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外伝2

 
「やれやれ・・・。」
 
 部屋の扉を閉めて、パーシバルは大きなため息をついた。久しぶりの非番で、せっかくのんびりすごそうと思っていたのに・・・会う人ごとに同じ質問をされ、そのたびに同じ答えを繰り返し・・・。
 
『剣士団長が勇退するそうですね。』
 
『次期団長はあなただと聞きましたが』
 
 だがこんな質問はまだいい方だ。
 
『その若さで団長だなんて、どんな手を使ったんですか?』
 
『ケルナー様達と親しくしていたのは団長の地位を手に入れたかったからなんですか』
 
 そんなぶしつけな質問まで浴びせられた。
 
「冗談じゃない!」
 
 パーシバルは思わず大きな声を出した。むろん聞いている者は誰もいない。ここはエルバール王宮本館にある、王国剣士団宿舎の一室。パーシバルと相方ヒューイの部屋だ。ヒューイは今日は朝から出かけていた。城下町に住む恋人ジーナと会うためだ。ジーナは町の洋品店・・・いや、最近はブティックと言うらしいが・・・とにかく女性の服を売っている店でお針子をしている。なかなか腕はいいらしく、店の主人も彼女を高給で優遇しているらしい。それだけに彼女は忙しく、なかなか休みも取れない。ヒューイはヒューイで、剣士団の休みはそんなに定期的ではない。城下町近辺の警備だけならともかく、パーシバル・ヒューイ組はもう入団して8年近くになる。王宮の中でも女王をはじめ大臣達が政治を執り行う執政館、女王の住まいである乙夜の塔は言うに及ばず、エルバール北大陸の中でも危険な南地方、さらにはエルバール南大陸へも足を伸ばすことがある。不毛の砂漠がその大部分を占める南大陸への赴任はかなりの長期にわたり、最低でも半年は帰って来れない。実際パーシバル達は、一ヶ月ほど前までその南大陸に赴任していた。そして戻ってきてからもあちこち飛び回っていて、本当に今日は久しぶりの休みだった。ヒューイは昨日の夜から落ち着かず、彼女をどこに連れて行こうか、どんな話をしようかと、横で聞いているパーシバルがあきれるほど浮かれていた。
 
「ヒューイ・・・お前がうらやましいよ・・・。」
 
 パーシバルはつぶやいた。会える相手がいるのなら、自分だって休みになれば真っ先に出かけていくだろう。そうすれば、あんなぶしつけな質問で気分の悪い思いなどしなくてすむのに・・・。
 
「ははは・・・何を考えているんだかな・・・。」
 
 俺にはそんな相手を持つ資格はない。俺はこの国の平和と発展のために生涯を捧げなくてはならない。それはパーシバルが4年前からずっと考え続けていることだった。
 
「俺は・・・この国が好きなんだ・・・。だからこの道を選んだ・・・。ただそれだけなのに・・・。」
 
 今回の剣士団長勇退の噂・・・。その出所がどこなのか、パーシバルはわかるような気がしていた。大臣ケルナー・・・こんな強引なことをするのは彼しかいない。
 
 4年前フロリア姫が即位した時、ケルナーは剣士団長ドレイファスに一度勇退を迫っている。
 
「新王の即位に際し、人事も刷新するべきだ。」
 
 これがケルナーの言い分だった。だがドレイファスはその言葉を一笑に付した。人生経験などないに等しい幼い女王陛下を支えていくためには、経験豊富な自分の知識が必要であると、堂々と説かれたのだ。筋は通っている。異論を差し挟む余地はない。そしてケルナーが折れる形でこの問題には決着がついたはずだった。だがケルナーという男は一筋縄ではいかない。やろうと決めたことは必ず実行する、そう言う人物だ。ではケルナーは悪い人間なのかというと、もちろんそんなことはない。彼がこの国の平和と発展を願っていることには疑いの余地がなかった。だからパーシバルは彼に協力したのだ。4年前実行された、ある恐ろしい計画に・・・。
 
 その出来事を思い出し、パーシバルは身震いした。本当にそれが正しいことだったのか、その答えは未だに出ていない。でももう引き返すことは不可能だ。このまま進んでいくしかないのだ・・・。
 
 その時扉をノックする音がした。
 
「・・・・・・?」
 
 ヒューイが帰ってきたのか?いや、自分の部屋に入るのにノックなどするはずがないし、第一彼は、もしかしたら今日は帰らないかも知れないと言っていた。
 
(久しぶりに恋人に会うんだから・・・遊びに行っておしまいってことはないよな・・・。)
 
 昨夜のヒューイのにやけた顔を思い出し、彼はきっと今頃はジーナの部屋にいるのだろうと、パーシバルは思った。
 
(では誰だ・・・?)
 
 またノックの音。
 
「・・・はい・・・。」
 
 パーシバルは慎重に返事をした。
 
「私だ。入ってもかまわぬか。」
 
(ケルナー殿?)
 
