気持ちでいたのだが、サンドラの肩書き(もちろん表向きは真っ当な助産婦だ)を聞いた長老は、とても興味を持った。
 
「まあ!すばらしいわ!長老様、私達、喜んでお手伝いさせていただきますわ!」
 
 サンドラが断るより早く、満面の笑顔でそう言ったのがエレシアだった。
 
「ちょっとあんた!なに勝手に承諾してんのさ!」
 
 サンドラの怒りにもエレシアはまったくひるむ様子を見せない、いや、サンドラの怒りなど、彼女は意に介していないのだ。そしてきらきらと輝く瞳でサンドラを見つめ、
 
「だってこの島の人達のお役に立てるのよ。仕事をして感謝されて、お給金までいただけるなんて、なんて素敵なことかしら。」
 
 こんなに笑顔でそう言われては、それでも反対したりしたら、サンドラが悪者にされてしまう。
 
「ふん、最初はいやいやだったってわけか。だが、私達がこの島に来たころにはずいぶんとなじんでいたじゃないか。この島に居つくのがあんたの天命だったってことさ。」
 
「天命とはまた大きく出たね。ま、あたしもこの島での暮らしは今じゃ気にいってるよ。あんただってそうだろう?あたしには、サミルさんの助手をしていたころのあんたより、今のあんたのほうが遥かに楽しそうに見えるよ。」
 
「・・・ま、否定はしないよ。さて、出来たぞ。どうだ?匂いを嗅いでみてくれ。同じように作ったつもりでも、不思議と同じ匂いがするとは限らないものだからな。」
 
 大きな器に入った塗り薬を、ブロムはサンドラの鼻先に突き出した。ふわりと立ち上る匂いは、確かに以前もらった薬と同じものだった。
 
「大丈夫だと思うよ。前と同じ匂いだね。」
 
「そうか。それじゃ今塗ってやるよ。腕を出してくれ。」
 
 ブロムはガーゼを重ねてその上にきれいに塗り薬を広げ、それをさらにガーゼで挟んでサンドラの腕に乗せた。痛む腕にひんやりとした薬の感覚が心地よい。
 
「ああ、いいねぇ。でも不思議だね。ひんやりして気持ちいいのに、これって冷やしてるんじゃなくてあっためてるんだよね。」
 
「そうだ。皮膚の感覚が冷たいと感じているだけさ。だが本当に冷やしたりしたら、かえって痛みが悪化するからな。間違っても水で冷やしたりしないでくれよ。」
 
 ブロムはそう言いながらサンドラの腕に包帯を巻き、残りの薬を慣れた手つきで薬の容器につめた。そしてガーゼも多めに入れて、両手で持てるように二つに分けてくれた。
 
「ほら、こうやって持てば腕も痛まないだろう。痛みをとるための薬でかえって悪化させたのでは意味がないからな。」
 
 その説明を聞いていたサンドラがくすっと笑った。
 
「ん?おかしなことを言ったか?」
 
「そんなんじゃないよ。あんまり気がきくから、ちょっとびっくりしたのさ。」
 
「別に気を効かせたわけじゃない。あんたの腕がよくなるために必要なことをしたまでだ。持てるか?まだ腕が痛いなら、少し休んでいくといい。いつもの話し相手はいないから退屈だろうがな。お茶くらいなら出すぞ。」
 
 いつもの話し相手とは、ウィローのことだ。サンドラは薬をもらいに来ると、少しの間ウィローとお茶を飲みながら話していく。だが今ウィローは夫のクロービスと共に城下町へと出かけている。
 
「それじゃもらおうか。たまにはあんたの顔を見ながら話すのもいいかもしれないよ。」
 
「ふん、物好きだな。こんな仏頂面でよければいくらでも見ていって構わんが、面白いことは何もないぞ。」
 
「そりゃお互い様だろう?」
 
 サンドラは笑って、自分の頬をピタピタと叩いて見せた。
 
「まあそうだな。」
 
 少しの間、二人とも黙ったままお茶を飲んでいた。
 
「そろそろ帰るよ。ごちそうさん。」
 
 サンドラが立ち上がった。
 
「アローラ一人で留守番してるのか。」
 
「ああ、そうだよ。まだあの子を一人でおくのは心配だからね、そろそろ戻らないと。」
 
 アローラとは島で唯一の雑貨屋を営むグレイの弟ラスティの娘だ。ついこの間、親に内緒で付き合っていた川向こうの村の青年ティートとのことを、父親に認めてもらったばかりだ。それ以来『片手間』的に手伝っていたサンドラの仕事を、本格的に手伝うようになった。
 