 尋ねてきたのはケルナーだった。パーシバルはあわてて立ち上がり、扉を開けた。
 
「どうぞ。」
 
 だがケルナーはすぐには部屋に入らず、用心深く部屋の中を見渡している。
 
「ヒューイのことならご心配なく。あいつは今夜は帰ってこないと思います。」
 
「・・・外泊か・・・。」
 
「ええ、城下町の恋人のところでしょう。」
 
「なるほどな。そなたにはそういう相手はおらぬのか。」
 
「・・・本気でおっしゃってるんですか?」
 
「なぜそんなことを聞く?そなたとて年頃の男だ。恋人の一人や二人いてもおかしくはなかろう。」
 
「私はこの国の平和と発展のために生きると決めたのです。色恋沙汰にうつつを抜かしている暇などありません。」
 
 平然と言うケルナーの表情にパーシバルは苛立ちをおぼえ、気づいた時には強い口調でそう言い放っていた。
 
「・・・それは私へのあてこすりかね?」
 
「あ・・・い、いえ・・・そういうわけでは・・・。」
 
「ふん・・・。まるで私が、そなたの人生を狂わせたとでも言いたげだったがな。」
 
「・・・・・・・。」
 
「まあいい。入らせてもらうぞ。」
 
 ケルナーは部屋に入ると、扉をぴたりと閉めた。
 
「さてと、そなたは私と世間話などしたいとは思わぬだろうから、用件だけ手短に話そう。」
 
「・・・はい。」
 
「もう耳に入っているとは思うが、そなたを剣士団長にという話がある。」
 
(やはりそうか・・・。)
 
 パーシバルは心の中で舌打ちをした。この人がよけいなことをするから俺は・・・。
 
「それはどういうことです?剣士団長はドレイファス殿ではありませんか。」
 
 素知らぬふりをしてパーシバルは尋ねた。
 
「ドレイファスには勇退してもらう。フロリア様もそのおつもりだ。今までずっと王国のために尽くしてくれたのだから、そろそろ骨休めをさせてやろうとな。」
 
「フロリア様がそう仰せられたのですか?」
 
「・・・・・・・・。」
 
 ケルナーは黙ったまま、パーシバルを上目遣いに睨んだ。
 
「そんなことだろうと思いました。やはりあの噂はあなたなのですね。お得意の『外堀から埋めていく』やり方ですか?」
 
「剣士団長の地位では不満か?」
 
「私はそんなことを言っているわけではありません。」
 
「4年前、私はそなたに約束したはずだ。協力の見返りに、いずれしかるべき地位を用意するとな。」
 
「私は見返りなどを期待してあなたに協力したわけじゃない!」
 
「しっ!声が大きい!」
 
 思わず立ち上がって声を荒げたパーシバルを、ケルナーがたしなめる。パーシバルは黙ってケルナーから顔を背けた。
 
「私は・・・地位なんてほしかったわけじゃない・・・そんなことを・・・あなたにお願いした覚えも・・・。」
 
 この国のために・・・。人々のために・・・。必要なことだと思ったからなのに・・・。パーシバルの心は悔しさとやりきれなさでいっぱいだった。
 
「いろうがいるまいが、そなたには剣士団長になってもらわなければならぬのだ。」
 
「強引に噂を流して、ドレイファス殿を追い込んで、そこまでしてですか・・・!」
 
「我らの目的のためにはやむを得ぬ。ドレイファスが悪いわけではないが、あやつが今の地位にとどまっていては、我らにとって何かと都合が悪いからな。」
 
 ドレイファスは前王ライネスのさらに前の国王の時代から剣士団長を務めている。ケルナーよりも遙かに年上で、御前会議の中でもかなり大きな権限を持つ。だが、ケルナーは本人と向かい合っている時以外で、ドレイファスに敬称をつけて呼んだことは一度もない。表向きはケルナーとレイナックが御前会議のまとめ役だが、実際には彼らが何かの取り決めをしようとすれば、必ずドレイファスに意見を聞いて彼の意向を尊重しなければならない。穏やかな気性のレイナックは、大先輩なのだからそれもいたしかたなしとあきらめているが、ケルナーにとっては我慢がならないことだった。彼にとってドレイファスは、いわば目の上のたんこぶなのだ。
 
「我ら、ではなく、あなたにとって、ではございませんか。」
 
「ふふ・・・言いにくいことをズバリと言うな。確かにその通りだ。だがパーシバルよ、私にとって都合の悪いことは、そなたにとっても都合が悪いのだ。それはわかっておろう。」
 
「・・・・・・・・。」
 
「4年前のあの日から、私もそなたも、そしてレイナックも運命共同体のようなものなのだ。」
 
「・・・私を剣士団長に据えて、何をせよというのです?」
 
「何をせよとは・・・ずいぶんと妙なことを言うな。さっき言ったではないか。これは4年前の協力の見返りだと。」
 
「とぼけないでください。ただ単にドレイファス殿がじゃまなら、あなたのことだ、すぐにでも刺客を差し向けるでしょう。でもそれで私を剣士団長に据えたとしても私が言うことをきかないとわかっていらっしゃるから、噂を流すなどと言う回りくどい方法をとられたのではありませんか?私にいったい何をさせようと言うのです?」
 
 一気に言い終えてパーシバルはケルナーを見つめた。見つめたというより睨んだと言った方がいいかも知れないほど、その瞳は鋭かった。ケルナーは一瞬たじろいだように見えたが、すぐに居住まいを正し、パーシバルの視線を正面から受け止めた。
 
「ふむ・・・そこまで察しているなら、はっきりと言おう。そなたサミルを憶えておろう?」
 
「・・・サミル・・・?あのローランの・・・。」
 
「そうだ。」
 
 サミルというのは、城下町から西に向かって2日ほどのところにあるローランという村に住んでいた男だ。何かの研究をしていたらしく、実に無愛想な助手と、息子らしい小さな男の子と一緒に暮らしていた。4年前、ケルナー達はある恐ろしい計画を実行しようとしていた。その計画には、サミルの研究している薬がどうしても必要だったのだ。ケルナーは持ち前の強引なやり方でサミルからその薬を買い取り、代価として一生かかっても使い切れないほどの大金を渡した。だが実際には、サミルがその金の大半を使うのに幾日もかからなかった。彼の小さな息子は重い病に冒されており、その手術のために大金が必要だったからだ。
 
 手術の甲斐あって彼の息子が健康を取り戻したという話を伝え聞いて、パーシバルはわがことのように喜んだ。パーシバルはサミルをよく知っていた。仕事でローランに向かった時は、必ず彼の元を訪れていたからだ。知識が豊富で、彼と様々な事柄について話していると、時のたつのも忘れそうなほどに楽しかった。パーシバルはまた、彼の小さな息子のこともかわいがっていた。人見知りが激しく、抱き上げたとたんに人さらいにでも出会ったかのように大声で泣き出す。でも父親に抱かれている時に見せる笑顔はとても愛らしく、もう少し大きくなれば多少はうち解けてくれるだろうかと、パーシバルは少しだけ期待していたほどだ。
 
 だが・・・サミル達は突然ローランから姿を消した。パーシバル達の計画が、見事成就した翌月のことだった。
 
「・・・忘れたくても忘れようがありません・・・。」
 
「そうだろうな。それならば話が早い。そなたにはそのサミルの行方を突き止めてほしい。」
 
「私が・・・?サミルさんの行方を・・・?」
 
「そうだ。4年前のあの出来事が我らの手によるものだと知っている人物・・・デールはハース鉱山にいる。あの男のことだ、家族には何も言ってないだろうし、もう鉱山から出ようとはしないだろう。むろん見張りはつけるつもりだが、デールのほうは心配ない。問題はサミルだ。全く、黙っていなくなるとは計算外だったよ。こちらはちゃんと約束を守って金を渡したっていうのにな。一言くらい声をかけていくのが礼儀というものだろうに・・・。」
 
「約束を守って・・・ですか・・・。」
 
「・・・何か言いたそうだな。だがその通りではないか。私はサミルの持っているあの薬が必要だった。だからあの男と取引をして金を渡したのだ。あの男が一生遊んで暮らしても、まだ充分おつりが来るほどの金をな。」
 
「そしてその薬がいったいどんなことに使われたか、知った時の衝撃はどれほどのものだったでしょうね。」
 
「非難されるいわれはない。あれだけの金があれば、奴の息子が患っているという病気を治すことも、奴が手がけていたあの得体の知れない研究を続けるのにも役に立ったはずだ。実際奴の息子は、あのあとすぐに手術を受けてすっかりよくなったそうだからな。」
 
「息子のことはそうでしょうが・・・でも研究のほうはどうやらすべてやめてしまったようですよ。」
 
「それが私のせいだとでも言うつもりか?あんな恐ろしいものを研究していたのだ。何か後ろ暗いところがあって、今回のことでそれが露見しないようにと逃げただけなのではないか。」
 
「サミルさんがあれを何に使おうとしていたのかは私にだってわかりません。でもあの人が誠実な人だと言うことはわかりますよ。私はローランに赴任した時、ずいぶんと世話になりましたからね。少なくともあなたよりは、彼の人となりはわかっているつもりです。」
 
「いやにあの男の肩を持つな。奴と親しかったのなら、行き先に心当たりはないのか。」
 
「あるわけがないじゃありませんか。彼が何よりも大切にしていたのはあの小さな息子です。あのままでは、ただ死にゆく我が子を見守ることしか出来なかったはずが、あなたの渡した金のおかげで元気になった。でもそれと引き替えに何が起きたかを知って、それでもなお今まで通り平然と毎日を過ごしていくことなど、サミルさんには出来なかったのですよ。」
 
 ケルナーはパーシバルを上目遣いに見てため息をついた。
 
「私だって好きであの男を利用したわけではない。あの男が持っていたものが、たまたま私の望むものと一致しただけの話だ。偶然としか言いようがないのだからな・・・。」
 
「偶然・・・ですか・・・。」
 
「そうだ。全くの偶然だ。あの男があれを持っていたことも、あの男の息子が大病を患っていたことも、すべてはな・・・。」
 
 確かに・・・サミルが手がけていた奇妙な研究を続けていくためにはかなりの大金がいるらしかった。・・・なぜそんなものを作っていたのか、理解に苦しむような代物なのだが、だがもしも彼の息子が大病を患っていなかったら、単に研究資金ほしさに彼はあれを売り渡したりしただろうか。どうしてもそうは思えない。そう考えれば、すべては偶然の一致だったのだと言えないこともない・・・。そう言い切ってしまえるなら、パーシバルだって少しは気が楽になったかも知れない。でも本当にそうなんだろうか。
 
「・・・話がそれたな・・・。そなたが私を憎もうがどうしようがかまわぬが、どうだ、やってくれるのか、くれぬのか。」
 
「いやだと言ったら聞いてくださるのですか?」
 
「ふん・・・聞くまでもなかろう。しかし・・・いったいどこへ消えたのか・・・。」
 
「・・・剣士団長就任の話はともかく、その件はお受けしますよ。ただしこれだけは言っておきます。サミルさんを見つけたとしても、私は彼の、いや、彼だけでなくあの無愛想な助手も彼の息子もですが、命を奪うような命令には何があっても従いません。」
 