「あのわがまま娘が大変な変わりようだな。」
 
「まったくだよ。女ってのは男次第だよねぇ。」
 
「そうとばかりも言い切れないだろう。ティートだってアローラと出会ったことでずいぶんと変わったじゃないのか。」
 
「それもそうか。確かに、今じゃ優柔不断なおぼっちゃんの面影はあんまりないよ。いつも堂々としているからね。」
 
「そうだろう。お互い様ってことさ。」
 
 サミルはあまり人付き合いが得意なほうではなかった。それはブロムも同様だ。だがサミルが結婚したことで、今まで男二人で黙り込んだまま研究に明け暮れていた家の中は一気ににぎやかになった。サミルの妻はとても明るく、そして研究者の助手としても優秀だった。彼女は元々サミルの助手を長く務めていたので、サミルが手がけていた麻酔薬についてもかなり正確な記憶を持っていた。おかげで、メモ一枚も残っていないにもかかわらず、サミルが今まで積み重ねてきた実験や調査のデータは、ほぼ完全な形で再現されたのだ。もう一度ゼロからの再出発も覚悟していたサミルはとても喜んだ。
 
(彼女がサミルさんの人生を狂わせたなんて、考えてはいけないな・・・・。)
 
 彼女の美しさと明るさはブロムにとってもまぶしすぎるほどだった。その笑顔に救われたことは一度や二度じゃない。
 
「そろそろ昼だな。食事でも作るか。」
 
 サンドラと自分の飲んでいたお茶のカップを洗いながらそう呟いた時、玄関から女性の声がした。
 
「こんにちはぁ、ブロムさんいらっしゃる?」
 
 この声はグレイの妻のアメリアだ。玄関に近づくにつれて、いい匂いが漂ってきた。アメリアはブロムを見るなり「お昼まだよね?」と尋ねた。
 
「ああ、まだだが・・・。」
 
「よかったぁ。お食事作ってきたのよ。」
 
 アメリアは今までにも何度か食事を作って持ってきてくれている。これもまたクロービスが頼んでいったらしい。
 
「食事くらい何とかなるよ。前にも言ったがあまり気を使わないでくれないか。いくらクロービスに頼まれたからと言っても、そうしょっちゅうでは大変だろう?」
 
 別にいやなわけではなかったが、あまりにも気にかけられすぎて、ブロムとしてはいささか落ち着かない気持ちになっていた。
 
「前にも言ったけど、気を使っているわけじゃないのよ。それに、私がいなくたって娘二人がある程度のことはしてくれるの。それともうひとつ、これが一番重要なんだけど。」
 
 アメリアはいったん言葉を切り、ブロムを見上げた。
 
「うちの人も私も、さっきすれ違ったサンドラさんだって、クロービスに頼まれたと言うだけで来ているんじゃないわ。私達はブロムさんを大事な友人の一人だと思ってる。それだけは勘違いしないでね。」
 
「友人か・・・。」
 
「そう、友人、お友達よ。だから気を使うのはやめてね。それと、その食事はね、実は今回はじめて作ってみたの。よかったら後で感想を聞かせてね。」
 
「わかったよ。ありがとう。」
 
 
 友人・・・。今まで自分に友人なんていただろうか。医師会を追放されることが決まったあと、周りはブロムを遠巻きにしていた。出来るだけ関わりあいたくないというのが見え見えだった。最後の日にいろんな人達に挨拶をして回ったが、誰もが皆『早く立ち去れ』と言わんばかりの顔をして、ろくな返事もしてくれなかった。そんな中でただ一人『元気でな』と声をかけてくれたのが、現医師会の会長であるドゥルーガー医師だった。
 
「あの人だけは・・・分かってくれていたのかも知れないな。」
 
 あれからもう何十年が過ぎたのだろう。サミル夫婦はすでになく、その忘れ形見を一人前の医師に育てるため、ドゥルーガー会長は彼に出来る限りの尽力をしてくれた。その忘れ形見クロービスは一人前以上の医師に成長し、自分を父親のように慕ってくれている。そして自分を友人として認めてくれている人達までこの島にはたくさんいる。
 
「あきらめなければ、未来は拓けるということか・・・。」
 
 過去は変えられない。あのときの痛みは、苦しみは、この先も一生自分に付きまとうだろう。だが、たくさんの優しい人達がここにはいる。その人達のために、自分が出来ることを続けて行こう。
 
「午後からの予定は・・・ダンか。ふん、また大騒ぎしながら飛び込んでくるのかな。傷薬の準備もしておくか・・・。」
 
 予定表を覗き込み、ブロムは診療室へと向かった。
 

続かない予定

小説TOPへ

おまけTOPへ