「そこまでは望まぬ。あの男が口をつぐんでいる限りはな。」
 
「それからもう一つ、時間がかかることも覚悟しておいてください。あなた様のことだ、あの時からご自慢の密偵達をほうぼうに派遣して探されたのでしょう?それでも見つからなかったのに私が探して見つかるとも思えません。私にも日々の任務があるのです。ヒューイだって何も知らない。私が一人で自由に行動出来る時間は限られているのですから。」
 
「ふむ・・・それもいたしかたあるまい。今城下町では、住宅地区建設に絡んで問題が山積みだ。今そなたが任務からはずれたりすれば、今以上の頭痛の種を抱え込むことになろうからな。」
 
「その通りです。建築工事の仕事を当て込んで、近隣の町や村から大量に人が流れ込んで来ているのです。そして結局は仕事にありつけず、路上で生活する者まで出始めて、貧民街が拡大しているという報告もあります。博打のいざこざや喧嘩などで毎日何人もの死人が出て、治安も悪化する一方なのです。」
 
「まったく・・・そんなに死にたいのなら、丸腰で城壁の外へ出て行けばよいのだ。わざわざ町の中で死んで手間をかけさせおって!愚か者どもが!」
 
「・・・笑えない冗談ですな。」
 
「ふん・・・!私は大まじめだ!」
 
「・・・・・・・。」
 
「さてと、私はそろそろ失礼する。それではよろしく頼む。そなたが動きやすいように出来るだけ取りはからおう。それから、団長就任の件は任せておけ。後任がそなたならばどこからも文句は出まい。ドレイファスめ、今度こそ首を縦に振らせてやる・・・。」
 
 最後は独り言のようにつぶやきながら、ケルナーは部屋を出て行った。
 
 
「くそっ!」
 
 足音が遠ざかってから、パーシバルは思わず壁を叩いた。
 
 4年前・・・あの計画を実行するために、たくさんの人を利用して傷つけて・・・。それでもこの国の平和と発展のために、人々が安心して暮らせる世の中を作るために、それは必要なことだったのだと自分に言い聞かせ続けてきた。
 
「そして今度はサミル親子を捜せ、か・・・。」
 
 彼らがいきなり姿を消したのはパーシバルにとっても衝撃だった。どこかに潜伏していて、ある日突然自分達の罪を告発されるのではないかと怯えもした。でももう、あれから4年になる・・・。今さらそんな目的で姿を現すとは考えにくい。ということは、彼らはきっと忌まわしい出来事を忘れて生きていくために、新しい土地へと向かったのだ。出来ることなら、後を追いかけてせっかくの新生活を脅かしたくなどない。とはいえ、どこにいるかわからないというのは不安をあおる。
 
「どうすればいいんだ・・・。」
 
 でも自分がどうしたいかというのは、この際問題ではない。ケルナーは『探せ』と言っているのだ。『殺せ』でないのなら、拒む理由が見つからない。それに、もしも自分が断ったことで、他の誰かがサミル達を捜し始めたとしたら・・・もしかしたら彼らの命の保証はないかも知れない。探しているうちに、ケルナーの気が変わらないとは限らない。
 
「サミルさんのことは・・・しかたがない・・・。何とかヒューイにばれないようにするしか・・・。」
 
 親友であるヒューイに嘘をつくのはつらい。だがすべてを話したりすれば、ヒューイ自身に危険が及ぶだろう。それだけはなんとしても避けたい。彼はそろそろジーナとの結婚まで考えているのだ。
 
「・・・ヒューイが結婚して宿舎を出れば・・・多少は動けるようになるか・・・。後は剣士団長になれば、密偵も雇えるようになるから・・・。」
 
 自分の口から出た言葉にパーシバルは驚いた。
 
「何を言ってるんだ俺は・・・!俺が団長だと・・・!?本気でなるつもりなのか・・・!ばかばかしい!」
 
 握りしめた拳がバンとテーブルを叩く。
 
「ケルナー殿もケルナー殿だ・・・。何で・・・何で俺なんだ・・・。」
 
 今までは、ただの噂だった。いくら信憑性があろうと、所詮は何の根拠もない話だと思いこもうとしていた。でももうそんなふうに考えることは出来ない。あの噂がケルナーから出たものだと、パーシバルは聞いてしまった・・・。ケルナーの言うとおり、未だに御前会議にも女王フロリアにも多大な影響力を持つドレイファスが剣士団長の任にあることは、パーシバルにとっても都合がいいとは言えない。自分達のしたことがいつ彼に知られてしまうかと、いつも不安に思っていた。
 
(あの方さえいなければ・・・これほどまでに心を乱されることはないはずだ・・・。)
 
 そんなふうに思うこともしばしばだった。そしてその一方で、パーシバルはそんなことを考える自分を恥じていた。ドレイファス団長はすばらしい人だ・・・。剣の腕は言うに及ばず、人格者で剣士団員の信望も厚い。気さくでとても親しみやすくて・・・。あの人にどれほど世話になったかわからない。どんなに忙しい時でも、団員に何か悩み事があれば、必ず時間をとってくれて、親身になって話を聞いてくれる。なのに自分は・・・心の片隅でその人の失脚を望んでいる。しかもあろう事かその後釜に自分が座ることを受け入れようとしている・・・。
 
「剣士団長なんて・・・俺のような若造に務まるものか・・・。こんな、情けない奴に・・・。」
 
 パーシバルは頭を抱え込んだ。
 
 
                          
 
 
 剣士団の宿舎を出て、ケルナーは執政館へと向かった。執政館の3階は各大臣達の執務室になっている。執務室と言ってもなかなか豪華なもので、奥の続き部屋には立派な天蓋付きのベッドまであった。世の中というものは時として急変することがある。場合によっては泊まり込みで話し合いが必要なこともあるため、すべての大臣の執務室はこういった作りになっている。そしてつい最近の『急を要する出来事』の中で一番衝撃的だった出来事は、4年前の国王陛下崩御だった。今の女王フロリアの父ライネス王は、名君の名にふさわしい王だった。常に民を思いやり、民の幸せを自分の幸せとし、豪華な身なりも食事も国王には必要のないものだからと、いつも質素な生活をしていた。ライネス王とその妃であるファルミア王妃のもとで、国民はいつまでも幸せに暮らしていくことが出来るはずだった。そう・・あの日までは・・・。
 
「私は民を救ったのだ・・・。」
 
 ケルナーはつぶやいた。
 
「民の幸せこそがライネス様の幸せだったはずだ。私は・・・私はライネス様の意に添った行動をしたのだ・・・。裏切ったのは・・・・・・ライネス様のほうだ・・・・。」
 
 自分の執務室へと入って、ケルナーは乱暴に椅子に腰を下ろした。自分のしたことは正しいことだったのだと、ケルナーはずっと信じて生きてきた。なのに・・・どうして今になってこれほどまでに心がざわめくのだろう・・・。
 
「私は・・・間違ってなどいない・・・。間違ってなど・・・。」
 
 その時扉をノックする音がした。
 
「誰だ!?」
 
「・・・私だ・・・。」
 
 声の主はレイナックだった。パーシバルとの話が終わったら、一度話し合おうと思っていた。この時間なら戻っているだろうからと待ち合わせをしていたことを、ケルナーはすっかり忘れていた。
 
「開いておるぞ。入れ。」
 
 扉がゆっくりと開き、レイナックが入ってきた。最高神官の証である金茶色の衣を身につけている。ケルナーとレイナックは、ライネス王の即位と共に大臣に就任した。推挙してくれたのは他ならぬライネス王本人だった。二人ともライネス王がまだ王太子であった頃から彼の腹心として働いていたので、その功績を買われてのことだった。そしてレイナックは、神官としての働きも認められ、大臣就任と同時に最高神官へと昇進した。
 
「顔色がよくないな、ケルナーよ。パーシバルとの話し合いがうまくいかなんだのか?」
 
「心配には及ばぬ。疲れているだけだ。パーシバルは承諾したぞ。サミルの行方を追ってくれるそうだ。」
 
「団長就任の件はどうした?」
 
「渋々ではあったが、はっきりと断らなかったところを見ると、あの男もあれでけっこう出世には色気を示すようだな。」
 
「断らなかったのは、ただ単におぬしが断らせなかっただけだろう。だが・・・パーシバルが団長になってくれれば、我らの頭痛の種がひとつは減るな。」
 
「そうだな。たったひとつでも減らないよりはましというものだ。もっともパーシバルは・・・私があやつにサミルの行方を追わせるために、団長の椅子をえさにしようとしていると思っておるのだろうがな・・・。」
 
「おぬしがおかしな噂など流すからだ。」
 
「しかたあるまい。ああでもしなければ、ドレイファスはてこでも団長の座を動こうとはしないだろう。」
 
「それはそうだが・・・。」
 
 噂を流して、人々にドレイファスの老齢を印象づけ、さらにわざと噂が本人の耳にはいるようにする。今頃彼は、会う人ごとに噂の件を聞かれていい加減うんざりしていることだろう。
 
「あとはフロリア様直々に勇退勧告でも出していただいて、後任がパーシバルだと言えばこれ以上団長の座にしがみつきはすまい。ドレイファスのほうは何とかなる。」
 
「ドレイファス殿の『ほうは』?では何か他にも問題があるのか?」
 
「デールのことがあろう。あやつを放っておくわけにはいかぬ。」
 
「あれから4年も過ぎているのだぞ?今さらどうするつもりなのだ・・・?」
 
「確かに今さらだが、あの時は仕方なかったのだ。サミルがいきなり姿を消してしまったのだからな。」
 
「サミルか・・・。」
 
「そうだ。おかげで私は、デールの見張りにつける予定だった密偵達をサミルの捜索にまわさねばならなかったのだ。それでも時々は、奴の身辺を探らせたりはしていたのだが・・・。私の密偵達も余分な者など一人もいない。べったりとデールに張りつかせているわけにもいかぬ。ハース鉱山勤務の王国剣士にそれとなく探りを入れたりしてもみたが、奴らの報告はまずドレイファスの元に行くからな。なかなかうまく情報を仕入れることが出来なかった。まったく忌々しい!ドレイファスめ・・・!」
 
「これからは大分楽に情報を仕入れられるだろう。パーシバルが剣士団長になればな。」
 
「それはそうだが、とにかく見張りはつけねばなるまい。これからもずっと野放しにしておくわけにはいかぬ。」
 
「見張りか・・・。」
 
 レイナックはため息をついて、眉間に皺を寄せた。
 
「気が進まぬか?」
 
「・・・・・・・・。」
 
「情けなどかける必要はなかろう。せっかく目をかけて大臣の位につけたというのに、後足で砂をかけるような形でこの地を去ったのだからな。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 デールというのは、レイナックがまだ大臣に就任する前から、よく相談事を持ちかけていた官僚の一人だった。この国の決まり事を決めるのは御前会議の役目だが、その決まり事を実践して国を動かしていくのは執政館に勤務する大勢の官僚達だ。剣士団同様実力本位で採用するので、彼らの中には優秀な者が多い。昔、まだ王太子だっだライネス王から何か相談を持ちかけられるたびに、レイナックがその答えを探す手伝いをしてくれていたのがデールという若い官僚だった。ひとつのことに夢中になると他のことに目がいかなくなってしまうたちで、それ故の失敗も多いのだが、彼の出す答えはいつも的確だった。だからレイナックが推挙して彼が大臣に就任した時には、レイナックは本当にうれしかった。頼もしい味方が出来たと心から信じていた。
 
 だが・・・4年前のあの日、ケルナーの出したあの計画に、デールだけがどうしても賛成しようとはしなかった。レイナックだって進んで賛成したわけではない。でもあの時、それ以外に方法があるとは思えなかった。だがデールは最後まで拒み続け、ケルナー、レイナック、パーシバルは彼抜きで計画を進めて、そしてとうとう実行した・・・。
 
 その後、デールは彼らを思いとどまらせることが出来なかった自分を責めた。そしてある日突然大臣の職を辞し、一連の出来事の元凶となったハース鉱山の統括者として就任したいと申し出たのだ。
 
「あやつがあのことを誰にも話さぬと私も思う。だが思いこみだけで安心するわけにはいかぬ。あのことが露見すれば、我らは間違いなく大罪人になるのだからな。」
 
「そうだな・・・致し方ないことであろうよ。で、見張りの役はどうするのだ?おぬし自慢の密偵の中から選ぶのか?」
 
「・・・私の手駒ではないが、心当たりはある。任せてくれるなら悪いようにはしないつもりだ。」
 
「見張るだけなら私にも異存はない。・・・事故が起きたりせぬ限りはな・・・。」
 
「不慮の事故で統括者が事故死か・・・。私とてそんなシナリオなど考えてはおらぬ。そのような形で統括者がいなくなったのでは、鉱山の運営自体が滞ってしまうではないか。統括者としてのデールの手腕は確かだからな。私はそこまで愚かではないぞ。」
 
「ならばよい・・・。おぬしに任せよう。」
 
「うむ。」
 
 レイナックはそのまましばらく黙っていた。話が終わっているのに席を立つ様子もない。
 
「・・・まだ何かあるのか?」
 
 沈黙に耐えかねて、ケルナーが口を開いた。
 
「・・・ケルナーよ、おぬしは考えたことはないか?」
 
「なにをだ?」
 
「ライネス様が・・・あの時どうして突然あんなことを言い出されたのか・・・。」
 
 ライネス王の言葉・・・。4年前の御前会議で、ライネス王は突然とんでもないことを言い出した。そのことが原因でライネス王と大臣達の間に軋轢が生じ、それがあの恐ろしい計画へとつながっていくことになる・・・。
 
「・・・わからぬ・・・。私には気がふれておったとしか思えぬ。」
 
「ふむ・・・確かにそうとしか思えぬような言葉だったからな・・・。だが・・・私は少しだけ手がかりらしきものをつかんだぞ。」
 
「なんだと!?それはどういうことだ!?」
 
 思いがけないレイナックの言葉に、ケルナーは飛び上がりそうなほど驚いて立ち上がった。ライネス王が言い出したこと・・・。なぜ王はあんなことを言い出したのか、本当に気が狂っていたのかそれとも何か根拠があったのか、王はどんなに問いただしてもその理由を言おうとはしなかった。それがなぜなのかわかっていたら・・・。もしかしたらこんなことにはならなかったかも知れない・・・。
 
「大声を出すな。」
 
「あ、ああ・・・すまぬ・・・。だがどういうことだ?」
 
「私も確証があるわけではない。おぬし、エヴァンズ殿を知っておるか。」
 
「エヴァンズ・・・あの文書管理官のか?」
 
「そうだ。エヴァンズ殿から聞いたのだ。あのころライネス様が文書館に何度か足を運ばれていたのを。」
 
「文書館か・・・。またやっかいな場所に・・・。」
 
「やっかいか・・・。確かにそうだな・・・。文書館と言えば、遠くサクリフィアの宮殿より持ち出されたと言い伝えられる古文書が保管されている場所だ。それらの古文書の一部は王立図書館で公開されているが、ほとんどは門外不出・・・。そしてあの中に入ることが許されるのは、文書管理官と歴代の王だけ・・・。たとえ王妃陛下でも王太子さまでも入ることは許されぬ場所だ・・・。」
 
「それもしかたあるまい。あの中の古文書の内容が一般にもれるようなことがあれば、この王国自体がひっくり返る可能性もあると言われているのだからな。」
 
「まあそれはそうだが・・・。果たしてどんな書物が収められているのか、気になるところではないか。」
 
「我らが気にしたところでどうにもならぬ。・・・もしやそなたは、ライネス様が何かの古文書を読まれて、それであんなことを言い出されたと考えているのか?」
 
「まあ、そういうことだ。」
 
「だが・・・それをどうやって確かめる?」
 
「文書館に入ればよい。」
 
「ばかを言うな。今あの場所に入れるのは、フロリア様とエヴァンズだけだ。」
 
「確かにそうだ。だから、それがどうにかならぬものか、おぬしにも何とか考えてもらおうと思ったのだ。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 まったくレイナックという男は不思議な男だ。いつもは穏やかで、頼りなげにすら見えるのに、時折、ケルナーでも思いつかないほど大胆なことを言い出す。
 
(どうにかするなど・・・何を考えているのだ・・・。そんなことが出来るわけが・・・。)
 
 フロリア姫に文書館へ入ることを願い出てみるか、姫ならば許してくださるかも知れない。なんと言っても我らは姫の後見人だ。だが・・・そんな話をフロリア姫に話せば、必ずドレイファスがしゃしゃり出てくるだろう・・・。あやつが首を縦に振るわけがない。だが、出来ないと言い切ってしまうのもしゃくな話だ。
 
 いや、まてよ、姫が許してくださっても、エヴァンズにも頭を下げなければあの中には入れないのだ・・・。
 
「・・・フロリア様に相談するわけにはいかぬだろうな・・・。」
 
 ケルナーの考えを見透かしたかのようにレイナックがつぶやいた。
 
「だがそれではあの中には入れぬぞ?」
 
「そこを何とかしようと言うのだ。だいたいフロリア様に許可など願い出てみろ。ドレイファス殿が何を言い出すか・・・。」
 
 考えることは同じだ。レイナックにとっても、ドレイファスが目の上のたんこぶであることに変わりはない。
 
「ならばどうするつもりなのだ?」
 
 レイナックの意図が見えず、ケルナーはいらいらした。
 
「エヴァンズ殿に直接話を持ちかけてみようかと思うのだが。」
 
「あのカタブツにか?」
 
「ああそうだ。エヴァンズ殿が口をつぐんでいてくれるのなら、入ることはたやすい。」
 
「ドレイファスより難物だと思うがな・・・。」
 
 あまりにも楽天的なレイナックの提案に、ケルナーは半分あきれてため息をついた。文書管理官というのは、特殊な仕事だ。王家に代々伝わる古文書の管理を一手に引き受けるが故に、当然そこに隠された秘密も知ることになる。それを一言でも外部に漏らせば、すぐにでも首が飛ぶ。職を失うという意味ではなく、文字通り首切りの刑になるのだ。エルバール王国の歴史の中で、文書管理官が死刑になったという例はない。建国以来180年あまりが過ぎた今となっては、首切りの刑など時代錯誤もいいところだが、それでも法としてそれが存在する限りは、守らなくてはならない。誰だって命は惜しい。となれば当然管理官達は何が何でも自分の責務を果たそうとするだろう。そう考えれば、歴代の文書管理官達がみなカタブツなのも頑固なのも、致し方ないことではある。その中でも現在の管理官であるエヴァンズの堅さは突出していると言ってもいいくらいだ。そんな人物をどうやって懐柔するつもりなのだろう。
 
「だが言いようはあろう。ライネス様が生前文書館の古文書にまつわる話をしていたとか何とか、でっち上げても誰もわからぬ。そのあたりのシナリオをおぬしにも考えてもらおうと思うてな。」
 
「なるほどな、それはおもしろそうだ・・・・。」
 
 そのカタブツエヴァンズも、家に帰れば二人の娘の父親だという。家でまであんな取り澄ました顔でいるわけではないだろうから、なるほど何とかなるかも知れない。たとえ1%でも勝算があるのなら、やってみる価値はある。
 
「では詳しい話をつめようではないか。」
 
 ケルナーとレイナックは額を寄せて話し始めた。
 
 
                          
 
 
 カインは、重い足取りで家路についた。出かけたりしなければよかった・・・。家で父親の帰りを待っていればいじめられたりしなくてすんだのに・・・。でもそうしたら、あの女の子には出会えなかった。上等な服を着て、きれいに髪を結い上げた、ひと目で貴族のお嬢様とわかる女の子・・・。貴族のお嬢様がどうしてこんな貧民街など歩いていたのか、カインには見当がつかなかったが、それでもその女の子が自分をいじめっ子達から救い出してくれたことだけは確かだった。
 
 話は昨日の朝に遡る。









 この日もカインの父親は朝早く出かけていった。といっても定職があるわけではない。日雇い労務者の募集が毎朝行われる、町の広場に出かけていくのだ。貧民街からはいつもたくさんの男達がそこに出かけていく。日雇いの仕事は数が決まっているので、早く行かないと職にありつけないのだ。蓄えなどあろうはずもないこの地区の住民達は、その日の仕事にありつけなければ当然食事もままならない。一昨日もその前の日も父親は職にありつけず、肩を落として帰ってきた。ただでさえ貧しい食事がなおいっそう貧しくなって、今朝はジャガイモのスープだけだった。これを食べてしまえば、もうこの家には何も食べるものがない。
 
「カイン、父ちゃん今日こそは仕事にありついて、お前に腹一杯食わせてやるからな。」
 
 スープをすすりながら、父親はカインの頭をなでて微笑んだ。
 
「とうちゃん、がんばってよね。」
 
 カインは笑顔で父親を見上げた。
 
 この日は貧民街の『学校』の日だった。貴族の夫人や娘達が、慈善事業で貧民街の子供達に勉強を教えに来てくれるのだ。こんな町に好きこのんでくるような人達は、きっと貴族達の間では変わり者なんだろうが、でも優しくていい人達ばかりだとカインは思っていた。そしてみんな地味な色合いの木綿のドレスを着ている。貧民街に来るのに、上等な絹のドレスなどを着て来るのは失礼だとでも思っているらしい。それは貴婦人達なりの気遣いなのだろうが、実はその服装については、貧民街の女達には受けがよくなかった。貴婦人達が帰ったあと、カインはおかみさん達の井戸端会議で、こんな話をよく耳にした。
 
「まったく・・・あれで質素な服を着ているつもりなのかねぇ。」
 
「ドレスの裾のひだをとるのにあんなにたっぷりと布地を使って・・・。あたしならあの服一着から3人分のドレスを作れるよ。」
 
「しかもスカートの下のペチコートときたら・・・いくら木綿だからってあんな上等なレースをたくさん使っておいて、どこが質素なんだか・・・。」
 
 貴族の婦人達の考える『質素』と、貧民街の女達の考える『質素』の基準は天と地ほどにも開きがある。それでも女達は表だって不平を言うようなことはしなかった。せっかく子供達に勉強を教えに来てくれるのだから、子供達が一生懸命勉強をすれば、いずれは貧民街に住んでいると言うだけで卑屈になるようなことがなくなるかも知れない、女達はそこにわずかな希望を持っていた。
 
 カインは勉強はあまり好きではなかった。それよりも体を動かしていたほうが楽しい。でも父親はカインが一生懸命勉強することを望んでいる。父親の笑顔を見るのはカインにとってもうれしいことだ。だからこの日も、カインは文句も言わずに学校が開かれる場所まで歩いていった。勉強が好きではなくても、いろんなことを憶えられるこの時間がカインにとって楽しくないわけではない。そしてそういう時間ほどすぐに過ぎてしまうものだ。学校はお昼近くに終わった。
 
「昼か・・・。今朝のスープまだあったかな・・・。」
 
 確か鍋の底のほうにまだ少しは残っていたと思う。今日の夜はきっと父親がおいしいものを買ってきてくれるだろう。それまでは残り物のスープだけで我慢しなくちゃならない。
 
「今日こそは父ちゃんが仕事にありつけていますように。」
 
 カインは小さな声で神様に祈った。
 
「カイン、一緒に帰ろう。」
 
 声をかけてきたのは隣の家のモルクだった。モルクはカインよりひとつ上だ。後ろにモルクの妹、双子のミーファとリーファがいる。みんなカインの幼なじみだ。
 
「カイン、一緒に帰ろうよ。」
 
 二重唱で声をかけられ、カインはモルク達と一緒に歩き出した。
 
 
「・・・あれ・・・?」
 
 やがて見えてきた家の扉に張り紙がある。不安がちくりと胸を刺す。近寄ってよく見ると、それはモルク達の母親であるレイラの書いたものだった。
 
『カインへ 帰ったら顔を出してね。隣のおばさんより』
 
「まさか・・・。」
 
 こんな日が以前にもあったことを、カインははっきりと憶えている。張り紙を手に取り呆然としているカインに、モルク達も気まずそうに声をかけた。彼らもこの張り紙の意味に何となく気づいているのだ。
 
「・・・カイン・・・それ、うちの母ちゃんの書いた奴だよな・・・?」
 
「うん・・・。」
 
「そうか・・・。それじゃ、今日は俺んちに泊まりだな。」
 
「いや、どうせ一日くらいだよ。・・・自分の家にいるよ・・・。」
 
「でもうちに来いって書いてあるんだろ?」
 
「うん・・・。」
 
「それならとにかくうちに行こうよ。」
 
「うん・・・。」
 
 じわじわと広がる不安に泣き出しそうになりながら、カインはモルク達と一緒に隣の家に入った。
 
「母ちゃん、ただいま。カインを連れてきたよ。」
 
 モルクは大声で呼びかける。
 
「はいはい、そんなに大声出さなくたって聞こえるわ。こんな狭い家なんだから。」
 
 台所のほうから、モルク達の母親レイラが顔を出した。
 
「お帰りなさい。お腹空いたでしょう?今食事にするから。」
 
「おばさん・・・俺、うちに帰って食べるよ。ジャガイモのスープが少しあったから、今日はそれで何とかするよ。」
 
 カインは一度座った椅子から立ち上がった。貧民街に住むどんな小さい子供だって、この町に住む人達の家に余分な食べ物なんてないことくらい知っている。それに、こんなことはこれが最初じゃないし、きっと最後でもない。そのたびに甘えるわけにはいかない、そうカインは思っていた。
 
「大丈夫よ。あなたのお父さんが食べるものは置いていってくれたわ。」
 
「父ちゃんが・・・?でも父ちゃんは・・・。」
 
 『地下牢にいるんじゃないか』と、言いかけた言葉をカインは飲み込んだ。牢という言葉を、どうしても口に出したくなかったからだ。
 
「直接ではないわ。あなたのお父さんのことを知らせに来てくれた王国剣士さんがね、届けてくれたのよ。」
 
「王国剣士・・・さん・・・?」
 
「そうよ。とても優しそうな人だったわ。」
 
「そいつが・・・父ちゃんを捕まえたのか・・・。」
 
「カイン、そいつなんて言っちゃいけないわ。王国剣士さんはね、いつも私達エルバール国民の生活を守るためにお仕事しているんだから。」
 
「でもこの国は広いんだ。俺達みたいな貧民街の人間なんて、そんなに気にかけているはずがないよ。」
 
「カイン・・・。」
 
 カインはハッとしてうつむいた。
 
「ごめんなさい・・・。父ちゃんが悪いのはわかってるのに・・・。」
 
「いいのよ。」
 
 レイラはカインの頭を優しくなでた。
 
「おばさん、その食べ物はおばさんちで食べてよ。俺はやっぱり家に帰って食べるよ。大丈夫だよ、今日我慢すれば明日は何とか・・・。」
 
「何とかって・・・どうするつもりなの?」
 
 健気に一人で父親を待とうとするカインに、レイラは胸が痛んだ。
 
「明日は父ちゃんだって帰ってくるよ。」
 
「明日は・・・まだ帰ってこれないのよ・・・。」

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